関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
現代日本が、関東大震災における朝鮮人惨殺事件に呪縛されている限り、関東大震災を教訓とし、震災復興・日本再生を手本とする事ができない。
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大宅壮一によると、賀川はクリスチャンかつ労働運動・社会運動の指導者的立場ながら、昭和天皇・皇室の熱烈な支持者でもあり、日本社会における天皇(天皇制)の存在意義を積極的に認めていたという。
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朝日新聞掲載「キーワード」の解説
賀川豊彦
1888〜1960年。幼少時に両親と死別。16歳の時に徳島市のキリスト教会で洗礼を受け、1909年に21歳で神戸に移り、貧しい人の救済に乗り出す。関東大震災での活動は日本のボランティア活動の原点と言われ、農民運動や協同組合運動にも携わった。自伝的小説「死線を越えて」がベストセラーになり、47、48年にノーベル文学賞、54年から3年間はノーベル平和賞の候補にもなった。
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百科事典マイペディアの解説
賀川豊彦【かがわとよひこ】
社会運動家,日本近代の代表的キリスト者の一人。神戸市生れ。明治学院,神戸神学校,米国のプリンストン大学を卒業。神戸神学校在学中から貧民窟伝道に努めた。イエスの愛を自ら献身して実践しようとし,神戸川崎・三菱両造船所の労働争議(1921年)の指導,東京本所のセツルメントなど,終生清貧に甘んじつつ,労働運動,農民運動,協同組合運動,平和運動に先駆者的な役割を果たした。ベストセラーとなった自伝的小説《死線を越えて》のほか著書多数。全集24巻がある。
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関西学院大学災害復興制度研究所ニュースレター FUKKOU
○巻頭言 歴史から学び、明るい将来を創造する /ルース・M・グルーベル………… 1 ○8日 研究報告 /平田誠一郎……………………… 2-3
○9日 全国被災地交流集会 /長谷川 司……………………… 4-5
○関東大震災 /山中茂樹…………………………… 6
○絵巻物と児童画で見る震災 北原糸子 /山中茂樹…………………………… 7
○展示(絵巻物 児童画) /山中茂樹………………………… 8-9
○中山間地災害に治山対策 井戸敏三 /山中茂樹………………………… 10
○特別講演 原日本人のレクイエムとルネサンス あん・まくどなるど /松田曜子… 11
○10日 シンポジウム /松田曜子………………………12-13
○掲載記事…………………………14-17
○研究所年間活動報告……………18-19
○事務局だより 「絵巻物―図書館エントランス展示」 研究所の人事異動について 日本災害復興学会 会員募集中!! 編集後記…………………………… 20
歴史から学び、 明るい将来を創造する
関西学院院長 ルース・M・グルーベル
1923年に関東大震災が起きた時、関西学院に基督 教青年会を中心とした「関西学院東都救済団」が結成 され、東京に救援隊を派遣し、救援活動を行いました(写 真参照)。そして、状況が安定してくると、今度は阪神 地方に避難した人々の救済活動を行ったそうです。今 から15年前に阪神・淡路大震災が起こったとき、再 び、関西学院大学に学生ボランティアによる救援活動 が誕生しました。キリスト教主義教育の基本である「隣 人を愛すること」の大切さ、またC.J.L. ベーツ院長が 提 唱 さ れ た ス ク ー ル モ ッ ト ー「Mastery for Service」に動機づけられ、大勢の学生が救援活動に 参加しました。 時間が経つにつれて、災害の痕跡が目立たなくなり、救援に対する関心が薄れていき ます。