⛪246)247)248)1北畠親房『神皇正統紀』。比叡山対浄土真宗。応仁の乱。吉田神道と伊勢神道。日蓮宗対浄土真宗。一向一揆。各派神道。1339年。No.499No.500No.501No.502No.503 /@            

日本は神の国、日の丸・君が代は素晴らしい

日本は神の国、日の丸・君が代は素晴らしい

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 日本天皇日本民族と日本国は一体である。
 日本天皇を切り離した日本民族・日本国はあり得ないし存在しない。
 日本天皇あっての日本民族であり日本国である。
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 マルコ・ポーロは、『東方見聞録』で、日本を大量の金が採掘できる黄金の島・ジパングと紹介したが、日本人に対しては人の肉を食う人食の野蛮人・獣・魔物と唾棄した。
 日本人は、自分が信じたいものしか信じないし、自分が見たいものしか見ない。
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 日本力とは、古層としての大地の自然力(神々)と新層としての人々の文化力(仏)が三元論的に調和した底力である。
 神道には、開祖はいないし、教義や戒律はないし、経典や聖典もない。
 神社にお参りする事で御利益はあっても、奇跡も恩恵も救済もない。
 日本の自然は、人が自ら働いて手を加えなければ何もくれなかった。
 日本の神自体が、罪業に苦しんで外来宗教の仏に救いを求めていた。
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 キリスト教は、自然の精霊信仰を否定し、自然に現れる奇跡は全て絶対神の大いなる御心による恩寵と考え、聖地の上に絶対神の家である教会を建てた。
 日本神道は、原始的自然信仰として、自然そのものを神と崇め、霊力ある場所を神聖不可侵として立ち入りを禁じ、神の家を造らず手前に拝殿を造って拝んだ。
 キリスト教は、絶対神の超越した神威で自然の上に君臨した。
 日本神道は、自然の神々を敬い、邪魔にならない丁度加減の良い位置で接した。
 キリスト教会は、絶対神の家である。
 日本の神社は、神の家ではなく降り立つ神域である。
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 日本の宗教観には、不寛容な絶対真理による絶対正義はない。
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 バチカンは、陰謀と裏切りが満ち満ちていた。
 ローマ教皇は、絶対神の神の下で軍隊を指揮して戦い、絶対神の御名で魂の救済の為に人を殺していた。
 宣教師は、聖戦として、剣と十字架で布教活動を行っていた。
 中世キリスト教は、異教徒や異端者と戦う宗教である。
 キリスト教会は、絶対神から与えられた教皇領・教会領を守る為に、武器を持って世俗勢力の軍隊と戦った。
 中世キリスト教会は、各地の異教徒や異端者を殺していた。
 キリスト教神道・仏教は、戦う運命にあった。
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 クジラなどの絶対神の使いとされた特定の動物以外は、絶対神が人間に殺して食べてるように創った食糧であった。
 故に。日本神道のような、自然や生物に人格を与えたり、神格化して祀る、事は邪教として滅ぼした。
 日本神道は、絶対神に対する冒涜であり、滅ぼすべき悪魔の宗教であった。
 キリスト教は肉食中心で、神道は菜食中心で牛や豚を食べなかった。
 日本では、人間に危害を加える動物はクマかオオカミくらいであったが、人間が襲われる事はめったになかった。
 日本の動物は、役に立つ良い事もするが、悪戯もする困った動物であった。
