✾327)─1─江戸経済と欧州経済の繋がり。幕府対淀屋・アムステルダム銀行の金融相場対立。欧州対幕府・住友の産銅高競争。〜No.668/ @  

豪商列伝 なぜ彼らは一代で成り上がれたのか

豪商列伝 なぜ彼らは一代で成り上がれたのか

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 ユダヤ人をめぐるオランダとイギリスの経済戦争。
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 2017年3月号 新潮45「歴史再考5 中野順哉
 『ユダヤ』の移動と大坂・豪商の没落
 17世紀、5代将軍選びに端をなす幕府内の確執。『松之廊下事件』も勃発するが、そもそ因となった出来事は、遙かイギリスの地にあった。
 江戸時代の東西経済戦争。東側の課題が『将軍家の権威の絶対化』であったとすれば、西側の課題はなんであったのだろうか。一言で言えば欧州で起きていた経済システムの変化への対応であった。
 世界が変わる。おカネとの関係が変わる。その競争に負ければ『強奪の対象』にされる危険性がある。果たして日本はそれに対応できるのか。大坂の豪商・淀屋はその最前線に立ってどのように動いたのか──。
 激変する欧州の経済システム
 16世紀から18世紀初頭。欧州では経済システムが劇的に変化した。最初の兆候は『感覚の変化』であったとおもわれる。度重なる宗教的な争いの中で、神の保証する『絶対』への信仰が揺らぎ、むしろ理性的に考え直すことの方が『正しい』と感じるようになってゆく。例えば王権、例えば教会、例えば自然現象……。もちろんネガティブなレッテルを貼られていたものも見直される。金融──この教義的には『絶対悪』であった行為も、『皆が同意する仕組みさえあれば』という条件付きで認められるようになる。
 金融の分野での手腕を発揮していたユダヤ人に対する『絶対的な嫌悪』も緩和し、彼らと手を組むことで発展を目指す領主が出て来た。その動きが顕著であったのは東欧であった。
 15世紀後半に巨大化したモスクワ大公国は、イワン雷帝の出現以降国内のユダヤ人を残虐な手段で排斥していった。ユダヤ人は周辺に逃散してゆく。彼らは元来勤勉であり、賢明であり、他人に直接的な迷惑をかけることをさけるため行儀も良い。集団で動いた先には繁栄がもたらされる。この時もポーランドウクライナリトアニアといった国が農業・商業ともに急速に発展していくことになる。国が富めば人口も増える。ポーランドを例に挙げると、1500年頃の人口が500万人程度であったが、75年後には700万に急増している。
 かつてであれば嫌悪されていたユダヤ人だが、時代の感覚はポーランド国王に別の判断を与えた。それは『ユダヤ人に自治を認める』ということだった。欧州全土からユダヤ人が集まってくる。彼らは順次起業するが、その為には融資が必要となる。そこで16世紀半ば、ユダヤ人はそれまで教義的に禁じていた『ユダヤ人の間での融資』を公式に認めるようになる。手軽な融資によってユダヤ人は、ポーランド東部、ウクライナリトアニアにおける開発を進めてゆく。
 融資の解禁が欧州経済を次の段階へと推し進めていった。東欧でのユダヤ人の実績は、ドイツの商業都市やオランダなどとの絆を深めていった。次第に『絶対』に寄り添って立つ各国の王室に揺さぶりをかけていく。いかなる政策も先立つものはおカネ。ユダヤ人の働きなしには工夫一人動かすことが出来ないほど、商業ネットワークが完成していったのだ。
 例えばハプスブルク家の場合、マクシミリアン2世やルドルフ2世がユダヤ人に特権を与えていなければ、30年戦争勃発と同時に崩壊していたであろう。逆にユダヤ人との良好な関係があったからこそ、莫大な資金調達を可能にし、30年戦争を生き残り、トルコとの戦いにも勝利し、ルイ14世の膨張政策をも阻止出来た。このような王室とユダヤ人の『契約』は投資を巨大化させ、戦争・建築などの規模をみるみるうちに膨らませていった。それは自然な成り行きとして侵略的な重商主義政策へと昇華していく。
