🏯36)─1─日本民族はイジメを起こしやすい。武士社会はイジメとブラック社会であった。~No.68No.69 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 日本社会は、閉鎖社会であり、閉塞社会であり、そして排他的であり不寛容である。
 出る杭は打たれる的に、個性を主張し、才能・能力を自由に発揮する事が許されない息苦しい社会である。
 日本社会を動かしているのは、才能・実力ある強者ではなく、才能なし・実力なしの弱者である。
 強者は個として一人孤高に立つが、弱者は個を殺し群れて蠢く。
 弱者は、自分より弱い者や群れに染まらない者を見付けると発狂したように攻撃し、圧殺して、群れの平均を保つ。
 日本人が弱者であるがゆえに、自分より弱い相手や自分とは違う相手に対するイジメ・嫌がらせ・意地悪の衝動は消せない。
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 2018年1月・2月号 SAPIO「脳科学 脳のメカニズムから人間関係を考える
 なぜ貴乃花はいじめられるのか 
 いじめは大人の世界でも頻発している。『ヒトは「いじめ」をやめられない』を上梓した脳科学者の中野信子氏が脳科学の観点から対策を説く。
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 中野信子
 猛獣と比べて脆弱な肉体しか持たない人間が地球上で生き残ってこられたのは、集団を作って高度な社会性を持ってきたからである。
 この集団が存続するうえでもっとも脅威となるのは、自分だけ楽したり、集団に協力しなかったりする『フリーライダー(タダ乗りする人)』だ。放置すると集団が崩壊するので、人間の脳には、フリーライダーに制裁を加えて排除しようとする『裏切り者検出モジュール』という機能が備わっている。
 人間の脳内では安心感を抱かせ、やる気を出させるセロトニンという神経伝達物質が分泌されているが、日本人はセロトニンを再利用するセロトニントランスポーターの量が少ない人が極めて多く、世界一不安になりやすい民族といえる。そのため、『裏切り者検出モジュール』の感度が高く、フリーライダーとはいえない人までも『将来的な不安の種』と認識し、過剰に排除してしまう。これが『いじめ』のメカニズムだ。
 いじめは脳の機能で起きるものだから仕方がないなどというつもりは毛頭ない。メカニズムを知り、それを対策に活かすことが重要だ。
 小泉進次郎がいじめられない理由
 いじめは大人の世界でも起きている。
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 仲間意識の強い集団ほどいじめは起きやすく、目立って、集団から浮いた人が標的になりやすい。よくあるのは、『なんであいつだけ昇進できるのか』『あいつだけ楽をしている』『親が金持ちのお坊ちゃまだ』などと周囲から思われる状況で、集団の秩序を守るために制裁を加えて排除すべきだというスイッチが入る。こうしたいじめを回避する方法としては、一つは、誰にも手の届かないほどの存在になることだ。青色LEDを開発した中村修二氏は社内で研究に没頭できる環境を与えられ、ある意味〝特別扱い〟だったのだろうが、ノーベル賞を受賞し、誰も批判できなくなった。
 もう一つは、致命的にならない程度に自分の格好悪い姿や弱点をさらすことだ。それにより、相手の妬みを抑え、秩序を乱す人間ではないという認識を誘導できる。代議士の小泉進次郎氏は、政治家一族の名門に生まれ、容姿にも恵まれて妬まれやすい立場にあるが、自らを『客寄せパンダ』と敢えて認めてみせるなど、周囲からの妬みを抑える努力をしている。職場で活躍しようと思うならば、同時に妬み対策も必要だ。」
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 現代日本人の心が歪でえげつないは、自分は「名誉白人」としてアジア人やアフリカ人など非白人よりも優れていると盲信している事である。
 日本人は「名誉白人」であるというおぞましい称号・傲慢な称号を受け入れたのは、戦後であって、戦前にはなかった。
 戦前の日本人は、自分たちは「名誉白人」とは思ってはいなかったし、もし与えられると勧められても拒否した事であろう。
 何故なら、「名誉白人」称号は、非人道的人種差別称号であるからである。
 国際連盟規約に「人種差別撤廃条項」を加えようとした昔の日本人と名誉白人称号に有頂天となった戦後の日本人とは、別人の日本人である。
