🏞93)─2─武士になった庶民。長久保赤水。山田方谷。二宮尊徳。伊能忠敬。高島秋帆。苗字帯刀。~No.388No.389No.340 @ 

清學の士 長久保赤水 増補版

清學の士 長久保赤水 増補版

  • 作者:横山 洸淙
  • 発売日: 2016/02/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本に外国人の移民や難民が移住していない為に、日本社会には階級が存在せず、階級による差別も搾取もなかった。
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 人格・学才・知識・才能で武士になった庶民(百姓・町人)。
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 マルクス主義共産主義階級闘争史観は、日本には通用しない。
 よって、共産主義大義は日本では通用しない。
 それは、キリスト教も同様であった。
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 階級が生まれる差別社会とは、異人種異民族が、移民や難民として移り住んだ土地か侵略して支配者・統治者となった土地である。
 民族・言語・文化・習慣などで単一性の強い日本では無縁であった。
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 百姓や町人が武士・サムライに出世できた江戸時代の日本人は、キリスト教天地創造にして唯一絶対神の恵み・恩寵・救い・奇跡を必要とはしなかった。
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 外国人の移民や難民が存在しなかった日本では、キリスト教マルクス主義共産主義は無用であった。
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 徳川幕府は、外国の脅威に備えて考えられる限り打てる手をうっていた。
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 義民
 なお、水戸藩などでは、尊王攘夷の志に目覚め、水戸藩の志士たちと国事に奔走した義民がいわゆる義民郷士として取り立てられたり、明治維新後、賞典禄を受けた者も多い。
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 長久保 赤水(ながくぼ せきすい、本名:玄珠、俗名:源五兵衛、享保2年11月6日(1717年12月8日) - 享和元年7月23日(1801年8月31日))は、江戸時代中期の地理学者、漢学者である。常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)出身。号の赤水と字の玄珠は荘子の天地篇にある『黄帝、赤水の北に遊び、崑崙の丘に登って、面して南方して還帰し、其玄珠を遺せり。』から取られている。
 略歴
 農民出身であるが、遠祖は大友親頼の三男・長久保親政。現在の静岡県駿東郡長泉町を領して長久保城主となり、長久保氏を称したとされる。
 学問を好み地理学に傾注する。17歳(1733年(安永3年))の頃から近郷の医師で漢学者の鈴木玄淳の塾に通い、壮年期に至るまで漢字や漢詩などを学んだ。25歳(1741年(寛保元年))の頃、玄淳らとともに水戸藩儒学者で彰考館総裁を務めた名越南渓に師事し、朱子学漢詩文・天文地理などの研鑽を積んだ。また、地図製作に必要な天文学については、名越南渓の斡旋により渋川春海の門下で水戸藩の天文家であった小池友賢に指導を受けた。
 安永3年(1774年)、『日本輿地路程全図』(にほんよちろていぜんず)を作成。この修正に努め、安永8年(1779年)、『改正日本輿地路程全図』を大坂で出版し、その普及に努めた。 この間水戸藩徳川治保の侍講となり、藩政改革のための建白書の上書などを行った。天明5年(1785年)には世界地図『地球万国山海輿地全図説』や清国地図『大清広輿図』も出版している。いずれも実測図ではないが関連文献が深く検討され、明治初年まで版を重ね普及している。天明6年(1786年)、徳川光圀が編纂を始めた『大日本史』の地理志の執筆も行う。師である鈴木玄淳らとともに、中国の竹林の七賢になぞらえ、松岡七賢と称される。
 安南(現在のベトナム)に漂着した漁民の話をまとめた『安南漂流記』、その漁民を引き取りに長崎へ随行した折の紀行文『長崎行役日記』などの著書がある。2012年11月3日、高萩駅前に赤水の銅像が建立された。
 年表
 1717年、常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)の農家に生まれる。幼い時に母ついで父を亡くし、おもに継母に愛育される。
 1732年、鈴木玄淳の私塾に入り漢詩などを学ぶ。
 1735年、水戸藩儒学者、名越南渓に師事。
 1749年、23歳で結婚する。
 1753年、松岡七賢として水戸藩から賜金を給せられる。
 1760年、44歳、東北地方(奥州南部と越後)を20日間にわたり旅し、旅行記『東奥紀行』(1792年刊)を著す。
 1767年、立原翠軒らの尽力により、漂流民の引き取りのため庄屋の代理として水戸藩の役人に随行して長崎を訪れる。『長崎行役日記』(『長崎紀行』)、『安南漂流記』を著す。
 1768年、水戸藩郷士格(武士待遇)に列せられる。
 1773年、農政に関する意見書『芻蕘談(すうじょうだん)』を著す。農村で横行していた間引きを憂い、立派な人物になる可能性もあるから富者の家の前に捨て子をしたほうがましだと啓蒙し、間引きの悪習を減らした。
 1774年、地図の完成に向けて識者の意見を得るため京・大阪を訪ねる。この際、柴野栗山、高山彦九郎、中井竹山、大典顕常、皆川淇園らと交流を持つ。ほぼ日本沿岸の地形に合った『日本輿地路程全図』を作成。
 1777年、水戸藩徳川治保の侍講となり、江戸小石川の水戸藩邸に住む。
 1778年、建白書『農民疾苦』を上書する。
 1779年、『改正日本輿地路程全図』を刊行。
 1785年、『改正地球万国全図』、『大清広輿図』を刊行。
 1786年、藩命により『大日本史』の地理志の編集に従事する。
 1791年、75歳、江戸の水戸藩邸に留まり『大日本史』の地理志の編纂に専念する。
 1797年、81歳で帰郷。
 1801年、85歳、赤浜村で死去。

