⚔52)─1─寛永の飢饉。国禁を破って密入国した神父10名を捕らえ、棄教を強要する拷問を行った。1641年/~No.217No.218No.219 @ 

飢饉から読む近世社会

飢饉から読む近世社会

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の宗教弾圧は非人道的犯罪とされた。
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 サムライは、主君殺しや裏切りの下剋上を嫌って、領民による国王処刑を正当化するキリスト教を排除しようとした。
 奴隷制度のなかった日本で、日本人は奴隷あるいは傭兵として東南アジアに売られた。
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 日本人キリシタンは、敬虔なキリスト教徒として、被害者である。
 日本人を奴隷として売ったのは、中世キリスト教会であり、南蛮人奴隷商人である。
 キリスト教は、愛の信仰、隣人愛の信仰として、人を奴隷として売買する事を認めてはいなかった。
 が、キリスト教世界にせよ、イスラム教世界にせよ、儒教世界にせよ、奴隷のいない世界はなく、奴隷のいなかった日本は世界の常識を持たない非常識の国であった。
 日本は鎖国をする事で、世界の潮流から取り残されて時代の進歩・発達から取り残されたが、世界常識の奴隷制を黙認するキリスト教を排除できた。
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 寛永の飢饉。
 1610年から始まった寒冷化(元和・寛永氷期)によって飢饉が起きた。
 飢餓は、1641年と年42年の2年にわたって続き、大凶作となって数万人が餓死した。
 自然災害多発地帯の日本では、凶作は1年で終わらず、食糧難は数年続き、その為に多くの餓死者を出していた。
 気候や天候が変わりやすい日本では、来年が豊作になるのか凶作になるのか分からない。
 土着信仰である神道とは、今年は良い天候が続いて豊作になる様にお天道様に祈る自然宗教であった。
 日本の気候には、キリスト教の様な絶対価値観の一神教は向かない。
 ゆえに、「天地創造」や「永遠の命」や「死者が生き返る」といった絶対神の奇跡や恩寵を信じる者は、ごく少数しかいない。
 自然災害多発地帯では、神道の様な寛容な多神教が信仰され、キリスト教の様な排他的な一神教は信仰されない。
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 江戸幕府は、1643年に、百姓が貧しさから土地を売ってより困窮しないように保護する為に畑永代売買の禁令を出した。
 土地の所有を個人から家にしたお陰で長期的な改良投資が可能となり、農産物生産量を上げた。
 禁令の抜け道として、土地の売買は禁止されていたが期限限定の「質入れ」として土地を担保して金を借りる事ができた。
 借金を返せなければ土地は質流れとして貸し手・質屋のものとなったが、所有権は元の百姓が持っていたので、何年経っても借金を返せば土地を取り戻す事ができた。
 怪我・病気、博打、災害などで現金が必要になった貧しい百姓は、豪農や質屋に土地を担保に差し出して金に変えたが、小作人となり自分の土地で働き農作物を借金の代金として返済に充てた。
 日本には、西洋や中華のような裕福な大地主・大土地所有者はいなかった。
 だが、江戸時代後期には、禁令は形骸化され土地の売買が横行し、土地を持たない小作農が増えた。
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1641年 徳川幕府は、平戸のオランダ商館を長崎の出島に移転させ、限定的鎖国体制を完成させた。
 キリスト教禁令と密貿易防止の為に、商館長(カピタン)の1年交替とオランダ人の日本国語習得を禁じた。
 徳川幕府は、通訳業務から商品売買や商品管理までの全般を担うオランダ通詞を長崎奉行所内に配置した。
 オランダは、マラッカ海峡を占領・封鎖してポーランドを東アジア交易から追放した。
 マカオを拠点としたイエズス会は、天文学などを通じて明国や清国で何とか踏み留まっていた。
