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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
1件1億円の商談をまとめて1,000万円を稼ぐのと、一個100円の商品を売って10円を稼ぐのとは、同じ1割を稼ぐ事に変わりはない。
同じ1割でも、1,000万円稼ぐのと100円稼ぐのとでは仕事の中身が全く違う。
1,000万稼ぐ人間と100円稼ぐ人間とでは、全ての面で格差が生じる。
格差をなくすには、全員が、自己能力を上げて1,000万円を稼ぐか、自己能力を下げて100円を稼ぐしかない。
100円を稼ぐ人間が、1,000万円を稼ぐ人間との格差に嫉妬するなら、同じだけの利益を上げればいい。
自己努力もせず格差に嫉妬し不平不満を並べ立て、格差を解消せて同じにしろと要求するのは、正しい行為なのか。
進歩や進化は、格差に意欲を燃やして挑戦する事から生まれる。
後退や退化は、格差に意欲を失い諦めて何もしない事から生まれる。
自然を支配するのは、進歩・進化か後退・退化かの二者択一しかない。
生物界の原則として、進歩・進化した劣等者・弱者は劣悪環境に進出して生き残り、後退・退化した優等者・強者は恵まれた環境に安住して絶滅した。
どう言い繕い誤魔化そうとも劣等者・弱者であるのに、一時の幸運に恵まれて優等者・強者と錯覚しておごった者ほどおぞましい者はない。
それが、バブル経済で痴呆化した日本人である。
バブル崩壊後の日本人の一部には、未だに自分はアメリカに次ぐ優等者・強者であると愚かしい幻想に酔いしれて優越感に浸り、少ない労働で多くの報酬・給与を得る事を望んでいる。
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夫婦別姓を望む親は、自分の結婚する前の姓に愛着を持って訴えるが、子供の姓をどうするかを無視している。
つまり、子供の姓より自分の姓を優先している。
生まれたばかりの新生児は、自分の姓を母親の姓にするのか父親の姓にするのか決められず、自己選択の自由はなく、母親の胎内から引っ張り出され親の理不尽で強制的に一方を押し付けられる。
新生児が生まれた時に泣くのは、安全な母親の胎内から無理やり危険が渦巻く世界に引き出されたからだ、とも言われている。
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2016年1月29日号 週刊ポスト「昼寝するお化け 『金持ちは働き者』 曾野綾子
先般、最高裁が『夫婦同姓』を合憲とする判断を示した。それについてた、『残念な結論だ』とする人がいて、私はいまだによくわからない。
この問題については、すでに現実的に私たち完全に自由を手にしている。夫の姓を名乗ってもいいし、『妻が一人っ子で、その両親の家の名を絶えるのは寂しいというんですから、僕がそちらを名乗ることにしました』という心優しい男性に会ったこともある。
知人の女性は、渡邊だか鈴木だか、非常に多い姓だった。彼女の名前は詩的で、つまり緑というような名前だった。ところが恋をした男性の名前は、岡か山部か、とにかくその後に緑とつくと、全く絵のようになるものだったのである。
『私、嬉しくて、もう絶対に彼の姓になろうと思いました』
と言うのが彼女の言葉で、私は今もそれを忘れられない。
私は23歳の時から小説を書いてきたが、私の周囲は自然に広い意味で『文筆業』というべき仕事で働いている人が多かった。女性記者もたくさんいた。彼女たちは結婚してもほとんど名前を換えなかった。会社の人事部には婚姻届けを出しているのだが、通称を換えたりはなかったのでる。
『いちいちお知らせするほどのことじゃありませんからね』
と彼女たちもあっさりしたものだった。だから私たちも、呼び方を換えなかった。昔通りに旧姓で呼び続けて、時々何か必要がある時だけ、『そうそう、あの方、結婚して名字変わってたのよね』という按配だった。旧姓のままでも、二人の関係に余計な憶測などしたことはなかった。
私の場合は、一応正式に結婚ではあるが、相手と知り合う前に既に今のペンネームを使っていたのである。結婚したから、夫の姓で小説を書くことにしまう。などという野暮な話は、文筆の世界ではあまり聞いたことがない。つまり名前などどうでもいいのだ。問題はそれが『いい作品かどうか』だけなのである。私の曾野綾子という名前など、旧姓でもなく、現在の戸籍名でもない、それこそ幽霊の名前みたいなものだが、それで私の作品を取り違えたり、私に余分な原稿料を払ってくれたというケースもない。
