🏯18)19)─1─隠居は、武士では過酷で、百姓・町人では自由で気楽であった。~No.34No.35No.36No.37 

江戸の定年後~“ご隠居”に学ぶ現代人の知恵~ (光文社知恵の森文庫)

江戸の定年後~“ご隠居”に学ぶ現代人の知恵~ (光文社知恵の森文庫)

  • 作者:中江 克己
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2017/10/27
  • メディア: Kindle
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の武士階級と西洋の騎士階級とは違う。
 武士・サムライは、日本にいたが中国・韓国にはいなかった。
 武士・サムライは、日本だけである。
 武士・サムライには誰でもなれて、百姓・町人でもなれたし、日本人だけではなくイギリス人でもイタリア人でもなれた。
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 2106年8月20日 講談社BOOK倶楽部「【世界最強】老衰ご褒美あり。江戸は超高齢のエコ社会だった!
 『お江戸日本は世界最高のワンダーランド』(著:増田悦佐
 江戸時代を初期、中期、後期と分けたとき、誰を代表人物とするかによって時代のイメージが異なるのではないでしょうか。主だった人を対比してあげてみると……、
 初期:徳川家康徳川家光徳川綱吉柳沢吉保vs.井原西鶴松尾芭蕉近松門左衛門菱川師宣
 中期:徳川吉宗荻生徂徠田沼意次松平定信vs.石田梅岩大田南畝、平賀源内、朱楽菅江、宿屋飯盛
 後期:徳川家斉徳川家慶水野忠邦井伊直弼vs.恋川春町山東京伝十返舎一九式亭三馬為永春水上田秋成曲亭馬琴良寛与謝蕪村
 幕末を除けば、このような人たちがあげられます。この対比で後者のほうにあたる下流武士(!)と町人(武士以外をひとまずくくって称するとこうなります)の活躍が「お江戸日本」を「世界最高のワンダーランド」にしたのです。
 前者では田沼意次だけは開明派として評価が良くなりましたが、残りの前者の人たちは武士=支配階級を疑うことなく、幕府草創期のやり方を縮小再生して幕府の困窮、ひいては悪政をもたらしたように思います。柳沢吉保徳川家斉は奢侈で有名ですが……あとは質素倹約をモットーとした堅い頭の持ち主で、しかも強権派です。
 つまりvs.の後者の人たちがワンダーランドの創造者で、そのワンダーランドを楽しんで(というと少し語弊があるかもしれませんが)生きたのが町人たちでした。もっとも、創造者といっても、政道批判が過ぎると獄門にかけられたり、遠島、死刑という目に合った人も少なからずいます。それでも彼らがいなかったら江戸は世界に名だたる大都市であり平和(一応)都市であり文化都市にはならなかったと思います。
 この本は江戸文化論というだけでなく江戸暮らしのドキュメントを読んでいるようです。町民の生活のいきいきとしたさま、彼らの心意気や度胸だけでなく食生活(出汁について)や、はては江戸のコンビニ事情までも詳説、歯切れのいい文章でぐいぐい迫っていきます。
 もちろん支配階級の武士(大名)たちがどんな暮らしぶりだったのか、その気苦労までも追っている筆致は痛快至極で、ここもまた読み出したらやめられないおもしろさにあふれています。
 江戸が効率の良い循環都市でエコ社会だということはよくきかれますが、同時に超高齢化社会の最先端の都市でもありました。なにしろ「生涯現役」社会だったのです。
 ──江戸時代の武士に定年退職はなかった。とくに将軍にお目見えのできる身分である旗本にしても、将軍へのお目見えはできない御家人(ごけにん)にしても、将軍家の家臣として奉公している武士たちの勤続は、青天井だった。──
 家督を譲って隠居ができたのはごく一部だったのです。
 ──早期引退は、そこまでの出世が狙える身分と(少なくとも自己評価では)能力を兼ねそなえたエリートたちのあいだでだけ通用する話だ。江戸時代の武士が早期引退したケースの大部分は、単純にお家の長としての責任を跡取りに譲って、まさに裃(かみしも)を着けずに自由に暮らしたいという欲求から発したことだったのだ。──
 家を守ろうとする限り(お家大事)、隠居するにも資格(!?)や身分があったのです。畢竟(ひっきょう)江戸の武士の大半は楽隠居など夢のまた夢、ずっと奉公し続けることになっていたのです。
 長い奉公の先にはこのようなこともあったそうです。
 ──かなりおおくの藩が、八〇歳や九〇歳を超えた存命者には、武士、町人、農民を問わず「老衰ご褒美」という名目で表彰し、扶持米(ふちまい)を支給する制度を導入していた。水戸藩では、この支給年齢を七〇歳以上にしたら、あまりにも該当者が多くて藩財政に対する負担が重すぎ、八〇歳以上に変更せざるをえなかったらしい。──
この高齢者社会は日本人におおきな贈り物を残しています。それが「豆腐」であり「和出汁」です。
 ──ようするに歳をとって歯が悪くなって、ものをきちんと噛めない人の人口が激増したのだ。(略)そして、歯が弱い人間にも食べやすい食材を使った料理が増えると、高齢で歯が弱くなっても食べものの栄養分を摂取しやすくなり、ますます長命の人が増える。この好循環が続いたことで、和食の世界にもうひとつ非常に大きな変革がもたらされた。それは、「飢餓感を紛らわすためではない満腹感」を演出する調理法の発達だ。──
