🏞62)─1─徳川綱吉は、弱者救済と不殺生の意識変革を行った。松平定政と由井正雪。~No.262No.263 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 「生類憐れみの令」は、犬の外に牛・馬・鳥・魚介類などの動物の虐待・殺生を禁じるとともに、弱者救済として捨て子や捨て病人を禁止した。
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 マルクス主義共産主義)史観は、日本の歴史にはいらない。
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 2018年1月12号・19日号 週刊ポスト「逆説の日本史 井沢元彦 
 近現代編 第三話
 帝国憲法教育勅語 その14
 『歴史の極意』を理解するために知っておくべき『アントニーの法則』
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 福田恆存小田島雄志といった先達の訳を参考にすると『人(偉人あるいは英雄)の死するや、その為したる善事は墓に葬られ、悪事のみ千載の後まで語り継がれる』といったところだろう。
 これを最近私はよく高校生相手の講演で話す。歴史の初心者にまず知ってほしいのがこの『アントニーの法則なのに、日本では歴史学者も作家、文化人もこの法則に気がついていない人があまりにも多いからだ。
 高校生に『これどんな意味だと思う?』と聞くと、『人間って恩をすぐ忘れる動物ということでしょう』という返事が返ってくる。確かに、人間は恨みは忘れないが人から受けた恩はすぐに忘れる。このセリフも一見そのことを行っているようだが、私はシェイクスピアはもっと深い意味を持たせていると考えている。私の好意的解釈かもしれないが、これはまさに『歴史の極意』とも言うべき重大な法則だからだ。
 その妙味が一番理解しやすい事例は、日本史では徳川綱吉の時代であろう。私が綱吉を名君だと言うまで、歴史学界の先生たちもほとんどすべて『綱吉は人間より犬の命を大切にしたバカ殿だ』と言っていた。歴史が見えていないのである。
 武士というのは戦場で敵の首を取ってくることが仕事だ。悪い言い方をすれば『商売は人殺し』なのである。だからたとえば辻斬りや無礼討ちなどして人殺しの練習に励むことは、ちょうど職人が毎日自分の技術を磨くために練習をするのと同じことで、褒(ほ)められることだった。また、馬術や弓術の世界では、馬に乗り犬を追い回し弓矢で射殺す犬追物(いぬおうもの)などは、戦場で実際に役に立つテクニックを養える『スポーツ』として武士の世界では大変人気があった。この名人は褒められたということだ。
 そうした生命軽視の社会を根本的に変えたのが綱吉だ。『殺して褒められる社会』から『犬を殺しても死刑』の世界。確かに綱吉と同時代の人間は『武家の棟梁(とうりょう)である将軍なのにその心がまるでわかっていない』などと綱吉を批判する。綱吉の高邁な理想が理解できないのである。しかし粘り強く『悪法』そのを一世代続ければ、世代交代が起こり常識は完全に変わる。たとえ犬であれむやみやたらに殺してはならない、新しい常識が生まれる。
 問題はここだ。新しい世代はそれが常識になるから、一昔前は『人殺し、犬殺しの名人が褒められた』ことがまったくわからなくなる。つまり、それを変えるのが、どれほど大変だったか、変えた人間はどれほど悪口を言われたか、と言うこともわからなくなる。しかし、そういう人間がいたからこそ世の中は変わったのだ。それなのに『生命尊重の世界を実現した』という最大の善事は忘れ去られ、『人より犬の命を大切にしたバカ殿』という悪事のみはいまだに語り継がれているのではないか。おわかりだろう。歴史学者の先生方もアントニーの法則がわかっていないのである。
 由井正雪という軍学者がいた。江戸時代初期、幕府を転覆させようという『陰謀』を企んだ人間である。江戸時代の人間がそれを非難するのはわかる。徳川家に対する反逆は絶対悪だったからだ。しかし現代の人間は、彼の目的は幕府の過酷な大名取り潰し政策によって生まれた大量の浪人の救済にあったのだから、もっと柔軟な目で評価しなければいけない。しかし通俗時代劇などでは正雪はいまだに悪人だ。もっと平和的な手段を取るべきなのに一足飛びに武力に訴えたのがよくないという視点で、正雪の行動はとらえられている。しかし、それは歴史がまったくわかっていない証拠なのである。正雪を悪人呼ばわりする人に私は聞いてみたい。あなたは松平定政を知っていますか、と。日本初の慈善家といってもいい人である。正雪と同時代の人で大名でありながら浪人たちがあまりに困窮しているのを嘆き、その領地2万石をすべて返上し浪人救済にあててくれと幕府に建白した人物である。
 私はこのことも高校生によく聞く、この人物の行為は当時どう評価されたでしょうか?常識で言うならば賞賛されたと言うところだろう。しかぢそれは現代の常識だ。じつは定政は乱心者つまり狂人として社会的に葬られたのである。
 なぜか?大名取り潰し政策を立案し武家諸法度を定めたのは徳川家康であるが、その徳川家康は江戸時代東照大権現とよばれる神であった。神の決めたルールは人間が変えることができない。それを変えようとする人間は大悪人で、徳川の一族にはそんな大悪人がいるはずが無いから、万一いたら頭がおかしいとして処分するしかない。
 由井正雪が武力で世の中を変えようとしたのはこの後のことである。もはや武力による手段しか残されていなかったのだ。正雪の遺言が奇跡的に現代に伝えられているが(おそらく役人のなかにも共鳴者がいたのだろう)そのなかで正雪はてゃんと定政のことについて幕府を批判している。