 大きなトリガーとなったのがユダヤ人のイギリスへの移動である。30年戦争で大量の物資をハプスブルク家に提供したユダヤ人であるが、その物資の出どころは開発の原点・ポーランド東部やウクライナであった。強引な物資の取り立てが壮絶なユダヤ人の排斥運動を引き起こした。彼らは再び逃亡を余儀なくされた。向かった先はユダヤ人が多く活躍している先進都市アムステルダムであった。
 とこりでユダヤ人の中心には深刻な二派の対立が存在していた。1つはスペイン、ポルトガルからオランダへと移住したスファラド系と呼ばれる西欧のユダヤ人。そしてもう一派は今述べた東欧系、アシュケナズ系のユダヤ人。両者の対立が何に起因しているのかはわからないが、ポーランドウクライナから移住を求めてきたアシュケナズ系に対し、アムステルダム先住のスファラド系は冷たかった。アムステルダムとて差別意識は強く安泰ではない。ユダヤ人の数が膨張すると下手をすれば排斥され、自分たちも追い出される可能性があったあらだ。そこで先住の同胞は清教徒革命で王を処刑したばかりのイギリスに受け入れを要請した。イギリスの時の指導者クロムウェルは理解を示し、議会に受け入れを可決させた。
 イギリスに渡ったユダヤ人は、アムステルダムで興味深いものを見つけていた。株式会社というシステムと有価証券である。そもそもユダヤ人は財を成して没収されるという歴史を繰り返してきた。それを防ぐ為に本名ではなく、架空のキリスト教徒名を財産の名義として使うことも多々あった。そこで彼らが求めたものは『個人名のない信用取引のシステム』だった。東西インド会社の株券を大量に保有しているアムステルダムユダヤ人を横目に、イギリスへ渡った彼らはさらに発展したシステムを考え出した。有価証券を発行する権利をもつ中央銀行イングランド銀行の設立だ。この新たな『城』を手に入れることが出来れば、経済規模は破格に大きくなる。目指すは彼らの新しい世界観──『世界は一つの市場である』。
 その実現の前に障壁となるのは国王でも領主でも教会でもない。オランダ=アムステルダムで成功しているユダヤ人勢力だった。彼らも『世界は一つの市場である』と考えていたからであろう。ただ中継貿易で発展しているオランダの発想は、あくまでも相手国との対等な交渉であった。
 しかしイギリスのユダヤ人たちは30年戦争の折、ハプスブルクへの物資調達を強行した結果、ウクライナポーランド東部で痛い目に遭っている。またすでに成功しているオランダ勢力を同じ土俵で追い抜くことは現実的ではない。となれば強奪しても文句を言われない『取引先』を形成するべきではないか。この究極の重商主義政策に乗り出そうとするイギリスのユダヤ人たちは、オランダの金融機関の信用を破壊すべく戦争を仕掛けたのであった。
 オランダの疲弊と淀屋
 戦争によってオランダ経済も疲弊しはじめた。特に中継貿易は船の安定した航行が保証されて初めて成立する。その信用が海上戦で苦戦を強いられることにより低下していったのだ。当時オランダ最大の貿易相手国は日本であった。例えば1694年にオランダ東インド会社が得た利益を支店別に比べれば・・・台湾が47万グルデン、ペルシアが33万グルデン、インド北西部とスマトラが9万グルデン、インド南西部が4万グルデンであるのに対し、日本は71万グルデンと断トツである。
 17世紀、30年戦争に代表されるように欧州各国は規模がどんどん大きくなる戦争とその継続で疲弊していた。その中でオランダのみが難を逃れ、富を蓄積できたのは遠く離れた先で経営している東インド会社の収益のおかげであった。そして東インド会社の経営の生命線となっていたのが日本であった。取引の窓口となったのは、直接・間接の違いはあれ実質的には日本の商人の代表者・淀屋であったと思われる。
 戦争の影響は1660年代から70年代にかけて顕著であったのではないだろうか。納品の遅れ、質の低下、規模の縮小・・・事情を確かめると戦争の疲弊。しかも主要港が封鎖されるなどオランダが劣勢になる。『自分たち負ければ、世界市場は大変なことになってしまう』・・・そんなオランダの立場を淀屋が情報として共有していたかどうかは分からない。ただその可能性を感じさせる事例を一つ挙げることにしよう。