しかし、生活が不安定な方、孤独な生活を送っている方が、そのまま取り残され たり、被害にあった地域が再生への道を見つけられないことがあります。ベーツ院長の 友人でもあり、関東大震災からの復興に大きく貢献した賀川豊彦先生は、100年前に 神戸で社会活動を始めました。賀川先生のように現場の人々が自ら改善に向けて努力で きるよう、共に励まし、学び、苦労するコミュニティを構築することが、復興の際に必 要なことであると思います。 美しく豊かな自然は、時には恐ろしい暴力を振るいます。災害が起こる可能性がある 島国の日本は、自然を尊重しつつ、災害の犠牲となる人や地域を守る努力が必要です。 関東大震災の際、悲しいことに火事や暴行が起こりました。このような歴史を繰り返さ ないために、また、復興までの年月を少しでも短くするために、日頃の助け合いの姿勢 とお互いを尊重するコミュニ ティ作りが必要ではないでし ょうか。そのための一つの策 として、ボランティア精神を 養い続けるべきだと思います。 今年のフォーラムでは、歴 史を振り返り、地域の取り組 みを参考にし、絵巻物などを とおして災害を学ぶことによ って、復興と減災に必要なも のを皆さまとともに考えたい と思います。
関東大震災 1923年(大正12年)9月1日午前11時58分32秒、神奈川県相模湾北西80キロ(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生 したマグニチュード7.9の海溝型の大地震(関東地震)による災害。昼時とあって、地震の揺れと直後に起きた火災による被害は、関東全域と その近辺に及び、東京市・神奈川県・千葉県南部を中心に死者・行方不明者10万人余、住宅の全壊10万9千、全焼21万余という甚大な 被害をもたらした。震災翌日に成立した第2次山本権兵衛内閣は戒厳令を施行、暴利取締令・支払猶予令を発し、混乱収拾に着手したが、被 害総額は当時の金額で推算65億円にものぼり、震災恐慌と呼ばれるような事態となった。とくに震災手形の処理が長引き、1927年(昭和2年) の金融恐慌の一因になったともいわれる。一方、朝鮮人や社会主義者が騒擾を起こすとのデマが流布され、多くの朝鮮人・社会主義者が逮捕さ れ、各地で朝鮮人虐殺事件が続発、さらには憲兵大尉甘粕正彦が無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝らを殺害した甘粕事件、労働運動家の平 沢計七や川合義虎らが軍隊に殺害された亀戸事件などが起き、やがて昭和の軍国主義の幕があく前ぶれとなった。毎年9月1日に実施される防 災の日は、関東大震災に因んで1960年(昭和35年)、内閣の閣議了解により制定された。
エピソード1 天譴論
災害とは天が人に下した罰と 考える思想。もともとは儒教主 義に基づく思想で、災害は「王 道に背いた為政者に対する天の警告」というのが原義という。関東大震災では「腐敗堕落し た人間社会一般に対する天の戒め」という意味で用いられ、 実業家の渋沢栄一やキリスト者の内村鑑三らが「第一次世界 大戦後の贅沢や自由放縦に対する天罰」としきりに喧伝した という。作家の菊池寛は「地震で亡くなったのはブルジョア よりもプロレタリアートが多いので、天譴論はおかしい」と 述べ、芥川龍之介は「僕は非天譴論の主張者ですよ」と真っ 正面から反発、「天譴説を真としたならば渋沢栄一先生など は真っ先に死んでも好ささうだがね」と痛烈な皮肉で、とど めを刺している。もっとも、渋沢栄一(1840-1931)は「道 徳経済合一説」という理念のもと倫理と利益の両立を掲げ、 経済は国全体を豊かにする為のもの、富を独占せず、社会に 還元すべしと説き、自身も心がけたといわれる。 1923年9月10日付の報知新聞夕刊に「この天譴を肝に銘 じ 大東京の再造に着手せよ 速に第二段の救済策に入れ よ」と題して掲載された渋沢栄一談は次のように警鐘を鳴ら している。 「(前略)大東京の再造についてはこれは極めて慎重にすべ きで、思ふに今回の大しん害は天譴だとも思はれる。明治維 新以来帝国の文化はしんしんとして進んだが、その源泉地は 東京横浜であった。それが全潰したのである。しかしこの文 化は果して道理にかなひ、天道にかなった文化であったろう か。近来の政治は如何、また経済界は私利私欲を目的とする 傾向はなかったか。余は或意味に於いて天譴として畏縮する ものである。この天譴を肝に銘じて大東京の再造に着手せな ければならぬ。(攻略)」