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 日本的な心力は、国外から襲い来る破壊圧力と国内に沸き起こる崩壊圧力によって日本が滅亡の瀬戸際に追いやられた時、立ち現れる。
 問題は、立ち上がってくる民族的な心力・胆力を、歪曲・曲解せず素直に有りの儘で受け止めるだけの心清き感受性が日本人にあるかどうかである。
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 親鸞「かなしきかなや道俗の良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ ト占祭祀つとめとす」(『愚禿悲歎述懐和讃』)
 {何と悲しい事なのか、僧侶も世俗の人々も、良い時や吉日を選ぶ事に固執し、天や地の神を崇めて、占いや祈り事ばかりを行っているとは}
 陰陽道の暦占いである六曜(ろくよう)・六輝(ろっき)は、室町時代に中国から日本に伝播した。
 初期は「大安、留連、速喜、赤口、小吉、空亡」であったのが、江戸時代に「泰安、流連、則吉、赤口(しゃっこう)、周吉、虚亡」に変わった。
 江戸時代に幾つかの名称が変更され、流連は「友引」に、則吉は「先勝」に、周吉は「先負(せんぶ)」に、虚亡は「物滅」にと。
 明治初期に、何も得られない物滅は勝負なしの「仏滅」に書き替えられた。
 仏滅は、仏教用語ではなかった。
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 蒙古・高麗連合軍に侵略され甚大な被害を受けた日本は改めて、中国大陸と朝鮮半島に対する危機意識があれた。
 中国と朝鮮の脅威から如何に祖国・日本を守るか、心ある人々は模索した。
 中国・朝鮮と日本には、真の意味での友好などは存在しなかった。
 日本は、排他的儒教至上主義の中国と朝鮮を恐怖して眺めていた。
 神道・仏教と儒教は、根本的な所で交わる事ができない異質なモノである。
 神道と仏教は、聖人君主の正道を説く儒教ではなく、小人の日常を愛おしむ道教に近い。
 律宗の僧・叡尊(えいそん)は、武器を取って戦うサムライではない為に、武力ではなく宗教・文化などの日本力で祖国を守るべく発心した。
 日本力が安全保障上の脅威の前で無力であったのは、本来、正しい姿で結合しているべき大地の自然力(神々)と人心の文化力(仏)が分断され乖離しているからと考えた。
 今そこに迫り来ている外国の巨悪に対抗する日本力を得る為は神仏習合を強める事が肝要として、伊勢神宮への参宮を繰り返した。
 日本神話の二大潮流である天つ神・天照大神伊勢神宮と大地神・大国主命の三輪大神神社、そして仏教を一体化する宗教改革を行った。
 三者を結びつける者として選んだのが、太陽の霊威である大日如来であった。
 奈良・ヤマトに古くから信仰されていた三輪大神神社と、東から渡って来て王権を築きながら伊勢の地に移った新しい信仰の伊勢神宮は、埋めがたい神の領域としての断絶が存在していた。
 古層に於いて、
 叡尊は、隆盛を誇る鎌倉仏教の様な一元論的に本源を一点に固定せず、昔の神仏習合を再起させ三元論的に三者を等価値で平等に共存させた。
 三輪派神道は、淡路島の舟木遺跡を基点として三輪山を通過して伊勢の斎宮をつなぐ一本の線を引き、そして伊勢神宮に至る聖なる太陽の線を引いた。
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 朝廷は、鎌倉武士達が蒙古・高麗連合軍を武力で撃退して日本を救ったという業績を残す事は、武士の力を強め、中国や朝鮮のように天皇に代わって皇帝か国王になる恐れがあると警戒した。
 そこで考え出されたのが、寺社仏閣の祈祷によって「神風が吹いて勝利し、外敵を追い払い神国日本を救ったった」という「神風神話」である。
 鎌倉武士団ではなく神風があっての勝利である、として、北条時宗等に対して名誉も恩賞も与えなかった。
 朝廷は、中国や朝鮮と違って日本を平和に統治する為に、武力を持つ武士の地位をなるべく低く抑える事に腐心していた。
