🎑66)─1─陶器。陶磁器。有田焼とマイセン。~No.151No.152 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本は、世界から高く評価され、信用されていた。
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 伝統技法を守るだけでは、伝統工芸を継承できない。
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 陶芸家・今泉今右衛門「伝統は相続できない」
 日本の伝統は、個人芸であり、先代のコピー芸ではない。
 各代が、祖先が培ってきた技法を独自の技法として身に付け、試行錯誤を重ねて自分だけの作風を生み出す必要があった。
 伝統的作風と新しい作風を受け継いだ技法を使って編み出して行こうという心構えが、日本の伝統である。
 100年前の作品を今100%の姿で再現する事が、日本の伝統工芸ではない。
 絶えず新しい価値観を持った新しい工芸品を伝統的技法で世に送り出す、それが日本の芸術である。
 「変化がない様で変化している」
 伝統的形式美に秘められた静かにして確かな躍動感が、日本の伝統美である。 
 創作と工夫に対する苦悩と格闘が、日本の匠の源泉である。
 それを乗り越えた先に、心に響く感動がある。
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 朝鮮出兵。島津軍は、全羅北道南原の沈壽官ら陶工約80人を捕まえて薩摩に連れ帰った。
 茶の湯が盛んな日本では、高値で売れる茶器を焼く陶工は大事にされた。
 陶工達は、当初は暴力で異国の日本に連れられてきた事への反発はあったが、長くと陶器を製作している一に、身分差別や職業差別で奴隷の如く使役するが朝鮮より職人を大事にし優遇する日本への親近感が湧き帰化を望んだ。
 島津氏は、朝鮮人陶工らが焼く陶器を高値で売る為に、薩摩焼地場産業として育てる為に朝鮮人達を帰化させ士分に取り立てた。  
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 1616年頃 佐賀に有田焼が誕生した。
 1650年頃 初代酒井柿右衛門は、色絵付けに成功した。
 1670年頃 乳白色の素地に十分な余白を残しながら控え目に色絵を描く「柿右衛門様式」が確立した。
 ヨーロッパの王侯貴族は、柿右衛門様式の磁器を絶賛し、室内装飾にする為に高額で購入した。
 メイド・イン・ジャパンは、江戸時代から存在し、日本職人の粋はヨーロッパに輸出されていた。
 2015年 第15代酒井柿右衛門「伝統と伝承は違います。私が最も重要だと考えているのは、単に昔ながらの技術や意匠を受け継ぎ守るのだけではなく、時代に則した柿右衛門の作風を創造していく事です」
 日本の匠とは、昔からの伝統と現代の新しい技法を組み合わせて、新しい芸術品を絶えず創作する事である。
 このバランスの取れた両輪を生かす事で日本文化は発展して花開き、片一方に偏重し創作を止めたとき日本文化は色あせ衰退する。
 中国や韓国の世界的優れた陶磁器は過去にのみ存在するが、日本の陶磁器は過去と現代に途切れる事なく存在する。
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 2016年4月2日号 週刊現代「社長の風景
 有田焼を代表する窯元・香蘭社 深川裕次
 文化は多くの人と、長い時間にはぐくまれるもの。簡単には育たない。
 緻密 佐賀の有田焼は、元祖『クールジャパン』と言えるかもしれません。17世紀中頃まで、欧州では中国の磁器・景徳鎮が人気でした。しかし中国国内の内乱でそれが手に入れにくくなり、欧州の貴族から日本の有田焼が注目されたのです。『絵柄が極めて緻密だ』と珍重され、欧州貴族はこぞって買い集めたと言います。
 有田焼には3つの様式があります。1つは古伊万里様式。赤や金を使った豪華絢爛なものです。次に柿右衛門様式と言って、白い生地に余白を多く残し、左右非対称の絵を描いたもの。最後が鍋島様式。天然コバルトで薄い青の絵を施し、お茶碗の裏にも模様が描かれています。
 現代技術 当社には、江戸の昔から『磁器の質を精にすべし』という言葉が伝わっています。現代風に言えば『品質管理を怠るな』といった意味で、当社が長い歴史を刻めたのは、この思いを受け継いできたからでしょう。
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 癖 ……常に業界全体のことを考えているせいか、居酒屋に行くと、癖で必ず器の裏を見て、どんな器かを確認してしまいます。きちっとした食器を使っている店は、味にも品格がある場合が多い。食器が安物だと、味も接客も『これじゃお客様の心までは満たせないな』と思うことが多いです。
 文化 有田焼は日本で初めてつくられた磁器で、今年、誕生400周年を迎えます。魅力的な文化は、多くの人と、長い時間にはぐくまれるもの。何より、有田には窯元だけでなく、多くのプロが関わっています。磁器の原材料である陶石をを売ってくれる企業、大まかな形をつくってくれる生地の企業など、様々なプロの協力があって初めて窯元が作品をつくれるのです。マグカップと皿がいくつかあれば食事はできますが、それでは寂しい。『文化』と言えるまでに成熟した深みを愛(め)でる楽しみを、世界に届けていきたいですね」
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 ウィキペディア
 マイセン (陶磁器)
 マイセンは、ドイツのマイセン地方で生産される磁器の呼称。名実ともに西洋白磁の頂点に君臨する名窯である。
 誕生の経緯
 東洋からもたらされた白磁は、17世紀ごろの西洋社会では憧れの芸術品であった。各国が競ってその製造開発に乗り出し、ザクセン選帝侯兼ポーランド王のアウグスト2世も錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーを幽閉し、白磁を作るように命じた。ベトガーは物理学者・数学者・哲学者エーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウスらの協力を得て、1709年にザクセン・フォークラント地方のアウエ鉱山のカオリンを原料とした白磁の製造に成功した。アウグスト2世はこれに大満足し、西洋磁器の歴史の幕が開けた。
 翌1710年、ドレスデンに「王立ザクセン磁器工場」が設立され、硬質磁器製造の独占権が与えられた。これが現在の「国立マイセン磁器製作所」の始まりである。数か月後に磁器工場は25Km離れたエルベ川沿いのマイセン地方・アルブレヒト城の内部に移され、厳重に機密が保持された。また、同年1月23日には「ザクセンでは今や東インドと同等の磁器の製造が可能になった」という布告が出ている。
 なお、ベトガーは幽閉を解かれることなく、ただちに染付の複製を命じられた。しかしベトガーはこれを果たすことなく37歳で死亡した。
 近年の研究では、チルンハウスは1704年に既に磁器の焼成に成功していたのではないかとも考えられている。

