⛩194)─1─対馬、壱岐。対馬神道は日本神道の原初。第33代推古天皇の仏法興隆の詔は、仏教国家への道標。〜No.397No.398/@             

海童と天童―対馬からみた日本の神々

海童と天童―対馬からみた日本の神々

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 日本の神は、多神教の「kami」であって一神教「ゴッド」ではない。
 Godは、多様な価値観を持つ相対的で寛容な「神」ではなく、厳しい単一の掟に基づく絶対的で不寛容な「天主」である。
 日本の神は、万能の神でもなく、天地創造の神でもなければ、唯一絶対神でもない。
 日本は、八百万の神々がヒッソリと息づく国である。
 その違いは、Gotは自然災害が少なく戦争と平和を繰り返す人間社会対応であり、kamiは自然災害多発地帯に生きる自然環境対応である。 
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 対馬は、紛れもなき日本の領土である。
 対馬を他国に盗られ日本領でなくなる時、日本民族の心・精神・信仰の大事な根元的基層が失われる。
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 司馬遼太郎古神道というのは、真水のようにすっきりとした平明である。
 教義などはなく、ただその一角を清らかにしておけば、すでにそこに神が在(おわ)す」(『この国のかたち 五』)
 「神社はいいでしょう。きちんと掃き清められていて、何にもない。エンプティー(空虚)だからこそ、神道はいいと思うね」
 「日本の原始神道は、ひとびとが霊威を感じる場所を浄めて畏れたのがはじまりであろう」(『壱岐対馬の道』)
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 2015年10月31日号 週刊現代「アースダイバー 神社編 中沢新一
 古層Ⅱ 倭人系 対馬神道(6)
 1 テンドウの意味 
 対馬神道で『テンドウ』と言えば、二重の意味がある。漢字で『天道』と書かれるときは『太陽神』をあらわし、『天童』と書かれるときは『太陽神の子供』という意味を持っている。しかし、漢字で書き分けないときには、どちらを指しているのか、はっきりしないことが多い。
 天道には、父親的な要素が含まれている。天の高いところを規則正しく運行していく太陽、女性である大地を熱して、生命を孕(はら)ませていく存在としての太陽。倭人弥生人は、そういう太陽に男性的で父親的な要素を見ていた。
 山は地上と天界の間に立って、二つの領域をつないでいる。そこで、神話の思考は、印象的な姿をした山と太陽神を結びつけて、考えていた。雷鳴轟かせながら、地上に雨を降らせる雷(いかずち)の神も、そこに結びついていく。雷は天空の大蛇でもある。その大蛇は地上にあっては、高い山を棲家として、天地の間に水を循環させる存在だ。
 そこから、天道様の聖所は山にある、という考えが自然に出てくる。対馬の各所にある天童山や天道茂(しげ)という禁忌の空間は、かならず太陽神への信仰を背景にしている。スンダランド系海洋民の思考の土台には、いつも太陽神が据えられているものだが、対馬にはその原型的な形が残っている。
 金太郎の母
 その太陽神は、山の奥で、大地の女神を孕ませる。山は太陽に近いから、太陽はまっさきに山の女神に目をつけるのであろう。こうして女神は胎内に太陽の光を宿し、月満ちて1人の童子を産むことになる。この童子は、太陽神の申し子として、地上に神聖な力をあらわす、威力ある存在として、海人の世界で深く信仰された。
 このことからも、倭人神道における太陽神への信仰は、三元論の構造を持つことがわかる。父親的な太陽神は、聖なる山を地上への足がかりとし、山の女神と結婚して、人間の世界に自分の申し子である神聖な童子を贈与する。太陽神自身は超越的な存在として、地上の世界には降りてこない。また女神は山の奥に潜んでいる。それだから、太陽神によって山の女神の生んだ童子だけが、現世にあらわれて、驚異的な神のわざをおこなうことになる。父・母・子からなる、こういう三神のセットが、倭人神道の駆動装置をなす。
