✽287)─2─教皇パウロ5世は、日本人奴隷交易を知りながら、修道会に対して日本をキリスト教化せよという小勅書を発布した。琉球征伐。1607年〜No.577No.578 @            

戦国宗教社会=思想史: キリシタン事例からの考察

戦国宗教社会=思想史: キリシタン事例からの考察

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 各修道会は、殉教を厭わない敬虔な宣教師を送り込んだ。
 これは、中世キリスト教会の、神聖な使命による「聖戦」であった。
 キリスト教を拒む、日本神道及び日本仏教の日本は滅ぼすべき邪教の国であった。
 日本天皇は、邪教を持って「迷える子羊」を悪の道に誘う悪魔王「サンタン」と
認定し、滅ぼすべき邪悪な獣と断じた。
 中世キリスト教会は、神聖なる絶対神の教えに従って日本を浄化し、悪魔王日本天皇邪教日本民族日本人を滅ぼそうとした。
 中世キリスト教会は、西洋から軍隊を派遣しなくとも、20万人以上の日本人キリシタンを兵隊として組織すればよかった。
 日本人キリシタンの半数以上が武士であり、数多くの大名がいた。
 中世キリスト教会は、潔癖症的な不寛容で、同じ土地で邪教徒・異教徒との共存共生を望んでは居なかった。
 日本をキリスト教化した後は、イベリア半島同様に日本から日本神道及び日本仏教を信仰する者は全て追放しようとしていた。
 キリスト教国のスペイン王国ポルトガル王国には、異教徒はいないし、改宗したと偽った隠れユダヤ教徒は異端者として生きたまま焼き殺された。
 邪教徒・異教徒が住んでよいのは、絶対神が祝福し愛した、キリスト教会が支配する神聖な土地の外とされた。
 中世キリスト教会の寛容とは、そう言う事である。
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 キリスト教会は、日本で流行っている同性愛、男色を、男女を創った絶対神の定めに違反すると批判していた。
 ソドムとゴモラは、同性愛の大罪ゆえに硫黄と火を降らして焼き払い、全ての都市住民を焼き殺した。
 キリスト教会は、絶対神の戒律を破っている異教徒の国日本を嫌っていた。
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 徳川家康は、秩序を回復し平和を取り戻すには古き良き日本を守るべきとして、京都御所を再建し、各地の由緒ある神社寺院仏閣の修復に莫大な資金援助を行った。
 敬虔か宣教師らは、日本に「神の王国」を建設する事を神聖な使命とし、徳川家康が行おうとした精神的復興を根底から崩壊させるべく、隠れて布教活動を続けていた。
 人に必要なのは、公として信用・信頼で人や社会と関わり合うのではなく、個として信仰で絶対神と契約する事であると。
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 1607年 徳川家康は、李氏朝鮮との戦闘状態を解消すべく講和交渉を始めた。
 両国は、お互いを準敵性国として警戒し、友好関係を持たず正式な国交を開かず、両国民の自由な往来を禁止した。限定的民間交易として、高麗人参などの薬草や陶磁器や生糸などの繊維製品などの細々と輸入し続けた。
 この鎖国政策によって、徳川家康の人気は低い。
 反徳川勢力が朝鮮や中国と組んで両国軍を国内に引き入れない為に、断固たる過酷な処置をとり、従わない大名や幕府支配に危険な大名は取り潰した。
 江戸幕府は、オランダを通じての南蛮貿易を優先し、朝鮮や中国との交流を重要視しなかった。むしろ、歴史を教訓として中国や朝鮮の日本侵略に警戒した。
 朝鮮通信使の真の目的は、日本が朝鮮侵略の為の軍事強化をしているかの実地検分と、江戸幕府にはその意思がないとの盟約を確認することである。
 1607年の1回目から1624年の4回までは、回答兼刷還使と呼ばれた。5回目からは朝鮮通信使と呼ばれたが、言葉とは裏腹に日本への警戒心を緩める事がなく、あくまでも友好使節ではなく敵情探索使であった。
 朝鮮は、宗主国中国の命に従って、日本の国情を事細かに調べて中国に知らせていた。
 事実、日本側の使節は冷遇され、首都漢城に入る事は許されず、釜山に上陸したら倭館に軟禁された。国書のみが、朝鮮国王のもとに届けられた。
 朝鮮通信使は、約200年間で12回行われた。
 日本側は朝鮮通信使の日本滞在費の大半を賄ったが、朝鮮側は日本使節を軟禁しその経費を日本側に負担させた。
 つまり、朝鮮通信使とは、日本が譲歩した屈辱外交であった。
 ちなみに、オランダ商館長の江戸上がりは自腹であった。