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 2018年2月号 WiLL「モンゴル力士はなぜ嫌われるのか 宮脇淳子
 『横綱の品格』をモンゴル人に押しつけるのが間違っているんですかね・・・
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 男子たるものの条件
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 モンゴル草原の遊牧民について、もっとも古い記録を残した司馬遷の『史記』(紀元前1世紀前後)には次のようなことが書かれている。
 紀元前にモンゴル草原には、匈奴(きょうど)以来、遊牧騎馬民は、平和なときには家畜のあとをついて歩き、弓を引いて鳥や獣を射て捕った。戦争のときは、全員が兵士になるのであった。もちろん全員、馬に乗る騎兵である。つまり、古い昔から、モンゴル人にとっては、馬に乗ること、弓を射ること、格闘することの三つは、男子たるものの必要条件だったわけである。
 ただし、馬に乗ることと弓を射ることは、遊牧騎馬民では女でもやる。競馬は、女子を含む小学生くらいの子どもたちの競技になっているし、弓も女子が参加できる。しかし相撲だけは、いまでも男だけの競技である。男子たるものの条件のなかでも、格闘技は、男同士が力の限りを尽くして戦うものであるから、相撲でナンバーワンになるのは、最強の男の称号を得ることと同義なのだ。
 日本とモンゴルの文化の違いで一番大きいと思うのは、日本人はいつもまわりを気にして、まわりに合わせよう、自分一人だけ浮いて見えないように何でもみんなと一緒にしよう、とするのに対して、モンゴル人はまず、他人とはつねに違うことをしようと考えることである。
 遊牧民であるモンゴル人の文化には、とりあえずまわりに合わせる、という考えはない。モンゴル力士が日本の力士よりも強い理由のひとつに、日本人同士のように人間関係のしがらみがなく、まわりを気にしないからではないかと思う。
 シナ文明に隣接した同じアジア地域にあるながら、日本はモンスーン気候の湿潤な農耕地域であるのに対して、モンゴルは大陸性の乾燥した草原である。生産の基盤も、片方は一ヵ所に多くの人手をかける集約農業であるのに対して、片方は居住すらも移動する粗放な遊牧経済である。
 日本では、抜け駆け報道をしなくては他社に勝てなはずのマスコミですら、いつも同じテーマを選び、全部のメディアが一斉に同じことを言ったりすることが多いのは、なぜだろう、と私はいゆも考える。それは、日本の文化のなかに、他人と違うことをするのは悪いことであるという伝統が、いまもなお、無意識にせよ深く染み込んでいるからだ。それは、日本文化の根底に稲作という農村の文化があるからである。
 『いじめ』の文化
 『隣百姓(となりびゃくしょう)』という日本語がある。『お隣が田植えを始めたら、うちも始める。隣近所をよく見て、遅れないように、その通り真似をするだけで、百姓仕事はやっていける。自分で何も考えなくても、理由は分からなくても、他人と同じことをしていれば、とりあえず何とかなる』という意味である。このことばは、いまではだいたい皮肉として、悪い意味で使うことが多いようだ。
 しかし、昔の日本社会は、実際にこのことば通りだったのである。
 隣近所が一斉に田植えをしなければ、農村社会は成立しなかった。田植えをするには、川から田んぼに水を引いてこなければならない。川に近い田んぼから田植えをしていかなければ、川か遠い田んぼの田植えはできない。『うちは来週やる』ではすまされないのだ。だから、田植えの季節には、村中の人たちが一緒になって、川に近い田んぼからみんなで田植えをしていった。協調こそが、日本人が生きていく上での美徳となったのは、そのためである。
 このようなわけで、農村で稲作をして暮らす日本人にとって一番怖いのは、仲間はずれになることだった。日本人がいまでも、仲間はずれになることをひどく怖れるのは、このような伝統のせいではないだろうか。仲間はずれになること自体が当人の責任で悪い事である、とする思想がいまだに日本社会のなかにのこっているのである。
 だから、数を頼んで一人だけのけ者にするという『いじめ』が成立するのだ。どちらが正しいとか、理屈が通るかどうかはぜんぜん問題にせず、気に入らない人間をただ仲間はずれにする、という嫌がらせが成立するのは、日本の文化の特徴であると思う。