 西洋諸国は、植民地を拡大して交易の利益を得るべく、地球上至る所で、絶対神の正義を振り回して殺し合いを繰り広げていた。
 白人の植民地が拡大するにつれて、キリスト教の教区も広がって行った。
 そして。現地住民は、生殺与奪の権を持った白人の奴隷に落とされて悲惨な境遇に追い込まれた。
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 1643年 徳川家光は、反幕府反朝廷の気運が残る奥州の押さえとして、保科正之(土津神社)を会津若松に転封した。そして、養子家の姓を徳川の親族として松平姓の使用を許した。
 長野の名家・保科本家は、徳川に乗っ取られる形で消滅した。
 征夷大将軍の職務とは、古代から東北地方に跋扈して叛乱を繰り返す地方豪族や反天皇派渡来人を平らげ、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)の臣下として朝廷に服従させる事であった。
 この頃。朝鮮は、家綱誕生を祝う事を名目として通信使を派遣し、敵国日本の国内状況を探った。
 朝鮮は中国同様に、国外からの脅威がなくなるや内部から腐敗堕落した。
 権力者は政治を私物化して重税を課した為に、庶民は貧困に追い込まれ地獄の様な境遇に落とされた。
 宗門改め役井上政重は、筑前密入国した神父10名を江戸の下屋敷キリシタン屋敷)に収容し、取り調べと棄教を強要する拷問を行った。
 棄教しない者は、国法に従って処刑した。
 宣教師の多くは、命を大事にして生き長らえるよりも、絶対神への信仰の証しとし殉教死を切望した。また、宣教師を匿って捕らえられた日本人キリシタンにも、死後に、神の王国で絶対神から永遠の命を授かる為に殉教する様に説き続けた。
 日本人キリシタンは、自分の信仰のみを信じ、嬉々として家族を道連れに処刑された。
 特に、幼い乳幼児が、幼気にも母恋しさで死を選び、母と共に処刑された。
 こうしたキリシタン弾圧で、日本は悪魔の国とさ、異教徒の天皇は極悪人とされた。
 いずれにせよ。みんなと共に生きる事を無上の喜びと感じる気弱なムラ人・日本人にとって、絶対神だけ見て周囲を見ようとしないキリシタンの死をも恐れない気の強い信仰は狂気であった。
 よって、キリスト教邪教と嫌悪した。 
 ポーランド人宣教師メンチンスキが、日本で処刑された事が本国に伝えられた。
 ポーランド人は、異教国日本に怨嗟の声を張り上げ、異教徒日本人を呪い、ソドムとゴモラの様に「聖なる炎」で全てを焼き滅ぼすように絶対神に祈った。
 日本に密入国していた外国人宣教師や修道士は、長崎からオランダ船で国外に追放した。
 これ以降、前例主義の日本は入国すれば処刑すると宣言しながら、オランダの協力を得て極秘のうちに国外に強制退去させた。例、1708年 イタリア人宣教師シドッチ。
 気弱な日本人にとって、如何なる罪状であっても、人を殺す事は寝覚めが良いものではなかった。
 ゆえに、キリシタンが嘘でもいいから「棄教」するといえば、処刑せず、島流しか無罪放免とした。
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 ポーランド人による「絶対神の怒りで日本を焦土にする」という祈りは、1945年に、ユダヤ人科学者らがユダヤ系国際金融資本の資金援助で開発した原爆で現実のものとなった。その一つは、キリシタンの聖地とも言うべき長崎に投下され、多くのキリスト教徒が生きたまま焼き殺された。
 1930年代後半 昭和天皇は、ヨーロッパから避難して来る大量のポーランドユダヤ人救済を東條英機板垣征四郎松岡洋右キリスト教徒)らに、言葉に出さなかったが希望していた。東條英機松井石根松岡洋右らは、言われなくとも天皇の御稜威・大御心を推察して、反ユダヤ主義者や人種差別主義者の右翼や右派の妨害を排除し、数多くのポーランドユダヤ人を上海日本租界で保護して、ナチス・ドイツホロコーストから助けた。
 国家として、ユダヤ人難民を受け入れ、保護し、支援した国はそう多くなかった。
 昔の日本人は、心豊かであっただけに、現代の日本人とは違って、言われなくとも相手の気持ち推し量る能力に優れ、言われなくとも自分で判断し、自信を持って行動していた。
 昔の日本人と現代の日本人は、全く異なる日本人である。