それが出汁(だし)というものでした。
 ──健康を保ったまま高齢化する人たちが増えていた。その人たちは、新陳代謝のペースが緩慢になり、もう若いころほどの量を食べる必要がなくなっていた。そこで、少量でも満足感の高い食事をするために、和食の出汁が開発されたのだろう。──
 生活に根ざした“知恵”が息づいていた江戸時代というものでした。この生活の知恵は太平がもたらしたものだったのでしょう。身分を固定した江戸時代、それがある種の町人には「支配階級にもぐりこむことが採算の合わない生き方だった」と感じさせたのです。
 ──江戸時代の庶民の大半は、「人を説得する言葉の技術を身につけて支配階級にもぐりこんだところで、今よりたいしていい生活ができるわけではない。一方、気苦労のほうは、今の何倍、何十倍になるだろう」というきわめて経済合理性の高い判断を下した。──
 比喩めいてしまいますが自らの足で日本図を完成させた伊能忠敬の生き方は、江戸町人の優れた生き方の典型例(理想)だったのかもしれません。この本や、小説『四千万歩の男』(井上ひさし著)を読むとそう感じてしまいます。実家の商家を引退した“定年後”の生き方としても伊能忠敬には今の私たちの参考(手本)になることが多いのではないでしょうか。
 豊かさを持った江戸の“ワンダーランド”の精神は今もどこかに生きているのでしょうか。それを考えなおすことも、この本が教えてくれたことでした。
 ──「老衰ご褒美」という表現、初めて見たときには奇異な感じがしたが、だんだん味わいのある言葉遣いだと思えてきた。まず、現在国民の祝日のひとつになっている「敬老の日」のように「老人を敬(うやま)いなさい」という押しつけがましさがない。そして、「老いれば衰えるのは当たり前であって、衰えが来るまで持ちこたえたことを褒めて野郎じゃないか」というすなおさが感じられる。──
 “ワンダーランド”の精神はこのようなところにも生きていたのだと思います。エコな循環都市であった江戸は生活文化を手放さず成熟していた都市でもありました。そこには私たちの未来への大きなヒントがあるように思います。
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隠居(いんきょ)は、戸主が家督を他の者に譲ること。または家督に限らず、それまであった立場などを他人に譲って、自らは悠々自適の生活を送ることなどを指す。もしくは、第一線から退くことなど。隠退(いんたい)とも。
 日本の民法上の制度としての隠居は、戸主が生前に家督を相続人へ譲ることを指し、日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律(昭和22年法律第74号)により、日本国憲法の施行(1947年5月3日)と同時に、戸主制の廃止と共に隠居の制度は廃止された。

 歴史上の隠居の実例
 隠居したからと言って、それで悠々自適の生活を送るとは限らない。男性の天皇で譲位した最初の例は、奈良時代聖武天皇であるが、政治の実権を手放した訳ではなく、当時の国家プロジェクトである東大寺建立を主導している。むしろ、東大寺建立に専念する目的があったとする説もある。
 平安時代白河天皇は、皇子の堀河天皇皇位を譲って上皇となったが、1129年に崩御するまでは政治の実権を掌握していた。これがいわゆる院政の最初であるが、天皇上皇、または法皇となることも、一種の隠居と言える。ただしこれはあくまで律令上の公職からの隠退であり、治天の君として皇室の家督の地位はなお保持し、政治の実権を握っていた。むしろ律令の束縛から脱した治天の君は、従来の天皇をしのぐ強い権力を持った専制君主であった。在世中に治天の君の地位をも退いた例は後鳥羽上皇後宇多上皇などごく僅かにとどまる。
鎌倉幕府では、摂家将軍藤原頼経が、将軍職からの離職を迫られて嗣子の頼嗣に将軍職を譲った。これは鎌倉将軍の権力を掣肘する目的があったものの、なお大殿と称され、将軍の後見人として振舞った。また北条時頼以降は、執権から得宗へと実権が移った。これは本当の意味での隠居とは異なるが、執権の地位を退いた者が、得宗としてなお実権を握る例が多かった。
 室町幕府では、第3代将軍・足利義満が1394年、まだ9歳の嫡男・足利義持に将軍職を譲って出家し、居所も北山御所に移している。しかし義満も1408年に51歳で死去するまでは、政治の実権を握り続けた。このように、将軍職を退いて大御所となることも、一種の隠居と言える。この後も義持が義量に、義政が義尚に将軍職を譲りながらも実権を保持したが、これらは将軍後継を確定させる意図によるものである。足利義材(義稙)は家臣の細川政元により将軍職を追われて実権のない隠居となり、以降政治の実権のない守護大名およびその家臣の傀儡という立場に等しい将軍が続き、最終的には1573年、織田信長によって室町幕府は滅ぼされた。
