✿340)─4─アイヌ人に対する差別と迫害は儒教(朱子学)が原因であった。松浦武四郎『近世蝦夷人物誌』。〜No.708/@       

アイヌ人物誌 (平凡社ライブラリー (423))

アイヌ人物誌 (平凡社ライブラリー (423))

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・  
 中華思想とは、儒教朱子学である。
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 徳川幕府の官学・朱子学に洗脳された日本人達。
 朱子学を修身教養として身に付けた日本人は、アイヌ民族琉球人を野蛮人と決め付け残虐行為に及んだ罪深い加害者であった。
 日本人は、儒教の本質を知らないというより理解できない。
 儒学の原書、古典・漢籍を幾ら読み込んでも、文字・文章の表層のみを解釈するのみでその真髄まで達することができない。
 深層まで理解し、真髄まで達する事ができるのは、儒教の教えに忠実に生きてきた中国人と朝鮮人のみである。
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 何故、現代の日本史が庶民出身の松浦武四郎を歴史から抹消したのか、それは国学者本居宣長を尊崇し、皇室を敬愛する勤皇の志士であり、国防意識を持った尊皇攘夷であったからである。
 松浦武四郎を駆り立てた想いは、生まれ育つた伊勢街道筋の商人町・松坂の関係から、儒学朱子学)ではなく、国学と日本神道・日本仏教・日本儒教であった。
 『近世蝦夷人物誌』は、中華儒教朱子学とは相容れない異端の書である。
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 日本人。特に庶民(町人や百姓)は、神社仏閣への参拝以外に名所旧跡・景勝・温泉・食事など各種の旅行を楽しんでいた。
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 江戸人情話に出てくる愛する日本人とアイヌ民族に非人道的残虐行為を行った日本人は、同一の日本人である。
 それが、日本民族日本人の実態である。
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 あくどい日本人が蝦夷地に入り込み、アイヌ人を人間以下の獣と蔑み、虐げ、搾取し、暴利をむさぼっていた。
 それは、金儲け・利益優先で狂奔する現代の日本にも受け継がれている。
 日本人の中には、暴力を振るい、強姦と殺人を繰り返す者もいた。
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 日本人は、情に脆い心優し善人でもなければ、良心を持った正しき人間でもなかった。
 むしろ、その逆の心汚く悪巧みを繰り返す荒んだ悪党が日本人である。
 アイヌ民族問題の本質は、そうした非人道的犯罪行為を引き起こした悪い日本人の実像を、「未開で不毛の大地・北海道を開拓した日本人は素晴らしい」という美談で隠した事である。
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 アイヌ人から騙し取った昆布・鮭・熊皮・鹿皮など多くの物産・海産物が、北前船蝦夷地から大坂に運ばれ、日本全国へと売られた。
 日本の食文化・和食は、アイヌ人の犠牲の上に成り立っていた。
 日本民族日本人は、日本文化はおろか日常の生活そのものを支えてくれていたアイヌ人に対して心の底から感謝すべきである。
 それができなければ、日本人は人の心を持っていない事にある。
 アイヌ人は日本人と対等である。
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 2018年10月号 歴史街道「2019年春にドラマ化決定!
 松浦武四郎
 伊勢松坂出身の人物を顕彰する石碑や銅像が、北海道に50基以上あることをご存知だろうか。幕末の探検家・松浦武四郎──。
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 トラベラーとして、学者として、そして人間として・・・
 明治2年(1869)、蝦夷地と呼ばれたいた北の大地は、開拓使の設置に伴い、名称の変更が検討される。その結果、同年8月15日、この地は『北海道』と名付けられた。
 なぜ『北海道』だったのか。そこには、ひとりの探検家の想いが込められていた──。
 山内正之
 松浦武四郎という人物をご存知でしょうか。幕末から明治に生きた旅行家であり、いまから150年前、蝦夷地と呼ばれていた北の大地に『北海道』と名付けた人物でもあります。
