⚔4)─1─戦国時代は、内戦・飢餓・疫病そして乱取りで生き地獄であった。~No.8No.9No.10 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本では、大陸史・世界史的な流血を伴うイデオロギー革命や宗教改革は起きない。
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 西洋や中華(中国・朝鮮)の脅威が人であり、災害が人災である以上は、絶対神の力はもちろん、人知や人力で容易く対応できた。
 日本の脅威が自然であり、災害が自然災害である以上、人知や人力ではどうにもならず、ましてや如何なる神の力も自然災害には無力であった。
 日本は甚大な災害が多発する恐怖の自然災害大国であった。
 それ故に、絶対神ではなく八百万の神々や御仏への信仰ではなく、全ての神仏への崇敬・敬意を忘れず、敬虔な心で全ての神仏を崇拝していた。
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 日本民族日本人は、不寛容と排他的な普遍宗教の絶対神や救世主(メシア、メサイア)の奇跡や恩寵などは胡散臭く信じなかった。
 そして、日本の気候風土では合理的でなく現実離れした、空想的理想的観念的な思想・哲学・主義は生まれなかったし、如何に素晴らしくとも敬遠されて根付かなかった。
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 日本の気候風土で生きる智慧とは、文系的現実観察と理系的論理思考の均衡を保つ事である。
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 唯一絶対神を信仰する敬虔な者には、甚大なる自然災害が多発する日本列島で生きる日本民族日本人は理解しづらいどころか、嫌悪すべき邪悪に近い人間であった。
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 日本民族とは、南方系海洋民、揚子江流域民=河川の民、北方系草原民が、戦乱で大虐殺を繰り返す中国大陸や朝鮮半島から日本列島に逃げ込み、住み着き、棲み分けながら雑居し、争う事なくうち解けあって雑婚して生まれた混血の雑種民族である。
 揚子江流域民=河川の民は、漢族系中国人でもないし韓国人・朝鮮人でもない。
 北方系草原民は、黄河流域に住み着き漢族系中国人や韓国人・朝鮮人の祖先である。
 アジア人といっても、日本民族日本人は漢族系中国人や韓国人・朝鮮人とは別系統である。
 日本民族日本人・台湾人・琉球人・アイヌ人は、南方系海洋民=縄文人を祖として同根である。
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 混血の雑種民族は、価値観の多様性に富んだ和の原理や曖昧でいいい加減な原則で、志の天皇制度と心の日本神道と言霊の日本国語を選んだ。
 そこに、新たに大乗仏教(日本仏教)と各種儒教(日本儒教)を取り入れた。
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 日本民族日本人は、漢族系中国人や朝鮮人に比べて弱者で、非力なうえに気弱で臆病であった。
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 2018年3月号 新潮45「ニッポン全史 古市憲寿
 第3回 異常気象が招いた時代
 中世は、日本がバラバラになっていく時代である。その最後の混乱は『気候変動』とともに訪れた。
 旧石器、縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、戦国、安土桃山、江戸、明治、大正、昭和、平成・・・。こんな時代区分を学生時代に暗記させられなかっただろうか。この分け方が無意味だとは思わないが、ざっくりと歴史を把握したい本連載にとっては、ちょっと細かすぎる。
