⛩187)188)─1─神道の女帝と儒教の易姓革命。天皇制度は究極の家元制度。政治の天皇と祭祀の天皇。2017年。〜No.381No.382No.383No.384No.385/  @      

「学び」を「仕組み」に変える新・家元制度

「学び」を「仕組み」に変える新・家元制度

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 栄枯盛衰として古代エジプト諸王朝、古代ペルシャ諸王朝、古代ギリシャ都市国家古代ローマ帝国、歴代中華帝国、歴代朝鮮王朝など、大陸で高度な文明を築き富み栄えた数多くの王朝が滅んだのに、何故、古代日本のみが滅びずに今日まで存続できたのか。
 その違いは何処にあったのか。
 王朝交代や政治体制交代時に自然発生として繰り広げられた、旧王朝や旧政治体制に対する不寛容な大虐殺と容赦なき大略奪という生き地獄が「なぜ」日本で起きなかったのか。
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 大陸は、男性的な勝者の論理である。
 島国日本は、女性的な弱者の論理である。
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 日本の家系図は、掛け軸か巻物であり、家系は男系女系に関係なく一本の直系しか存在しない。
 西洋の家系図は、大判で分厚い書物であり、女性も含めた家族全員の名前が記され、傍系も、男系も、女系も、全てが一冊の系譜本に表されている。
 正統な家系図は、日本では一巻しかないのに比べて西洋では何冊も存在する。
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 2017年2月号 新潮45「女系図でたどる驚きの日本史 大塚ひかり
 9,女帝と易姓革命
 奈良時代、名字のない天皇という原則が崩れそうになったことがあった。
 それは藤原氏の娘・光明子が、天武天皇の『皇后』となった時であった。
 天皇になぜ名字がないのか
 女性天皇だの女系天皇だのについて考えていた時、『なぜ天皇には名字がないのだろう?』と気になったことがあった。それで調べたところ、天皇は姓を授ける側であって、名乗る側ではない、ということだった。
 『もし天皇が姓を名乗ったら、「誰から賜姓されたのか」「天皇より上位の存在があるのか」ということになってしまうからである』(奥富敬之『名字の歴史学』)
 といっても古代の姓は今の名字や姓とは違う。もともと古代の人たちは、地名や神にちなんだ名を名乗っていた。それが天皇家の祖先が王権を確立していく過程で、もともとあった名を氏(うじ)として追認したり、新たに命名することで、すべての氏名が天皇支配下に入ることになった。
 同じころ、臣(おみ)・連(むらじ)といった姓(かばね)ができて、蘇我『臣(おみ)』、大伴『連(むらじ)』などと氏について、朝廷での序列を表した。姓は身分を表す爵位のようなもの、梅原猛に言わせれば『一種のカースト制度』(『海人と天皇』)だったのだ。
 姓の歴史は複雑で、そもそも姓を与える天皇の王権が確立した時期に諸説あり、数ある豪族の一つだったであろう天皇家の祖先に姓はあったのか、あったとしたらいつごろなくなったのか等々については、調べても定かなことは分からなかったが、一つ面白い説があった。
 有史以来、常に日本がお手本にして、漢字や制度を取り入れてきた中国の革命はすべて易姓革命・・・つまりは姓の異なる一族が取って代わる・・・の繰り返しであった。ということは、革命を起こされぬためには『姓を持たなければいい』と、古代のいつかは分からぬものの、誰かが考えたのではないかというのだ(松本健一『「孟子」の革命思想と日本』)。
 なるほど、姓の違う一族に乗っ取られないためには、姓などなければいいわけだ(ちなみに名字は氏姓制度が崩壊したのち、平安時代に生まれた通称で、名字は北条や梶原でも、氏=本姓は平(たいら)といったぐあい)。
 が、天皇家の歴史を調べると、天皇も姓を持ちそうになった危険がある。
 それが729年8月、聖武天皇の夫人(ぶにん)だった藤原氏光明子が〝皇后(おほきさき)〟になった時だ。
 史上初の藤原氏天皇
 藤原氏が皇后になるなんて普通じゃない?と、平安時代藤原氏天皇家外戚として権勢を振るっていたことを知る人は思うかもかもしれない。
 普通じゃない。
