🏞81)─1─水戸学は、日本を守る為に日本ナショナリズム・近代的天皇教・軍国日本・国民皆兵を創作した。~No.327No.328No.328 @ 

GHQ焚書図書開封11: 維新の源流としての水戸学

GHQ焚書図書開封11: 維新の源流としての水戸学

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本を守り救うのは、天皇・皇族・皇室しかなかった。
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 北方領土四島は日本固有の領土で、武士は命を捨ててもロシアの侵略から北方領土四島を守ろうとしていた。
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 水戸学は、ロシアとキリスト教の侵略から日本を守る為に、新説天皇教を創り、日本ナショナリズムを捻り出し、日本民族大和民族)を形作った。
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 水戸学は、忠誠心や愛国心のない気弱で怠け者の庶民=愚民を戦う武士にする為に新天皇教で洗脳した。
 日本の庶民への徴兵制という国民皆兵思想はこうして生まれた。
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 日本で、オランダ語のナポレオン伝記が翻訳されたのは1826年であった。
 江戸幕府は、日本近海への外国船が頻繁に出没する為に、世界情勢、特に西洋キリスト教諸国の情勢を知るべく、オランダを通じて積極的に海外情報を仕入れていた。
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 戦後の歴史教育は、ロシアの軍事力的脅威に対する天皇の軍隊(皇軍)による北方国防戦略を唱えた木村謙次の『北行日録』を否定し、歴史の闇に葬った。
 新たに創作されたのが、ロシアの軍事的脅威を消し去った、和人によって蝦夷地は植民地化されアイヌ人は土人として支配されたという、可哀想な少数民族アイヌ人神話である。
 国連は、日本人に支配された少数民族アイヌ人神話を公式に認めた。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒は、地球規模で日本人奴隷貿易を行って大金を稼いでいた。
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 アーネスト・ゲルナー「一つの有効なナショナリズムごとに、n個の潜在的ナショナリズムが存在する。しれは、農耕世界が継承してきた共有文化か、(先の原理に基づいた)何か他の絆によって定義される集団である。彼らは、同質的な産業共同体を確立するという希望を与えることはできたかもしれないが、それにもかかわらず、そのために苦闘することなく、その潜在的ナショナリズムを活性化することに失敗するか、それを試みることさえしようとしない」
 「民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の仕方を通じてではない。確かに、ナショナリズムは以前から存在し歴史的に継承された文化あるいは文化財の果実を利用するが、しかしナショナリズムはそれらをきわめて選択的に利用し、しかも多くの場合それらを根本的に変造してしまう。死語が復活され、伝統が捏造され、ほとんど虚構にすぎない大昔の純朴さが復元されるのである。けれども、このような文化的に創造的かつ空想的で、きわめて捏造的な側面がナショナリストの熱情にみられるからといって、間違って次のような結論を下すべきではない。すなわち、ナショナリズムは偶発的、人為的、イデオロギー的な作り物にすぎず、もしも、要らぬお節介をせずにはいられないかの忌まわしいでしゃばりのヨーロッパ人思想家が、余計なことにそれをでっちあげ、さもなければ別の姿に発展しえたかもしれない政治的共同体の血脈に致命的な仕方で注入しなかったならば、ナショナリズムは生じなかったかもしれないという結論がそれである。ナショナリズムが利用する文化的断片や破片は、たいていは恣意的な歴史的作り物である。どんな古い文化的断片や破片も有効に利用されるであろう。他方で、ナショナリズムの原理それ自体については、その時々の化身のためにたまたま取った姿とは正反対に、少しも偶発的でも偶然的でもないというようには決してみなされないのである」『民族とナショナリズム
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 木村 謙次(1752年〈宝暦2年〉 - 1811年8月24日〈文化8年7月6日〉)は、江戸時代後期の学者、探検家。
 諱は謙ないし謙次郎。字は子虚、号は礼斎、酔古堂、酔古山館。
 来歴
 常陸国久慈郡天下野村にて、農家の4男として生まれる。立原翠軒から儒学を、吉益東洞からは医術を学んだほか、農政学にも通じていた。
 1793年(寛政5年)、水戸藩の密命を受けて松前を調査し、報告書『北行日録』を仕上げたほか、江戸では大黒屋光太夫関連のロシア情報を収集して『江戸日記』を執筆した。
 1798年(寛政10年)、近藤重蔵蝦夷地探検に「医師・下野源助」として同行し、旅の様子を『蝦夷日記』にしたためる。択捉島タンネモイに建てられた木標「大日本恵登呂府」の文字は木村が書いたといわれ、そのほか近藤の書と伝えられる物の中にも、実は木村の手になる物が少なくないとされる。
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 庶民は、天皇教によって民族主義者・尊皇攘夷派・勤皇の志士となり討幕へ暴走して明治維新を成し遂げた。
 庶民から成り上がった俄武士が急増した。
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 民族があってナショナリズムが生まれるのではなく、ナショナリズム運動から民族が生まれてくる。
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 2017年11月号 新潮45「水戸学の世界地図 片山杜秀
 28 目には目を! 奇巧には奇巧を!