 一方、モンゴル国の平均の海抜高度は1,600メートル、平均降水量は200〜300ミリで、雨はだいたい夏に降る。日本であれば台風がきたときの一晩分の雨量である。そんな程度の降水量しかなくたいへん乾燥している大陸性気候なので、草原といっても草の生え方はまばらである。だから、同じところに家畜を放牧させているとすぐに草を食べ尽くしてしまうので、翌年にも草が生えてくるように、根っこまで食べ尽くす前に、家畜を逐(お)って別の場所に移動しなくてはならない。
 また、そのこと以上に、人間や家畜が生きていくためにはどうしても水が必要である。だから、『史記』以来、モンゴル草原の遊牧民は『水草を逐う』と記されてきたのである。
 このように、一ヵ所に長く滞在することができない自然環境だったから、人間のほうが、家畜を遠い新しい草原に連れて行くのに便利なように、住居を移動に簡単なテント形式にして、遊牧して暮らす生活を選んだのだ。
 たくさんの家畜に十分に草を食べさせるためには、別の人間がすでに放牧したところに行ってはいけない。つまり、モンゴルの遊牧生活では、他人とはつねに違うことをしければ生きていけなかったのである。日本の『隣百姓』とはまったく正反対の生き方であることがおわかりいただけるだろうか。
 たくさんの動物の命を守る遊牧民は、たとえ子供といえども自分一人で判断しなくてはならない。天気がいつ変わるか、どちらの方角に行ったらいいか、間違った判断を下したら全部が死んでしまうかもしれないのだ。他人に頼っていれば何とかなるというようなことは、モンゴルの遊牧生活ではあり得ない。
 そういう生活をしてきたので、モンゴル人の文化には、とりあえず『まわりに合わせる』という考えはないのである。
 モンゴルに『長幼の序』はない
 プロスポーツの世界は実力主義である。年齢も先輩・後輩も関係ない世界のはずである。日本の相撲界では、たしかに一日でも先に入門したものが兄弟子だが、組織の秩序は、年功序列よりも番付のほうが優先する。その頂点が横綱である。
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 朝青龍旭鷲山の事件のさい、日本のマスコミが朝青龍をもっぱら非難したが、日本文化のなかに『長幼の序』という思想があるからである。モンゴルの伝統には、この『長幼の序』という考え方はない。
 日本では、小学校の頃から、学年が一つでも上の者は先輩であるから、まず尊敬しなさいと教えられる。1日でも早く生まれた者は兄さん、あるいは姉さんとされる。そうやって、人間関係がスムーズに運ぶようにしているのである。
 アマチュアスポーツの世界や宝塚などでは、先輩・後輩の関係は絶対で、後輩は、先輩のいうことがたとえ理不尽なことだと思っても、まず従わなければいけないと教えられる。しかし、モンゴルでは、年齢が上か下かは気にしない。また、あることを先に始めたとか、そのことに長い間従事しているとか、そういうことよりも、そのことに能力があるかどうかのほうを大切に考える。つまり、ほんとうの実力主義なのだ。
 奥様は高学歴
 日本の文化とモンゴルの文化の違いのなかで、注目すべきは男女の社会的地位ともいうべきものだ。
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 じつは、モンゴルでは妻のほうが学歴の高い夫婦が珍しくない。モンゴルでは、親が貧乏で子供の教育に十分な資金がない場合、まず女の子に高等教育を受けさえようとするのだ。その理由をきくと、男は肉体労働をしても食べていけるが、女はそういうわけにはいかない。だから、自分一人でも食べていけるために、教育が必要だということである。見方を変えれば、モンゴルの女は夫の学歴をまったく気にしない、ということになる。
 モンゴルで仕事をしている日本人の友人から聞いた話だが、可愛い男の子が、『ボクの家は金持ちではないから、姉さんは上の学校に行けるけど、僕は進学できないんだ』としょんぼりしていた、という。『所変われば品変わる』というが、モンゴルの文化は、隣国の中国ともシナ文明の影響を受けた韓国や日本の文化とも、まったく違うのだ。
 遊牧生活においては、先ほど述べたように、たくさんの家畜を悪天候や狼から守るのは、年齢や男女を問わず人間の仕事である。人間は動物よりも賢いから、動物たちの主人と認められているのだ。だから、モンゴル人にとって、人間たるべきもっとも大切な条件は、自分自身で判断できることと独立心であって、他人に頼るような人間は動物以下ということになる。
