🏞88)─1─日本の産業革命は、寛政期に地方で生まれた新たな金融システム・帝印金融(皇室資金)によって始まった。~No.367No.368 @ ㉜

ものづくり日本経営史―江戸時代から現代まで―

ものづくり日本経営史―江戸時代から現代まで―

  • 作者:粕谷 誠
  • 発売日: 2012/11/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 江戸経済の繁栄を支えた菊資金・皇室財産。
 江戸後期のGDPは、イギリスに次いで世界第2位であった。
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 金融の独立が、国の自主独立と国民の自由及び諸権利そして生存を保障する。
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 人間世界は、国も、社会も、生活も、全てが金で動いている。
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 日本の近代化は、寛政期に都の帝印金融が地方の庶民資本・地場産業と結びついて始まった。
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 日本の底力から、中央・都市・グローバルではなく、地方・田舎・ローカルにあった。
 人の凄技も、上流武士や富裕層の豪商・豪農ではなく、下級武士や貧しい町人・百姓であった。
 下級武士や貧しい町人・百姓と心と心で繋がっていたのは、天皇家・皇室であった。
 日本のあらゆる面での多種多様性は、天皇家・皇室によってもたらされていた。
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 天皇家・皇室を護ってきたのは、身分が低い職人や百姓らと虐げられていた賤民や部落民などの下層民達であった。
 反天皇派日本人とは、忌むべき差別主義者である。
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 日本の自主独立と国民の自由及び諸権利は、日本天皇の信用によって守られていた。
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 幕末・明治維新は、幕府の旧金融システムから新しい金融システムの諸藩の金融独立戦争であった。
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 ユダヤ系国際金融資本は、日本の内戦で儲ける為に日本に進出し、内戦を煽っていた。
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 明治維新とは、日本の金融・経済を天皇の帝印金融で再統一する事であった。
 帝印金融は、ユダヤ系国際金融資本の支配から日本を守ってきた。
 国際金融システムにとって、ローカルな帝印金融は滅ぼすべき「悪」であった。
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 キリスト教会、ユダヤ系国際金融、マルクス主義共産主義)は、長年にわたって天皇信用による帝印金融を崩壊しようとあらゆる謀略(陰謀)を巡らして実行した。
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 日本の力の源泉は、不変不倒の天皇信用である。
 天皇信用とは、女性神天照大神の血・心・志・気概を男系で正統に受け継ぐ、万世一系の家族制度であった。
 つまり、無私無欲に徹しきる天皇家・皇室という「家」であった。
 天皇信用は、空気・空気圧・同調圧力として、日本民族日本人が無限欲の個人として私利私欲に暴走して破壊と殺戮・強奪を繰り返さないように抑え込んでいた。
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 戦後教育の目的は、自由と平等の名の下で天皇信用を否定し、社会を支配していた日本的家を破壊して、強欲を楽しむ個人を全ての束縛から開放する事であった。
 その効果は、1980年代から表面化して、2000年代に入ると定着した。
 現代日本人は、昔の日本人とは表面的に似ているが、本質的には別の日本人である。
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 日本は、自然災害多発地帯であり、被害は複合して襲ってくる。