 仏教界は、神社と神々を支配下に置く為に幕府に神社混合令を出す様に強要した。そして、庶民を宗教支配する為に、日本にはなかった地獄の思想と末法の思想(終末論)を広めた。
 『伴天連記』…キリシタンは、神国日本を侵略する宗教であると訴えた。
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 イエズス会のフランシスコ・パシオ神父は、約30万人のキリシタンを守る為に大阪の豊臣秀頼に保護を求めた。
 豊臣秀頼は、徳川幕府キリスト教禁令を無効として、片桐且元キリスト教会の保護を命じた。
 宣教師達は、日本キリスト教化の軍事拠点であった長崎を失い、大阪を新たな信仰の聖地としてキリシタンを集めた。
 徳川幕府と朝廷は、大坂城キリシタンが激増し、豊臣秀頼キリシタンが同盟を組み、キリシタンが豊臣家の財力と大阪城の軍事力を手に入れた事に危機感を募らせた。
 徳川家康にとって、日本をキリスト教化使用としているキリシタンの野望から日本を守る為には、大坂城を攻め豊臣家を滅ぼし、キリシタン勢力を排除するしかなかった。
 戦いに疲れた諸大名は、豊臣家復権の為にキリシタンと協力関係を結んだ大坂方に失望し、天下太平の世の実現を徳川家康に託した。
 政治化した宗教勢力との不毛な宗教戦争一向一揆など)に辟易していたサムライにとって、大坂方と組んで新たな内戦を起こそうとしているキリシタンに敵意を持ち、キリシタンの味方する豊臣家を見限っていった。
 プロテスタントのイギリス、オランダやユダヤ人商人達も、カトリック勢力が大阪の支援を受けて日本を席捲する事を嫌い、徳川方に味方した。
 日本のキリシタンは自分だけの個人的信仰に固執して広い視野を持たず、国内外の情勢を理解せず、カトリックプロテスタントの対立からも目を背けていた。
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 1608年 イエズス会の日本人修道士ファビアン不干斉は、キリスト教を捨て、イエズス会を脱会した。
 6月 教皇パウロ5世は、崇高な愛の福音を受け入れない罪人である異教徒日本人の魂を救済する為に、全ての修道会に対して異教国日本での布教活動を強化する様に小勅書を発布した。
 各修道会は、悪の道に迷う日本人に絶対神の正しい教えを広め、日本に愛と正義に満ちた神の王国を築く為に、学識豊かで優秀な宣教師を送り込んだ。
 日本独占権を失ったイエズス会は、他の修道会に負けない為に日本国内にいる宣教師・修道士にさらなる布教活動を要請した。
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 1609年 徳川家康は、奧医師の施薬院全宗の推挙で、下野国長沼の宗光寺にいた天台僧の南光坊天海を召し抱える。
 この後。三代家光まで仕え、隠然たる力を持って徳川幕府を支えた。
 天海は、南北朝の先例に従い、徳川幕府を打倒とする謀反人が京の天皇を擁して反乱を起こした時に備えて、天皇に即位する資格のある親王を江戸に確保するべきであると献策した。
 上野の忍岡に輪王寺を創建して、天皇の皇子を法親王として迎えた。
 ガリレオは、前年にオランダ人が屈折型望遠鏡を作ったという噂を聞きいて、大量生産して売って研究資金を稼いだ。
 幕府は、大名達の藩財政を圧迫し財を貯めて豊かにしない為に、雇用期間1年の奉公人を雇う一季居(いっきおり。非正規雇用)を禁じ、武士や足軽・小者に至るまでの全ての家臣は譜代(正規雇用)にするように命じた。
 臨戦態勢を強要されていた大名や旗本達は、軍役として石高に見合っただけの戦闘員・非戦闘員を常備する事が命じられていた。
 関ヶ原の合戦以降。各大名は、軍功によって領地が増える合戦が起きなくなるや、石高で定められた正規家臣団を抱える事は不可能になった。
 人件費削減として、藩政に必要な家臣を由緒ある家柄として俸禄を与え譜代とし、それ以外は一代か数年の契約によるお抱え家臣とした。
 幕府は、大名・旗本支配として法令遵守を厳命し、違反した大名・旗本には制裁を加え、時には取り潰した。
 だが、多くの大名・旗本を取り潰すと浪人が巷に溢れた。
 増えた浪人が幕府への不満から徒党を組んで内乱を起こす恐れが出始めるや、規制を緩和して、一季居禁止を廃止するのではなく骨抜きにした。
 戦闘員・足軽や非戦闘員・小者など軽輩の大半は一季居となり、参勤交代などの大掛かりな行列の度に臨時に雇用された。
 さらには、巷に溢れている浪人達にも食い扶持を与える為に、出世させない条件で期限付きで家臣に取り立てた。