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 私の定義では、『文明』とは民族、種族、時間を超えて、みんなが受け入れられることができて広がっていくものだ。これに対して『文化』は、個々の自然環境とか生活に根ざしている、言葉にできないものである。
 日本の『文化』だった『マンガ』や『スシ』や、日本独自に開発された『エコノミーカー』は世界中に広まり、『文明』になった。同じように『相撲』や『柔道』も『文明』となったのだ。『文化』から『文明』への変化を意識せず、いままでと同じように言葉にせずに『教えられなくても型を引き継げ』とか『しきたりなんだから、黙ってついていこう』といっても、日本人ならともかく、どんなにまげが似合っていても、外国人なのだから、理解できなければついていけないのである。
 マスコミに品格はあるのか
 強い意志と努力によって、外国である日本ではことばの壁も乗り越え、短期間で横綱にのぼりつめたモンゴル人横綱を、日本のマスコミは『伝統を守らない。日本の大相撲の力士になったのだから、おとなしく日本人の言うことを聞け。郷に入れば郷に従え』とよってたかって非難する。朝青龍日馬富士は『理由の如何を問わず、横綱が暴力をふるうのは許せない』と批判され、追放された。
 日本人は総意を大切にする文化を持っているが、とくにマスコミはその傾向が強く、無署名で書く記事が多い。誤報をしても責任は取らず、言いたい放題の悪口をいう。そのくせ、自分たちがどういう風に見られているかという意識はない。
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 日本という国の威を借りて、大人勢で一人を追いかけまわした日本のマスコミを、朝青龍はますますバカにするようになった。
 朝青龍横綱としての責任があるとはいっても、日本のマスコミが無遠慮に他国であるモンゴルに踏み込んで、日本の流儀に従え、と強要するのでは、あまりに教養がない。ことらのほうが国辱ではないだろうか。 
 日本にとって大切な国
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 日本に留学しているモンゴル人だけでなく、首都のウランバートルに住んでいるモンゴル人ですら、仕事のために仕方がなく町で暮らしているように思える。
 夏休みにモンゴルに行くと、大臣も中央官庁の役人も大学教授も会社の社長も誰一人ウランバートルにはいない。みんな故郷の草原でゲル(テント)生活をしている。こちらのほうがモンゴル人のほんとうの暮らしだと考えているのだ。
 お風呂もトイレもない草原の暮らしよりも、町の近代的なアパートで暮らすほうがよほどいいではないかと日本人なら考えるが、緑もなく、人と車ばかりが多いコンクリートの道を歩いていると、モンゴル人はだんだん憂鬱になってくる。気が滅入ってくると、さあ、草原に行こう!ということになる。広々とした草原で馬を走らせたり、取れたての馬乳酒を飲んだりして、ようやく生き返った気持ちになるわけだ。
これからも、モンゴル力士とマスコミの対立は続くだろう。しかし、モンゴル力士が日本の大相撲で活躍するようになったおかげで、ふつうの日本人が異文化に直接ふれることになっらのだし、モンゴルに興味を持つ結果となった。日本人の世界が広がったともいえるのだ。
 ロシアと中国に挟まれたモンゴル国親日であることは、日本の国益にかなう。モンゴルの地下にある豊富な天然資源は、遊牧民であるモンゴル人が地面を掘ることを嫌ってきたので、ほとんど手つかずで残っているし、ソ連時代にモンゴルは北朝鮮と兄弟関係にあったので、じつはいまでも北朝鮮の内情に詳しい。
 日本の大相撲にモンゴル力士を受け入れたのは、意識してのことではなかったかもしれないが、日本のためにまことに喜ばしいことだったわけだ。日本人もモンゴル人を見ならって、少しくらいの違いには寛容になって、人生を楽しもうではないか。世界は広いのだ。」
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 武士社会の上司や同僚からのイジメ・嫌がらせ・意地悪は庶民社会に比べてはるかに酷く、武士の名誉や体面を守る為に意趣返し的殺人が度々起きていた。
 その代表例が、忠臣蔵における吉良上野介に対する浅野内匠頭の刃傷事件である。
 上司や同僚は、軽輩の下級武士から異例の昇進をしてきた者や庶民が金で武士になった俄武士に対する陰湿・陰険なイジメ・嫌がらせ・意地悪を繰り返していた。
 武士社会のイジメ・嫌がらせ・意地悪に辟易として武士は、昇進を諦めて若くして楽隠居するか、武士身分を捨てて庶民となった。