 その信長であるが、順調に天下布武を進めていた1576年、嫡男の織田信忠家督を譲って隠居し、居城も岐阜城から安土城に移している。しかし新築の安土城は、隠居城というより政務の中心地であった。つまり信忠は、尾張・美濃の国主としての家督を譲られたのであり、信長は天下人として単なる2ヶ国の国主の信忠より上位にあった。この隠居は、信長が存命中から後継者の立場を明確にする目的との説がある。なお、信長は隠居後、「上様」という呼称を用いている。また信忠は1582年の甲州征伐を主導し、その手柄を賞賛した信長は「天下の儀も御与奪」、つまり天下人としての地位をも信忠に譲り渡す意志を表明している。直後に本能寺の変が起きたため、天下人としての信長の隠居は実現せずに終わっている。
 そのほかの戦国大名では、後北条氏の歴代当主のほとんどが存命中から隠居して、家督を次代に譲って、次代の体制作りに務めている。
 江戸幕府を開いた徳川家康も1605年、つまり将軍職に就任してからわずか2年で、三男の徳川秀忠に将軍職を譲って居城を駿府城に移している。ただし、これは将軍職が以後は徳川氏によって世襲されるものであるということを諸大名や朝廷に知らしめるために行われただけであり、家康も信長と同じく、死ぬまで政治の実権は握り続けていた。現に、家康は存命中に将軍職は譲ったが、「源氏長者」の立場は決して秀忠に譲らなかった。また江戸城の幕府の機構が三河の一大名としての徳川家の機構を拡大したものであり、三河以来の譜代大名で固めていたのに対し、駿府城の家康の周囲は本多正純に加え、僧侶の金地院崇伝、外国人の三浦按針、商人の茶屋四郎次郎などの、非武士層・譜代大名以外を含む、天下を治めるためのシンクタンクで固めていた。
 その後、秀忠や徳川吉宗徳川家斉なども、将軍職を息子に譲って隠退し、大御所として政治の実権を握り続けている。しかしながら、江戸城とは別に隠居城をもうけ、幕府とは別に多くの人材を周囲に集めるような例は、家康のみであった。
 江戸時代の藩主なども隠居した例は多い。しかし藩主においては、隠居して後も実権を握っていた例は少なく、また隠居したのも病気を理由にという例が少なくない。また、藩主の不行跡などで家臣団からの反発を受けて、強制的に後継者に家督を譲って隠居する(強制隠居、主君押込)例もある。
 江戸時代後期以降には、隠居した元藩主が実権を保持または回復し、実質的な藩主として振舞った例が多くなり、場合によっては藩主廃立を行った例も存在する。代表的な人物として米沢藩の上杉治憲(鷹山)や土佐藩山内豊信(容堂)、盛岡藩の南部利済がいる。
また、諸藩家臣においては隠居後に家老まで昇進したものもおり、飫肥藩の平部?南や米沢藩の莅戸善政がこれにあたる。

 外国の隠居
 「院政#院政の特殊性」も参照
 外国の王国・帝国に目を向けてみると、隠居の例は少ない。中国歴代の皇帝などでは、南宋の孝宗や清の乾隆帝などが、皇位を後継者に譲って隠退し、上皇となっているが、ほとんどの歴代皇帝は崩御するまで皇帝の位にあった。ヨーロッパではさらに例が少ないが、例えば神聖ローマ皇帝スペイン王を兼ねたカール5世(カルロス1世)は政務への疲労と病気のため退位し、残りの人生を修道院で送っている。
 このほかの欧米の国王や皇帝、アジア地域(ベトナムを例外とする)の君主の多くも、自身が死去するか強制的に廃位されるまで王位・皇位についており、存命中に隠退した例は少ない。ただし、オランダやルクセンブルクでは19世紀の建国以来、君主の退位が半ば常態化している。また21世紀に入ると、ヨーロッパだけでなくカンボジアブータンでも王位の生前譲位が行われている。
 国王や皇帝が時の権力者によって廃されたり、その君主の身体的理由で政務を執れないということから、政治の実権を別の人物に譲っているという例は、歴史上も珍しくない。
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 2008年6月6日 日経XTECH「材料で勝つ
 「江戸時代」に学ぶリタイア後の生き方
 藤堂 安人=主任編集委員
 前々回のコラム「『江戸時代』に学ぶと言うこと」の続編として,江戸時代に学ぶもう一つの意味を考えてみたい。今回のテーマは,「江戸時代の人々はリタイア後をどう生きていたか」だ。現代の製造業で働く方々が「リタイア後」について考えるのに何らかの参考になるのではないか,と思ったからである。
 きっかけは,ある読者の方に,経済学者の野口悠紀雄氏が書いた「江戸時代のリタイア後人生」というコラムを紹介していただいたことだ。江戸時代に生きた方々の寿命やライフサイクルを考察することで「江戸時代」に対するまた違った見え方がしてくるのではないか,とコメント(閲覧には『Tech-On!Annex』の登録が必要です)を頂いた。
 確かに,「江戸時代のリタイア後人生」という野口氏のコラムには,参考になる視点が多く提示されていると思った。まず野口氏は,江戸時代と現代に共通する点として,人口が減少し経済成長が鈍化する成熟化社会であることを挙げる。「江戸時代と現代とでは、技術水準も生活水準も国際環境も、まったく異なる。だから、単純な比較ができないことは明らかだ。しかし、成熟した社会がどのようなものであるかを考えるにあたって、江戸時代後半の社会は貴重なヒントを与えてくれるだろう」とする。
 「世界最初の大衆リタイア後社会」