 山奥に隠れて住む女神と、彼女の生んだスーパーボーイとをめぐる話は、日本列島では、数多くの伝説をとおして語り伝えてきた。例えば、相模足柄山の金太郎である。怪力の持ち主として世の賞賛を集めた、坂田金時という武士の母親は、山奥に住む鬼女との噂があった。彼女は山中で暮らし、金属を食べながら、金太郎(のちの金時)を育てた。
 この伝説の背景に、太陽神をめぐる三元論の思考が潜んでいることは、あきらかだる。この伝説を伝えた相模地方は、アズミ系倭人の重要な開発地の一つであった。倭人は金属を採掘する技術者でもあったから、金太郎の母が、山奥で金属を食べながら異常なる童子を育てた、という話が育ったのも、大いに納得ができる。話は表には出てこないが、金太郎の父親は太陽神であろうことは、ほぼまちがいがない。
 2 天道・天童・女房神
 対馬神道では、この太陽神を中心にする三元論が、くっきりと見える形で、表面にあらわれている。『おてんとうさま』である太陽神は、天道と天童に分かれて、あるいは一体になって、この島の神道に頻繁にあらわれる。
 このうち父親的で超越的な天道は、天道山を人の入り込むことを禁じられた聖所として祀られ、麓につくられた『多久頭魂(タクズタマ)』神社から遙拝された。タクズタマという聞きなれない名前は、対馬の大碩学であった永留久恵氏によると、卓越した力をもつ、超越的な存在などという意味をもっているらしい。つまりタクズタマとは太陽神の別名なのである。
 三位一体的な太陽神のもつ、父親的な面をあらわしている天道山は、しばしば『雄嶽(おだけ)』とも呼ばれる。これにたいして、その近くに女性的・母親的な面をあらわす『雌嶽(めだけ)』が、立ち並んでいる。そこに、女神を祀る聖所が設けられている。
 さらにこの母親神の近くに、童子神が祀られる。佐護にある雌嶽の麓にある神御魂(かみむすび)神社には、『女房神』の像が秘蔵されている。女神の体内に太陽の嬰児が光を放ちながら、安らっている像である。これにたいして、豆酘(つつ)の天道山たる龍良(たてら)山では、海側の中腹に童子神の聖所が置かれ、内陸側の山中の水源近くに、聖なる童子を生んだ女神の聖所が設けられている。
 重要なのは、三位一体のううちの父親的な面は、抽象的で存在が希薄な感じがするのにたいして、母親と童子の側面は、なかなか重たい存在感をもって表現されている点である。このことは、あとで詳しくお話しする、神功皇后伝説や天道法師伝説などの形成に、大きな影響を及ぼすことになる。
 対馬神道の普遍性
 対馬壱岐の神社でよく出会う、こうした母子神の像や伝説は、倭人神道のもつ人類普遍的な性格を、よくあらわしている。文化人類学者の石田英一郎氏はかって『桃太郎の母』という本を書いて、この問題に注意を促したことがある。日本人の伝えてきた伝説や神話には、母親に抱かれた童子のイメージが、よくあらわれてくるが、それは旧石器時代の信仰にまで遡る、人類に普遍的な思想に根ざしているのではないか、という問である。
 桃太郎や金太郎のような異常児をめぐる伝説の背景には、大地母神に抱かれた子供神をめぐる、とてつもなく古い思考が隠されている。そうしてその思考は、中近東で大発達をとげて、ついには幼子キリストを抱く聖母マリアへの、熱狂的な民衆の信仰を生んでいった。
 対馬神道の背景には、とてつもなく広大な世界が広がっている」
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 11月1日号 サンデー毎日五木寛之のボケない名言
 『近頃の日本人は、あまり泣かなくなったようだ』(柳田国男) 」
 これでいいのか、ニッポン人
 柳田国男は、日本の民俗学のゴッド・ファザーのような存在だった。南方熊楠(みなかたくまぐす)とも一時は交流したが、やがて袂をわかっことになる。
