⚔19)─2─中世キリスト教会は、寄進された長崎を教皇領として日本から分離する為に軍事要塞港とした。本能寺の変。1576年~No.78No.79No.80 @ 

海洋国家薩摩

海洋国家薩摩

  • 作者:徳永和喜
  • 発売日: 2011/04/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ルイス・フロイス「ヨーロッパでは、妻は夫の後を歩くが、日本では、夫が妻の後を歩く」
 「ヨーロッパでは夫婦間において財産は共有である。日本では、各々が自分のわけまえを所有しており、ときには妻が夫に高利で貸し付ける」(『日欧文化比較』)
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 硝石一樽は、日本人女性奴隷50人と引き換えであった。
 人身売買とは、奴隷制度の事である。
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 武将の妻達は、夫に命を預け、夫ともに命を賭けて戦い、負ければ夫や子供達ともに自害した。
 男女平等な戦国時代において、女性は男性と共に生きそして死んだ。
 城主の妻や母や娘達は、生き残って強姦され、売られて売春婦にされる事を嫌って、落城と共に自害した。
 戦国時代。人身売買が横行していた。
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 ポルトガル人商人達は、宣教師を仲介人として日本人を奴隷として買い、東南アジアやインドなどで労働者か売春婦として売って大金を稼いでいた。
 宣教師達は、日本人の奴隷売買で手数料をえ、布教活動を行い日本人を改宗させて信者を増やしていった。
 日本人を奴隷として売る事は、日本をキリスト教に改宗させる為の必要な犠牲と割り切っていた。
 日本人キリシタンも、日本人が奴隷として売られていっても、悲惨な境遇にある者は絶対神の恩恵で天国で永遠の命を得られると信じていた。
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 当時の日本で、日本人が奴隷として売られても、誰も怒る者はいなかったし、止めようとする者もいなかった。
 日本人は、冷淡で、薄情で、冷血であった。
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 藤堂高虎は、女狂いの家臣を追放したが、博打狂いの家臣を残した。
 「女狂いは役に立たないが、博打狂いは戦場に行けば自分を元手に結果を出そうとする気概がある」
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 織田信長は、兵農分離を徹底する為に領内の年貢を商人に売却し、得た金を家臣の俸禄として与えた。
 豊臣秀吉は、天下統一を目指して多くの武将を抱えた為に、金銭を与える代わりに領地を与えた。
 戦続きの時代においては、コメは高値で飛ぶように売れた為に、領地から取れる石高が大名の格を証明していた。
 戦がなくなるやコメの価格は暴落して、石高を俸禄として貰っている武士の家計は貧しくなった。
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 金子拓「信長は改革者というより、むしろ室町幕府の継承者とみるべきだ」
 「史料をきちんと読み解くと、信長は天皇や朝廷に対して支援を惜しまず、強制したり支配下に置こうとしたりする意図はなかったことがわかる」
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 織田信長は、武功を挙げた家臣に恩賞として、領地を与えては最後には土地がなくなるし、恩賞金を与えても蓄えがなくなる。
 広大な領地を持ち莫大な軍資金を蓄えてた有力家臣が、いつ謀反を起こすかして寝首を掻きに来るかわからない。
 土地には大して価値がない事を分からせる為に、名古屋、清洲、小牧、岐阜、安土へと居城を移した。
 功績に酬いる土地や恩賞金に代わる新たな価値として茶道具を利用し、京・堺の豪商内だけの趣味で持て囃されていた名物茶器に虚構の価値を創り出した。
 突然。何の前触れもなく。日本独自の文化的ソフト・パワーとして茶の湯が生まれた。
