🏞74)─4─天明の飢饉。フランス革命。クナシリ・メナシでアイヌ人の反乱。藤田幽谷。立原翠軒の意見書。徳川家治の死。1784年~No.304 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 江戸時代。多くの自然災害が日本を襲い、数多くの人々の命を奪い、夥しい数の人々の生活を破壊した。
 だが、何故か、江戸時代の日本人は陽気で暢気に生きていた。
 賑やかな事が好きで、祭り好きで、踊り好きであった。
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 日本の自然科学分野におけるノーベル賞受賞の可能性は、外国語が分からなかったこの時代の下地があっての事であう。
 西洋語が話せる事は、ノーベル賞受賞に関して二の次三の次ぎにすぎない。
 フランシス・フォード=コッポラ「日本人は、自分達の事を東洋人だというけれど、日本は西洋でもある。数百年間、両面を持ち続けてきた国だと思う。それに、その二つが必ずしも混乱しているとは思えない」「日本人は、テクノロジーとアートの両方に才能を持っている、世界でも稀な民族」
 日本人は、世界を外国語ではなく日本語で理解していた。
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 歴史を教訓の宝庫として学ぶ者は、自分が気に言った特定の出来事や特別な発言のみを歴史の流れの中から切り出し来て、学に飾るだけである。
 取り出された歴史の断片がさも特別な焦げ茶に見えても、元の大きな歴史のうねりに戻せばごく有り触れた薄茶色に変わってしまう事がある。
 歴史は、大河の如く時間を刻んで行く。
 人生の教訓を得たければ心温まる時代小説を読めばよく、時代の変遷を知りたければ冷酷な歴史小説を読めばいい。
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 日本の古典的歴史書は、起きた事を有りの儘に写し残す「カガミ(鏡)」として、教訓めいた逸話集ではなく人物や出来事・事件を淡々と物語として書き残した。
 その為に、正史は時系列的日記体になった。
 『古事記』『日本書紀』『神皇正統記』『大鏡』『増鏡』など。
 その象徴が三種の神器の「八咫鏡」であり、各神社の拝殿に置かれてある神鏡である。
 中国・朝鮮の古典的歴史書は、易姓革命で絶えず漢族・異民族に関係なく王朝が交替する為に、古代の聖人君主の業績と倒した前王朝の没落を「カガミ(鑑)」として、自分の王朝を永遠に残すべく教訓や戒めとしす書き残した。
 孔子の 『詩経』。司馬遷の『史記』。司馬光の『資治通鑑』。朱熹の『通鑑綱目』。など。
 歴史に対する認識の違いは、自然現象では全く同じ事は二度起きないという神道的認識と、人の営みは同じ事の繰り返しという儒教的認識による。
 神道歴史観は、良いとも思えば固定観念や原理原則に拘らず、自由発想として仏教、儒教道教などの舶来的な考え方を曖昧模糊・優柔不断的に取り入れた。
 儒教歴史観は、古代からの原理原則を寸分違わず墨守し、天の徳による正統性を唯一不変の絶対として貫き、それ以外の一切を完全否定した。
 日本の歴史は、多神教的に、100人いれば100通り、1,000人いれば1,000通りの、個人個人の立場や職業によって、考え方見方によって雑多に存在する。
 中国・朝鮮の歴史は、王朝が編纂した正史と在野が編纂した野史と興味本位の外史など数種類しかない。
 日本人の発想には、いま置かれている境遇の解決策の手がかりとして歴史を参考にはするが、歴史を教訓として、歴史から学ぼうという意思は稀薄であった。
 日本の歴史とは、傍観者として意図的な脚色をせず淡々と映し出す「鏡」であって、教師として教訓や戒めを与える為に意図的に歪曲や捏造を行った「鑑」ではない。
 日本人は、堅苦しい歴史より肩の凝らない物語が好きである。
 中国・朝鮮の歴史書とは、高度な教養ある裕福な読書家が、書斎の机に向かって厳めしく読む教訓書であった。
 日本の歴史書とは、字が読めるようになった身分低い童が、畳に寝転んで面白可笑しく読む物語であった。
 中国の歴史とは、他人出し抜き目先の利益を手に入れるか、生き残る為に如何に相手を殺すか、という教訓を教える教本であり、必ずしも事実を残す必要がなく、記述の大半が歪曲や捏造されていた。
 権力者は、自分を正当化する為に歴史を鑑として利用した。
 中国の歴史には、真実はほんの僅か存在しない。
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 武士とは、戦国時代までの中世においては「戦士」であったが、徳川時代の近世では「官僚」であった。