 『北海道を開拓した』といった意味では、伊能忠敬間宮林蔵なども先覚者(せんかくしゃ)として挙げられます。彼らが測量に従事しながら蝦夷地の実態を明らかにした一方、松浦武四郎の特筆すべき点は、彼がアイヌ民族の文化や生活に密接に関わり、寄り添ったことでしょう。
 私は、そんな武四郎を語るうえで、『三つの顔』に着目する必要があると考えています。
 フラットな視点をもつ記録者
 文化15年(1818)、松浦武四郎伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松坂市小野江町)で生まれました。彼の父は庄屋を務めていたから、土地の大有力者といえるでしょう。
 寺での手習いの後、13歳から3年間、津藩の漢学者・平松楽斎のもとで勉強できたのは、彼が恵まれた環境に置かれていたことを物語ります。
 武四郎は生まれ育った郷土の外に興味をもち、唐(から)・天竺(てんじく)にまでその関心領域は広がりました。そして、親の反対を押し切り、16歳から日本各地を訪ねてまわります。
 その間に一度、出家するのですが、弘化元年(1844)に還俗し、蝦夷地へ向かいました。
 当時、日本の北方地域にはしばしばロシア船が出没していました。『ロシアが蝦夷地を狙っているらしい』。そんな噂を聞いた武四郎は、我が国の北辺の安全保障を強く意識したのです。
 弘化2年(1845)に初めて蝦夷地に渡ってから、13年間で6度にわたる蝦夷地調査を敢行(かんこう)。その範囲は、樺太択捉島にまで及びました。
 そのため、武四郎は『探検家』と称されますが、私は彼には『トラベラー』という肩書が相応(ふさわ)しいと捉(とら)えています。トラベラーというと『旅行者』と普通は考えますが、武四郎の場合は『記録者』という側面を備えていた。しかも、その記録者としての意味で、きわめて優れた男でした。
 たとえば、『近世蝦夷人物誌』。この本を読めば、記録者としての確かさが見て取れるはじです。
 読み進めていくと、勇者、視覚障害者、彫(ほ)り物師等々、さまざまなアイヌ民族の人士が登場しますが、彼らのプロフィールが詳細かつ端的に描かれており、じつに素晴らしい。その人間がどこでどういう生活をして、どのように働いていたかに触れながら『人』を描いており、表現力は抜群です。
 また、アイヌ民族が基本的に『善意』と『やさしい』で人に接しようとする姿や、和人のように儒学を学んだわけではないのに、親孝行、あるいは人に対する慈(いつく)しみ、他人に対する親切心といった道徳観をもっていることに目を向け、率直な感動を記しています。
 なぜ、それほどの表現力があったのか。それは武四郎がアイヌの人びとと、決して上からの目線ではなく、『アイヌだから』『和人だから』と意識せずにつきあっていたからでしょう。
 先ほど述べたように蝦夷地は『北海道』と名付けられましたが、武四郎は元々、5つの候補とともに『北加伊道』という名を挙げていました。
 『加伊(かい)』は『この国に生まれた者』という意味のアイヌ語『カイ』に漢字を当てたものだそうです。このように彼は、アイヌ語をもとに北海道の地名を考案することで、この大地がアイヌの人びとが古くから暮らしてきた特別な場所である証(あかし)を残そうとしたのです。
 アイヌ民族を尊重したヒューマニスト
 松浦武四郎の二つ目の顔は、ヒューマニストとしての側面です。
 彼は、アイヌ人たちが受けた差別や非道な仕打ちを、自らの著書において批判しました。その姿は今日のわれわれの胸に打つ普遍的な姿勢であり、日本人の良心として語り継がれるべきものだと思います。
 江戸時代、松前藩は鮭やニシン、昆布などがとれる場所を知行地として家臣に与えていました。これを初期は『商場(あきないば)知行』と呼びましたが、武士の手に余るので結局、商人に委(ゆだ)ねられました。
 こうして場所請負(うけおい)制に変質したシステムは、間に入った者が上納する以上のものを稼ごうとするのが常で、生産性や労働者の能力等を無視した収奪が行われてしまいがちです。
 しかも、伝説にもなったいますが、商人たちが10尾の鮭を数えるときに、『はじめに』といって1尾とってから、1、2と数えはじめ、10の後に『おしまい』といって1尾とり、計12尾を奪うという詐欺的行為も横行したといいます。これは日本人として恥ずべき行為でした。
 それにも増して、武四郎が憤(いきどお)りを込めて書いたのは、労働力としてアイヌ民族の男を遠くに連れていき、番人や通詞(つうじ)といった下級役人が既婚者と未婚者を問わず女性に狼藉を働いたことです。
 たとえば、クスリ(釧路)では安政年間に和人の番人が41人いて、そのうちの36人が、アイヌ民族の夫をアッケシ(厚岸)に行かせ、その妻を妾にしていると、武四郎は指摘しています。
