💄10)─1─平安時代の遊女から中宮(天皇の夫人)に選ばれた女性もいた。~No.21No.22 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の遊女は、朝鮮の妓生(キーセン)・宮中慰安婦や中国の娼婦や西洋の売春婦とは違っていた。
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 2018年9月号 WiLL「性相夜話 遊女の原点(3)  下川耿史
 大友旅人が太宰府の長官の任期を終えて奈良の都へ戻る時、児島という遊行女婦(ゆうこうじょふ)から『凡ならば かもかもせむを 恐みと 振りたき袖を 忍びてあるかも』という歌を贈られたことは前号で触れた。これに対して旅人は、『ますらをと 思へる我や 水茎の 水城の上に 涙拭はむ』
 という歌を返したと伝えられる。この歌の意味するところは『私は自分のことを男らしい男と自任していたのだが、涙が溢れて止まらないのはどうしたことだろう。水城での別れは何とも辛いものだった』というのである。いくら歌人の繊細な神経でも児島という遊行女婦の歌にこれほど反応するものどうかと思われるから、この歌にまつわる2人だけの特別な情景に感極まったということなのかも知れない。
 ところで前号では口の中で酒を醸造させつつ踊りまくる宴会の現場についても紹介した。その場面も必ずしも上品とはいえないが、性の持つ面白さはその上品でない風景をも上品下品という価値基準を超越したものとして定着させ得るところにあるといえるだろう。まさしくその風景をうたった歌は、現実の美醜とは関係なく情緒的な感動をもって受け取られるのが普通である。この落差の不可思議さこそ性の原点であり、遊女はその落差を象徴する存在なのである。遊行女婦は訓読みでは『うかれめ』とか『あそびめ』と呼ばれるが、『うかれ』や『あそび』の非日常性とは要するにこの落差のことである。
 こうして売春婦の原形である遊行女婦が日本に誕生した。そうしてそれが遊女という省略形で呼ばれるようになるまでには、さほど時間はかからなかったようである。倉本一宏の『「旅」の誕生』によると、『遊女』という言葉が使われたのは下総国分寺跡から出土した土器に『馬・牛・荷酒・判・遊女』と墨で書かれて史料が見つかったのが最初とされている。下総国分寺とは現在の千葉県市川市付近にあった国分寺の一つで、9世紀には勢威を誇っていたという。聖武天皇の命によって全国に国分寺が創建されるようになったのは8世紀半ばの741年(天平13年)だから、9世紀に勢威を誇っていたとすれば、全国にある国分寺の中でも相当に早い時期に創建された寺である。その頃には遊女という言葉が遊行女婦の略称であることが共通の認識となっていたわけである。
 その後も遊女の世界はさまざまな形で進化・発展して行った。
 『大和物語』は947年から957年頃に成立した物語で、『伊勢物語』以後の平安貴族の実相を描いたものとされているが、その中に『このあたりのうかれめあまた参りて候ふ中に、声おもしろくよしあるもの侍(はべ)りや』という一節があり、うかれめが貴族社会の周辺に沢山いたこと、その中から美声のうかれめを探したことが触れられている。さらに『大和物語』の直後の970年頃に成立した『宇津保物語』は日本最初の長編物語としれ評価されているが、ここには『うかれめ二十人ばかり琴弾き、歌うたひて』という記述が登場する。しかもこの物語では琴弾きは伝奇的な存在として描かれている。
 これらの記述は遊行女婦の中から和歌の女流歌人だけでなく、歌手や琴の奏者など新しい芸のジャンルが生まれてきたことを指している。中でも平安時代に成立した『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』は当時の遊女たちが流行させた歌謡曲を集大成した大衆芸能論として知られているが、これれは後世において、さらに白拍子(しらびょうし)という男装の舞踏師や、出雲お国の歌舞伎などにつながって行くのである。
 変化していたことがもう一つあった。平安時代、遊女は堕落した女の堕落した生業ではなく、遊女の中から中宮天皇の夫人の一つ)も出るという選ばれたものの仕事であった。藤原道長などの権力者も物見遊山の折には必ず遊女たちを招き、絹や衣類、飾り物などをふんだんに贈った。遊女たちは各地の港や神社仏閣の一偶に専有の地をもらって特権的な世界を謳歌していた。