エピソード2 定説14万人、 新説10万5000人 関東大震災の死者・不明者
長い間、死者・行方不明者「14万人」とされてきた関東大 震災の犠牲者数が2006年度版の理科年表(丸善発行、文部 科学省国立天文台編集)で80年ぶりに「10万5000人余」と 改められた。併せて被害家屋数も同様に、「57万戸」から「29 万戸」に改訂された。 1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災の被害者 数は、従来、震災の2年後に当時の東京大学地震学教室の今 村明恒氏が発表した「震災予防調査会報告」に基づく死者9 万9331人、行方不明者4万3476人が定説で、歴史の教科書 や各種の書籍にもそう記されていた。 これに対し、「定説」に待ったをかけたのは、大手ゼネコ ン鹿島の小堀研究室。武村雅之室次長と諸井孝文上席研究員 が、当時の東京市(ほぼ山手線の内側に相当する地域)の行 方不明数が1055人であるのに、被害がそれほど大きくなかっ た東京府郡部が3万8000人余と多いことに疑問を持ち、市町 村や個別データ、その他の資料を再調査することで、行方不 明者と身元不明の死者が3万〜4万人重複している可能性が 高いことを突き止めた。 改訂内容は、地震のページを監修する東京大学地震学教室 の纐纈一起教授によれば、死者・行方不明者を従来の「14万 2000余」から「10万5000余」に修正すると同時に、「家屋 全半潰(壊)25万4000余」が「住家全潰10万9000余、半 潰10万2000余(棟数)」に、また「焼失44万7000余」が「焼 失21万2000余(棟数)(全半潰後の焼失を含む)」にそれぞ れ改められた
エピソード3 賀川豊彦
大正・昭和期を通じてのキリスト教社会運動家として知られる賀川豊彦(1888-1960)も震 災発生翌々日の9月3日、神戸を発ち、被災地に入った。調査を終え、神戸に帰った賀川は関 西一円の教会で震災報告会を開き、援助を呼びかけ、当時の金で7500円を集めた。しかし、 賀川は、現在の仮設住宅にあたる被災住民用バラックの環境があまりに悪く、貧民窟化してい く現状を憂え、東京に居を移し、救貧活動に邁進することになる。大正13年9月号の雑誌『太陽』に寄せた賀川の一文には次のようにある。「バラックの建設は、東京市の頭のないことをよく暴露した。東京市の役人は、バラッ クの住民に対して随分不親切だ。当局の考へでは、最初からバラックの住民を早く立退かせる為に、出来るだけ粗雑に造って、一 刻も早く立退かせるやうに、出来るだけバラック避難者を虐待して追っ払う方針であった。それは私どもが当局に注意する度毎に 『余り永く居られちゃ困るからなあ』という答えを聞いたことによっても、当局の意思が察せられる」。さらに「何千人となく一 箇所に集めて、新しく貧民窟を造らすような計画になっていた。市の言い分は監督がしやすいからと言うのである」「少し烈しい 雨が降れば浸水の為に夜も眠られない有様で、芝離宮は全く今日貧民窟化し、物干しがない為に露地は干し物のために通行出来な い位である」と調査の結果を書いている。最後に賀川は「東京市は被服廠跡に記念会館を造ると言っておるが、私はそれより必要 なのは、災害予防研究所及び安全博物館を設けて、平時における災害防止と非常時における予防に対して完全なる知識を、庶民一 般に教育する必要があると思う」と結んでおり、その慧眼には驚かされる。
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ウィキペディア
