⚔18)─2─ローマ教皇は、日本を分割してポルトガルとスペインの植民地とし、日本人の生殺与奪の権を与えた。1560年~No.72 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 宣教師ヴァリニャーノは、ローマに帰還し、異教国日本をどうすべきかローマ教皇の判断を伺った。
 ローマ教皇は、日本の地図を見て、近畿地方あたりで線を引き、西日本をポルトガル、東日本をスペインの植民地にする事を許した。
 中世キリスト教会は、日本人を奴隷として売買する事を認めた。
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 足利義輝は、宣教師の京都での布教を許可した。
 第106代正親町天皇は、社寺仏閣を破壊し僧侶や神官に危害を加える宣教師を京都か追放するよう命じた。
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 ニーチェ「宗教は人間を病気にし、民主主義は人間集団を弱体化する」
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 世界では、領民の宗教を領主が決めていて、庶民には信教を選ぶ自由はなかった。
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 日本で最初に宗教弾圧を行ったのは、普遍宗教のキリスト教であった。
 日本は、神代から、先祖代々、受け継いだきた祖先神・氏神の人神信仰という民族宗教を守る為にキリシタン弾圧を行った。
 だが。罪は、キリシタン弾圧を行った日本側にあるとされた。
 人神という民族宗教を消滅しようとしたキリスタンには、罪はないとされている。
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 日本人は、神に選ばれた特別な民族ではない。
 決して、ユダヤ民族の様な選民主義はない。
 絶対神のような神によって、数多くの民族の中から見つけ出された特別な民族ではない。
 日本人は、祖先を神として祀った民族である。神と祀られた祖先は、特別な存在でも、優れた才能があるわけではない。ただ、祖先という理由だけで神として祀られた、平々凡々とした極普通の人間である。
 男も女も関係なく、血と命がつながる祖先を全て平等に神として祀った。
 心を唯一の「絆」として、祖先を神として祀っている。
 普通の祖先を神として祀るのは、日本民族だけである。
 儒教の祖先崇拝は、男系のみを人として崇拝している。
 中国や朝鮮の儒教的祖先崇拝は、日本の神道的祖先神祭祀とは異質である。
 祖先神祭祀の象徴が、皇室祭祀である。
 天皇家・皇室は、祖先神祭祀の代表である。
 神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)が消滅した時、日本から祖先神祭祀も消滅する。
 この事実をしる反宗教無神論者は、天皇家・皇室を消滅させようとしている。
 女系論者も、この事実を理解した上で、日本神話で正統化されている祖先神祭祀を改変いようとしている。
 日本民族日本人は、神とされた祖先の血と命と心を絆として受け継ぐ子孫である。
 ゆえに、日本人は日本人である
 決して、日本人は、朝鮮人でもなければ、中国人でもない。
 神の裔・天皇を否定する者は、サムライではない。
 祖先を神としない者は、日本人ではない。
 天皇の祖先を日本人ではないと主張する者は、日本民族ではない。
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 フランス国王シャルル9世 在位1560〜74年。
 スペイン国王フェリペ2世 在位1556〜98年。   
 イギリス国王エリザベス1世 在位1558〜1603年。
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 エリザベス1世時代。
 イギリスの人口は、400万人程度であった。
 敵対する、スペインやフランスの人口は共に1,000万人を超えていた。