 18世紀、日本にのしかかるロシア問題が、国防に敏感な学者・政治家たちを急激に変えた。
 ロシア。18世紀から日本にのしかかり続けるものである。北方領土の問題もその頃から課せられたまま、ついに今日に及ぶ。
 ロシアに漂着して長く保護されていた大黒屋光太夫がロシア船に乗せられて蝦夷地に帰還したのは1792(寛政4)年、幕府の隠密である間宮林蔵が『敵情把握』のため敵地深くに潜入して間宮海峡を発見し、樺太ユーラシア大陸と陸続きでないことを世界で初めて明らかにしたのは1809(文化6)年。蝦夷地に入り込もうとしているかのような、さらには日本全土に野心を抱いているかもしれないようなロシアと、如何に向き合えばよいのか。長崎の出島を通して長らくそれに安心できる相手として付き合ってきたオランダとも、今まで通りの感覚で交際し続けて大丈夫なのか。ロシア問題が浮上して、国防に敏感な日本の学者・政治家たちの西洋世界の見え方が、急激に変わりだす。
 『国防思想』でありで『国體護持の学』あり、思弁性よりも実践性に重きを置く水戸学の教説がにわかに『過激化』するのも、大黒屋光太夫間宮林蔵の時代と重なっている。実践の学としての水戸学は、世界地図の見え方が変われば即座に大胆に変容する。思想そのものの内包する論理が自己展開して移り変わるのではない。水戸学は学問としての完成度を追求しているのではない。『国體護持』に必要な『動員のイデオロギー』なのである。思想内容は極論すれば方便だ。情勢に応じて前言を翻す。思想価値の一貫性よりも、政治目的に対する合理性を保とうとする。水戸学は一種の実学である。
 水戸学の総帥、立原翠軒は、大黒屋光太夫を日本に帰したロシアの意図を探るべく、蝦夷地に門弟の木村謙次を派遣した。彼は水戸に戻って翠軒に密偵記録と意見具申を兼ねた『北行日録』なる書を提出した。1793(寛政5)年のことである。その中身の話をしていた。
 木村謙次の報告
 木村謙次のロシアについての報告は当時としてかなり理解の行き届いたものである。ロシア人の兵士は鎧を『皮服ニテ結束』してきつきつに着込んでいるので動作の敏捷性を著しく欠き、日本の侍どころか、蝦夷人、つまりアイヌ人の一般民衆とも白兵戦ならば勝負にならないという。けれど、ロシア人の手先はよく発達していて、火器の扱いは比類なく巧みであるという。火器の性能も日本のそれを凌駕している。軍事科学技術の発展の度合いは向こうが上。『北行日録』での木村は、もしも日露戦争が起きれば、この国の運命はかなり危ういと考えている。
 『露西亜ノ地欧羅巴亜細亜二跨リ天地間ノ大国ニシテ欧羅巴ノ奇巧ヲ用ヒ、亜細亜ノ驍勇(ぎょうゆう)ヲ兼ネ』る。木村はロシア的なるものをこのように結論づける。ロシアはヨーロッパとアジアの性質の両方を有している。『亜細亜ノ驍勇』はここでは武闘精神だろう。神武以来の日本の武勇も、同じアジア的闘争心に豊かに彩られたロシアの前では風前の灯かもしれない。この危機意識の高さが『北行日録』に限らず木村謙次の思想と行動をこのあと長く特徴づけるものになる。
 すると『欧羅巴ノ奇巧』とは?軍事侵略よりも貿易を求め、貿易をしながら相手国で権益を拡大し、ついには国を乗っ取る、巧みな仕方を言っている。その基礎を成すのはヨーロッパ人の経済的欲望の凄まじさである。
