⚔36)─2─ポルトガル人商人は、ポルトガル国王に対して、日本人奴隷貿易禁止の勅令を廃止するように陳情した。1603年~No.149No.150No.151 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 江戸時代。長崎貿易で、金・銀・銅を輸出し、生糸、繊維製品、砂糖、薬種などを輸入していた。
 幕府は、銀の流失量が多くなり国内の銀が不足し始めるや、1662年に金輸出を解禁し、1668年に銀の輸出を禁止した。
 重商主義者の田沼意次は、金の流失を食い止めるべく、海産物などの俵物や扇子・浮世絵・日本刀・甲冑などを替わりに輸出した。
 銅の輸出量は安定して、国内流通量に影響するほどではなかったために制限はされなかった。
 当時の日本は、金・銀・銅、俵物や美術工芸品を輸出する通商国家であった。
 そして、オランダを通じて生糸や絹・綿・毛などの織物やその他の品物を輸入していた。
 幕府は、キリスト教以外の知識や新しい技術と国際情勢の情報を収集していた。
 サムライは、日本に必要なモノは緩やかに日本流に転換して取り入れたが、必要ないモノは如何に優れていようとも断固として拒否した。そして、換えるべき時は勇気を持って瞬時に新しいモノに換えた。
 これが、自給自足体制に於ける日本の制限付き鎖国であった。
 サムライ日本が理解できなかったのは、キリスト教白人のみの権利を守る万国公法の人種差別思想であった。
 帝国主義における欧米列強の植民地支配と白人種以外の有色人種の権利剥奪が、どうしても理解できなかったのである。
 つまり、人は産まれた時から平等ではなく、肌の色で差別と迫害を受けるという事である。
 天皇と皇室を守ろうとした勤王の志士は、サムライとして、植民地化される恐れのある開国に反対して攘夷を行った。
 日本人と心を通わす外国人を「まれびと」として歓迎し、日本に貢献した外国人を「まれびと神」として日本の神の内に加えた。
 日本神道の神々の中には、外国人の「まれびとの神」も含まれている。
 神道は、世界でも珍しい開放的な宗教である。
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 1500年代(16世紀)から1600年代(17世紀)は、イスラム勢力が全盛期の時代で、東はインドネシアから西は地中海の端のイベリア半島、さらに西アフリカ沿岸と中央アジアまでを支配していた。
 キリスト教勢力は、貧しく、大陸の西の端に追い詰められ閉じ込められ、終末思想による世界観と死生観で明日への希望もなく絶対神に救済と奇跡と恩寵をひたすら祈っていた。
 宗教裁判(異端審問・魔女狩り)が猛威を振るう中で、アラビアからの文化・科学・思想の流入ルネッサンスが起きるや、静かに科学革命も始まった。
 コペルニクス 1473〜1543年
 ガリレオ   1564〜1642年
 ケプラー   1571〜1630年
 ニュートン  1642〜1727年
 科学者の大半が、無神論者どころか敬虔なキリスト教徒であった。
 科学は、宗教と対立したり教義を否定するものではなく、宗教を肯定し絶対神の存在を証明する為に、物事の本質を見極めて神の御手や計らいを明らかにしようとそていた。
 科学活動は、宗教的神聖な信念を明らかにする為に、根拠なき迷信や言い伝え、魔女や悪魔の呪文を白日の下に暴いて撲滅していた。
 科学と宗教は、互恵関係にあった。
 科学と深く結びついたのは急進派プロテスタントのジョン・カルヴァンであった。
 カルヴァンは、金銭目で恣意的に聖書を解釈して教会権威を私物化しているバチカンに異を唱え、誤った教義を糺し、正しい御教えを広める為に、自然の中に隠された絶対神の意思を探し、絶対神の叡知を知る為に科学を利用していた。
 千年王国論によるピューリタン革命は、絶対神と自然・天地は合一という神学思想に基づいた科学革命でもあった。
 その代表が、万有引力を法則を発見したニュートンであった。
 ニュートンら科学者達は、敬虔なキリスト教徒として純粋に、絶対神がもたらす千年王国を解明するべく自然界を探求し、宇宙も地球も聖なる一つの原理で創られ一定の法則で動いてる機械であると確信していた。当時はやった「機械的世界観」である。
