⛪267)─1─天皇ふた理論。天皇の御威光=陰徳は、政治権力・宗教権威・軍事独裁の上に超然と存在していた。石山合戦。〜No.536/  @    

信長と石山合戦―中世の信仰と一揆 (歴史文化セレクション)

信長と石山合戦―中世の信仰と一揆 (歴史文化セレクション)

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 戦後の現代日本人と昔の日本人とは別人の日本人である。
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 何故、万世一系の皇族以外の他人が天皇に即位できなかったのか。
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 軍事独裁織田信長は、朝廷から付託された政治権力を持っていた足利幕府を滅ぼし、朝廷を左右できる強力な宗教権威を持っていた比叡山延暦寺を焼き討ちした。
 そして、百所の持ちたる国を影で支配していた一向宗浄土真宗)の石山本願寺を滅ぼすべく攻めた。
 一向宗は、一神教的教義で魂・霊魂の救済を保障し、仏敵・織田信長と戦って死ねば仏の国・極楽浄土に往生して永遠に生きられると信じ込ませた。
 老若男女の信徒は、死後の安息と永遠の命を信じ、武器を取って戦った。
 宗教権威にとって、れは聖戦であった。
 軍事独裁にとって、それは正しい戦争・正義の戦争であった。
 軍事独裁は、死ぬ事を救済と信じる狂信の宗教権威と泥沼の戦争を続けた。
 織田信長は、被害続出の本願寺戦争を止める為に朝廷に調停を依頼した。
 本願寺も、戦国大名の毛利や紀州地侍などの支援で抵抗していたが、これ以上の抗戦は不可能として朝廷の調停を求めた。
 朝廷は天皇の御威光で、軍事独裁と宗教権威の聖俗の戦いを調停し、宗教戦争終結させ、日本から宗教に関する対立・差別・偏見を消し去った。
 北朝天皇は、足利尊氏の政治権力で新設された為に「天皇の御威光」を失っていたが、軍事独裁織田信長と宗教権威の本願寺との戦いを仲裁する事で神代からの「天皇の御威光」を回復した。
 後継の軍事独裁であった豊臣秀吉徳川家康も、天皇の御威光にひれ伏して政治権力を授かった。
 聖の宗教権威は、俗の政治権力に支配され監視・管理・監督を受けていた。
 日本は、外面的には軍事独裁・政治権力の武家幕府が支配していたが、内面的には天皇の御威光が支配していた。
 だが、その二重構造は、西洋キリスト教的でもなく、中華儒教的でもなく、純日本的であった。
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 もし、この時。
 軍事独裁織田信長が、百姓が持ちたる国を支配していた宗教権威の一向宗を撃破し屈服あせていたら。
 或いは、
 宗教権威の一向宗が、反信長の戦国大名の中心として織田信長を撃退し滅亡したら。
 日本で中華儒教による易姓革命が起き、政治権力を手にした織田天皇あるいは一向宗天皇が誕生したかもしれない。
 そして、別の天皇候補が現れて武力で古い天皇を滅ぼして新たな天皇に即位したかもしれない。
 天皇の御威光は弱まり、政治権力委託権を失い、最悪、万世一系の皇族つまり日本天皇は消滅したかもしれない。
 そして、日本は中華や西洋のような虐殺が繰り返される地獄のような暗黒列島に変貌したかもしれない。
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 天皇とは、日本国・日本民族の「御柱」であり「重し」である。
 家を支える、大黒柱であり、心柱である。
 船の重心を保つ為の、バラストである。
 地震の揺れを減らす、制震装置である。
 天皇とは、単に担がれるだけの便利のいい神輿ではない。
 日本の天皇は、西洋の皇帝や国王とは違い、中華(中国・朝鮮)の皇帝や国王とも違う。
 天皇は、日本民族限定の、民族宗教ではなく民族文化である。 
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 石山合戦は、元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い。本願寺法主顕如石山本願寺に篭って戦った。
 概要
 広義では、元亀元年9月12日の石山挙兵から天正8年8月2日の顕如退去までの10年間を指すが、天正8年閏3月7日(1580年4月20日)に本願寺は大坂退去の誓紙を信長に届けて戦闘行為を休止したことから、閏3月7日を終わりとすることもある。
戦国時代最大の宗教的武装勢力である本願寺勢力と、天下布武を目指す織田信長との軍事的・政治的決戦であり、石山合戦終結と同時に各地の一向一揆はその勢いを著しく失った。また、江戸時代に本願寺勢力が分裂する遠因ともなった。