 『商人ノ利ヲ争フコトハ欲心止ムコトナシ、百両殖スルヲモ2百両トヲモヒ漸々其場ヲ広ク貪リ進ム』
 半面においてアジア人、もう半面においてヨーロッパ人であるロシア人が、後者の性質を発揮すれば、この血も涙もない商人性が常に突出してくると、木村は北方での彼らのふるまいから推察する。もちろん商人の欲深さは日本人にもある。かくてトラブルが頻発する。そこでロシアは時に武力さえ使用し、航海技術や火力の優位を見せつける。北辺の危機はそのようにして積み上がっていると、木村は言う。しかも、ロシア人が日本人に売り付けているのは『無用ノ羅?(らしゅう)』。日本人の暮らしに本当は必要でない贅沢品ばかりだ。贅沢品を『有用ノ米穀二貿エ其長計ヲ以テ比短智ヲ欺ク』のがロシア人のやり方。これぞ日本に毒を効かせる奇巧そのもの。木村は非難してやまない。
 そこには水戸学に限らず、幕藩体制を守り抜こうとする江戸期の多くの思想に共通する態度が見られる。何しろ米穀本位の経済が建前なのだ。農本主義が基本である。日本という国は『豊葦原瑞穂国』。豊葦原といっても幾らでも穀物が育つわけではないが、適正人口と平時の気候が組み合わされば、それなりに豊かにみなが食べられる国として成り立っている。だが豊作だとしても米穀の余裕はこの国ではあまりない。いつも際どい。贅沢品にうつつを抜かす暇はない。大都市の奢侈(しゃし)の行き過ぎが農村を破壊し、農民を困窮させる。江戸時代に繰り返され続けた言説である。
 江戸や大坂の町人の繁栄を指弾するのがしばしば幕府の改革の政策でもあった。
 水戸学もまずは同様である。反都市的・反奢侈的性格を強く帯びていた。農本主義の思考パターンに忠実だった。いわゆる贅沢資本主義を敵視する。必需品である米穀を海外に流し、その代わりに食べられもしない贅沢品を高値で買わされるなんて話はもう論外である。貿易で国富が増大するという発想はきつく退けられる。海外貿易とは、農本的世界を揺るがす、亡国の危険信号である。
 農本主義的思想
 農本主義的思想とは自給自足圏の確立と持続のヴィジョンに尽きてくるだろう。外部を遮断し、内部で食糧の生産と消費を回し続ける。政治的・経済的な一定の秩序を、閉鎖的・鎖国的体制の中で永続させてゆく。それを突き崩すのは外国との貿易だ。しかも自国から食料品を売り、他国から非食料品を買う貿易だ。木村はこの種の貿易の形態を『長計ヲ以テ此短智ヲ欺ク』ものと述べていた。先に引いた通りである。
 『長計』とは何か。ヨーロッパ人がアジア人に使う、いつもの長期戦略だ。ロシア人が贅沢品をちらつかせ、日本人の欲望に火を付ける。日本人は『短智』を巡らせ、目前の贅沢品を手に入れようとする。限られた食料品を外国に売り、持続可能な農本主義経済に自らひびを入れてゆく。農業生産力に限りのある国がその種の貿易体制に組み込まれれば、歪みが大きくなり、貿易相手国に対して劣位へと墜ちてゆくだろう。ついてはロシアならロシアの経済的・軍事的版図に呑み込まれるかもしれない。いずれにせよ侵略は貿易から始まる。鎖国を改めて徹底しなければならない。向こうがもしも力ずくで貿易しようとするなら、こちらも力ずくで貿易を拒まねばならない。ここに明治維新につながる攘夷の意識が生まれ育つ。そこで原因となる国家はオランダでもイギリスでもアメリカでもない。江戸の思想史に照らせば、明らかにロシアであった。