 第3回英蘭戦争に便乗したフランスのルイ14世はオランダを攻撃。イギリスとの戦いが終結した後も、フランスの侵略は続いた。その為にアムステルダム銀行に対する信用が下落。貯金が現金化できなくなるという事態が生じた。この危機を救ったのは淀屋の米相場で取引されていた『米切手』のシステムであった。アムステルダム銀行ではしれを『預かり証』と名付けた。
 『預かり証』は預けた金銀に対して発行されるものだが、保管期間は6ヶ月。その間放置しておけば預けた金銀は銀行の資産となる。しかし保管料を追加して延長することが可能。また他人への譲渡・売買も可能であった。実際に金銀を下ろせば手数料がかかるので、『預かり証』自体が商品として取引されてゆく。……このシステムは『米切手』をそのままコピーしたものと言っても過言ではない。これによってオランダは『信用』を確保し、銀行はデフォルトを避けることが出来た。
 され、このような『助け船』が実際のものであったとして、淀屋の動機はなんであったのか。『オランダのイギリスに対する危機感を理解していたから』ではないだろうか。
 イギリスのユダヤ人が入り込む隙──それは『絶対的な権威』にしがみつく王家の存在であった。ハプスブルク家にしても、イギリスの王政にしても、それを保護・援助する代わりに経済的支配を手に入れる。それが彼らの戦法であった。逆に今回オランダを救うことが出来た『預かり証』は、実在するもの(預金)よりも仮想空間に出来た信用(バックに日本の金銀という財力を持つアムステルダム銀行の信用)に、より大きな価値が与えられたものであった。イギリスにはまだそんな『最新兵器』に対する攻撃の手段が整っていなかった。
 イングランド銀行が設立されるのは1694年。この『城』の完成をイギリス人に急がせたのは、アムステルダム銀行の『預かり証』の出現があったのかもしれない。いずれにせよ淀屋はアムステルダム銀行にリアルマネーでの信用戦略を与えたことになる。
 『そんな離れた国の問題が』と疑問に感じる方もおられるかもしれないが、イギリス自体は日本に目をつけていた。第3回英蘭戦争の最中、イギリス船リタ−ン号が長崎に姿を現したのだ。要求は交易の再開を求めるものであったが、明らかに目指すところはオランダを追い出し、日本との交易を独占することである。幕府は『勝手に店じまいをしたイギリスに交易を再開する資格はない』と突き放したが・・・彼らは日本の行政システムの現状を情報として持って帰ったのではないか。
 懸念──オランダは恐らくイギリスの帝国主義を食い止めることは出来ないだろう。イギリスは順次オランダの経済的基盤を抑えにかかるはずだ。特にオランダ経済を支えてきた日本は確実にターゲットとなる。
 そして日本を顧みれば徳川将軍家が『絶対的な権威』を主張している。しかも将軍家はその権威でもって名目貨幣を鋳造し、日本全国の経済を統制しようとしてきた。まさにイギリスにとっては好餌。彼らはリターン号を接近させることで、この点を情報として持つ帰っている。御家の権威や貨幣の地金ではなく、一刻も早いイメージマネー体制を構築しなければ危ない。淀屋を中心とした西国陣営にハザードランプが点灯する。その結果が『有栖川宮を5代将軍に』という発想であったのだ。
 しかし計画は綱吉の台頭で頓挫。徳川将軍家の絶対性が逆に強調されてゆく。綱吉による有栖川宮擁立派への執拗な報復が火を噴く中、荻原重秀の改鋳が淀屋を襲った。それでも海外との結びつきが濃厚な港を持つ藩主たちは、西国のハザードランプに敏感に反応し、越前の松平家、水戸の徳川家とともに安芸の浅野家や加賀の前田家も呼応。近衛家や淀屋とともに何とか綱吉の時代錯誤的な徳川将軍家という政治体制を阻止しようと仕組んだのが『松之廊下事件』・・・これはあくまでも想像の世界ではあるが。
