🏞95)─1─蛮社の獄。オーストラリアのアボリジニン人大虐殺。ロシアとアフガン戦争。1830年~No.359No.360No.361 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 1830年代 アメリカは、中国への交通路を確保する為に、小笠原諸島を領有するべく移住者を送り込んだ。
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 1830(天保元)年 全インドを支配下に置いた東インド会社は、中国とのアヘン密売取引を拡大させる為に、英国東インド会社(BEIC)に改編された。
 ベンガル地方などでは、食糧生産を中止させられ、対中国貿易用のアヘン栽培を強要された為に飢餓が発生し、全住民の半数以上が餓死した。
 イギリスは、非白人キリスト教徒の犠牲には無関心であった。「分割して統治せよ」の大原則に従って、協力的なマハーラージャを利用して、反英運動の押さえ込み、インドの民族主義を弾圧した。インド支配を続ける為に、独立を認めるまでに約1,700万人を虐殺したといわれている。
 キリスト教会は、生まれる前から決まっていた定めであるとして犠牲者を葬り、生き残った者には神に愛される者として生まれ変わるようにと洗礼を施した。
 だが、インドのキリスト教化は再度失敗した。
 イギリスは、温和しいタスマニアアボリジニン人3,000人以上を全滅させる為にブラックイン作戦を実行し、76年に最後の一人が死亡して死滅した。
 オーストラリアやタスマニアは、西欧化としてキリスト教の改宗と英語の公用語が強制された。
 「白人こそ優秀な人種であり、アボリジニは人間的に劣っている」
 イギリス人は、白豪主義による人種隔離政策を採用し、オーストリアを白人キリスト教徒の楽園に造り替えていった。
 同様の人種差別政策を南アフリカでも行い、キリスト教を国教とし、英語を公用語とした。
 フランスは、アルジェリアを植民地としてアフリカ大陸での植民地競争に参加した。
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 日本国内に潜伏している隠れキリスタンは、129万人以上であった。
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 小笠原諸島には、5人の欧米系人と20人程のハワイ人が生活していて、日本人は誰も住んではいなかった。
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 国友一貫斎(1778年10月3日〜1840年12月3日) 鉄砲鍛冶師で発明家・天文学者である。
 オランダから伝わった玩具の実用・風砲から実用の空気銃(気砲記)を制作した。
 屈折望遠鏡よりも優れた性能の反射望遠鏡を制作し、太陽黒点や月や土星などの天体観測を行った。
 さらに、玉燈(照明器具)、御懐中筆(万年筆、毛筆ペン)、鋼弩、神鏡(魔鏡)など数々の物を、蘭学書を手がかりに作った。
 天保の大飢饉で疲弊した民衆を救う為に、発明品を大名や豪商らに高値で売却し、食料を届けた。
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 1832(〜39)年 地球は、1800年から寒冷化して、60年頃まで続いた。寛政・天保氷期
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 1835年 イギリスは、動物虐殺の残酷な遊びである熊イジメに続いて雄牛イジメを禁止した。
 キリスト教世界では、人間(白人)以下の下等な生物(非白人を含む)である獣を狩るゲームが人気を博していた。
 動物狩りは、特権を有する上流階級の高級なスポーツとして地球上で至る所で行われた。
 動物狩りゲームの結果、多くの動物が死滅し、多くの動物が消滅しようとしている。
 自然を大事にし動物を家族の一員の様に扱ったい昔の日本人は、死んだり獲って殺したりした後は神道的に「動物神」として祀り、その霊魂を懇ろに仏教的に弔っていただけに、意味もない無駄な殺生は神仏を恐れない「罰当たり」な行為と嫌悪した。
 神道及び仏教的価値観とキリスト教的価値観は、どう折り合いを付けようとしても、水と油の様に混じり合う事はない。
 アリストテレス以来の「断絶した世界観」の西洋文化は、白人キリスト教徒のみを絶対神に愛された神聖な魂を持った文明的人間とみなし、非白人は下等な人間として一段したの階層の劣った動物と区別していた。そして、この階層は絶対乗り越えられない神聖な城壁で隔てられていると確信していた。
 儒教価値観の中国や朝鮮も、同じ様な思想を持っていた。