 日本の文化的価値とは、架空で虚構の価値ではあったが、他国の文化に負けない強靭な文化的ソフト・パワーをもたらした。
 普遍的な価値を持つ黄金とは違って、有ると信じる者にとっては有る価値で、無いと思う者にとってやはり無い価値である。
 日本文化の生命力は、新しい創意工夫でって、金銀財宝ではなかった。
 日本文化は、中国文化や朝鮮文化とは無関係であった。
 百戦錬磨で戦争に強く、軍略に優れていても、文化・芸能の素養に秀でいなければ一人前なサムライとは認めず、領主になる資格はないと決めた。
 それ故に。新参者の明智光秀が、古参の柴田勝家等を差し置いて出世頭となった。
 織田信長は、日本人離れした思考力と斬新な価値観の持ち主であった。
 豊臣秀吉は、国際的な感覚を持ち、文化や芸能に理解を示しながらも土地と恩賞金に拘った。
 徳川家康は、一所懸命を信条に、日本に完全回帰して土地のみに価値を見出した。
 だが。貢献に対して与える土地がない為に、苗字や家紋、名刀や衣服、家宝の名品や骨董品を与えた。
 日本のもの作りは、本気でやらなければ身に付かず、鑑定眼の厳しい日本人に相手にされなかった。  
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 戦国武将の条件は、軍略が優れ合戦に強い事は当然の事であるが、それ以上に仏典や漢籍などで高い学識がある事と茶の湯、和歌、書画、能、音曲などの風流文雅の洗練された教養が求められていた。
 戦えば必ず勝って領地を増やす武将でも、世間が認めるような芸術・趣味を持っていなければ、山猿か猪武士と揶揄されて軽蔑され、評判を落とした。
 武士は、出世する為には一廉の武士と認められる必要があって、合戦の合間に「数寄」や「伊達」をこれ見よがしに競い合った。
 当然。領地経営も疎かにはできなかった。
 武士がのめり込んだのは、日本独自の美意識=哲学である「わび・さび」の境地にいたる茶の湯と座禅であった。
 武士が求めたのは、観念的な屁理屈や合理的な道理ではなく、物事に動じない心の余裕と爽やかさや潔さであった。
 そして。均整が取れた強烈な完全な美ではなく、粗末に近いうつろいやすい儚さを漂わせた不完全な美であった。
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 ジョアン・ロドリゲス「彼等は誇りが高く面目を重んずるので、名誉に関する事で簡単に生命を捨てる事も厭わない。同様に、自分の保護と援助の下に身を置いている者の為には、無造作に、わが生命を賭ける」
 「彼等は死に臨んで決然とした態度を示して冷静な気持ちを表すのである」(『日本教会史』)
 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ「ヨーロッパ人と異なり、彼等は悲嘆や不平、あるいは窮状を語っても、感情に走らない。……決して自分の苦労や不幸を口にしない。……彼等は常に強い勇気と明快な表現を示し、自らの苦労については一言も触れないか、あるいは何も感ぜず、少しも気にかけていないかのような態度で、ただ一言それに触れて、あとは一笑に附してしまうだけである」(『日本巡察記』)
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 『加藤左馬殿百物語』(加藤左馬助嘉明)「(物見・偵察)敵の人数は多く言わざるものなり。敵の人数を五千と見たら二千余という。1万と見たら五千という。大将もその分別して聞くもの也」
 合戦する時。物見は、敵の数に劣る味方の士気を高め、劣勢にあっても必ず勝てるという楽勝感をもたらす為に、正確な数を報告をせずさばを読んで少なめに伝えた。
 古来から。日本の合戦では、敗北間近になると大本営発表的に嘘の発表を行い、味方はその嘘の発表を信じ切って全滅するまで戦った。
 サムライ達は、裏切りもせず、脱走もせず、最後の最後まで踏み留まって戦ったのは、主君に対する忠誠心からではなく嘘の発表を信じて最後には味方の大勝利を確信していたからである。
 最終的には負けて殺されると分かっていれば、命欲しさに味方を裏切って敵に寝返るか、家族を連れて逃げるのが、精神力の弱い人間心理である。
 精神力の弱い人間ほど、「精神」にこだわり、「精神」を鍛えるべきであると粋がる。
 精神論は、精神の弱い人間の空威張りに過ぎない。