 当時、天皇の妻は上から、皇后→妃→夫人→嬪(ひん)という序列があり、正妻である皇后は別格だった。皇后には皇位継承権があり、平安時代以前の6人8代の女性天皇(以下、女帝)のうち、推古・皇極(重祚して斉明)・持統といった最初の3人はすべて皇后出身だ。皇后は天皇になり得るわけで、だから当然のように皇族から選ばれていた。
 ソンな時代、臣下の藤原氏藤原光明子が皇后になったのである。しかも将来の即位を見据えての立后であったことは、前年9月、光明子腹の皇太子が死んでいることからも分かる。
 古代の天皇は30歳過ぎで即位することが多い中、あとで触れるように藤原氏腹の初の天皇となる聖武は24歳で即位した上、母の異母妹である光明子をめとり、生まれた皇子は生後わずか2ヶ月という異例の幼さで立太子した。藤原氏がいかに一族から天皇を出すべく焦っていたかがうかがえる。
 この皇太子が死んでしまったため、皇族や他の氏族出身の出したくない藤原氏は、臣下であるにもかかわらず、光明子立后を急いだのだ。
 長屋王が讒言(ざんげん)によって自殺させられたのはこうした動きに反発したためで、立后は、長屋王の死から半年後のことであった。
 そして立后に際しては、異例の長い勅(みことのり)が発せられた。その中で臣下が皇后になる根拠として、先例に挙げられたのは〝葛城曾豆比古(かづらきのそつひこ)〟の娘〝伊波乃比売命(いはのひめのみこと)〟の存在だ。彼女は葛城氏出身ながら仁徳天皇の〝皇后(おほきさき)〟となったので、光明子立后も〝今めづらかに新(あらた)しき政(まつりごと)には有らず〟というのだ(『続日本紀天平元年8月24日条)。
 実は仁徳の時代の葛城氏は皇族並みかそれ以上の家柄で(詳しくは次回)、実質的に光明子は『史上初の臣下出身の皇后』なのだが、」聖武天皇の時代から数えれば数百年も昔の例を持ち出さなくてはならぬほど、その立后には無理があった。
 しかも皇后出身の女帝は、皇太子を経ずに即位するのが常だ。逆に言えば皇太子が決まらぬ時は女帝が誕生しやすいわけで、もしも皇太子不在という事態になって光明子が即位すれば、藤原氏天皇になって、易姓革命が起きることになる。
 光明子立后はそんな革命の可能性を秘めていたわけだが、そもそも新興勢力の藤原氏が、はじめて天皇家に娘を入内させたのは、聖武の曾祖父天武の時に過ぎない。中大兄皇子(天智)と共に蘇我氏を倒し、藤原の姓を賜った中臣鎌足が、二人の娘を天武の後宮に送り込んだのが始まりだ。
 『天皇』の称号が生まれたのもこのころで、それまでは『大王(おおきみ)』と呼ばれていた(天智、天武といった名も天皇の死後につけられた中国風の諡{おくりな}で、多くは8世紀後半に決められた。以下、煩雑さを避けるため、天皇の名は基本的に諡で呼ぶ)。
 それが持統と手を組んだ藤原不比等鎌足の子)の代になると、持統の孫の文武を、即位は30以上が普通だった当時、15で即位させ、娘の宮子を入内させたあげく、宮子の生んだ首皇子(おびとのみこ)を即位させる。これが歴史上初の藤原氏腹となる聖武天皇である。
 この、聖武に至る道筋は、長い天皇の歴史の中でも異例づくし、『初●●』の連続だ。
 ……
 41代持統の次に即位した42代文武は草壁皇子の子である。天武の皇子たちがまだ生きている中での即位で、弓削皇子など反対勢力があったことは日本最古の漢詩集『懐風藻』(751)の葛野王の伝記からうかがええう。
 この時、持統は太上天皇上皇)となり、若い文武に代わって政務をとった。太上天皇はもともと退位した天皇の称号に過ぎなかったが、持統の強い意志によって、天皇と同等の地位を持つと『大宝令』『養老令』に定めたのである(新日本古典文学大系続日本紀』一 補注)。
 生前譲位はやはり女帝の皇極が孝徳に譲位した先例があるが、太上天皇による執政ははじめてで、『初院政』と言える。
 この文武が25歳で死んだあとに即位した43代元明は、持統の異母妹であり、文武の母であり、草壁皇子の妻であった。
 草壁は皇太子ではあったが、母持統が、有力な皇位継承者だった大津皇子を謀反の罪で殺すなどの苦労をしたにもかかわらず、即位の前に死んでしまう。その妻であった元明はつまり『皇后を経ずに即位した初の女帝』である。
 そして44代元正は独身のまま即位。『初の独身女帝』の誕生である。
 が・・・。
 彼女の父は草壁皇子であり、天皇ではない。けれど母は元明というわけで、明らかにこの母の娘であるため、即位した形である。
 これって『女系天皇』ではないのか?