 ポーランドなどのキリスト教諸国で、異教徒である日本人の残虐行為が知れ渡るや、邪教国日本への憎悪が渦巻き、異教徒撲滅の聖戦が取り沙汰された。
 キリスト教徒白人の、異教徒で非白人の日本人憎しは底が深く、両者が解り合う事は絶望的であった。いくら誠意を持って話し合おうとしても、価値観が天(キリスト教的)と地(神道的)ほどに隔たっている以上、当時の情勢からすれば不可能であった。
 人間であっても、正反対の価値観を譲らず対等関係を主張して、幾ら話し合ってもわかり合える事は出来ない。
 事実。同じ価値観を有するはずのローマ・カトリック教会プロテスタント教会は、聖書解釈をめぐって悲惨な宗教戦争を繰り返していた。
 キリスト教は、隣人愛による福音を広める反戦平和の普遍宗教であるというのは、真っ赤な嘘である。
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 1644年 明国の崇禎帝は、李自成軍に攻撃され、身内からの裏切りで自殺し、明国は内部から崩壊して滅亡した。
 明朝の将軍達は、満州族の侵略を防ぐべく孫子呉子などの兵法書を駆使して、戦略を立て、防衛したが、全て失敗に終わった。
 古典的兵学書による軍略は、遊牧民族のモンゴル人・元や満州族・清には通用せず惨敗し、漢族の宋も明も異民族によって滅ぼされ、中国は異民族の支配を受けた。
 明朝末期。政治は、コネ、賄賂、不正、横領などで腐敗していた。
 経済は、支配者が権力を悪用して不正蓄財し、民衆は一方的に虐げられ搾取され、貧富の格差は極端に広がっていた。
 極貧に喘ぐ民衆は、地方では食えなくなって村を捨て都市に流入したが、都市でも仕事がなく流民となり、食う為に盗賊となった。
 都市は腐敗した悪徳役人が支配し、都市の外では盗賊が支配していた。
 明朝は、各地で起きている流民や盗賊らの叛乱を鎮圧する為に軍隊を派遣し、国費を費やして弱体化した。
 明国滅亡の原因は、豊臣秀吉朝鮮出兵への派兵による国力衰退ではなく、中国内部の権力闘争と政治腐敗が大本である。
 漢族の明朝崩壊は、身から出たサビで、自業自得であった。
 張献忠は、数千人の流民を率いて反乱に加わり、各地で虐殺と掠奪を行って「殺人鬼」と恐れられていた。
 北京に残っていた明朝の遺臣達は、清国の軍事力で反逆者・李自成を滅ぼすべく、清国の都・瀋陽に密使を送り、清国軍を中国本土に引き込んだ。
 �徑の第三代世祖・順治帝(6歳。1643〜61)は、明国から投降した呉三桂将軍の先導で山海関を越し、李自成を破って、首都北京を占領した。
 李自成や旧明勢力は、各地で抵抗を続けた。
 張献忠は、敗走する反乱軍を加えて60万人以上に膨れ上がり、兵士を食わせる為に食糧を求めて各地を転戦し虐殺を繰り返した。
 如何なる強大な国家も、自分の利益や信念の為に、平気で国家と同胞を敵に売る裏切り者によって滅びた。
 中国の各都市は、異民族による虐殺を免れる為に侵略軍を城門の外で迎え、歓喜の声をもって新たな支配者として受け入れた。
 中国人は自分の面子をる為に、正統儒教を教養として身に付けた。
 超現実的な中国人は、どんな汚い手段をとっても殺されない為に、「非暴力無抵抗主義」で王朝・皇帝を裏切り、自国を侵略者に売った。「生きる事」を最優先するという「命至上主義」から、異民族の奴隷になる事を受け入れたのである。
 中国人にとって、自分の命は何をおいても大事にして守り抜こうとするが、他人の命は鴻毛よりも軽いと信じて平然として奪う。
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 呉三桂ら投降漢人将軍達は、かっての主君の遺族や明の遺臣を責めた。
 中国人は、異民族の命令で、同胞である中国人を敵と見なして攻撃し、敵と見なした中国人を女子供に関係なく容赦なく虐殺していた。
 順治帝は、中国を軍事占領するまで、仮想敵国日本に後方を攻撃されない為に、大陸に漂着した日本人13名を送還する様に朝鮮国王に命じた。
 �徑から日本への国書「今や内外を統一して四?を家と為し、各国人民みな朕の赤子なれば、務めて所を得さしめ、以て皇仁を広むべし」
 朝鮮は、属国として、宗主国清国の命令に従って明国討伐軍に参加した。もし、明朝討伐参加を拒否すれば、清国の大軍に攻められて民族が根絶やしにされる恐れがあった。
 朝鮮軍は、清国軍の前で勇猛果敢に戦い、多くの明国兵士や民衆を虐殺した。