 日本など多神教世界は、生きとし生きるモノ全てが、その命を介して断絶する事なくつながっているという「連続の世界観」を持っていた。
 小林一茶   「やれ打つな 蠅が手を擦る 足を擦る」
 加賀の千代女 「朝顔に つるべとられて もらい水」
 江戸時代の文化は町人文化として、身分低い低所得層の百姓町人から女子供まで、日本独自の短詩系である俳句や短歌や狂歌や落首を自由にのびのびと創作し、三味線や笛や和太鼓や尺八など多くの楽器を自由に奏でていた。
 西洋の文化は、宮廷における王侯貴族の独占文化とキリスト教会における聖職者の占有文化であった。
 搾取されるだけ下層階級には、文字の読み書きや楽器を奏でる事は領主の許可がない限り禁止され、絵画や詩歌には無縁であった。
 キリスト教の聖地をめぐる巡礼はあっても、自由な旅行はなかった。
 中国や朝鮮の文化は、室内における読書人による、孔子老子時代の古代教養の模倣・再現文化であった。
 虐げられた人民が、教養を持つ事は内乱、叛乱の元であるとして、無学文盲を強要され、違反した者は見せしめに陰惨な方法で公開処刑された。
 生まれた土地から離れる事は許されず、巡礼も旅行もあり得なかった。
 日本文化は、庶民文化として、少しゆとりがある百姓町人は自由に日記を書き、記録を残していた。
 女一人でも、子供一人げも、犬1匹さえも、神社仏閣と偽って自由に勝手気ままに日本全国を物見遊山の観光旅行を楽しんでいた。
 「駕籠に乗る人、駕籠を担ぐ人、その人の履く草鞋を作る人、……」
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 1836年 メキシコは、自国領テキサスへの入植を希望するアメリカ人に対して「黒人奴隷を使わない」事を条件に入植を認めた。
 約4万人のアメリカ人がテキサスに入植したが、メキシコとの約束を反故にして約5,000人の黒人奴隷を連れてきていた。
 メキシコは、黒人奴隷所有者に対して国外退去を命じた。
 アメリカ人は、黒人奴隷解放も国外退去も拒否し武器を持ってアラモ砦に立て籠もり、「メキシコからの独立」を要求して徹底抗戦の姿勢を見せた。
 メキシコ政府は、分離独立派アメリカ人を国外退去させ自国領テキサスを取り戻すべく軍隊を派遣した。
 メキシコ軍は、アラモ砦を陥落させ、抵抗する者は皆殺しにし、非戦闘員である女性や子供は保護してアメリカ本国へ安全に送り届け、黒人奴隷を解放した。
 2月23日〜3月6日 テキサス独立戦争中のアラモの戦いメキシコ共和国軍とテキサス分離独立派(テクシャン反乱軍)の間で行われた戦闘。
 アメリカ政府は、メキシコ政府に対してメキシコ領テキサスに入植者を送りたいと提案した。
 メキシコ政府は、テキサスの発展につながるとして歓迎し、アメリカ人移民を受け入れた。
 アメリカ人移民が多数派になるや、少数派のメキシコ人の意思を無視して勝手に投票し、テキサスの独立を宣言した。
 メキシコ政府は、自国領を奪還する為に軍隊を派遣して、テキサス・サンアントニオ にあるアラモ伝道所を攻撃して皆殺しにした。
 アメリカは、アメリカ人移民を救う為に軍隊を派遣してメキシコ軍を撃破し、テキサスをアメリカ領に編入した。
 アマリカ人は、人種差別主義者として、メキシコ人を差別した。
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 1836・37年 天保の大飢饉
 全国各地で夥しい餓死者を出す、大惨事が起きていた。
 渡辺崋山(1793〜1841)。三河国田原藩(1万2,000石)の家老。崋山神社の祭神。
 飢饉に備えて報民倉(食料備蓄庫)を築き、『凶荒心得書』という対応手引きを著した。
 天保の大飢饉で、領民救済を優先して藩内からの餓死者を出さなかった。
 『八勿(はちぶつ)の訓』(特定非営利活動法人 日本交渉協会理事会藤田忠)
 1,面後の情ニ常を忘スル勿(なか)レ
 大意。直接面談している時、その時の感情に流され平常心を忘れるようなことがあってはならない。
 2,眼前の繰廻シに百年の計を忘スル勿レ
 大意。現在、只今のやり繰りに、百年の大計を忘れてはならない。
 3,前面の功を期シテ後面の費を忘スル勿レ
 大意。前の収益を取ろうとして、後の費用がかかることを忘れるな。
 4,大功ハ緩にあり機会ハ急にありといふ事を忘スル勿レ
 大意。大きな功績はゆっくり積みあげてゆくものだが、チャンスは急にくる事を忘れるな。
 5,面は冷ナルを欲し背ハ暖を欲スルト云ヲ忘スル勿レ
 大意。表面は冷静でありたいが、心は暖かでありたいという事を忘れるな。
 6,挙動を慎ミ其恒ヲ見ラルヽ勿レ
 大意。行動をつつしんで、自分の本心を見破られないようにしろ。
 7,人を欺かんとスル者ハ人ニ欺ムカル不レ欺ハ即不レ欺レ己といふ事を忘スル勿レ
 大意。人をだまそうとする者は人にだまされる。いつわらないということは、自己をいつわらないことである事を忘れるな。