 このような暴力の被害者の中でも、ヤエレシカンという39歳の女性は悲劇的でした。小樽の漁場へ夫を行かされている間に、和人の番人が彼女を思うままにした。そのときに梅毒を移される。病状が進んで、2、3年前まで艶(あで)やかな姿だった彼女の容貌は変質し、その鼻は落ち、身体はただれてしまう──。山の中に入って何とか暮らしている彼女と、武四郎が出会います。武四郎は米などを与えて慰め、その救済を働きかけました。
 このように武四郎は、和人の収奪、暴行などの非道を厳しく批判し、アイヌ民族を守るために行動し続けたのです。
 蝦夷地の生態系を守るため
 最後に、ヒューマニストとしての松浦武四郎と重なる部分がありますが、『エコロジスト』という3つめの顔を上げておきましょう。
 武四郎は安政2年(1855)、幕府の蝦夷山川(さんせん)地理取調御用御雇となり、蝦夷地を歩きまわりました。
 明治新政府ができると、蝦夷地開拓御用掛を経て、長官、次官に次ぐ開拓判官に抜擢されます。その意味では行政官でもありかした。
 ただし『アイヌモシリ』(アイヌの大地)の生態系を尊び、それによってアイヌ民族の生活を守ろうとした行政官でした。いわば『生態論的行政官』とでも呼べるでしょうか。
 エコロジーの視点からすると、アイヌ民族にとっての深刻な問題は人口の減少でした。
 アイヌ民族はもともと人口が少なく、江戸期は2万人から4万人くらいしかいなかったと見られています。
 武四郎の記録によると、文化4年(1807)に2万6,256人だったアイヌ民族の人口は、47年後に1万7,810人と、約32%も減少しています。
 地域によってはほとんど壊滅的なところもあり、たとえば東蝦夷地の厚岸は文化6年(1809)の177軒、874人が、安政3年(1856)には53軒、217人と、約75%の人口が失われています(ブレット・ウォーカー『蝦夷地の征服』第7章より)。
 これはアイヌ民族が、集団として再生産する力がなくなってきたことを意味します。
 その原因の一つとして、先述した梅毒に加え、疱瘡(ほうそう)などの疫病により、免疫のないアイヌの人たちが命を落としたことが大きい。
 病気だけではありません。結婚する頃になると、アイヌ民族の男たちはいろいろな場所に追いやられて、昼夜の別なく酷使されています。したがって、生涯、結婚できない男たちも多かったのです。
 また、暴力と利権によって、和人がアイヌ民族の人妻を奪ったり、結婚適齢期の女性を我が物にして、適齢期の若者たちに結婚相手がいなくなったことも無視できません。
 アイヌの若い者たちも、強制的に連れていかれた場所で悪い病気がうつったりします。いわば、男女ともに、生殖が不可能な状況になっていました。
 このようなアイヌ民族の置かれた状況を、武四郎は怒りを込めて書いています。
 幕末・明治の開発の時代でした。
 何もかもブルドーザーで国土を『改造』していった1960年代の高度成長期のように、明治新政府は北海道の開拓を進めます。しかし、生態系は破壊されてしまうのです。
 武四郎は調査の中で、アイヌ民族の暮らしの変化とともに、北の地の生息する動物や植物にも影響が出ていることに、大きな憂いを感じていました。
 やがて彼は開拓判官として政府の方針に異(い)を唱えましたが、上司である開拓長官・東久世通禧と対立。結果、明治3年(1870)、開拓判官を辞めて野に下りました。
 辞職とともに『従五位』の地位も返上した武四郎ですが、彼はその後も、蝦夷地とアイヌ民族に関する著書を出し続けます。アイヌと和人が共存しながら、ともに安心して暮らせる。武四郎は、そんな日々を夢見続けていたのです。
 松浦武四郎蝦夷地と接することになったのは、偶然だったかもしれません。しかし彼がアイヌ民族に寄り添った『北海道』という名に今に遺(のこ)したことは、現在の日本人にとってせめてもの幸いだったのではないでしょうか。
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 『近世蝦夷人物誌』に描かれた『アイヌの人びと』
 松浦武四郎は、出会ったアイヌの人たちと誠実に向き合う。そして、そうした出会いが、彼らの代表作『近世蝦夷人物誌』を誕生させた──。
 佐々木利和
 安政5年(1858)、第6回蝦夷地探査を終えた松浦武四郎は、アイヌのことを世に広めるため、執筆に明け暮れた。
 3巻に及ぶ『近世蝦夷人物誌』を脱稿した彼は、箱館奉行所にその出版を願い出たが、許可されなかった。アイヌ民族に行なった、シャモ(和人)による非道の数々が刻(きざ)まれていたからである。
 明治元年(1868)、新政府に登用されるにあたって武四郎は、再度、出版願を出しましたが、このときも実現しなかった。
 結局、この作品が陽の目を浴びたのは、明治末期。孫の松浦孫太によって、雑誌『世界』に発表されるまで待たなければならなかった。