 その中でも、藩政に役立つ才能がある者は、正規の重役ではなく、大名個人の側役・用人として取り立て高禄を与えた。
 大名個人の側役・用人は、代が変われば解雇されたが、その実績によって新たな主君に使えたか、他の大名から期限付き契約で雇われた。
 武士には、譜代と外様が存在し、譜代は代々主家に仕えたが、外様は才能・能力で大名家や旗本家を渡り歩いていた。
 外様の武士は、新たに仕える主家が見つかるまで私塾を開き、博識を広め「埋もれた逸材」との名声を上げ、方々から声がかかるまで辛抱強く待った。
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 1609年 アントニオ・デ・モルガ「日本人は意気ある人民で、性質は温良であり、また勇敢である。自国固有の服装をなし、綿布の着物を着け、長さは脛の半ばに達し、前を開く。……腰には大小の刀を佩き、髪は少ない。風采動作は高尚であり、儀式と礼節を尚び、名誉を重んじる。大いに尊敬すべき民族であり、かつ困苦欠乏において果断なる人々である」(『フィリピン群島誌』)
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 琉球王国は、明国の属国として、明国皇帝の支配下にあった。
 琉球暦万暦37年・和暦慶長14年 薩摩藩は、島津家を取り潰そうと狙っている幕府に対抗する為の経済力を付けるべく、自主独立国家であった琉球王国を侵略した。
 3月4日 薩摩藩は、琉球を征服する為に帰属していた旧宇喜多家のサムライを主力とした3,000人の兵を送った。
 3月26日 薩摩軍は、琉球に上陸した。
 琉球士族は、家禄を貰い首里城下に住み、儒教的価値観で文を好み尚武を嫌い、軟弱で奢侈に流れた。
 4月1日 琉球軍4,000人は、首里城に攻めてくる島津軍を攻撃したが敗れた。
 大陸系帰化人らは、琉球を日本の侵略を守る為に武器を手にして戦った。
 4月5日 国王尚寧王は、和睦を申し入れて首里城は開城した。
 最後まで抵抗した中国系琉球人で三司官の謝名利山(鄭迵)を薩摩に連行して惨殺した。
 琉球王国は、薩摩藩付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府使節を派遣した。
 奄美5島は、薩摩藩直轄地となり琉球王国が分離されたが、表面上は琉球王国の領土とされた。
 琉球王国は独立国家の体裁を保つ為に、明国を滅ぼした清国にも朝貢を続け、薩摩藩との両属体制を取り続けた。
 7月 幕府は、戦争状態のままにある明国との関係改善の為に琉球を利用するべく、薩摩藩琉球支配を認め、島津氏を琉球太守に任じた。
 伝統として、琉球王国は歴代中国王朝に属国として朝貢使節を派遣していた。中国皇帝は、琉球を臣下の一人と見なし、王位を与える冊封使を派遣していた。
 歴史的事実として、琉球は日本の一部ではなく、明らかに中国の一部であった。
 朝廷の官位には、琉球守も琉球介もない。鎌倉幕府にしろ、室町幕府にしろ、武士の支配を認める琉球守護職もなかった。
 琉球は、日本の外にある、国際社会が認める独立国家であった。
 琉球人は、侵略者日本人の搾取に苦しめられる事となった。
 歴史的事実として、琉球人は日本人ではなかった。
 高度な儒教的教養を持つ琉球人は、侵略者・日本人の支配を嫌って武力抵抗運動を続け、自主独立を回復する為に宗主国明国の軍事的保護を求めた。
 明国の軍事的介入が行われていたら、琉球は台湾と同様に中国の領土となり、琉球人は日本人ではなく中国人となっていた。
 日本は、アイヌ人の土地である蝦夷地・北海道に次いで琉球・沖縄を侵略し、暴力を使って日本の版図に組み込んだ。
 ポルトガルマカオで、日本人が不法行為を行って暴動を起こした為に、マカオ当局は武力で鎮圧して多くの日本人を殺害した。
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 7月 平戸に、オランダ商船2隻が入港して交易を求めた。アダムスは、家康に対して、宗教に関係なく交易を求めるオランダとの通商を進めた。13年には、イギリスが平戸に商館を設立して、日本交易に参加した。
 新教徒のオランダ・イギリスは、商売敵であるカトリック教徒のポルトガル・スペインを日本交易から追放するべく、相手への非難中傷を幕府に訴えた。
 徳川家康は、之までの南蛮貿易での利益を意識して、大国スペインとその植民地メキシコとの通商を望んでいた。
 イギリスとオランダは、家康やその周囲の重臣にスペインが日本を侵略しようとしていると、中南米征服の例を出して忠告した。