 イギリスは、戦争をしたら勝ち目が無いのは明らかであった。
 苦境に立たされたイギリスは、南米の植民地からおびただしい金・銀・財宝を積んで帰還するスペイン船やポルトガルの船を、徹底して略奪する海賊好意を黙認した。
 むしろ黙認どころか、積極的な介入と言える。
 エリザベス1世は、海賊のフランシス・ドレークやホーキンズ船長などを雇い、私掠特許状を与えた。
 イギリスは、海賊行為への関与を徹底して隠し、スペインやポルトガルから抗議が入っても知らぬ存ぜぬをとした。
 エリザベス1世は、多額の金を融資して多くの海賊船団を組織した。
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 生き残った戦国大名は、あらゆる手段を駆使して情報を入手し、先の先まで読み切って窮地を潜り抜けていた。
 外交能力のない戦国大名は、死滅した。
 戦国時代は、戦略結婚を頻繁に行い、女性が犠牲になったと言われている。
 最後の土壇場で、正妻の力が全てを決定した。
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 百姓=村人は、敵対する領主の攻撃から生命財産を守って貰う為に領主に税を納めていたが、領主が自分達を守れないと知るや領主を見限り、敵方の領主に村ごとは走った。
 敵方の領主が以前に村で虐殺や略奪などの非道な行為を行っても、自分の領民を外敵から守っていれば、殺された身内の怨みを忘れてその領主に税を納めた。
 百姓=村人にとって、領主が誰であれ、自分の生命財産を保障し守ってくれればそれで良かったのである。
 境界にある村の百姓は、口では今の領主に忠誠に誓って税を納めても、時の勢いでたえず領主を変えながら強かに生きていた。
 領主は、敵に走ったり味方になったりする境界の村から敵の情報を得る為に、むしろそうした村を大事にした。
 多くの戦国大名は、そうした百姓根性を知るが故に、敵領に攻め込んで残虐行為を行って領地を広げていった。
 百姓は、戦う農民としてムラ共同体を守る為に武装して戦った。
 けっして、泣き寝入りするだけの無力で無抵抗な弱い存在ではなかった。
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 京の近郊には、雑兵崩れの夜盗がたむろして治安が悪かった。
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 イエズス会は、日本布教に当たり、日本人との摩擦や衝突を避ける為に、現地順応を原則として日本人の生活習慣を受け入れた。
 ただし、信仰に関わる事は一切妥協せず、寺社仏閣の伝統的建設様式である横長平面形式を「悪魔の形式」として拒絶し、西洋の大寺院建設様式である縦長立体形式を「神聖な形式」として譲らなかった。
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 1559年 カルヴァンは、『キリスト教綱要』を出版し、「キリスト教の本質は、ただひたすらに信ずる信仰だけだ」と明言した。
 キリスト教の信仰は、博愛精神や慈善事業で人助けをする事ではなく、自分に訪れる「最後の審判」を「ただ信じる」事だと。
 そして、絶対神が定めた予定を信、信じて「殉教」する事が崇高な行為である、と。
 自分の命、魂を、絶対神に委せる。
 プロテスタンティズムが、ヨーロッパ経済の基礎となり、近代的資本主義への道を切り開いた。
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 西洋的世界観は、「これまでが、これからを決める」
 東洋的世界観は、「これからが、これまでを決める」
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 1560年代 火縄銃の国内生産が可能になり、全国の戦国大名は火縄銃を先を争って購入した。
 日本の武器商人らは、火縄銃の普及により火薬の需要も高まったが、硝石を日本人奴隷と引き換えに外国から輸入していた為に不足し始めた。
 新たな土硝法を開発して、硝石の国産化に成功して火薬不足は解消した。
