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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
百姓は、表では領主の言うことを「ご無理ご尤も」と御上の御意向に従っていたが、裏では領主を馬鹿にしムラの総意を強いていた。
もし、ムラの総意を拒絶して代々の約束事を破れば、武器を持って百姓一揆を起こして反省を強要し、反省しなければ追放して自分たちに都合の良い武士を新しい領主として迎えた。
百姓の多くは、物言わぬ庶民ではなく、物言う庶民であった。
百姓達は、ムラの総意を決めるのに寺院や神社に集まって侃々諤々と激論し、一同が納得して決定した事は生死をかけて守るとの誓書・血書・連判状を神社に納めた。
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2017年6月9日号 週刊朝日「司馬遼太郎と宗教
浄土真宗を再興させた蓮如(1415〜99)は発想がユニークなリーダーである。相愛大学教授の釈徹宗(しゃくてっしゅう)さんにその魅力を聞いた。(文=本誌・村井重俊、守田直樹)
中世のめざましさの一つは、庶民が真宗を得て、日本ふうの〝個〟をはじめて自覚したことであった(『蓮如と三河』)
蓮如の視座
司馬さんの小説『尻啖(くら)え孫市』(1963〜64年連載)は戦国時代が舞台だが、浄土真宗の重要なエッセンスとなっている。
主人公の雑賀孫市は雑賀(和歌山)7万石の若殿で、鉄砲集団『雑賀党』を率いる設定。ただし戦より女好きで、ここで司馬さんの〝仕掛け〟が用意される。孫市は全くの無信心なのに、見初めた女性が門徒ばかりなのである。そのため興味もないのに、紀州和歌浦の寺の『講』に参加することになった。
〈講とは、聞法(もんほう)の集会で、領内数千の男女信徒があつまるのである〉
門法とは仏の教えを聞くことで、すでに雑賀の民は門徒だらけになっている。孫市は目当ての女性の話を聞こうと、漁民の若者に話しかけるが、『うるさい』といわれる。
『いま生死(しょうじ)の一大事を聞いておる。生死の一大事にじゃまをするのは、守護地頭といえどもゆるされぬ』
地上の支配者よりも阿弥陀如来が大事というが、孫市は我慢する。
〈ここでは殴れぬ。なぐれば、門徒一揆がおこるかもしれぬのだ〉
さらに若者がいう。
『聞法とみせかけて、女を釣りに見えられたのかの』
ついに孫市が若者を投げ飛ばし、寺が大騒ぎになったところで、
『御同朋、御同朋(みなさん)、おしずまりあれ、おしずかに』
と、説教僧がいうと、騒ぎがぴたりと収まった。近江野洲から来た僧は童顔の青年だが、孫市よりずっと威厳があり、孫市はげんなりする。
お気の毒な話だが、この時代は門徒や僧侶にくらべ、旗色の悪い領主は多かったのだろう。
こうした流れをいつのまにかつくったのは、開祖の親鸞ではなく、8世の蓮如だった。司馬さんはエッセー『蓮如と三河』(1988年)のなかで書いている。
〈室町中期ごろから戦国にかけての日本は、惣の時代だったというえる〉
西日本の惣村では農業生産力があがり、農民は武装し、国人(こくじん)地侍が台頭し、守護地頭に税金を納めない風潮が強まっていく。とくに能登、加賀、越前、大和、河内、近江、飛騨、美濃、三河、遠江といった国々では惣村の勢いがさかんだった。
〈蓮如が濃密に歩き、教線を扶植したのもまたこの国々だったのである。蓮如は、惣に働きかけた〉
おびただしい民間の寺が各地で誕生した。蓮如の本意ではないが、領主と対立する動きも出てきた。
〈蓮如の構想による『講』をもったことで、タテ社会だったこの世に、ひとびとをヨコにつなぐ場ができた〉
蓮如はこうして日本の近世を切り開く役割を果たしていく。
◇ ◇
蓮如がつくり上げた真宗の世界について、釈徹宗さんに聞いた。釈さんは浄土真宗本願寺派(西本願寺派)の如来寺(大阪府池田市)住職であり、大阪市の相愛大学教授でもある。著書の『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(朝日選書)は5月24日、第5回河合隼雄学芸賞の受賞が決まった。
著書の『ブッダの伝道者たち』(角川選書)のなかで、親鸞と蓮如について書いている。
〈親鸞は孤高の念仏者のごとき峻厳さをもつのに対して、蓮如は人々を導こうとする柔らかさと強い意志をもっている〉
蓮如の時代に衰退していた本願寺を再興するため、まず、親鸞の教えをわかりやすく伝えていく。