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 横井小楠「民が豊かになれば国も豊かになる。国が豊かになるためには民を豊かにしなければならない」
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 江戸時代が理想として目指していた経済とは、経済発展であった。
 江戸時代からの老舗名店が多い事は、江戸経済が経済発展型であった証拠であった。
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 小藩は、産業振興の為にベンチャー起業を行い、付加価値のある名産品・特産品を作り、一大消費地の江戸ではなく、大坂を通じて国内に売るか、長崎を通じてオランダに輸出していた。
 現代日本の政府や企業と小藩は違し、当時の日本人と現代の日本人とは違う。
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 2018年9月号 新潮45「歴史再考7 投機狂時代の到来 中野順哉
 鉄をベースにした『新しい金融システム』は、各藩の産業を活発化させた。
 その結果、市場として魅力のなくなった江戸からは、商人が離れていく。
 1789年に『寛政』がはじまる。この時代から幕末にかけて、日本経済は投機によるマネーゲームを志向していった。『寛政』と言えば、まず頭に浮かぶのは老中・松平定信による『寛政の改革』である。内容的には徳川吉宗の『享保の改革』を基礎においた倹約の奨励であった。しかし当時の日本経済に必要であったのは貨幣量の増加であった。
 一方、将軍吉宗の時代に米を増産しすぎたために米価は下がっていた。米価は貨幣価値の基準であったので、米価が下がれば貨幣価値は下がった。相対的に物価は上昇した。
 貨幣量が足りないのにデフレーションが起きず、物価が上昇するという異常事態を前に幕府にはなす術がなかった。その時多くの藩は幕府を見限った。そして『新しい金融システム』が稼働しはじめた。
 迷走する幕府
 江戸時代のはじまる1603年から寛政の前年1788年までの間に、特産品の専売ビジネス、あるいは『国産会所』という特産品を藩外に販売するブースを展開していた藩は、全国で26〜39。大半が10万石以上の大藩だった。これに対し寛政からの40年でその数は80に膨れあがり、幕末までに100を超えるようになる。内訳も小藩が過半数を占めている。
 このような寛政後の活発な『小藩の起業』と、寛政期に幕府が主導した倹約とはベクトルが真逆だ。つまりこの動きを下支えしたのは幕府ではない。もちろん小藩にも新ビジネスを独立で立ち上げる力はない。明らかに別の金融システムが存在していたことになる。
 前回触れたように『新しい金融システム』は大坂の大店・淀屋が倉吉で鉄の大店と提携し、鉄をベースにした『投機型銀行』がその『原点』だった。最初のモデルは鳥取県中部・倉吉の『千歯こき』。安永年間(1772〜1780年)のことだ。モデルケースを見せつけられた各藩は同じようにこの金融システムを利用し、自国の産業を育成したいと考えるようになった。結果が先ほどの数字だ。
 『金融システム』が動き始めると各藩も商人も幕府に支配されているという感覚が薄れ、江戸を単なる一つの『市場』として見るようになる。そして市場としての江戸があまり魅力的でないことを実感してゆくことになる。
 江戸は将軍のお膝元。幕府の認めない決済は許されない。主力は幕府の鋳造する金貨(小判)となる。しかし『新システム』は大坂主導で生まれたものであったので基軸は銀。あるいは米切手のような信用をベースにしたイメージマネーであったろう。融通の利かない江戸は『面倒な場所』として商人が離れていった。
 この傾向を早期に看破していた老中・田沼意次は安永元(1772)年の段階で銀決済を幕府が支配下に置こうと試み、南鐐二朱銀という銀貨を鋳造する。当時銀(丁銀)ははかりにかけて使用するものであったので、価格は『お上』が決めず、純度そのものが反映されていた。しかし意次は幕府が銀貨を発行し、金貨との相場を固定しようと考えたのであった。
 結果は失敗に終わった。二朱銀は丁銀よりも純度が低い。それを基準に金貨との相場を固定したため、金貨の価値が下落してしまったのだ。多くの西国商人は江戸に商品を持ち込むより、大坂で銀にかえる方が得だと考えるようになる。意次の後を担った松平定信はこれを解消しようと丁銀の復活と二朱銀の鋳造停止を試みたが、すでに浸透してものを消し去ることは出来なかった。