 徳川家康は、オランダ使節に。「日本の何処に寄港しても構わない」という朱印状を発給した。
 9月 柳河藩の二代藩主田中吉政は、キリシタンであったが、仏教との良好な関係を維持する為に浄土宗などの寺院を再建し、祖先の人神信仰を尊重して破壊された神社を修復した。
 熊本藩領内のキリシタン達は、信仰を守る為に柳河藩に移り住んだ。
 9月30日未明 スペイン臨時総督ドン・ロドリゴロドリゴ・デ・ビベロ・ベラスコ)は、離任して次期総督と交替する為に、サン・フランシスコ号を含む3隻でマニラ湾を出港しヌエバエスパーニャ(ニュー・スペイン。現メキシコ)副王領の港町アカプルコに向かった。
 途中で、暴雨風に遭い日本・上総国岩和田村(現、千葉県御宿町)沖で座礁して沈没した。
 ロドリゴ臨時総督以下373人中317人は助かり、岩和田村田尻の海岸に漂着した。
 岩和田村(約300人)の漁師や農民等は、「困った時はお互い様」として、瀕死の状態で動けない遭難者達を保護し、寝床を提供し食べ物や衣服を与えて親身に介抱した。
 日本人は、難破した異国人を殺害せず、品物を略奪しなかった。
 大多喜藩本多忠朝は、連絡を受けるや支援の為に人員を派遣すると共に、江戸表にスペイン人一行の遭難を知らせた。
 駿府徳川家康は、スペインとの交易継続を希望していた為に、丁重にもてなすように江戸の徳川秀忠に指示を与えた。
 ロドリゴ臨時総督らは、37日間、岩和田村に滞在して体力を回復してから江戸に向かい、徳川秀忠を表敬訪問し、その4日後に駿府城徳川家康に謁見した。
 徳川家康は、メキシコへの帰還する為の南蛮船建造費や生活費などの支度金を与える代わりに、スペインから銀精錬技術の提供とメキシコとの通商開始をスペイン国王に認めさせるように求めた。
 ロドリゴ臨時総督は、日本側の要望を国王に伝えて許可を得る事を約束した。
 日本の船大工は、浦賀で、西洋型遠洋航海用帆船サン・ブエナペントゥラ号を完成させた。
 ロドリゴ臨時総督以下317人は、日本人20人と共にサン・ブエナペントゥラ号に乗船し、太平洋を横断してメキシコに帰還した。
 日本の造船技術は、世界レベルで、大洋航海に耐えられる大型船が建造できた。
 『ドン・ロドリゴ日本見聞録』「神武天皇という名の国王が君主制をはじめ統治を行い出したのは、主キリスト生誕に先立つ事663年も前、ローマ創建から89年後だということである」
 世界は、ドン・ロドリゴが書き残した「日本建国は紀元前7世紀頃の世界一古い君主国である」と言う事を信じ、日本を畏怖した。
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 1610年 シャム王国の内戦で、日本人280人が反乱軍に参加していた。
 日本国内で、豊臣秀吉徳川家康に敗れた大名の家臣達は、傭兵として東南アジアに渡っていた。
 日本人売買は、庶民奴隷から傭兵斡旋業に代わっていた。
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 1610年 本多忠勝(1548〜)『本多遺訓』「わが本多の家人は志からではなく、見た目の形から武士の正道に入るべし」
 {本多家の家人は、志よりもまず外見から武士の王道に入れ。外見を見ればその人の心根も見え、心の奥まで分かってしまうものである
 直川智は、中国から持ち帰ったサトウキビの苗を奄美大島に植えて栽培を始めた。
 江戸幕府は、飢饉対策の一環として直轄領や諸藩にサトウキビ栽培を奨励したが、温暖地以外は失敗した。
 諸藩は、財政不足を補うべく地場産業の育成と特産農産物の栽培に力を入れた。
 1月 ルイス・ソテロ宣教師は、家康の希望を叶える為に、スペイン国王の側近レルマ公爵への使者に立つ事を承諾した。病気になったソテロに代わってムニョス宣教師が、家康の朱印状を持ち、使節団である上方商人らと共にメキシコ(ノビスパニア)に渡った。
 商教一致主義のスペインは、キリシタン弾圧を行う異教国日本への不信から、家康の通商開始要望を拒絶した。
 3名の日本人が愛の福音を信じて洗礼を受け、1名はメキシコに残り、2名はスペインに渡った。残りの日本人は洗礼を拒否し、キリスト教徒白人の地元民への厳しい宗教的人種差別を目の当たりにして帰国した。
 マードレ・デ・デウス号事件(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件)。
 肥前島原の領主・有馬晴信は、マカオで家臣を殺害した主犯のポルトガル総司令官アンドレペソアポルトガル船マードレ・デ・デウス号で長崎に寄港した事を知るや、徳川家康に対して仇討ちとしてマードレ・デ・デウス号への攻撃許可を求めた。