 「本願寺勢力」という言い方は、本願寺派とすると現在の浄土真宗本願寺派西本願寺系)と混交するためである。また、浄土真宗全体が本願寺側についた訳ではない点にも注意する必要がある。以下の文中においては単に本願寺と記す。
 また、「石山本願寺」という呼称についても、近年「石山本願寺」の名称が登場したのは江戸時代以降で、石山合戦当時には「大坂本願寺」と呼ばれていたとする説があり、これを支持する研究者の間では「石山戦争」「石山合戦」の呼称は当時の史実と合致しないとして「大坂本願寺戦争」などの名称を用いる者がいる。

 発端
 大坂石山本願寺は、元は本願寺第8世法主蓮如が隠居先として選んだ場所であり、大坂御坊(石山御坊)と呼ばれた。畿内では本願寺は京都山科を本拠としていたが、一向一揆を背景として本願寺の影響力が強くなると、その武力を恐れた細川晴元日蓮宗徒の法華一揆らと結託し、天文元年(1532年)8月に山科本願寺を焼き討ちした(山科本願寺の戦い、天文の錯乱)。これにより山科は廃墟となり、本願寺は本拠を新たに定めなければならなくなった。本願寺は当時、加賀に大きな勢力を持っていたが、加賀は信者の往来には不便であり、京都からも遠かった。また、山科焼失の前年に大小一揆と呼ばれる本願寺一門内の内戦を加賀で起こしており、現地の門徒の間には本願寺への不信感があった。そこで10世法主証如は京都に近く、交通の便の良い大坂御坊を本願寺の本拠とし、石山本願寺と改称した。こうして、石山本願寺本願寺の本拠として発展した。
 細川晴元は石山の発展も恐れ、たびたび石山を攻撃したが、石山は小高い山や川が多く守りに適した土地であり、山科を教訓として本願寺が軍備を進めていたために、まったく戦果を挙げられなかった。晴元以外の時の権力者も石山の武力を恐れ、同盟を結ぶなどして本願寺との戦火を避けた結果、本願寺の権力は年々増大し、11世法主顕如が准門跡(門跡は皇族・貴族が僧籍に入り住職となる際の呼称)になるなど、中央権力との結びつきが強くなった。
 そんな中、永禄11年(1568年)に織田信長足利義昭を擁して上洛に成功した。足利義昭室町幕府13代将軍足利義輝の弟であり、義昭が信長の武力と共に京都に入ったことで、将軍の地位は第14代義栄から義昭に渡ることが確実になった。信長は上洛してすぐに畿内をほぼ制圧した。信長は将軍家の名目で教行寺など畿内本願寺系末寺に矢銭を要求し、応じない場合には取り潰しなどの措置をおこなった。本願寺には「京都御所再建費用」の名目で矢銭5,000貫を請求し、顕如はこれを支払った。
 永禄12年(1569年)半ばから、信長と義昭との仲はだんだんと険悪になって行った。この年の9月、信長は三好氏征伐を決行する。当時、義昭によって京都を追われ、石山本願寺を頼っていた近衛前久は、顕如に三好氏支援を進言した。ただし、前久は朝廷内・幕府内での対立関係からくる義昭の排除が目的であり、織田氏と直接の利害関係はなかったようである。その証拠に信長が義昭を追放した後、近衛は京都に帰還し、一転して信長派の中心人物となっている。

 講和
 天正6年10月、摂津における石山本願寺討伐の要であった荒木村重の離反によって(有岡城の戦い)、信長の対石山本願寺戦略に重大な狂いを見せた。同時に、三木合戦で羽柴秀吉が三木城を攻めていたが、毛利氏が摂津に上陸して三木城に兵糧を運び込む恐れも出てきた。これを機に信長は朝廷を動かして和解を試みた。朝廷は信長の希望を受け入れて勅使を送ったものの、本願寺は毛利氏の賛同がないと応じられないとしてこれを事実上拒否したため交渉は決裂した。これを受けて信長は毛利氏とも講和を決め、毛利氏への勅使が派遣された。しかしその直後、第二次木津川口海戦において織田水軍が大勝すると信長は和平交渉を中止し、村重攻略を進めた。また村重の反乱自体が周辺の織田方武将の呼応を伴わなかったため、反乱自体は長期にわたったものの石山本願寺攻略への影響は最小限に留まった。
 第二次木津川口海戦での毛利水軍敗退を受けて本願寺は将来の弾薬や食料の欠乏を恐れ始めた他、天正7年(1579年)10月には有岡城が陥落し、三木城の情勢もすこぶる悪くなっていたこともあり、12月、ついに恒久的な和議を検討するようになり、密かに朝廷に先年の和解話のやり直しの希望を伝えた。その動きを期待していた信長側でも再度朝廷に講和の仲介を働きかけていた。そして、翌天正8年(1580年)1月、三木城が落城した。そのような状況の中で3月1日、朝廷は本願寺へ勧修寺晴豊と庭田重保を勅使として遣わして年寄衆の意向を質し、本願寺は和議を推し進めることで合意した。また、信長も別箇に開戦の経緯を知る近衛前久を派遣して本願寺側との妥協点を探った。以上の経緯から「勅命講和」という方式での和議を提案したのは信長側であったが、実際の講和申し入れは本願寺側からあったものと言える。