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 元寇。日本の最高の武神・戦神である八幡大神応神天皇)を祀った筥崎八幡宮は、霊験なく奇跡も起こせぬまま蒙古軍によって焼け落ちた。
 殺し合いの中で武功を上げる事を生き甲斐とする武士は、超現実主義者として、戦う事に加勢をしてくれるだろう八幡神の霊験を信じていたが、奇跡が起きて蒙古・高麗連合軍を撃滅してくれるなどという愚かしい事を信じてはいなかった。
 血や死を忌み嫌う朝廷は、血を見て狂喜し死体を踏み越えて殺し合う武士を正当化し、日本全国に染み込まないように陰謀をめぐらせた。
 其れが、日本皇室と日本神道による日本支配の原理原則であった。
 荒唐無稽の「神風神話」は、こうした意図で創作された。
 神国日本を外敵から守るのは、軍事力ではなく、日本天皇と日本神道の霊験である、と。
 カミカゼ特攻とは、「独り」の人間としての「こころ」のありようであって、絶対神から授かる奇跡や恩寵を期待せず、聖戦に身命を捧げた報酬として天国に引き上げられ永遠の命と終わる事のない悦楽を得る事ではない。
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 外国からの精神的心的霊魂的脅威は、中華の儒教、西洋のキリスト教、反宗教無神論マルクス主義共産主義、そしてアメリカのグローバル化である。
 親中国派日本人は儒教道徳を、
 西洋礼賛派日本人はキリスト教倫理を、
 反天皇派日本人は人間性否定科学万能の共産主義理論を、
 日本嫌悪日本人はグローバルな市場原理主義による貧富の格差正当論を、
 日本に根付かせようとしている。
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 2015年4月16日号 週刊新潮「生きるヒント! 五木寛之
 どの道を行く
 ……
 ものすごい消化力
 仏教でいう義理とは、〈物事の筋道を正しく理解する〉ことをいう。
 筋を通す、といい、筋目といい、古い任侠の世界の基本は義理である。そのためには、人としてのさまざまな思いも断ち切らなければならない。
 ……
 この極東の日本列島に根づき、ながく残ったものは、例外なくニッポン国ふうに変容している。外来の文化で、本来のものそのままに生きながらえているものは少ない。いや、少ないというより、ないといったほうがだろう。
 この国はすごい消化力をもっている。外来の文献をねじ曲げ、変容させて、なにげなく伝統の一部にしてしまう。そして重要なことは、純粋に外来のまま押しつけられたものは、結局、根づかないということだ。
 いいほうに変えられものは有り難いが、悪く変容させられたものも多く。しかし、良かれ悪しかれ日本化されたものこそが生きながらえてきたのは事実である。
 かつてのプロ野球は、夢の王国だった。川上の赤バット、大下の青バットは、呪術的な後光がさしていた。まだ日本のプロ野球が、本家アメリカのベースボールとちがう道を歩いていた頃のことである。
 変容した日本野球
 桜の開花と同時に、今年もプロ野球が開幕した。しかし、かつての熱気がマスコミにも感じられないのは、残念なことだ。むしろ高校野球のほうが関心を集めているかのようにみえる。それは日本野球のグローバル化がすすみ、かっての日本野球ではなくなったからである。広島カープに人気が集まるのは、どこかに日本的な義理人情の気配が漂っているからだろう。
 グローバル化するということは、どうしても本家本元に追従することになる。国際基準とは、そういうことだ。こちらが百歩追いついたかと思ったときは、むこうはさらに前に進んでいる。
 アメリカ野球に学び、それに近づけば近づくほど、永遠にセカンド・ライン化するしかない。
 ……
 世界の舞台で競うということと、その国に根ざした進化をとげるということを両立させるのは、そもそも無理なことなのである」
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 日本の地理的立ち位置は、地球の辺境であって中心ではない。
 人工的な全ての面で、日本の国力には限界が存在する。