 初めて露呈(ろてい)したアイヌ人への非人道的行ないに、人々は衝撃を受けたことだろう。
 『近世蝦夷人物誌』は3巻9編99話から成っており、100人以上のアイヌ人の人びとが紹介されている。その一部を垣間見てみよう。
 場所請負制とは
 まず知っておきたいのは、松前藩独特の場所請負制についてである。蝦夷地一円を領地としたのは、1万石格の松前藩である。
 蝦夷地は米がとれない、だから石高制下の江戸時代にあって、1万石『格』なのである。
 蝦夷地ぼ海岸をいくつかの場所にくぎり、そこに住むアイヌの人びととの交易権を家臣に与えた。これを商場知行制という。
 当初は知行主がみずから訪れて交易にあたったが、のちにはそこでの交易を、運上金をとって商人に請け負わせるようになる。これが場所請負制である。
 商人が交易を請け負うのである。運上金以外のもうけをあげなければならない。そこに住むアイヌの人びとは、過酷な労働に従事させられることになる。
 請負人は運上屋とか番所を場所に設け、シャモの労働者をおいた。支配人、通詞、帳役(ちょうやく)、番人といわれるのがそれである。
 『近世蝦夷人物誌』に登場するアイヌの人びとは、豪勇あり、困窮者あり、孝子(こうし)あり、義民あり、彫工あり、危童(きどう)あり、さらには指導者である〝おさ〟など、さまざまである。その人びとは多かれ少なかれ、支配人や番人などとの接触があった。
 漁師エカシヘシに起きた悲劇
 イシカリのトクヒラに住んでいた、エカシヘシというアイヌについてのはなしがある。
 エカシヘシはすぐれた漁師で、運上屋に雇われており、妻のイヘンライと夫婦仲睦まじく暮らしていた。イヘンライは漁業にも精を出しているこころ直なる女性であった。
 彼女に恋慕(れんぼ)した番人がおり、非道の恋を成就(じょうじゅ)せんとした。イヘンライがそれを聞き入れなかったので、夫のエカシヘシを遠くの漁場に送り込み、その留守に姦淫(かんいん)に及んだ。
 やがてイヘンライは子を孕(はら)む。番人はその子が自分の子と噂になれば恥だと思い、イヘンライにいぼたと唐辛子を煎(せん)じたものを飲ませたところ、日ならずして彼女は死んでしまった。
 そこへ帰ってきたエカシヘシは生き甲斐があるかとて、死を考えるようになった。親戚の者たちは刃物をとりあげるなどして、いさめた。
 が、ある夜、ふと小屋を抜け出し、トウフツというところの河口で、大きな木に縄をかけて縊死(いし)したという。
 武四郎は彼をふかく憐(あわ)れんで、文末にかく記している。『彼奸商(かのかんしょう)等(など)糟粕(そうはく)を嘗(なめ)る徒(と)に比(ひ)する時は幾若干(いくじゃつかん)と思ふまま爰(ここ)に誌(しる)し置(お)きぬ』(彼らといえども、意気地があり、あの悪徳商人どものような卑{いや}しい連中と比べれば、どれほどましかわからぬ)と。
 番人たちに非道の限りをつくされ、梅毒などをうつされて死に及んだアイヌ女性の話は数多くあり、『近世蝦夷人物誌』にもいくつも採(と)られている。
 シャモが持ち込んだ梅毒と天然痘によって、ある地域のアイヌ人口は半減したともいわれている。これらの病気は本来アイヌにはなかったものであり、シャモによってもちこまれたものである。
 ……
 彼は、出会ったアイヌの人びとや文化に対する敬意と愛情が溢れている。半面、シャモに対する強い批判も読み取ることができる。
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 〝21世紀〟からやって来た男
 優れた文化人類学者であり、言語学者であり、美術家でもあった。勤皇の志士であり、幕府と明治新政府の役人にも、雲水(うんすい)にもなった。松浦武四郎。彼は、『未来』からやって来たのではないか──。
 高橋源一郎
 とてつもない冒険家
 江戸時代後期から明治初期にかけて、激動の時代を生きた松浦武四郎は、若い頃から、『歩く人』であった。青年期に故郷を出奔(しゅっぽん)して、日本中を旅した。果ては、遠い異邦とも、『人外(じんがい)』の異郷ともいえた蝦夷、現在の北海道から樺太まで歩いた。単なる『歩く人』ではなく、とてつもない冒険家であった。いや、その旅の途中、アイヌの人たちを熱心に見て観察した。アイヌに人たちを支配していた松前藩の役人を筆頭とした和人(日本人)たちの横暴に心を痛め、独自の文化を持つアイヌの人たちの姿を写し取ろうとした。そのとき、確かに、松浦武四郎は優れた文化人類学者であり、言語学者であり、美術家でもあった。それらと同時に、彼は、新しい日本を待ち望み、変革しようとする『勤皇の志士』でもあった。志士のひとりとして、東奔西走したのも有名だ。だが、それにもかかわず、彼は能力を買われて、幕府の役人になり、さらに、維新の後には、新政府の役職にもついた。禅寺の雲水になったことも、生活(たつき)の資として篆刻(てんこく)の技を一月たらずで身につけ、それで暮らしたこともあった。