 この事件自体は不発に終わった。しかし大石内蔵助によるテロの成功は、当初からいくつかのストーリーとなって庶民に持て囃された。そのうちの一つ、討ち入り翌月に京都で上演された『傾城三の車』は赤穂浪士の苦心などを描いた近松門左衛門の作品。幕府は上演を即座に禁止するが数年後、再び近松は竹本座から赤穂浪士をテーマにした『基盤太平記』を発表する。そしてこの作品がベースとなり、38年後に『仮名手本忠臣蔵』が誕生するのだ。つまり綱吉非難のアジテーション赤穂浪士の討ち入りと結び付けて完成させたのは近松門左衛門であった。
 この近松門左衛門を見出したのも近衛家=淀屋陣営の業績ではないかと私は考えている。現代のように新聞・ニュースなどがない時代において、歌舞伎や浄瑠璃は強力な情報発信の装置であった。経営状況の悪い竹本座に破格のスポンサードをし、考を共有できる作家を引き抜いて座付きにする。現代的には放送局とディレクターを雇い入れるというところか。絶対な影響力を持つYouTuberの組織経営と考えても良いだろう。
 しかしなぜ近松なのか。彼の出生を再考すると意外な側面があることに気づかされる。
 近松門左衛門は福居藩の藩士杉森信義の次男。父が仕えていた藩主は第3代松平忠昌であった。母は忠昌の従医岡本為竹法眼の娘。弟は医師となり岡本一包を名乗った。
 松平忠昌結城秀康の次男。秀康が秀忠の兄であることもあってか、この家系と将軍家は関係が良くない。特に秀康の跡を継いだ忠直は将軍家と仲が悪く、元和9年に豊後に配流された。しかも後継は息子・光長には許さず、弟の忠昌に継がせた。その後の後継者問題にも幕府はことごとく口を挟んできた。
 対する福居藩は何とか本家の血筋に拘わろうと画策したがうまくいかず、姫が自害したり、藩主が腹を斬ったり、家臣同士が対立したりと血みどろの道を歩む。結局福居藩は知行が半分になり、家格も外様の大大名ランクに落とされる。
 そこへもってきて大老酒井忠清結城秀康系の有栖川宮を擁立せんと動く。越前松平家は当然それを応援し、悲惨な現状を好転させようとした。
 しかし綱吉が将軍になってしまう。綱吉は怒りの矛先を越前松平家に向けた。後継者問題を蒸し返し、領地を没収したり、血族を石高の低い国に次々と転封したりとヒステリックな報復を続けた。
 このような主家に対する綱吉の横暴を間近に見てきた近松が京にて新たな主としたのが一条昭良であった。昭良は後陽成帝の第9皇子であり、母は近衛前子(近衛前久の娘)。どのような経緯で松平家からここに仕官したのかは分からないが、ここで大いに文才を発揮していたようである。
 近衛家は淀屋にとって主筋。その近衛家のテリトリで才能を見せた作家は、綱吉によって煮え湯を飲まされ続けてきた結城秀康松平家の家臣の出身。淀屋にとってアンチ綱吉政治を扇動する上でこれほどの適材はない。近松にとっても筆の力で主家の恨みを晴らせるのであれば本望というところ。
 赤穂浪士の話だけでなく、よく見ると近松の作品には『帝こそが絶対』という思想が見て取れる。『国性爺合戦』も皇帝への忠誠の物語。『仮名手本忠臣蔵』も近松の手による原形の段階で、足利将軍が帝を苦しめる『太平記』になぞらえた理由も見えてくる。
 綱吉は激怒したことであろう。討ち入りの翌月に『傾城三の車』が上演された瞬間、ついに決心したのであろうかと──『淀屋を潰す』。
 荻原重秀と銅
 淀屋の勢力を削ぐ目的で荻原重秀に改鋳させた折、綱吉はまだ『潰す』とまでは考えていなかった。重秀もそれゆれに『安心して』ミッション遂行していたことであろう。金蔵のカネを地金の質を落とした貨幣と等価交換した後、淀屋が再起しにくい状況を生み出すという別のミッションが課される。それを精力的に果たそうとする。
 淀屋の力を削ぐといっても一筋縄ではいかない。何といっても日本を物価を決定する機関である。またオランダ東インド会社との太いパイプを形成し。海外からの情報とも直結している。更に東インド会社の株主たちは将軍家の存続を危険視している。この流れを大きく変えるにはどうすればよいのか。
 推測できる対処は以下の3つであろう。
 ①淀屋に匹敵する大店を幕府主導で育成すること。
 ②大店が淀屋よりも魅力のある商業取引を提案すること。