 機械のような世界を創った設計者が、万物の創造主である絶対神である。これが、科学者が唱えていた「理神論」である。
 科学は、自然と世界の姿を分かりやする為に輪郭を定めて型を明らかにし、数式と類型で混じらないようにハッキリと分類した。
 思想哲学においても、宗教裁判を引き起こしたバチカンの教義への疑問から、絶対神が示した正しい真理に基づいた新しい秩序を求める動きが起こった。
 ジョン・ロックは、1690年に『人間知性論』を発表した。
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 多神教世界である、古代オリエントでは豊穣神(女神)が、地中海やヨーロッパ内陸では精霊・地母神がそれぞれ信仰されていた。
 一神教であるキリスト教は、自然は絶対神が創造したものであり、収穫は絶対神の恵みであるとして、古の女神である豊穣神や地母神を否定した。
 原始的な森信仰を撲滅する為に、森は悪魔や魔物の住処として忌避して切り開き、豊穣神や地母神を魔女と断罪して弾圧した。
 キリスト教文明とは、唯一絶対真理の基づいた二元論で多様性を否定していた。
 地方のローカル文明であったキリスト教文明は、狭く貧しい地域に閉じ込められ圧迫されている不満から、世界のグローバル文明であるイスラム文明に戦いを仕掛けた。
 それが、大航海時代である。
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 1692年 マサチューセッツ州觥ボストンセイラムに於ける魔女狩り事件。30名に死刑判決。19名が絞首刑、1名が圧死。2名が獄死。逃亡者1名。妊娠の為に死刑延長されて助かった。
 1717年 イギリスに於ける最後の魔女裁判
 1745年 フランスに於ける最後の魔女裁判
 1775年 ドイツに於ける最後の魔女裁判
 1791年 イタリアに於ける最後の魔女裁判
 1793年 ポーランドに於ける最後の魔女裁判
 キリスト教会による魔女裁判は、なかなか終わらず、其の為に無実の女性や子供達さらには男性も生きたまま焼き殺されていた。
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 日本がキリスト教国になっていたら、キリシタン達による魔女狩りや異端審問などの悲惨な宗教裁判、宗教弾圧か行われていた。
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 キリスト教会は、日本と中国での布教活動に力を入れていたが、朝鮮での布教活動には関心がなかった。
 南蛮人商人も、嘘を平気で並び立て誠実さに欠けた朝鮮人の性格は従順さが求められる奴隷には向かないとして、奴隷貿易の為に朝鮮半島に向かう者は皆無であった。
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 徳川家康は、一向一揆など政治化した宗教勢力に手を焼いた苦い経験から脱宗教的世俗社会を目指し、如何なる宗教も政治に口出さないように遠ざけた。
 幕府による締め付け不満を持つ仏教勢力を宥める為に、神社管理、キリシタン取り締まり、庶民の冠婚葬祭などの許認可権と各種証明書発行権を与えた。
 全国寺院を不可侵的な聖域と定め、幕府以外に手を出させないようにして保護し、同時に監視と監督を強化した。
 中華王朝の多くは、暴力的宗教勢力によって滅ぼされていた。
 江戸時代。庶民生活を規制したのは、政治権力の幕府や諸大名ではなく、宗教権威の仏教寺院であった。
 狡賢い庶民は、御上と寺院を賢く使い分けて利用していた。
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 1603年 ポルトガル奴隷貿易商は、ポルトガル国王フェリーペ2世に対して、日本人奴隷貿易禁止の勅令によって被害が出ている為に廃止するように陳情書を提出した。
