⚔18)─1─中世キリスト教会は、日本を絶対神に献上する為に、天皇を滅ぼし、異教の神を消滅させしようとした。1553年~No.69No.70No.71 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 中世キリスト教会と現代キリスト教会は、全く違うキリスト教会でる。
 一部の日本キリスト教会と韓国キリスト教会は、天皇を廃絶し日本を滅ぼそうとしていた。
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 ローマ教皇は、植民地の原住民支配に対する公式見解を与えた。
 白人ではない有色人種は、人ではなく獣・家畜として取り扱い、キリスト教に改宗したら人として認めるが、白人同様の権利と自由を与える必要はない、と。
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 日本の古層に隠れているのは、中華文明でもユダヤ文化ではなく、オリエント文明ペルシャ文化とゾロアスター教である。
 足軽の語源は、ペルシャ語の「アシュカリ」(武人)である。
 ちゃらんぽらんも、ペルシャ語の「チャランデパランデ」という。
 それに比べて、日本にあるモノで朝鮮由来のモノは少ない。
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 1553年 スペイン王子と結婚しているメアリ1世がイギリス国王に即位し、カトリック教を復活する為にプロテスタント各派を異端として弾圧した。
 国民は、「血のメアリ」と恐れた。
 イギリスは、宗教を原因とした政治混乱で流血が絶えなかった。
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 1555年 厳島の戦い厳島の戦いは、女の活躍で毛利方が勝利した。
 日本の戦いは、女性の外交交渉で勝敗が決まる事が多かった。
 アウグスブルクの宗教和議。宗教紛争を防止する為に、個人の自由な信教を否定し、領主の信教が強制された。
 もし、領主の信仰と異なる信仰を持つ事が発覚すると、異端者・魔女として生きたまま焼き殺された。
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 1556年 スペイン国王フェリペ2世は、ネーデルランドカルヴァン派を弾圧し、カトリックへの改宗を拒否すれば異端者として生きたまま焼き殺した。
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 大航海時代における、日本と西洋の接触は金融が原因であった。
 ユダヤ人商人達は、新大陸の銀産出量が激減し、生きる為に拡大させてきた貿易・金融が縮小すると怖れ、新しい有望な銀鉱山を求めて日本に向かった。
 そして、財政改革して、銀に代わる貨幣として移動させやすい為替手形・銀行券などの 信用為替・紙幣の発行を始めた。
 日本は、貨幣に信用を与える絶対的権威が存在しなかった為に独自の貨幣を鋳造できず、中国から宋銭・明銭を輸入していた。
 その世界的潮流に乗ったのが織田信長で、地方分権の土地=米=富と言う概念を打ち砕き、中央集権の商業=貨幣=富という新たな概念を打ち出した。
 織田信長は、義父の斎藤道三から楽市楽座と宣教師の改宗ユダヤ人から貨幣経済理論を学び領地経営に反映させ、経済力と軍事力を強めた。
 日本海の若狭、東国の伊勢、西国・南蛮の堺の重要な港を支配する為に、琵琶湖の安土に城を築いた。
 だが。貨幣支配は家臣団と商人のみとして、その他大勢の百姓は兵糧を確保する為に自由に売買できない様に土地のみに縛り付けた。
 土地所有は朝廷から与えられ、土地領有権は幕府から認められていた。
 貨幣を流通させる為には信用が重要で、伝統的な朝廷の権威や室町幕府の権力では保証にならない為に、多種多様な価値観を生みだし混乱の原因となっていた朝廷や幕府を超える一神教的な新たな権威・権力に自分が成ろうとした。
 土地から貨幣への価値観の大変換が、古い既得権益者の反発を買った。
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 改宗ユダヤ人達は、キリスト教会の弾圧や迫害から逃れ、自分達が生計を立てて生きられる土地を目指して世界中に散っていった。