 日本人は精神力が弱い為に、物事全てに恐れ怯え戦き、自分にも他人にも「甘え」ようとする。
 「幽霊見たり枯れ尾花」であり、暗闇に柳の枝を見て幽霊と勘違する。
 その証拠が、精神修行の「座禅」であり、身を律する「武士道」である。
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 織田信長は、流行している疫病を治すべく、宣教師に薬草を植えるよう命じた。
 宣教師達は、世界中から約3,000種の薬草を取り寄せて、伊吹山の麓に植えて薬草園を開いた。
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 1576年 織田信長は、安土城の築城を始めた。
 大友宗麟は、ポルトガルに銅を輸出して大砲を購入した。
 イエズス会は、戦国大名に大砲や火縄銃を売る事で布教活動の許可を得ていた。
 ポルトガル船の一部は、日本人女性を奴隷として東南アジアで売る為に、イエズス会宣教師に仲介を依頼した。
 宣教師は、絶対神の「隣人愛の信仰」を広げる為に、南蛮人と日本人の商売の仲介を行っていた。
 日本に武器弾薬を輸入せ、日本から日本人奴隷と銅や銀を輸出させていた。
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 東南アジアで、日本人町が急速に増えた。
 日本人町住人である日本人の多くは、奴隷として売られた日本人であった。
 非白人にして異教徒の日本人は、人権を持った人間とは認められず、生殺与奪の権を持つ所有者の意思でどうにでもなる家畜として扱われていた。
 絶対神に愛される人間は白人キリスト教徒のみで、非白人キリスト教徒は奴隷の上の下僕身分として使役された。
 キリシタンは、白人キリスト教徒の僕となって奉仕できる事に喜びを見出していた。
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 1577年 羽柴秀吉佐用上月城攻め。籠城していた家臣達は、謀反を起こして主君・上月政範の首級を差し出して命乞いをした。
 秀吉は、首級を安土に送り、謀反を起こした者を全て斬首にし、城内にいた女子供200人以上を備前・美作・播磨の境で磔・串刺しにした。
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 1578年〜81年 天正伊賀の乱
 織田信長の次男で北畠に養子となった信雄は、伊賀に攻め込んだが撃退された。
 織田信長は、激怒して4万5,000人の軍勢を率いて伊賀に攻め込んだ。
 伊賀勢約1万人は、織田軍と戦っても勝てない事は分かっていたが、荒れ果て土地を数百年掛けて開墾して住めるようにした郷土を守る為に全滅を覚悟で抵抗した。
 信長は、伊賀の根絶やしを厳命した。
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 忍者は、忍びの技や戦闘能力はもちろん、変装する百姓・商人・職人・漁師から武士・僧侶・山伏・医者まで多種にわたる職種の基礎知識が求められた。
 相手の屋敷から重要な書状を取ってくるように依頼されたら、相手に気づかれないように忍び込み、盗まれた事がすぐに分からないようにして立ち去る必要があった。
 そして、如何なる癖字でも書状を読み取って持ち出さねばならなかった。
 忍者は、他国にまで出て活躍するには高度な知識・教養・学識、そして如何なる方言でも話す語学力が必要であった。
 生死をやりとりする忍術では、武器を持たない格闘から石つぶて・棒きれ、刀・槍・弓矢、さらには最新の鉄砲や大筒まで、武器という武器全てに対して一通りの知識を持ち、戦闘で使いこなさねばならなかった。
 ただし、得て不得意はあるにせよ。
 忍者が活躍するのは、雇った大名を戦いで勝利に導く事である。
 勝利するという事は、戦闘が始まる前に敵情を探り、寝返りしそうな敵に根回しをして味方に引き入れ、敵味方の犠牲を如何に少なくし、短期間の内で戦いを終わらせかであった。
 日本の戦いは少数勢力による内紛で、大陸の戦いのような長期戦による殲滅戦、根絶やし戦ではなかった。
 日本の合戦に於ける勝利の極意は、戦わずに敵を屈服させる事である。
 忍者は、その為に暗躍していた。
 大名は、領民が一揆を起こして刃向かわないようにする為に、忍者を使って領民が何に不満を抱いているの情報収集を行っていた。
