⚔13)─2・A─中世キリスト教会は、地球を二分割してポルトガルとスペインの両国に植民地として与えた。マゼラン。〜No.44 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ヨーロッパから日本に渡る航路は二つあった。一つは、ポルトガル王国イエズス会が支配する、喜望峰・インド・日本にいたる東回りの航路である。もう一つは、スペイン王国フランシスコ会が支配する、メキシコ経由の西回りの航路であった。 
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 日本史の偉人で人気投票をすると、ザビエルは必ずトップ10に入り、歴代天皇よりも愛され、聖徳太子(第31代用明天皇の皇子)と人気を二分していた。
 一部の国際派日本人は、天皇を中心とした民族主義を否定する立場から、ザビエルを日本の偉人として上位にあげている。
 少数ながら、古代史専門家や知識人の内で、聖徳太子の存在を否定する者や聖徳太子の偉業を否定する者がいる。
 考古学者の多くは、神話にもとずく「神の裔」を否定し、天皇陵の学術的発掘と埋葬品の調査を希望している。彼等にとって、天皇の墓も藤原氏や徳川氏らの権力者の墓も同じ墓にすぎず、学術的興味のみを優先していた。
 死者の墓を暴き、埋葬物を手にするのは、儒教価値観を信奉する東アジア世界では普通の事であった。
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 キリスト教会は、ヨーロッパ世界では常識となっている「領主の信仰が、領民の信仰」の原則で、日本をキリスト教化しようとしていた。
 表向きには、地元で影響力を有する異教集団との衝突を回避する為に、庶民に対して排他的な布教活動を控え、けっして信仰を強要しなかった。
 裏では、領主に海外貿易で武器弾薬などの購入に便宜を図る見返りに布教活動の許可と保護を取り付け、主君の地位を脅かす可能性のある有力な武将を改宗させて着実に地盤を築いて行った。
 各地の領主は、領地拡大の為に、火縄銃などの強力な武器を大量に購入すべく宣教師を受け入れ、布教に協力した。
 キリシタンは、異教徒との信仰を賭けた最終戦争に勝利する為に、戦力にならないひ弱な庶民よりも戦闘能力のあるサムライを味方に引き入れようとしていた。
 教勢の拡大を願う戦闘的宣教師や修道士らは、日本に平和と発展の為に渡来し、布教活動を行ったわけではない。
 莫大な利益を求めるポルトガル人やスペイン人の商人らも、大金持ちになる為に命の危険を冒して荒波を乗り越えてきた以上は、リスクが低く利益の薄い商品の商談よりもリスクは高いが利益の多い商品の取引を希望した。
 当時の国際交易は、海上交通が海賊や敵国海軍や異教徒の水軍によって攻撃されるかわからない無秩序状態にあった為に、弱肉強食という純粋な市場原理で支配されていた。 
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 1467(〜77)年 応仁の乱。サムライは、幕府や守護大名の跡目相続紛争などで殺し合いを始めた。
 百姓は、幕府や守護大名の支配が弱体化し事につけ込み。権利を拡大するべく一揆を行った。
 下剋上の世になるや、天皇はサムライや百姓から見捨てられ、皇室は滅亡の危機に追い詰められた。
 大和岩雄「天皇と鬼は、一見、対立的関係にあるようにみえるが、ひとつの実態の表と裏の関係にある」
 天皇は、皇室を守る為に、非農耕民である京の町衆(商人や職人)や賤民(行商人・芸能民・勧進聖・修験者・乞食・浮浪者・病気持ち・非人・エタ・凶状持ち=後の非犯罪者である任侠派ヤクザ・町中の社会的弱者)や一部の山と海の民を供物人として特権を与えた。
 百姓は、領主の良民として保護を受ける見返りに、主従関係を結び、年貢を払い、合戦には雑兵・足軽となって戦った。
 封建領主は、領地内で税を納める百姓の全てに責任を持ち、戦災や天災などの全ての災害から保護する義務があった。