 上は将軍や大名から下は旗本や御家人迄でで馬に乗る資格を持つ者が「侍」といい、その下で馬に乗らず徒歩で動く者を「徒士(かち)」という。
 侍は、「上士」と呼ばれ、自前の家来を引き連れて戦い、知行取りとして先祖代々の領地を持っていた。
 徒士は、馬に乗らず徒歩で戦い、領地を持たず「切米取」「蔵米取」として藩から俸禄を受け取っていた。
 侍と徒士が、「士分」である。
 その下に、足軽や中間など一代限りの奉公人がいた。
 足軽や中間は家臣団に含まれず、身分は町人や百姓と変わりなく、「一代抱」として定期的或いは臨時に町方から採用されていた。
 上士は、自分の実績や能力に関係なく、祖先の功績で世襲的に最終役職が与えられていた。
 徒士は、家督相続に関して一切の保障がない為に、自力で能力を高め、勤勉に働き、実績を上げて、上司や同僚に認められない限り出世できなかった。
 自分の能力で生きるしかない徒士は、人一倍に勉学に励み、他人にない特技を身に付ける為に好奇心旺盛に進んで新しい学問や技術を身に付けた。
 明治維新は、こうした中流以下の下級徒士層が指導的に実行した。
 松平定信の頃になると、知行地を持った上士層は自分の領地を守り身分の安泰しか考えず役に立たなくなった。
 外国船が頻繁に日本近海に現れるようになると、幕府は危機感を募らせ、優れた人材を登用する為に制度改革を行った。
 幕府は財政難にあったが、日本を守るには教育が重要であると考えて、昌平坂学問所を直轄として、旗本・御家人はもとより足軽や町人まで身分に関係なく門戸を開放して、向学心ある者は誰でも入校させた。
 サムライは、それがどうしても必要でやらねばならないと決めたら、変化や変革を恐れず実行した。
 儒教素読を徹底したが、実生活に役に立たない観念的理念的朱子学を廃し、より合理的で実用的な学問に力を入れた。
 中国や朝鮮のような物の役に立たない空理空論は、価値を見出さないどころか、くだらない屁理屈と嫌った。
 歴史はくり返す的に古典だけを後生大事に学び、一字一句間違いなく諳んじて個人的に悦に漬る暗記だけの者は、感心しても心がないとして嫌った。
 新たな事態に対処する為に、西洋の学問や技術を積極的に取り入れた。
 それでも、何をどう学ぶかは本人の好奇心として自主性に任せた。
 学習の進め方は、師と弟子の一対一で直接指導であった。
 教える側は、対面指導であった為に、優秀な者は特別扱いしてトコトン教えたが、好奇心だけで向かないと判断すれば他の学問を薦め、学習意欲のない者は真面目な生徒の邪魔になるとして容赦なく追い出した。
 各藩も横並び的に、優れた人材を広く確保するべく藩校を開校した。
 日本の近代化は、身分や家柄にとらわれない能力主義的教育制度から始まった。
 下級武士は、出世する為に、苦しくとも弱音を吐かず、学びたいという貪欲さと、新しい技術を身に付けたいという真面目な姿勢で取り組んだ。
 サムライは、一心不乱の「生き様」を大事にした。
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 サムライの妻は、凜として芯を通し、夫を三歩さがって歩き、貧窮に耐え忍び夫を支えた。
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 1784年 乾隆帝は、取り締まっても密入国して布教活動を続ける宣教師を一斉逮捕させ、中国全土にキリスト教禁止を命じた。宣教師は釈放され国外に追放されたが、中国人信者はどう処分されたかは不明である。
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 1786年 イギリス政府は、オーストラリア大陸の占有植民地化にする為に、退役海軍将校フィリップを初代総督に任命した。
 オーストラリアのアボジリニの人口は約30万人で、約700の部族が住んでいた。
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 1785年 山東京伝 『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』
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 1786(天明6)年 藤田幽谷は、『大日本史』は儒教的徳の思想に陥り道徳的天皇を理想とする観念論となり、社会を動かしている法や組織や制度が欠けているとして、より現実的な歴史にする為に「志」と「表」を加えた。
 日本人による、日本人の為の、日本人が大切し守るべき日本独自の理想的天皇像を模索して「国體論」にまとめた。
 古事記日本書紀による日本中心神話を基にした国史の影響を強く受け、『大日本史』の編纂は徐々に脱中華思想として民族主義色が濃くなっていった。