 そして日本の天皇は、父から子へと継承される男系天皇であって、母から子へと継承される女系天皇は、存在しなかったとされているのではなかったか?
 女系天皇を許容する古代法
 実は当時の日本では、女系天皇を許容しているというか、その可能性を法で認めている。
 『養老令』(718編纂、757施行)の『継嗣令』冒頭には、
 〝凡そ皇(わう)の兄弟、皇子をば、皆親王と為(せ)よ〟
 とあり、本条の本注として、
 〝女帝(にょたい)の子も亦(また)同じ〟
 とある。〝皇〟は天皇のことで、〝兄弟皇子〟は姉妹皇女、〝親王〟は内親王も含む。
 『天皇の兄弟姉妹や皇子皇女は皆、親王内親王とせよ。女帝の子も同じく親王内親王とせよ』
 というのだ。〝女帝の子も亦同じ〟というのは、『養老律令』の注釈書『令集解』第17(9世紀後半)に引用された『古記』の解釈によれば、
 『父親が諸王(親王宣下のない皇子・皇孫)であっても、母親が女帝なら、生まれた子はそれでも親王になる』(〝謂父雖諸王猶為親王〟)
 という意味だ。
 『古記』は失われた『大宝律令』(701成立・令施行、702律施行)の注釈書で、散逸したものの、『令集解』に引用されることで『大宝律令』の復元の手がかりになっている。
 これによって、この条文と本注が701年の『大宝律令』にも存在していたことが分かる。
 古代法では、女帝に夫はもちろん、子がいることが前提となっている。
 しかも、父が〝諸王〟でも、母である女帝の血筋を重んじて、その子や兄弟姉妹は親王にせよと規定している。
 この令の存在に気づかされたのは、『天皇にはなぜ姓がないのか』を調べているうち出会った中村友一の『日本古代の氏姓制』がきっかけで、
 『本条はいわゆる「女帝論」や「皇統論」における重要な史料性を帯びている』
 『これらの議論において今後必ず本条が参照されるべき』
 という中村氏の意見に賛成だ。
 一方で、この法律が、時の権力者の思惑と無関係ではないことにも注意すべきだろう。
 『大宝律令』は『養老律令』と同じく、藤原不比等が編纂に関わっている。『大宝律令』の完成した701年といえば、史上初の藤原氏腹の天皇となる聖武が生まれた年だ。彼が即位にふさわしい年齢になるまで、『法律から変えていこう』と不比等が考えたのが、この継嗣令ではなかったか。
 親王になるということは、強い皇位継承権を持つということで、天皇の地位に近づくということだ。
 女帝の兄弟姉妹も子も、男帝の場合と同様、親王になるということは、女帝の兄弟姉妹や子も天皇の地位に近づくということだ。
 藤原氏に敵対する有力氏族出身の王族の即位を避けるため、天皇の皇后でなくても、不比等と手を組んだ持統女帝の妹であれば即位できるようにしよう、そうして即位した元明のあとは、その娘(元正)も即位できるようにして、藤原氏腹の皇子(聖武)の成長を待つ。
 古代法の女帝の規定は、一つにはその準備のために作られたはずだ。
 卑母を拝むな
 権勢に都合よく法や詔が発せられるのは、701年の『大宝律令』に始まったことではない。天武天皇の8年(679)正月7日には、
 『諸王はたとえ自分の母親であっても、王の名を称する者でなければ、拝礼してはいけない。諸臣もまた〝卑母〟に拝礼してはならない。正月に限らずこれに従え。もし違反する者があれば罰する』という詔が出された(『日本書紀』)。
 時は正月、父母にも年始の挨拶をする。そのタイミングを見計らっての命令で、母の身分が低ければ敬礼してはならぬ、正月に限らずふだんからそうせよという衝撃的な内容だ。その4ヶ月後、天武と皇后(持統)は皇子たちを集め、同腹・異腹にかかわらず天皇に逆らわぬという誓いを立たせた。この誓約が卑母拝礼の禁止の直後に行われた意味について、倉本一宏は、