 ③東インド会社の株主が納得できる経済機関を幕府が生み出すこと。
 重秀が当時、どのような情報網を持っていたのかは不明であるが、彼もオランダが疲弊し始めていることを知った。更にその立て直しのためには、銀以外に銅が必要となっていることも見抜く。
 繰り返すが17世紀の欧州各地は規模の大きくなる戦争に疲弊していた。中でもデンマークから独立したスウェーデンの台頭は、各方面での戦争を激化させていた。中継貿易で力を得ていたオランダは、この状況に乗じスウェーデンデンマークの両陣営に武器などを売り、両者の勢力的均衡を保たせつつ戦争を長引かせ巨万の富を得ていた。
 スウェーデンは借款返済の金銀が不足し、領土内に豊富にあった銅をそれに充てた。金銀の不足から銅にシフトするという動きは欧州各国で見られ、中でもスペインのように国庫窮乏を補うべく銅貨を大量に鋳造し、インフレを起こす国も出ていた。スウェーデンから大量の銅を得たオランダは、それまでハンガリー産の銅で力を持っていたハンブルクを凌駕し、銅取引の上でも覇権を我がものにした。
 ところがスウェーデンも黙ってはいない。『であれば』と銅の値を吊り上げてきたのである。銅への潮流はもはや不可逆。大量の銅を手に入れる必要がある。このピンポイントの需要を知った重秀は、そこに淀屋を出し抜く時機を見出し『幕府の配下にある銅をひさぐ大店』を育成する構想を描いた。転がり込んできたのが四国伊予国の立川銅山に隣接する足谷山に、銅の大鉱脈があるという話であった。いわゆる別子銅山である。持ち込んだのは大坂の新興勢力『住友家』の4代当主友芳。これより重秀は住友家とともに別子銅山の開坑に着手することになる。
 その執念はすさまじかった。16世紀ヨーロッパで最高の産銅高を誇ったのはドイツで2,000トン。17世紀に入ってスウェーデンが抜いて3,000トン。これに対して日本の銅は1697年の段階で5,300トンに上った。さらにはその後6,000トンを超えて世界一の産銅高を記録してゆく。これは別子銅山による所が大きい。
 開坑当初19トンだった産銅高は翌年358トン、3年後には657トン、1698年には1,521トンに上る。重秀と住友のチームワークは淀屋とは別の次元でオランダ経済をフォローしていった。
 さらに③については家康以来禁止してきた株仲間を、幕府主導のもとで積極的に公認してゆくことが重秀の答えであったのではないだろうか。株仲間によって米の価格と物価のバランスを調整させれば、淀屋が主体となって行っきた米相場に対抗しうる機関となる。ただこれに関して重秀は本格的な実施をあきらめたようだ。幕府主導で機能させれば将軍の御膝下=江戸がよい。しかし肝心の江戸が元禄地震や火災などでそれどころではなかった。
 淀屋の闕所(けっしょ)
 ここで今一度想像力をたくましくすれば、彼はミッションにのめり込むことで、今、日本を取り巻く状況が綱吉の幕府のみで処理できるものではないことを悟ったのではないだろうか。『銅の需要』は確かに淀屋とオランダの関係に割り込めたかもしれない。しかしリアルマネーからの解放と市場の拡大、植民地確保、帝国主義への序章というレベルの違う考えを将軍家の威信などという遺物で跳ねのけることなど出来ないはずが無い。
 こんな答えにたどり着いた重秀の前に、綱吉は淀屋闕所を叩きつける。『町人の身分を弁えず、贅沢が過ぎる』という罪を与え、市民の敵というレッテルの下、全財産の没収と追放が命ぜられた。近松門左衛門はこれに敏感に反応し、淀屋を朝廷が救うという趣旨の物語『淀鯉出世滝徳』を宝永5年に発表して対抗する。
 そうで無くても次々と天災が襲い掛かっていた時機である。先述の元禄地震のほか、奥州の飢饉、江戸の大火、浅間山の噴火、諸国の洪水、宝永の地震、富士山の噴火、京都の大火・・・これを綱吉に与えた天罰ととらえていた民衆が、もはや綱吉に味方することはなかった。そんな中、麻疹という厳密には不明の死因で綱吉は宝永6年にこの世を去る。