 徳川家康は、有馬晴信にマードレ・デ・デウス号への撃沈を許可した。
 キリシタン大名有馬晴信は、徳川家康の内意を受けて、長崎沖に碇泊しているポルトガル船マードレ・デ・デウス号を襲撃して撃沈した。
 海に飛び込んで生き延びた多くの船員を虐殺し、陸揚げされていたわずかな積み荷を没収して、家康に献上した。
 家康は、海外貿易の有用性を理解していたが、ポルトガルやスペインの商人が布教活動と深い関係にある事に危惧の念を抱いていた。純然たる海外貿易を継続する為に、経教分離策としてキリシタンを切り離す良い手立てを探っていた。
 イギリス人やオランダ人の商人達は、日本との交易を独占する為に、徳川家康ポルトガルの植民地における悪事を有る無しに関係なく語った。
 イエズス会日本年報(1614年)「もっともっと大事なのはイギリス人とオランダ人の仕業です。」
 11月10日 ポルトガル国王からインド総督への書簡
「朕は、貴下に次の事を再び依頼せねばならない。……日本航海の売却代金の半分は朕の王宮資産に入れ、それで大砲用の銅を購入してゴアに送付する事。そして残りの半分はマカオの要塞化の費用に充て、司教、聴取官、最年長の市会議員、ミゼルコンディア院長の命令に従って、要塞化に消費する事」
 12月18日付け オランダ国王アレンジ公ナッソウ伯マウリチウスは、両国の友好を求める親書を家康に送った。
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 徳川家康は、豊臣家が天下人としての地位を放棄しなければ滅ぼすしかなく、滅ぼす為に国内外で慎重に用意周到な手段を講じた。
 国内的には、豊臣家が保有する富・黄金を消費させる為に、方広寺再建と全国の寺社仏閣への寄進を勧めた。
 国外的には、豊臣家とスペイン、ポーランドとの関係を遮断して、豊臣家が両国から武器弾薬が購入できないようにする事。
 徳川家康は、親豊臣のスペインを取り込む為に交易を望んだが、カトリック教宣教師が日本をキリスト教化を目的として交易と布教を一体化させている事に警戒し、経教分離を約束するオランダやイギリスとの交易を拡大させた。
 1611年 スペイン国王フェリペ3世は、日本の皇帝が豊臣家から徳川家に移った事を認め、植民地フィリピンを日本から守るべく徳川家康にゼンマイ式置時計など最新の珍しい品々を贈った。
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 徳川家康は、1611年に天皇の権威を削ぐ為に、操り人形にできる幼少の政仁親王を第108代後水尾天皇に擁立した。1613年には、朝廷の政治力を剥奪し、公家を無能化して統制すべく公家衆法度を定めた。1615年には、朝廷支配を強化する為に禁中並公家諸法度を制定した。
 天皇は、臣下であるはずの武家の監視下に置かれ、自由を奪われた。
 後水尾天皇の御製。葦原や茂らば茂れおのがまま とても道ある世とは思うはず
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 日本は、伝統的な仏教国家であった。
 天皇神話による神道は、庶民が全てが無条件で信仰する国教ではなかった。
 神道天皇心神話)は、日本人の精神に良心・道徳・美徳をもたらす「まごころ」の源泉であったが、現実社会を支配する政治力や経済力や軍事力はなかった。
 神社は、祈祷祈願するだけの宗教施設であって、布教活動をして教勢を拡大する仏教寺院やキリスト教会に比べて無力であった。
 インドで誕生した仏教は、日本に伝来して日本的に変質した。日本仏教は、中国や朝鮮の仏教とは交わりのない異なる仏教である。
 日本の仏教は、信者を増やす為の布教活動をしない、祖先の魂を供養する為と称して仏壇や墓標の前で意味の分からないお経をあげ、色んな名目でお布施を集めるだけの葬式宗教である。
 日本独自の神道は、祖先神・氏神信仰として、祖先の神々に自分の明日と子孫の未来に平和と発展をもたらす事を祈る祈願宗教であった。
 日本人は、自分と子孫の「ささやかな」夢と希望を、「ひたすら」祖先の神々に祈っていた。
 神道には、無力を認め、無心となって祖先神に祈る以外に手立てがなかった。
 神社とは、祈るだけの祈祷所であった。祈祷料としての心ばかりのお賽銭や新たな社殿造営の為の勧進を求めたが、キリスト教会の様に広大な土地の寄進や巨額な財宝の寄附を求めた事はない。
 第108代後水尾天皇と各神社は、普遍的真理で日本の神々を討ち滅ぼそうとする荒ぶるキリスト教絶対神が、穏やかになり、憎む事なく、争わず、「和」を持って平等に親しむ事が出来る和魂(にぎみたま)の神になる様に、歴代天皇霊に祈った。
