🏞76)─1─開国・尊皇攘夷前史。寛政・日露交渉。松平定信。大黒屋光太夫。林子平。エカテリーナ女帝。~No.311No.312 @ ㉔

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 昔の日本人の方が、現代の日本人よりも思慮分別があった。
   ・   ・   ・   
 1600年当時 西洋世界は、地球上を7つの帝国と数多くの王国が支配されていると考えていた。
 ロシア帝国、ゲルマン帝国(神聖ローマ帝国・大ドイツ)、オスマン・トルコ帝国、ペルシャ帝国、インド帝国支那帝国(清国)、そして日本(大君国)である。
 イギリス、フランス、オランダ、スペイン、ポルトガルなど王国は、日本より一段下の王国と呼ばれた。
 李氏朝鮮琉球は、更にその下位の諸王国と見なされていた。
   ・   ・   ・   
 西洋諸国は、数十万人の大軍団を数百隻の大艦隊で海外に派兵する軍事力と、火薬はなくとも鉄砲を自主生産しその保有量が世界トップクラスという技術力と、石見銀山など数多くの鉱山を持って大量の金銀を輸出する経済力という日本帝国の底力に恐怖していた。
 そして、日本人は高い教養を持ち名誉を重んずるサムライ・武士で、高い戦闘能力を持っている為に植民地化し奴隷にはできないと信じていた。
 日本が、西洋列強に侵略され植民地化され奴隷にさせられなかったのは、ヨーロッパから遠かったからではない。
   ・   ・   ・   
 当時の日本人は、元寇(高麗・蒙古・中国連合軍)の先例に習い、天皇が統べる日本国を侵そうとする外敵には、女子供に関係なく最後の一人になっても戦い決して屈しないという「覚悟」を持っていたからである。
 この点において、現代の日本人と当時の日本人とは、水と油のように全く違う日本人である。
   ・   ・   ・   
 日本が強大な軍事力を持つ事で、中世キリスト教徒による日本人の奴隷売買は終わった。
 日本人は、自分達が奴隷として売買された事を忘れたが、キリスト教は恐ろしい宗教である事を感じて禁教とし、キリシタンを弾圧した。
 キリスト教禁教とキリシタン弾圧は、正しい選択であった。
 中世キリスト教と現代のキリスト教は、別のキリスト教である。
 軍事力は正義であった。
 日本人は、奴隷として売られていた。
   ・   ・   ・   
 日本海とうい名称は、国際的に認知されていた。
   ・   ・   ・   
 1702年 ロシア帝国のピョートル1世(大帝)は、首都ペテルブルグでインド人と報告されたデン・ベと謁見した。
 色々話した結果、デン・ベは日本人と判明した。
 ピョートル1世は、日本との交易を命じた。
 ロシアは、中国・日本と交易する為にはインド洋からアフリカ経由しなければならなかった。
 その為、シベリア経由で直接交易できる陸路を捜していた。
   ・   ・   ・   
 1705年 ピョートル1世は、ペテルブルグに日本語学校を開校し、デン・ベ(伝兵衛)を初代教師に任命した。
 デン・ベは、大阪の手代で、教えた日本語は大阪弁であった。
 デン・ベが死亡すると、新たな日本語教師となったのは紀州のサニマ(三右衛門)であった。
 日本語学校の日本人教師は、遭難して保護された身分低い水夫達で、教養がなかった。
 出身地もバラバラで、教える日本語は方言混じりあり、下世話な水夫言葉で酷かった。
 さらには、新たに補充された日本人教師は、専任者が教えた日本語を否定して違う方言混じりの日本語を教えてた為に、統一性がなく混乱していた。
 それは日本でも同じで、当時の日本には全国で通用する共通語がなかった。
 1753年 日本語学校は、日本語教師が補充しやすいイルクーツクの航海学校の校舎内に移転された。
   ・   ・   ・   
 ロシアは、オホーツク港を拠点にオホーツク海に船を進め日本までの航路を解明し、カムチャツカ半島から千島列島への移住を始めていた。
   ・   ・   ・   
 ポーランド王国は、1772年・93年・95年の3次にわたって隣国の大国ロシア帝国オーストリア帝国プロイセン王国によって分割され、そして国家は消滅し、国民は亡国の民となった。
 国際社会とは弱肉強食社会であり、軍事力の弱い国は生存できなかった。
 人類史・世界史・大陸史は、戦争の歴史であった。
 人間社会において、生死を賭け、武器を取って戦う覚悟のない者には生きる資格はなかった。
   ・   ・   ・   
 1783年 伊勢国の船頭・大黒屋光太夫等が持っていた船・神昌丸は、江戸に向かう途中で嵐に襲われ遭難した。
 7ヶ月余、太平洋を漂流してアリューシャン列島アムチトカ島に漂着した所をロシア人に保護された。
   ・   ・   ・  
 1785年 林子平は、地理書・経世書である『三国通覧図説』を刊行した。
 日本に隣接する三国、朝鮮・琉球蝦夷と付近の島々についての風俗などを挿絵入りで解説した書物とその地図5枚(「三国通覧輿地路程全図」)からなる。
   ・   ・   ・   
 天明6(1786)年 水戸藩の藤田幽谷(古着屋の子供)は、『大日本史』は儒教的徳の思想に陥り道徳的天皇を理想とする観念論となり、社会を動かしている法や組織や制度が欠けているとして、より現実的な歴史にする為に「志」と「表」を加えた。