 アメリカの様に何もない中で何かを生み出したという事例は少なく、大半は既にあるモノの改良か改善にすぎない。
 日本は、全ての面で中心・グローバルではなく地方・ローカルである。
 日本の強みは、グローバル的思考ではなくローカル的発想である。
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 日本天皇制度の安定性は、神代から続く神の裔という血統原理と、魂と心、血と身体を同じくする祖先の天皇霊を憑依して霊威を内に抱くというカリスマ原理によって保たれていた。
 皇室祭祀は、血統原理とカリスマ原理で天皇霊と一体化した皇族に一子相伝として継承されてきた。
 それ故に、臣下の者では天皇にはなれなかった。
 西洋では、王家は血統原理を、キリスト教会はカリスマ原理を分け合っていたがゆえに、王権神授説と社会契約説が生まれた。
 王は力が衰えると他国の侵略を受けて国が滅ぼされる危険がある為に臣下によって殺され、臣下は力のある者を新たな王に即位させた。
 それ故に、日本皇室は男系にこだわり、大陸の王家や帝室は男系・女系にこだわらなかった。
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 北畠親房は、1339年に皇位継承の道理を説く為に『神皇正統記』を著し、1343年に南朝大覚寺統)の第97代後村上天皇に献じた。
 男系・女系に関係せず、直系のみを正統として重んじるとした。後の、皇国史観は、直系にして三種の神器を所有していた南朝方を正統な皇位継承者とした。
 神皇正統記「大日本(おおやまと)は神国(かみのくに)なり。天祖始めて基を開き、日神(ひのかみ)長く統を伝へ給ふ。我が国のみ此のことあり。異朝には其の類なし。よって神国と云ふなり」
 三種の神器は、皇祖神・天照大神(女性神)から皇位の証しとして授かった宝物であった。宝物を所有できるのは、天照大神の血筋である直系の皇室のみであった。故に、天皇は「神の裔」として崇拝さ、日本の正統な統治者として敬愛されていた。
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 中国と朝鮮とは、戦争勝利者が、中華思想における「天=天帝」によって天子=君主と認められて支配する土地である。
 そこには、神性を持った統治者として民草の安寧を保護する神も、慈悲で庶民を分け隔てなく救済する仏も存在しない。
 正統派儒教は、天=天帝のみを認めて、神や仏といった鬼神の類いを否定している。
 日本は、古代から、民族宗教における八百万の神々を国の中心に据え、精神や道徳の基とし、物事の善悪・正邪・美醜の判断基準としてきた以上、「神の国」と言っても間違いはない。
 日本に於いて、日本的な神と中華的な天=天帝とインド的な仏とは一体である。
 北畠親房「人はとかく過去を忘れがちなものだが、歴史の辿ってきた道を振り返れば、天は決して正理を踏み外していない事に気付くだろう。もっとも『それならばなぜ天はこの世の現実をあるべき正しい姿にしないのか』という疑問を持つ者があるかもしれない。しかし人の幸・不幸はその人自身の果報に左右され、世の乱れは一時の災難ともいうべきものである。天も神もそこまでは如何ともしがたい事に属するが、悪人は短日時のうちに滅び、乱世もいつか正しい姿にかえるのである。これは昔も今も変わる事なき真理であって、その理をしっかり身に付ける為の業を稽古という」
 日本民族は、神代から万世一系男系天皇(直系長子相続)を中心とした「国體」を守って国を形成し、「国體」がある限り日本国は永久に滅びる事なく存続するという信仰を持って生きてきた。
 日本の文明、文化、芸能、芸術、精神、心は、生きている「国體」によって保証されている。
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 日本仏教における御仏は、溺れている人を奇跡でさっと救うのではなく、慈悲の心でそっと掬い上げるのである。
 984年11月 源信は、比叡山で『往生要集』を書き始め、翌年4月に書き上げた。 地獄に落ちる事なく極楽浄土へ行くには、阿弥陀仏の慈悲におすがりして成仏する事であり、阿弥陀仏のお導きを得る為に念仏を唱えるべきである、と。