 いやはや。こういう人間をどう呼べばいいのか。スーパーマン?それでは、なんだか現実離れしている。それが、松浦武四郎だったのだ。いや、ほんとうのところ、松浦武四郎は、『未来』から来たのだと思う。それは、彼が残した幾多の本、中でも、最大の傑作、『近世蝦夷人物誌』を読めばわかるのである。
 一切の先入観を持たず
 松浦武四郎は、六度にわたり、蝦夷の地を踏んだ。確かに、松浦以外にも、多くの人間が蝦夷の地を踏破(とうは)し、記録を残した。詳細な地図を作ったのも彼だけではない。
 だが、『近世蝦夷人物誌』は、他に類を見ない本だった。
 松浦は、蝦夷アイヌの人たちと出会った。それは、まだ、統一された『日本』が生まれる前の時代であった。『クニ』といえば、ほとんどの人びとにとって、『藩』という小さな領域、そこで生きて死んでゆく故郷と同じであった。松浦のように、天皇の下で新しい国、そう、『日本』を作ろうと考える者さえ少なかったのだ。
 だが、松浦は、蝦夷で、『日本』の外にいる者たちに出会った。彼らアイヌは、日本語とはまったく異なる言語を用い、日本のどこの文化ともまったく異なる文化を持つ者たちであった。そして、『アイヌ』とは『人』を意味する言葉だったのだ。『アイヌ』が人間なら、わたしたち『日本人』は何者なのか。
 ほとんどすべての『日本人』が、というか、『アイヌ』と接することのできた一部の日本人は、『アイヌ』を『日本人』以下のものと見なしていた。それは、いまも続く、多くに人間たちが持ちやすい悪しき習慣、悪しき思いである。
 世界中のあらゆる場所で、あらゆる国、地域で、そこに住む人たちは、自分たち以外の人間に嫌悪を催(もよお)す。敵対心を燃やす。憎み、排除する。その感情の奥底には、自分たちの生活・文化を絶対視し、それ以外の人間・文化・言語、自分たちが理解できないものすべてに抱く恐れがある。
 とりわけ、松浦武四郎が生きた時代は、そうだった。だが、彼は、そんな排外的な感情から自由になるこができた数少ない人間だったのだ。
 『近世蝦夷人物誌』は、アイヌたちに生きた『肖像画』だった。松浦武四郎は、彼が出会ったアイヌたちの姿を、まるで目の前にいるかのように迫真(はくしん)の力をもって描きだした。一切の先入観を持たず、まるで赤ん坊のように新鮮な興味を抱いて、目の前にいる人たちの声に聞き入った。そこには、驚くべき高い倫理と勇気と豊かな感情を持った人たちがいたのである。

 『近世蝦夷人物誌』初編を読み、感銘を受けた箱館奉行支配組頭・向山栄五郎は、序文の中でこう書いている。
 『彼は蝦夷地を旅して戻ってくると、蝦夷の人々の、義行(ぎこう)すぐれ、道徳に秀でた行動を集めて記録し、3巻の書として私に序文を依頼した。
 私はこれを一読して感嘆し、こう言った。「ああ、あの北の果ての不毛の地に住む人々を、だれが教え導いたのであろうか。そこには、彼らの天性のうるわしい性質が、その行動の中におのずと現れているのがみられる。それは、高位の役人や富豪たちでさえ、及びもつかぬ立派なものである。ましてや、彼らに対し、すぐれた師が懇切(こんせつ)に教育し、親愛な友人が親切な忠告をして、日を逐(お)い、月に逐ってその成長を助けていったならば、どれほど素晴らしい結果となるであろうか」と。
 私はこうした松浦氏の持論が誤っていなかったことを知った。現在の急務は、まさにここにあるのだが、松浦氏はもはやこの地にいないのである。
 安政5年戌午戌(1858)元旦
 獨松(どくしょう)居士 箱館の仮住居にて記す』(『アイヌ人物誌』・平凡社ライブラリーより。これは、『近世蝦夷人物誌』をわかりやすい現代日本語に翻訳したものである)
 『アイヌ』の人たちは、もちろん、劣った人種ではなかった。『日本人』の多くより、ずっと素晴らしい文化と倫理を持つ人たちだった。そのことを、松浦と同じように、その目で見てきた向山栄五郎は認めざるを得なかったのである。
 いまなお意味を持つ
 20世紀アメリカ、いや世界の文化に大きな影響を与えた『イシ 北米最後の野生インディアン』という本がある。この本について、哲学者・鶴見俊輔はこう書いている。
 『1911年8月29日朝早く、北アメリカの先住民ヤヒ族の男がひとり、カリフォルニア州オロヴィルの町に向かって歩いていた。彼の部族が死に絶えたので、彼は意を決して、白人の町にあらわれたのだった。
 彼が、クローバーという学者に会ったのは幸運だった。