 淀屋の財産は土地などを足して20億両あった。その中には大名への債権も含まれていた。これをすべて取り潰すことで将軍家の懐を肥やされたが、取引のあった各所では不良債権の山が生まれ金融恐慌が発生したことであろう。オランダおよび欧州にも影響を与えたに違いない。
 次期将軍の治世下においても荻原重秀は貨幣改鋳を主張するが、淀屋のいないこの時点では目的は違っていたはずである。リアルマネーの価値を落とすことでそれ自体の意味を失われ、イメージマネーへの脱皮を図る。そんな思いがあったのではなかろうか。しかし将軍家宣のブレーン新井白石は激しく非難。更には『そもそも神君家康公の定めた慶長の幣制に混ぜ物を加えたことが、うち続く地震や洪水など天罰の元凶』と主張。重秀は『家康公を絶対視する』という時代錯誤的発想の前に敗れ去ってゆくことになる。
 ところが・・・。 
 淀屋闕所から十数年の後、淀屋のあった場所に『多田屋治良右衛門』と名乗る男が店を構えた。ここから江戸期の東西経済戦争はファイナルステージへと向かうのだ……」
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 淀屋とは、江戸時代の大坂で繁栄を極めた豪商である。全国の米相場の基準となる米市を設立し、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へ発展する事に大きく寄与した。
 米市以外にも様々な事業を手掛け莫大な財産を築くが、その財力が武家社会にも影響する事となった事により、幕府より闕所(財産没収)処分にされた。しかし、闕所処分に先立ち伯耆国久米郡倉吉の地に暖簾分けした店を開き、後の世代に再び元の大坂の地で再興した。幕末になり討幕運動に身を投じ、殆どの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じた。
 淀屋を創業した岡本家によるものを前期淀屋、闕所後に牧田家により再興されたものを後期淀屋と呼ぶ。
 淀屋が開拓した中之島には、かつて常安町と常安裏町(現在の中之島四丁目〜六丁目)が有った。また現代も中之島に掛かる淀屋橋や常安橋にその名を残している。
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 事業
 淀屋の事業は米市を主とした多角的経営であった。
 初代の岡本三郎右衛門常安は、伏見城の造営や淀川の堤防改修において工事の采配を振り、高い土木工事技術を発揮した。その後、大坂の十三人町(後の大川町、現在の大阪市中央区北浜四丁目)に移り、「淀屋」と称し材木商を営んだ。1609年から1614年に掛けて中之島の開拓を行い、江戸時代から現代まで続く経済の拠点を造った。
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 米市
 江戸時代、米は経済の中心的な存在であった。年貢として納められた米は藩の蔵屋敷に蓄えられ、米問屋を介して現金化された。米は諸藩の財政の根幹をなし、米価の安定は経済の安定としても重要であった。しかし米の価格は仲買人によって無秩序に決められ、価格は米の質や量などを正しく反映したものではなかった。そこで淀屋は、米の質・量・価格の混乱を収めるため、全国の米相場の基準となる米市の設立を幕府に願い出て認められる事となった。
 淀屋は自身が拓いた中之島に米市を開き、また中之島に渡るため淀屋橋を自費で土佐堀川へ架けた。米市に集まる米を貯蔵するため、諸藩や米商人の米を貯蔵する蔵屋敷中之島には135棟も立ち並んでいた。また1620年代、全国の米の収穫は約2,700万石有り、自家消費や年貢で消費される分を除く約500万石が市場で取引きされていた。その4割の約200万石が大坂で取引きされていたと言われている。
 米市の取引きは場所を取る米を直接扱わず、米の売買が成立した証拠として手形を受け渡し、手形を受け取った者は手形と米を交換するという事が行われていた。それが次第に現物取引でなく、手形の売買に発展する事になった(米切手の項も参照のこと)。この淀屋の米市で行われた帳合米取引は世界の先物取引の起源とされている。淀屋の米市は二代目の言當、三代目の箇斎、四代目の重當の時代に莫大な富を淀屋にもたらした。井原西鶴は「日本永代蔵」の中で淀屋の繁栄ぶりを記している。