 選ばれたものの仕事としての遊女の世界は鎌倉時代から室町時代にいたるまで保持され、鎌倉時代の『鶴岡放生会歌合職人尽』では絵師や銅細工師、蒔絵師などと並んで職人の一種とされている。また鎌倉時代には遊女を管理する遊君別当(ゆうくんべっとう)という役所まで開設され、室町時代には傾城局と改称されている。
 これらの社会的な地位を確立した遊女たちに対して、下層階級の人々を相手にした女性たちも少なくなかった。奈良時代の『駿河国風土記』には手児の呼坂という坂の麓に遊女がいたことが記述されているし、平安時代の女流日記の一つとして名高い『更級日記(さらしなにっき)』に足柄山の麓で3人の遊女と出会ったことが記されている。また『国史大系』の遊女の項によると、平安時代には下級娼妓(しょうぎ)が夜発(やはつ)と呼ばれていたという。こういう呼び名のあることから、その数が相当数に上ったことが想像される。彼女たちの系譜も江戸時代の夜鷹(よたか)から敗戦後のパンパンまで連綿と時代を彩っているのである」
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 日本の最高神は女性神天照大神である。
 天照大神は、現天皇家・皇室の祖先である。
 日本天皇の正統性は、天照大神の直系男系子孫によって守られている。
 天照大神の直系男系しか日本天皇に即位できない。
 日本天皇位は、男性性ではなく女性性である。
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 強大な軍事力で勝ち抜いた勝利者・覇者であろうと、類いまれな政治力を持った君主・王者であろうと、敬虔な信仰と崇高な道徳・倫理を持った偉大な聖人・賢者であろうと、女性神天照大神の血筋でない者は天皇に即位できなれなかった。
 権力者であれば、誰でも天皇に即位できるわけではなかった。
 それ故に、天皇は政治・経済・軍事・宗教の場から意図的に遠くへ追いやられた。
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 女性神最高神として崇める日本では、ジェンダーフェミニスト、レディーファーストなどは存在しなどころか成立しない。
 ジェンダーフェミニスト、レディーファーストを訴える日本人は、日本の伝統文化を破壊しようとする日本人である。
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 日本の女性を侮辱し蔑視し差別し虐待する事は、最高神天照大神の女性性を否定する不敬行為である。
 日本国は、最高神の女性神が統べる神の国である。
 日本民族日本人は、女性神最高神として崇める女性性の強い特異な民族である。
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 日本天皇を否定若しくは廃絶しようとする日本人は、女性差別主義者であり、反宗教無神論者である。
 如何なる神社にお参りする資格はない。
 が、そんな日本人でも、あたたかく受け入れるのが日本の神々であり神社である。
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 日本から女性性を暴力的に奪っていったのが、海の外から渡来した、仏教が最初で、次に儒教で、そしてキリスト教で、最後にマルクス主義共産主義)であった。
 だが、日本精神風土は女性性を取り戻す為に、女性性を持つ観音様を見出し日本仏教へと改変した。
 キリスト教聖母マリアを見出して改造しようとしたが、中世キリスト教会が拒絶したがゆえに宗教弾圧をし国外に追放した。
 男性性に凝り固まった儒教に対して、日本独自の解釈であやふやに骨抜き・気抜きして日本儒教を新しく新設した。
 マルクス主義共産主義)が反宗教無神論を異常なほど頑なに捨てようとしない為に、女性性の日本天皇と女性神天照大神を守る為に思想弾圧した。
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 日本民族日本人が命を捨てても守ろうとしたのは、伝統的女性性である。
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 原始的な日本において、女性と男性は対等、若しくは女性の方が男性よりやや上位であった。
 その証拠が、女体像が多い縄文土偶である。



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