 領民が不満を爆発させて一揆を起こして領内が混乱すれば、周辺大名に攻め込まれる恐れがある為に、たえず領民を慰撫する必要があった。
 忍者の重要な任務は、敵に対する暗殺や破壊ではなく、お味方が戦で勝つ事と領内が平和を保つ事であった。
 藤林佐武次保武は忍術書『萬川集海』で、忍術は「正心」であると説いている。
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 1578年3月 御楯の乱。上杉家に於ける御家騒動。家臣にとって、主君の後継者に血のつながりがなくとも気にはしなかった。
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 1579年 安土宗論。織田信長は、宗教紛争に決着を付けるために、法華宗と浄土宗による宗教論争を行わせた。
 法華宗は、敗北した事を認めて、今後は他の宗派を非難中傷をしないとの詫び状と証文を書いた。
 織田信長は、布教活動に専念し、武器を放棄し、政治には口出さず、座の支配をしない限り宗教を認めた。
 この後。豊臣秀吉も、徳川家康も、宗教が宗教に専念して、政治や経済に関係しなければ弾圧しなかった。
 これ以降。世界の常識ともいえる宗教対立によるテロの応酬は日本から消えた。
 日本には、相手を一切認めない絶対価値観での神学論論争は消滅した。
 そして。宗教への関心も薄れて、無宗教的な感情が生まれた。
 ごく一般的な常識を持った日本人は、特定の宗教を持っていないとして、如何なる神でも仏でも拘りを持たずに「ありがたがって」参拝した。
 日本人は、相手を殺すような不寛容な絶対価値観に基ずく絶対正義による不変の掟やルールが理解できなかった。
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 イギリス人のトーマス・スティーブンスは、東方貿易に参入するする為にインドに回航した。
 イギリス船は、平戸に来港した。
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 オランダは、スペインからの独立し、プロテスタントを国教として建国した。
 オランダ政府は、ユダヤ人商人の財力と行動力を手に入れるべく、表だってユダヤ教の信仰を出さない事を条件としてユダヤ人の受け入れを表明した。
 多くの戦国大名が、イエズス会を通じてポルトガルから武器を購入する為に洗礼を受けた為に、その領民が集団で改宗させた。
 集団改宗で、キリシタンは日本全国で10万人を超えた。
 イエズス会は、正しい教えを広げる為に宣教師を55名に増やして各地に派遣し、さらなる集団改宗を目指して戦国大名に武器の調達の仲介を申し込んだ。
 その結果。戦う戦国大名は、お互いにイエズス会から武器を購入して戦っていた。
 イエズス会は、布教の為に武器交易を利用して、「神の使者」から「武器商人」に変容していった。
 戦争に疎み始めた武士や百姓は、敵味方に関係なく武器を売りつけて信者を増やしている宣教師を疑い始めた。
 第一回日本イエズス会全体協議会。「パードレ達を保持し、また異教領主からしばしば迫害されているキリスト教徒を保護する為にも、この種の迫害や戦争から生じた際に、彼等を収容できる堅固なる場所を有する事が極めて重要である」
 イエズス会巡察師ヴァリニャーノ神父は、日本の布教には武力征服が有効であると、『日本の布教長の為の規則』に記載した。
 イエズス会は、異教徒である仏教徒を根絶やしにする織田信長を、キリスト教の守護者と認め、南蛮貿易を利用して財政・軍事援助を行った。
 キリスト教会が目差した理想社会とは、絶対神の隣人愛によって支配された社会である。
 ウァリニアーノ神父は、島原の口之津で日本にいる主要な宣教師を集めて、絶対神の概念で如何に日本をキリスト教化すべきかを話し合った。
 まず、保守的な異教徒の封建領主からの弾圧を避ける為に、信仰を損なわない範囲で日本の礼法を習熟し、日本人の生活習慣を非文化的であると否定しない事を申し合わせた。
 将来的に、日本から異教を完全排除する強固な信仰を持った人材を育成する教育機関を、ミヤコ地区(京都)、豊後地区、シモ地区(西九州)に設置する事を決めた。
 特に、祭祀王・天皇がいるミヤコ地区を布教活動の中心地とする為に最重要拠点と位置づけた。
 「領主の宗教が領民の宗教」の原則から、宗教的支柱にある天皇の改宗をめざした。
