🏞81)─2─水戸学の対ロシア世界包囲網戦略が日本の近代化の原動力となった。幕末日本の優れたインテリジェンス。~No.329No.330No.331 @ 

会沢正志斎の生涯 (水戸の人物シリーズ10)

会沢正志斎の生涯 (水戸の人物シリーズ10)

  • 作者:安見 隆雄
  • 発売日: 2016/05/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 江戸時代末期・幕末・明治期は、現代日本に比べてインテリジェンスが優れていた。
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 日本の敵は、ロシアとキリスト教であった。
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 日本の歴史認識の捏造・改竄・歪曲は、1945年8月15日以降、1980年代、1990年代で幾度も行われ、2000年以降は正しい日本の歴史は残されていない。
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 現代の高学歴出身知的エリートである外国語が話せるグローバルな政治家・官僚・学者・ジャーナリスト・企業家らは、外国語が話せなかったローカルな水戸学の会沢正志斎やその信奉者の吉田松陰らに比べて、智恵・知識・教養・素養は数段も劣っている。
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 ペリーの黒船来航から幕末・開国・討幕・新政府樹立という近代化の道筋は、ウソであり、その近代化の道筋を盲信しているうちは歴史的事実は見えないし理解できない。
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 明治の廃仏毀釈国家神道は、儒教朱子学が原因であった。
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 2018年1月号 新潮45「水戸学の世界地図 片山杜秀
 33 弱兵と愚民の天下泰平
 金沢正志斎の『新論』の中に、明治維新がたどってゆく道筋がすべて示されていた。
 トルコと日本はぐるぐる回っている。1931(昭和6)年、陸軍将校、橋本欣五郎が二つのクーデター未遂事件を首謀した。三月事件と十月事件である。橋本は、強大な新興国ソヴィエト連邦に対抗し得る国防国家を作りたかった。そのためには政党をはじめとする既成政治勢力には任せられない。軍人が政治の表舞台に出なければならない。
 橋本がそう思ったのはトルコで駐在武官を務めたせいである。トルコはケマル=パシャの時代だった。陸軍軍人だった彼は、第一次世界大戦後の混乱する祖国で革命を起こし、旧態依然としたオスマン帝国について引導を渡して、トルコ共和国を樹立した。自ら大統領に就任し、強権を集中して目覚ましい近代化を成し遂げた。橋本は日本のケマル=パシャになりたかった。その計画は頓挫したが、彼の企てが呼び水となって五・一五事件二・二六事件が連なってゆく。日本の軍人たちのトルコ革命への憧れなくしては、昭和維新運動は発火しなかったかもしれない。
 するとケマル=パシャは何に憧れていたのか。明治維新だろう。尊皇攘夷の旗印のもとに鮮烈なエネルギーが結集して引き起こされた、日本の革命である。明治維新にとっての江戸幕府は、トルコ革命にとってオスマン帝国であった。維新によって生まれ変わった日本は日清戦争日露戦争で勝利した。ロシアはオスマン帝国の宿敵である。抗争の歴史はあまりに長い。クリミア戦争でも露土戦争でも第一次世界大戦でも、両国は戦った。トルコ人にとってロシアはあまりに手強かった。なかなかダメージを与えられない。それどころかオスマン帝国はロシアと戦いを繰り返す中で疲弊し、弱国に転落していった観がある。その相手を日本は維新以来三十数年しか経たずして陸戦でも海戦でも破った。ケマル=パシャが日本に憧れた所以である。