 その「貴重なヒント」として筆者が興味深かったのが,江戸時代の中でも特に後期は,「世界最初の大衆リタイア後社会」であったという指摘だ。農村部の女性など,ほぼ一生を子育てに費やして「リタイア」どころではなかった者も多かったと思われるのだが,都市のゆとりのある商人や武士階級の中では40歳半ばごろにはリタイアして「隠居」する者もかなりいたようである。
 江戸時代後期には,成人した者の平均死亡年齢は男61歳,女60歳だったというから,例えば45歳でリタイアすると死ぬまでに15年間程度の期間はあったということになる。それに対して現代では,25歳になった者の平均死亡年齢は,男78歳,女84.4歳なので,60歳でリタイアしたとすると約20年間となる。リタイアしてから死ぬまでに,江戸時代では15年間,現代では20年間---。つまり江戸時代では,平均寿命は短かかったものの,早くリタイアすることによって,結構長いリタイア後の人生を送っていたことになる。しかも,若いうちにリタイアするから健康で元気なリタイア生活だったと予想される。
 もちろん江戸時代に余裕のある隠居生活を送れたのは一部の層で,多くは食うや食わずの生活であったと思われるが,野口氏によると,欧州に比べれば,けっして金銭的に裕福な者だけが隠居をしていたわけではなかった。「一部の貴族や大富豪だけがリタイア後人生を楽しめたヨーロッパ社会とは、だいぶ違う社会だったことになる。多くの人々が隠居生活を楽しんだという意味で、日本は世界で最初に大衆リタイア後社会を実現した国だったといえるだろう」と同氏は書いている。
 リタイア後を楽しんだのは農民・商人
 実はこのコラム「江戸時代のリタイア後人生」は,『「超」リタイア術』(野口悠紀雄著,新潮文庫)という本の一部を抜粋したものだ。残りの部分に興味がわいたので,さっそく購入して読んでみた。内容としては「リタイア」の話というよりは年金制度についての記述が中心であったが,「江戸時代」についての考察の続きで筆者が面白いと思ったのは,農民や商人の階級と武士階級を対比させている部分である。リタイア後に充実した人生を送っていたのは武士階級ではなく,農民や商人だったというのである。
 野口氏はこのような違いが生じた原因は,「農民や商人は『自営業』で自立していたのに対して,武士は『藩』という巨大組織の中で相互依存的に生きる『組織人』だった点ある」(本書p.75)と見る。
 そして,野口氏が「江戸時代の武士は隠居生活を楽しんでいなかった」という見方をする一つの例として示したのが,藤沢周平の小説『三屋清左衛門残日録』であった。この小説は,三屋清左衛門というある東北の小藩で順調に出世して藩の要職を勤めた後に円満に隠居した老人が自らの隠居生活を日記風に書き記すという話だ。
 実は筆者は,藤沢周平の小説が好きで,主要作品は繰り返し読んでいる。さっそく,本棚で埃をかぶっていた『三屋清左衛門残日録』(文春文庫)を引っ張り出して,再読してみた。読み返してみて気付いたのだが,三屋清左衛門が隠居した歳が52歳なのであった。筆者はそれまで清左衛門は60歳過ぎの老人だと漠然と思っていた。
 52歳といえば,筆者と同じ年齢ではないか。清左衛門と同じ歳になったからだろうか。40歳代のときに読んだときよりは清左衛門の境遇や心情が理解できるような気がした。清左衛門は,49歳のときに妻が死んだこともあって勤めに疲れ果てて隠居の決心をした。隠居するまでは悠々自適の晩年を夢想していたのだが,その3年後に実際に隠居したときに襲ってきたある喪失感に戸惑うのである。例えば,こんなくだりだ。
「空白感」を真に埋めたものとは
 清左衛門を襲った「自閉的な感情」の正体とは,長年勤めていた藩の要職から離れたことによる空白感である。清左衛門はこの空白感を埋めるために,散歩をしたり,剣道の道場や漢書の塾に通ったりする。しかし,清左衛門の空白感を本当の意味で埋めたのは,藩に所属する友人や知人から持ち込まれる揉め事の相談事にのることなのであった。
 筆者としては,藤沢ファンということもあり,清左衛門がむしろ隠居という立場を生かして藩の揉め事をうまく解決するあたりにしみじみとした味わいを感じてしまうのだが,野口氏は,『「超」リタイア術』の中で,清左衛門の生き方に対して「どうしようもない寂寥感とやりきれなさを感じる」と批判的である。そして,「現代サラリーマン諸氏にも,退職後も会社時代の同僚と付き合う人が多いといわれるが,その原型がここに見られる」とみるのである。(本書p.70)。
 武士階級がこうして現役時代もリタイア後も骨がらみに藩という大組織にどっぷり浸かって生きていたのに対し,農民や商人は比較的所属する組織が小さかったこともあって,その外の世界と接する機会が多かったということのようだ。野口氏は,庄屋として多忙な仕事をこなしつつ,生花,菊作り,俳句など多彩な趣味を持っていたある農民の例を挙げている。
 農民や商人の一部の層が,充実したリタイア後の人生を送っていたのは,現役時代に遡って余暇の使い方が上手いからであり,それはつまるところ,仕事にやりがいを持っていたことが理由のようだ。これに対して,武士は仕事にやりがいを持っていなかったために,現役時代の余暇の過ごし方も,リタイア後の過ごし方も貧弱だったと野口氏は考察していく。
 「勤勉革命」の担い手は農民・商人