 大坂ー江戸の物流は激減する。『直行便』であった菱垣廻船の減少を見れば明らかだ。18世紀前半には160艘あったものが、この時代に入ると38艘に激減している。しかも老朽化がはげしいため海難事故を重ねた。1783年から1803年の間に菱垣廻船の事故で生じた損失は、35万8,086両だったと言われている。これがどのくらい数字か、大雑把であるが試算してみよう。一両=一石で、一石は米150キロ。例えば米を10キロ5,000円とすれば一石は7万5,000円。つまり20年の間に、270億円ほど海の底に沈めていたということになる。江戸に荷を運ぶことに魅力を感じなくなるのも当然である。
 江戸での流通が息絶えそうな状況下で松平定信が敢行したのは、こうともあろうに貯蓄であった。結果、幕府の保有金額は上昇し、寛政10(1798)年の段階で107万9,700両を確保することに成功した。しかし商人の『江戸離れ』は物資の不足を招いていた。城下の物価は高騰する。どれほど倹約しても江戸城の支出は大きくなり、1816年の段階で貯蓄は65万9,700両に減少してしまう。
 そこでようやく貨幣量を増やし、物価を下げることを試みることにした。しかしなかなか『どの程度・・・』という加減が定まらない。試行錯誤を重ね、たった14年の間に8回も改鋳を行ってしまった。幕府発行の貨幣の信用は地に落ちたと言えよう。
 その間に各藩では独自の決済方法が進化してゆく。藩独自の決済といえば藩札を思い浮かべるが、18世紀に入るや否や幕府は『札遣い禁令』を出している。各藩もあからさまな反発は避けたであろう。結果藩札の発行自体は17世紀には67藩であったのが、18世紀初頭には47藩、更に寛政期には44藩に減少している。
 これをもって、『幕府の通貨量が増加した効果』と判断する向きもあるが、信用を失った銭が増えたところで小藩」が次々と起業できるようになるとは考えにくい。
 むしろ次のように考えた方が自然だ。江戸離れ=藩札を含む幕府統制下から離脱し、通貨以外の決済方法が発展した。幕府発行の通貨も藩札も使用頻度が減った。新型決済を幕府は認めていないので『裏ルート』扱いになる。『物的証拠』としてはデリートされた──これが藩札発行藩の減少のカラクリであろう。
 シンクロする『帝』という信用
 しかし『新しい金融システム』は倉吉での成功実績はあるが、幕府が認めない単なる商人レベルの信用ではどこまでいっても『裏金』の域を出ない。金融サイドもこのままでは『広がり』を得ることが出来ない。何としても絶大な『信用』を手に入れる必要があった。
 そんな折、内親王(娘)しかいなかった後桃園天皇崩御し、養子を迎えることになった。候補は伏見宮貞敬親王、そして閑院宮師仁親王の2人。後桃園の姉で先代後桜町天皇上皇として生きており、近衛家とともに『伏見宮を』と意見した。しかし結果は閑院宮が養子となり、光格天皇として即位することになった。
 伏見宮より閑院宮の方が男系として後桃園天皇の血筋に近かったのであるから、当然の結果と言える。ではなぜ上皇摂関家の筆頭近衛家伏見宮を推したのか。理由は閑院宮の実母が『一般人』であったからだ。
 母の名は大江磐代といった。そしてこの女性は、なんと倉吉の鉄の大店・大鉄屋の娘なのだ。『新し金融システム』はこの地の鉄への投資から始まった。その鉄屋の大店の娘が入内して生まれた閑院宮師仁親王が帝になれば、金融システムは待望の『信用』を手に入れることが出来る。即位のためになりふり構わぬ裏金が飛んだはずだ。朝廷にとってもその財力は魅力的であったろう。最終的には上皇たちの意見をおしのけて安永8(1779)年、閑院宮が選ばれた。
 光格天皇は明和8(1771)年の生まれであるから即位時は8歳。しばらく新政は機能していない。しかしその後、大臣より身分の低い実父に『上皇』の尊号を贈ろうとし、松平定信と対立するという『尊号一件』を引き起こす『力強い』帝に成長する。この一件が起きたのが寛政のはじまる前年だ。その直後から『小藩の相次ぐ起業』=『金融システムの浸透』が起きる。金融システムの浸透と帝の成長はシンクロしていったとみてよい。
 そしてこのシンクロが生み出す可能性を、国政議論の場に持ち出した人物が表れた。水戸の学者・藤田幽谷だ。18世紀に入ると水戸は慢性的な財政難に陥っていた。そこで藩主は藩のブレーン組織・彰考館の学者に解決策を考えるよう命じた。並み居る秀才でも藤田幽谷の才は抜きんでていた。またその名は江戸城でも知られていた。『将来は幕府のブレーンとして召し抱えよう』という思いから、松平定信も『提案書はあるか』と幽谷に尋ねていた。そこで幽谷は『正名論』を記した。