 8,基立テ物従ハ基ハ心の実といふ事を忘スル勿レ
 大意。基本が立てば、あとはみなそれに従う。基本は誠実である事を忘れるな。
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 1837年 キリスト教バプテスト派のアメリカ人宣教師は、仏教徒9割を占めるビルマ王国に入国して布教を開始した。
 少数民族カチン族は、民族宗教として、宇宙生成とカチン族誕生の神話と精霊信仰を持つていた。
 宣教師は、布教活動をしながら、文字を持たないカチン族にアルファベットの文字を教え教育を与えた。
 奥村喜三郎は、幕府に提出した『女学校発起之趣意書』で、「遠き西の書にも伝統の帝国と称し記せるを以ても、其の尊き事を記すべし」
 2月19日 大塩平八郎の乱
 大阪の商人達は、米を買い占め、値をつり上げて飢餓地帯に暴利で売って大金を稼いでいた。
 大塩平八郎は、大阪東町奉行跡部良弼に、商人による米の買い占めを止めさせ蔵米を民に与えるべきだと提案した。
 役人の多くが商人からの賄賂を受け取っていた為に、商人に不利になる提案を全て取り上げなかった。
 大塩は、次策として、米相場などで暴利を得た豪商に窮民救済の為に1万両の借金を提案した。
 役人と豪商等は、赤の他人である飢餓民を助ける事に関心がなかった為に聞き入れなかった。
 大塩は、やみなく、5万冊の蔵書と私財を売り払い救済の為の金を捻出した。
 何時の時代でも、商人は庶民に高い品物を売りつけて暴利を貪り、役人は被災民救済を行う事なく商人から賄賂を取っていた。
 7月 浦賀奉行所は、江戸湾に来航したアメリカのモリソン号に対して所管する台場から砲撃して退去させた。
 モリソン号の目的は、通商と日本人漂流民送還であった。
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 1838(〜42)年 アフガン戦争。ロシア帝国は、南下政策の一つとして、インド洋に出る為に中央アジアのトルコ系イスラム諸王国を軍事力で支配下に組み込んでいった。
 イギリスは、植民地インドをロシア帝国の侵略から防衛する為に、チベットを独立国と認めて同盟関係を強化し、アフガンに傀儡政府を樹立させた。
 イギリス・アフガン傀儡政権連合軍とロシア帝国イスラム諸王国連合国軍は、西トルキスタンの覇権を巡って戦争を始めた。
 イスラム教徒は、キリスト教を前面に出すイギリス軍に宗教的反感を抱き、宗教色を弱めているロシア軍に協力して暴動を起こしていた。
 清朝は、ロシア人をモンゴル・タタール族の末裔として、宿敵ジューンガル帝国討伐では共同出兵を依頼するほどの親近感を持っていた。民間でも、交易を盛んに行うほどの親密さであった。
 満州人知識人は、正統派儒教に毒されていなかった為に、中華思想を振りまく漢族とは違って世界情勢を知っていた。
 遊牧民である満州人は、農民の漢族に比べて開放的で国際感覚はあった。
 ただし。ロシア帝国を通じての国際情報だけに、イギリスを島国の小国にして貪欲で金銭に汚いと扱き下ろしていた。
 その為。清国は、総じて親露反英であった。
 イギリス軍は、多くの犠牲者を出して劣勢に立たされていた。
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 1839年 蛮社の獄。幕府内の儒学者は、高野長英渡辺崋山蘭学者を弾圧した。
 浦上二番崩れ。木場二番崩れ。
 7月 老中首座・水野忠邦は、勘定奉行・明楽茂村(元お庭番)に各地できている抜け荷問題について探索する様に命じた。
 新潟湊は抜け荷の疑いがあるとして隠密御用としてお庭番の川村修就を、越後長岡藩に潜入捜査させた。
 水野忠邦は、抜け荷をしていた諸荷物問屋を見逃していた積みとして、長岡藩から新潟湊を召し上げて天領とした。
 初代新潟奉行(1,000石取りの顕職)として、切米300俵の軽輩の家柄で隠密の川村修就を大抜擢した。
 川村修就は、名奉行として才能を存分に発揮して善政を敷いた。
 和歌「うつし植し二葉の松に秋の月 梢のかげは誰かあふがん」
 忌み嫌われた隠密でも、才能と知性があれば身分や家柄に関係なく出世した。
 川村修就は、治世が認められ、堺奉行、大坂西奉行、長崎奉行、大阪東奉行、遠国奉行などを歴任した。
 その他にも、お庭番など身分低い家筋かあら勘定奉行江戸町奉行などに出世した者が多数いた。
 サムライの出世は、東アジア特有の縁故やごますりや賄賂だけではなく、本人の才能や努力による実績が押し上げていた。
 故に不正に走る事なく、領民の為に全力で働いた。




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渡辺崋山

渡辺崋山

大塩平八郎

大塩平八郎