そんな状態で、私の生きてきた社会では、本名は何という名なのかわからない人だらけだった。法律上の名前などどうでもいい証拠である。私たちはただその人の持ち味と存在だけを、深く評価して生きてきた。それで充分だった。
しかしそれだと困る人たちと組織は昔からある。保険、税金、相続などの処理をする部門で働く人たちにとっては、当人を確認するためには、どうしても戸籍上の名前を確認にしなくてはならないだろう。私の場合だって、税務署は曾野綾子の税金を私の戸籍上の名前で扱っている。
私は小説家という無頼な仕事をしているが、少なくとも一人の国民がどういう法律上の立場にいるかわかっている方がいいだろう、ということはよくわかる。国家権力の介入を嫌う人がいるが、そういう人でも多くは子供に、義務教育や予防注射は受けさせていたのである。それだけでなく、電気やガスの供給も受けたいし、銀行口座も開きたいし、不動産も持ちたいという思うかもしれない。末端のところでは津波情報なども欲しいだろう。未開の国家にはないそういった便宜を受けるには、その国の国民として登録しなければならないのは、当然だという気はする。人間は、ただでそうした利便性を恒常的に利用できるということはほとんどないのである。
納税や遺産相続となったら、さらに厳密さが要求される。姓は錨のようなもので、錨がないと錨地も決まらない漂流船になる。
日本国家はすなわち悪者だ、というような言い方をする人が時々いるが、その人は日本がそんな悪い国家だと思うなら、すぐにも日本国籍を放棄することだ、と私はいつも思う。そしてどこの国でもいい、自分が理想とする国家に帰属すればいい。日本はそれを少しも妨げないだろう。
もちろん、瑕瑾(かきん)のない組織はない。日本の役所にも、年金を扱いながらそれを公正に処理していなかった恥ずかしい部署があった。血液製剤を作る唯一の仕事を任されながら、規則通りに作らなかった会社もあった。
しかし多くの組織は、他の国家ほど堕落はしていない。世界には、信じられないほどひどいひどい汚職塗れの政治家や官吏ばかりという国もある。優秀な成績で、大学の卒業試験を受ける段になっても、指導教官に賄賂を贈らないと受験させてくれない、という訴えを聞いて胸が痛くなったこともある。日本はそんな国ではない。
日本国家はよくできたフェアーな組織だ。姓を名乗る、ということは、個人財産の相続の権利を得るということでもある。もちろんお金があれば、の話だが・・・。
最近一部の人の中には、資産を持つこと自体が悪のように言う人もいるが、たいていの小金持ちは、自分の労働によって働いて得たものだろう。私もその一人だ。
私は親から一円の資産も継承しなかった。全部自分で働いて得たものだ。そういう階層は、人よりたくさん働いて得たお金を、不当な利得のように言われる理由はない、と思うだろう。
昔私の夫は、当時ソニーの社長だった盛田昭夫氏の車に同乗させてもらったことがあった。或る会合で盛田氏と同席し、次に出る会合も同じだとわかると、盛田氏が『よかったら乗っていらっしゃい』と誘ってくださったらしかった。
ほんの10分くらい都内を移動する間、しかし夫は盛田氏と言葉を交わす暇はなかった。当時まだ珍しい自動車電話が鳴りづめだったのだという。
『電話は二台あった。受け専用と掛け専用みたいだ。移動の間も盛田氏は働きづめだ。僕にはとうていああいう生活はできない』
夫は昔から、自分は、怠け者だと言っていて、私はそれを承知で結婚したのである。だから自分は盛田さんのようには(金持ちにも)なれないよ、ということだ。
多く働いた者が多く受けて当たり前だろう。それが正義と公平というものだ。しかし最近ではそれを格差だと言って煽動する人もいる。それこそ自由と平等を破壊する思想だ。
ほんとうに日本には、結婚に関しても人権が侵されるほど自由がないのか。経済的格差のひどい国なのか。児童の貧困が目にあまるほどなのか。
悪く言うことは簡単で感情的賛同を得やすい。しかし真実の答えを自分でだすには勇気が要る。その闘いがむしろ人間の義務なのである」
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