 日本輿地路程全図
 『日本輿地路程全図』(1775年)神戸大学附属図書館所蔵(住田文庫)
 松島(現在の竹島)が描かれている。
 『改正日本輿地路程全図』(1791年)東北大学狩野文庫所蔵)
 松島(現在の竹島)、竹島鬱陵島)、蝦夷地(渡島半島)、八丈島などは彩色されていない。
 『改正日本輿地路程全図』(1846年)大英博物館所蔵
 長久保赤水は安永3年(1774年)に日本地図『日本輿地路程全図』(にほんよちろていぜんず)を作成する。これを修正し、安永8年(1779年)には『改正日本輿地路程全図』の初版を大坂で出版した。日本人が出版した日本地図としては初めて経緯線が入った地図で、作成者名から通称『赤水図』と呼ばれる。これ以前に、江戸時代中期頃の地図考証家・森幸安によって描かれた『日本分野図(日本地図)』にも経緯線が入っており、この地図にならって経緯度線を入れて出版したとされる。
 『幸安図』にも『赤水図』にも、当時未開拓であった北海道は描かれていない。また、緯線には緯度が記載されているが、経線には経度は記載されておらず、京都御所を基点に経線が引かれていると考えられる。『幸安図』や後に作成される伊能忠敬の地図なども、京都を基準に経線が引かれている点で共通点が見られる。10里を1寸としているので、縮尺は約130万分の1となる。6色刷の色刷りで、蝦夷(現在の北海道)や小笠原諸島・沖縄を除く日本全土が示されている。
 赤水図は、伊能忠敬の地図より42年前に出版され、明治初期までの約100年間に8版を数えた。伊能の地図はきわめて正確であったが、江戸幕府により厳重に管理されたこともあって、この赤水図が明治初年まで一般に広く使われた。沿岸部のほとんど全てを測量した伊能の地図には劣るが、20年以上に渡る考証の末、完成した地図は、出版当時としては驚異的な正確さであった。
 赤水図は広く普及したためドイツ国立民族博物館のシーボルト・コレクションや、イギリス議会図書館など海外の博物館等にも多く収蔵されており、当時の欧米において日本を知る資料として活用されていたことが伺われる。
 現在、日本と韓国の間で領有紛争となっている竹島が当時の名称「松島」で記されており、日本の領有を裏付ける資料としてしばしば引用されている。
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 長久保赤水
 赤水は、享保二年(一七一七)に水戸領赤浜村(高萩市赤浜)の農家に生れ、享和元年(一八〇一)まで地理学の先駆者として活躍しました。子どもの頃は体が弱く、不運にも弟・母・父にも先立たれてしまいます。その逆境に耐え、赤水が学問に専念できたのは継母の支えによるものです。さらに、地元の鈴木玄淳や柴田平蔵、水戸の名越南渓など良き師友にも恵まれました。
 四十歳半ばには、時代を先取りした研究への批判に遭い、学者の道を絶たれそうになったこともあります。しかし、並外れた努力が報われ、水戸藩第六代藩主徳川治保の侍講(おそばに仕える先生)に抜擢され、江戸小石川の水戸藩邸に住まい、儒学・地理学・天文学などを教授しました。
 そして、当時としては地の果てといってもいい東北や長崎の旅の経験を基に、渋川春海・森幸安らの日本地図を参考にし、奥州道を行きかう旅人や高山彦九郎木村蒹葭堂、古川古松軒などから得た情報を整合させ、緯線経線を付した新しい日本地図を完成させました。測量することなく情報のみで作成されたこの日本地図は大阪から発刊され、後世、赤水図と呼ばれ、旅人や幕末の志士たちの大いなる道しるべとなったのです。
 侍講として江戸に赴いた翌年六十二歳の時、農民生活の窮状を水戸藩主に命をかけて上奏し、農政や藩政の改善に尽くしました。退官後、八十歳まで藩主の特命を受け、大日本史地理志編纂に専念した後、生まれ故郷の赤浜に隠居しました。
 赤水没後、かのシーボルトも赤水図を海外に持ち出し、今でも欧米の博物館や大学に大切に収められています。
 赤水図の約半世紀後に作成された伊能忠敬の日本地図は幕府が非公開としたため、赤水図が江戸時代から明治時代初期まで広く世に用いられました。幕末の吉田松陰も赤水図を頼りに旅をし、赤水のお墓をお参りしています。
 ここに、多くのご賛同をいただき、赤水先生の逆境を乗り越えた勇気と努力に学び、東日本大震災を乗り越える復興のシンボルとして、銅像を建立いたします。
 平成二十四年(西暦二〇一二年)十一月 文化の日 長久保赤水先生銅像建立実行委員会
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 国土交通省 国土地理院
 長久保赤水(ながくぼせきすい)1717-1801
 先人たちのこどものころ:長久保赤水(ながくぼせきすい)
 ― 日本で最初の経緯線入りの地図を作成した ―
 長久保赤水(ながくぼせきすい)について
 小さいころの赤水(せきすい)は、近くの街道(かいどう)ふきんでよく遊んでいましたが、その合間には、願成寺というお寺の下の海岸で、砂の上に木で文字を書いて練習するほどの勉強ぶりであったといいます。
 また、弟は3歳で、母は赤水が9歳のとき、父は11歳のときになくなるなど、不幸なことがつづきましたが、くじけませんでした。その後は、まま母にそだてられましたが、朝早くから農業を手伝い、雨の日にはとなり村の漢学者(かんがくしゃ)について勉強したそうです。この母はいつも、「人は、ほんとうの仕事のほかに、楽しんで学ぶものがなければならない」と赤水にいって、好きな勉強をさせたそうです。
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 伊能 忠敬、延享2年1月11日(1745年2月11日) - 文化15年4月13日(1818年5月17日))は、江戸時代の商人・測量家である。通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。
 寛政12年(1800年)から文化13年(1616年)まで、足かけ17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。