 水戸の彰考館総裁立原翠軒(たちはらすいけん)は、藩主徳川治保の藩政に参与し、大日本史編纂の方針を巡り弟子の藤田幽谷と対立を深めていた。
 松平定信は老中首座となり、寛政の改革を本格的に進めた。
   ・   ・   ・   
 立原翠軒は、天下の三大患(朝鮮使の聘礼、北夷、一向宗)について老中の松平定信に上書して、ロシアの蝦夷地侵略等を警告した。
   ・   ・   ・   
 林子平、洋学者との交流を通じて海外事情について研究を行い、ロシアの南下政策に危機感を抱き、海防の充実を唱えた。
 1787年 林子平は、江戸幕府の軍事体制の不備を批判し、海外から日本を守る為の軍備の必要性を説く海防論『海国兵談』の第1巻を刊行し、寛政3年(1791年)に全巻刊行を終えた。
 松平定信は、寛政の改革時に、朱子学国学としてそれ以外を異学として一切を禁止した。
 庶民の読み書きも禁止して書物を取り上げ、発禁・版木没収の処分を強行した。
 幕政の障りになるとして、外国を紹介する書籍を禁止し、林子平の『海国兵談』と『三国通覧図説』も発禁処分とした。
 日本を雁字搦めの閉鎖社会にしたのは、徳川家康ではなく松平定信であった。
 松平定信は、暗君ではなく名君で、施政の多くは世の為人の為になった。
   ・   ・   ・   
 1789〜99年 フランス革命
   ・   ・  ・   
 1790年 蝦夷地の専門家である最上徳内出羽国の百姓出身)は、無実の罪で入牢されたが助命運動で無罪放免となった。
 幕府は、松前藩に命じていたアイヌの待遇改善が正しく行われているどうかの実情を探るべく、最上徳内御家人に取り立て普請役とした。
   ・   ・   ・   
 1791年 最上徳内は、霧多布に神明宮を建立し、蝦夷地やロシアの情報を本土へ流す情報網を作った。
厚岸神社
 【所在地】厚岸郡厚岸町湾月1丁目3番地 
 【祭神】天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)。豊受姫神(とようけひめのかみ)。市杵島命(いつきしまひめのみこと)。
 {祀られている神々は、日本天皇家の祖先神・天皇神に所縁のある神々である。}
 【由緒】 寛政3年(1791)最上徳内が幕府に上書して道東の中心地である厚岸に神社を創立し天照皇大神豊受姫神を祀り神明宮と称した。これはアイヌ教化と北辺鎮護の為であって、更に寛政10年には近藤重蔵が社殿を改修し市杵島姫命を合祀し海上安全を祈った。此の時近藤重蔵が石に刻して建てた碑文及び由来は歴史上公知の事実である。爾来海上安全大漁豊作町内繁栄の守護神として一般の尊崇する所となった。文化3年更に社殿を改修し6月15日に祭礼を斎行していた。明治8年より厚岸町の総鎮守とし厚岸神社と称するに至り昭和8年無格社より郷社に昇格し現在は宗教法人に依る神社として公認せられ、毎年7月15日に例祭を斎行している。
   ・   ・   ・   
 10月10日 大坂・堀江・島之内の大火。
   ・   ・   ・   
 6月28日 大黒屋光太夫は、ペテルブルクでロシア皇帝エカテリーナ2世(女帝)に謁見して帰国する許可を求めた。
 エカテリーナ2世は、帰国を許した。
 大黒屋光太夫は、日本帝国の人間として諸王国使節の上位席があてがわれた。
   ・   ・   ・   
 ロシア民謡。ソフィアの歌。   ・   ・   ・   
 エカテリーナ女帝は、日本人漂流民・大黒屋光太夫らの返還と交換に鎖国日本との通商を求めるのべく、北部沿海州ギジガ守備隊長の陸軍中尉アダム・キリロヴィチ・ラックスマン(アダム・ラクスマン)を遣日使節として派遣する事を決めた。
 アダム・ラックスマンは、方言に近い日本語が話せる知日派であった。
   ・   ・   ・  
 ロシアは、タタールの軛(くびき)から独立して建国したという物語を持っていただけに、世界が恐怖したモンゴルの侵略を一国のみで撃退して独立を守り通した日本に対して親近感と尊敬の念を持ち、日本とは友好関係を持ちたいという気持ちが強かった。
   ・   ・   ・  
 欧州諸王家は血筋に関係のない家産相続であった。
 日本天皇家は神話由来の血筋を正統性とする血統相続であった。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 エカチェリーナ2世(ドイツ人)
 生い立ち
 1729年4月21日(ロシア暦)/5月2日(グレゴリオ暦)、北ドイツ(現在はポーランド領)ポンメルンのシュテッティンで神聖ローマ帝国領邦君主アンハルト=ツェルプスト侯(英語版)クリスティアン・アウグスト(プロイセン軍少将)の娘として生まれ、ルター派の洗礼を受け、ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケと名づけられた。
 母のヨハンナ・エリーザベトは、デンマーク王家オルデンブルク家の分家でやはり北ドイツの小邦領主であるホルシュタイン=ゴットルプ家出身であったが、次兄アドルフ・フレドリクは後にスウェーデンの王位を継承した。弟が2人で、上の弟は12歳で死亡、下の弟フリードリヒ・アウグスト(英語版)は後にアンハルト=ツェルプスト侯領を継ぐ。