『いまも本願寺教団の旗印になっている「信心正因(しんじんしょういん)・称名報恩(しょうみょうほうおん)」という優れたキャッチコピーを考えついています。浄土に往生するためには、信心ひとつで往生する。念仏はその感謝の言葉だとし、お願いの念仏でも修行の念仏でもないとしました。こうして蓮如は親鸞の教えをかみくだいて伝えていく。手紙(御{ご}文章、御文{おふみ})で教えを書いて送り、講や念仏道場などで信者たちが読み上げる方式を思いつく。日本各地にスタンダードな解釈が定着していきます』
京都、近江の堅田、大津、越前吉崎、山科と拠点を移しながら、蓮如は真宗の独自性を確立していく。
『正信偈({しょうしんげ}親鸞の漢詩)を読誦(どくしょう)するとか、蓮如の手紙を読むといったある種の儀礼の構築もしていますし、本堂の様式も蓮如がだいたい決めていきます。真宗の本堂は内陣と外陣(げじん)が一直線に仕切られ、外陣が広い。大広間として使えるようにした。司馬さんがよく書かれていますが、北陸や滋賀県だと「なになにさせていただく」といういい方があります。「お念仏を称(とな)えさせていただく」「ご法事させていただく」。真宗の文化が生み出したものだと司馬さんの見解に私も賛成ですね。他力本願ですから、常に受動態で語っています。受動態で語るメンタリティーが、結局、言葉遣いの文化として発展した。思考も常に自分の努力ではなく仏さまの導きに帰属されていく。さまざまな分野に影響を与えます』
拠点は『寺内町(じないちょう)』と呼ばれた。
『蓮如は地政学的にも大変目の利く人で、琵琶湖周辺を転々とし、「虎狼の棲みしところ」といわれた越前吉崎に目をつけ、最終的にはいまの大阪の上野台地の最先端に目をつけます。ここがのちの大坂(石山)本願寺になりますが、当時の河内や泉州の賑わいに比べて寂しいところでした。もつとも聖地ではあります。日本列島の土地神である生島(いくしま)大神・足島(たるしま)大神を祀っている場所で、かつては天皇の即位すると参拝していた。そこに御坊をつくるのは、宗教的な意味合いも大きかったと思います。蓮如の死後、ここには日本最大の寺内町ができます。濠や塀で都市を囲い、自警団を持ち、なかにはさまざまな職業の人が働く。こうして経済が回っていきます。河内、長島、北陸、奈良など各地にもあり、それぞれの得意品目を流通させる。宗教都市ネットワークをつくったわけです。寺内町は当然、信仰共同体ですから、蓮如は子供をあちこちに配置していきます。そういう蓮如の政治性を嫌い、俗物とする見方は当時からありましたが、「仏教学者で仏法を盛んにした者はいない」と、蓮如はずぶとくいっています。地に足をつけた布教活動は、講にも見られます。これは地域を超えたもので、信仰グループが移動し、聞法を続ける。蓮如は講の運営がとても上手な人でした。信心があってもなくても参加でき、つまりは孫市も参加できる。ポイントは語り合うことでした。5人いたら5人意見も違う。それが大事なんだと説いています』
こうして蓮如は教団を拡大していった。人々の先頭に立ってぐいぐいひっぱるリーダーの一方で、宗教的情感が豊かでもあった。
『蓮如は次女の見玉が25歳で亡くなったとき、見玉が蝶になって飛んでいく夢を見たという手紙を残しています。見玉の魂だろうという。誰もが持つ素朴な宗教心を決して軽視しなかったところがあります。有名な『白骨章』もすごくウェットな仏教という感じがしますね。「されば朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり」で始まる手紙で、法事の席で聞かされる人も多いでしょう。井伏鱒二さん『黒い雨』、『はだしのゲン』、最近では『この世界の片隅に』も白骨章が作品に登場します。この筆運びに蓮如独特の、人の悲しみに添うようなものがありますね』
それにしても筆まめだった。
『私の寺にもあるんですよ。あるとき池田市が調査に来て、文献によてば、ここには蓮如の名号がありますねというから、私の父親が「そんなのおまへんで」といったんですが、納屋から出てきました。「南無阿弥陀仏」とだけ書かれた名号で、いまは大事にかけてます。自分ほど名号を書いた者はいないだろうって蓮如はいっていますね。仏像よりも文字をご本尊とするほうが尊いんだと考えていた。どんなに貧しいお家でも、南無阿弥陀仏とかけてさえいれば、もう念仏道場でありお寺である。こうして草の根的に拡大していったわけです』
能狂言を楽しんだり、法話をするときも、暑いときや寒いときは長話を避けた人でもあった。