 だが。移住先で、土地は権力者によって奪われる危険性がある為に土地には興味がなく、持って逃げれる金を大事にし、金にのみ絶対の信頼を寄せていた。
 改宗ユダヤ人は、金を地元の権力者に課し金利をえ、蓄えた金を更に投資して蓄財に励んでいた。
 古代ローマ時代から採掘して来たヨーロッパの銀山が枯渇し、今また新大陸での銀産出量が減ってきた為に、改宗ユダヤ人達は日本の銀鉱脈を独占するべく日本に押し寄せた。
 ユダヤ人商人達は、スペイン人あるいはポルトガル人として、欧州と新大陸及びインドも航路を確保して金融網を築いていた。
 スペイン商人やポルトガル商人達は、信仰から金貸しなどの金融業には手を出さず、土地所有と商品や奴隷の売買で利益を得ていた。
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 ローマ教皇は、トルデシャリス条約とサラゴサ条約で、日本を南米大陸のようにスペインとポルトガルが平和的に分割して植民地する事を認めた。
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 1557年 ポルトガルは、ローマ教皇の認可を得て、マカオ澳門)に東アジアを植民地する為の拠点を築くべく住みついた。
 ポルトガルは、香料やお茶の貿易拠点を確保する為に、マカオを占領して明国から居住権を得た。
 キリスト教会は、マカオに中国布教の拠点を置き、教会領として世俗の介入を排除した。
 宣教師や修道士らは、中国をキリスト教国にする為に中国人への改宗に力を入れ、改宗者からの寄進で教会領を徐々に広めた。
 彼等にとって大事にすべきは、同じ絶対神を信仰する信者であって、異教徒まで含めた生きた人間ではなかった。
 よって、「聖なる使命」により、異教徒を一人残らず「聖なる炎」で生きたまま焼き殺そうとした。
 ポルトガルは、マカオを植民地にする為に、1887年に割譲させた。1999年に、マカオは中国に返還された。
 アルブケルケ提督は、リスボンでアジアに於ける経験談を本にまとめ、その中で日本人を紹介した。
 「彼らは信義を重んじ、相手の虚言に気がつけば直ちに取引を中止して立ち去る。他国に留まることを好まず、植民地を作らないし、持たない。極めて言葉が少なく、本国の事情を多く語らない。彼らは勇敢で、マラッカでは畏敬されている。マレー人は狡猾で信実に乏しいが、彼らは高貴の種族にして善良なる風習の民族である」
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 1557年 アルメイダ(ポルトガルユダヤ人)は、大分で西洋医学病院を開設した。
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 フランス国王フランソワ2世 在位1559〜60年。
 1559年 フランソワ2世は即位するが、王妃の外戚であるギーズ公一族が実権を握り、プロテスタントを弾圧した。
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 ドミニコ派修道士ラサ・カサスは、1552年に、スペイン人の残虐行為を告発する「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を、スペイン国王に提出した。
 スペイン王国は、中南米における布教活動と植民地支配について大激論を交わしていた。
 植民地経略において、地元民に洗礼を施した後に奴隷として使役するか、武力で異教徒を屈服させてから改宗させて奴隷にするか、議論を重ねた。
 宗教的白人至上主義で、差別的結論が出された。
 白人の優秀民族は、劣等民族の非白人を支配する権利を絶対神から与えられている。
 ザビエルは、スペイン国王とイエズス会に対して、日本に軍事占領を試みるべきではないとの書簡を送った。
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 集団的「家」の宗教で先祖を祀り供養する村人は、個人的「私」のキリスト教への改宗を拒否した為に殺されるか、教会領となったムラから追放された。だが、戦国時代は生まれ育った村から追放されては生きていけなかった為に、盗賊や夜盗などの犯罪者になり切れない心弱い村人は、改宗して村に戻った。