 ゾフィーは2歳の時からフランス人ユグノーの家庭教師に育てられ、特に2番目の家庭教師バベ・カルデル嬢にはロシアへ行くまで教えを受けた。その結果、フランス語に堪能で合理的な精神を持った少女に育つ。乗馬も達者だったが、音楽は苦手。それほどの美貌ではなかったが、生来の優れた頭脳を活かし、知性や教養を磨いて魅力的で美しい女性となる努力を重ねた。本来家柄的にはとても大国の后妃候補に挙がる身分ではなかったが、母・ヨハンナの早世した長兄カール・アウグストがロシア女帝エリザヴェータ・ペトロヴナの若かりし頃の婚約者であった縁もあり、ゾフィーは14歳でロシア皇太子妃候補となる。
   ・   ・   ・   
 欧州の諸王族諸貴族は、大半が政略結婚で血縁関係にあり、他国人が自国の国王や皇帝に即位しても不思議ではなかった。
 それが、開かれた王家の真の姿である。
 日本天皇の即位の条件は、日本民族日本人であり、日本中心神話・天孫降臨神話で天照大神の血筋を正統に受け継ぐ皇族のみである。
 外国人が日本天皇に即位できない皇室は、外国の王家・皇室に比べて排他的閉鎖的である。
   ・   ・   ・   
 寛政4年(1792年) 幕府は、最上徳内に、樺太の地理的調査、松前藩が国禁を犯してロシアや満州と密貿易を行っていないか、アイヌへの不当な弾圧を行っていないか等を調べるように命じた。
 松前藩は、調査隊の人足にすぎなかった最上徳内幕臣として来訪した事に驚き、以前とは打つ手ちがい丁重にもてなした。
 最上徳内は、樺太に渡り調査を行い、10月には松前に戻った。
 樺太では、漂流してたロシア人を保護しロシアに帰国させるべく松前藩の役人に預けた。
 松前藩の役人は、関わりを持つのを嫌って樺太アイヌ人に預けて放置した。
 樺太アイヌ人は、ロシア人を殺害した。
 最上徳内は、松前樺太調査報告書を作成し、報告の為に翌年に江戸へ戻った。
   ・   ・   ・   
 4月20日 フランスは、オーストリアに宣戦布告してフランス革命戦争が勃発し、フランスの隣に位置するオーストリアネーデルラントも戦場となった。
 フランスの隣国であるイギリス、プロイセン(ドイツ)、スペイン、イタリア、オランダ、そして遠く離れたロシア、デンマークまでも戦争に巻き込まれていった。
 フランス革命戦争は、欧州戦争であった。
   ・   ・   ・   
 5月16日 大坂・天満の大火。
   ・   ・   ・   
 9月3日(ロシアの太陽暦9月13日) ロシア軍艦エカテリーナ号はオホーツクを出港し北海道・根室の北バラサン沖に到着して停泊し、5日の早朝には根室に到着し、そして、弁天島付近に錨をおろした。 
 アダム=ラックスマンは、根室に駐在していた松前藩役人に来航の理由を述べ、直接江戸への航行を希望している等の内容のイルクーツク総督ピールの書簡を提出した。
 オランダ以外との交易を禁止している鎖国政策に配慮して、渡来理由を漂流民送還として本来の目的である通交、通商関係の樹立の事は隠した。
 知らせを受けた松前藩は、江戸へロシア使節蝦夷地に渡来した事を急報した。
 松前藩士は、江戸の沙汰が下るまでには月日し、冬が近づいた為に根室に宿舎建設等の準備をし、幕府の指令を待つベくラックスマンと光太夫らと越冬する事にした。
 越冬とはいえ、長崎出島以外で外国人キリスト教徒が上陸を許された事は異例であった。
   ・   ・   ・   
 9月5日 ラックスマンは、日本語で将軍宛の手紙を書いて松前藩士に渡した。
  ・   ・   ・   
 10月19日 報を受けた幕府の筆頭老中松平定信は、祖法に従い、ラックスマン一行を松前に招き、光太夫ら漂流民を現地で引き取り、総督信書の受理と江戸への来航を拒否する事を決めた。
 そして、ロシアが通交・交易を望むならば長崎に廻航し、長崎のオランダ商館と交渉するという基本方針を決定した。
 つまり、直接交易ではなく、オランダを通じての間接交易なら許すと言う事である。
 目付の石川将監、村上大学の両名に、ロシア使節と交渉する宣諭使を命じた。
 松前藩に対しては、沿海の防備に意を払うとともに来航したロシア使節根室に留め置き、丁重に応対するよう命じ、来春に交渉に当たる宣諭使を派遣する事を伝えた。
   ・   ・   ・   
 もし、重農主義的保守派の松平定信ではなく重商主義的改革派の田沼意次が、日露交渉を担当していた時代は違う方向に動いたのかもしれない。
   ・   ・   ・   
 立原翠軒は、幕府が行おうとしている極秘の日露交渉を知るや、密偵(町医・木村謙次と庄屋・武石民蔵)を蝦夷地に派遣した。
 立原翠軒は、2人に、これは元寇以来の国難であるとしてロシアの軍事情報と蝦夷地の守備状況を探るべく「偵探大意7条」を与えた。
 木村謙次は、隠密道中を「北行日緑」に記録として残した。
   ・   ・   ・   
 松平定信は、江戸湾などの海防強化を提案し、また朝鮮通信使の接待の縮小などにも努めた。
    ・   ・   ・  
 日本海交易の北前船で、ロシア人が蝦夷地に現れた情報が大阪にもたらされ、諸街道を行き交う商人や僧侶や旅人によって全国に瞬く間に広がった。
