関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
1790年 中国では、朱子学が儒学の正学とされ、陽明学などは異端として中央から排除した。
陽明学や仏教や道教などは、官吏の追求を逃れて地方に潜伏し、教えを広めて共鳴者を増やして、中央を憎む貧民や流民を組織して反権力の暴動や叛乱を起こした。
朝鮮は、中国倣って、朱子学以外の陽明学や仏教を弾圧した。
漢字文化圏は、朱子学一色となっていた。
だが。中国や朝鮮は教学丸暗記の科挙による人材登用を行った為に、官吏による賄賂と横領という不正が蔓延り、人治で社会は腐敗し、労働蔑視で経済は停滞した。
儒教で、国家が豊かになり、庶民の生活が良くなった例は極僅かであった。
中国や朝鮮は、陽明学や仏教など異端を許している日本を儒教教育の低い国と軽蔑していた。
松平定信は、儒学の道徳で世の中を正す為に寛政異学の禁を発し、朱子学のみを公儀の学問と定め、湯島聖堂から朱子学以外の諸学派を追放した。
幕府の官学教授である林家は、日本に儒学を広める為の優秀な人材を発掘するべく、学問吟味として科挙に近い試験制度を設けた。
正統派儒学を信奉する林家は、日本に中国の聖人君子の道を根付かせ、日本人を中国人の様な理想的な偉人賢人に育てる為に儒学教育の普及に力を入れた。
国学者や蘭学者は、朱子学の一本化に不満を抱いた。
幕府は、朱子学の官学化に従わない陽明学者、国学者、蘭学者、その他を弾圧した。
1790〜95年 浦上一番崩れ。木場一番崩れ。火炙りによる処刑は減少し、転ばせる苛酷な拷問による傷が原因での牢内死が増えた。この後、キリシタンを殉教させて信仰を強めるより、転ばない者は永牢させ人々の記憶から消える様に衰弱死か老死させる方法がとられた。
・ ・ ・
1790年 イギリス船が紀伊の熊野に寄港した。
・ ・ ・
1791年 対馬海峡に異国船が出現した。
寛政度異国船取扱指針
「寛政三年の幕府通達
最近筑前、長門、石見等辺異国船が一艘漂流している様だが遠くで乗付も難しく、八日程経た今は帆影も見えなくなった。
一般に異国船が漂着した場合、保護して先ず船具は取上げた上で長崎へ送るべきか否か伺いを立てる事。
尚異国船を見懸けた場合は、敏速に警備体制を整え、大騒ぎせずに談判・見分の役人を派遣する。もしこれを相手が拒むなら、人も船も打砕くのもやむを得ないので、相手船に乗移り、素早く切り捨てるか捕縛するべし。 勿論大砲や火矢等使用も許容される
談判が成立するか見分を拒まない場合はなるべく穏便に取計い、この船を繋がせ乗組員は上陸させ、番人を付け勝手に戻らない様にしておき、伺いを立てる事。若し異議を唱える様なら捕らえて置く事。宗門の件もあるので異国人には番人以外、見物人等近づけぬ事。漂流が一艘だけなら前述の通りで良いが、若し数艘で漂着とか、一艘でも最初から厳重に扱わなければならない場合もあり、臨機応変に処理する事。
この様な場合は近隣の領主にも連絡し人員や船の協力を得る事。
出張の陣屋や小領では大砲の用意も無いかも知れないので、所持の最寄領分より調達する事この趣旨を徹底し、場合に依っては処理が難しい事もあるかも知れないが、その時になって伺いを待っていたのでは機会を失う事もあるので、先ずは概ねは通達の添い、例外は臨機応変に処理する様に 普段から物事を決めて置く心配りをする事。
又家来中で特別良く働いた者は名前等も報告する事
九月 」
・ ・ ・
1792年 島原・雲仙・普賢岳の寛政大噴火。
山体崩壊で土砂が有明海に流れ込み大津波を発生させ、対岸の肥後国(熊本県)を襲って1万5,000人の犠牲者を出した。
ロシアのラックスマン、根室に来航。
イギリスの特使マカートニーは、清国皇帝乾隆帝と会見し、貿易制限撤廃と貿易港拡大の為の交渉を行うが、失敗した。
乾隆帝は、中華思想の傲慢から、イギリスを対等国ではなく劣等国と認識し、マカートニーを冊封使としてあしらい、イギリスを属国に準ずる国とみなした。
マカートニーは、中国からの帰路、豪華で華やかな王宮とは違い、地獄の様な中国の惨状を目の当たりにした。帰国後に、中国人の本質は他人無視の金銭と物質による現世利得者であり、信義なく信用に足る人間ではないと報告した。
東アジア世界は、自然破壊によって旱魃や大洪水に見舞われて食糧生産が激減し、飢饉と疫病が深刻となり、夥しい人々が犠牲となっていた。
儒教教養を身に付けた政府高官は、死に行く貧困層の救済を行わず、私腹を肥やす為に政治を私物化し、要職を独占していた。
同じ儒教国家である朝鮮王朝も、非人間的で、社会状態は地獄の様な有様であった。
中国におけるキリスト教弾圧が伝えられるや、中国の好イメージは消え、絶対神を迫害する悪魔的イメージが広がった。
イエズス会などのカトリック教会諸派は、これ以上の中国布教は無駄であると判断して諦め、多くの宣教師を別の地に派遣した。