 町衆は、天皇・皇室を守る義務を引き受けるかわりに領主との主従関係から解放され、要求された時のみ運上金・冥加金・矢銭を納めるが諸税は免除され、町中以外の夫役や兵役などの諸役は免除され、商いや通行や転居の自由が認められていた。
 町中と街道・港湾の全責任は、納税が免除されていた町衆に負わされていた。
 町衆は、見栄っ張りとして独立心と自負心が強く、領主の如何なる干渉も嫌い、それ以上に依存して保護を受ける事を嫌った。
 町衆の身分は、サムライや百姓に比べて低かったが、土地や住居に固執しないだけに、天皇・皇室との「絆」を強くする事で自由を手に入れていた。
 百姓は、サムライに次いで高い身分にあったが、田畑に根ざして生きていた為に納税と諸役の義務があった。
 町衆は、天皇の危機か皇室の存亡につながらない限り、自由民として領主や百姓を見捨てて戦場から逃げた。
 百姓は、領主の命令で戦場に出て戦い、薄情に逃げる町衆の家屋敷を襲撃して略奪の限りを尽くし、捕まえた町衆の女を遊女などに売り飛ばした。
 こうした乱暴な百姓が後の武士道を信奉するサムライとなり、筋目がハッキリした由緒正しい武士は滅亡した。
 町衆は、殺し合いの合戦を退屈凌ぎの娯楽として、仲間や家族連れで酒や弁当を持って安全な場所から観戦していた。
 将軍や守護大名は、天皇の権威を支配の道具として利用していた。
 百姓は、遠い都の天皇ではなく村内の寺院に集まり僧侶の話を聞き、地侍と協力して一揆を起こし、封建領主である守護大名に楯突いていた。
 下剋上の時代、身分も、地位も、階級も、社会的制約は消滅していた。
 地位高き公家は、戦乱で荒れ果てた京を見捨て地方の有力大名に保護を求めて食客するか、娘を嫁がせて姻戚関係となって細々と食いつないだ。
 身分や地位の低い町衆、そして良民(百姓)に嫌われた賤民や山の民や海の民は、神の裔・天皇を敬愛し、祭祀王・天皇に畏怖の念を抱き、天孫降臨神話に基ずく万世一系男系天皇制度の守護者となった。
 当時の部落民と現代の部落民は、「尊皇の志」の有無で、全く違う部落民である。
 幕末に。天皇・皇室を真に守ったのは、サムライではなく、任侠派ヤクザ、修験者、山の民、エタなどの身分卑しき下層民であった。
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 1493年5月〜9月 教皇アレキサンデル6世は、同じキリスト教国であるポルトガルとスペインが、政界征服競争でいがみ合っている事を憂慮されて、新たなデマルカシオンを設定する為に5通の勅書を発した。世界に神聖な秩序をもたらす為の、アレキサンデルの大勅書である。
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 1494年6月 ポルトガルとスペインは、海外での戦争を回避する為にトルデシーリャス条約を締結し、弱肉強食を止め棲み分ける為に地球を2分割した。
 日本は、ポルトガルの征服地とされた。
 イエズス会士の多くは、ローマ教皇の裁定により、日本はポルトガル王国の植民地であり、日本人はポルトガル国王の支配下にあると認識していた。
 異教徒非白人である日本人には、ヨーロッパ人同様の諸権利はないとみなされていた。
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 1488年 加賀の一向一揆。一向門徒は、守護大名富樫政親を攻め滅ぼし、武士が支配する国を奪った。
 門徒は、国を民百姓の為の国にするべく、物事を衆議で決定した。
 日本は、政治力・軍事力・経済力持った野心的な宗教勢力の拡大を恐れていた。
 各地の領主は、宗教勢力の叛乱に手こずっていた。
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 1498年5月 ポルトガルの支援を受けたヴァスコ・ダ・ガマは、武装船団を率い、アラビア人商人を水先案内人としてインドのカリカットに到着した。
 ガマは、香料交易を独占する為に、軍事的威嚇を行ってカリカットを屈服させ支配した。
 西洋キリスト教世界による、植民地主義の始まりである。