 各地のセミナリヨコレジヨで、日本人のうちで優秀な善人を神の戦士・宣教師にする為に、ヨーロッパ的価値観での調和の取れた文化的人間に生まれ変わらせる為の洗脳的宗教教育を施した。
 日本人知識層の警戒心を交わす為に、下級修道士や一般的な伝道師を養成する宗教教育は公開とし、聖書はもちろん日本や中国の書籍も教えた。
 「日本人の持たないヨーロッパ的、キリスト教的なもの与え人間として完成させる事を目的とする」
 信仰の深みを求める正しき人には、唯一の価値観を植え付け連帯感を強める目的で、規律ある集団生活を維持する為に下界との接触を一切遮断した寄宿舎で寝起きさせた。
 言葉は神から発せられた神聖なもので、文化的な人間形成には欠かせないとし、教会はもとより寄宿舎内での会話も情緒的で曖昧で野卑な日本語を一切禁止して、ラテン語と論理的合理的な知性溢れるスペイン語もしくはポルトガル語に限定した。
 教育を受けた日本人宣教師は、捕縛され棄教を強要する拷問にも耐え、信仰を守って殉教した。
 逃げ延びた者は、国外に逃亡するか、国内に潜伏して隠れキリシタンを支えた。
 イエズス会日本年報(1594年3月)「日本文学に寄せていた様な熱心さをラテン語にも見せ、気持ちよく勉強している」
 3月 アルゼンチンのコルドバ市で。フランシスコ・ハポンという日本人は、自分は奴隷として売られてきたわけではないと訴えた。
 公証人フランシスコ・デ・ソト・マジョールの仲介で、ハポンは奴隷的境遇から解放された。
 11月 織田信長は、荒木村重が叛いた為に人質としてとっていた妻子を処刑し、その一族を見つけ出して殺した。
 12月2日 ヴァリニャーノからイエズス会総長への書簡。
 サムライ日本は、外国の如何なる軍隊でも征服できない。
 1、日本はこの世で最も堅固で険しい地形で、日本人は最も好戦的だからである。
 2、難攻不落の要塞が、高く非常に厳しい山中に沢山ある。日本人は極めて大勢であり、海に囲まれた島々にもいる為、彼等に対抗できる強国も兵士も存在しない。
 3、日本人の間に反逆と裏切りが日常的なので、支配してもすぐ裏切るであろう。
 4、日本人を養い、日本国内に数多くの要塞、戦闘要員を大勢抱えるには、ポルトガルとスペインの両国王は、この上なく巨額の出費を余儀なくされよう。……ヨーロッパから遠く隔たっている土地の為に、大勢の日本人と巨額の経費を維持するには、両国王の所有する全収入と人々では不十分である。
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 つまり。「本国から近く、人口が少なかったら、征服して植民地にする事が可能である」と言いたいのである。 
 フィリピンのスペイン総督には日本を武力占領するだけの軍資金も兵力も武器もなかったから、イエズス会の日本征服は言い掛かりであり、宣教師を追放し、キリシタンを弾圧した事は不当な犯罪行為であったとされている。
 問題は、日本を武力征服する意思があったか同化である。
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 12月10日 ヴァリニャーノからイエズス会総長への書簡。「キリスト教徒達は、絶え間ない戦争が原因で、実に容易に異教徒達に支配され、滅ぼされてしまう。キリスト教徒達は絶えず非常に深刻な危険に置かれており、パードレ達も彼等も、領内にしかるべき基礎を造り上げられない」
 12月14日 ロレンソ・メシアは、イエズス会総長に、日本国内で安心して布教活動できる教会領を得る必要を訴える書簡を送った。
 「ポルトガルのナウ船と共に当地に身を置いている我々は、異教徒達が……我々のいる土地を奪うのではないか、という事を非常に恐れている。その為ナウ船が出航すると、我々は直ぐに別の土地へと移る。我々は全く安全ではない」
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 1580年代 ドイツのトリールで、異端審問と魔女狩りで女子供関係なく約7,000人が生きたまま焼き殺され、それ以外の人々は地獄の様な拷問で惨殺されて、二つの村が全滅した。
 宗教は、救い難い「血」に飢えた狂気をもたらしていた。
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 1580年頃のマカオに居住していたポルトガル人の半数以上が改宗ユダヤ人であった。