賀川 豊彦(1888年(明治21年)7月10日 - 1960年(昭和35年)4月23日)は、大正・昭和期のキリスト教社会運動家、社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動において、重要な役割を担った人物。日本農民組合創設者。「イエス団」創始者。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。茅ヶ崎の平和学園の創始者である。
妻の賀川ハルも社会運動家。息子の賀川純基は教会音楽家。孫の賀川督明はグラフィックデザイナーであるとともに神戸の賀川記念館館長。
略歴・人物
兵庫県神戸市に、回漕業者・賀川純一と徳島の芸妓・菅生かめの子として生まれる。幼少期に相次いで父母と死別して、5歳の時姉と共に徳島の本家に引き取られるも、兄の放蕩により15歳の時に賀川家は破産してしまい、叔父の森六兵衛の家に移る。旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)に通っていた1904年(明治37年)、日本基督教会徳島教会にて南長老ミッションの宣教師H・W・マヤスより受洗。この頃安部磯雄・木下尚江の著作を読み、キリスト教社会主義に共感を覚える。また『戦争と平和』に代表されるトルストイの反戦思想にも影響を受け、軍事教練サボタージュ事件を起こす。伝道者を志し、1905年(明治38年)に明治学院高等部神学予科に入学、卒業後の1907年(明治40年)、新設の神戸神学校(のちの中央神学校)に入学する。
社会事業家として
結核に苦しみ、また信仰への懐疑に煩悶(はんもん)しながら、やがて「貧民問題を通じて、イエスの精神を発揮してみたい」と一念発起し、1909年(明治42年)神戸市新川のスラムに住み込み、路傍伝道を開始する。1911年(明治44年)に神戸神学校を卒業、1912年(大正元年)には一膳飯屋「天国屋」を開業した。
女工のハルと貧民窟で出会い、1913年(大正2年)に神戸の教会で簡素な結婚式を挙げた。ハルは15歳で下女となるために上京した女性だった。賀川は貧民窟で下層の貧民らを招いて豪華な披露宴を行って、下層民たちにご馳走をふるまい、妻ハルを紹介して言った。「私はみなさんの女中をお嫁にもらいました。あなた方の家がお産や病気で手が足らなくて困った時には、いつでも頼みに来てください。喜んで参ります」。
1914年(大正3年)に渡米し、アメリカの社会事業、労働運動を垣間見プリンストン大学・プリンストン神学校に学び、1915年(大正4年)にスラムでの経験を踏まえて『貧民心理之研究』を出版する。賀川はこの「穢多村の研究」で、犯罪の多い部落民が異人の子孫であるという人種起源説を主張した。のちに、文中に差別思想があるとして部落解放運動関係者から批判されている。
1917年(大正6年)に帰国すると、神戸のスラムに戻り無料巡回診療を始めた。また、米国留学中の体験から貧困問題を解決する手段として労働組合運動を重要視した賀川は、鈴木文治率いる友愛会に接触し、1919年(大正8年)に友愛会関西労働同盟会を結成、理事長となった。同年日本基督教会で牧師の資格を得、麹町教会の牧師になる。
1920年(大正9年)に自伝的小説『死線を越えて』を出版、一大ベストセラーとなり、賀川の名を世間に広めた。印税はほとんど関与した社会運動のために投じられた。また同年、労働者の生活安定を目的として神戸購買組合(灘神戸生協を経て現・コープこうべ=日本最大の生協)を設立、生活協同組合運動にも取り組んだ。また、武藤富男らと共に、キリスト教系業界紙、キリスト新聞(発行元:キリスト新聞社)を立ち上げた。
1921年(大正10年)、神戸の三菱造船所(現・三菱重工業神戸造船所)・川崎造船所(現・川崎造船神戸工場)における大争議を指導するも、会社側の強硬な対応により敗北を喫し、これを契機に関西の労働運動において急進的なサンディカリストの勢力が増していった。賀川はやがて農民運動に活躍の場を移すことになる。また、関東大震災の被災者救済をきっかけに本所基督教産業青年会を発足、貧民診療所などを経営した。