 ならば明治維新はどうか。そこにオスマン帝国の影が無いのか。無いことはない。維新の起爆剤になったとも言える尊皇攘夷聖典、水戸学の会沢正志斎の著した『新論』にはオスマン帝国がきちんと登場する。しかもなかなか頼もしい帝国として。
 攘つべき西洋国はどこか
 『新論』が書かれたのは1825(文政8)年。前年の水戸藩領大津浜への英国捕鯨船上陸事件の衝撃と、同年の幕府の異国船打払令を受けてのものである。正志斎は、異国船打払令で幕府がついに攘夷戦争を宣言したと解釈し、過激な調子で攘夷の方策を綴る。正志斎の眼中には攘つべき西洋国として英国も米国もあった。だが『新論』で最大の危険国とみなされていたのはロシアである。軍事大国であり領土拡大への野心も満々。米英に比してもあまりに近い。大きい。日本侵略の大軍を今日明日にも送ってくるかもしれない。一刻も早くロシアの侵攻を阻止しうる国防国家を建設せねばならない。そのためには国内体制の変革が急務である。昭和6年の橋本欣五郎とあまり変わらない。身の丈の違い過ぎる隣国への恐怖が、この極東の島国に変革の狼煙を上げる。パターンは繰り返される。
 そこで正志斎はオスマン帝国の名を挙げる。世界に7つの帝国があって、それは古代中国の戦国時代の七雄に見立てられるという。そう正志斎は世界地図を描く。鄂羅(ロシア)は圧倒的強国だから秦。始皇帝がついに統一王朝を打ち立てることになる秦だ。そのロシアに対抗する南の大国と正志斎の移置づけるのが度爾格(トルコ)、即ちオスマン帝国であり、戦国の七雄のうち秦とまともに戦えた南国の楚がオスマン帝国に該当するという。日本の脅威、ロシアをはるか西方から牽制しうる逞しい友として正志斎はオスマン帝国に期待している。そういう書きぶりである。
 あとの五雄は? 韓になぞらえられるのは莫臥児ムガール)。魏は百児西亜(ペルシア)。熱馬(ゲルマニア=ドイツ)は趙になるか。秦の東隣で対抗する大国であった斉には、ロシアの東方で日本よりも直接的に陸上で国境を接して対峙している大国の清が対応させられる。
 残るひとつは日本。日本は七雄の燕に当たると正志斎は考える。燕は中国大陸北方の東側を領有していた。秦とのあいだに斉が挟まったりしていたので、燕は秦の脅威を遠ざけていられた。だが次第にそうは行かなくなった。ロシアが蝦夷地に迫ったので慌てふためくようになった日本の境遇と似ている。
 燕の領地は山東半島遼東半島朝鮮半島に及んでいたという。日本にとっても近い。それだけではない。漢代に成立した『山海経』の『海内北経』には『倭属燕』というくだるがある。素直に解すれば日本は燕の属国だったということだろう。燕は秦についに紀元前222年に滅ぼされるが、そのとき燕から海の向こうの属国の倭に逃げた人々もあったかと想像される。
 江戸期日本の儒学者たちは、明朝の衰退と滅亡によって中国が世界の中心であった時代は終わったのではないかと思った。儒学の正しい教えを実践し世界で最も道徳的な、その意味で世界最高位の国は日本ではないか、中国は日本になったのではないかと考えるようになった。会沢正志斎も『新論』で日本を中国と記している。日本が中国なのは儒学を最もよく継承する国家という価値付きを根拠とする。だが中国大陸との直接的なつながりが強調されてもよい。林羅山天皇家春秋時代の呉太伯の直接の子孫と考えたともいう。戦国時代の燕も、日本と大陸のつながりを想像するとき魅惑する国に違いない。
 しかも合従連衡の合従もある。『史記』によれば洛陽出身の弁論家、蘇秦は、紀元前4世紀、秦の強勢に他の六雄が対抗するには六雄が軍事同盟を結ぶほかないとし、まず燕を説いて同意させ、斉も楚も韓も魏もそこに加わり、合従が成立した。正志斎は『新論』で合従を勧めてはいない。鎖国を大原則とする日本で、あくまで鎖国を貫く立場で執筆されたのが『新論』である。蘇秦的人物に期待して対露大同盟で日本を救おうとは正志斎は書けない。
 が、正志斎の地球地図が、ロシアを秦に、日本を燕に重ねたとき、燕が強国の斉や楚と合従したことを思い描かなかったはずはない。ロシアを抑止し、日本の安全保障をはかるには、日本と清とオスマンの大同盟。正志斎の1820年代の時点での究極の構想はそれだったろう。ロシアを退けることを現実的な第一目的として書かれたと思われる『新論』が展開した尊皇攘夷の大構想は、共にロシアを敵とするオスマンを陰の日本の支えとして織り込んでいた。現代の日本とエルドアン時代のトルコにまで及ぶ、お互いに巡り巡る関係の原点は水戸学に見いだせる。そう思う。