 気の弱い神道には、キリスト教を排除し、滅ぼそうという強い意志はなかった。
 強い意志を持つ仏教界は、日本をキリスト教が支配する国にしない為に、幕府にキリシタン弾圧を行う様に圧力を加えた。
 キリスト教に敵対したのは、氏子と崇敬者に支えられた気弱な神道ではなく、多くの信者を教化していた気の強い仏教であった。
 日本は、仏様が支配する国であって、神様は肩身が狭く仏様の後塵を拝していた。
 寺院は、町の中で、好条件の土地を優先的に与えられ、特権を有する宗教権威を誇示する為に大伽藍を建てていた。
 多くの善男善女は、仏の法力であらゆる御利益をえるべく先を争って参拝していた。
 神社は、町の外で、不便な土地に殺風景な拝殿を建てていた。
 飾り気のない神社に向かい、何の変哲もない鳥居を潜り、宗教権威で人を威圧する様なおごそかさのない社殿の前で、祈りを捧げる者は極少数であった。
 商人が集まって賑やかな門前町を造るのは、地味な神社ではなく派手な寺院であった。
 日本の町は、寺院と共に発展し、そして栄えていた。
 庶民は、法外なお布施をとり腐敗堕落した僧侶を目の当たりにして、幻滅した。
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 1611年 フランシスコ会の宣教師ルイス・ソテロは、大坂のキリシタンを守り日本をキリスト教国化する為に、キリシタン・大坂同盟に松平忠輝・大久保忠隣を加えるべく、キリシタンの熱烈な保護者となっていた伊達政宗に接近した。
 11月 伊達政宗は、徳川幕府を倒して天下を取る野心を持っていただけに、キリシタンを通じてスペインとの同盟を結ぶべく領内でのキリスト教の布教を許可した。 キリシタンに内戦を起こす意志がなくとも、反徳川の大名が日本支配という野心を遂げる為に30万人以上のキリシタンを利用する事を考えていた。
 幕府は、野心的大名が各地のキリシタンを利用して反乱を起こす事を防ぐと共に、キリシタンを危険な宗教・邪宗門邪教として弾圧した。
 その当時としては、国内で悲惨な宗教戦争を起こさせない為の「必要悪」であった。
 だが、信仰を守る為の戦争を聖戦とする敬虔な信者は、幕府のキリシタン弾圧を非人道的犯罪と断罪している。
 大陸で起きた、世界的な戦争の多くが宗教がらみであったといっても過言ではない。
 日本では、宗教による戦争は数例しかないし、大陸ほどの眼を逸らしたくなる様な宗教に関係した陰惨な大虐殺は起きなかった。
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 1611(慶長16)年 慶長地震慶長三陸地震津波(慶長奥州地震津波)。
 青森、岩手、宮城の太平洋沿岸を大津波が襲い、数千人が犠牲となった。
 スペイン人探検家セバスティアン・ビスカイノは、東北沿岸を岩手県大船渡市越喜来(おきらい)に向けて北上途中で津波に遭遇した事を報告した。
 「海中に呑み込まれそうだった」
 仙台藩士・真山正兵衛「領内で津波により1,783人が死亡」
 相馬中村藩文書『利胤(としたね)君御年譜』(藩主相馬利胤)「相馬領の者700人流死」
 「奥筋なお多し」 
 蝦名(えびな)裕一(東北大学災害科学国際研究所准教授)「こうした文書がありながら、慶長地震の被害は過小評価された」
 「広範な被害がわかってきた、『慶長三陸地震津波』の呼称では不正確。それが不正確な防災意識につながる。『慶長奥州地震津波』に改めるべきだ」
 キリスト教では、天災は絶対神の天罰で、天災による被害者は生前に悔い改めていなければ救済の必要はないとされている。
 天災で死亡した日本人は、天国ではなく地獄行きとされている。
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 1612年 山田長政は、駿府朱印船に乗船して、台湾経由でシャム(現タイ)に渡った。
 シャムはアユタヤ王朝時代で、豊臣の残党、キリシタン、奴隷として売られた者など多くの日本人が日本人町を作って生活していた。
 アユタヤ郊外の日本人町は、最盛期で3,000人から8,000人が生活していた。
 山田長政は、ソングンタム国王に忠誠を誓い、戦えそうな日本人を集めて傭兵対である日本人部隊を作り、王宮警護や国内の叛乱や隣国との紛争に活躍した。
 ソングンタム国王は、山田長政の並外れた忠勤振りに感服して、王女と結婚させ近衛兵的な高い地位を与えて頼りとした。
 山田長政は、優れた軍事指導者と言う面だけではなく、貿易商的な才能を活かしてオランダ東インド会社をアユタヤから撤退させて、王家の貿易による収入を増やした。