 一番シンプルな時代区分は、次の3つだと思う、『古代』『中世』『近代』だ。もともとこの分け方はヨーロッパから持ち込まれたものだが、日本の歴史をうまく説明してくれる。
 まず、古代とは、7世紀から8世紀を頂点として、列島が一つにまとまっていた時代。朝鮮半島有事を受け、『日本』は巨大な軍事国家となろうとしたのだ。少なくとも理想として、『日本』は一つになろうとしていた。
 そして中世は、一つになろうとした『日本』が、再び崩れていく時代。教科書的な時代区分でいうと、平安の終わりから、鎌倉・室町・戦国・安土桃山時代のあたり、古代の野望を『やっぱり無理』とあきらめて、身の丈に合わせていく過程と言ってもいい。
 近代は、再び『日本』が誕生した時代。江戸時代がその準備期間で、明治以降に本格的な『日本』の統一と拡大プロジェクトが始まった。その延長線上に僕たちは生きている。
 治外法権が続々と誕生 
 というわけで今回は中世の話をする。あらかじめ宣言しておくと、中世はちょっとわかりにくい。『超難関な時代』と形容されることさえある。
 前号の古代はわかりやすかったと思う、なぜなら、天皇一族が権力を獲得する歴史として理解すれば大間違いではないから。
 だけど中世で『日本』は、一度崩壊し、ばらばらになってしかう。つまり、色々な権力が、ごっちゃになって共存している。だから、単線的にシンプルな説明をするのが難しい。
 まあ、こうやって言い訳を書き連ねても仕方ない。なぜ古代が終わったのかを見ていこう。
 研究者によって、古代や中世の定義は違うのだが、とりあえずは『荘園』という仕組みに注目してみるのがいいと思う。辞書的な定義でいえば、国家の支配を受けない私有地のこと。なぜ私有地が『日本』崩壊と関係しているのか。
 古代日本では、建前として全ての土地は国家のものだった。しかし国家財政が膨張するに従って、財源拡大の必要に迫られた。
 今なら先の世代のことを考えずに国債でも発行していればいいが、当時は新田を開発するしかない。そこで朝廷は、自ら田畑を耕した者には、その所有権を認める方針を打ち出した。『全ての土地は国家のもの』という建前を放棄したのだ。
 それは、名を捨てて実を取るようなもの。たとえ土地の私有を認めても、徴税権までは放棄していないので、結果的に国家財政が豊かになると考えたのだ。
 しかしここから、日本の崩壊が始まる。全国の庶民が地道に荒地を開墾し、その収穫物を税として中央に納めるだけだったら、国家は安泰だっただろう。しかし実際に起こったのは、有力者による大規模土地開発だ。
 貴族、寺社、地方豪族が、近隣住民の労働力を募り、どんどん土地を開墾していったのだ。住民には対価が払われただろうが、土地は有力者たちのものになった。
 問題はここからだ。貴族や寺社は、様々な名目で、開発した土地を、税金もかからなければ、警察権も及ばない空間にしてしまったのである。結果、荘園は一種の治外法権となってしまう。
 もちろん現代日本でも、土地の私有は認められているが、しっかりと固定資産税をはじめとした税金がかかる。そして私有地でも人を殺したら、当然日本国の法律で罰せられる。中世の荘園が、いかに異様な空間だったかがわかるだろう。
 しかし当時の朝廷も、この異様な状態をただ看過していたわけではない。実際、何度も違法性のある荘園の取り締まりを試みている。
 これに地方の有力者は焦った。
 国家権力から責め立てられそうになった時にどうするか。現代と同じで、権威のありそうな人に泣きつくのである。
 代表的な手法はこうだ。まず、自分の荘園を、中央の貴族や寺社に寄付したことにする。そして自らは管理者として、その土地に居座り続けるのだ。もちろん貴族や寺社に手数料はしっかりと払う。平安貴族といえば、藤原氏が有力だが、彼らの財政基盤の一つがこの荘園からの収入だった。
 次第に戸籍の管理も適当になっていく、たとえば902年に作られた阿波国戸籍には、なぜか100歳以上がやけに多く記載されている。その頃の徳島が謎の長寿国だったとは考えにくいから、おそらく虚偽の記載だろう。当時の規定では60歳以上の人は無税だったから、税逃れを図ったのだろう。こんな嘘がまかり通るくらい、国家支配の根幹がぐらついていたのである。
 誰が一番偉いのか?