 ところがそこで謳われていた内容は『帝を中心にした国づくりをしなければならない』という幕府の否定であった。松平定信は幽谷の受け入れ拒否し、水戸藩でも幕府の顔色をうかがってか、一時期は学界から追放しようとする。しかしその才能には代えがたく、文化4(1807)年に幽谷は彰考館の総裁になる。以後彰考館をベースに水戸では『帝第一主義』の思潮が主流となっていった。
 幽谷が『正名論』で、『帝第一主義』を財政難解消の具体的な策として提唱したのは寛政3(1791)年。光格天皇の『尊号一件』の3年後だ。幽谷は天皇の性格を見極め、金融とのシンクロから想定できる経済発展の可能性を敏感に感じ取り、『今こそ!』という思いで持論を展開したのであろう。
 そもそも藤田幽谷は武士ではない。父母ともに商家の出身であった。しかも生まれた時期がちょうど『千歯こき』のスタートの頃。商家であればこのシステムに興味を持っていた可能性は高い。その環境のもとで育った幽谷も、『熟知』していたのではないか。
 幽谷が『正名論』を書くことで、それまで『裏』の情報であったものが『公の話題』として打ち上げられた。幕府は受け入れなかったが、御三家の水戸藩は彼を彰考館の総裁にすることで、最終的にはその論を受け入れた。まだ起業すべきか迷っていた小藩群もこれに力を得て、次々と一歩を踏み出していった。
 投資先は戦争と復興
 さて『帝』という信用を手に入れた金融サイドは更なる発展を目指す。各藩の起業への投資よりも、もっと魅力的な投資先を求めた。それは戦争だった。これは日本の商人が独創的に行きついた答えというよりは、戦争で儲けるヨーロッパの金融の現状を知ってからだという方がリアルであろう。
 ここで詳述は避けるが、オランダのスファラド系ユダヤ人はイギリスのアシュケナズ系ユダヤ人と対立し、18世紀に完全に敗北した。その後、アシュケナズ系は未曾有の発展を遂げる。『勝因』は欧州各地での戦争への投資であった。その投資はマネーゲームを巨大化させ、日本の寛政期にはフランス革命を引き起こし、ナポレオンという怪物を生み出すまでに成長していた。この情報を『帝印の金融』は得ていた。そして、欧州での戦争投資に参加する道を選んだのであった。
 ところで、戦争の投資がどれほどの成果をアシュケナズ系ユダヤ人に与えたのだろうか。まずは人口が急激に増加している。1800年から1880年の間にヨーロッパではユダヤ人人口が200万から700万に増えているが、その大半がアシュケナズ系である。この傾向はその後も続き、第一次世界大戦の勃発する1914年まで、年平均2パーセントの伸びを保つ。
 また平均寿命も大幅に伸ばしている。1855年のフランクフルトの調査では、ユダヤ人の平均寿命は48歳9か月。非ユダヤ人が36歳11か月であることを考えると相当な格差だ。また東欧でもユダヤ人の年間死亡率が1,000人に14.2人。裕福なプロテスタント層ですら死亡率はユダヤ人より高く、多数派の正教会教徒は31.8人にのぼる。
 人口や寿命が劇的に変化するほどの繁栄。これはもはや『儲け話』のレベルではない。逆に乗り遅れると日本は飲み込まれてしまう。帝印の金融がそこに参入するのは必然であった。ではどこに投資をすべきか。オランダはすでにイギリスの傘下に組み込まれている。ナポレオンへの投資は、便乗したところで儲けの幅は小さい。それにアシュケナズ系の巨大化を手助けすることになる。搾られるのはナポレオンに敵対している国となる。
 浮上するのはロシアだ。日本からロシアへの投資があったとすれば、ナポレオン戦争最大の謎=ロシア遠征の疑問が解ける。ナポレオンに対し連敗を喫したロシアは、最大の貿易相手国イギリスとの通商を禁じる条約『大陸封鎖令』に調印させられていた。今日的に言えば経済制裁だ。しかしロシアは突如それを破る。そしてナポレオンは遠征を開始する。
 教科書ではこの時ロシアが持久戦を展開して冬の到来を待ったという。更にモスクワの市民は物資を全て焼き払い、占領したナポレオン軍を失望させた。以後ナポレオンは退却を余儀なくあれ、ロシアは攻撃に転じ撃退したとされている。
 これは全くおかしな話である。通常戦争は財力のある方が長期戦の選択できる。
 遠征当初、ナポレオン軍は潤沢な兵糧と兵糧とともに57万5,000の大軍で出陣している。対するロシアは18万弱しか準備できない状態であった。また度重なる敗戦で財政的に疲弊していたロシアは、自国通貨の価値も落としていた。持久戦で迎え撃つなど選択出来る立場にはない。更にモスクワで物資を灰にした場合、経済的な損失はロシアに直接ふりかかる。ナポレオン軍が仮に撤退し始めたとして、ロシアに追撃が可能であったと思えない。
