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2017年2月16日号 週刊文春「ぶらりわが街 大人の散歩 門田恭子
流人がもたらした焼酎の楽園
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大島や新島などの伊豆諸島は江戸末期から続く、知られざる焼酎の産地だ。その発祥の地となったのが八丈島で、いちばん多い4軒の蔵元が残る。小宮山さんの八丈興発もそのひとつだ。
『最初は伊豆諸島の蔵元が力を合わせ、ズバリ「東京島酒」の名称で普及に努めているんです。東京島酒。覚えやすくて、素敵な名前でしょう』
八丈島に焼酎の文化を伝えたのは、藩の密貿易に加担した罪で八丈島に島流しになった薩摩の廻船問屋、丹宗(たんそう)庄右衛門という人物だ。庄右衛門は食料難の解決策として栽培が定着していたサツマイモに着目。わざわざ郷里から蒸留器を取り寄せて製法を伝授した。
『それ以前の酒は稗(ひえ)などの雑穀で作った粗悪なドブロク。アルコール度数も10度くらいしか上がらない。芋焼酎のうまさは衝撃的だったと思います』
流人の歴史をもう少し知ろうと、八丈島歴史民俗資料館を訪ねた。ノスタルジックな木造の建物は東京都の旧八丈島支庁舎を利用したもの。解説員の細谷昇司さんが館内を案内してくれた。
『八丈島の流人の第一号は岡山城主の宇喜多秀家です。一般のイメージと違って、約1,900人の流人のうち4分の1が武士、僧侶も少なくなかった。その多くは政治犯、思想犯でした』
流人はくじ引きによって島内5つの村のひとつが引き受け先となり、狭い流人小屋が与えられた。その先の生活は本人の勝手次第。島民の教育に力を尽くしたり、大工や豆腐屋など、もとの職業を生かして島の産業に影響を与えた人もいた。
『流人への差別もなく、他の島と違って墓も島民と同じに扱われました』
よそ者を受け入れてきたためか、八丈島で出会う人はオープンで温かい。
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