『客が寒いときに来たら熱燗を出し、暑いときもには冷や酒を出したというから、ホスピタリティーあふれる人で、ここも親鸞とはずいぶん違います。歎異抄の疑問を聞くために命がけでやってきた信者に、親鸞は「知らん、自分らで生きていけ」と、すげないことをいう。蓮如は絶対そんなことはしない。寺の人間にしょっちゅう、「何だあの対応は」と怒っていたといいます』
こうした蓮如について、釈さんは著書のなかで書いている。
〈蓮如には親鸞に希薄なトリックスター性がある〉
釈さんはいう。
『蓮如の本質を考えるとき、それがいちばんぴったりくるような気がするんです。親鸞はまさにわが道を行った人ですが、蓮如さんは場づくりもうまいし、人を揺さぶるのも、魅了するのもうまい、もし宗教者の本質をトリックスターと考えるならば、これぞ宗教者というのが蓮如さんだったと思いますね』
さて、大阪の船場といえば、かつて日本経済の中心地だった。ここには門徒が多かった。
『大坂本願寺の寺内町にいた人がスライドしてきた歴史もあり、北御堂南御堂がありますからね。お寺の鐘の音が聞こえ、屋根の見えるところで店を出したという人が多くて、船場は門徒が多かった。そうすると独特の文化が生まれました。値段を決め、これで手を打とうかっていうときに、船場の人はいったそうです。「あなかしこにしとこうか」。蓮如さんの手紙の最後に、「あなかしこ、あなかしこ」と出てくることを踏まえています。お坊さんのお参りでも、最後に「あなかしこ、あなかしこ」といえば、もう終わりやと思うのと一緒です』
今週はあなかしこ、あなかしこ。
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余談の余談
阿弥陀如来か司馬さんか『おかげさまで』余談は続く
司馬さんに出版業務についての手紙を出すとなると、どうしても増えてしまう書き方があった。
『おかげさまで「空海の風景」は第何版となりました。その発表日は何年何月何日とさせていただきます』となる。なんとなく押しつけがましく、書いていてイヤらしい。丁寧でお礼の気持ちがこもっている違う書き方ができないものか考えてみたものの、ついこの表現になってしまう。
そんなときに、司馬さんがふいに、『おかげで』『おかげさまで』や『させていただきます』という言い方はどこからきたのか、話されたことがあった。
それは、浄土真宗の信者さん、門徒の人びとから始まっていまに伝わっていったものだ、だれのおかげか、阿弥陀如来のおかげによるのだ、と。
この話が私へのやわらかな注意だったと知ったのは、産経新聞平成5(1993)年8月2日付の『風塵抄 させて頂きます』を読んだとき(『風塵抄 二』中公文庫収)。
〈『お蔭で、達者にくらさせて頂いております』〉を基本例にして、〈お蔭というのは室町時代に多用されたことばで、〝神仏の加護〟という意味である〉と、司馬さんは説明。
『させて頂きます』という〈ふしぎな語法〉も〈本来でいえば、話している相手よりも、神仏と自分との関係で出来たことばなのである〉。阿弥陀如来によって私どもは生かされているという〈受身(うけみ)の、それも絶対受身の聖なる動詞〉なのだ。
そして、信心深い近江門徒たちが多用してきたこういう語法が大阪にもたされ、〈相手に奉仕を誓う〉言い方となって広まっていった。
けれども司馬さんは、この語法の〈多用は、ことばがべとついて美しくない〉と書いていた。たしかに現在も、この語法、表現に抵抗感を持つ人も多い。(山形眞功)」
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近代以降の日本民族日本人気質は、明治維新以降に人為的に形成された。
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日本民族日本人とは、雑種民族混血児で、たまたま日本列島に流れ着いて住み着き生活しているだけの人間である。
だから、支配者・統治者・権力者が何処の馬の骨とも分からなくても気にはしない。
極端な話し、人間でなくても構わず、形があろうがなかろうがどうでもよかった。
それが、ムラ人根性でもある。
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明治維新は、キリスト教の宗教侵略と同時にロシア・清国の軍事侵略に対する祖国防衛の為の宗教・精神革命でもあった。
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