 火縄銃と火薬の国産化で武器の自給体制が進んだが、大砲製造は上手く行かず輸入に頼った。
 ポルトガル武器製造業者は、日本の銅が大砲の原材料に最適であるとして大量に購入した。
 日本の武器商人は、日本刀や武器甲冑と共に火縄銃を中国などに輸出したが、朝鮮へは1592年以降になってようやく輸出した。 
 ポルトガル国王ジョン3世「火薬の樽一個に対し日本人は奴隷50人」
 イエズス会が管理する天草地方の三隅湾は、日本人奴隷と火薬の製造に必要な硝石との交易場として、白銀海岸と呼ばれていた。
 イエズス会は、改宗者を増やす為に絶対神の前での人間平等を説きながら、布教活動の資金を得る為に日本人奴隷売買に協力した。
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 時は戦国乱世。侍達は、下剋上で一国一城の主kさら天下を目指していたと言うより、如何に生き残るかというサバイバルで必死に戦っていた。
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 1560年 第106代正親町天皇は、毛利元就献金で即位した。
 ポルトガル領インドのゴアで異端審問所が開設された為に、隠れユダヤ教徒である改宗ユダヤ人達は弾圧を逃れてマカオに逃げた。
 ポルトガルユダヤ人商人達も、日本の銀を手に入れるべくマカオに拠点を移した。
 スペイン系ユダヤ人達も、日本に進出する為にフィリピンのマニラに拠点を築いた。
 ポルトガル系もスペイン系も同じスファラド系ユダヤ人で、ヨーロッパでも知的文化的水準は高く商業能力も優れていた。
 イエズス会は、純粋な布教活動を行う為に日本に入国しようとしていた。
 ユダヤ人商人達は、商業活動として日本の銀を手に入れる為に日本入りを目指していた。
 ユダヤ人にとって、イエズス会は異端審問で改宗ユダヤ人を弾圧する敵であり、日本がイエズス会を受け入れキリスト教化すれば、日本でも人種差別が起きユダヤ人は追い出される恐れがあった。
 松平家康は、桶狭間の戦いの後、今川家から独立して「源氏」の子孫を主張した。
 正親町天皇は、松平家は源氏の子孫である事を認めなかった。
 松平家康は、1566年に、徳川家の格を上げるべく、関白・近衛前久に賄賂を送り、源氏「得川」の系図を藤原家の系図に書き加えて藤原氏「徳川」を名乗った。
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 1560年 室町幕府足利義輝は、ヴィレラ宣教師に京都での布教を許可した。
 大和の領主松永久秀は、キリスト教を追放する為に真贋論戦を行った。
 キリスト教側・日本人キリシタンのロレンソ修道士。仏教側・結城山城守忠正、高山飛騨守。神道側・吉田神道の清原枝賢。
 キリスト教との神学論争で仏教と神道は敗北し、三人は洗礼を受けキリシタンとなった。
 1560年以降 イエズス会の宣教師らは、ポルトガル国王に対し、ポルトガル商人の日本に於ける奴隷貿易で悪評が立ち布教活動が妨げていると訴え、幾度も奴隷貿易を禁止する勅令を出すように懇願した。
 ポルトガル国王は、その都度、日本人を奴隷として売買する事を禁じる勅令を出した。
 本国か遠く離れたポルトガル商人らは、アジア地域を監督する役人に賄賂を送って凋落し、奴隷貿易に協力する教会や宣教師に多額の寄進をし、日本人を奴隷として売買していた。
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 1560年 織田信長は、桶狭間今川義元を討ち取った。
 今川義元「明日なし翌またしらぬ人はただ 今日のうちこそ命なりけれ」
 (昨日までの事は終わり、明日の事は分からない。人は今、目の前のこの時こそが全てなのだ)
 「また明日の光よいかに過ぎて来し あとは今宵の月の影かな」
 (また明日の月光はどうなっているだろうか、こうして明日はどうなる事だろうと過ごしてきた結果、私は今、今夜の月光を眺めている事だ)