 そもそも『国家』側の権力者もこの間に移り変わっている。シンプルに天皇が一番偉かった時代から、藤原氏が大活躍する時代(969年〜1086年)になり、そして引退した天皇である上皇が権力を振るう時代(1086年〜1185年)になった。
 奇しくも平成の世でも、退位と上皇の問題が話題になっている。中世の上皇は、イメージでいえば『社長よりもやり手の会長』。天皇でいる限り、貴族政治の先例主義に縛られて、大胆なビジネスもできなかった。それが上皇になった途端、既存のルールを無視して、海外貿易にまで手を出せるのだ。
 少し話はそれるが、上皇として30年以上も活躍した後白河という興味深い人物がいる。古代が終わり中世が始まろうとする乱世の中で、政治的策謀をこなしつつ、列島のポピュラーカルチャーの蒐集(しゅうしゅう)に励んでいたのだ。
 彼は、今様というスタイルの、当時最先端だった歌曲に熱中し、声帯を壊すほどに歌いまくっていたらしいのだ。
 『四季につけて折を嫌はず、昼はひねもすうたひ暮らし、夜はよすがら唄ひ明かさぬ夜はなかりき』と、後白河自ら、今様への偏愛を語るありさまだった。
 しかも今様というのは、宮中や寺院での公式の音楽ではなく、民衆たちが愛した世俗の音楽。この大衆歌謡を集める過程で、後白河はかなり自由に一般人と交流していた。
 たとえば、遊女らが宮中に出入りしていて、それが中央政府の重要な情報源になっていたという。遊女とは当時の芸能人であり旅人だ。電話もインターネットもない時代であっても、後白河は伝聞を駆使して全国の情報を集めていた。その意味で、後白河の『今様狂い』は政治的にも理にかなった行動だったかも知れない。
 だが、藤原氏や歴代上皇たちが唯一絶対の独裁者になれたかといえば、全くそんなことはなかったようだ。ちょうど同時代には、平氏や源氏という武士が台頭している。1156年には、天皇vs上皇の戦いまで起きているが、度重なって発生した乱の中で軍事力を見せつけたのが武士だ。
 この戦いから数十年後には、『1192作ろう』で有名な鎌倉幕府が成立している。でもだからといって、一気に武士の時代が始まったかというと、そうもちょっと違う。
 ここが中世の難しいところだ。
 古代史の主役は『天皇』なので、彼らの物語を描くことで一応の日本史は成立する。
 だけど中世は、唯一絶対の権力者がいなくなってしまうのだ(だからこそファンが多いのかもしれない)。12世紀後半には鎌倉幕府、14世紀には室町幕府という武家政権が樹立されるものの、依然として天皇家や貴族たちも強い影響力を持っていた。
 たとえば、室町幕府が自らで処理できなかった政治問題を、天皇の『聖断』に委ねたことさえある。1369年のことだ。この時点で、幕府は国王としての権力はもちろん、京都の市政権さえ持っていなかった。
 さらに、寺院や神社という宗教勢力のパワーも無視できない。彼らは全国にネットワークを持つことで情報を集積させていた上に、自前の軍隊まで持っていた。
 織田信長による比叡山焼き討ちは有名だが、それは比叡山延暦寺がそれほどまでのパワーを持っていたことを意味する。事実、比叡山は歴史上、何度となく政権の方針を変えさせることに成功していた。
 そんなわけで中世が一つではない。だから、どうしてもわかりにくい。歴史の授業でも、このあたりで脱落した人も多いのではないだろうか。
 小さな政府の時代
 一方で、古代と比べれば、現代人が聞いても直感的に理解できるポイントも多い。
 たとえば、日本人は家柄や出自といった話題が大好きだ。政治の世界では、『小泉家』や『中曽根家』といったように、世襲の人が愛される。『政界のサラブレッド』という言葉が当たり前に使われているが、『サラブレッド』とは優良種のこと。血統や家柄だけでその人を判断しようとしているわけだ。
 このように『家』と『仕事』を結びつける発想は、中世に始まっている。そもそも、男系で継承され、父と子の関係を重視される『家』という制度自体が、中世の産物だ。
 『家』の成立は国家運営にも都合が良かった。
 官司請負制というものがある。特定の家が、ある技能や職務について請け負う仕組みのことだ。古代では官僚が国の仕事をしていたが、中世になると家が国家の業務を担当することになる。
 歴史学者磯田道史は、この仕組みを『家元制度』にたとえる。