 往生するには、命尽きるまで正しい行いをおこない、死するその瞬間まで精一杯に生き、阿弥陀仏のお迎えを待つべきである、と。
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 空也は一遍は「わが身」を捨てる事で捨聖となり、西行は「この世」を捨てる事で遁世者となった。
 一遍「身を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ」
 (本歌取り西行「世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ」)
 「おのづから相(あい)あふ時もわかれても ひとりはいつもひとりなりけり」
 『一遍上人語録』「孤独独一」「生ぜしもひとりなり、死するも独(ひとり)なり。されば人と共に住するも独なり、そひはつべき人なき故なり」
 「万事にいろはず、一切を捨離して、孤独独一なるを、死するとはいふなり。生ぜしもひとりなり、死するも独なり」   
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 足利義満は、自分の権力・権勢が天皇を凌駕している事を国内に見せつける為に、京・室町に大邸宅を建設し、天皇が住む御所に対して「花の御所」と呼ばせた。
 日明貿易を目指す足利義満は、明国皇帝に臣下の礼をとり「日本国王」に叙せられた。
 足利義満は、明国皇帝の臣下になる為に、将軍職と花の御所を息子の足利義持に譲り、出家し、西園寺公経の山荘を譲り受けて大邸宅を作って移り住んだ。
 金閣寺鹿苑寺)を中心とした北山第(きたやまてい、あるいは、きたやまたい)である。
 北山第は、足利義満の隠居所ではなく、明国皇帝の臣下でる日本国王源道義(げんどうぎ)が日本を支配する宮殿兼役所(官衙、かんが)であった。
 中華皇帝支配の象徴が、金閣寺であった。
 足利義満が中国人となって登用された証拠が、中国姓の源道義への創氏改名と中国風宮殿である北山第であった。
 一層(階)の寝殿造は、日本天皇を中心とした公家階級と日本神道の神聖権威社会である。
 二層(階)の武家造は、武士の武力権力社会である。
 三層(階)の禅宗仏殿造は、唐(中国)の仏教威徳社会である。
 そして、屋根の上に中華思想に基ずく「鳳凰」を飾った。
 鳳凰は、聖天子が現れる世或いは場所を示すものである。
 同じ鳳凰を飾る宇治の平等院鳳凰堂は、純然たる仏教寺院として、御仏が住む極楽浄土に生まれ変わる事を切望する祈りの場であった。
 北山第が持つ意味とは、純然たる政治であった。
 足利義満が出家しと信ずる禅僧は、日本仏教ではなく中国仏教である。
 何故なら、日本仏教は日本天皇の権威の下にあり、公家と因襲的つながりが深かったからである。
 足利義満が目指した新たな日本とは、島国に閉じ籠もってこぢんまりと赤貧の生活に満足する事ではなく、島国を飛び出し、中華世界に参加して豊かになり国際社会で活躍する事であった。
 だが、世界への飛躍という理想を実現する為には、日本人が中華皇帝の臣下としての日本国王位では従わない事を痛感し、自らが日本天皇に即位して大号令するしかないと決意した。
 日本の限界は、皇室が日本民族心神話を根拠として独占する日本天皇位にあると。
 足利義持は、日本は朝鮮王国とは違って明国の臣下ではなく日本天皇が「まとめる」国である事を知らせる為に、父足利義満が死去するや北山第を破壊し、金閣寺のみ純然たる仏教寺院として残した。 
 日本に於ける聖天子は、姓が異なる王朝ごとに擁立される中華皇帝(漢族と異民族)ではなく、神代から途絶える事なく受け継がれた万世一系の男系である日本天皇のみでると。
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 1400年代 イスラム商人が、日本海の若狭に辿り着いていたという言い伝えがある。