 1626年 ソングンタム国王は、永年の渡る山田長政の功績に酬いるべく、オークプラという官位を授けた。
 1629年 山田長政は、ソングンタム国王が逝去した後の後継者争で、廷臣カラホムと共に第1王子ジュッタを次期国王に即位させ、敵対した先王の弟シーシン派を押さえ込んだ。
 宰相となったカラホムは、ジュッタ国王が若くして逝去するや10才の第2王子アデットウンを国王にして実権を掌握した。
 カラホムは、山田長政を王宮から遠ざける為に隣国パタニーを攻めさせリゴール州長官に推挙した。
 山田長政は、日本人部隊2,000人を指揮してリゴールを平定し、リゴール国王に任ぜられた。
 カラホムは、新国王アデットウンを殺害した。
 山田長政は、アユタヤ王朝の存亡の危機としてカラホムを討伐して王家の再建を決意したが、侵攻してきたパタニー軍との戦闘中で受けた脚の怪我で死亡した。
 指導者を失った日本町も消滅していった。
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 1612年3月18日 岡本大八事件
 長崎奉行・長谷川藤広の旧家臣・岡本大八は、有馬晴信に「今回の功績を大御所様にお伝えすれば、旧領の回復ができる」と恩賞の斡旋を約束して多額の金子を要求した。
 有馬晴信は、旧領が戻るという魅力に惹かれ、岡本大八本多正純の与力である事から信用して金を支払った。
 岡本大八は、約束を履行せず金を着服した。
 徳川家康は、岡本大八有馬晴信の一件を知るや激怒し、岡本大八を捕らえて火刑に処し、有馬晴信を追放した上で切腹を命じた。
 一連の事件を審議したのは、大久保長安であった。
 大久保忠隣は、政敵である本多正純の威信を失墜させる為に岡本大八事件を利用した。
 マカオポルトガル商人やイエズス会は、マードレ・デ・デウス号に大量の生糸や銀を積んでいた為に、船が沈められた事で大打撃を受けた。
 その結果、ポルトガル商人の日本側への負債は雪だるま式に増えていった。
 キリシタン大名有馬晴信は、連座して処刑された。すべてのキリシタンが信仰に目覚めた善男善女ではなく、キリスト教を個人の利益の為に悪用して私腹を肥やす者も多数いた。
 8月6日 幕府は、諸大名に対してキリシタン禁制の法度を出した。
 「日本は神国であり、君臣関係や覇国交盟の誓約─主従・領主間の誓約は神仏への起請を以てなされる」
 日本の起請は、神の裔・天皇が承認した神仏以外には無効とされ、一度、神仏にたてた誓約に違反すれば処刑を含む如何なる処罰も享受する事が求められた。
 日本の約束は、命をかけてなされていた。
 キリスト教は、絶対神への信仰以外に異教の神への信仰を拒否し、一切の妥協を許さなかった。そして、誓いはキリスト教会に対してなされるもので、絶対神に対してしてはいけない事になっていた。
 徳川家康は、主君への忠誠より絶対神への忠誠心を優先し、愛の信仰心から天下の法を否定するキリシタンに恐怖して、旗本や侍女すべてに対してキリシタン禁令を発布した。
 信仰を捨てない信心深い侍女は、殺すには忍びなく、如何にしても生き延びてもらいたいとして伊豆大島へ追放した。侍女らは、絶対神への信仰から殉教する事を希望したが、生きて島流しにされる事に絶望して泣いた。キリシタンは、信仰を捨てて生きるよりも、信仰を守る為に死ぬ事を望んでいた。
 宣教師は、血を流して殺されるだけが殉教ではなく、如何なる迫害にあっても信仰を守りぬくのも殉教への道であると諭した。
 モレホン「家康は、自分の家臣、武将や兵の中にキリシタンがいるかどうかを調べさせた。14人の身分ある者がキリシタンだとわかった。6人は非常に高い身分で、彼の側近である。甚だ残念に思ったが、背教させる方法がない、と知ったとき非常に怒って彼等を家族、家臣もろとも追放し、日本全国の大名に彼等を迎えるなら厳罰に処すという布令を出した。この人々が堅い心と勇気を持って、禄や知行地、一切の財産を捨て、さらに命まで捧げた事は、容易に説明できないほどである。」(『日本殉教録』)
 京都所司代板倉勝重に、キリシタンの教勢拡大を封じ込める為に京坂地区にあるキリスト教会の破壊を命じた。だが、南蛮貿易に支障をきたす恐れがあるとして、それ以上の措置はとらなかった。
 家康は、経教分離政策を取り、ノビスパン(メキシコ)副王にキリスト教の布教抜きでの交易を求める書簡を送った。
 「我が国は神国なり、開闢よりこのかた、神を敬い仏を尊ぶ。仏神と垂迹して別なし」
 幕府は、旗本・御家人の中にいるキリシタンに対して棄教を強制し、棄教しない者は追放するか殺害した。