 柳田はシモネタ的なものが嫌いだったようだ。私が以前、遠野(とおの)を訪れたとき地元の婦人から聞いたところでは、冬、炉端を囲んでの老人たちの昔話には、やたらと猥褻な話が多く困惑したということだった。『遠野物語』では、その辺があまり影を落としていないような気がする。
 そんな柳田国男が、あるときふと、『どうも最近の日本人は、泣くということをしなくなったようだ』と感じる。そこから『涕泣史談(ていきゅうしだん)』という一篇が産みだされることとなった。『昔、日本人はよく泣く民族であった』と柳田は言う。泣くべきときにきちんと泣くことは、大事なマナーでもあった。
 たしかに神話伝説の頃から、日本の神々はよく泣いている。
 中世の物語のヒーローたちも、落涙涕泣するのが常だった。近松も、明治のベストセラーのヒロインたちも、じつによく泣いていた。 
 そんな日本人が、あまり泣かなくなったのは、はたして良いことであろうか、と柳田は疑問を投げかけているのだが、内心これでいいのか、と憂えている気配が行間に漂っていて、隠しようがない。持って回った言い方で、警世の一篇となっているのが、『涕泣史談』のおもしろさだ。
 戦後70年。笑うことばかり多く、泣くことすくなき時代とはなった」
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 538年 親日派王朝百済聖明王は、欽明天皇に天竺(インド)から伝わり中華世界に広まっている仏像と経綸を「献上」した。
 594年 第33代推古天皇は、「仏法興隆の詔(みことのり)」を発した。
 596年 蘇我馬子は、日本で最初の本格的寺院である飛鳥寺法興寺)を創建し、古墳に変わって蘇我氏の氏寺に定め、塔の下に古墳の副葬品である勾玉や武具を埋納した。
 祖先を祀り、一族の安泰と繁栄を祈り、一門の権勢を誇示する宗教施設が、古墳から寺院に引き継がれた。
 623年 崇仏派の聖徳太子が、587年に排仏派の物部守屋との戦いでの勝利を四天王に祈り勝利したお礼として四天王寺を建立した。
 仏教とは、本来、個人的な宗教として生きる事の苦しみ・煩悩から離脱して悟りを教えであったが、日本では個人や国家の現世利益を叶える教えに変容した。
 自然災害が多発する変化の激しい日本の宗教的風土は、病気平癒や五穀豊穣や祈願成就といった現世利益を叶える為に、ありとあらゆる自然物や自然現象などに霊魂の存在を認め、全ての霊魂を霊験を持った神々とした。
 多神教の宗教的風土は「寛容的」で、外国から渡来して仏を神の一つ(まれびと・まろうどの神)蕃神(あたしくにのかみ)として受け容れた。
 日本に渡来した仏教は「柔軟性」を持ち、宗教的風土に合わせて変化し敵対せず、在来の神々と棲み分けし共存した。
 日本の根本信仰は、個を排除する崇高な真理・教理による気高き理想を求める信仰ではなく、個が望む現世利益に応えて叶えようとする現実の「しなやか」な信仰であった。
 日本の個人的現世利益の追求は、他人を蹴落として一人勝ちとして全てを独占するという強者必勝・敗者必滅の弱肉強食ではなく、利他自愛の感謝にあった。
 つまり、多発する自然災害において、一人で一目散に逃げなければ死んでしまうが、被災地で生き延びる為には皆と助け合って苦難の時を乗り越えるしかない、という事である。
 在来の神々と渡来の諸仏とは、宗教的争いを起こさない為に棲み分けを行い、在来の神々は生きるこの世・此岸を、渡来の諸仏は死後のあの世・彼岸を受け持った。
 奈良時代から明治時代まで、在来の神々と渡来の諸仏は融合(神仏習合)して神宮寺が建立され、神前読経や仏前祝詞がごく自然に行われていた。
 例えれば、イスラム教のモスクでキリスト教のミサを執り行うといった本末転倒の行為であった。
 寛容、柔軟、しなやか、それが自然災害多発地帯である日本の宗教的風土であった。



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