 また,農民や商人と武士の間にあるこうした違いは,農民や商人は勤勉に働くことが所得の向上と富の蓄積に直接的に結びついていたが,武士は勤勉に働くことが地位向上に結びつかない,という事情にも起因しているとみる。武士の位や石高は世襲で決まっており,いくら勤勉に働いても出世できる可能性は少なかった。出世できるかどうかは仕事で成果を出すというよりも,派閥争いや運で決まってしまう。
 江戸時代には,欧州の産業革命にも並び称される「勤勉革命」が起きたという説があるが(これに関連する以前のコラム),これは武士ではなく,農民や商人の世界で起こっていたことだ,ということのようである。
 背景には,江戸時代も後期になって,戦がない平和な時代が長く続いて,武士本来の仕事(=戦争)がますます少なくなっていたという事情があった。武士階級は実質的には失業者集団になって次第に貧困化する中で,組織を維持するために持ち込まれたのが,藩主や藩に忠誠を誓う集団主義的な価値観や,「武士は食わねど高楊枝」といった儒教的でストイックなモラルであった。
 現代に「復活」する武士の集団的価値観
 明治維新をもって武士階級は消滅したが,江戸時代に培われた集団的な価値観は別の形で復活を遂げる。野口氏は,それがもっとも顕在化したのが,第2次世界大戦の戦時下だったとし,そのときに形成された社会・経済体制を「1940年体制」と名付けている。そして戦争は終わっても,会社組織のために働く「会社人間」の価値観として日本社会に影響を与えているとみる。
 実際,高度成長期には,集団的価値観は大きな強みとして働いたのである。ここからは筆者の推測であるが,理由として考えられるのは,産業資本主義と集団的価値観との相性がよかったためであろう。産業資本主義下では,人間の衣食住といった基本的なニーズに基づいて,高品質かつ均質で安価な製品が求められた。消費者のニーズははっきりしていて,より安く品質の良いテレビやクルマを出せば,買ってくれた。そのために,均質な製品を大量生産する必要があった。今では差異化した製品を望む消費者が増えているといわれるが,当時は皆と同じ均質な製品を持つことはむしろ歓迎すべき時代であった。
 均質な製品を大量生産する状況で日本が強みを発揮したのは,江戸時代から日本人の特性としてあるチームワークのおかげだ,といったことがよく言われる。これまでの文脈から言うと,それは江戸時代といっても,武士階級で培われた集団的価値観の影響が大きい,ということのようである(もちろん,町民の間に培われた「匠の技」の伝承の効果もあるとは思われるが)。
 個人のやりがいといった側面を見ても,産業資本主義全盛の高度成長期には個人の努力がポストや報酬という目に見える形で報いられた。経済は右肩上がりの成長を続け,会社の規模はどんどん大きくなり,ポストの数は増え続けた。日本人は集団的価値観に基づく「会社人間」であることに希望をもって邁進したのである。
集団的価値観が通用しない時代に
 しかし,1990年代に入ってバブル崩壊を契機にして右肩上がりの成長は終わりをつげた。集団的価値観が通用しない時代になったのである。通用しなくなったにもかかわらず,日本人は集団的価値観を捨てることができない。例えば,企業によっては業績が悪化して労務費削減の必要に迫られても,集団的価値観がこの場合は「皆で助け合おう」という考え方に変化して従業員を解雇できない(良いか悪いかは別にして)。過剰な人員を抱えて,少ないポストを巡って争うようなギスギスした社内環境になってしまった。
 野口氏はまた,「皆で助け合おう」ということが,「貧しい状態が望ましい」→「誰かが豊かになるのは許さない」→「全員が貧しくあるべきだ」という考え方に発展していくとみる。その結果,足の引っ張り合いと,中傷が蔓延する状況となる。現代の企業はそうした状況に陥っており,その状況は江戸時代後期の武士階級そのものだと野口氏は言う。
 こうした状況を打開する一つの方策として野口氏は,リタイア後に組織に依存して退職金と年金だけをあてにしてるのではなく,自ら事業者となることを推奨する。野口氏はその理由として,サラリーマンが天引きされている厚生年金の保険料を,事業者になることによって国民保険に移行することによって払わなくてもよくなるというメリット(それにより現年金制度の崩壊と抜本見直しを野口氏は主張している)をまずは強調しているのだが,それと共にリタイア後に独立することによって,生活に張りが出てきて,生きがいにつながるという面も強調する。
 リタイア後だからこその事業化
 リタイア後の独立ということに対して日本人は一般に慎重だが,野口氏はリタイア後だからこそできる事業化があるのではないかと説く。現役時代は家族を養い,子供に教育を受けさせるなければならず,事業化に踏み切るハードルは高い。しかし,リタイア後は,自己を犠牲にする仕事からは解放され,自分の好きなことを,自己実現のためにやればよいというのである。
 もちろん,リタイア後の人生は人それぞれであるが,自己実現の一つの方策として,事業化を考えてもよいのではないか,と野口氏は提唱する。それは,つまり,江戸時代の後期と同様の成熟期に入った現代において,武士の生き方ではなく,農民や商人の生き方に学ぼうということだ。江戸時代と現代が違うのは,江戸時代は身分が固定されていて武士が農民や商人になることは難しかったが,現代は選択の自由がある。