 「国體」という言葉は、中華思想の言葉ではなく、水戸学がつくった和製漢字である。
 近代用語の大半が日本で生まれた和製漢字であると同様に、日本独自の国学における用語の多くも日本由来の和製漢字である。
 朝鮮の使用した漢字の全てが中国の墨守であったが、日本は独自に漢字を造語して使用していた。
 文化面に於いて、朝鮮は独自文化を捨て中華文化を受け入れ、日本は中華文化の一部を取り入れたが大半は独自文化であった。
 つまり。日本には、朝鮮とは違って儒教のほんの触りのみを受け入れ、その大半を有害として捨てた。
 国體とは「日本人らしさの発見」であると共に、西洋の侵略から日本を守る尊皇攘夷の思想的支柱であり、中華思想に対する精神的独自性の主張でもあった。
 中華世界から離れた日本人とは、一体どういう人間かを真剣に考え始めた。
 藤田幽谷「紀伝の類、賢不肖の君臣あるは何れの世も同じに珍しからず、志類を読まざれば歴史を見ざるがよし」
 歴史は、その時々で如何様にも変化して進む以上は、古代の道徳的聖人君主を学んでも実際には役には立たない。
 道徳教育としては、大いに役に立つが実生活では益する所少ない。
 その時代ごとの諸条件で変化してきた組織や制度を学ばなければ、本当の歴史を知る事が出来ない。
 現実社会にそぐわない、中国や朝鮮の空想的観念論的歴史観を否定した。
 日本の現実主義歴史観と中国・朝鮮の理想主義的歴史観は、正反対で似たとこはない。
 日本の歴史は、人徳のある人間本位の物語から、国学による歴史研究の発展に伴い法律・経済・軍事・宗教など社会全般の諸制度史を取り入れた総合史に変容した。
 十志…神祇。氏族。職官。国郡。食貸。礼楽。兵。刑法。陰陽。仏事。
 五表…臣連二造。公卿。国郡司。蔵人検非違使。将軍僚属。
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 林子平『海国兵談』
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 1786年 8月25日 第10代将軍徳川家治(50歳)が急死した。
 1787年 御三卿・一橋家の徳川家斉が15歳で第11代将軍に就任し、松平定信を老中に任命した。
 水戸藩・彰考館総裁の立原翠軒は、松平定信に意見書を提出し、日本を襲う最大の国難は北夷のロシアであると警告した。
 6月 天明の飢饉。全国で一揆や打ち壊しがあったが、京都では打ち壊しは起きなかった。
 近畿一円の庶民数万人が、皇居を囲む御所千度参りを行った。
 天明の打ち壊し。北町奉行・曲淵甲斐守「米がないなら犬を食え」
 第119代光格天皇は、政治力も経済力もまかったが、祭祀王として「国平らかに、民安かれ」と祈って炊き出しを行った。
 上皇や宮家や公家等も、捨て扶持で苦しい生活を強いられていたが、皇室の権威を守る為に炊き出しに協力した。幕府は、庶民の天皇・皇室への感情を考慮して、1,500石の救い米を放出した。
 身分の低い町人や百姓など重労働して生産する立場にいる者ほど、天皇の権威に畏敬の念を抱き、皇室への尊崇の念を持つ。
 自分の手を汚し身体に汗を掻く生産活動をしない儒教を体得した高度な知性を持つ智識人ほど、日本民族的な天皇や皇室への親近感もなく愛着も持たない。
 つまり、現実をありのままに見ようとしない東アジア価値観の知的エリートには、天皇・皇室への特別な情緒は理解できず、むしろ正道を踏み外した忌むべき感情であった。 
 光格天皇は、皇祖天照大神から授かった稲穂に感謝をこめて、新嘗祭大嘗祭といった神事を古式に則って復活させた。ゆえに、日本民族は食事を感謝の気持ちで食する。
 天皇神話と米は、切り離す事ができない不分離の関係であった。ゆえに、祭祀王・天皇は皇居内の水田で神前に供える米を作っている。
 天皇の最重要な使命は、農耕作業に由来する皇室祭祀と祖先に対する宮中祭祀である。
 8月27日 反田沼派や一橋家の策謀で、田沼意次は失脚して老中を解任された。
 御三家や大奥も、田沼意次失脚を支持した。
 閏10月5日 田沼意次は、江戸屋敷の明け渡しと蟄居を命じられた。
 相良城は打ち壊し、城内に備蓄されていた金穀は没収と徹底的に処罰された。
 孫の龍助が、陸奥1万石に減転封された上で家督を継ぐ事を許された。
 松平定信は、天明の打ちこわしを期に幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・徳川吉宗が行った享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。
 前任者である田沼意次重商主義政策と下級役人・商人による能力重視政治を、賄賂政治とそて廃止した。