 伊能忠敬は、地球の大きさを計る為に、幕府の許可をえて蝦夷地地図を完成させた。
 
 伊能忠敬の測量を、全国の諸藩だけではなく各地の庶民が協力した。

 伊能図は、世界レベルにあった。

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 二宮尊徳「道徳なき経済は罪悪、経済なき道徳は寝言」
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 二宮尊徳(1787〜1856)は、江戸時代後期の経世家、農政家、思想家である。通称は金治郎(きんじろう)であるが、一般には「金次郎」と表記されてしまうことが多い。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むが、有職読みで「そんとく」と読まれることが多い。
 経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した。
 相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に、百姓二宮利右衛門[注釈 1]の長男として生まれる。母は曽我別所村・川久保太兵衛の娘・好(よし)。尊徳の弟には二宮三郎左衛門の養子・友吉(常五郎)と富治郎がいる。
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 D・C・インボーデン少佐(GHQ新聞課長)「尊徳二宮金次郎こそは、近世日本の生んだ最大の民主主義的な──私の観るところでは、世界の民主主義の英雄、偉人とも比べ、いささかもひけをとらない──大人物である。祖先のうちにこのような偉大な先覚者をもっていることに、あなたがた日本人の誇りであると共に、日本の民主主義的再建が可能であることを明確に証明するものであろう」 

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 山田方谷(1805年〜1877年・明治10年)。備中松山藩西方村の菜種油の製造・販売を家業とする農商の五朗吉の子。5歳に新見藩の儒学者・丸川松隠に学び、20歳で士分に取り立てられ、江戸に遊学して斉藤一斎の塾に入門し、帰藩して藩校・有終館頭に任命だれた。
 財政赤字に苦しむ藩政の立て直しを命じられ、改革を実行して立て直しに成功した。