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 1580年(〜1640年)
 ポルトガル王家は、スペインのフェリペ二世に王位を委ね、ポルトガルは同君統治の時代を迎えた。
 スペイン国王が、ポルトガル国王を兼ね、スペインはポルトガルを併合した。
 ポルトガルで隠れてユダヤ教の信仰を守っていた改宗ユダヤ人は、スペインの統治が始まる事で危機感を感じてオランダに移った。
 日本や新大陸などで活動していたスファラド系ユダヤ人商人達も、イベリア半島の交易拠点が消滅した為に、オランダの傘下に入った。
スペイン領ネーデルランド(後のオランダ)は、優れた造船技術と金融力でバルト海経済圏を独占し、ポルトガルリスボンでアジアの物産を買い付け北欧やバルト海域で交易していたが、商売仇のスペインによってリスボンから追放された。
 キリシタン大名大村純忠は、ポルトガルとの交易を独占する為に、良好港を持つ長崎をイエズス会に寄附した。それは、教会の領地としてではなく収益を得る目的の荘園の様な知行地で会った。長崎の開港である。
 ヴァリニャーノ巡察師は、『日本布教長の規則』で、日本人キリシタンを異教徒の攻撃から守る為に長崎の軍事要塞化を指示した。世にいう、自衛の為の「教会の平和令」ある。
 「住人と兵士で長崎を強大にし、……彼等の資産と能力に応じて、全員に武器を持たせ、生じうるあらゆる事態に備えること」
 ウァリニアーノ神父「大勢は純忠の申し入れに応ずべきだという意見であった。それは大村純忠の為にも、また諸国で迫害を受けたキリシタンの避難所とする為にも必要と思われたから」
 貧しい漁村であった長崎は、外国船が頻繁に入港して、外国人商人や船員が多く住むようになって国際港として繁栄した。
 イエズス会は布教活動の拠点と定めて、日本管区長館と「御上天のサンタ・マリア教会」を建設し、セミナリオやコレジヨを設立して日本人宣教師の育成に力を入れた。
 長崎は、欧州風の軍港要塞都市に変容し、各地のキリシタン大名に異教徒を殲滅する為に武器を供給していた。
 キリシタン大名は、軍事支援の見返りとして、領民を半強制的にキリスト教に改宗した。
 キリスト教会は、日本人を全ての貧困から救い、魂を救済する為に、隣人愛という愛の精神を日本に広める事を神聖な使命とした。宣教師は、絶対神の正義の為に、各地で異教徒と戦っていた。
 日本の聖地として成長し始めた長崎に憧れた日本人キリスタンは、全国から絶対神の愛による救済を求めて移り住んだ。
 一歩、裏通りの貧民街に入り込むと、他国の国際港同様に犯罪が横行し、悪徳商人による奴隷とアヘンの売買が盛んに行われていた。そこには、反キリスト教徒への隣人愛は存在しない。むしろ、地獄に落ち、永遠の劫火に苦悩する事は、絶対神の思し召しと割り切っていた。
 中国人からなる倭寇も、長崎や平戸を根城にして海賊行為を繰り返し、海上で殺戮と略奪を行っていた。キリスト教徒の海賊は、絶えず、絶対神に敬虔な祈りを捧げ、異教徒を滅ぼして神の王国を地上に建設する事を誓った。
 日本人商人は、大金を稼ぐ為に外国商人以上に犯罪者との不法取引を好んだ。
 宗教は、犯罪と貧困の中で信者を増やし、混乱がない所とに混乱の芽を植え付けた。
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 ドレーク船長は、エリザベス1世に30万ポンドの金銀財宝を献上した。
 エリザベス1世は、海賊のドレークにイギリス海軍の中将に任命し、叙勲(サーの称号)を与えた。
 イギリス国王の承認を得た海賊は、スペインやポルトガルの民間船を襲撃して、船員を虐殺し、金銀財宝を奪った
 イギリス王国は、バイキングの末裔を誇り、海賊が略奪した財宝で裕福になった。
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 佐賀領主龍造寺隆信は、肥前統一の為に大村領を占領し、さらに有馬領に侵攻した。
 ヴァリニャーノは、大村・有馬両々のキリシタンを守る為に、ポルトガルの協力を得て長崎の軍事要塞化を急ぐ事を命じた。
 自衛手段として、キリスト教徒による武装化が本格化した。
 『日本布教長の規則』「日本人は、領主に左右される事が大きい。その為に、領主からの好意と援助がなければ、キリスト教徒が信仰を保持して進歩する事も、また改宗を拡大する事も不可能である」