 閏3月7日、本願寺は信長に誓紙の筆本を提出し、信長と本願寺は3度目の講和を果たした。条件は顕如門徒の大坂退城など以下の通り。

 戦後の影響
 顕如退去後に教如が講和に反して石山を占拠したため、本願寺顕如教如の2派に分かれ、顕如は誓約違反を問われることになってしまった。結局、教如も石山を出ることで内紛には決着がつき、天正10年(1582年)6月の本能寺の変の信長の死の直後に顕如教如は朝廷の仲介により和解するが、顕如は内紛の核となった教如を廃嫡し3男の准如を嫡子と定めた。文禄元年(1592年)11月、顕如が死没すると豊臣秀吉の命で教如本願寺を継ぐが、如春(顕如の妻、教如准如らの母)らが顕如の遺志にもとづき秀吉に働きかけたため、翌年に教如は隠居させられ弟の准如が跡を継いだ。しかしその後も教如は大坂の大谷本願寺(難波御堂、現在の真宗大谷派難波別院)を本拠地として、各地の門徒へ本尊の下付などの法主としての活動を続けたため、この時点で本願寺准如を支持する派と教如を支持する派に事実上分裂した。慶長7年(1602年)、教如は以前より昵懇だった徳川家康による土地の寄進を受け、京都の七条烏丸に東本願寺を建てたために、本願寺は東西に分かれることとなった。
 序文で述べているが、石山合戦は当時最大の宗教一揆でもあったため、それが終結したことで各地の宗教一揆は激減することになった。
 講和条件の「如在無きに於いては(=従順でいるならば)加賀江沼・能美2郡を本願寺に返付する」という条項については、実現されることはなかった。というのは教如が抗戦を呼びかけたため、加賀一向一揆と信長の重臣柴田勝家の交戦は続いたからである。信長と顕如は停戦を命じたものの戦闘は続き、天正8年11月17日に柴田勝家に諸将を討ち取られ、天正10年(1582年)3月には吉野谷の一揆が鎮圧されて「百姓の持ちたる国」は終焉を迎えた。
 ちなみに全国各地の真宗寺院の記録には、誇らしげな武勇談・忠節談はあっても、不法行為をしてしまったという罪の意識や反省の弁は皆無であり、門徒たちの「正義の戦いであった」という意識が明確に投影されている(岩波書店「日本通史 中世4」より)。

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 天皇の御威光は、万世一系の皇族が天皇に即位と同時に身にまとう衣である。
 正統な天皇である事を証明するするのは、三種の神器である八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ=草薙剣)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)である。
 天皇の御威光は、三種の神器を所持する一人の天皇が持つ事ができた。
 天皇の位は、三種の神器を家宝とする万世一系の皇室・天皇家が独占し、皇位継承権を持つ直系皇族でなければ即位できなかった。
 何故なら、天皇の御威光を、俗欲に塗れ血と死をもたらすおぞましい政治権力・宗教権威・軍事独裁から切り離し、不浄・穢れに一切触れさせない神聖不可侵に保つ為であった。
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 誰もが天皇に即位できたら、日本列島は戦火に焼かれ、日本国は滅亡し、日本民族は死滅する恐れがあった。
 日本民族日本人は、中国や朝鮮からに逃げてきた避難者・逃亡者の子孫だけにその恐怖に耐えられなかった。
 そこで、万世一系の皇族だけが即位できる天皇を創り、政治権力・宗教権威・軍事独裁の上に置き、政治権力・宗教権威・軍事独裁の暴走を抑える「蓋(ふた)」にした。
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 日本民族日本人は、表向きは性善説で人を信じやすい「お人好し」だが、内向きでは性悪説で人を信用せず疑り深い。
 政治力・経済力・軍事力を持った頭脳明晰な俗欲人物や類いまれなカリスマ性を持った優秀な指導者・リーダーが出現し、政治権力・宗教権威・軍事独裁を手に入れて君臨する事を最も恐れた。
 何故なら、いい日本人が1割、悪い日本人が3割、中間の優柔不断で付和雷同する日本人が6割である事を知っていたからである。
 つまり、いい日本人が現れる事より悪い日本人が現れる事の方が多いかである。