 噂は風のように伝わり、止める事はできなかった。
   ・   ・   ・   
 寛政5(1793)年 最上徳内は、幕府内でも蝦夷地・ロシアの専門家でりながら日露交渉に関与させないどころか、河川を通行する川船に対して課税する深川の川船役所への出仕を命じられた。
 幕臣として命に忠実に、関東地方の河川を調査して水系地図を作成し、効率化に務めた。後に、山林御用も命じらた。
 最上徳内が嫌われたのは、田沼意次蝦夷地探索隊に加わっていたからである。
   ・   ・   ・   
 1月7日 東北地方で大地震が発生し、三陸沿岸を津波が襲い甚大な被害が出た。
 マグニチュード8.0〜8.4
 日本列島は自然災害多発地帯であり、日本は何時の時代でも外敵から侵略の脅威に晒されていた。
   ・   ・   ・   
 1月29日 木村謙次らは、松平定信によって仙台で軟禁生活を強いられている病気の林子平を訪れ、蝦夷地に現れたロシア軍船についての意見を聞いた。 
   ・   ・   ・   
 2月2日 木村謙次らは、塩竈神社に参詣し、神官の藤塚式部からロシア軍船の詳しい霧多布(キリタップ)情報を得た。
 ロシア軍船は、7、800石の大船。
 国使の名前は、アダム・ラックシャ(ラックスマン)。
 連れ帰った日本人は、伊勢国白子村通神丸船頭幸太夫
 ラクスマンの目的は、江戸に赴き、将軍と直談判して開国させ通交・通商を始める事。
 霧多布情報は、松前藩と一部の幕閣しか知らない極秘事項であった。
   ・   ・   ・  
 2月22日 岩木山噴火。
   ・   ・   ・  
 2月末から3月頭にかけて、木村謙次と武石民蔵は津軽から蝦夷地に渡った。
   ・   ・   ・   
 3月2日 宣諭使・石川将監と村上大学の一行は、30艘以上の大船団で津軽海峡を渡り、松前に到着した。
   ・   ・   ・   
 3月9日 尊号事件。松平定信は、幕府権力は朝廷権威よりも上位にあるとした。
 中山愛親(なるちか)と正親町公明は江戸を発って京都に戻った。
   ・   ・   ・   
 3月17日 松平定信は、日露交渉で慌ただしい状況下にも関わらず、徳川家斉の命令で海岸防備の為に伊豆や相模へ視察に出発した。
   ・   ・   ・   
 4月1日 幕府と松前藩の役人達は、予備交渉をする為に根室に到着した。
 幕府は、ラックスマン一行を陸路で松前に行かせ、そこで交渉する方針であったが、全行程を陸路で行く事をロシア側が拒否した。
 折衷案として、砂原まで船が同行し、そこから陸路で松前に行く事になった。
   ・   ・   ・   
 4月2日 漂流民の小市(46)が壊血病で死亡した。
 幕府は、異国で苦労してせっかく祖国の地を踏みながら死亡した事を憐れみ、故郷に残っていた妻のけんに銀十枚と遺品を下げ渡した。
 ラックスマンらと幕府・松前藩の役人による、日露予備交渉が始まった。
   ・   ・   ・   
 4月8日 松平定信は、江戸に戻ったが、この間にロシア問題から外れていた為に日露交渉に関与する事ができなくなっていた。。
   ・   ・   ・   
 6月8日 エカテリーナ号は濃霧で同行の貞祥丸とはぐれ、単独で、6月9日朝やっと箱館港内に入港した。
 町人達は、異国船を見物する為に大挙して浜辺に押し寄せた。
 漁師達は、船を出して異国船の近くまで漕ぎだした。
 松前藩の役人は、異国船に近付かないように町人や漁師達を追い返そうとしたが無駄であった。
   ・   ・   ・   
 6月12日 松前藩士村田兵左衛門らは、エカテリーナ号を訪れ、なぜ約束の砂原に投錨せず箱館に来たのかを尋ねた。
 日本側は、ラックスマンの事情説明を聞いたが、ロシアは約束を守らない事から不信感を抱き、言葉の裏側に隠し事をしているのではないかと勘繰り、ロシア側に不利な結果へと導いた。
 当時の日本人は、外交下手な現代の日本人とは違って外交達者であった。
   ・   ・   ・   
 6月17日 ラックスマン一行は、大名行列を組んで箱館を出発し、6月20日に陸路で松前に到着した。
 松前藩は、大名行列を組む人手が足りなかった為に、南部藩津軽藩に応援を頼んだ。
 街道筋や近在の庶民は、好奇心から、ロシア人の大名行列を見物するべく集まり沿道は祭りの様な賑わいになった。
   ・   ・   ・   
 6月21日 松前藩浜屋敷で第一回目会見が行われた。
 ラクスマンは、初めて来訪した目的が「漂流民送還を機に、対日通交・通商関係樹立」である事を述べた。
 石川将監は、祖法に従い、長崎以外では国書を受理できないため退去する事と光太夫と磯吉の2人を引き取ると事を伝えた。
 そして、幕府の「国法書」を読み上げた。
 その内容は「ロシア使節に対し漂流民送還の労をねぎらい、今回限り松前において漂流民受領の用意がある、なお望むところがあれば長崎に至るべし」というものであった。
 幕府は、漂流民送還のお礼として米100俵と日本刀三振を送った。
 林子平(56)が病死した。
   ・   ・   ・   
 6月24日 第二回会見。石川将監らは現場の判断として、長崎へ行って通交交渉するように長崎入港許可証である信牌(しんぱい)交付を約束した。