 大航海時代とは、キリスト教ヨーロッパ世界による植民地獲得競争である。
 キリスト教冒険者が求めた富とは、インドの香料と中国の工芸品とジパングの黄金であった。そこには、朝鮮の富は存在しない。
 キリスト教会は、キリスト教徒が赴くところには必ず宣教師を派遣し、異教徒原住民の改宗に力を入れた。
 宣教師らは、上陸するや最初は和やかに接していたが、洗礼を拒否すれば、容赦なく武力を用いて改宗を強要した。
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 1505年 ポルトガルは、広大な東インド領国を統治し利益を上げる為にインド・ゴアに軍事拠点を置き、国王の名代としてインド総督を派遣した。
 ゴアに造船や大砲製造の工場を建設して自給自足体制を敷き、ポルトガル海軍だけではなくスペインやオランダにも武器弾薬を供給して利益を上げた。
 1511年 ポルトガルは、アフリカの東海岸から東南アジア海域にいたるインド洋全体の交易網を完成させ、マラッカに中継地として軍港要塞を建設し、太平洋に近いモルッカ諸島に寄港地を築いた。
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 1520年 ポルトガル人は、インドやインドネシアなどの植民地で、中国人を奴隷とした人身売買を行っていた。
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 1519年 ポルトガル人のマゼランは、ポルトガル王室に中南米大陸を越して東インドの香料諸島に向かう航行の支援を要請したが断られ、やむなくスペイン王室の援助で出発した。
 ポルトガルは、確実に世界制覇できる好機を、これまでの成功モデルで得た利益を成功の可能性が乏しい冒険航海で失う事を恐れて逃した。
 リスク回避の慎重策が、海洋帝国ポルトガルの凋落の始まりとなった。
 1521年3月16日(聖ラザロの安息日) マゼランが率いるスペイン艦隊3隻は、フィリピンに到着してスペインの植民地とした。
 マゼラン艦隊は、1519年8月に5隻の船と280人に船員と共にスペインを出港した。
 3月31日 マゼランは、リマサワ島に上陸し、最初のミサを行い、丘の上に十字架を立て、フィリピンを絶対神に捧げ、フィリピン諸島を「サン・ラザルス諸島」と命名した。
 キリスト教徒は、原住民の事を一切考慮せず、民族宗教を無視した。
 4月7日 マゼラン艦隊は、セブ島に赴き、セブ島主フマボンに対して武力を持って同盟関係と布教の許可を得た。
 艦隊付き宣教師は、軍事力を背景にして布教活動を行い、民族宗教を破壊した。
 数日で、2,200人以上を隣人愛信仰に改宗させて、絶対神の威徳を称えた。
 セブ島東岸の小島マクタン島のラップラップ酋長は、島主としての誇りから、マゼランの提案で或るキリスト教徒セブ王フマボンへの従属を拒否した。
 「私は如何なる王にも、如何なる権力にも従わないし、貢ぎ物もしない。もし我々に敵が向かって来るなら、竹と棍棒で命を賭けて戦う」
 4月26日 マゼランは、フマボン軍と共にマクタン島に侵攻した。
 宣教師は、フィリピン全土のキリスト教化を切望し、異教の神の殲滅を絶対神に誓った。
 ラップラップ軍は、原始的な武器であったが、強力な火縄銃を持ったキリスト教軍に屈する事なく防戦した。
 キリスト教軍は、頑強な抵抗に激怒して民家を焼いた。
 4月27日 ラップラップ軍は、猛反撃して、キリスト教軍を撃退し、マゼランを殺害した。
 世界一周した大航海時代の英雄マゼランは、不運にも非キリスト教土人の毒矢で殺害された。
 フィリピンの歴史教科書「マクタンの戦いは、フィリピン人が外国の侵略者から独立を守る事に、始めて成功した誇らしい記録である」
 マゼランを殺害しキリスト教の侵略を食い止めたマクタン島のラップラップ酋長は、民族の英雄とされた。
 其の国の英雄が他国の極悪人とされるのが、世界史の常識である。
 朝鮮に於ける、日本に対する同様の戦いと勝利は存在しないし、救国の英雄もいない。。