 8月 ヴァリニャーノ『東インド巡察記』「日本での絶え間ない戦争と変動が原因で、イエズス会士達の生命と資産は大きな危険にされされており、いつ何時、滅亡するかもしれない。戦争では、日本人が戦時の習慣として、味方のものであれ敵のものであれ、眼に入るものをことごとく破壊してしまうからである」
 10月20日 ロレンソ・メシアのイエズス会年度報告。「巡察師は、有馬殿達が全滅してしまわないうちに、可能な限り援助する事を決心した。……巡察師は、困窮者の全員に喜捨を施し、さらに食糧を大量に購入させた。……また焼失した要塞も救う様に命じ、それらの要塞に食糧と金銭を、さらに鉛と硝石も支給した。以上を実行する為に、巡察師はナウ船と共に入念に準備をし、600クルザ近くを費やされた」
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 1581年 ヴァリャーノ宣教師は、信長がアフリカ系従者に興味を示した為たので献上した。
 信長は、黒坊主をサスケと名付けたが、神の僕である宣教師が非白人従者を品物の様に扱う事に嫌悪した。
 キリスト教徒ではない日本人にとって、絶対神天地創造も、死後の世界での永遠の命も、悪魔の悪巧みも、理解できなかった。
 高山右近は、高槻の大聖堂に1万数千人のキリスト教信徒を集めて盛大な復活祭を執り行った。
 一部の敬虔な信者は、神社仏閣を破壊した。
 仏教界は、キリスト教が拡大する事に危機感を募らせた。
 ネーデルランドは、オランダとして、ハプスブルクスペイン王家からの独立を宣言した。
 オランダは、スペイン・ポルトガルに依存せず独自でアジアと直接交易するべく、数多くの武装商船を建造してアジアに送り出した。
 スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダは、平和であった世界の海に武力を携えて乗り出し、各地で戦争と交易を繰り返した。
 8月 高野山金剛峯寺は、荒木村重の家臣を匿い、探索にきた信長の家臣を殺害した。
 織田信長は、報復として高野聖1,383人を捕縛し、悪僧であると断罪して処刑した。
 真言宗総本山の高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)は、比叡山延暦寺同様に、反信長勢力と通じ合い、勧進の為に諸国を自由に往来できる特権を持つ高野聖(下級僧)や修験者・山伏を密偵として利用していた。
 高野聖は、弘法大師空海)の威徳や伝説を伝えながらお布施を貰って修行の旅(勧進)を続けたが、合戦続きの荒んだ世では思ったほどのお布施が集まらず大金を貰って文書伝達や諜報活動を行っていた。
 高野山金剛峯寺は、織田信長高野聖を殺害された為に、弘法大師の立志にたちかえり、政治に関わる事を断ち切りから修行に専念した。
 高野聖も、次第に本来の職務から離れ、世俗化して呉服を扱う行商人となり、人々から商聖とか衣聖と呼ばれた。
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 1582年 織田信長は、甲斐武田家を滅ぼした後、家臣達に征夷大将軍への尊称である「上様」を使用させた。
 「源氏だけが征夷大将軍となり幕府を開く」とは限らない。
 2月 イエズス会東インド巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、天正少年遣欧使節団を伴って日本を離れてヨーロッパに向かった。 
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 6月3日 本能寺の変織田信長は、家臣の明智光秀の謀反によって自害した。
 織田信長の死には、謎が多い。
 「是非もない」(信用していた光秀が裏切るのであれば、仕方があるまい)
 日本では主君殺しは最も憎まれ、明智光秀は人気がない。
 信長は、西洋から海を渡って来た南蛮人には興味を持ち、宣教師を歓迎したが、本心ではその目的を怪しみキリシタンを信用せず警戒していた。
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 12月14日 ヴァリニャーノは、フィリピン総督に中国を征服するようにとの書簡を送った。