1922年(大正11年)、協力者・杉山元治郎とともに日本農民組合を設立し、本格的に農民運動に取り組んだ。組合は急速に発展し、3年後の1925年(大正14年)末には組合員数は7万人を超えた。この間、1923年(大正12年)に関東大震災罹災者救済活動を行う。また無産政党運動にも積極的に関与し、1926年(大正15年)の労働農民党結成に当たっては執行委員に就任するが、同年末の左右分裂に際して党を脱退した。
1920年代後半以降は、社会運動から宗教活動へと比重を移していった。1925年(大正14年)に同志社大学で講義を行い中島重に影響を与え友誼を結ぶ。1929年(昭和4年)、日本基督教連盟の特別協議会は賀川の主導により「神の国運動」を議決、賀川は「百万人の救霊」を目標として、1932年(昭和7年)まで全国を伝道のため巡回した。また米国・中国・欧州等世界各国で講演活動を行う。1941年(昭和16年)4月、リバーサイド日米キリスト者会議でアメリカ合衆国のキリスト教会に「アメリカ教会への感謝状」をおくった。
第二次世界大戦に関しては「国際戦争反対者同盟」に属したが、1943年(昭和18年)11月の憲兵隊による取調べを境に同同盟を脱退、「国際友和会日本支部」を自ら解散している。太平洋戦争(大東亜戦争)後期において(一説には太平洋戦争当初から)、多くの宗教家と同じく戦争に協力的な姿勢であった。終戦(敗戦)により中止となったが、1945年(昭和20年)8月16日には賀川も奨励者として名を連ねる「戦意昂揚音楽礼拝」が「日本基督教団戦時活動委員会」の主催により予定されていた。
政治家として
戦後は東久邇宮内閣参与や勅選貴族院議員を務め、日本社会党の結成にも参画した。民間人として初めてマッカーサーに会った人物であるとされている。終戦直後の目立った活動としては「一億総懺悔運動」への協力が挙げられる。マーク・ゲイン著『ニッポン日記』によると、東久邇宮稔彦王の後任首相として有力であったらしいが、戦時中の翼賛的な活動が原因で実現しなかったとのことである。同書には、一般に知られる賀川の人物像とかなり食い違う姿が記されており、またそこで書かれている様な賀川への批判が連合国軍総司令部 (GHQ) により封じられていたともある。幣原内閣解散後の吉田内閣組閣の難航に伴い、総理大臣候補として名が挙がったこともあるという。晩年は世界連邦運動に取り組み、1947年(昭和22年)と翌1948年(昭和23年)にはノーベル文学賞の候補となり(1947(昭和22)年は候補48人中、1948(昭和23)年は候補45人中)、 1954年(昭和29年)から1956年(同31年)の3年連続でノーベル平和賞候補者として推薦された。
大宅壮一によると、賀川はクリスチャンかつ労働運動・社会運動の指導者的立場ながら、昭和天皇・皇室の熱烈な支持者でもあり、日本社会における天皇(天皇制)の存在意義を積極的に認めていたという。日本社会党結党の際には、中間派の浅沼稲次郎らと共に中心メンバーとなり、結党大会で「天皇陛下万歳」三唱の音頭を取ったことで、社会党左派との内部対立を引き起こした。
エピソード
自身が結成した日本MTLを率いてハンセン病患者への宣教と慰問を中心に活動していたが、やがて、優生学に傾倒しハンセン病患者の淘汰を目的とした無癩県運動へと活動の重点を移していった。
また、夜の仕事に就く女性、就かざるを得ない女性に対しても、女性差別的な持論を展開している。連合国軍占領下の日本において米兵による婦女子の強姦事件が多発していた頃、『婦人公論』1947年8月号で「闇の女に堕ちる女性は、多くの欠陥を持っている」とし、パンパンについては「わざと悪に接近」するような悪魔的なところがあり、「一種の変成社会における精神分裂病患者である」と指摘した。
墓は東京都の多磨霊園にある。
ワシントン大聖堂には、日本人として新島襄とともに彫像が掲げられている。
1947、48(昭和22、23)年には、ノーベル文学賞の候補に選ばれたことがある。
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