 そして、清国軍兵士同等に勝者として、中国人女性を強姦し、中国人の財産を略奪した。
 清国・朝鮮連合軍によって、1,000万人以上の中国人が虐殺された。
 事大主義の朝鮮は、自立心も独立心もそして自我もない為に、大国の属国になると安心して勇猛果敢に戦い如何なる残虐行為も行った。
 中国の大地は、流血の大地であり、何処を掘りおこしても夥しい人骨が出てくる、呪われた大地である。
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 明朝の残党は、揚子江流域で明朝の血を引く皇族を担いで挙兵し、南京に南明王朝を樹立して徹底抗戦を表明した。
 だが、各勢力は皇統の正統性を譲らず、主導権争いに明け暮れ、明朝復活の為の連携した軍事行動が取れず分裂していた。
 漢族の明国残党は、かっての属国であった朝鮮ではなく、尖閣諸島を領有する琉球王国でもなく、敵国であった日本に援軍を求めた。
 滅亡しかけた漢族帝国が最後の望みとして頼ったのは、野蛮国と軽蔑していた日本であった。
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 明国が滅亡した後。明国人難民は、清国からベトナムに逃げ込んでチャイナ・タウンを造り排他的にベトナム人を野蛮人として排除した。
 その子孫は明郷と呼ばれ、地元のベトナム人から嫌われた。
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 清国の中核をなす満州族は、死を恐れずに勇猛果敢に戦ったが、少数民族ゆえに軍事力は乏しかった。軍事力が乏しいゆえに、征服した国家から優秀な人材を登用し、降伏した民族を自軍の兵士として戦場に送り出した。
 歴史的事実として、敵国であった異民族を登用する懐柔策は、支配階級が少数派である証拠である。支配民族が多数派を占める場合、多数派の利益が損なわれる恐れがある為に、少数派の異民族を登用する事はまずない。それが、大陸における大原則である。
 漢族=中国人は、多数派であったがゆえに、民族差別から非漢族を登用するどころか、叛乱を起こして刃向かわない様にする為に人数を減らすべく大虐殺を繰り返していた。
 中国人は、非中国人が如何ほど死のうとも気にはしなかった。
 中国では、こうした残虐行為を徳化政策、中国化政策という。
 中国人が誇る徳とは、そうしたおぞましい徳である。
 これが、中国周辺民族が強制的に押し付けられる中華思想における徳の実体である。
 その為に、中国人は異民族に憎まれて大虐殺された。
 それは、人を人と認めない中国人の傲慢さによる自業自得である。
 清国は、人材を確保する為に、忠誠を誓う明朝の遺臣を多く登用した。そして、各地の反清勢力を内部から崩壊させる為に、有能な者に金や地位や美女をちらつかせて寝返りを誘った。
 明朝を裏切って清国の官職を得た者は、二朝に仕え、二君に忠誠を誓う弐臣と軽蔑された。
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 中国・漢族は、異民族・満州族支配下に入り、科挙で合格して上級役人となっても支配階級にはなれなかった。
 清国朝廷内で使用される言語は、第一公用語満州語と第二公用語モンゴル語と漢語・第三公用語であったが、漢語は下級民の野卑な言葉として嫌われていた。
 清朝満州風は尊ばれ、明朝までの中華風は廃止された。
 中華全体への命令伝達の文字として漢字が用いられ、漢字普及の為に儒教教育が行われた。
 中国の儒教教育は、儒教道徳を広める為ではなく、漢字使用の為の便宜として行われたにすぎない。
 ゆえに、中国人の生活の中に普遍的な儒教精神は存在しない。
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 満州族の支配を嫌った明国人・漢族36姓は、琉球に亡命して久米村に移り住んだ。
 中国人渡来人は、中国に帰還する為に琉球を支配しようとした。




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日本飢饉誌

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