 水戸学の仏教嫌い
 だが、鎖国日本を大事とする会沢正志斎としては、とりあえず日本が自力で、ロシアをはじめとする攻撃的・好戦的な西洋諸国と渡り合い追い払う用意を一刻も早くせねばならない。正志斎は西洋を義なき野蛮国とするが、その軍事力は圧倒的に評価する。兵も強い。国民皆兵的な軍隊組織を持ち、長年不断に侵略行為を継続している。西洋の軍事科学技術も驚くべき発達を遂げており、大艦と巨砲では現状の日本では太刀打ちできない。
 如何にすべきか。正志斎は儒学者らしく、孔子が太古の堯舜の世を理想の時代と慕い続けたように、神武天皇の世、古代の天皇の世に思いを馳せる。その頃はすべてが正しかった。天・地・人が一体になっていた。天の正義は天皇という正義そのものの存在が天意を広めることによって確実に地と人に伝わった。人は大地に土着し、つまり地と人が一体になって天皇の天意を実践した。そこでの人はまだ士農工商に分かれていない。一君万民である。天意をうければみなが軍兵にもなる。大地と密着し、農業を基本とし、足腰を鍛え、兵農分離もされておらず、みなが武器の扱いにも慣れていたから、強兵は国民男子の数だけ居ると言ってよかった。19世紀の国民皆兵的西洋諸国の野蛮的武勇を退けられる道義的武勇に国民全体が満たされていたのが古代の天皇の時代であった。無敵皇軍の時代が古代であった。むろんその復活が明治以後の帝国陸海軍の使命となる。維新は復古。国民皆兵に復する。天皇の軍隊の理想を蘇らせる。そうすると西洋に負けなくなる。『新論』の理想通りである。
 いや、それはまだ先のこと。正志斎は嘆息する。理想の古代はしかしたちまち崩れ、その後の日本史は乱れに乱れていった。太古から現代までを義が貫いて間然(かんぜん)するところがないはずの水戸学の『大日本史』の史観は、もうどこかに飛んでいる。対外危機の急進化に慌てに慌て、建前にこだわっていられない。正志斎は言う。武士が武力を独占し、平家、鎌倉幕府室町幕府武家の世を続け、天皇から征夷大将軍等の位を貰い続けながら天意をないがしろにし、日本からは天・地・人のうち天が飛び、地・人の人も、武士が突出して民衆は尚武や道義の世界より疎外されて、もちろん武士も天意を汲まないのだから大義も何も弁え権力欲のみに支配され、野獣化して戦乱が収まらない。
 この長い武家の世の悪状況をついに救ったのが、前奏曲としては豊臣秀吉、本編真打ちとしては徳川家康だったと、正志斎は言う。特に家康ははっきりと奇策を用いた。武家を弱兵化させ、民衆を愚民化させた。天を顧みなくなった武士が、戦闘力においてなおも優れていたのは、土地に土着して地方に割拠していたからである。山野を駆け回る野獣のように戦うことしか知らない気質を守り通していたからである。秀吉と家康はこの武家の気質を短期的に改造した。都市に武家を集中的に住まわせるようにした。文化芸能を身近にし、町人の消費生活に近付けた。家康は参勤交代など無駄な金銭を武家に使わせ続けるようにした。武家は大地から切断され、野獣性を喪失する、戦わず放蕩し続けて一生が終わる。
 その武家の放蕩する財産の出所は? 農工商の三階級である。彼らは武家を養い、自らも養い、少しは楽しもうとするうちに人生を終える。武家を養うために苦労が多い現世を楽しくないと民衆が思うとき、誘惑の魔の手を延ばす邪教も江戸時代の日本では公認されている。仏教である。あの世での救いを説く。現世に値打ちがないかのように教える。
 天皇のおわします現世に意味が無い? そんな馬鹿な話があろうか。水戸学とは、水戸学にかぶれて尊皇攘夷思想家になった吉田松陰でさえ怪訝に思うほどに異様なまでの仏教嫌いの思想サークルだが、その理由は明快である。天皇の居る現世に第一義的価値をみいだすのが水戸学であって、来世を上位とするかのような教えを説く仏教とキリスト教を許さない。『新論』の思想の実践者と言ってよい幕末の水戸藩主、徳川斉昭が寺の鐘を積極的に潰して大砲を鋳造していた所以のひとつには、水戸学の仏教への憎しみがある。明治維新がなぜ廃仏毀釈神仏分離を伴わねばならなかったか。現世を天意の貫通する道義世界になしたい儒学の理想と、この世には神々が直接顕現してか神遊びもすれば現人神も居ると当たり前に感じようとする国学神道の感性とが、水戸学的に野合すれば、仏教と神道の組み合わせはもはや成り立たず、天意=天皇儒教神道のコンビが維新日本の導き手になる理屈が導き出される。明治維新の構造とは何よりもまずそういうものであった。