 アルフレッド・クローバーは、言語学者エドワード・サピアの助けを得て、男のいうことを理解した。やがてこの男の暮らしていた現場まで案内してもらって、彼がどのように食料を得て調理し、どのように衣服をつくっていたかを実際に見る。人は現場の活動を見なければ、その智恵の深さはわからない。これほど立派な人間を、自分たち白人は、これまでどのくらい低く見、殺してきたか。それを考えるとクローバーはうつ状態におちいり、それは死ぬまで彼を去ることはなかた』
 白人たいの無知と罪を恥じたアルフレッド・クローバーは、自ら、本を書こうとはしなかった。イシとアルフレッドの交流を描き、本にしたのは妻のシオドラだった。この本は、先住民族を『無知な野蛮なインディアン』と呼んだ悪質なデマを取り去る、最良の薬となった。sれは、自分たちが世界でもっとも優れた文化の持ち主で、それ以外は『辺境』にある『未開の文化』に過ぎない、という、傲慢な西欧中心主義へのもっとも効果的な反論でもあった。ちなみに、『ゲド戦記』で知られるアーシュラ・クローバー・ルーグインは、アルフレッドの娘である。
 20世紀に世界が必要とした本を松浦武四郎はその半世紀も前に書いていた。いうまでもなく、21世紀のいま、松浦の試みたことはすべて、さらに深い意味を持って存在している」

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 日本人は、素晴らしい、優(やさ)しい、優(すぐ)れている、賢い、信用されている、愛されている、とは真っ赤な嘘である。
 女性や子供の優しい、嘘である。
 年長者・老人に優しい、嘘である。
 弱い者や障害者や病人に優しい、嘘である。
 日本には、嘘が充満している。
 日本人の自尊心を喜ばせる御為ごかしの情報は、日本人を堕落させる為の悪意に満ちた陰険・邪悪なニセ情報である。
 御上、上役・上司、権力者、実力者に、媚び諂い、忖度し配慮しておこぼれを預かろうとする、賤しく、さもしく、見苦しく、悍ましいのが、日本人である。
   ・   ・   ・   
 1874(明治7)年の台湾出兵から1945年の敗戦まで、日本人兵士が戦場や占領地で、朝鮮・中国・東南アジアでおこなった非人道的行為は紛れもなく存在した。
 現代に至っても厳しく非難され続けるのは、身から出たサビとして甘受し、未来永劫、日本民族日本人が存在する限り謝罪し続けなければならない。
 日本民族日本人が行った、人道に対する罪は決して許される事ではない。
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 日本人は自分が助かる為ならば、女子供でも犠牲にする。
 満州では、女性をロシア人兵士に人身御供として差し出し、強姦されて帰ってきた女性を軽蔑し仲間から排除した。
 内地では、女性をアメリカ軍兵士に慰安婦として差し出し、強姦された女性を売女(ばいた)あるいは娼婦として軽蔑して社会から排除した。
 日本人は女子供を助ける、嘘である。
 戦争孤児が大都会の駅で飢えても助けなかったし、餓死すれば犬猫の死骸同様にゴミのように捨てた。
 日本人は心優しい、嘘である。
 日本人は平気で嘘をつく。
 日本人の大人、特に日本人男性は見苦しいほどに嘘をつくのが上手い。
 日本男子の粋・男伊達・ダンディーは、嘘である。
 真顔で自分は嘘をつかない正直者であるとほざく日本人こそ、嘘で生きている張本人である。
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 日本人は、世界中で虐げられ弾圧されている少数派のドキュメンタリー書籍を好んで読むが、日本国内で日本人によって迫害されてきた少数派の記録書籍は読まない。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は少子高齢化による人口激減で、ハワイのポリネシア系カナカ族やアイヌ民族と同じ運命を辿ろうとしている。
 外国人移民1,000万人計画(主に中国人移民)によって、日本民族日本人は人口激減は止まらず、何れは消滅する。
 未来の日本は、移民系による日本国籍取得者日本人の国民国家として新生される。
 そして、罪深い日本民族日本人は静かに地球上から姿を消すか、日本国土の山奥で少数派としてひっそりと生き続ける事になる。
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 西洋世界や中華世界の領地拡大・植民地支配と日本の蝦夷地・北方領土及び琉球の併合・領土化とは、本質的に異なる。
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 北方領土には、祖先の想いが根付き、祖先の血が流れ、祖先の魂が眠っている。
 祖先に興味も関心もない現代日本人は、自分の利益を優先し、ロシアとの友好の為に北方領土を分割して領土問題を解決しようとしている。