 「(日本人)奴隷を解放する事はインド在住のポルトガル人に莫大な損害をもたらすので我々は直ちに集会し、如何にしてこの問題に対処すべきかについて話し合った。これまで我々は奴隷を買い入れる為に100万クルゼーロ、またはそれ以上の出費をしている。しかも日本でのキリスト教を管理しているイエズス会の司教ならびに神父は公式の承認と許可の文書を発行する事によって奴隷を買い入れる事を認めている。従って国王がこの事実を取り消して我々がすでに手に入れた奴隷を我々から奪う事を受け入れる事はできない。……日本では日本人が公に売られて、近隣のイスラムの国に送られイスラム信者になる。我々に買われた日本人は全てキリスト教信者になり、これはポルトガル国王の臣民の数を増やす事になる。しかも彼らは我々の神父によって2年間の教育を受けた後、自由の身になる。インドに在住するポルトガル植民地には、多くの日本人奴隷が存在する」
 南蛮商人達は、権力者に楯突かず命令に反抗せず指示された通りによく働く日本人は、奴隷として高く売れる事を知っていた。
 南蛮人達が、日本人に好意を寄せその能力を高く評価したのはその為である。
 他人を疑う事を知らない日本人は、褒められ煽てられて思考停止となっていた。
 白人にとって日本人は、猿まねが上手い「黄色い猿(イエローモンキ)」に過ぎなかった。
 白人は、日本人を人として正当に評価していなかった。
 2月 徳川家康は、征夷大将軍の宣下を受け、戦乱のない武士中心の世を築く為に江戸で幕府を開いた。
 江戸幕府は、日本を統治する権限を、天皇から一時委託された。
 皇室を尊重する証として、天皇陵や天皇墓を整備して盗掘から守った。
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 徳川家康は、将軍となり、海外交易を幕府で管理する為にスペインに朱印状を与えた。
 スペインと日本が本格的な交易を初め、スペイン商人が大量の生糸をマニラから長崎に運び始めるや、生糸取引を行っていたマカオポルトガル商人達は大打撃を受けた。
 徳川幕府は、ポルトガル商人に対して会計報告を要求した。
 ポルトガル商人やイエズス会は、日本人の能力を見くびり、帳簿上の誤魔化しを見つけられないと高を括っていた。
 徳川家康は、不正を見つけるや激怒して「泥棒め」と恫喝した。
 徳川家康の目的は、日本から流出する大量の金銀を制限し、豊富にある銅を決済通貨に変更する事であった。
 徳川家康が抱える幕府内の深刻な問題は、本多正信・正純親子を中心とする派閥と大久保忠隣を中心とする派閥の対立であった。
 大久保忠隣は、将軍の地位に就く資格がある家康の6男松平忠輝を支えていた。
 忠輝は、天下への野心を抱く伊達政宗の娘・五郎八姫を正室として娶り、同盟関係を形成していた。
 大久保忠隣は、大久保長安ら身内・配下は通じてキリシタンの影響を受け、忠輝の将来を考えてキリシタンを介して大坂・豊臣秀頼との盟約成立を計画していた。
 忠輝もまた、キリシタンの聖地であり経済と経済の中心である大坂を自分の領地にしたいという欲望を抱き始めていた。
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 武家の棟梁である徳川将軍は、政治学的な「政事」を行った。
 朝廷は、祭祀的な「祭事」を行った。
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 戦国時代。主君と重臣やサムライ大将など一部の侍以外は、合戦に出て恩賞を得る事しか念頭になく、読み書きを覚えるよりも敵大将の兜首を取る為に武芸を鍛えた。
 侍の大半は、武芸に優れていても学問には興味がなかった。
 徳川家康は、殺伐とした戦国の世を終わらせ安心して暮らせる太平の世を築く為に、侍の意識改革を行った。
 太平の世では、立身出世するのは敵を殺す事だけではなく、学問を積む事である事を知らせたのである。
 その為に、利用したのが中華で生まれた外来思想・儒教であった。
 これまで儒教漢籍を読む仏教の僧侶が教えていたが、宗教と学問を分離する為に儒教を独立させた。
 徳川家康は、当代一の儒学者・藤原惺窩の弟子である林羅山を顧問とし大学頭に任じた。
 諸大名家も、幕府の文治政策に習って儒者を雇って家臣教育に力を入れた。