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 高島 秋帆(たかしま しゅうはん) 京都大学附属図書館 維新資料画像データベース
 寛政10年8月15日(1798)−慶応2年正月14日(1866、2、28)
 (>>see also)
 長崎に生まれる。長崎町年寄、講武所砲術師範役。高島流砲術創始者。洋式兵学者。
 諱:茂敦。字:子厚(しこう)、舜臣。通称:糾之丞、四郎太夫、のち喜平。雅号:秋帆。
 長崎町年寄を勤める傍ら出島砲台を受け持った高島四郎兵衛茂紀(しげのり)の3男。
 長崎の町年寄兼鉄砲方の家に生まれた。
 文化11(1814)年父の跡を継ぎ、のち会所調役頭取となった。
 父から荻野流、天山流砲術を学んだが、長足の進歩を遂げつつある洋式砲術とは隔絶した差のあることを知り、通詞(通訳)にオランダ語兵書の翻訳を依頼したり、出島砲台の責任者であったことから、オランダ人に疑問を直接問いただすなどしてヨーロッパの軍事技術に関する知識を修得した。また町年寄の特権である脇荷(わきに)貿易によって私財を投じて各種の火器やオランダ兵学書を買い求め、天保5(1834)年頃にはこれらの成果を基に高島流砲術、洋式銃陣を教授するようになった(門弟300人とも)。
 アヘン戦争(1839)に関する情報に大きな衝撃を受け、天保11(1840)年西欧列強のアジア侵略から日本を防衛するために洋式砲術を採用すべきだとする意見書を江戸幕府に提出した。これが幕府に認められ、翌12(1841)年、幕命により門弟100余人を率い、大砲四門・小銃50挺とその付属品とを携えて江戸に出て、5月9日武蔵徳丸ケ原(とくまるがはら)(東京都板橋区)で日本最初の洋式砲術演習を行った。これにより幕府の高島流砲術採用が決まり、幕臣江川太郎左衛門(坦庵)・下曾根金三郎に伝授し長崎に帰った。
 ところが、かねてから蘭学を蛇蝎のごとく嫌っていた幕府町奉行鳥居耀蔵(ようぞう)によって天保13(1842)年謀反の罪を着せられ、江戸に檻送投獄され、のち中追放に処せられた。
 その後ペリー来航など情勢が変化したこともあって、嘉永6(1853)年幽囚10年の後赦されて江川太郎左衛門の手付となり通称を喜平と改めた。
 安政2(1855)年には普請役に任ぜられ、鉄砲方手付教授方頭取を命じられた。
 安政4(1857)年富士見御宝蔵番兼講武所砲術師範役を勤め、武具奉行格として後進の指導と武備の充実に貢献した。現職にあって年69で没す。
 「火技中興洋兵開基」と称えられ、日本の軍事近代化に大きな足跡を残した。
 [贈]:正四位
 [法名]:皎月院殿碧水秋帆居士
 [墓]:東京都文京区[大円寺]
 [参]:細川潤次郎編「秋帆高島先生年譜」
    山根寿信編「高島秋帆先生追遠法会記事」
    有馬成甫「高島秋帆」(人物叢書)
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旧題名・「ユダヤ民族と日本民族は同族か? 天皇の祖先はユダヤ人か?」
 ユダヤ人を完全排除した、閉鎖空間・江戸。
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 苗字帯刀(みょうじたいとう)は、江戸時代の身分証明といえる表象。
 概要