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 1465年 比叡山は、京にある浄土真宗大谷本願寺を襲撃し、伽藍、道場を破壊した。
 応仁の乱。1467年〜78年。
 東軍24ヵ国16万人対西軍20ヵ国11万人。
 合戦は、サムライ同士が戦い、百姓や町人は戦わなかった。
 1467〜77年 応仁の乱
 応仁の乱は、将軍家と畠山家の後継者問題に大大名・山名持豊(宗全)と管領細川勝元の権力闘争が重なって拡大した。
 この動乱によって、日本に伝わる多くの伝統的秩序が崩壊した。
 貴種という上流武者の権威が地に落ちて、下級武士団や足軽・小者や野党盗賊達が腕力にものをいわせ新領主としてのし上がってきた。
 道徳観念の消失で秩序が崩壊し、京都内外の寺社仏閣は放火され略奪が起きていた。
 世の終わりのような荒廃で、正義も美学も何もなかった。
 この時期の伊勢神宮式年遷宮は、日本史上初めて中止され、戦国時代が終わるまで約120年間途絶えた。
 ムラ社会は、公権力の保護がなくなった為に自力で村を守る為に、排他的に寺院や地方豪族と盟約を交わして武装した。
 この時代の百姓や町人は、強い者に巻かれるようなひ弱な存在ではなく、共同体を守る為なら強敵でも牙を剝き武装して戦う民草であった。
 合戦があれば、積極的に参加して戦場で略奪と放火をおこない、負けて逃げる落ち武者を殺害して身包みを剥いだ。
 血筋を重んずる正統派武士は、命の遣り取りという美学を共有する敵の武士より、戦の作法を無視し卑怯卑劣お構いなしの凶悪凶暴な百姓達を恐れた。
 百姓は武装して、作物を作って生きる為に、田畑に必要な水源や山林や土地を守る為に隣村と争っていた。
 都市の豪商は、体面を賭けて戦い合う大名達に高利で軍用金を貸し高値で武器を売り年貢をせしめ、対外貿易で巨万の富を得ていた。
 堺等の貿易都市は、自由都市として領主支配を嫌って傭兵を雇って武装し、大商人達が談合して都市住民を支配していた。
 日本文化は、応仁の乱までは貴族や大寺院や上流武者らの支配者文化であったが、応仁の乱以降の文化は豪商や豪農の庶民文化に変わっていった。
 気の弱い日本人は、何時終わるともしれない命を軽視した殺伐とした時代に恐怖し、救いを信仰に求めた。
 宗教が隆盛する時は、社会秩序が崩壊し、道徳が廃れ、人心が荒んだ時である。
 安定して幸福な時に、人々は宗教に見向きもしない。
 1473年 京の東北にあった吉田神社が戦乱で焼けた。
 神主の吉田兼倶は、幕府に対して、戦乱が収まり平和となり、秩序が回復し道徳が戻る祈願を執り行う事の許可と財政的支援を請願した。
 同時に、戦乱を鎮める霊力を失った既存の伝統神道から脱却し皇祖・神武天皇時代の古神道に立ち戻る、神道改革を目指した。
 足利義政の妻日野富子は、平和祈願に賛同し、関所通行税の一部を管理する許可を与えた。
 1484年 吉田兼倶は、吉田神社と日本最上神祇斎場を吉田山頂に移し、天地開闢の時に表れた国常立尊を祀り八百万の神が集う場所と定めた。
 1488年 戦乱は伊勢国にも及び、戦いの中で伊勢神宮の外宮が焼け落ちた。
 非力な朝廷には、全国にある皇室ゆかりの神宮を守るだけの財力も軍事力もなく、天皇神・天皇霊にひたすら無事を祈るしかなかった。
 伊勢国の人々は、伊勢神宮の神々が飛び去ったと噂し、この世の終わりと恐れた。
 日本各地の人々は、血を嫌う伊勢神宮の神々が戦を避けて自分の土地に降臨されたと喜び、伊勢神宮の分社を建てて神々を祀った。
 吉田神道は、これを「飛神明」と称し、皇族や公家のみの伊勢信仰が民衆信仰へとの「神ながらの道」筋と説いた。
 1489年 吉田兼倶は、朝廷に、伊勢神宮から神体が降り立ったと奏上した。
 第103代後土御門天皇は、吉田神社と斎場を「神国第一の霊場」と認めて御墨付きを与えた。
 吉田兼倶は、朝廷からの承認を得たとして、吉田神社を日本神道の中心と定めて吉田神道を始めた。
 吉田神道は、弱肉強食原理で命軽視の殺伐たる世の中で命重視の為に新に神道を再生させべく、「唯一神道」として仏教・儒教道教などを取り入れながらその上に神道を置いた。