 少子高齢化による人口激減によって、現代日本から祖先の想い・祖先の血・祖先の魂が、急速に薄れ、そして消えつつある。
 日本民族日本人は、歴史的役割を終えて消滅しようとしている。 
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 ロシアによる北方領土四島不法占拠は、許されざる重犯罪である。
 ロシアの意向など聞く耳を持たず、ロシアに配慮・忖度する必要もなく、四島完全返還以外に解決策はない。
 この点にいて、現代の高学歴出身知的エリートよりも江戸時代の身分低き知的エリートの方が事の本質を正しく理解していた。つまり、「優秀であった」という事である。
   ・   ・   ・   
 江戸時代後期から幕末・明治維新を経て明治時代。徳川幕府明治新政府は、ロシアの侵略から蝦夷地(北海道)と北方領土四島を命懸けで守ってきた。
 問題は、アイヌ人が、日本の味方をしてロシアと戦ってくれるのか、ロシアの味方として日本に敵対するかであった。
 世界は、時代は、味方しなければ敵にもならないという中立的立場を許さなかった。
 ロシアは、日本に味方する危険性のある千島アイヌ人を強制的にカムチャツカ半島へ移住さて、千島列島を無人化した。
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 琉球王国琉球人に対する不安も同じ理由であった。
 日本を侵略する危険性のある西洋列強に味方するのではないかという不安を解消する為に、琉球処分として日本の領土に組み込んだ。
   ・   ・   ・  
 アイヌ民族琉球人を劣った人間・野蛮な人間と差別したのは、儒教、特に朱子学である。
 儒教の本質は、人を出自や身分・階級で差別する思想で、社会を超えられない上下関係で固定化する事であった。
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 清国(中国)との日清戦争も朝鮮に対する日韓併合も、同様に、日本に侵略するロシアに味方をするのではないかという恐怖心からであった。
 歴史的真実として、清国(中国)と朝鮮は、反日派敵日派として日本を打倒する為にロシアに協力していた。
   ・   ・   ・  
 日本民族日本人は、古代の昔から現代に至るまで孤独な存在である。
 周辺諸国には、味方もいなければ、友人もいなかった。
 日本国は孤立していた、それが歴史的真実である。
 中国も朝鮮も信用できなかったがゆえ、中国や朝鮮との友好などは存在していなかった。
 世界は、中国や朝鮮の言い分を無条件で採用し、日本の弁明は全て否定している。
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 キリスト教キリスト教原理主義)、マルクス主義共産主義)、儒教(中華儒教朱子学)は、似たような絶対価値観を持ち親和性が強い。
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 何時の時代でも、日本を動かし、日本を変革・改変したのは下級武士や身分低い庶民であった。
 そこが、世界と日本とが決定的に違うところである。
 知的エリートは、世界では上級階級の子息だが、日本では下級武士や貧しい庶民(百姓・町人)であった。
 それ故に、世界はトップ・ダウントで、日本はボトム・アップである。
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 日本民族日本人の底力は、職人魂・専門家根性として、ナンバーワンとオンリーワンの両面で極める事である。
 永遠の求道者として、何時如何なる時も未完でる事を自覚・自戒して、立ち止まることなく、安住せず、尽きることのない渇望的探究心を持ち追い求める事である。
 それを止めた時、日本民族日本人はつまらない人間・くだらない人間・魅力のない人間・馬鹿らしい人間として堕落し、日本国は衰退し滅亡する。
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 日本はグローバルの激流に呑まれて、ハワイや中南米のように全てのローカルが消え失せる。
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 日本の悍ましい変質は、1980年代後半から表面化し、2000年代から空気・空気圧として日本を覆い、2011年3月11日に日本を支配している実態が可視化された。
 同時に、中国共産党の和やかな微笑みの奥に隠されてきた、日本に対する底なしの憎悪と日本領土の強奪意欲が明らかとなった。
 そして、どす黒い心も持った日本人が日本国内で蠢いてる姿も現れた。