 しかもロシアが地理的必然とも言えるかたちで真っ先に目をつけているのが蝦夷地であることが、日本にとってはかなり危ない。そう木村は認識していた。なぜならば、蝦夷地はこの国の中でも際立って例外的にロシアの交易の論理にからめとられやすいからでる。木村は、蝦夷地の事実上の支配権を有し蝦夷人との交易権も独占していた松前藩の性格に言及する。
 『松前ハ極北ノ大都市ニシテ1侯国トイヘトモ其提封甚大ナラス、僅二1郡主二比スヘシ、其国田畝開墾ノ業ヲ迂ナリトシテ五穀租税ノ収ナク末ヲ事トシ、漁猟互市ノ利ヲ逐フ』
 松前藩は米作可能の北限の向こう側に位置していると言うことができ、ということは『豊葦原瑞穂国』の恵みから外れた世界になる。農業生産を基礎とする自給自足的な豊かさを達成出来ない。農本主義の思想に何の実感ももてない。その意味で、日本であって日本でない。気候も風土もロシアとの親和性が高い。そうした土地柄ゆえ、もともと藩財政も蝦夷人との交易によって支えられている。異民族と商売するのが松前藩の長年の当たり前になっている。そこにロシアが来ても抵抗感がない。蝦夷地の『鎮撫保全ノ志』、ロシアを食い止め、入れまいとする強い意志が、松前藩には最初から欠けている。
 『松前ノ君臣只交易射利ノ事二習テ国家ノ鎮撫ノ大体二暗シ、其外夷二接待シ官使二応対スル必回護糊塗左支右吾ノ説多シテ何ンソ価スル二タラン』
 松前に出向いて調査検分した木村の言い分である。彼らはロシア人とも密かに宜しくやってしまうだろうと予測している。現に松前の商人は鎖国の禁令をものともせず、ロシア人から贅沢品を買っている。洋服や靴を買っている。松前ではロシア製の靴を『唐太』と呼んで履いている人が居る!
 ではどうするか。松前藩には北方防備は担えない。そもそもひとつの藩に国防を丸投げすることなどあってはならない。幕府自ら行うべきだろう。木村は提案する。
 『故二中奥ニハ鎮台ヲ立唐太奧蝦夷ノ地ハ開墾二托シテ松前二鎮戍ヲ置、国勢ヲ張リテ威武ヲ示サハ外夷萎縮(中略)而シテ後強弱ク兵勢彼我ノ成敗ハ自ヲ天地鬼神二質スル処ナリ』
 木村は大胆に踏み込む。北方からの軍事侵略を必至と見込み、蝦夷地を一藩でなく幕府の直轄地とする。そして全島を軍事要塞化する。『万葉集』の時代の防人の北辺に於ける再現を夢想している。だいたい鎮戍や鎮台というのは武家の時代の一般的用語ではあるまい。日本では古代の中央集権国家の時代の言葉である。奈良時代から平安時代にかけては、北方の蝦夷を制圧するために多賀城や丹沢城に置かれた。。それが鎮戍府であろう。鎌倉幕府は九州に鎮西探題を置いたが、これも蒙古の襲来した文永・弘安の役によって引き起こされた九州の混乱を鎮めるため、王朝期の鎮戍府に倣って生まれたものだろう。
 北方に鎮戍府を置いて、火力・海軍力の点では圧倒的に優勢なロシアに備え、『彼我ノ成敗ハ自ヲ天地鬼神二質スル』ほかはない国の存亡を懸けた戦を覚悟する。この木村の構想の背景には、鎮戍府の名に相応しい中央集権国家による総動員体制のイメージがダブってこざるをえない。松前藩で無理だから幕府がじかにやるといっても、幕藩体制のもとでの幕府の自力にも限界がある。徳川将軍家も所詮は一個の大大名にすぎない。天下に号令をかけなくては無理だ。水戸学の論理で言えば、王朝時代の鎮戍府の名を用いて国家総動員を行うには、征夷大将軍のみならず天皇の裏付けがはっきりと必要になってくるだろう。