 ラックスマンは、エカテリーナ女帝書簡の受領を拒否された為に、会見場で読み上げた。
 光太夫と磯吉は、日本側に渡されました。
  ・   ・   ・   
 6月27日 三回目会見。宣諭使両名の署名がある「おろしや国の船壱艘長崎に至るためのしるしの事」と題する長崎への入港許可証(信牌)を交付された。
 ラックスマンは、長崎に入港する「信牌」を得て一応の面目を保った。
 相互に挨拶して日露交渉は終了した。
 ラックスマンは、交易の為に持参した品物を幕府と松前藩、交渉に当たった高官にプレゼントした。
 幕府と松前藩は、プレゼントに対して返礼をした。
   ・   ・   ・   
 6月28日 高山彦九郎(47)が自刀した。
   ・   ・   ・   
 6月30日 ラックスマンは、松前を去り箱館に戻り、エカテリーナ号に帰還した。
   ・   ・   ・   
 松平定信は、江戸湾などの海防強化を提案し、また朝鮮通信使の接待の縮小などにも努めた。
   ・   ・   ・   
 7月16日(ロシア暦8月23日) ラックスマンは、箱館を出港し、長崎へは向かわずオホーツクに帰港した。
   ・   ・   ・   
 7月23日 松平定信(37)は、辞職を命じられて、老中首座並びに将軍補佐の職を辞した。
 松平定信の時代は7年で終わり、江戸の町民達は松平定信が失脚した事を大喜びした。
 松平定信引退後の幕府は、三河吉田藩主・松平信明、越後長岡藩主・牧野忠精をはじめとする定信派の老中はそのまま留任し、その政策を引き継いだので、彼らは寛政の遺老と呼ばれた。
 松平定信寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持さた。
 これ以降の政治は、徳川家斉が直接行った。
   ・   ・   ・   
 8月27日 大黒屋光太夫と磯吉の二人は、幕府役人に付き添われて江戸に到着した。
 幕府は、光太夫らがヨーロッパの国からの最初の帰還民である事もあって詳しい取調べを行った。
 光太夫は、ロシアで見聞き欧州の状況とロシアが千島・樺太北方領土から蝦夷地へと南下しつつある事を訴えた。
   ・   ・   ・   
 9月 大黒屋光太夫は、鎖国の禁を破った重罪人であったが処刑は免れた。
 漂流民が江戸に入った事は世間に広がった。
   ・   ・   ・   
 9月18日 徳川家斉は、大黒屋光太夫と磯吉から話を聞く為に江戸城内の吹上上覧所へ召し出した。
 松平定信は、首座ではなく一老中として末席について、ロシア漂流中の子細にの訊問を聞いた。
 徳川家斉は、「かの国(ロシア)では日本のことを知っているか」と質問した。
 大黒屋光太夫は、「いろいろな事をよく知っています。……日本人としては、桂川甫周様、中川淳庵様という方の名前を聞きました。日本の事を書いた書物の中に載っているとの事です」と答えた。
 その時の様子は、上覧の場に同席した桂川甫周が『漂民御覧之記』に書き記している。
 田沼意次開明的施政が、ロシアで高く評価されたいた事が証明された瞬間であった。
   ・   ・   ・   
 寛政6(1794)年 ラックスマンは、帰国してエカテリーナ女帝に日本に関する様々な書物や名品を献上した事を賞賛され、大尉に昇進した。
 ロシア政府は、対日交渉において武力を用いても開国させる砲艦外交派と時間を掛けて開国させる穏健外交派で激しく議論したが、喫緊の課題はフランス問題であとして、新たな漂流者が流れつくまでは静観する事になった。
 エカテリーナ女帝は、平和的な日本との通交・通商関係樹立を希望し、知日派のキリル・ラックスマンに望みを託した。。
 キリル・ラックスマンは、エカテリーナ女帝の許可を得て、日本に渡る夢を抱いてシベリアに旅立った。
   ・   ・   ・   
 1月10日 江戸・桜田火事。
   ・   ・   ・   
 桂川甫周は、上覧後も時々大黒屋光太夫を訪ねて詳しく事情を聞き取り、10年間に及ぶ漂流体験談を地誌『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』にまとめ将軍に献上した。
 北槎聞略は、本文11巻・付録1巻・衣類器什図等2軸・地図10葉から成る。
 「世界には4大州あり(アジア州ヨーロッパ州アメリカ州アフリカ州)、そのうち『帝号』を称する国はわずかに7国にて、『皇朝(日本)』はそのひとつなり」
 世界は、日本海を帝国である日本が支配する海として「日本海」という名称を、当然のように使用していた。
 桂川甫周は、長崎出島で手に入る洋書を調べて、世界が日本を帝国と認識している事を確かめた。
 「日本は帝国で在る」という情報は、またたく間に日本全国の知識人に知れ渡った。
 西洋諸国は、日本との通商を開く為に使節団を派遣し、保護した漂流民を日本に送り返していた。
 外国から多くの漂流者が帰国する様になるや、ロシア情報は全国に伝えられ、武士はおろか庶民の間に知れ渡った。
   ・   ・   ・  
 6月 幕府は、光太夫、磯吉二人の取り扱いについて決定し、長年の苦難の末に帰国した事は賞すべきこととして褒賞金は与えた。