 例外なく、滅亡した国や消滅した民族は、外部の敵に内通した者によって内部から崩壊していった。
 そうした内通者の共通するところは、自分の利益・金儲けを優先して祖先の想いを歪曲するか無価値として抹殺している。
 「会った事もなければ、話した事もない祖先には愛着はない」と、彼らは言う。
 それが、靖国神社問題である。
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 善い日本人は1割、悪い日本人は3割、中間で無関心・無反応・無神経な冷たい日本人が6割である。
 日本人とは、冷淡、薄情、冷血、非情が本質である。
 日本人が最も恐れたのは、天罰や仏罰ではなく、自分の心に潜む悪に走りやすい邪で穢れた本性である。
 だが、相対的価値観で多元性多様性を信じる日本民族日本人は、心には二面性があると信じ、和心・和魂(にきみたま)と荒心・荒魂(あらみたま)を分けても切り離さず素直に受け入れた。
 そこには、絶対価値観による一元論や二元論あるいは二項対立は存在しない。
 自分を見つめ、有りの儘の自分を認め、有りの儘に自分を素直に受け入れる。
 心穏やかにして自戒して、正しき行いを心がけてきたのが日本民族日本人であった。
 日本民族日本人は、清明心を目指した。
 日本精神・大和魂とは、「弱い者イジメはしない」、「弱きを助け、強きを挫く」である。
 和心・和魂と荒心・荒魂を受け入れて平常を保ち穏やかに過ごす、それが日本神道と日本仏教が求める大和心であった。
 柔軟な日本儒教はあっても、不寛容な中華儒教(中国儒教・朝鮮儒教)は日本から完全に排除されていた。
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 現実のつらさを知る日本人は、言葉なく泣くのみである。
 そうした愚かな人びとを哀れんだが、親鸞である。
 親鸞は、嘘をつきながら生きるしかない人びとを救う為に「悪人正機説」を説き、御仏は悪人こそ救って下さるから安心するようにと慰めて歩いた。 
 悪人とは、殺人や強姦を繰り返す残虐非道な犯罪者ではなく、嘘をついて生きねばならない哀れな人の事である。
 日本仏教は、中国仏教や朝鮮仏教とは違うのである。
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 善い日本人が1割、悪い日本人が3割、中間でどっち付かずの曖昧な・優柔不断な・付和雷同な日本人が6割。
 つまり、善い日本人がいれば、悪い日本人もいるという事である。
 3割の悪い日本人を強調して「日本人は許す事ができない戦争犯罪者だ」「血に飢えた好戦的な日本人だ」「血も涙もない殺人鬼」「虐殺者」「強姦魔」と日本批判を繰り返しているのが、靖国神社問題である。
 そして、1割の善い日本人が自己犠牲と無報酬で行った人道貢献は歴史の闇に葬られている。
 日本軍・日本人兵士は、数万人のポーランドユダヤ人難民達保護、河南省大飢饉での1,000万人飢餓民の救護、黄河決壊での数十万人の被災者救助、などなどで良い事もした。
 日本の救いは、中間層が悪い日本人ではなく善い日本人に何となく靡く傾向がある事である。
 その為に、日本では世界の常識的な無政府化・無法地帯化、暴動・騒動、強奪・強姦が起き辛い。
 右翼・右派・ネットウヨクそして左翼・左派・ネットサヨクは、例外なく悪い日本人に属す。
 リベラル派・革新派・エセ保守派そして一部の保守派は、毒になっても薬になりづらい存在として、中間色で黒い悪い日本人に近い。
 では、日本における善い日本人の象徴が、無私無欲・邪心偏見の一切ない天皇・皇族、天皇家・皇室である。
 天皇・皇族、天皇家・皇室は、最高神の女性神天照大神を唯一に祖先神とする家系で構成されていた。
 天皇位は、天照大神の血・命、志・気概を正統に継承する家系を血筋・皇統で正統化され、日本に平和・秩序、発展・幸福、安全・安心・安定をもたらしていた。
 日本が世界の常識的な無政府化・無法地帯化、暴動・騒動、強奪・強姦が起きないのは、天皇が社会の要石的な役割を果たしているからである。
 天皇の国家と国民(民族)の統合の象徴とは、そういう意味である。
 それ故に、神聖不可侵の存在であった。
 その尊い役目は、余人をもって代えられない。
 その歴史的事実を知っている、日本人と外国勢力は何時の時代でも躍起になって滅ぼそうとしている。
 日本を滅ぼそうとした外国勢力とは、宗教ではキリスト教で、思想ではマルクス主義共産主義)で、国家・民族では中国・朝鮮・ロシアであった。
 中国・朝鮮・ロシアは、反日派敵日派であって、知日派など存在しない。


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