 要は、天皇がそれぞれの家に対して『お前の家は軍事』『お前の家は学問』といったように、特定の仕事を委任するのだ。この官司請負制が天皇家にとって合理的なのは、ほとんどお金をかけることなく国家運営ができること。
 一方で、それぞれの家は、世襲で仕事を独占することができる。『天皇にお墨付きを与えられた家』という権威があるから、お金を集めやすくなるのだ。
 この官司請負制に代表されるように、中世は『小さな政府』の時代だったということができるだろう。京都の天皇家や貴族も『小さな政府』なら、それと併存していた鎌倉幕府室町幕府も『小さな政府』だ。
 どれくらい『小さな政府』かといえば、鎌倉幕府は列島住民に対して、社会インフラも整備してくれなければ、福祉も提供してくれなかった。
 辛うじて鎌倉幕府がしてくれたのは、支配権が及ぶ範囲内での裁判くらい。それも、『獄前の死人、訴えなくば検断なし』という諺が残っているように、殺人であっても当事者の訴えがなければ、刑事事件として処理されなかった。
 中央政府が何もしてくれないんじゃ、民衆は大変だったんじゃないか?しかし、そんな単純な話でもないらしい。
 民間人の大活躍
 国家目線で見れば、中世は『日本』が崩壊した時代。しかし見方を変えれば、民間のパワーが爆発した時代ともいえる。
 つまり、国家に力がなくなった分、各地域が独自に発展することができるようになったのだ。これまでは租庸調という税制度や荘園制を介して、地方の生産物は京都にいる貴族や寺社に集まっていた。国の中で中央が一番裕福だったのだ。
 しかし中央が力をなくすと、生産物は地元に留まるようになる。資本の集積は、産業の発展を促進させるからだ。
 ただ中央が弱っただけで、地方は発展しない。そこにはテクノロジーの進化による、社会の成熟もあった。
 中世には、土地の開発が進み、農業技術も進歩している。農業の集約化が進み、稲と麦の二毛作も普及した。鉄製農具や牛馬耕も一般化し、農業生産力も向上した。
 中世後期には、領主や農民の共同作業で、溜池や用水路が整備され、水車による灌漑が行われることもあった。
 食うに困らなくなると、社会には余剰が生まれる。すると手工業など、農業以外の産業も発展する。
 農作物や手工業品も、初めは自分を保護してくれる有力者も求めに応じて生産していただけだった。しかし生産性が上がれば、自分で食べたり、使用したりする分を残しても、モノが余る。余ったモノは売るのがいい。
 ここで一工夫を加えて、注文生産に応じたり、市場向けの商品生産を行う人も現れた。こうして農作物や手工業品が市場に流通するようになり、商業も活発化した。 
 中世後期には、『飛騨の餅』『丹波の栗』『越中は織物』といったように、各地の特産物も成立している。
 たとえば絹織物は全国で作られていたが、中国(明)から輸入された高級品にクオリティで負けていた。そんな中で、京都西陣が奮闘、現在まで続く西陣織の基礎を作った。
 このように中世では、地方が成熟し、流通網が発達した。その意味で、国家機構としての『日本』は単一ではなかったが、列島の一体化は進んだといっていいだろう。
 たとえば当時、行基図と呼ばれる日本地図が広く流通していた。平安京のある山城国を起点として、列島諸国への経路を示した地図だ。さつまいものような形の雑な地図だが、まあ何となくの土地感覚はつかめる。印刷技術は普及していなかったものの、おぼろげに列島の形を知っていた人も、決して少なくなかったはずだ。
 農民たちの生活革命
 こんな風にいい話ばかりを書くと、決まって『貧しい人もいたでしょう』と批判される。『アベノミクスの恩恵を受けたのは一部の金持ちだけではないか』みたいな話にも通じるが、少なくとも中世には、庶民の生活の質も向上していたはずだ。
 たとえば、かつての農民は、麻の服を着て、寝るときも板敷きの床の上に敷いた藁(わら)に潜り込むような生活をしていた。
 それが、16世紀には綿花栽培が普及し、綿の入った温かい着物や布団を使うようになった。木綿は肌ざわりが良く、保温性に優れている上に、洗濯もしやすく。はじめは朝鮮貿易で細々と輸入しているだけだったが、中国産の綿輸入が始まり、ついに国内でも栽培できるようになったのだ。
 この木綿という中世版ヒートテックの普及で、農民の死亡率も下がったと見られている。同時代には畳の普及も進み、多くの人々が人間らしい生活を享受できるようになった。