 『この時点で成人していた天智・天武の皇子のうち、卑母から生まれた高市皇子忍壁皇子・施基皇子の4人』を『皇位継承から除外するというもの』(『持統女帝と皇位継承』)
 と指摘しているが、同感だ。
 初の藤原氏腹の天皇となる首皇子聖武)が皇太子となったのはそれから35年後の714年のことだ。この聖武の母藤原宮子が〝卑母〟の可能性がある……。
 宮子は不比等と賀茂比売とのあいだに生まれた娘で、加茂氏は神につながる名門だが、道成寺に伝わる『道成寺宮子姫伝記』(1821)によると、実に海人の子で不比等の養子となって入内したという(梅原猛『海人と天皇』)。
 そのまま鵜呑みにできないとはいえ、宮子が首皇子を生んだ時は〝是の年、夫人藤原氏に、皇子誕(あれま)す〟(『続日本紀大宝元年)と、あっさり書かれるに過ぎず、誕生日すら記されない。これは、光明子の生んだ皇子の誕生日が記され、生後33日目に立太子したのと対照的だ。
 しかも首皇子立太子の前年には、石川氏と紀氏という文武の2人の妻たちが〝嬪〟の称号を剥奪され、文武から遠ざけられている。石川氏は名族蘇我の流れをくみ、紀氏もまた蘇我氏と同じく、孝元天皇の子孫と伝えられる武内(建内)宿禰の末裔だ。そんな彼女らが排除されたのは、宮子の生んだ皇子が皇太子になる前に、宮子にまさる身分の女に皇子を生まれては困るからではないか。宮子は〝夫人〟で〝嬪〟の二人より序列が上とはいえ、『続日本紀』の697年の記事では、二人を〝夫人〟の上の〝妃〟としている(文武天皇元年8月20日条)。これは〝嬪〟の誤記とも、そもそも当時はまだ妃・夫人・嬪などの区別は存在しなかったなど諸説あるものの、二人の身分が宮子より下なら、わざわざ追放する必要はない。
 宮子は聖武出産後、〝幽憂に沈み〟、久しく通常の生活ができなかったため、聖武に一度も会っていなかったのが、僧玄纊の働きで実に36年ぶりに再会したことからも見ても(『続日本紀天平9年12月27日条)、彼女が天皇家に適応できない何らかの事情があったことがうかがる。
 女性皇太子の誕生
 『史上初の藤原氏腹の天皇』で、『史上初に近い臣下出身の皇后』光明子は、その後、皇子を生まなかった。
 とはいえ、『臣下出身の初女帝』の誕生にならなかったのは、718年に生まれた安倍内親王が無事成長していたからで、738年、38歳となった光明皇后にこれ以上の出産は望めないということになったのだろう、安倍内親王が皇太子となる。
 『史上初にして唯一の女性皇太子』の誕生だ。
 749年、彼女は即位。46代孝謙天皇である。ちなみに聖武にはほかに、県犬養宿禰広刀自が生んだ安積親王がいたが、744年、17歳で死んでおり、藤原氏に毒殺されたという説もある。
 この孝謙天皇は、重祚称徳天皇)したあと、寵愛する弓削道鏡を『史上初にして唯一の臣下出身の法王(法皇)』にしたことで名高い。
 そればかりか道鏡天皇にさえしようとした。正真正銘の易姓革命を起こそうとしたのだ。
 その試みは失敗に終わったものの、臣下を即位させようという彼女の発想は、今までの流れ、とりわけ母光明子が、即位の可能性を見据え、臣下の身で皇后になったことを思えば、決して突飛なものではないことが分かる」
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 2017年3月16日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 『古代編』
 10,『聖徳太子』はいなかった?