 丸島和洋「信長が周到な作戦に基いて勝利を収めたという従来説は、後世になって信長を〝ヒーロー扱い〟するための創作と今では考えられています、『信長公記』などの記述を細かく検証すると、信長は目の前にいるのが戦闘に疲弊した軍勢と勘違いして攻撃を仕掛けている。実際に対峙していたのは休養十分の今川軍だったのですが、たまたま悪天候が重なるなどして今川本陣が動きを取れなくなり、混乱に乗じて義元の首を取った」
 信長の勝利は、偶然が重なって得た幸運であった。
{2018年4月23日 産経ニュース「今川義元生誕500年 “凡将”イメージ払拭へ 像制作など静岡でイベント続々
 今川義元の愛刀の復元を目指し、つち入れ式で大づちを振るう春風亭昇太さん(右)=2月8日、富士宮市(佐野翔平さん提供)
 静岡県ゆかりの戦国武将、今川義元(1519〜60年)が生まれて来年で500年となるのを機に、その功績を再評価し、地域おこしにつなげようという取り組みが県内各地で始まっている。平成31年5月をめどに義元の愛刀を復元するプロジェクトや32年5月を目標に義元をPRする像をつくろうという動きなどが出ており、義元の居館があった静岡市は官民からなる「今川義元公生誕五百年祭推進委員会」を立ち上げ、義元のPRに乗り出している。(吉沢智美)
 義元の愛刀で、国の重要文化財に指定されている「義元左門字(さもんじ)」。この刀を作刀当時の姿でよみがえらせようという取り組みが今年2月、富士市の刀鍛冶、内田義基さん(48)の手で始まった。
 義元左門字は桶狭間の戦いで義元が討たれた際に織田信長の手に渡った。信長は2尺6寸(約80センチ)の太刀を磨いて2尺2寸(67センチ)にし、腰に差す打ち刀にしたという。その後、刀は豊臣秀吉徳川家康と天下人に継承され、明治期に徳川家から建勲神社京都市)に奉納され、現在に至っている。
 義元左門字を義元が所持していた当時の2尺6寸の大きさで復元しようというアイデアは内田さんの知人の佐野翔平さん(27)=富士宮市=の発案。佐野さんは「これまで義元は信長に討たれた凡将というイメージで見られていたが、刀の復元をきっかけに、イメージではなく本当の歴史に目を向けてもらえるようになれば」とその狙いを話す。
 プロジェクトの名誉会長には昨年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」で義元役を演じた静岡市出身の落語家、春風亭昇太さんが就任。完成後は県内の義元ゆかりの地に奉納する予定だといい、内田さんは「義元公をしのぶ気持ちを胸に刀を元の姿に戻したい」と力を込める。
 一方、静岡市などで組織する今川義元公生誕五百年祭推進委員会も先月下旬に同祭の主要事業(30、31年)とロゴマークを発表。義元の命日に当たる今年の5月19日に今川家の菩提(ぼだい)寺である臨済寺(同市葵区)で、建設中の今川霊廟(れいびょう)の完成法要を行うほか、来年の5月19日には同寺に義元の胴塚がある大聖寺(愛知県豊川市)の関係者を招いて合同法要を営む。
 同委員会の委員長を務める小和田哲男静岡大名誉教授は「義元公は桶狭間の敗戦で軟弱武将のレッテルを貼られてしまっているが、実際には武田信玄上杉謙信と肩を並べるほどの実力を持った武将だった。今川家があったからこそ今の静岡があるということを生誕500年を機に知ってもらえれば」と話す。
 同委員会の事務局を務める静岡商工会議所では広報誌に義元を紹介する漫画を1年間連載する予定。小中学生にも関心を持ってもらえるよう、義元をモチーフにしたゆるキャラ「今川さん」を登場させ、義元の生涯を分かりやすく解説する。今月号から連載を始め、連載終了後は単行本化も予定しているという。
 同委員会内では五百年祭のハイライトとしてシンボルとなるような義元像を制作することも検討されており、32年5月をめどに完成させる案が浮上している。」}
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 1562〜89年 フランスは、ローマ・カトリック教会への忠誠の証として、国内のプロテスタン系カルヴァン派を根絶する為に弾圧を行った。
 商工業者を中心としたカルヴァン派は、信仰を守る為に反乱を起こした。
 同じキリスト教徒でありながら、信仰を守る為の血で血を洗う悲惨なユグノー戦争の始まりである。
 フランスの農民は、飢餓の中で貧困に耐えかね、各地で叛乱を起こしていた。