 とはいっても,事業化して成功するかどうかは,その個人が培ってきたスキルや能力,市場からのニーズ,環境によって左右され,様々なリスクも伴う。筆者がこれまで取材などでお世話になった方々を思い浮かべても,リタイア後に事業化された方は現役時代に会社の枠を超えて注目される能力やスキルをもっていたケースが多いようだ。
 例えば,リタイア後にコンサルタントを開業したある方は,自動車メーカーで生産技術者だった現役時代からすでに,同氏が考案したある改善の手法が業界全体で評価されていた。当社からその手法を紹介する書籍を出版させていただいたほどである。先日お会いしたところ,リタイアして数年後であったが,現役時代と変わらないくらい多忙な毎日だと言う。しかも顧客は,古巣の自動車メーカーや系列の部品メーカーだけでなく,他の自動車メーカー系や,さらには異業種にまで広がっていて,日本全国を飛び回っているとのこと。まさに野口氏が提唱されるリタイア後の生き方の見本のような方である。
 ただ一方で印象的だったのは,この方が好きなゴルフをやったり飲み会をしたりといったオフの時間は,かつての同僚たちと楽しむことが多いと語っていたことである。実はその時,筆者はリタイア後の技術者の方々に生産技術のスキルを要するある仕事を依頼したいと思っていたので,かつての同僚の方々の消息を聞いた。すると,この方のように独立するか雇用延長して現役時代と同じように忙しく働いているか,仕事からまったく離れて趣味三昧の生活を送っているかの両極に分かれるというのである。
 しかも,仕事から離れて趣味三昧の生活を送っている方には,現役時代のスキルを当てにした仕事は頼めないだろうという。「鬼の○○」と呼ばれ,周囲から怖れられるとともに尊敬されていたような生産部門の強面も,リタイアして数年経つと勘が鈍ってきて,もう一度仕事しようという気力がわかないということのようだ。かといって忙しい方は時間的に余裕がなく,筆者の勝手な都合に合わせた人材はなかなかいないと思い知った記憶がある。
 選択肢は両極しかないのか
 リタイア後の生き方が両極だということに関連して,東京大学ものづくり経営研究センター長の藤本隆宏氏が,『日経ものづくり』誌2008年5月号に興味深い文章を寄せている。同誌の「直言」というコラムに載せた,「大企業は社内に『ものづくり師範学校』を開設せよ」というタイトルの記事である。
 その記事の中で藤本氏は,ある企業の経営者の方と話していて,その企業が団塊世代の定年退職(2007年問題)に直面して,これはという人に雇用延長を打診しても,「私はもういいです」と会社から完全退職してしまうとぼやいていたというエピソードを紹介している。
 それに対して藤本氏は,その経営者にこう言ったのだという。「それはひょっとして,定年の皆さんに,(1)完全退職して週7日釣りをして暮らすか,(2)雇用延長で元の部下の下で週5日使われ続けるか---の二者択一を迫るからではないですか」(本誌p242)と。
 高いスキルを持っていながら現場から離れてしまう技術者を引き止める方法として藤本氏が提唱するのが,例えば,「ものづくりの管理・改善の先生」として,週3日後輩の指導にあたり,週4日を趣味三昧の生活をおくるという中間のオプションを用意することである。
 「流れづくり」の先生になる
 藤本氏の指摘で重要だと思うのは,溶接道場や旋盤道場といった固有技術だけではなく,ものづくり技術を教育・伝承することである。「今相対的に足りないのは,個々の工程や技術をつなぎ,現場に付加価値を創造する流れをつくり出す,品質・生産性・納期の同時改善を指導できる『流れづくりの先生』である」(同p.242)。
 このくだりを読んでいて思い出したのは,藤本氏がある講演で,製造業の技術者には自動車技術や電子技術といった固有技術の鎧をかぶった方が多いと語っていたことである。そのような方に藤本氏は,「その鎧を脱いでみましょう。脱いだ後に残るのは何ですか?」と問いかけるそうだ(藤本氏の講演について書いたコラム)。
 藤本氏によると,脱いだ後に残るのが「ものづくり技術」である。「ものづくり」とは設計情報をある媒体に転写してお客のところまで流すことであり,「ものづくり技術」とはその流れを効率化するノウハウである。藤本氏がそれを指摘すると,固有技術にこだわる技術者ほど,「そんなことは技術でもないし当社の専門でもない。やらなかったら商売にならないから,やむを得ずやっているまでのことだ」と心外な顔で語るというのである。 このことから考えられるのは,長年の会社生活を経て培われたスキルには,意識にのぼりやすい(目に見えやすい)もの(固有技術など)と,意識にのぼりにくい(目にみえにくい)もの(ものづくり技術など)の二種類があるということである。しかも後者の見えにくいスキルほど,実は製造業の生産性向上には欠かせない重要なものである。さらに製造業だけなくサービス産業など他の産業に適応することによって生産性が上がるという面もある。リタイア後の人生を考える際にも,こうした意識にのぼりにくく目に見えにくいスキルにも光を当てることが大切かもしれない。それには,本人の自覚と共に,周りの理解が必要であろう。
 「三屋清左衛門」を再評価してみる