 西暦589年、中国では北朝から興った隋が南朝を打ち破り、全土を統一しました。漢が滅んでから370年近い歳月が過ぎていました。
 気候は安定して、食料がたくさん生産できるようになったことで、大勢の官僚や兵士を養う大帝国の維持が可能になったのです。
 この天下統一の余波は周辺諸国に広がります。日本は120年ぶりに使節を中国に派遣しました。
 その頃日本では、蘇我稲目の息子・蘇我馬子が587年にライバルの物部氏を滅ぼして権勢を確立。その後女帝・推古天皇(在位:593〜628)を立てました。
 ……
 推古天皇蘇我馬子
 ところでこの当時には譲位の習慣がなく、基本的に大王の位は終身でした。先の大王が亡くなると、次の大王は群臣たちが合議により推挙して決めていたのです。
 仏教が伝来した欽明天皇の後、その子どもたちである4人の天皇(敏達、用明、崇峻、推古)が続きます。用明天皇推古天皇も、その間の蘇我馬子の手の者に殺された崇峻天皇も、お母さんは蘇我馬子のお嬢さんたちでした。
 事実上、天皇家は『祭祀とY染色体(男親)』を、蘇我氏は『政治とX染色体(女親)』を受けもつという役割分担の時代だったと言えます。
 崇峻天皇は大伴氏からキサキを娶ったり、蘇我氏を中心とする豪族の意向に沿わなかったために、馬子に暗殺されたと言われています。
 『東アジア最初の女帝』とされる推古天皇は、甥の聖徳太子を摂政(皇太子)にして593年に即位し、政治については、叔父の蘇我馬子聖徳太子の二人に任せた、と言われてきました。
 おもしろいことに、大王の前で順位を付けて、臣下のえらさを定めた冠位12階からは、王族と蘇我氏は除かれています。王族が除かれることはわかりますが、蘇我氏まで除かれている。蘇我氏はいってみれば、この頃準王族扱いだったのです。
 のちに『日本書紀』を記す時、蘇我氏直系を滅ぼし仏教で国を治めようと考えた人々は、自らの正統性を示すために蘇我氏を悪役に仕立て、代わりに仏教を取り入れて律令国家を目指した人を必要としました。
 そこで子孫が絶えた厩戸王を聖人・聖徳太子にして、蘇我馬子の功績を移したのではないか・・・と見方もできるのです。
 隋の統一の衝撃
   *   
 さて推古天皇の後継者選びでは、敏達天皇の孫・田村王(非蘇我系)と厩戸王の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)とで群臣たちが割れた。
 馬子の死後、その権力を継いだ蘇我蝦夷は、田村王を推しました。
 蝦夷にしてみれば、蘇我氏の血が入っていなくても政治は自分がやっているのだからいいだろう、ということだった思います。
 629年に田村王は即位して、舒明天皇となります。
 欽明天皇百済大寺という初の官立寺院を造っています。それまでは法隆寺飛鳥寺も王族や豪族の建てたプライベートな寺だったんですね。この寺は、のちの大官大寺、大安寺と移転して奈良時代の大寺の一つになります。
 この官立寺院の建立も、中国や朝鮮に対し『わしらも負けてへんで』と背伸びしたものだと思います。
 そして、641年、舒明天皇が亡くなると、舒明天皇との間に中大兄皇子大海人皇子らを産んだ皇后が、皇極天皇として立てられます。
 宮廷を揺るがしたクーデターの起きる、4年前のことでした」
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 日本神道は、今生きている自分は祖先が命を繫いでくれたお陰であると感謝して、日本神道に従って祖先を氏神として祀った。
 反宗教無神論は、祖先を大事にする祖先神・氏神の人神信仰を完全否定する。
 反天皇反日的日本人は、日本神道の祭祀王である日本天皇を廃絶しようとしている。
 反天皇反日的日本人も反宗教無神論も、個の自分のみが価値があるのであって、会った事も見た事もない祖先など自分にとっては無関係な存在であるとして切り捨てている。
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 天皇家・皇室・皇族とは、天照大神を祀る伊勢神宮神武天皇を祀る橿原神宮(かしはらじんぐう)・明治天皇を祀る明治神宮と血縁を持つ家族・一族である。
 皇祖皇宗を祖先とする直系の子孫のみが、その血筋を正統として天皇に即位できる。
 日本天皇が一族の家長とするならば、皇祖皇宗を祖先とする血筋のみを絶対条件としてその直系子孫のみが即位できる。