 その後の米市は、元禄10年(1697年)に対岸に開拓された堂島新地(現在の堂島浜一丁目)に設立された堂島米市場に移された。堂島米市場では現物米を扱う正米取引のみが行われ、現物米と交換するための米切手を売買する事は禁じられていた。享保初年(1716年)頃より始められた帳合米取引が、享保15年(1730年)8月13日、幕府より公許され世界初の公設先物取引市場堂島米相場会所となった。
 闕所
 宝永2年(1705年)、五代目の淀屋廣當(よどやこうとう)が22歳の時に幕府の命により闕所処分となった。廣當の通称である淀屋辰五郎の闕所処分として有名である。
 闕所時に没収された財産は、金12万両、銀12万5,000貫(小判に換算して約214万両)、北浜の家屋1万坪と土地2万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品などという記録が有る。また諸大名へ貸し付けていた金額は銀1億貫(膨大に膨れ上がった利子によるものであるが、現代の金額に換算しておよそ100兆円)にも上った。
 闕所の公式な理由は「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る」というものだった。しかし諸大名に対する莫大な金額の貸し付けが本当の理由であろうとされている。
宝永5年(1708年)、この淀屋の発展と凋落の顛末が近松門左衛門によって浄瑠璃「淀鯉出世滝徳」(よどごいしゅっせのたきのぼり)に描かれた。
 鳥山石燕の妖怪画集『百器徒然袋』には、この淀屋辰五郎の逸話をもとにした鉦五郎という妖怪が登場する。
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 前期淀屋
 初代 淀屋常安
 淀屋常安(よどやじょうあん、つねやす) 永禄3年(1560年)? - 元和8年7月28日(1622年9月3日)
 二代言當の父である。長子(養子)喜入善右衛門は、常安町家、斉藤町家の家祖。次子(実子)常有五郎左衛門は、大川町家の家祖となった。
 山城国岡本荘の武家の出身だったが、織田信長に討たれ商人を目指すようになった。苗字を出身地の岡本、通称を三郎右衛門、名を与三郎、のちに善右衛門とした。隠居し仏門に入ってからは常安の号を名乗った。なお前期淀屋の歴代当主も三郎右衛門を名乗った。
伏見城大手門の工事現場周辺に散在する巨石撤去を他の業者の1/10の価格で引き受け、掘った穴に滑り落として埋める、という周囲の意表を突く方法で解決した事を豊臣秀吉が目を付けた事が豪商となる第一歩であった。
 常安請地として中之島の開拓を手掛け、大阪大学医学部跡地の旧町名である常安町、常安橋に名を残している。大坂三郷(北組・南組・天満組)のうち北組の惣年寄を担った。
大坂の役においては徳川方を支持した。大坂冬の陣では茶臼山と岡山の陣屋を徳川家康徳川秀忠に提供し、徳川方の兵には食料も提供した。その功績が家康に認められ、褒美として山城国八幡の山林田地300石の土地を与えられ、名字帯刀が許された。大坂夏の陣が終わった後には戦の後始末を願い出、亡くなった兵の供養と大量の武具を処分した事でも利益を得た。
 墓所は大阪の大仙寺。
 二代 淀屋言當
 淀屋言當(よどやげんとう、ことまさ) 天正4年(1576年) - 寛永20年12月5日(1644年1月14日)
 弟、五郎右衛門の子(三代箇斎)を養子とする。通称を三郎右衛門、名を言當、号を个庵(こあん)とした。なお二代、四代、五代の歴代当主も个庵を名乗ったので、二代を区別し特に玄个庵と呼ぶ。
 十三人町の町年寄を務めた。
 墓所は大阪の大仙寺。
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 五代 淀屋廣當