開拓精神に富んだプロテスタント教会諸派は、入れ替わって中国に宣教師を派遣し、妥協的布教を心懸けたカトリック教会とは違って、聖書を前面に出して先祖崇拝などの宗教行事を否定した。
・ ・ ・
オランダ通詞本末良永(1735〜1794年)は、オランダの書籍を翻訳し、キリスト教では禁止されていた「地動説」と「惑星の楕円軌道」を紹介した。『太陽窮理了解説』
弟子の志筑忠雄(1760〜1806年)は、独学で、ニュートンの万有引力を理解した。「重力」「遠心力」の新語を作った。昔の日本人は、現代日本人よりもボキャブラリーが豊富で、自由な発想で創造力が豊かであった。
『暦象新書』の附録『混沌分判図説』「宇宙には物質の雲があった。万有引力の法則でその雲が集まり、中心から分かれるものができ、それが星になった」
身分低い百姓や町人ですら、書籍を争って借りては読んでいた。
1798年 幕府天文方高橋至時『増修消長法』「宇宙には太陽の様な恒星がたくさん存在する」
日本においては、ほうき星である彗星は吉兆とされ、豊作の証しと喜ばれていた。
・ ・ ・
1793年 第二回ポーランド分割。ロシア帝国とプロシア王国は、ポーランド王国が改革派と保守派で混乱したのを好機として、軍事力を用いて強制的に領土を奪った。
共和国政府は、王党派が支配するフランス西部ヴァンデ県で、意図的にインフレと食糧難を引き起こして住民を追い込んだ。農民等は、生きる為に反乱を起こし、カトリック王党軍に参加した。共和政府は、95年に反革命分子の皆殺しを命じた。共和国軍は、農民の叛乱を鎮圧し、捕虜にした女や子供達をロワール川に沈めて処刑した。虐殺された人数は、30万人以上といわれている。
共和国政府内部での穏健派と急進派の権力闘争で敗れた者は、人民革命裁判で有罪となり、ギロチン刑で首を切断された。
フランス革命の「自由・平等・友愛」という理想は、大虐殺による恐怖支配によって地に落ちた。
ヨーロッパの「自由と平等」は、革命で戦って奪い取り、大量の血を流す殺し合いで受け継がれたものであった。けっして、日本の様な曖昧な形で、平和な暮らしの中から生まれたものではなかった。
ヨーロッパ世界は、近代という進歩した新世界に生まれ変わる為に、数百万人の血が流れる戦争に突入しようとしていた。
イギリスは、制限貿易の是正を求める為に特使を派遣した。乾隆帝は、イギリスを従属国の一国としてあしらい、対等交易を認めなかった。
中国は、都市部こそ治安が保たれ繁栄していたが、一歩、農村部に至ると荒廃して多くの餓死者を出していた。
各地で自然災害が発生するや、数千万人の貧しい人民が被害を受け、飢餓や疫病で数百万人の身分低い民衆が死亡した。貧しい人民や身分低い民衆が救済されないのが、「徳」なき「道徳」なき中国の真の姿である。
正統派儒教は、上位者の罪は問われる事はないと擁護したが、下位者の罪は厳罰にあたると告発した。身分低い貧しい者は、貧困の中で生活する事が定めである以上、救済する事は天命に逆らう事であるとして反対した。
地方は、絶望の中で荒れ果て、いたる所で盗賊が横行し、人身売買が流行っていた。
イギリスは、貿易赤字を解消する為にアヘン貿易を始め、中国人犯罪秘密結社の協力で秘かに中国に持ち込み売り捌いた。
1795年 ポーランド王国の消滅。ポーランド王国が衰退し国防力を失ったとみるや、オーストリア帝国・ロシア帝国・プロシア王国はポーランド全土を分割した。
ポーランド人は、武器を持って祖国を防衛する意思を放棄して、三国何れかの国民となって同化した。
国家という集団組織を捨てた人間は、別の集団組織の一員となった。
祖国を守る戦争を嫌った人間は、国境を消滅させ、国家と国王の為に殉じる事をも嫌い、国家と国王を失った。
ポーランド人は、国家を潰し、戦争を避けて祖国を地図上から消滅させた。
1796年 白蓮教徒の乱(〜1804年)。700万人以上が犠牲となり、清国は衰退を始めた。
中国の大地は、中国人同士の殺し合いで地獄の様になっていた。
中国化した国や地域は、同様に生き地獄と化した。
1797(寛政8)年 江戸川柳「親鸞と弘法 裏腹を許し」
日本人の人間観や宗教観は、幾ら厳しい修行を高僧であっても所詮は人間であるからには生臭で酒と女に溺れると割り切っていた。
幕府は、度を越した僧侶67人を女犯の罪で3日間、日本橋に晒し、晒し終わったら微罪放免として元の寺に戻した。
秋田藩士栗田定之丞は、外国船警備番人の職に林取立役を命ぜられ物書兼砂留役を兼任した。(栗田神社)
1798年 梅暮里谷峨(うめぼりこくが) 『傾城買二筋道(けいじょうかいふたすじみち)』
1799年 ナポレオンは、イタリアに侵攻して、オーストリア軍を撃退し、ローマ教皇ピウス6世を幽閉して教皇領を没収した。
ローマ教皇の権威は地に落ち、カトリック教会の影響力も弱まった。
・ ・ ・