 「これら東洋に於ける征服事業により、現在いろいろな地域に於いて、陛下に対し、多くのそして大きな門戸が開かれており、主への奉仕及び多数の人々の改宗に役立つところ大である。これら征服事業は、霊的な面ばかりではなく、それに劣らず陛下の世俗的な伸展にとって益する。そしてそれらの征服事業の内、最大なものの1つは、この中国を征服することである」
 中国に於ける布教活動の為に中国征服を進言した宣教師は他にもいた。
 マニラのフライ・ドミンゴ・デ・サラサール司教は、スペイン国王に中国への侵略を提案した。
 「私がこの報告書を作成した意図は、中国の統治者達が福音の宣布を妨害しているので、陛下は武装してかの王国に攻め入る事のできる正当な権利を有すると言う事を、陛下に知らせるためである」
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 高松城攻防戦で、黒田官兵衛と毛利軍は和議を取り交わした。
 毛利方は、豊臣秀吉に貸しを作る為に、明智光秀討伐の援軍を出す提案をした。
 黒田官兵衛は、援軍を断り、代わりに毛利家の旗差物をを借り受けた。
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 天正遣欧使節団の少年達は、キリスト教が浸透している地域で、多くの日本人が家畜の様な扱いを受け、奴隷として安値で売られ、過酷な環境に追いやられ悲惨な重労働をさせられている現実に直面した。
 ある少年は憤慨し、別の少年は同情した。
 男は肉体奴隷として、女は性奴隷として。
 日本の少年少女は、キリスト教ポルトガル人によって安い値段で売買されていた。
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 マルクスユダヤ人)「ちょうど法王の背後にイエズス会がいるように、全ての専制君主の背後にはユダヤ人がいるという事を我々は知っている。イエズス会の軍隊が全ての自由な思想を殺したように、もし、何であれ、諸国や人々の冨が、人類の宝を盗んだユダヤ人のものでなかったなら、ユダヤ人のものになるまで圧政の企みは成功の機会を持ち続け、戦争は資本家が止めるまで奨励された。イエスエルサレムの神殿から高利貸しを追い出したのは疑いもなく1856年前のことである。専制君主と独裁者の後ろにいるのは現代の高利貸しのようだ。その大多数はユダヤ人である。ユダヤ人が世界の生命を脅かすほど強くなった」
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 イエズス会は、異教徒の魔王・天皇とその一味・異教徒を皆殺しにして邪教神道を滅ぼす為に、戦国大名の中で最も野心家で卓越した軍事能力を持った織田信長建勲神社、地方の下級領主出身)を日本の支配者にすべく支援した。
 だが、信長が日本統一を目前にして、天皇の宗教権威はもちろん、キリスト教絶対神をも超えて自ら唯一の神になろうとした為に、1582年の本能寺の変で信長を見捨てた。
 織田信長に比べて、キリシタン大名大友宗麟蒲生氏郷織田有楽斎黒田如水(光雲神社、身分定かでない目薬を売る浪人)、京極高吉らは、有能であったが天下を取るだけの覇気も技量もない侍大将にすぎなかった。
 敬虔な宣教師らは、改宗したキリシタン領主・大名から教会に土地を寄進され、そこで改宗者日本人を排他的狂信者に教化し、教皇に対してのみ忠誠を誓う厳格な規律を持つ軍隊的な組織を作った。
 宣教師の世界戦略は、王族の改宗者を中心としたキリスト教軍団を作り、異教徒を攻撃して治安を悪化させ、内戦を拡大し混乱を広める事であった。貿易の利益で軍事力を持った協力者を増やし、彼等を利用して異教徒の王国を滅ぼし、キリスト教王国を樹立する事である。
 宣教師の失敗は、皇族に改宗者を出す事ができず、改宗皇族を日本の王者に押し上げられなかった事である。つまり、神代から続く天皇の神聖を完全否定でなかった事である。
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 日本においてヨーロッパの様な悲惨にして凄惨なる宗教戦争が起きなかったのは、織田信長比叡山焼き討ち(1571年)や石山本願寺攻め(1570〜80年)をしたからではなく、神の裔・天皇が存在したからである。
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