 淀屋廣當(よどやこうとう、ひろまさ) 貞享元年(1684年)? - 享保2年12月21日(1718年1月22日)
 元禄15年(1702年)に家督を継ぐ。
 宝永2年(1705年)淀屋辰五郎の闕所処分を受けたのは、その時期から廣當の時代であったと考えられている。
 墓所京都府八幡市の神應寺。戒名は潜龍軒咄哉个庵居士。
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 江戸時代の金持ちであった豪商・町人や豪農・百姓達は、商売や暮らしを良くするべく稼いで蓄えた私財を社会基盤整備の為に使った。
 貧しい者達は、世間・地域の為に私財を投げ出す有徳・篤実なお大尽さんに感謝していた為に、甚大な被害を出す自然災害や大火が発生しても、「どうせなくなってしまうのであれば奪ってしまえ」というさもしい根性からの襲撃は起こさなかった。
 江戸時代以来、日本では大陸のようなマルクス主義階級闘争史観における政治体制や社会秩序を崩壊させるような暴動・騒動・騒乱は起きなかった。
 日本には、「搾取」をキーワードにした支配階級と被支配階級・人民という対立関係は存在しなかった。
 マルクス主義階級闘争史観は、日本には当てはまらない。
 江戸時代のお大尽さんと現代の資産家は、心・志・誠、品位・品格・品性そして気概を持っているかどうかで、同じ金持ちでも本質的に異なる。
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 江戸経済は、中華経済圏を通り越して欧州経済圏を繋がっていた。
 江戸時代の日本は、同じ様な鎖国政策を取っていても中国や朝鮮とは異なっていた。
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 江戸幕府キリスト教を排除しキリシタンを弾圧したのは、中世キリスト教会が絶対神の名の下で、日本人を奴隷・傭兵として海外に売り飛ばし、不寛容で日本神道・日本仏教・民族的風俗を破壊消滅しようとしたからである。
 日本において宗教弾圧を受けたのはキリスト教だけであり、奈良時代にはゾロアスター教徒・原始キリスト教徒・イスラム教徒などが帰化したが弾圧されるどころか官吏として登用されていた。
 南方系海洋民と揚子江流域系水の民による雑種の混血民族である日本では、人種・民族・宗教・文化による差別は存在せず、他言語も排斥せず多様性豊かな日本国語の中に吸収し転換して利用した。
 多神教の日本神道は、狂信的に凶暴化して世間を破壊する様な暴走を起こさなけば寛容に受け入れていた。
 中世キリスト教会のみが、日本をキリスト教化する為に民族宗教を破壊しようとした為に弾圧された。
 キリシタン弾圧の原因は、中世キリスト教会が普遍宗教という優位性を理由にして、日本人を家畜売買さながらに奴隷として売って大金を稼ぎ、数万年前の縄文時代から永きに渡って受け継いできた民族的土着信仰を破壊しようとしたからである。
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 日本人は、洗礼を受けずに亡くなった父や母、妻や子供、祖父母など祖先が救われて天国に行けず、地獄に落とされる事が耐えられなかった。
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 祖先を神として崇める祖先神・氏神の人神信仰を持つ日本民族日本人は、地獄に落とされる血の繋がった祖先達と共に地獄に落ちる事を希望した。
 祖先がいない天国(神の王国)など、関心もなければ、興味もなく、敢えて行きたいとは思わなかった。
 異教徒として死んだ全ての祖先を救えないような隣人愛の信仰などは、幾ら有り難い教え・福音であっても信じる気はなかった。
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大坂堂島米会所物語

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