 マイセンの発展
 マイセンはエルベ川の舟運により材料・製品の輸送が容易であり、また近辺には露天掘りでカオリンを採掘できるザイリッツ鉱山もあり(現在では坑道を掘って採掘)、この立地条件の良さが現在に至る繁栄を支えてきた。
 初期のマイセンのデザインは中国の五彩磁器や日本の伊万里焼の影響を受けているが、1720年にウィーンから招かれた絵付師ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト(1696年 - 1775年)らによってヨーロッパ的なロココ調の作品が主流になった。1764年には工場私設の芸術学校が創設され、4年間の訓練・実習と専門課程が設けられている。また、1865年に作られた国立マイセン磁器製作所では、この芸術学校の卒業生が大勢働いている。
 贋作防止のため、マイセンの陶磁器には交差した2本の剣のトレードマークが1723年から用いられており、これは現在まで使われているトレードマークの中ではもっとも古くからあるものの一つである。なお、刃や鍔の傾きなどは年代によって変化している。
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 有田焼は、佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器である。その積み出しが伊万里港からなされていたことにより、「伊万里(いまり)」や伊万里焼とも呼ばれる。泉山陶石、天草陶石などを原料としているが、磁器の種類によって使い分けている。作品は製造時期、様式などにより、初期伊万里、古九谷様式、柿右衛門様式、金襴手(きんらんで)などに大別される。また、これらとは別系統の献上用の極上品のみを焼いた作品があり藩窯で鍋島藩のものを「鍋島様式」、皇室に納められたものを「禁裏様式」と呼んでいる。江戸時代後期に各地で磁器生産が始まるまで、有田は日本国内で唯一、長期にわたって磁器の生産を続けていた。1977年(昭和52年)10月14日に経済産業大臣指定伝統工芸品に指定。
 九州旅客鉄道JR九州佐世保線有田駅-上有田駅間の沿線から煙突の立ち並ぶ風景が見られる。

 歴史
 磁器生産の開始
 肥前磁器の焼造は17世紀初期の1610年代から始まった。
 豊臣秀吉朝鮮出兵の際、有田を含む肥前の領主であった鍋島直茂に同行してきた陶工たちの一人の李参平は、1616年(元和2年)(1604年説あり)に有田東部の泉山で白磁鉱を発見し、近くの上白川に天狗谷窯を開き日本初の白磁を焼いたとされ、有田焼の祖である。李参平は日本名を「金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)」と称し、有田町龍泉寺過去帳などにも記載されている実在の人物である。有田町では李参平を「陶祖」として尊重し祭神とする陶山神社(すえやまじんじゃ)もある。

 海外への輸出
 磁器生産の先進国であった中国では明から清への交替期の1656年に海禁令が出され、磁器の輸出が停止した。このような情勢を背景に日本製の磁器が注目され、1647年には中国商人によってカンボジア伊万里磁器が輸出され、1650年には初めてオランダ東インド会社伊万里焼(有田焼)を購入し、ハノイに納めた。これによって品質水準が確認され、1659年(万治2年)より大量に中東やヨーロッパへ輸出されるようになった。これら輸出品の中には、オランダ東インド会社の略号VOCをそのままデザイン化したもの、17世紀末ヨーロッパで普及・流行が始まった茶、コーヒー、チョコレートのためのセット物までもあった。
 こうして17世紀後半から18世紀初頭にかけて最盛期を迎えた有田の磁器生産であるが、1684年の展海令などで景徳鎮窯の生産・輸出が再開され軌道に乗るにつれて厳しい競争に晒されることとなる。また、江戸幕府が1715年に海舶互市新例を制定し貿易の総量規制を行った事から、重量・体積の大きい陶磁器は交易品として魅力を失う。最終的には1757年にオランダ東インド会社に対する輸出は停止され、以降は日本国内向けの量産品に生産の主力をおくこととなる。今日の我々が骨董品店などで多く目にするのは、こうした18世紀の生産品であることが多い。19世紀は明治新政府の殖産興業の推進役として各国で開催された万国博覧会に出品され、外貨獲得に貢献する有田焼に期待が集まった。この輸出明治伊万里は第四の伊万里様式美として研究され、確立されつつある。万国博覧会伊万里と称される。
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