新約聖書・マタイによる福音書 第5章17節』「イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』といって、宣べ伝え始められた」
 イエズス会は、改宗の決断が付かず浮浪者のように彷徨う異教徒を、「神の王国」を汚す不純物として差別し、改宗ユダヤ人奴隷商人や人買いの中国商人らに売り渡した。
 奴隷とされた異教徒日本人は、家畜のように大陸に売られて、二度と生きて故郷に戻る事がなかった。
 南蛮貿易として、奴隷売買で大金が稼げる事を知ったキリスト教徒日本人商人は、各地の合戦場から数十万人の異教徒日本人を攫ってきては、奴隷として中国や東南アジアやアフリカなどに売った。ヨーロッパでも、日本は奴隷輸出国として名が知れていた。そして、日本人女性は高値で売買されていた。
 キリシタン大名は、火薬の硝石を手に入れる為に、イエズス会宣教師の指示に従って、数十万人の若き乙女や子供を天草などの九州沿岸の白銀海岸(バチカン公文書に明記されている)でキリスト教国船籍奴隷船に押し込んだ。そこには、日本古来の助け合って共に生きるという伝統的集団主義である「家」はないし、慣習としての仲間・身内・家族の「絆」も消滅していた。日本人なら誰でも持っているムラ共同体の「義理人情」は、金儲けと「個」の利益を重視する彼らにとっては無意味な価値観であった。
 自己中心的な日本人にとって、自分だけが良ければ後はどうでも良かったのである。国際派の彼等は、「社会の為や人の為」と言った、日本的な御為ごかしを最も嫌い、自己犠牲的「お人好し」を軽蔑した。彼等は、国が消滅し、日本人が死滅しても、目の前に自分の金が山と積まれれば気にはしなかった。
 ジョアン3世「ジパングは、火薬一樽と交換に50人の奴隷を差し出します。神の名に於いてに日本を領有すれば、献金額を増やす事ができるでしょう」(ローマ教皇への進言)
 徳富蘇峰キリシタン大名、小名、豪族達が、火薬が欲しいばかりに女達を南蛮船に運び、獣の如く縛って船内に押し込むゆえに、女達が泣き叫び、わめくさま地獄の如し」(『近世日本国民史』)
 ラリンケ判事「東洋へ硝石さえ持って行けば、女は幾らでもくれる」
 天正少年使節団の報告(1582年)「行く先々で、日本女性が何処まで行ってもたくさん目に付く。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘達が秘所丸出しにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国まで転売されてゆくのを正視できない」
 アレサンドロ・バリグナーノ「日本は、すべて裏返しの世界だった。日本人に、我々と似ているところは何一つなかった」
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 古代日本では、王族や貴族などが私的に奴隷を所有していたが、646年(第36代孝徳天皇)に発せられた「改新の詔」の第一条で、個人による土地と奴隷の所有を禁止された。「公地公民制」により、全ての日本人は天皇の臣民・公民とされ、大陸的な個人が生殺与奪権を持った人を人と思わない奴隷制度・家奴制度は廃止された。
 今を生きるキリスト教徒にとっては、会った事のない遠い先祖や見る事もない遠い子孫も、選んだわけでもない親兄弟や言う事を聞かない不逞な妻子も、そして好きでもない隣人が、異教徒として地獄の業火で永久に苦しもうとも関心がなかった。彼らにとって、集団としての異教徒の「家」や「家族」や「家庭」には興味がなく、大事なのは信仰を持つ「個」の自分一人の「今」だけであった。明日の自分の事や数世代先の子孫の将来を思い煩う神道と違って、50年や100年と言った遙かな将来の事はもちろん明日の事さえも関心がなかった。
 彼らが尊重したのは、あくまでも「個」としての絶対神への「今」の信仰と自分一人の「今」の幸福だけであって、他人の事や家族の事や「明日」の事は一切興味がなかった。
 『新約聖書・マタイによる福音書 第6章34節』「明日の事まで思い悩むな。明日の事は明日みずからが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」 大陸の常識は、自分の物を他人と如何に公平に分け合うかではなく、他人から如何にして奪って自分の物にするかであった。そして、他人に怨まれない様にする為に慈善活動をし、義援金を如何に少なく払って感謝されるかに腐心した。