 多種多様な神の存在を認める寛容の精神を広め神ある社会とする為に、古き伝統ある信仰心を蘇らせようとした。
 「夫れ我が国は、天地と共に神霊顕れ坐す。故に国は神国と云い、道を神道と云う。国とは千界の根本なり。故に日本という」
 「神とは常の神に非ず。乾坤(天地)に先立てる神を云う。道とは常の道に非ず。乾坤に超えたる道を云う。神生は動かずして動き、霊体は無形にして形す。是則ち不測の神体なり。天地にありて神と云い、万物に有りて霊と云い、人倫に有りては心という。心は即ち神明の舎、混沌の宮なり。混沌とは、天地陰陽不分、喜怒哀楽未発にして、皆是心の根本なり」
 伊勢神宮は、神道改革としての吉田神道に猛反対し、伝統的神道を守る為に独自の神理論を模索した。
 第104代後柏天皇
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 内藤湖南「大対今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありませぬ、応仁の乱以降の歴史を知っておったらそれで沢山です。それ以前の事は外国の歴史と同じくらいにしか感じられませぬが、応仁の乱以降は我々の真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知っておれば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります」(1921年 『応仁の乱に就いて』)
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 第105代後奈良天皇
 応仁の乱後。世は乱れ、各地の荘園からの年貢が激減した為に、朝廷の財政は逼迫した。
 御所を囲む築地塀が崩れても修繕できず、三条大橋から宮中の内侍所の灯火が見えるほどであった。
 天皇や皇族は、贅沢三昧を避け質素倹約に務め、天災が起き、疫病が流行するやし、「大御宝」である民草が救われるように、伊勢神宮宣命を奉って祈り捧げた。
 食事もままならぬ資金難の中にあって、食費を削って全国の一宮に般若心経の写経を奉納した。
 高松宮宣仁親王殿下「皇族というのは国民に護って貰っているんだから、過剰な警備なんかいらない。堀をめぐらして城壁を構えて、大々的に警護しなければならないような皇室なら、何百年も前に滅んでいる」
 祭祀王・天皇と皇室は、古代から、無防備に庶民の前に身も命を晒していた。
 殺すと思えば、誰でも、天皇や皇族を殺害する事ができた。
 現代の日本人とは違って、昔の日本人はそんな恐ろしい事は考えもしなかった。
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 応仁の乱までは、血縁を神聖視する武者は主家・本家に対して「君君たらずとも臣臣たれ」の主従関係で行動した。
 応仁の乱以降、戦国時代では、下剋上が当然となり、家臣は無能な主君は見限り追放するか殺害した。
 大名は、自分と家族の命の安全や主君としての地位を保つ為に、何時寝首を掻きに来るかわからない不気味な家臣に忠誠を誓わせる為に領地を与え、絶えず彼らの意見を聞いて領地経営をしていた。
 日本の封建領主は、油断も隙も無い家臣団や百姓・町人達の中で危うい立場で存在していた。
 家臣団は、命の危険がある戦などを望まず、周辺大名を攻めて領地を増やさずとも今の領地で清貧生活を送る事を希望していた。
 領土拡大の意欲のない大名は、できれば周辺大名との戦闘は避けたかった。
 だが。農地の狭い貧しい百姓は、戦場での戦利品を期待して戦いを望み、下剋上で武士となり立身出世する事に夢を抱いた。
 サムライや百姓が理想とするリーダー像は、戦争をしたがらない気弱で物わかりの良い操りやすい大名であった。
 それが、島国根性である。
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 日本の実力者は、大陸の実力者のように、祭祀王・天皇を殺し神代からの皇室を廃して、自分が新たな天皇になり自分の家族で新たな皇室を創設しようとはしなかった。