 朱子学に基づいた重農主義による飢饉対策、厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、旗本への文武奨励などで一応の成果をあげた。
 大田南畝「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」


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 寛政年間。庶民(百姓・町人)が、自由に、行楽目的の温泉旅行と病気治癒の湯治を行う様になった。
 版元は、全国で名の知れた温泉100カ所を選び出し、温泉の効能と共に格付けして番付表を売り出した。
 庶民は、番付の上位の温泉に出かけ、御利益のある神社仏閣に詣で、名の知れた祭りを見物し、名称旧跡を巡り、旨い食べ物を食べ歩き、特産品を土産物として買った。
 日本人は、ありとあらゆるモノに順位を付けるのが好きな民族である。
 相撲力士や歌舞伎役者や遊女から、神社仏閣や名所景勝地や祭り、名産や特産、さらには紫陽花などの花鳥風月に至るまで、番付表を作って売り出し、庶民はそれを買って読んで楽しんでいた。
 日本人は、番付表に名前が乗せられる事を名誉な事と喜び、一つでも上の格付けを得る為に創意工夫を懲らして努力した。
 番付表は、繁盛している格上の者の真似をして楽して得られるのではなく、独自性と個性、伝統的な古風と今風の目新しい斬新さなどが客に評判される事が最も重要視された。
 番付は取れば永遠に不動でその格付けを持てるわけではなく、驕り怠けて努力しなければ評判を落として格下げにされた。
 番付表とは、ナンバーワンであると同時にオンリーワンである。
 その中でずば抜けて優れたモノだけが、日本一・天下一・当代一と称えられ、名人・達人と尊敬された。
 未熟者・若輩者は、先達を見習い、先達を超える為に、勉学に励み、腕を磨き、人格を備えるべく精進した。
 ゆえに。日本一・天下一・当代一も名人・達人も、瞬間的なモノで永遠の称号ではなかった。
 番付表とは、世に出る釘を称える評価基準である。
 日本社会とは、「出る釘は打たれる」社会ではなく、創意工夫の個性豊かな騒々しい社会であった。
 日本文化、江戸文化は、こうして生まれ、成熟度を増して行った。
 桂米朝「落語をやる為の厳しさに、素人もプロもない」
 日本の芸事・芸人や働き・職人には、生き死にを賭けた、一切の妥協や曖昧も許されない厳しさがある。
 それが、番付表であった。
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 藤田幽谷は、由緒正しい武士の家系でも、下級武士の生まれでもなく、無名で身分低い古着屋の倅であった。
 水戸の第六代藩主徳川浩保は、老中となった松平定信に対して、正しい政を行うには身分や家柄に拘らず各地の才識抜群の人材を登用すべきであると助言した。
 そして、学才豊かな18歳の藤田幽谷を推挙した。
 日本は田沼意次時代から能力主義時代に突入して、百姓町人が武士となり幕政や藩政に参加し始めていた。
 日本の身分制度は、中国や朝鮮のような固定化された排他的上下関係ではなくなっていた。
 武士は、世界的常識としての特権を独占する特権階級ではなかった。
 その意味で、日本の封建体制下ではマルクス主義階級闘争は存在しなかった。
 松平定信は、徳川将軍支配を維持する為には、天皇中心の御代を説く藤田幽谷は危険思想の持ち主として採用しなかった。
 家柄重視の保守派は、上下身分制度を守るべく、下級武士から出世した田沼意次のような野心家を出さない為に卑しい身分の者を徴用する事に猛反対した。
 藤田幽谷は、水戸に帰って後期水戸学の発展に尽くした。
 藤田東湖は息子であり、会沢正志榛は直弟子であった。
 幕末を大きく動かした尊皇攘夷思想は、こうした下級武士や町人達の間に広がった。
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 尊皇の志は、失う身分や領地を持った上級武士ではなく、失うものを持たない下級武士や百姓町人が強く持っていた。
 天皇への尊崇は、貧しく虐げられていた下層民ほど強かった。
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 松平定信は、世間で嘆き悲しむ老人が多い事は世も末だと考え、年寄りを敬うという儒教道徳を庶民の間に広めるべく、年取った親を邪険にせず孝行を尽くした者に褒美を与えた。
 その日暮らし的に僅かな稼ぎで生活している庶民にとって、仕事もせず唯飯ぐらいで一日中家でゴロゴロしている老人など邪魔で仕方がなかった。
 貧しい庶民にとって、幾ら生んでくれた実の親とは言っても、大きくなって金を稼いでくれる子供に金を使っても、一銭の得にもならないもうろくした老人などは扶養したくはなかった。