 王侯貴族と教皇枢機卿ら聖職者は、ゴージャスな生活を送る為に、公金を湯水の様に浪費していた。
 ジョルジュ・リヴェ「戦闘は多くの死者を出すのが常であったが、それに加えてさまざまな虐殺行為が見られた」(『宗教戦争』)
 ヨーロッパは、キリスト教の宗教裁判による異端者審問と魔女狩りの横行で、殺戮が繰り返されていた。
 多くの命が絶対神の信仰によって奪われ、大量の命が絶対神の愛を証明する為に流された。
 中世キリスト教会の信仰による暗黒が、ヨーロッパ大陸から地球上に広がって行った。
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 1562年12月 毛利元就は、石見銀山を朝廷の御料所として献呈した。
 石見銀山の所有者は、日本天皇であった。
 ポルトガル商人、イエズス会ユダヤ人商人達は、日本の銀を手に入れるためには、地方の戦国大名をいくら改宗させても朝廷・天皇キリスト教化しなければ不可能である事を知った。
 イエズス会は、朝廷をキリシタンに生まれ変わらせる戦略として、大坂など畿内に教会を建て京をキリシタンで包囲し籠絡しようとした。
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 1563年 正親町天皇は、松永弾正久秀に宣教師追放を命じた。
 松永弾正は、天皇の命令を拒否した。
 大村純忠は、忠実な家臣と共に洗礼を受け、「領主の信仰は領民の信仰」の原則に従って領民にも改宗を強要した。
 「御恩と奉公」や「主君への忠義は家族愛より優先する」といった固定観念に囚われていた日本人は、主君の命に従ってキリスト教に改宗した。
 改宗したキリスタンは、隣人愛の信仰を証明するべく、異教を排除するべく、領内の神社仏閣や先祖の墓を破壊した。
 一族の後藤貴明は、仏教勢力と共に叛乱を起こした。
 大村純忠は、兵力が足りなかった為に妥協した内乱を鎮めた。
 だが、キリスト教徒と仏教徒との対立は残った。
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 宣教師ルイス・フロイスは、日本は性風俗に乱れ、一般人はおろか僧侶までもが淫乱で、淫靡な国であると嫌悪して報告した。
 「ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と貴さは、貞淑であり、またその純潔が犯されない貞淑さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても、名誉も失わなければ、結婚もできる」
 「ヨーロッパでは、妻を離別する事は、罪悪である以上に、最大の不名誉である。日本では意のままに幾人でも離別する。妻はその事によって、名誉も失わないし、また結婚もできる」
 「我々の間では、人は罪の償いをして、救霊を得る為に修道会に入る。坊主らは、逸楽と休養の中で暮らし、苦楽から逃げる為に教団に入る。」
 性意識も箍(たが)が外れて締まりがなく、仏教界では男色や女色は珍しくなかった。
 フランシスコ・ザビエル「僧は言語道断の情欲の限りを尽くし」
 宋希環(朝鮮通信使)「尼は妊娠すると、すぐに父母のいる実家に帰り、産後、寺に帰って仏前に臥す」(『老松堂日本行録』)
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 中世キリスト教会は、絶対価値観を持つ排他性の強い一神教として、聖なる使命として異教と異教徒を地上から排除した。
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 キリスト教徒による異教徒への襲撃、1561年に宇佐八幡宮、1581年に豊前彦山の三千坊。
 宇佐の八幡神は、別名「誉田別尊」とされ、日本神話に由来しない神であるが、奈良東大寺の大仏建立にあたって託宣を下した事で有名となった。
 後に、応神天皇の神霊が加わえられた。
 仏教との関係が深めるや、八幡大菩薩の神号が贈られ、本地仏阿弥陀如来とされた。
 伊勢神宮以上の信仰を集め、日本全国に神社を造営し、その数は日本一である。
 1580年頃 春日大社の神鹿を食用する為に殺害した。