 そして、日本民族日本人は、自分が中間の優柔不断で付和雷同する日本人である事を自覚していたがゆえに、大望を抱かず、高望みをせず、あるがまま・そのままを不平不満を抱かず素直に受け入れ、才能・能力に合った分相応の生き方に心掛けた。
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 高田好胤「忍び偲(しの)んで なお忍ぶ」
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 日本民族日本人が愛でたのは、目の前に広がる花鳥風月プラス虫の音・苔と良い菌が醸し出す1/fゆらぎとマイナス・イオンの伝統的日本文化である。
 日本の精神修行とは、一人で、気持ちを鎮め、穏やかに心を覗き、冷静に、客観的に、偽らざる自分と素のままで相対する「内観」である。
 明鏡止水。
 山奥に静かに染み出している石清水。
 泉の波一つない水面。
 時折、水面を照らす木洩れ日。
 木々の葉の間を吹き抜ける微風。
 葉と葉が擦れる、かすかな音。
 あたたかい日の光、緑豊かな山野、清き水。
 遠くでなく鹿の声、近くでさえずる小鳥の声。
 せせらぎに泳ぐ小魚。 
 岸辺に棲む沢ガニや蛙。
 見えないところで、生と死、死と生の繰り返しが行われていた。
 それが、日本民族日本人が古代から持ち続け、代々受け継いできたいた心の原風景である。
 つまり、里山の風景が日本の原風景であり、日本民族日本人の心の奥底にある心象故郷である。
 だが、そこは自然災害多発地帯で複合被害発生地帯という避けがたい現実環境であった。
 日本列島は、至る所、全ての所が難有りであった。
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 西行法師
 「願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」   
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 日本民族日本人は、いつ死ぬか分からないい過酷な現実を受け入れて生きてきた。
 日本民族日本人は、不運と思っても不幸とは思わなかった。
 つまり、日本には不幸は存在しなかった。
 日本民族日本人は、不運な民であっても、不幸な民ではなかった、と日本民族日本人は思っていた。
 キリスト教マルクス主義共産主義)が、日本で根付かなかったのはこの為である。
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 天皇の御威光によって最も救われていたのは、政治権力や宗教権威から見捨てられていた身分卑しき貧困の賤民や部落民であった。
 それ故に、幕末期に尊皇派や勤皇派になった天皇・皇室を護ったのが賤民や部落民達であった。  
 下層民である賤民や部落民達こそが、真の天皇保護者である。
 天皇・皇室を憎み敵対する者は、正統な賤民や部落民ではない。
 京都御所の塀が低く無防備なのは、この為である。
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 日本民族日本人にとって、武士道・士道など関心も興味もなく、ましてや道徳の規範でもなかった。
 はっきり言って、武士道も士道も無価値で無意味で愚かで馬鹿な愚物にすぎなかった。
 江戸時代において、武士道・士道など存在していなかった。
 日本民族日本人にとっての道徳の規範・良心の根本は、天皇の御威光である。
 天皇の御威光は、太陽の光や空気みたいなもので感じなければ意識しないが、何となく底にあるというものである。
 その象徴が、お伊勢参り(おかげ参り)である。
 ・1705年(宝永2年)
 最高は1日に23万人。2ヶ月間に330万〜370万人。
 1700年の総人口:2,769万人。
 ・1771年(明和8年)
 参詣者:200万人。
 1750年の総人口:3,110万人。
 ・1830年(文政13年 / 天保元年)
 参詣者:427万6,500人。
 1850年の総人口:3,228万人。
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 西行法師の伊勢神宮参拝
 「何事の おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」
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 日本民族日本人と日本天皇は切り離す事ができない不可分である。
 日本民族日本人は、政治・軍事・宗教を信用せず、貴いと敬いながらも、敬して遠ざけていた。
 日本民族日本人にとって天皇御一人さえ居れば、誰が政治を行おうと、誰が宗教を語ろうと、誰が軍事を持とうと、興味も関心もなかった。