 血筋を絶対条件とするならば、血の繋がらない赤の他人が日本天皇にはなれない。
 もし、天皇制度が、君主制・僭主制・封建制独裁制・民主制・共産主義制などのような普遍的な制度であれば特定の家族・一族の血筋には関係なく、血の繋がらない赤の他人や他国人・異民族・異人種出身者でも天皇に即位できる。
 天皇制度が、皇祖皇宗に繋がる血筋に無関係のない普遍的統治制度であれば、日本天皇に即位する者は皇室・皇族ではなく、日本民族日本人でなくてもかまわない。
 現イギリス王家は、イギリス人ではなくドイツ系でり、エリザベス女王の配偶者・エジンバラ公ギリシャ人である。
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 自国の君主・元首が他国出身者である例は、古今東西、無数に、山とある。
 人種や民族に関係なく、他国の者が他国の皇帝・国王に即位して国を統治し国民を支配する事が、開けた帝室・王家の真の意味である。
 例えるなら、「日本天皇に中国人、朝鮮人ユダヤ人、アメリカ人、アラブ人、アフリカ人が即位する」、と言う事である。
 雑婚を繰り返してきた混血の雑種民族の日本民族であれば、それもありかもしれない。
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 そして、家臣であった者が叛乱を起こし主君であった帝室・王家を乗っ取り、主君であった国王を皇帝を追放若しくは惨殺して帝位や王位に就いて新たな帝室・王家を創設する建国物語も尽きない。
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 中国を支配した皇帝の大半が、漢族ではなく異民族であった。
 漢族の皇帝は、大きな帝国では秦帝国漢帝国(前・後)、宋帝国明帝国であとは弱小王朝であった。
 各王朝は、侵略してきた敵による大虐殺の中で消滅した。
 即位した中華皇帝は、自分の正統性を証明する為に前皇帝の一族と忠誠を誓う家臣の一族全てを一人残らず虐殺し根絶やしにした。
 古代ローマ皇帝は、オクタウィアヌスは初代皇帝に即位するさい養子とはいえカエサルの血筋を正統とした。
 オクタウィアヌスの直系が絶えるや傍系に、傍系が絶えるや血筋に関係のないローマ人が、適任のローマ人がいなくなればローマ市民権を持つ最適な異邦人が即位し、そして異民族の侵略を受け侵入を受け、ローマ帝国は大虐殺の中で滅亡した。
 ローマ皇帝位は、フランク王国フランク族に、そして神聖ローマ帝国のドイツ人に受け継がれ、オーストラリア帝国ハプスブルク家の正統性の根拠となり、一時スペイン帝国を併呑した。
 だが、オーストラリア帝国が崩壊するやローマ皇帝位も消滅した。
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 もし乱暴に世界基準を天皇制度に当てはめるなら、政治的日本天皇には誰もが即位できる。
 ただし、血筋を絶対条件とする家族・一族制度においては、皇祖皇宗の血を引く直系子孫のみしか家長である宗教的天皇にはなれない。
 天皇制度とは、血筋を保ち祖先から子孫へと継ぐ究極の家元制度である。
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 政治的な天皇制度下の天皇が何処の馬の骨とも分からない人間が即位してもかまわないが、家族・一族的な天皇は血筋を根拠とした日本民族日本人のみが即位するべきである。
 もし、皇祖皇宗を祖先としない血筋が異なる人間が即位すれば、それがたとえ日本人であってもそれは偽天皇となる。
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 古代制度である天皇制度が現代まで滅びず受け継がれてきたのは、皇祖皇宗を祖先とする血筋を正統とした天皇家・皇室・皇族が天皇位を家族・一族で独占し、血の繋がらない赤の他人を偽天皇として即位させなかったからである。
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 天皇制度は、政治統制の制度であると同時に家族・一族の宗教的な制度でもある。
 家族・一族の宗教的な制度は、同じ血筋が絶対条件である。
 日本民族日本人のローカル的民族宗教である、祖先を氏神として祀る人神信仰の原形。