 その他。
 『大村郷村記』などの古記録には、こうした日本人キリスト教徒の神を恐れない暴挙の数々が記載されている。
 キリスト教徒は、「絶対神の名」において日本の宗教風土を破壊しようとしていた。
 キリスト教会は、神代からの民族宗教を日本から抹殺する事を、絶対神への信仰の証しとしていた。そして、民の安寧をひたすら祈る祭祀王の天皇を、日本から永久追放しようとした。
 『新約聖書・マタイによる福音書 第4章10節』「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」
 最初。一般の日本人は、キリスト教を風変わりな仏教の一宗派と勘違いしていた。
 仏教勢力は、キリスト教を敵と認識して攻撃した。
 キリスト教徒は、日本国内で異教徒への聖戦を繰り広げていた。
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 1565年 足利義輝は暗殺され、京都におけるキリスト教布教の保護者を失った。
 竹内季治や松永久秀法華宗徒は、神と仏を滅ぼそうとしていると告発し、京から追放するように訴えた。
 第106代正親町天皇は、三好長逸、三好正康、篠原長房らの布教許可要請を拒否し「大うすはらひ」の綸旨を発して、京都からキリスト教宣教師を追放するよう命じた。
 宣教師らは、自由都市堺に逃げ込み商人らの保護を受け、大友宗麟キリシタン大名天皇へ取り成しを要請した。
 朝廷は、反キリスト教勢力を納得させる為に、帰京の条件として仏像への誓いを求めた。
 だが、宣教師らは教義に反するとして拒否した。
 スペイン初代フィリピン総督ミゲル・ロペス・デ・レガスは、フィリピンの東方の太平洋で沖の鳥島岩礁を発見して「パレセベラ(帆を上げよ)」と命名した。
 この後。スペインの海図には、琉球諸島の南東海域にある沖ノ鳥島をパレセベラ島と記載した。
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 スペインのミゲル・デ・レガスピは、1565年にフィリピン中部にあるセブ島を攻略し、1571年にルソン島のマニラを占領してフィリピンを植民地とした。
 フィリピンは、スペイン国王に捧げる為に名付けられた地名である。
 この頃、日本人や琉球人も交易の為にルソンを訪れていた。 
 白人キリスト教徒は、非白人非キリスト教徒の国々を植民地化する為に侵略を繰り返していた。
 侵略者の前に先駆けとして現れるのが、キリスト教宣教師と商人であった。
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 1566年 オランダの独立戦争
 11月 後藤貴明は、主君大村純忠に対して再び叛乱を起こした。
 大村純忠は、多勢に無勢で窮地に追い込まれた。
 大村領福田港に停泊していたポルトガル船は、キリスト教徒の大村純忠を助けるべく武装兵を派遣した。
 大村純忠は、ポルトガルの軍事支援を受けて叛乱を鎮め、キリスト教会への感謝として領地の一部を教会に寄進した。
 キリスト教会は、大村領をキリスト教が盛んな土地としたが、妥協策として圧倒的多数派になるまで神社仏閣の破壊を禁止した。
 ポルトガルは、長崎が良港になるとして要塞を建設し始めた。
 キリシタンの多くが、ポルトガルの軍事力の保護を受ける為に長崎に移住した。
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 戦国時代の百姓ほど、油断も隙もない恐ろしい者はいなかった。
 領主は、合戦の度に百姓を武器や兵糧などの運搬や陣地建設など雑役に狩り出していた。
 百姓は、戦いに直接参加せず、負けそうになれば領主を見捨てて先に逃げ、勝てば死んだサムライの甲冑や刀など奪い落ち武者狩りに狂奔した。
 生産性の乏しい農村の百姓達は、戦のおこぼれをにありつく為に、武装して戦場の周囲をうろついていた。
 後年。豊臣秀吉は、武装した百姓を放置しては世の乱れの原因となるとして刀狩りを行った。




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