 近代のような学校制度はないが、寺院が教育機関としての役割を担っていた。『寺子屋』の原型である。たとえば絵解という教育法がある。絵を使って民衆に宗教的な経典を説明するのだ。
 後白河が愛した今様は、時に教育ソングとしての意味を持った。たとえば『大師の住所はどこどこぞ、伝教慈覚は比叡の山、横河の御廟とか、智証大師は三井寺にな、弘法大師は高野の御山にまだおわします』という歌曲があるのだが、フレーズを口ずさむことで全国の寺や地理を覚えることができた。
 その今様を伝えたのは、列島を旅する遊女や白拍子たち。識字率は低かっただろうが、口伝によって地方に住む村人たちも、彼らのおかげで列島の様子を知ることができた。
 異常気象が戦乱の世を招いた
 混沌としているが、民衆たちが活力を持ち、様々な文化が花開いた中世。その終わりは、気候変動と共に訪れた。
 14世紀半ばから15世紀初頭は比較的気候が温暖な時代が続いた。ある研究者の推定によると、1280年に595万人だった列島の人口は、1480年には960万人にまで増加しているという。縄文時代古墳時代に次ぐ第三の人口増加期だ。
 『室町最適期』という言葉があるくらい、温暖な気候が社会の発展を促し、列島の人口を増加させた。
 だが15世紀前半には、シューペーラー極小期と呼ばれる太陽活動の低下が始まり、世界的なミニ氷河期に日本も巻き込まれる。
 1420年以降、冷夏、長雨が頻繁に観測され、全国規模の重大な飢餓が相次いで発生するようになった。追い打ちをかけるように、山崩れ、洪水、疫病の流行という地獄のような不幸が重なった年もあった。
 全国では土一揆が頻発し、列島はいよいよ混乱する。京都では、1467年から応仁の乱が始まるが、その前から異常気象や飢餓によって、京の街は大変なことになっていたのだ。
 たとえば1461年の記録によれば、ある僧侶が餓死者を弔うために卒塔婆8万4,000枚を用意したが200枚しか余らなかったという。当然、批判の矛先は室町幕府にも向いた。しかし空気を読まない将軍が、花の御所を豪華に改築しようとして、天皇からも批判されたという記録が残っている。
 こうして室町幕府は統治能力を完全に失い、戦国の世が始まった。歴史マニアは大ヒットした新書『応仁の乱』を読んで、『応仁の乱ってやっぱり難しい』とでも思っていればいいが、そうでない人は、層でない人は、このように異常気象によって戦国時代が始まったと理解しておくのがシンプルでいいだろう。
 戦国時代は、しばしばロマンあふれる時代として描かれる。イケメン大名たちが、男のロマンをかけて、天下統一を目指すといった具合だ。NHKの大河ドラマでもたびたび舞台に選ばれるし、『信長の野望』や『戦国BASARA』といった大ヒットゲームも多い。
 しかし『戦国時代に生まれたい』という人がいたら、全力で止めにかかりたい。なぜなら、戦国時代は、戦争に加えて飢餓の時代だったから。
 ある寺社の埋葬記録によると、数十年に一度の大飢饉に加えて、毎年冬から春にかけて死ぬ人が多いというのだ。要は食糧が収穫できない端境期を乗り切れずに死んでしまっているのだ。異常気象に悩まされた中世後期は、こうした傾向が常態化していたという。
 さらに戦国時代には、文字通り列島中で内戦が起こっていた。しかもその期間は約100年以上にも及ぶ。その戦争で、ドラマやゲームのように大名や兵士だけのものならいいが、実際には耕地が戦場となり、家屋は放火され、物は略奪された。
 身代金目当ての人の略奪が行われ、奴隷市場に売られることもあった。こうした奴隷狩りの被害は全国の戦場で確認できるという。
 だから戦国大名の主な仕事は、住民の安全保障。食糧を確保し、緊急時には住民を保護できるのがいい大名だ。全くロマンを感じない。
 歴史学者の與那覇潤の言葉を借りれば、『毎年が大飢饉状態だったので、餓死寸前の難民どうしが血で血を洗う略奪合戦をやっていたのが、真の戦国時代』なのである。
 一度は、まがりなりにも天皇のもとで『日本』としてまとまっていた国は、ここまでバラバラになってしまった。一体、列島はどうなってしまうのだろうか。そんなわけで連載は次に続く」

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