 1522年9月 マゼラン艦隊の残存艦1隻とデル・カーノ以下18人が、3年の航海を終えてスペインに帰還した。
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 スペイン人は、植民地フィリピンを支配する為に、アステカ人を強制連行した。
 フィリピンに連れられてきたアステカ人は、グアチェナンゴと呼ばれ、多数派のタガログ人の中で生き残る為にスペイン人に協力した。
 キリスト教会は、グアチェナンゴに洗礼を施してスペイン語を教えた。
 フィリピンのタガログ族は、民族語と民族宗教を守る為に、侵略者スペイン人の手先として横暴を働くグアチェナンゴを憎み、度々暴動を起こした。
 スペイン王国キリスト教会は、タガログ人の憎悪を買わないように、タガログ人を徴税などの汚い仕事は全てグアチェナンゴに押し付けた。
 白人キリスト教諸国は、地球上に植民地を拡大するにつれて、異民族を利用して異民族を支配するという、自分の手を汚さず富を搾取するという狡猾な植民地支配を行った。
 多神教民族宗教は、一神教キリスト教の布教で急速に消滅していった。
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 1522年 ルター派のフッテンやフランツ・ジッキンゲンは、ローマ・カトリック教会の支配に対して騎士達を率いて反乱を起こした。
 広東省沖。明国軍は、ポルトガル船を拿捕し、積んでいた大砲、火縄銃、弾薬、火薬なを武器を押収した。中国人は、大砲を製造や操作法を学び、研究して独自に「仏朗機砲(フランキほう)」を完成させた。
 1524年 ドイツ南西部の農民達は、ルターの「神の前で万人は平等である」を信じて反乱を起こした。
 ルターは、保護してくれる領主に味方して反乱農民を激しく非難した。
 領主側は、今後の見せしめにするべく恭順しない農民を家族諸共に虐殺した。
 中世キリスト教世界は、隣人愛に満ちた天国のような楽園ではなく、女子供さえ容赦なく虐殺する地獄と化していた。
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 神聖ローマ皇帝兼スペイン国王カール5世 在位1519〜56年
 フランス国王アンリ2世 在位1547〜59年。
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 1534年 イギリス国王ヘンリ8世(在位1509〜47年)は、亡き兄王の妻であったスペインのアラゴン王家出身の王妃キャサリンを、嫡子を生まない事を理由にして離婚し、若い侍女のアン?ブーリンと結婚しようとした。
 ローマ教皇とスペイン国王兼ドイツ皇帝カール5世は、離婚に反対した。
 ヘンリ8世は、カール5世に対抗する為に、宿敵であったフランスと同盟を結んだ。
 ローマ教皇は、ヘンリ8世を破門した。
 ヘンリ8世は、ローマ教皇の権威を否定する国王至上法(首長法)を発布して、カトリック教会から独立してイギリス国教会を成立させた。
 1535年  ヘンリ8世は、首長法に反対するトマス゠モアや宗教指導者らを処刑し、国内のカトリック教会を廃止し、カトリック教を信仰する国民を反逆罪で弾圧した。
 此の後。ヘンリ8世は嫡子を得る為に、数多くの王妃を取り替えた。
 イギリス王国とフランス王国ドイツ帝国スペイン王国は、同盟と離反を繰り返し、戦争を際限なく繰り返していた。
 政治と宗教は深く絡み合い、悲惨な殺戮が各地で行われていた。
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 イギリスは、スペインの権威を失墜させる為に中南米での残虐行為を捏造して言い触らした。
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 ヨーロッパ諸国は、血に飢えた傭兵を大量に契約して雇い、血みどろの殺し合いをしていた。


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