 とにかく、武家は都市生活によって弱兵化し、民衆は武家の課す負担と反現世的宗教によって愚民化する。天の義が通らなくなった世ゆえの慢性的戦乱状況を鎮め、天の義が相変わらず通らないままに天下泰平を続けようとするなら、武士を弱兵に、民衆を愚民にしておとなしく飼い慣らすのが上策である。徳川家康はそれを見事に成功させた。身も蓋もない言い方をすれば、徳川の平和は義なき弱兵と愚民の平和なのである。
 それで済んでいたのはなぜか。幸いにも外敵が来なかった。鎖国すると宣言すれば、それでもわざわざ力ずくで極東まで押しかけてくる西洋の国はなかった。西洋の航海術も海軍力もいまだはるか遠い日本近海でマキシマムなプレッシャーをかけるまでには発達していなかった。オランダに限って長崎を開港しておくと言えば、それで済んだ。17世紀から18世紀の世界情勢に救われていたからこその、弱兵と愚民の天下泰平であった。
 が、その僥倖(ぎょうこう)の時代はもう終わったのだ。正志斎は、日本とは海という天然の要害に囲まれた難攻不落の国家であったが、西洋の船舶の発達が要害で無くし、日本の全海岸線が西洋にとっての心地好い交通路と化したと説く。日本はにわかに全海岸線を不断に防衛せねば存続の危うい国家に変じた。西洋の野心と実力が調和して、世界史はそうした段階に到達した。時計の針を戻せはしない。即時の対応あるのみである。
 麗しい古代に戻るためには
 どうすればよいか。天・地・人の一体になったあの麗しい古代に可及的すみやかにこの国を戻さねばならない。無敵皇軍を復活させねばならない。国民皆兵で『万葉集』の防人の時代にすぐできれば最上である。正志斎の『新論』の行間からは国民皆兵と言うに言えないことをくやしがる歯ぎしりの音が聞こえてくる。幕藩体制なのである。正志斎も水戸藩儒学者のひとりである。藩や武家をやめようとは言えない。またそうすぐにできる前提もない。何しろ現実の日本には弱兵と愚民しか居ないのだから。
 とりあえず武士を増やしてしかも強兵化をはかる。正志斎の献策である。武士は日本の経済力に即して農工商の養える程度の人数に自ずと制限されてきた。そのうえ武士は都会で土着生活よりも割高な暮らしをしている。それをたちまち改革するには武士をかつての本筋のありようであった地方の土着生活に戻せばよい。自ら農漁業もさせればよい。武家を都会から追放するのだ。中華人民共和国文化大革命下放のようなものだ。そして都市を廃却する。農本主義の徹底である。
 そうすると武士の生活費は大幅に割安となるだろう。国家の経済規模が仮に変わらなくても武士は随分増やせる。増えた武士は地方といっても主に海岸線沿いに住まねばならない。西洋諸国の軍勢が日本のどこに上陸しようとしても即応できる体制を作るにはそれしかない。そうすれば天・地・人のうち地・人の一体性は回復に向かうだろう。武士が全国で土着し屯田兵化すれば弱兵は強兵に戻り、民衆も屯田兵の周囲で強兵に感化されて将来の皆兵への道も開けるかもしれない。
 が、問題は残る。天・地・人の天である。そもそも武家が天を欠いて地・人の一体性のみを回復してしまっては野獣に戻るだけである。強兵化には向かうかもしれないが、そこに義がないとすれば、欲得を暴力で実現する乱世の武士に戻ってしまう。しかもその武士に屯田兵となって都市よりも辛い暮らしをせよと言う。敵は今日来るか5年後10年後に来るか分からない夷敵である。それで攘夷に成功しても新しく得るものがない。恩賞の財源が出てこない。それではいつか来た道だろう。西国武士が元の襲来に備えての海沿い防衛で疲弊し、実際の二度の元寇で戦っても恩賞が不十分。不満が蓄積し、鎌倉幕府倒壊の一因となり、その後の長い南北朝時代の戦乱を生み出した。つまり天・地・人のうち天を欠いて地と人を先行させた屯田制度による海防構想は、それを実行すれば、もしかして西洋諸国の本格襲来の前に江戸幕府を崩壊させ、戦国乱世を再現させ、それに乗じた西洋の侵入を容易に許し、亡国をもたらす可能性がある。