 官学として朱子学を採用したが、中国や朝鮮のような科挙を伴う官学は避けた。
 徳川家康朱子学を採用した真の狙いは、朱子学イデオロギーで中国や朝鮮のような文治政治を行う事ではなく、役人に正しい漢字を覚えさせる為であった。
 徳川家康は、教養として古臭い儒教を学んだが、むしろ大海を越えてくる西洋の蘭学に興味を抱いていた。
 徳川幕府は、学問の自由を黙認し、儒学三派と呼ばれる朱子学派、陽明学派、古学派の他に、国学蘭学まども許していた。
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 第107代後陽成天皇は、徳川家康の圧力に抗しきれず、要求された官位や官職を各大名に与えた。
 日蓮宗加藤清正は、滅亡したキリシタン大名小西行長の旧領を得るや、領内の宣教師を追放し、小西の遺臣であるキリシタン武士の家禄を没収した。主だったキリシタン武士14名に棄教を命じたが、拒絶した為に見せしめとして処刑した。領内からキリシタンを一掃するべく禁止を公布し、キリシタン弾圧を実行した。
 フランシスコ会は、イエズス会の影響力がおよんでいない東日本での布教活動に力を入れていた。同会のソテロ宣教師は、来日し、江戸城に登城して徳川家康・秀忠親子に謁見した。
 家康は、海外交易で多くの利益を得る為に、教会や修道院を関東に建設する事を許可した。
 家康の側近には、キリシタンに理解を示す本多正純などの幕臣が多くいた。
 幕府は、全国の大名に領地安泰の朱印状を渡した。松前姓に改めた蛎崎慶広にも、蝦夷地を治める朱印状を渡し、対アイヌ交易の独占権を与えた。アイヌ人は、松前藩支配下に組み込まれた。
 松前藩は、叛乱を繰り返して従わないアイヌ人に手を焼き、アイヌ人の事はアイヌ人に任せるという建前で、保護する領民とは認めず放置した。
 アイヌ人は、和人に支配を受けない独立国家として5つの国を造ったが、生活必需品
を日本人との物々交換で得ていた。 
 ルース・ベネディクト「身分の高い封建君主でさえ、天皇に敬意を表す事は反逆とみなされた。そして日本の一般民衆にとっては、天皇は存在しないのも同然だった」(『菊と刀』)
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 1604年(〜1635年) 幕府は、西国大名の南蛮貿易を制限する為に、海外渡航許可の朱印状350通余りを大名ではなく、徳川寄りの有力商人に与えた。
 角倉了以は、南蛮貿易を維持したいという徳川家康の意向に従い、朱印状を貰って朱印貿易を続けた。
 これまでの人を扱う商売から刀剣や漆器などの工芸品や銀を扱いを商売に切り替えた。
 角倉了以と素庵親子は、朱印貿易で得た利益を京都発展の為に惜しげもなく使った。
 京都は、角倉親子のお陰で古都としての面影を残す事が出来た。
 京都を支えたのは、消費するだけで生産しない公家や古刹で修行する寺僧ではなく、生産し諸国を歩き回って金を稼ぐ町衆であった。
 徳川家康は、北の辺地にあるアイヌの土地である蝦夷地を日本領とする為に、征服者である松前松前慶広に蝦夷地の支配を認める黒印状を与えた。
 自由人であったアイヌ人は、侵略して来た和人の人種差別的横暴に反発して独立運動を起こしていた。
 松前藩は、暴動の責任で取り潰される事を恐れて、人としての自由を要求するアイヌ人を容赦なく弾圧した。
 当然の事ながら、アイヌ人は日本民族日本人ではない。
 アダムスは、徳川家康の依頼で80トンの西洋式帆船を作り上げた。
 徳川家康は、宗教一点張りの頑固な宣教師より、国際的博学なアダムスの意見を聞いた。そして、外国との交易の為に遠洋航海に耐える大型帆船の建造を命じた。
 高山右近(号 南坊)の教化で、金沢に1,500人が洗礼を授かってキリシタンとなっていた。
 高山右近は、ローマ教皇シスト5世から貰った1590年4月24日付けの書簡に対する礼状を、直筆のポルトガル語で送った。
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 徳川家康は、南蛮貿易は平和的交易で行うとの基本方針の下、来航する西洋諸国の武装商船との紛争を回避する為に日本の朱印船に対して武装を禁止した。