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 日本では皆兵という思想はなく、武器を持って戦争をし殺し合うのは武士・サムライであって庶民(百姓・町人)ではなかった。
 庶民は、武士・サムライの殺し合いを高見から娯楽的に見物し、戦いが終わった戦場に押しかけて死んだ武士・サムライの身包みを剥がして金に換え、死体を懇ろに弔った。
 そして敗走した逃げる武士を、「落ち武者狩り」で集団で襲い勝者に差し出して賞金を手にしていた。
 福沢諭吉ら元武士階級は、そうした卑しくおぞましい庶民を嫌い、西洋式近代教育を施し教養を持った文明人にしようとした。
 伊藤博文山縣有朋らは、徴兵制で庶民を軍人にしたが、軍権を手にした庶民出身軍人が政治権力を奪う事を恐れて「統帥権」を創り、暴力組織である軍隊を天皇直属組織として、天皇の御威光で抑え込んだ。
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 近代国家は、近代法に基づき行政権=政府、議会=立法権司法権=裁判所の三権分立で独立して成立している。
 日本は、変則的近代国家として、天皇の御威光による独立した統帥権=軍事権を持っていた。
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 日本民族日本人と漢族中国人と朝鮮人とは違うのである。
 日本民族日本人に似ているのは、北はアイヌ人、南は琉球人・台湾人・古揚子江流域民=少数民族・東南アジア人達である。
 日本民族日本人の祖先である縄文人は、釣針の南方系海辺モンゴロイドと縫い針の北方系雪原モンゴロイドである。
 日本民族日本人の遠縁に当たる人々は、南北アメリカ大陸に移り住んだ先住民であるマイノリティーのインディアンやインディオである。
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 天皇の御威光とは、神聖不可侵の「日本のこころ・良心」である。
 天皇の存在意義とは、人であるからにはいがみ合い競い合い争い合う事はやむを得ないが、無駄な戦争や無益な殺し合いを防止もしくは早期に終息させ、社会に平和と安寧をもたらし、民草・庶民の生活に安定・安全・安心を保障する事である。
 つまり、如何なる理由であっても中華世界(中国・朝鮮)や西洋世界のような悲惨・凄惨な虐殺を起こさない事である。
 それ故に、血と死を「不浄」として「穢れ」としてもっとも嫌った。
 人を殺し死と血に塗れて生きる武士・サムライは、卑しい人間として嫌っていた。
 日本では、武士・サムライは、非人やエタなどの賤民よりは幾分かはましな身分とされた。
 武士・サムライを交わっていたのは、天皇を退位した上皇・法王そして宮家や公家・貴族であって、天皇ではない。
 本来身分としては、大地を開墾して田畑を作って農作物を育て、海や川に出て漁をし、山林に分け入って猟をする、百姓は武士・サムライよりも上位者である。
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 キリスト教マルクス主義共産主義)は、天皇を不倶戴天の敵とし、天皇制度を廃絶し、天皇家・皇室を消滅させようとした。
 日本民族日本人は、天皇家・皇室の天皇制度を死守するべくキリスト教マルクス主義共産主義)と死体の山を築く死闘を繰り広げていた。
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 高学歴出身知的エリートは、日本的価値観よりキリスト教価値観やマルクス主義共産主義)価値観に親和性が強い。
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 日本民族日本人は、信仰で殉教するより生きる事を優先して命を選んだ。
 故に、1度はキリスト教を受け入れて改宗したが、生きる為に棄教してキリシタンを止めた。
 日本民族日本人は、多神教気分から特定の宗教に偏執しない柔軟な無宗教有神仏者で、マルクス主義者(共産主義者)のような硬直した反宗教無神論者ではなかった。
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 日本には、西洋的な思想も哲学も主義主張もなかった。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として海外に売り捌いて大金を稼いでいた。


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