 ここにやはり天・地・人の天が込みにならねばならない。貧乏な屯田兵生活をしてもたとえ戦死したのに十分な報酬がなくても我慢するどころかそれ自体が喜びになるような人格にまずは武家の、ひいては愚民の精神を改造しなくてはいけない。天皇の国、神の国邪教から防衛することに日本人の人生の第一目的があると心底から信じられるように人間精神を作る直さなければならない。愛国心をもたせるのだ。
 正志斎はそのために全国の神社を活用すべきだと訴える。天意を頂く天皇を大神主として、生者を称え、死者を祭り、神の国を守るための祭政一致、軍事も一体になった政治を行う。濃密なスケジュールで全国の神社が祭りを行い続け、万民はそれに参加し続ける。屯田兵は神事に集うことで人格を改造され、恩賞なき戦闘にも献身し、死して神と祭られることに感謝するだろう。鳥居の向こうに天皇天皇から国防を委任された征夷大将軍の姿を見るようになるだろう。祭政一致の神事・政治の実感し得る体験の場を、神社の網の目を用いて張り巡らすことで、神国観念そのものに喜悦を感じさせる。これ以外に全国の海岸線を守り続ける日本人の道を確立しようがない。かくて天・地・人は一体となり神代が復するだろう。儒学神道を結び付け天皇教を確立する。これぞ尊皇攘夷の実践の道である。明治維新国家神道を要請する理路も、既に『新論』に示されている」 
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 日本軍部は、ロシア・ソ連共産主義勢力の侵略から日本天皇と母国日本を防衛する為にイスラム教のトオスマン帝国トルコ共和国との攻守軍事同盟を模索していた。
 だが、真に対ロシア攻守同盟を組みたいと望んだ清(中国)と李氏朝鮮反日派としてロシアと手を組んだ以上、日本は存続の自衛行為として、清(中国)を攻撃して敗北させて親日派政権を樹立させ、李氏朝鮮を領土に組み込んで敵日派や反日派を追い出した。
 日本に必要だったのは、共に戦ってくれる親日派知日派であった。
 日本陸軍の主流派は、対露・対ソ・対共産主義世界戦略として、トルコや中央アジアなどのイスラム勢力とポーランドとの協力関係を強め、軍情報を交換しあっていた。
 軍国日本が採用した小手先戦術とは、「敵の敵」あるいは「敵の味方」と手を組むという事である。
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 帝国主義時代の世界勢力図が変わったのは、日本が日露戦争でロシアに勝利してからである。
 その日露戦争を勝利に導いたのは、水戸学の会沢正志斎の戦略理論「新論」であった。
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 吉田松陰が説き高杉晋作が実行した国民皆兵につながる民衆崛起は、「新論」が理論化していた。
 「新論」は、尊皇攘夷の為に、天下泰平で戦闘能力を失った武士を諦め、庶民(百姓や町人)を武士化すべきだと説いた。
 それ故に、尊皇攘夷派や勤皇の志士には武士より庶民が多い。
 明治維新によって支配階層であった「武士」が忽然と消滅したのも、「新論」が大きく関係していた。
 武士は権力を取り上げられ特権を剥奪されて、保護も保証もない庶民として自活を強いられた。
 武士と俄武士(庶民)を兵士として動員し、ロシアの侵略から日本天皇と母国日本を守ろうとした。
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 歴史的事実として、日清戦争日露戦争そして韓国併合は正しい選択で、日本に非はない。
 もし、日本の選択が間違いであったとするなら、現代の認識ではなく、当時の世界情勢を踏まえて反論すべきである。