 彼等の自慢するボランティアとは、特権を有する極一部の上流階級が、搾取され差別されるだけの大多数の下層階級との雲泥の格差を維持するものにすぎなかった。
 ゆえに、上流階級はもちろん中流階級でも普通の日本人以上に裕福であるが、下層階級は極て普通の日本人以上に貧困であった。
 日本には、大陸のような越える事ができない差別はなかったし、雲泥の格差もなかった。
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 当時の天皇は、荒れ果てた京都御所の中の粗末な掘っ立て小屋に住んでいた。
 ザビエルは、布教許可を得ようとしたが、ローマ教皇の様な威厳もなく、ヨーロッパ王族の様な豪華さもない、宗教権威も政治権力もないみすぼらしさに幻滅して諦めた。
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 ザビエルの失敗とは、インカ皇帝やその身内を改宗したように、天皇あるいは皇族や有力な公家を改宗できなかった事である。
 天皇が日本の最高神職なら、皇室・皇族関係の最高神官は天皇の娘である未婚の内親王のみが就ける伊勢神宮の斉王である。
 日本の宗教界を改宗日本人から学んだ宣教師らは、日本民族の精神的支柱、日本人が日本人らしく生きる為の「まごころ」や「良心」や「道徳」の源泉であるところの、現人神であり最高位の祭祀王・天皇とその血筋の祭主・斉王を改宗する事を最大の眼目とした。
 異教徒日本民族の抹殺する鍵は、統率がとれた侍の武力ではなく、国際的な商才ある商人の経済力でもなく、神の裔である宗教的万世一系男系天皇(直系長子相続)であった。
 ゆえに、天皇に謁見して皇族を改宗させてようとしたが、天皇を守ろうとした民族主義的宗教勢力と伝統を重んずる頑迷な公家らによって拒否された。
 ザビエルは、小国日本のキリスト教化を諦めて、大国明帝国キリスト教化に燃えて中国に渡ったが、志半ばで病死した。
 教皇グレゴリウス15世は、1622年に異境の地で死亡したザビエルを聖人に列した。
 「世界の伝道事業の保護者」(1904年)
 イエズス会は、邪教国日本を改宗するには疲弊させ絶望の淵に追い遣る事が一番であるとして、大国明帝国の軍事力を利用する計画を立てた。
 日本イエズス会の準管区長コヨリエは、豊臣秀吉の野心を駆り立てて明征服(唐入り)を焚き付け、大量の武器弾薬を提供する事を約束した。だが、異教徒との約束を守る気はなかった為に、朝鮮半島に渡った日本軍は彼等の支援を受けられず苦戦し、明の大軍の反撃と朝鮮人の抵抗にあって敗走した。
 ポルトガルやスペインは、植民地拡大と財宝の独占と奴隷の確保の為に、イエズス会フランシスコ会などの布教活動を支援した。
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 戦国時代。天皇家は、各地の荘園を戦国大名にぼっしゅうされた為に経済的に逼迫し、真面に即位式が出来ず、存続が危ぶまれるほどの危機的状況に追い詰められていた。
 天皇の権威が失墜していた為に、100年以上にわたって伊勢神宮遷宮も中絶して荒れ果てていた。
 1549年 紀伊の有力な豪族の娘であった臨済宗の尼僧・清順は、諸国を行脚して浄財を募って、宇治橋の架け替えを行った。
 後奈良天皇は、非力な皇室に代わって伊勢神宮を救ってくれた功績に酬いる為に「慶光院」の名を下賜した。
 明日の食事にも事欠くほどの皇室にあって、唯一出来るのは正統な「名」を与える事ぐらいであった。
 戦国大名は、官職名を朝廷に許可を取らず勝手に家臣に無節操に大盤振る舞いしていた。
 慶光院清順尼は、戦国大名に働きかけて浄財を集めて、1563年に129年ぶりに外宮の遷宮を実現した。
 1566年 慶光院清順尼は没し、弟子の周養尼が慶光院と尊皇の志を継いだ。
 1585年 周養尼は、織田信長の銭3,000貫と豊臣秀吉の銭1万貫で、内宮と外宮の同じ遷宮を初めて遂行した。
 内宮の遷宮は、123年ぶりの事であった。
 内宮と外宮の同時遷宮は、この時から始まった。
 その後。慶光院は、周養尼の弟子周清尼が第三代目として引き継ぎ、江戸幕府から寺領300石を与えられた。



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