 蝦夷樺太を木村は『無用ノ棄土』と呼ぶ。当時の技術からすれば農業の実の上がりそうにない、寒冷な土地である。農本主義幕藩体制を擁護する立場からすれば、実効支配をしても、無駄かとも思える。だが、その地にロシアの浸透を許し、あちこちで日本人がロシア人との密貿易に勤しむようになれば、鎖国農本主義などたちどころに吹き飛んでしまうだろう。ならば蝦夷樺太を是が非でも守らねばならない。ところが、蝦夷地を防衛するための大義名分は、おのれの領土を保全すれば事足れりとする藩の論理からはでてきようもない。中央集権的な国家がそれを行う方がはるかに自然である。また北方国防のための膨大な軍事予算や人的負担は、地方分権農本主義を組み合わせた幕藩体制の手に余るものになってくるだろう。木村はそれを予想し念頭に置くから鎮戍府などという表現にこだわるのだろう。
 要するに木村は、天皇に委託された将軍の統べる農本主義ユートピアとしての幕藩体制の永続をひたすら冀(こいねが)い、それを脅かすロシアから『豊葦原瑞穂国』の本体を守るべく、絶対国防圏として蝦夷地と千島と樺太を強力な軍隊の駐屯地としなければならぬと主張するのだが、それを支えるエートスと費用と人数をみたすには、幕藩体制農本主義ではうまく行かないという、大きな矛盾にたどり着かざるをえない。僻地に膨大な軍事力を集中する鎮戍府をマネージするにはどうしても中央集権が必要なのである。そこでこそ防人の時代や多賀城や丹沢城の時代が再現可能になる。ここに明治維新の芽も出てくる。中央集権国家と四民平等と国民皆兵の組み合わせである。
 木村は『蝦夷ノ地ハ開墾二托シテ』とも述べていたわけだが、これはつまり屯田兵の話だろう。蝦夷地に十分な陸軍力を配さなくては国防はおぼつかない。そこでの大問題は糧食である。いちいち運ぶわけにも行かないだろう。一時的な遠征ではなく、駐留し続けるという構想なのだから。ならば自給自足。蝦夷地には屯田兵。米は無理でも他に作れる食べ物を自分で作って食べて、居続けるしかない。この構想は明治維新で一時的に実現する。北海道には屯田兵が置かれた。これで付言すれば、蝦夷地を幕府の直轄にする構想は、別に木村の提言に従ったわけではあるまいが、1799(寛政11)年から実現化してゆく。といっても、木村の思い描いたように国運を傾けて武備を集中するところまでは、まるで行かなかったのだが。
 他力本願を排する思想
 このような木村謙次の蝦夷地防衛論を、心配し過ぎといなす者も多かった。水戸学の人々の中にも居た。ヨーロッパがはるばる日本を侵略する可能性が低いと考える水戸学者たちの意見は、決まって次の論法だった。ヨーロッパの国々は治乱興亡が激しい。王朝も頻繁に交替しているようだ。中国の歴史と同様である。易姓革命を繰り返している。仮にロシアが日本を、蝦夷地を取っ掛かりにして征服しようとしていたとしても、それだけの大事をなす前に、ロシアでもきっと易姓革命が起こるのではないか、適当にあしらいながら、相手国の自壊を待っていればよい。
 木村は『北行日緑』においてこのような意見に厳しく反論している。楽観論者は中国の歴史の学びが足りていないのではないか。試みに宋の滅亡の過程を見よ。木村は叫ぶ。『契丹遼女直蒙古元一姓二非レトモ其南宋ノ患ヲ為スハ一ナリ』