 ポルトガル船、スペイン船、オランダ船、イギリス船、明国船などは例外なく武装し、海上で敵対する船を発見するや商船が海賊船となり、攻撃して略奪行為を行っていた。
 非武装朱印船は、中立船として各国各地の港、たとえそこが紛争地帯であっても商売相手がいれば臆する事なく出かけていって交易していた。
 戦闘中の諸外国の船は、日本船籍の中立船・朱印船が現れるや戦闘を一時中止し、朱印船が商いを済ませて悠然と立ち去ってから戦闘を再開した。
 ジェフリー・バーカー「ごくまれにヨーロッパの船が──ほぼ例外なくオランダ船──朱印船を攻撃又は略奪すると、乗っていた日本人は決して自分で阻止しようとせず、長崎に戻って事の顛末を行政官に報告した。報告がくるや、長崎にあったオランダ商品とオランダ船は全部差し押さえられ、嫌疑について調査が行われ、賠償が申し渡され、罰が執行された。朱印船は重装備を固めてはいなかったけれども、極めて有効な法的救済措置で保護されていたのである。利益の大きい日本に参加したいと思えば、将軍のパスポート(朱印状)を神聖不可侵のものとして尊重せざるを得なかった。ムガル帝国や日本の将軍家は、海上を支配しようとする露骨な意図を持たなかったのだ」(『ヨーロッパ軍事革命の衝撃 1500──1800年』)
 日本を西洋諸国の侵略を救ったのは、豊臣秀吉が行った唐入りという軍事行動と石見銀山佐渡金山などの世界有数の金銀資源であった。
 徳川幕府は、天下を統一するや国内外で武装放棄を断行し、遠洋航海用の武装大型軍船の建造を禁止した。
 対外方針として、如何なる国とも盟約を交わさず、国外の紛争に参加しないし国内への干渉も許さない、海外交易で不利益が発生した際は国内において取り調べて沙汰を下す。
 そして。如何に利益があろうとも、国内において外国人の移動、居住、商売の自由を認めない。
 日本は、徳川幕府の制限付き鎖国政策によって争いのない平和な国となって穏やかに暮らす事が出来た。
 台湾の鄭成功やマラッカのアチェ王国など勇猛果敢な国家や個人は、外国勢力と興亡を繰り返して一事は栄えても最後には滅亡し、そして植民地となった。
 鄭成功の台湾が1681年に滅亡してからは、東アジアの海は世界の海では考えられないような争い事のない平和な海に変わった。
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 1604年 シンガポールの近くのビンタン島沖で、日本船とイギリス船で海戦が起きた。
 日本人船員は、数倍するイギリス人船員を撃破し、敵船長を倒した。
 1606年 マニラで、日本人居留民とスペイン官吏と衝突するが、カトリック神父が仲介して国際紛争になる前に調停した。
 徳川幕府は、海外に居住する日本人の権利と生命財産を保護するよりも海外交易を優先して、フィリピン政庁に対して「近年その国に到る日本人、悪逆をなす輩は、ルソンの法度の如く成敗さるべきなり」との申し状を送った。
 西洋諸国は、海外での利権と植民地を拡大する為に過剰なほどに自国民保護を行い、不利益を被れば容赦なく武力を用いて制裁を加え、賠償として法外な要求を強制した。
 日本には、西洋のような強欲な領土拡大志向は皆無であった。
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 1605年12月 南海トラフ沿いに発生した慶長東南海地震
 震源地は伊豆・小笠原海溝あたりで、千葉から鹿児島まで広範囲に被害が発生した。
 東海・南海・西南海諸道を津波が襲い、甚大なる被害が出た。
 津波の高さ、横浜一帯で4.3メートル、鎌倉で14.5メートル。
 八丈島津波は、波高10〜20メートルに及んだ。
 徳川家康は、全国の領主権を握る為に、諸大名に国絵図(領国の地図)と郷帳(一国の石高を郡単位で記した帳簿)の作成・提出を命じた。
 将軍は、天皇から委託された日本の統治権から、自由裁量権で大名の配置転換である転封(国替)と領地召し上げである改易(断絶)を実施した。
 大名知行制の下。将軍は、大名が忠誠を誓う事に対して所領を与えた。
 大名は、恩義に対する奉公として、藩財政の悪化の原因ともいえる平時に於ける軍役・参勤交代を行った。