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 現代日本歴史認識を支配しているマルクス主義史観の日本人凶悪非道の極悪人史観=自虐史観は、天皇制度を廃絶したいという悪意の塊である。
 マルクス主義史観の目標は、人間として自由に生きる為に個人の欲得を権利として全開に解き放つ事であり、最終目的は平等な人民社会建設の為に日本民族日本人と日本神道の消滅である。
 マルクス主義史観の知的エリートが語る反宗教的科学的合理的論理的歴史教育には、人民や市民はいても民族や国民はいない。
 今はなきソ連や東欧の社会主義諸国や現代の中国共産党国家や北朝鮮共産主義体制国家を見れば、その実像がわかる。
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 日本の近代化とは、ロシアの侵略から日本天皇と母国日本を如何に守るかという危機意識から始まり、そして天皇原理主義軍国主義で暴走した。
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 日本人の祖先が中国生まれで、統一戦争に敗れて追い出された中国出身の人間であれば、子孫が祖先が追い出された故郷に凱旋・帰還してなにが悪いのか?
 もし、日本人の祖先が朝鮮半島の生まれで、唐(中国)・新羅連合軍に敗れ難民として日本列島に逃げ込んだ人間であれば、祖先の仇を討つて何処が悪いのか?
 中国人や韓国人・朝鮮人が日本を造ったのは自分たちの祖先というのなら、日本人は祖先が味わった屈辱を晴らす権利がある。
 反天皇反日朝鮮人テロリストと共産主義者達は、日本を転覆させ滅ぼす為に昭和天皇や皇族を暗殺しようと付け狙っていた。
 日本は、古代から現代に至るまで、何時侵略してくるか分からない反日・敵日の国家に囲まれていて、味方してくれる援軍を送ってくれる親日・知日の国はなかった。
 日本と中華(中国・朝鮮)とは、相互理解で分かり合う事は不可能であった。
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 親日派知日派は、百済高句麗、古代新羅渤海であった。
 敵日派・反日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮であった。
 日本を侵略し残虐行為と強制連行を行ったのは、高麗と李氏朝鮮であった。
 統一新羅の水軍や海賊は、日本海沿岸を荒らし回った。
 新羅系渡来人は、駿河・伊豆地方で叛乱を起こしていた。
 帰化人は味方であったが、渡来人は敵であった。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として世界中に売って大金を稼いでいた。
 江戸幕府キリスト教を禁教としキリシタン弾圧したのは、当時としては正しい選択であった。
 日本のキリスト教禁教とキリシタン弾圧を非人道的と非難するなら、まずその前に、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人が行った日本人奴隷交易を認めて謝罪すべきである。
 自分の非を認めず他人の非を騒ぎ立てるのは、分別なき子どものする事である。
 だが、日本人奴隷売買に手を貸したのは日本人である事を忘れてはならない。
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 現代日本マルクス主義史観は、以上の事を全てを知りながら、知りながらあえて日本側こそ「悪」として断罪し否定し抹殺した。
 故に、歴史上にその痕跡はない。
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 日本民族日本人は、「昔の事は水に流して忘れ」という心的傾向が強く、中世キリスト教会や白人キリスト教徒商人によって日本人が奴隷として売られた事は昔の出来事・歴史上の悲しい出来事と割り切り、今はキリスト教会や白人キリスト教徒と友人になる事を最優先として、謝罪も賠償も求めない。

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