 いまだに正雪は平和的手段を取らず一足飛びに武力に訴えた悪人としてドラマなどでは描かれることが多い。なぜそう描かれるのか?日本歴史学界の見方がそうだからである。しかし未遂に終わったとは言え、正雪の行動が幕府を変えた。幕府はこれ以後よほどのことが無い限り、大名を取り潰さなくなったのである。ここでもまさに『幕府の頑迷な態度を改めさせ、以後浪人(失業者)の発生を最小限にした』という善事は忘れ去られ、『武力で世を乱そうとした大悪人』という悪名のみが千載の後まで語り継がれている。アントニーの法則どおりである」
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 普遍宗教・グローバル宗教は、例外なく、絶対神・御仏の御名によって「殺人」・「盗み」・「姦淫・邪淫」・「貪欲」などを戒律・律法で禁止し、道徳=倫理とし、「愛」・「慈愛」・「慈悲」を説いている。
 モーセ十戒。沙弥の十戒
 民族宗教・ローカル宗教である日本神道も、死と血を穢れ不浄と忌み嫌い、不浄を祓い清める為の儀式を行っていた。
 だが、人間は、心の中に潜む「より多くのモノを欲する」という誘惑に突き動かされ、殺人・盗み・姦淫・貪欲の罪を犯す。
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 白人キリスト教徒商人が、アフリカ人(黒人)や日本人(有色人種)などを奴隷として家畜の様に売買していた。
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 キリスト教徒は十字軍として、イスラム教徒は聖戦士として、神の正義で地上に神の王国=神の国を実現させるべく異教徒との聖戦を戦い、異教徒を女子供に関係なく虐殺していた。
 それは、ユダヤ教徒仏教徒でも同様であり、日本神道を信奉する日本人でも同じであった。
 問題は、宗教ではなく人間にあった。
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 日本でその神命・仏命に背いて犯す人間の原罪・宿罪を断ち切ったのが、徳川綱吉である。
 徳川綱吉は、日本を儒教国家に造り替えようとした。
 徳川綱吉が信奉した儒教は、異端の日本儒教であって中国儒教や朝鮮儒教などの正統な中華儒教ではない。
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 正統な中華儒教は、聖人君主の徳として仁・礼・義を説いているが、殺しや盗みを否定していたいない。
 盗人にも三分(さんぶ)の理。泥棒にも三分の道理。
 そして、易姓革命としての「禅譲放伐(ぜんじょうほうばつ)」の正当性を認めている。
 禅譲とは、徳を失った君主・皇帝がその位を世襲せず徳を持った赤の他人に譲ることである。
 放伐とは、徳を持った者が徳を失った君主・皇帝を武力で討伐して放逐あるいは亡ぼす事である。
 日本に比べて中華世界で戦乱が絶えず、おぞましい虐殺が日常化していたのは中華儒教が原因であった。
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 中華儒教は、万民の平等や公平を認めず、公私ではなく聖人小人を峻別し、超えられない上下関係を打ち立てる事が正しい世の中であると確信していた。
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 中華儒教は、主君や社会に対する「公」よりも親に対する「孝」を最優先とし、公私混同も有りうるとした。
 日本儒教は、主君への忠誠と社会の秩序を保つ為に「孝」よりも「公」を優先し、公私のケジメをつけた。
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 子供は親が罪を犯せば、「孝優先」の中華儒教においては命に代えても守ったが、「公優先」の日本儒教では法の裁きを受けさせるべく自首させた。
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 徳川幕府は、法秩序を守る為に、三両盗めば顔又は腕に入れ墨を入れて前科の印とし、五両盗めば遠島とし、十両盗めば死刑にした。
 諸大名は、横並び的に幕府に倣っていた。
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 幕藩体制は、強権を持って厳しく取り締まって庶民の自由を制限し、厳罰を持って容赦なく処断した為に、日本は世界で稀に見る程に治安が保たれていた。
 極端な話し、人間の願望である殺しの自由や盗みの自由は公権力が許さなかった。
 その為に、治安を守る役人(与力・同心)の人数は諸外国に比べて少なかった。
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 権力を持つ役人の間では腐敗し不正が蔓延り、武士は必ずしも清廉潔白ではなかった。
 だが、主君に対する不忠や幕府・藩に甚大な被害をもたらせば、理由の如何に問わず、上意討ちか切腹のうえお家断絶、家禄・屋敷没収のうえ領地外への放逐という重い処罰を命じられた。
 武士には、正論を持って事の理(ことわり)をハッキリさせる自己弁護は認められていたが、罪科を逃れる為の女々しい言い訳は「武士の恥」として認められていなかった。
 武士が問われたのは、発言・行動などの行為が筋の通った道理に適っているかどうかである。
 武士道は、そこに「死の覚悟」を定めていた。


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