 武士は、不利と分かると無駄な努力はせず、勝てないと分かれば無益な抵抗をせず、逃げるのは恥ではないとして命大事として逃げた。
 「三十六計逃げるにしかず」、それが死を覚悟した武士道の極意である。
 捲土重来。
 命あっての物種。
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 主君に仕える武士には、祖先の功績で得た家柄・家格で最終到達の役職が定められ、それを超えて出世できるのは本人の能力と仕事ぶり、そして上役のコネか主君の依怙贔屓が必要であった。
 だが、主君が死亡して代が替わったり、上役が失脚したら、コネや依怙贔屓で出世した武士は左遷させられた。
 宮仕えは、馬鹿らしいほどに辛かった。
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 徳川家康は戦って逃げて江戸幕府を開いた。
 足利尊氏は戦って逃げて室町幕府を開いた。
 源頼朝は戦って逃げて鎌倉幕府を開いた。
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 武士社会ほど、イジメ・嫌がらせ・意地悪が酷い社会はない。
 武士のイジメ・嫌がらせ・意地悪に対する対処法は、なのもかも投げ捨てて逃げる事である。
 捨てて開く道もある。
 逃げるが勝ち。
 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。
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 イジメ・嫌がらせ・意地悪に激怒し立ち向かって刃傷事件を起こせば、相手が明らかに悪かろうとも一切の言い訳は許されず、喧嘩両成敗の原則に従って重い処罰が下された。
 大石内蔵助らが寝ている老人・吉良上野介を殺害したのは、亡き主君への忠誠もさることながら、徳川綱吉・幕府が喧嘩両成敗の原則を無視した事が主因である。
 喧嘩両成敗の原則に従って、吉良上野介にも重い処罰が下り、吉良家お取り潰しのうえ他家配流ではなくとも、せめて御役御免・強制隠居・蟄居(軟禁)でも命じられたら、忠臣蔵は起きなかった。
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 武士は、主命があれば否応もなく受け、あとは自己分析・自己判断・不言実行結果責任の自己責任が鉄則である。
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 昔の日本人は自然・土・田畑に生かされる農耕民として生きていたが、現代の日本人は都会民として自然・土・田畑に生かされている実感はない。
 自然・土・田畑は、昔は生きる糧を得る最重要な場であったが、現代は金儲けの物件の場に過ぎない。
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 イジメ・嫌がらせ・意地悪を頻発させ悪化させた最大の誘因は、1945年9月以降のマルクス主義歴史教育にあった。
 マルクス主義歴史教育が、日本の国際化・グローバル化アメリカ化を標榜としてローカルな民族的民俗的なものを一掃するべく破壊し消滅させてきた。
 暴走しキレやすい老人は、戦後教育を受けた団塊の世代である。
 暴力を振るう中高年は、1980年代の日本人極悪非道の極悪人史観=自虐史観の歴史を徹底的に叩き込まれた団塊ジュニア世代である。
 命の価値観を踏みにじる青少年は、1995年や2011年を目の当たりにして育った世代である。
 そうした中から生まれた知的エリート達が日本の舵を取っている。
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 マルクス主義歴史教育は、自然・土の水田稲作の農耕生活ではなく、自然・土から切り離された無味乾燥の都会の労働生活を教えている。
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 日本の農耕は田の水稲が主であるが、世界の農耕の主は畑の陸稲や麦である。
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 日本の常識は、世界の非常識で世界では通用しない。



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