 宋の時代、万里の長城の向こうの北方諸民族は興亡を繰り返した。興っては滅び、取って代わられた。だが、それによって宋は救われたろうか。そんなことはない。負担はのしかかり続けた。北でひとつが倒れても次のひとつが倒れたものの遺産を引継ぎつつ、また南へと圧力をかける。その押し重なりの末に、ついに宋は潰えた。
 この事実を踏まえて木村は言う。ロシアの王朝が倒壊しても、それに代わる国家が出てくるだけだ。相手国の混乱のせいで、一刻の猶予は与えられるかもしれない。が、すぐ元通りになる。日本の立場からすれば、その程度の事柄にすぎない。他力本願では事態の解決はない。
 『今欧羅巴州中ノ狄夷(亜細亜ノ)併呑ヲ謀ルモノ一国ノミ二非ス、莫斯波(モスクワ)ヲシテ滅ヒシムルトモ、又彼カ後継ヲナスモノアルコト必セリ』
 かくて、木村にとっては蝦夷地への大軍の駐屯は喫緊の課題に他ならぬのだが、しかし幾ら軍事的に対応したとしても、なお不十分である。なぜなら彼らの攻め手は、松前で既に行われているように、まず貿易なのだから。贅沢品の魅力で日本人を誘惑する。しかもそこには甘い友誼的態度が伴う。本音の暴力が噴出することもあるが、表向きは取り繕われるものだ。貿易はお金と物のやりとりだじゃら、相互的信頼が存在しなければ成り立たない。敵国同士は貿易はしない。貿易と友誼は建前として不可分である。友誼は国境を越えた友情を人々に植え付ける。大黒屋光太夫らの帰国を女帝エカチェリーナ2世のお墨付きによる一大イヴェントにしてロシア国家の腹蔵なき善意を広く日本に示そうとする。これがまさに友誼を用いた策略のひとつだ。そして、その友情を、物品のやりとりをするときなどに一時的に盛り上がる感情ではなく、永続的信頼関係に高めるために、ヨーロッパの国々が『奇巧』として用いてくるのが宗教であろう。
 友誼心を持ち仲良く貿易しあえる人間は証しとして同じ信仰を持つのがよい。キリスト教である。木村謙次も特に注意を促している。戦国時代にもヨーロッパと交際した大名や商人は次々とキリスト教徒になったではないか。キリスト教は異国の貧しい民にも積極的に慈悲を施す。結局、日本の金持ちは贅沢品によって、日本の『愚民』(水戸学者のよく使う言葉である)はキリスト教の慈善によって、すぐヨーロッパに御されてしまう。キリスト教伝来から徳川三代将軍家光の時代の天草の乱に至る経過で一回は証明されている。
 過ちを繰り返さぬためにどうするか。攘夷の完遂のためには、軍事的国防だけでなく思想的国防が必要である。戦国から江戸初期の轍を踏まぬように、キリスト教に対抗しうる別のロジックで『愚民』を洗脳しなければならない。その思想的国防の必須アイテムとして生み出されたのが、後期水戸学が唐突とも言える速度で作り上げて表看板とし、明治国家に受け継がれてゆく『天皇教』であろう」


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水戸学と明治維新 (歴史文化ライブラリー)

水戸学と明治維新 (歴史文化ライブラリー)

教科書には載っていない 江戸の大誤解

教科書には載っていない 江戸の大誤解

  • 作者:水戸 計
  • 発売日: 2016/11/18
  • メディア: 文庫