 家名の中でも特に領知の名前に由来し、一種の領主階級であることを示す苗字を公称(私称とは異なる。また源氏などの姓・本姓の名乗りを含む)する事、また武門の証である武具等を腰に帯び、百姓と町人を殺害する権利を持つことを指す。これによって自身が領主階級であり、また一族であることを示した。
 豊臣秀吉政権の際の刀狩以後も百姓・町人など非武家階層の者達もまだ一定の武器を保有しており、完全に武装解除された訳ではなかった。その点においては江戸時代も同じであり、装束として脇差等を腰に帯びるなど護身武器の携帯もある程度は認められていた。長刀に関しては制限があり、武士等の身分証明のような権利とされた。苗字については百姓・町人階級にも祖先や家名が存在するが、これを公の場で用いる事を禁止する事で差別化を図った。具体的には宗門人別帳などの公文書への記載が許されず、墓碑銘や過去帳など私的な場合においてのみしか使用が認められなかった。
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 苗字帯刀の権利については武家の棟梁たる将軍家(幕府)、その直臣として自治領を持つ旗本(旗本領)、独自に家臣団を抱える各大名家(藩)など、小身の領主を抱える君主階級に決定権があった。藩に苗字を巡る訴訟を起こして藩が裁決を下したという出来事も起きている。佐原の名主であった伊能忠敬は領内においては代々「伊能」姓を許されていたが、領外でこれを名乗ることが出来ず、57歳の時に蝦夷地測量の功績によって江戸幕府から改めて苗字帯刀の許可を得て佐原以外でも「伊能」姓を名乗ることが許されている。また苗字と帯刀の特権は必ずしも一体ではなく、苗字は認められても帯刀は認められない 例や苗字は子孫への伝承を許すが、帯刀は授与された当人一代に限った例もある。
 また大名・旗本などは、しばしば家柄や功労により領内の有力百姓や町人などにこれを許して武士に近い者として扱ったが、武士身分とまで認められたかどうかとは曖昧な点がある。実際、村役人層や豪商などは町人・百姓身分ながらも苗字帯刀を許される場合があり、逆に郷士などのように在郷武士として苗字帯刀を許されながら農村に住むものとの区別が困難な部分がある。
 明治維新後の1870 年(明治3年)に平民苗字許可令が出され平民の苗字の名乗りが公的に許されるようになった。また1876年(明治9年)の廃刀令によって刀を帯びるのは許されなくなり、証明の権利としての苗字帯刀は役割を終えた。
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 庶民の間で武芸への関心が強まり、特に百姓が剣術の猛稽古を行い各流派で免許皆伝の腕前にまでに上達した。
 そうした百姓剣豪が、新たな流派を起こして剣術道場を開き、大名はもちろん武士や町人などの多くの門弟を取って教えた。
・柳剛流‥‥岡田惣右衛門…武蔵国葛飾郡惣新田村の百姓。
・北進一刀流玄武館‥‥千葉周作仙台藩領の馬医。
神道無念流‥‥福井兵右衛門…下野国都賀郡藤葉村の百姓。
・甲源一刀流‥‥逸見太四郎…武蔵国秩父郡子鹿野村の名主。
神道無念流練兵館‥‥斉藤弥九郎…越中国射水郡生寺村の百姓。
 全国に1,000を超える剣術流派があり、先祖代々武士が継承する流派があったが、それ以上に百姓や町人が始めた奇抜な流派が存在していた。
 幕末動乱で活躍した勤皇の志士は、半数以上が百姓や町人による剣客で、世に郷士と呼ばれていた。

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