 特別の事情あって今回は故郷若松へは帰さず、江戸番町薬草園の住居に手当金を与えて留め置くとしたのである。
 光太夫らは、みだりに外国の様子を語ることに制約をうけながら薬草園で暮らす事になった。
 光太夫は、薬草園で生活を始め、妻を迎え一男一女をもうけた。
 息子の亀二郎は、後に大黒梅陰と称する儒学者となっている。
 光太夫らは、薬草園で軟禁同様の生活を送っていたが、行動についてはかなりの自由が認められた。
   ・   ・   ・   
 11月11日(1795年1月1日) 松平定信の辞任によって異学の禁は解かれ、蘭学の勢いが戻った。
 大槻玄沢蘭学者達は、「オランダ正月」芝蘭堂新元会を開始し、ロシア通の大黒屋光太夫も招いて盛大に行った。
 が、本場のヨーロッパを体験した光太夫にとって茶番にしか感じられなかった。
 その頃、オランダ共和国が滅亡し、代わってフランスの衛星国「バタヴィア共和国」が建国を宣言されていた。
   ・   ・   ・   
 1796年11月6日(グレゴリオ暦11月17日) エカチェリーナ2世(67歳)崩御
   ・   ・   ・   
 1797年 オランダ東インド会社は、アメリカ船と傭船契約を結び、滅亡したオランダの国旗を掲げさせて長崎での貿易を継続する事になった。
   ・   ・   ・   
 幕府は、オランダ情報と合わせて北辺情勢が緊迫している事を痛感し、対外政策の変更を余儀なくされた。
 オランダがフランスに軍事占領された場合、オランダ領千島の領有権や長崎オランダ商館の権利がフランスに移る可能性がある。
 フランスと敵対関係にあるイギリスが、乗り込んでくる可能性がある。
 ロシアの南下が進むと、ロシアの軍艦が江戸に乗り込んでくる可能性がある。
 日本の近海で、イギリス・フランス・ロシア3カ国が戦争を行う可能性がある。
 幕府は、蝦夷地・ロシアの専門家である最上徳内桂川甫周の『北槎聞略』や『魯西亜志』などの資料を見せて意見を求めた。
 最上徳内は、事実であると答えた。
   ・   ・   ・   
 水戸藩彰考館は、集めたロシア情報を分析して、ロシアの軍事力や科学技術力はオランドに比べて遙かに強大であり、軍船や大砲は日本の物よりも圧倒的に強力である事を知った。
 水戸学は、忠君愛国の儒教こそが正しい日本の在るべき姿と信じ、仏教伝来により日本は仏法に毒されたという徳川光圀以来の仏教嫌いの「仏法東漸」を掲げていた。
 ロシアの来航は、『荘子』の「大鵬図南」であるとの危機感を抱き、神国日本を夷敵(外敵)の侵略から守るには尊皇攘夷思想の確立と軍事力の強化及び科学技術力の育成が緊急課題とされた。
 その国家存亡の危機感は、心ある大名・武士から庶民(百姓・町人)の間に広まり、民族史上初めて愛国心が生まれた。
 国際社会が、世界平和の脅威として否定する日本民族主義の発芽である。
 それが、世界が嫌悪し破壊・抹殺・根絶しようとしているる日本のスーパーナショナリズムの正体である。
 後年、水戸学の愛国心尊皇攘夷思想は、初期の段階では島津斉彬開明派に影響を与え、後期では吉田松陰ら過激派に影響を与えた。
 明治期の廃仏毀釈は、水戸学の影響であった。
   ・   ・   ・   
 日本の民族主義は、国内に向けての統合思想ではなく、国外に向けての防衛思想であった。
   ・   ・   ・   
 1798年 老中の戸田氏教は、北方防衛の為に大規模な蝦夷調査を立案した。
 幕府は国防意識を強めて、田沼意次が行っていた樺太・千島列島の調査を極秘に再開し、最上徳内を現場に復帰させ蝦夷地に派遣した。
 さらに、近藤重蔵、松田伝十郎、間宮林蔵(幕府隠密)、伊能忠敬(酒造屋の隠居)らもシベリア・樺太北方領土南千島の探索に出発した。
   ・   ・   ・   
 最上徳内は、幕臣近藤重蔵の配下として、念願の7度目の蝦夷地上陸を果たした。
 近藤重蔵の命に従い、ロシアとの国境を画定する為に北方領土択捉島に領有宣言を意味する「大日本恵登呂府」の標柱を立てた。
 さらに、蝦夷地開発の為に道路掛に任じられ、日高山脈を切り開く新道を普請した。
 この時、見分隊総裁・松平忠明と意見が衝突し免職され、江戸へ戻った。
 最上徳内は、松平忠明の失策を意見書として提出し、松平忠明に対して辞表を提出した。
 松平忠明は、最上徳内は得がたい人材である為に、私情を挟まず辞表を受け取らず公職にとどめた。
 幕府は、才能があれば庶民(百姓や町人)に関係なく取り立て使った。
 身分や家柄に関係なく政治的配慮で取り立てていた為に、政変が起きて老中が代わるたびに地位や役職は不安定に浮き沈みしていた。
   ・   ・   ・   
 1799年 オランダ東インド会社も解散した。
 雇い主を失ったオランダ商館は、なおもオランダ国旗を掲げさせたアメリカ船と貿易を続けた。
   ・   ・   ・   
 北辺紛争。
 1804年 遣日使ロシア使節レザノフは、ロシア皇帝の命を受けて長崎に来航して、日本との通商を求めると共に10年間ロシアに滞在していた石巻の若宮丸漂流民を送還した。
 ロシア皇帝からの国書「日本帝国の専制君主であり、超越した皇帝、かつ支配者であられる天神公方陛下」
 大槻玄沢は、漂流民の異国経験を『環海異聞』にまとめ、日本が「帝爵 帝号の国」と見なされていると書き記した。