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 天皇位が、日本神話・古事記日本書紀で皇室の祖先とされる天照大神を祀る伊勢神宮神武天皇を祀る橿原神宮と直接に繋がる血族の家長とするなら、その血筋を絶対条件とした直系であらねばならない。
 けっして血の繋がらない赤の他人が、祖先神・氏神を祀る血族の家長になるべきではない。
 直系子孫という血筋を絶対条件にすれば、その時代、その時、その場所で血が繋がる長老が皇族会議(皇室会議とは別物)に集まり、一族から最適な者を選べばいい。
 その者が、男系であれ、女系であれ、祖先の血と命を受け継いでいればいい事である。
 祖先の血と命を絶やさない為の直系であれば、男系も女系も関係ない。
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 皇統譜は、血筋を絶対条件として伊勢神宮天照大神橿原神宮神武天皇に繋がっている。
 祖先神としては、皇室の天照大神神武天皇天皇神・天皇霊は、その他大勢の日本民族日本人の祖先神・氏神とかわりはしないが神格が違う。
 祖先神・氏神を人神信仰として正当性を持たせる為には、一段上にある神格を持った高位な神が承認する必要がある。
 各々の一族が祀る祖先神・氏神を正式な神と承認するのが、人神信仰の宗家・家元である皇室の神格である。
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 天皇が神聖不可侵の存在とされたのは、全ての祖先神・氏神の正当性を承認する天照大神神武天皇に繋がる皇室の神格ゆえにである。
 祖先を祖先神・氏神を正当な神として神社に祀れるのは、日本神話・古事記日本書紀を根拠とした高位の神格を持つ皇室の正統性にある。
 それが、皇室祭祀・宮中祭祀である。
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 天皇家・皇室に姓名がないのは、臣下に姓名与え承認するのが天皇の役目であった。
 天皇家・皇室が最高位の家系であり、その上の上位者がいない為に、天皇家・皇室の姓名を定める事ができなかった。
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 朝鮮は、明時代の中華皇帝から下賜された国名であり民族名であった。
 中国国内と近隣の国名・民族名・部族名の大半は、中華皇帝が定めた名称である。
 中華皇帝は、自称する姓を持ち、その姓を正当化して易姓革命を行い、大虐殺の大流血の末に王朝を開き帝国を建国した。
 ゆえに、日本天皇と中華皇帝・朝鮮国王とは違うのである。
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 天照大神にしろ神武天皇にしろ日本の神として祀られても、グローバルな普遍宗教の神とは違って、世界の中心から遠く放れた大陸の縁にあるにある少数民族のローカルな神にすぎなかった。
 絶対真理の絶対神でもなければ、天地を創造した万能の神でもない。
 異教の神や悪や邪をなす悪魔を滅ぼし、絶体正義を打ち立てる強者の神でもない。
 信仰する者は助け信仰しない者は容赦なく切り捨てる、厳格で不寛容な神でもない。
 絶対真理を教義とし、絶対的な戒律や律法を定めて、信仰を求める絶対善の神でもなかった。
 神の御名によって、運命を変え、奇跡を起こし、恩寵や恩恵を与える唯一の全知全能の神でもない。
 日本の神々は、神の霊力では自然災害の一つも止められず、奇跡を起こして自然災害から一人も助けることのできない、無力な神であった。
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 天照大神は、天岩戸に隠れてしまう初心な女性神である。
 神武天皇は、寿命が尽きて死んだ初代天皇で、死んで神として祀られた。
 現人神とされた天皇は、永遠の命を持たない限られて年数を生きる死ぬ神である。


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近現代における茶の湯家元の研究

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