 これらの矛盾を解決する答えは一つしかない。ロシアは『投資』を受けていた──である。そしてナポレオンサイドは金融家を含め開戦当時それを知らされなかった。『今度も勝つ!』と楽勝の投資をしていたところ、ふたを開ければ様子がおかしい。モスクワの自発的な『惨状』を目の当たりにした時、ロシアの背後に巨大な資金があることを確信した。リスクを感じた金融家たちは一斉に『ナポレオン投資』から手を引いた。急速に資金を失ったナポレオン軍は敗走するしかなかった。このシミュレーションの方が教科書よりも現実的だ。
 敗戦後もナポレオンから金融家たちは離れ、『ウィーン体制投資』に舵を切った。ここで戦勝国のロシアは興味深い提唱をする。『神聖同盟』だ。同盟の参加者はロシア皇帝プロイセン国王、オーストリア皇帝。さらにローマ教皇オスマン帝国皇帝そしてイギリスをのぞく全てのヨーロッパの君主であった。これを精神的な同盟だとする説があるが、本質は1人勝ちしてゆくユダヤ系金融に対する『もう一つの選択肢』として生まれた、新たな金融グループであったと思われる。そしてこれが『帝印金融』の大きな投資先ともなっていった。
 一方、イギリスでは金融家の富が国内の産業を育ててゆく──いわゆる『産業革命』が起こる。それも完成期に入ると、今度は販路を広げるためにラテンアメリカン諸国、カリブ海沿岸諸国、ギリシャ独立戦争を支持するようになる。これは同時に神聖同盟派の根幹、『皇帝信用』の価値を下げることを意味した。露骨にユダヤ金融と皇帝信用型金融は角突き合わせてゆくことになる。しかしユダヤ金融の盟主ネイサン・ロスチャイルドが、独立を助けたラテンアメリカン諸国よりも、神聖同盟との取引に力を入れていたことは興味深い。それほど皇帝信用型金融は巨大な存在であったのだ。
 日本は皇帝信用型金融の強力なプレーヤーとして活躍した。その利益は各藩への更なる投資となって日本版産業革命へとつながってゆく──日本の主に幕府から、帝印の金融組織に変わろうとしていた。そこで幕府はついに吠えた。文政10(1827)年、関東地方の各藩に対し『御取締筋御改革』という法令を打ち出したのだ。そこには二つの強行策が含まれていた。一つは農民の副業と地方商業の抑制。明らかに『起業』の原動力を取り上げることが目的の命令である。そしてもう一つは『寄場組合村』の結成。これは村民の支配権を領主から取り上げるという『強奪』宣言だ。
 水戸藩は当然反発する。同時に『帝印金融』で再起していた藩もそれに倣う。反幕府の機運が一気に上昇していったのだ。一方で金融家たちもマネーゲームにシフトしていた。これが日本国内での経済格差を大きくしていた。不満のガスはその構造が見えないまま、『反幕府』の空気に便乗し過激な行動へと民衆を駆り立てていった。その結果、1830年代になると民衆闘争が急増する。規模も長州天保一揆加古川一揆甲州郡内騒動に代表されるように、数千・数万の参加者となり大きい。
 大規模な内乱が頻発しているという情報はヨーロッパの金融家たちにも伝わっていくことになる。
 ユダヤ系金融の日本上陸
 日本の金融の成長とともに各藩が起業してゆく。当然成功もあれば失敗もある。中でも大失敗をして破産寸前にまで追い込まれた大きな藩が二つあった。長州藩薩摩藩である。
 長州藩の借金は天保3(1832)年の段階で8万貫、天保11(1840)年には8万5,000貫を超える。1貫が100両なので、850万両だ。これは当時の長州藩の歳入額の22倍にあたっていた。薩摩藩は500万両。藩の全収入を充てても返済は不能、両藩とも倒産である。
 これをどのように乗り切ったのか。まずは強奪に近い、農民からの搾取である。そして借金の踏み倒しを強行する。ただ疑問に感じるのは、両藩ともその後『新たな事業』を立ち上げている点である。例えば薩摩の場合、タバコ、シイタケ、牛馬皮、鰹節、捕鯨、硫黄、ミョウバン、石炭、塩、木綿織物、絹織物、薩摩焼、等々多種多様な産業を育成している。しかも、それらの各分野に有能な人材まで登用している。また長州では村田清風が『越荷方』という商社を立ち上げ、下関にて金融業・倉庫業をおこなっている。
 寛政から幕末がいかに投資の時代であったとしても、傾向は『貸し手市場』。大幅に失敗し借金を踏み倒した相手に、貸す金融家が国内にいるとは思えない。事実文政2(1819)年に薩摩藩は、大坂の金貸しから一切の貸し出しを拒まれている。ところが1830年代に、両藩ともこのような改革に着手できるようになっている。
 1830年代──イギリスは産業革命を完成させ、先述の独立運動への支持をはじめている。独立支持と言えば聞こえは良いが、内乱を奨励してその国に深く入り込み、莫大な利益を手に入れることが目的であることは明白だ。