 誰も、古事記日本書紀に基ずく日本中心神話を廃棄して、新たな建国神話を創作しようとはしなかった。
 日本は、世界の常識が通用しない。
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 ユダヤ教は、ユダヤ人同士での金利の搾取を許さず、ユダヤ人を奴隷とする事も禁止していた。
 キリスト教は、金利を取る事を厳禁としたが、キリスト教徒を奴隷化する事は容認した。
 イベリア半島に住んでいたユダヤ教徒ユダヤ人達は、スペインとポルトガルユダヤ人追放令により、信仰を守って半島から退去するか、留まる為にキリスト教に改宗するかの選択を強制された。
 偽って洗礼を受けた改宗ユダヤ人は、異端審問などの宗教弾圧から逃れる為に宣教師となって国外に逃亡した。
 改宗ユダヤ人達は、生きる為の空間を求めて世界中に散らばり、行った先々で「投資して金利を得て富を増やす」というユダヤ貨幣経済理論を広めた。
 ユダヤ民族の地球規模的大移動が始まった。
 1492年 スペインのユダヤ人達は、スペイン王ユダヤ人追放令でポルトガルに逃げた。
 1496年 ポルトガルに逃げてきたユダヤ人達は、ポルトガル国王マヌエル1世のユダヤ教徒追放令で、表向きでキリスト教徒に改宗してイベリア半島からユダヤ教徒は居なくなった。
 改宗ユダヤ人は、商人か宣教師となり、異端審問から逃れる為に海に出て世界へ散らばっていった。
 ユダヤ教は、ユダヤ人同士での金利を取る行為を禁止したが、ユダヤ人以外に対して禁止しなかった。
 ユダヤ人商人達は、キリスト教徒商人が手を出さない金融・高利貸しで生きる為に世界の銀を手に入れようとした。
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 カトリック教会では、12使途の一人である聖トマスは東方諸国へ布教に出掛けインドで殉教したされている。
 1498年 聖トマスの遺志を継ごうとする聖三位一体修道会の宣教師は、殉教する事を渇望して、バスコ・ダ・ガマの船に乗船してインド布教に旅立った。
 後に。フランシスコ会ドミニコ会などを、ポルトガル国王の援助を受けて多くの宣教師をインドに送った。
 だが、インドの民衆は伝統的地元宗教に拘りキリスト教に改宗する事がなかった。
 イエズス会は、インド布教の失敗を自覚し、新たな布教先として日本を選んだ。
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 1485年 山城の国一揆
 1488年 加賀の一向一揆
 1493年 明応の政変から、戦国時代が始まった。
 1531年 越前の一向一揆
 日本に於ける宗教戦争
 1532年 日蓮宗の僧兵は、浄土真宗邪教として山科本願寺を焼き討ちし、信者を虐殺した。
 日蓮宗は、排他性の強い宗派であった。
 1536年 天文法華の乱。比叡山延暦寺の僧兵は、洛中にある法華寺21ヶ寺を焼き討ちし、信者を虐殺した。
 天台宗は、正式名称を天台法華宗といい、法華経妙法蓮華経)を最高の御経として仏法を説いた。
 天台宗日蓮宗は、法華経における教義の解釈と解脱の修業をめぐって激しい宗教紛争を起こしていた。
 同時に。各宗派は、油や醤油などの伝来商品の製造販売の許認可権で激しい競争を行っていた。
 中世の日本経済は、特許を持った寺社に関係した同業者による「座」を組織し、各地で開かれる「市」を支配していた。
 寺社は、特許を護る為に僧兵を養い、座に加盟していない商売敵を襲撃していた。
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 関東にある足利学校は、優秀な人材を育てて各地の大名に提供していた。
 彼らは、歴史の表舞台に名を残していない。

 




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穢れと神国の中世 (講談社選書メチエ)

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