 ナジェジダ号艦長クルーゼンシュテルン提督は、日本は帝国といっても海軍力は弱く海からの攻撃を防ぐ力はないと見抜き、1810年前後にペテルブルクで『世界周航記』を出版した。
 レザノフも、日本の大砲や銃は火縄式の旧式で、西洋の軍艦に対抗できる軍船はないし、高性能な大砲や銃器がないと見切って、部下に日本領北方領土で海賊行為を命じた。
 日露戦争勃発の危機であったが、ロシア軍艦が立ち去って危機は去った。
   ・   ・   ・   
 幕府は、会津藩など東北諸藩に日本領である北方領土蝦夷地をロシアの侵略から守る為の派兵を命じた。
   ・   ・   ・   
 ロシア人の海賊行為で、愛国心尊皇攘夷思想がサムライ・武士はおろかの庶民(百姓・町人)の間に一挙に広まった。
 百姓や町人の間で剣術が盛んとなり、数多くの剣豪が生まれ、新たな流派の剣道場が江戸に誕生した。
 上級武士の師弟は、有名な百姓や町人の剣豪が開いた道場に入門して剣術を学び、免許皆伝を伝授された。
   ・   ・   ・   
 ロシアは、千島支配の為に先住民であった千島アイヌ達をカムチャツカ半島強制移住させた。
 後年。樺太アイヌ人もロシアやソ連によって大陸部へ強制移住させられた。
 千島アイヌ人も樺太アイヌ人も消え、残ったアイヌ人は蝦夷アイヌ人、つまり日本の少数民族アイヌ人である。
 アイヌ人を守ったのは日本人であった。
   ・   ・   ・   
 1805年 『三国通覧図説』は、その後桂川甫周によって長崎よりオランダ、ドイツへと渡り、ロシアでヨーロッパの各言語に翻訳された。
 イルクーツク日本語学校校長ニコライ・コスイギン・新蔵は、ドイツ人から林子平著『三国通覧図説』の翻訳を依頼され、ロシア語に翻訳した。
 新蔵は、大黒屋光太夫の仲間であった。
   ・   ・   ・   
 1806年 ラックスマンは『日本渡航日記』を完成させている事から、少なくともそれまでは生存していたものと思われる。 
   ・   ・   ・   
 1824年 大津浜事件。水戸藩領の大津浜沖に、イギリスの捕鯨船が停泊し、イギリス人船員が大津浜に上陸した。
   ・   ・   ・   
 1830年 彰考館は、江戸・水戸藩小石川藩邸から水戸に移された。
   ・   ・   ・   
 1837年 アメリカ商船モリソン号は、江戸湾に侵入した所を砲撃されて退去したが、日本の海防力は脆弱で港湾防備は弱点であると見抜いた。
 日本の大砲も鉄砲も1600年当時のままで、世界が恐れる帝国の軍事力ではない事が判明した。
 西洋諸国は、鎖国下の日本を開国させるには恫喝的砲艦外交が有効であると知った。
   ・   ・   ・   
 1840〜42年 阿片戦争
   ・   ・   ・   
 日本の国難に対する危機感は、阿片戦争以前に存在していた。
 「阿片戦争があったから日本は急いで開国し近代化に踏み出した」と嘘である。
 中国の歴史は、政治的に歪曲され改竄され捏造され真実や事実は少ない。
 中国人が阿片戦争で話す物語の大半は嘘であり、よって阿片戦争に関して日本は中国に感謝する必要はない。
 中国人が話す歴史は信用できない。
 それでも中国人の嘘を信用する者は、歴史の真実・事実が分からない無知な人間である。
   ・   ・   ・   
 日本は自主独立国として、中華帝国の属国として軍事も外交も剥奪されていた朝鮮とは違っていた。
   ・   ・   ・   
 1841年 水戸藩徳川斉昭は、藩校弘道館を開設した。
 水戸学に基づいた文武を奨励し、外敵に備えての軍事改革を行い、大砲鋳造や大型船建造を行った。
 藤田幽谷の子である藤田東湖は、激烈な攘夷論者として知られ、側用人となり藩主徳川斉昭を補佐して天保の改革を推進した。
 全国の尊皇攘夷派は、藤田東湖に会うべく水戸を訪れた。
   ・   ・   ・   
 薩摩藩島津斉彬も、外国の侵略から神国日本を守るべく、開国して軍備を整えるべきだと主張した。
 殖産興業をおこない、洋式の造船・造兵に力を入れた。
   ・   ・   ・   
 歴史を深く知る者は、日本の安全に重要な影響をもたらすのが朝鮮半島である事を理解していた。
 朝鮮半島は、日本の首に突き付けられた短剣のような存在であった。
 中華帝国(中国)に対しても、ロシアに対しても、朝鮮は鋭い切っ先を日本に向けている。
 元寇の教訓を学べば、朝鮮を支配した中華帝国(中国)かロシアが半島を侵攻基地として日本を侵略してきたら、日本は防ぎようがなかった。
 それ故に、戦略感のある吉田松陰ら過激派は反日派敵日派の朝鮮を占領して、ロシアの侵略に備えよと訴えた。
   ・   ・  ・   
 古代から現代にかけて、日本周囲には、反日敵日派諸国はいても親日知日派諸国は存在しなかった。
 敵に包囲された四面楚歌が、日本の宿命であった。
 国策として、国防目的軍国主義政策を採用する事は正しい選択であった。
 日本の国防目的軍国主義政策を厳しく非難するのは、中国、ロシア、韓国・朝鮮などの反日敵日の周辺諸国である。
   ・   ・   ・   
 現代日本人と当時の日本人とは、別人のように違う日本人である。