 さて以上の文脈を踏まえたうえで,筆者なりに『三屋清左衛門残日録』をもう一度「評価」してみると,清左衛門は現役時代は,藩主の「用人」(藩主の側に仕えその命令を部下に伝えて折衝する役目の重臣)という立場で,様々な揉め事を処理してきたノウハウを持っていた。ものを顧客にとどけるといった生産性の向上効果ではないものの,組織の中の人の流れをスムーズにするという意味での,流れづくりのプロではあったのではないかと思われる。
 確かに「藩」という組織にとどまっているという限界はあるが,そのノウハウが隠居した後にも生かされているという面では,それはそれで一つの充実したリタイア後の生き方なのかもしれない。
 そしてこの小説は,リタイア後の人間がどう生きるべきかの理想を示しているようにも思うのである。それは例えば,男同士の好ましい友情であったり,現役の人々から少し離れたところに位置取りして人間としての普遍的な価値を示すという生き方であったりする。
 例えば,第一話で,清左衛門が幼馴染で現役の町奉行(佐伯)に頼まれて,ある女性が藩の都合で理不尽な目にあっていたのを助ける話が出てくる。難色を示していた藩の重役(山根)の屋敷に押しかけて説き伏せた後に,友人である町奉行と並んで帰る次のようなシーンで話を結んでいる(本書p.41-42)。
 「三屋清左衛門」を再評価してみる
 さて以上の文脈を踏まえたうえで,筆者なりに『三屋清左衛門残日録』をもう一度「評価」してみると,清左衛門は現役時代は,藩主の「用人」(藩主の側に仕えその命令を部下に伝えて折衝する役目の重臣)という立場で,様々な揉め事を処理してきたノウハウを持っていた。ものを顧客にとどけるといった生産性の向上効果ではないものの,組織の中の人の流れをスムーズにするという意味での,流れづくりのプロではあったのではないかと思われる。
 確かに「藩」という組織にとどまっているという限界はあるが,そのノウハウが隠居した後にも生かされているという面では,それはそれで一つの充実したリタイア後の生き方なのかもしれない。
 そしてこの小説は,リタイア後の人間がどう生きるべきかの理想を示しているようにも思うのである。それは例えば,男同士の好ましい友情であったり,現役の人々から少し離れたところに位置取りして人間としての普遍的な価値を示すという生き方であったりする。
 例えば,第一話で,清左衛門が幼馴染で現役の町奉行(佐伯)に頼まれて,ある女性が藩の都合で理不尽な目にあっていたのを助ける話が出てくる。難色を示していた藩の重役(山根)の屋敷に押しかけて説き伏せた後に,友人である町奉行と並んで帰る次のようなシーンで話を結んでいる(本書p.41-42)。
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 隠居
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 本来の意味は官職を退いて自宅に籠居すること。言葉は平安時代からあったが,戸主が生存中に家督,財産を相続人に譲渡することを隠居と称するのは室町時代に始り,鎌倉時代に法制上の問題となった。江戸時代の武士の隠居には願い出によるものと刑罰によるものとがあったが,前者には老衰 (70歳以上) と病気との2種の理由が認められた。明治民法においては,生きているうちに戸主権を家督相続人のために放棄する行為を隠居とし,戸主が満60歳以上であること,および相続人をあらかじめ承認しておくことが規定されていた。こうした法律で規定されたような隠居とは別に,広く行われてきた隠居制による家族形態も一般的である。
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 デジタル大辞泉の解説
 [名](スル)
 1 官職・家業などから離れて、静かに暮らすこと。また、その人。民法旧規定では、戸主が生前に家督を相続人に譲ることをいう。「社長のポストを譲って隠居する」「御隠居さん」
 2 俗世を離れて、山野に隠れ住むこと。また、その人。
 3 江戸時代の刑罰の一。公家・武家で、不行跡などを理由に当主の地位を退かせ、俸禄をその子孫に譲渡させた。
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 百科事典マイペディアの解説
 戸主が生存中に家長の権限,財産を次代に譲ること(家督相続)。民法旧規定で制度化され,隠居者は満60歳以上とされた。1947年の新民法で廃止されたが,まだ一部で行われている。関東以西の太平洋側や九州には別居・別食・別財型,日本海側・東北地方には同居・同食・同財型が多い。父親と母親が本家と分家に分住する型や隠居分家という特異な型もある。
 →関連項目還暦
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 世界大百科事典 第2版の解説
 煩雑な社会を逃れて山野に隠棲すること,官位を捨て家督を次代に譲って社会生活から遠ざかることを意味する。平安時代の貴族社会にあって隠居は退官を意味したが,武家社会では家督相続など家のあり方をあらわす重要な慣行となった。江戸時代の武家社会では,隠居と家督相続が同時に行われるのが普通である。隠居の契機は相続人の婚姻や,隠居人の年齢的肉体的諸条件による場合が多い。また江戸時代では公家・武家の不行跡者にたいする刑罰の一種で,不行跡者を現在の地位から強制的に退隠させ,法体させた場合も隠居と称されている。