 先述の通り、この時期に日本でも大規模な内乱が起き始める。イギリスに金融家はその情報を持っていた。とすれば倒産した長州・薩摩藩に投資をし『独立戦争』にむかわせた可能性が『日本に限ってはない』と言い切って本当に良いのだろうか。大政奉還をした後に、なぜ倒幕戦をする必要があったのか。また明治以降、幾度も対外戦争を重ねなければいけなかった理由はどこにあつたのか。明治維新の本質を、現代人は今一度見直す必要があるように思う。」
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 新しい金融システムによる投資と小藩のベンチャー起業によって、日本の近代化が始まった。
 その原動力となった、天皇の権威、帝の信用であった。
 つまり、日本の近代化とは天皇制度の近代化と一体であり、天皇制度が近代化される事で日本の近代化が完成した。
 天皇制度とは、中華的な貪欲と暴力の政治的権力ではなく、西洋的な絵空事と屁理屈の宗教的権威ではなく、日本的な現実の生活と文化の経済的信用であった。
 天皇家・皇室の経済状況・実生活は、武士や庶民(百姓・町人)以上に困窮していた。
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 江戸時代は、時々の将軍や老中などの幕閣で複雑に変化してきた為、単純明解に「こういう時代であった」と言う事は不可能である。
 日本は、朝鮮や中国と違って、全ての分野で地球規模の変化を続けていた。
 江戸時代は、約260年1日として変わらなかったのではなく、現代日本人が理解できなほどに目まぐるしい変化を繰り返していた。
 中華世界の中国と朝鮮は、日本とは正反対に、大陸国(半島国)として臆病なまでに内向きで殻に閉じこもっていた。
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 江戸経済は、地球の裏側であるヨーロッパの政治・外交・軍事・経済と間接的に繋がっていた。
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 日本の歴史において、西洋のキリスト教史観も中華の儒教史観も、ましてやマルクス主義史観(共産主義史観)は通用しない。
 特に、マルクス主義史観(共産主義史観)如きは「百害あって一利なし」である。
 つまり、現代おこなわれている日本史教育は、全てが無意味とは言わないが、大半の部分で無意味で、子供達の間で民族の歴史嫌い、天皇への無関心若しくは嫌悪を増産している。
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 キリスト教史観・儒教史観・マルクス主義史観が日本で通用しなかったのは、自然災害の多発地帯という厳しい地理的条件があったからである。
 自然災害多発地帯日本を忘れた時、キリスト教史観・儒教史観・マルクス主義史観が日本を悪化させ、日本人を堕落させる。
 政治家や官僚そしてメディアの、阪神淡路大震災東日本大震災など数多くの大災害にどう行動したかを見ればそれは一目瞭然である。
 日本の自然災害が恐ろしいのは、それが複合して起きやすい事である。
 リベラル派・革新派・エセ保守派そして一部の保守派などの高学歴出身知的エリートの能力的限界が明らかである。
 彼らは、必ず起きる大災害を、口にしなければ・言葉にしなければ・文字にいなければ・思わなければ絶対に起きる事はないという「ニセ言霊信仰」を信じていた。
 つまり、キリスト教史観・儒教史観・マルクス主義史観(共産主義史観)とは、災害の少ない世界で通用する普遍的史観に過ぎない。
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 時代劇を好み歴史物語を嫌う現代日本人は、正しい歴史思考・歴史感覚・歴史認識が欠如している為に本当の歴史が理解できない。
 つまり、馬の耳に念仏、犬に論語、牛に経文である。
 だが、その傾向は大正期から始まり、戦後には日本を覆い日本史を暗黒史化した。
 少子高齢化による人口激減を食い止める為の外国人移民1,000万人計画(特に中国人移民の増加)で、日本民族日本人的な要素は全て消え失せる。
 現代の日本人、特に日本国民日本人は、生活と経済の為に日本民族日本人の消滅を「是」として受け入れようとしている。
 その証拠が、少子高齢化による人口激減を食い止める如何なる策も講じていない事である。
 天皇制度の廃絶及び天皇家・皇室の廃止を目指す反天皇反日的日本人の動きは存在する。


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