 老人は、子供や若い者をあてにせず、身体が動いて働けるうちは仕事をして自分の食い扶持は稼いだ。
 武士や豪商や豪農以外の一般的な庶民層においては、世間体を気にしていたら家族全員が路頭に迷って飢え死にしてしまう。
 莫大な資産を残せなかった老人は、親孝行や敬老精神などあてにせず、「老人力」で逞しく生き抜いていた。
 自然災害多発地帯では、助けるの働ける大人や将来ある子供であって、明日の命も分からないや老人ではなかった。
 当時の老人は、その事が分かっていただけに若者達を躾ける為に叱っても、自分達を助けるように若者達を説教しなかった。
 なぜなら、明日は若者のものであり、老人のものではないからである。
 貧しさ故に娘を女郎に売らねばならなかった時代に、老人など構っている余裕はなかった。
 ましてや。数年も、十数年も寝たきりで生きていられたら、一家心中するしかなかった。
 本音を言えば、脆くして働けなくなった老人など長生きしてもらいたくはなかった。
 ぞんざいに扱われたくなかったら、天下一の職を手に入れるか、大金か土地を残す事であった。
 日本のもの作りの原点は、ここにある。
 日本各地に残る姥捨て山の物語は、日本の厳しい自然風土では「やむを得ない」事であった。
 老人は、動けなくなるまで、死ぬ時まで、苦しみながら働いた。
 日本は、親孝行と敬老精神という儒教道徳が行き渡っていた中国や朝鮮とは違って、老人にも自活を強いる厳しさがあった。
 だが。江戸時代は、暗く陰気な殺伐とした社会ではなく、よく歌い笑い踊る明るい活き活きとした社会であった。
 その証拠が、百姓・町人の庶民文化である。
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 1788年1月26日 イギリスは、オーストラリアを流刑地として利用する為に、流刑囚780人を含むならず者1,200人をシドニー湾に上陸させた。
 1868年までに、延べ約16万人の囚人を大陸に送り込んだ。
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 1789年 尊号事件。
 フィンランド系ロシア人アダムス・ラクスマン陸軍中尉は、シベリア・イルクーツクで大黒屋光太夫らと出会い、帰国できるように支援する事を約束した。
 アメリカは、西海岸の港町を捕鯨拠点としてオーストラリアやニュージーランドの近海であるオセオニア海域に出向いていた。
 乱獲でマッコウ鯨が激減して漁ができなくなった為に、マッコウ鯨を追って北上し1820年頃には日本近海で漁を始めた。
 7月 フランス革命は、中産階級ブルジョア)が自分の権利を要求する庶民の近代主義運動であった。
 王党派は、自由・平等・友愛で革命で破壊された、家族・社会・宗教・文化・国家という伝統的共同体の絆を守る為に保守主義を生み出した。
 左翼・左派は、理想の為に保守主義や伝統主義を破壊しようとした。
 ニーチェ「大地と共に生きろ」
 プラトン「哲人はほとんどいない」
 フランス革命という近代主義運動は、自由、平等、友愛と合理・理性という4つの理想を掲げた制度改革で、民主的な国民投票で選ばれた代議士が議会で多数となって国家を運営する事であった。
 平等を重視した集団主義が、論理的な計画経済を目指した社会主義で、同志的つながりで社会改革を目指したのが共産主義で、兄弟愛的絆で社会改革を目指したのがファシズムであった。
 自由を優先した個人主義が、合理的な放任経済を目指した、強欲な資本主義であった。
 明治維新を成し遂げた日本は、近代化に当たって、平等の集団主義と自由の個人主義を曖昧に受容し、その矛盾を抱えたまま中途半端に発展した為に、昭和前期に軍国主義化して自滅した。
 徳川幕府は、オランダ商館長の報告でフランス革命を知っていた。
 蝦夷地で、クナシリ・メナシのアイヌ人が反乱を起こした。
 松前藩は、各地の反乱を討伐して徹底的に弾圧した。中立派のアイヌ人酋長達は、アイヌ人が皆殺しになるとして、双方を説得して戦いを止めさせた。
 松前藩は、シャクシャインの乱同様に、苛酷な弾圧を行い、首謀者を大量に処刑した。
 アイヌ人は、和人を平気で罪もないアイヌ人を騙す人間として軽蔑し、信用せず、心の底から恨んだ。
 9月15日 イギリス人航海士ウィリアム・ダグラスは、ハワイ諸島から中国に向かう航海の途中で沖ノ鳥島岩礁を発見し、正確な位置を図って「ダグラス礁」と報告した。
 後年。オランダ商館の医師シーボルトは、著書『日本』の中でダグラス礁を紹介した。
 この事が、沖ノ鳥島を日本領とする根拠の一つとなった。
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