 現代の日本には、日本に嫌悪し中国・ロシア・韓国・北朝鮮に親近感を抱く反天皇反日的日本人が増え始めている。
   ・   ・   ・   
 1853年7月 ペリー提督は、黒船艦隊を率いて日本に来航した。
   ・   ・   ・   
 1872年 ドイツ人の東洋学者ユリウス・ハインリヒ・クラプロートは、『三国通覧図鑑』をフランス語に翻訳した。
   ・   ・   ・   
 2017年10月号 新潮45「水戸学の世界地図 片山杜秀
 27 水戸の密偵蝦夷地に渡る
 遭難した大黒屋光太夫の帰国船を仕立てたロシア。麗しき物語に国難の種が潜んでないか。
 攘夷前史
 幕末の尊皇攘夷運動。攘夷で攘(はら)おうとする夷とは、この場合はもちろん西洋諸国である。そこで誰しも真っ先に思い浮かべるのは、1853(嘉永6)年のペリー提督率いるアメリカ艦隊の浦賀来航だろう。それは確かに決定的な出来事であった。黒船の衝撃の重みははかりしれない。何しろ将軍の都である江戸のすぐ近くに、当時の日本の軍事力では実力で撃退することのほとんど不可能な西洋の軍隊が突如出現下のだから。
 だが何事にも前史がある。水戸学の人々にとっては、西洋はペリーの黒船よりもとうの昔に、ラディカルに目前に生々しい本物として表れていた。ペリーの黒船に29年も先んじる1824(文政7)年、水戸藩領の大津浜にイギリス人たちがこの国の鎖国政策をものともせずに上陸してきた。捕鯨船員たちが食料などを求め、漁村の村人と取引しようとしたのである。
 藩の領内で直接、西洋人の姿を見る。『鎖国の禁を破るな』と言っても素直に引き下がる者たちでもないらしい。日本の広い海岸線のいつどこからまた同じように上がってくるかわからない。鎖国を大事に思う側からすると、年がら年中、居ても立ってもいられないほどの不安を喚起し続けてやまない。文政7年以来、水戸はいつもそうであった。ペリーの来る29年前からそうであった。
 とはいえ、そのまた前史がある。文政年間の大津浜事件よりもっと遡って、水戸学の人々に対外的な危機意識を大いに高めるきっかけとなった事件があった。寛政年間に大黒屋光太夫が帰国した一件である。
 大黒屋光太夫の一件
 1792(寛政4)年だから、大津浜にイギリス人が上陸して大騒動をもたらす32年も前で、ペリー来航まではまだ約60年もある頃。大黒屋光太夫がロシアの使節に連れられて日本に戻ってきた。その年の9月、蝦夷地の根室にロシア船が現れ、日本の漂流民をロシアで預かっていたが帰国を望んだので連れてきたのだという。その漂流民が大黒屋光太夫らであった。
 ……
 情報に真っ先かつ強烈に反応したのは当時の水戸学の指導者、立原翠軒である。水戸の学者たちは対外情報には伝統的に敏感だ。
 水戸学は尊皇思想を育て、天皇の国、日本の大義に殉ずる覚悟で胸を一杯にし、たとえ劣勢であっても後醍醐天皇への忠誠を決して覆さなかった楠木正成のような人物に熱い思いを捧げてきた。それは決して彼らの美学のなせるものではない。いったん事あるときは将軍の楯となって揃って討ち死にするのが水戸家の役割。するとなぜ幕府の続く限り水戸家は楯にらねばいけないのか。もしも幕府の命運が尽きかけるように見えるときが来ても、幕府を見捨てず、運命を共にしなければいけない絶対究極不変の理由なんてあるのだろうか。その疑問を窮めようとするのが水戸学の根本動機であった。
 彼らはその先に、征夷大将軍を任命することのできる唯一絶対の権威者としての天皇の存在を発見した。末永く将軍たるべき徳川の上位にもっと確固たる永遠の天皇が居る。かくして将軍を守護する信念の根源は尊皇でるとの結論が導かれた。要するに水戸学は危機に備え大義の前に滅私する精神を涵養(かんよう)する思想であって、彼らの本当の関心は、日本の歴史の研究よりも、国難にどう対応するのか、そのための準備をどうするのか、いつ真の国難が来るのかを知りたいということに尽きる。大黒屋光太夫個人の祖国への思いに、人種民族を超えた人間の情として共感を覚え、慈悲をもって、わざわざ帰国船を仕立てあげたロシア。この麗しき物語の陰に国難が潜んでいないか。立原翠軒は、ついに水戸の出番の時が来つつあるかもしれないという強迫観念に、大黒屋光太夫の一件を聞いてただちに苛まれるようになったに違いない。
 そこで必要なのは情報収集である。北方の情勢を知らねば国難への対応のしようもない。といっても外交は幕府の専権事項であろう。幕府がロシアとの交渉役を派遣しようというとき、水戸藩が表立って人をそこに加えるわけにはゆかない。としたら、どうするかは決まっている。隠密である。密偵である。しかも彼らが水戸の正規の藩士であっては拙い。スパイ活動が幕府にもしも露見して咎められたとき、水戸藩全体が責任をとらされては国難の前に『藩難』が襲いかかる。昔のテレビ時代劇の台詞どおり『死して屍拾う者なし』で済む人間を選ばねばならない。 
 2人の密偵
 立原翠軒はそういうときのための人材を抱えていた。2人を選んだ。水戸藩領内の天下野村の医師、木村謙次と、同じく領内の勝倉村の庄屋、武石民蔵である。木村は儒学を翠軒に学んでいた。愛弟子のひとりである。翠軒の家に住み込みで暮らしていたときもある。れっきとした水戸学者のひとりと呼んでもいい。……」


   ・   ・   ・