 京都一条油小路と堀川のあたりに、前田玄以の一族でキリシタンの前田慶友が家族と共にキリシタン居住区・ダイウス丁に住んでいた。
 キリシタンの多くは、武士や町人たちであった。
 板倉勝重は、キリシタンに好意的であったが、幕府の命に逆らえずダイウス丁のキリシタン63人を捕縛して牢に入れた。
 板倉は、棄教すれば命だけは救うとしたが、キリシタンたちは隣人愛の信仰を守る為に棄教を拒否した。
 処分の沙汰が出るまでに、8人が牢内で死亡した。
 絶対神への命を賭けるキリシタンたちは、生き長らえる為に棄教する事を拒んで殉教する道を選んだ。
 日本人の宗教常識では、死を恐れない狂信的な信仰心であったがゆえに、キリシタンの存在に恐怖した。。
 伏見に滞在していた将軍徳川秀忠は、キリシタン全員を火炙りにして処刑するように命じた。
 鴨川6条河原に27本の磔柱を立て、一本に2人を結びつけ、52人を火炙りに処した。
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 当時の、長崎の人口は5万人以上で、その大半が熱心なキリシタンであった。
 キリスト教会は、天下人である豊臣秀吉徳川家康に恭順の意を表して、要塞軍港都市長崎の武装を解除したが、長崎とその周囲は正式にバチカンが領有する教会領であるという治外法権的意識が強かった。
 イエズス会も、教勢を維持する為に、各地のキリシタン大名や領主に支援を求めていた。
 キリシタンは、天上に君臨する絶対神の神聖な掟は、地上の俗物的権力者による俗世の法に縛られないとの信念を持っていた。よって、国が乱れ、国が滅びようとも、国法が定めるキリシタン禁制に従う意志はなかった。その為に殺されようとも本望であり、むしろ殉教になるとして喜んで処刑を受け入れた。
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 家康は、由緒ある有馬家を存続させる為に家督を曾孫国姫の夫である有馬直純に継がせ、長崎奉行長谷川左兵衛を後見役兼付け人として付けた。
 長谷川左兵衛は、領内のキリシタン弾圧を直純に命じた。
 信仰心薄いキリシタンは、弾圧を恐れ、拷問や処刑から逃れる為に転んだ。
 熱心なキリシタンは、死よりも信仰を捨てる事を恐れ、棄教を拒否して殉教を選んだ。
 領内の宣教師を追放すると共に、主命に従わない家臣5名とその家族をも追放した。翌年には、主命に従わない指導者的なキリシタン8名を処刑した。
 気弱な日本人は、信仰の為に処刑され殉教する事に狂喜し、殉教者を聖人・福者としてその遺骸を聖遺物として奪うキリシタンを目の当たりにして、宗教の持つ狂気に恐怖した。
 長谷川左兵衛は、江戸に下って、家康に有馬領でのキリシタン弾圧について報告し、御上の命より信仰を優先するキリシタンの所行は乱の元になると話した。
 宗教が原因による戦乱の不毛さを肌身で経験していた家康は、不毛の宗教戦争で夥しい犠牲者を出すよりは、転向しないキリシタンのみを弾圧する事を決断した。
 ごく普通の信仰心を持つ気弱な日本人は、宗教とは清く・正しく・誠実に生きる為に命の大切さを説くものだと信じていただけに、意固地となり、居るか居ないかわからない天地創造主への信仰の為に命を捨てて殉教死する事が理解できなかった。
 希薄な信仰心の日本人にとって、地獄の様な拷問を信仰の道として死を永遠の命への扉とする宗教は、気が触れた世にも恐ろしい狂気でしかなかった。
 小心者の日本人は、殉教を絶対神の愛の恩寵として喜び、家族を道連れに死を望んで受け入れるその狂気について行けず、生きて家族のもとに帰る為にキリシタンである事を止めた。
 宣教師やキリシタンは、総出で、脱落し信仰を捨てた者を改心もどしをさせ、「天主のみが我らの真の親であり、天主を信ずれば永遠の命が得られる」と堅く信じ込ませて殉教させた。
 サムライが命を賭けて戦うのは、殉教死を是とする宗教の為でも、全てを破壊する主義主張の為でもなく、先祖の名誉・体面と自分の志・面目と家族及び子々孫々に引き継ぐ心・魂の為である。
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 島国の人間は、大陸の人間ほど、宗教に対して強烈な思い入れを持ってはいなかった。
 祖先を供養する手段として何れかの宗教が無くては困るが、特定の宗教のみを命を捨てても守るほどのものではないと。








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キリシタンの文化 (日本歴史叢書)

キリシタンの文化 (日本歴史叢書)