 オランダは、モルッカ諸島を軍事占領して、ポルトガルから香料交易を奪った。
 高山右近は、念願の南蛮寺を金沢に建てた。
 マレー半島のパタで。イギリス船が、日本人の海賊船に襲われた。
 ポルトガル人商人は、フェリーペ2世に対して二回目の抗議文を送った。
 「ポルトガル国王による最初の勅令は、過去30年間一度も実行に移された事はなかった。インド在住のポルトガル副王は、この任務を遂行する役人を任命した事がない。……(日本人)奴隷達は、信頼関係にもとづいた契約に従って購入されたものであるので奴隷を解放するのは不当である」
 フランスは、他のヨーロッパ諸国に比べて遅れて、北米大陸の現在のカナダ・ノバスコシア州あたりに最初の植民地を建設して増やしていった。
 北米大陸の植民地の多くは、イギリスとの植民地戦争に敗れて失った。
 その後はイギリス勢力の手薄な、カリブ海西インド諸島南米大陸、アフリカ大陸に植民地を広げた。
 3月 フェリーペ2世は、日本人奴隷の人権を無視して、ポルトガル人商人に被害が出ない事を最優先として裁定を下した。
 イエズス会は、日本人を奴隷として売買する事は、サムライに弾圧の口実を与えるだけであると警戒した。
 後発組のフランシスコ会やドミニカ会などは、日本と妥協しようとしているイエズス会を教義に背く背信行為を行っていると告発し、日本人奴隷貿易で活動資金を得ようとした。
 サムライにとって、イエズス会であろうとフランシスコ会であろうとその他の修道会であろうと区別がつかない為に、キリスト教そのものが日本人奴隷貿易に荷担しているとして警戒した。
 早晩。残酷極まるキリシタン弾圧は避けられない運命であった。
 それが、日本独自の「踏み絵」という精神的苦痛を与える陰惨な拷問であった。
 精神的苦痛に耐えられないキリシタンは、踏み絵を行い、棄教を宣告して放免された。
 キリシタンの殉教は、他国に比べてそれほど多くなかった。
 日本人は、気が弱いだけに、無益な流血を嫌った。
 4月 徳川家康は、将軍職を徳川氏が代々継承する事を見せつける為に、将軍職を秀忠に譲り、大御所となって駿府に移った。幕府支配がいまだ脆弱な為に、大名への統制を強化すべく実権を秀忠に与えず重要事項は自ら決定した。
 歴代天皇は、無力な存在として政治力や経済力を奪われ、強大な武力を持つ幕府の要求に従って徳川家のみに征夷大将軍職を与え続けた。
 8月 毛利輝元は、主君への忠誠より絶対神への忠誠を優先する、キリシタンの熊谷元直と一族の中のキリシタンを上意を持って処刑した。
 多くのキリシタン大名は、皇室につながる先祖から受け継いだ家名を守る為に、幕府への忠誠を誓い個人の信仰を捨てて棄教した。
 日本人は、自分の意志よりも家族を優先し、個より家を大事にし、周囲から切り離した自分一人の信仰より祖先から受け継いだ「絆」としての志・心・信条を優先した。
 自分一人の信仰よりも、家族への愛を大切にし、子供の命を自分の命を犠牲にしても守ろうとした。
 家族の命を守ろうとした日本人は、自分の信仰を捨てた。
 その意味において、日本人は自己の主体性を持たない没個性である。
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 1606年 金沢教会で、盛大なクリスマス・ミサを執り行われ、司祭1名、修道士1名と1,000人以上のキリシタンが集て祈りを捧げた。
 高山右近は、ミサに合わせて、前田家の重臣や重立った商人に茶会への招待状を出した。
 オランダ人コーネリウス・マテレイフは、11隻の軍船を率いて、マラッカのポルトガル植民地を攻撃した。
 ポルトガル人は、日本人の協力を得てオランダ軍を撃退した。
 明国皇帝は、秀吉の唐入りを通報した琉球王に褒美として冊封の序列を、朝鮮国王の上にあげた。
 琉球王・尚寧王は、明国の威を借りて薩摩の使者を侮辱した。
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 徳川幕府は、キリスト教禁止令を発した。



  
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