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 大辞林 第三版の解説
 ( 名 ) スル
 ① 勤め・事業などの公の仕事を退いてのんびりと暮らすこと。また、その人。 「楽−」 「店を息子にまかせて−する」
 ② 民法旧規定で、戸主が生存中に家督を譲ること。
 ③ 「隠居差控」の略。
 ④ 世俗を逃れて山野などに閑居すること。 「城南ぜいなんの茅宮に閑寂を耕してぞ−し給ひける/太平記 35」
 出典 三省堂大辞林 第三版について 情報
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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 家長が家長権、つまり家長としての地位、権限などを息子など継承者に譲渡して退隠の状態に入り、あわせて村落生活でも「家」の代表を次代に引き継ぐこと。明治民法では、戸主が生前に戸主権を家督相続人に譲ることをさし、諸種の規定を設けていた。隠居の語意は「隠れて居る」ということであったが、その内容は時代、地域や階層によってさまざまな展開を示した。平安時代の公家(くげ)社会では隠居は致仕退官を意味した。
 隠居をもって家督の譲渡をさすようになったのは戦国時代のことで、武将の間では家督を嫡子に譲り、自らは若干の財産を保留して退隠する風潮が広まった。この風は江戸時代の武家社会にも伝えられ、嫡子が成人妻帯して家長たるにふさわしい格式を備えると、相続と隠居をあわせ行った。別に罪科により家長権を剥奪(はくだつ)して隠居させる法もみられた。また町人社会には壮年の間に「若隠居」して、以後風流な生活を楽しむのを人生の理想とする傾向が生じた。それは「楽隠居」を形成し、これがしだいに隠居の一般通念となっていった。
 村落社会では現在も全国にわたり多様な隠居が認められる。とくに隠居者の生活はその居住、食事、経済などをめぐってさまざまである。たとえば隠居者の居所を取り上げても、隠居は同居隠居、別居隠居、分住隠居と3大別される。これは居所について、隠居者と継承者が屋棟(やむね)を同じくするかどうかによる分類である。なかでも別居隠居が隠居の主体をなしているが、これにも、隠居者夫婦だけが別棟の隠居屋に出る単独別居、継承者夫婦以外の家族員、つまり弟妹などを連れて出る家族別居があり、さらに長男の成人、結婚に際して次男以下を伴って隠居別居し、やがて隠居屋をもって次男以下の分家にあてる隠居分家の3種がみられる。ついで分住隠居とは、隠居に際して父親は本家に、母親は分家に分かれ住み、その後父母の葬式や年忌なども本分家別々にするものである。
 別居隠居ではしばしば食事、経済も別になり、一家のなかに複数の世帯を形成する。それは家族をもって世代別の居住を理想とする観念に基づくもので、ひいては夫婦家族(核家族)中心の家族構成をとるに至り、「家」の複世帯制を導くといえる。このような観念に支えられた隠居慣行は、福島県以南の太平洋岸各地、とくに伊豆諸島や三重県南部、紀伊半島、ついで瀬戸内海地方や四国、九州地方の各地に分布している。これらの地域はまた「末子相続」の慣行と重複する所も少なくなく、あわせて日本の家族慣行に独特な光彩を放っている。[竹田 旦]
 『穂積陳重著『隠居論』(1915・有斐閣) ▽竹田旦編『大間知篤三著作集 第1巻』(1975・未来社) ▽竹田旦著『民俗慣行としての隠居の研究』(1964・未来社) ▽竹田旦著『「家」をめぐる民俗研究』(1970・弘文堂)』
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 世界大百科事典内の隠居の言及
 【跡目】より
 …相続の対象となる遺産だけでなく,その相続者をも跡目と呼ぶこともある(たとえば,〈跡目が絶える〉〈跡目を立てる〉など)。江戸幕府武家相続法では,死亡による相続を跡目(万石以上の場合は遺領という)相続,隠居による相続を家督相続と呼んで区別している。【大藤 修】。…
 【還暦】より
 …還暦,古稀喜寿,米寿,白寿などの年祝を総称して算賀,賀寿,あるいは〈賀の祝い〉というが,古稀以下が中世から祝われたのに対し,還暦の祝いは近世以降の慣習である。なお,かつて60歳か61歳で隠居をする例が多かった一因は,還暦観念に基づくものであろう。また往時の村落社会では,十三六十(じゆさんろくじゆう)とか十五六十と称して,13ないし15歳以上60歳までの村民が夫役に動員されることがあったが,この場合の60歳も還暦を区切りとしたものであり,さらにこれが隠居の契機ともなったものと思われる。…
 【謹慎】より
…江戸時代,慎(つつしみ)と称した公家・武士の閏刑(じゆんけい)(特定の身分の者や幼老・婦女に対し本刑の代りに科す刑)は,《公事方御定書》が規定する塞(ひつそく),遠慮に類似の自由刑で,他出・接見などの社会的活動を制限することに実質的意義があったが,また名誉刑的な性格ももつ。幕末には大名処罰に隠居と併科された例が多くみられる。近代では,刑罰としての謹慎は1870年(明治3)の新律綱領に士族・官吏・僧徒の閏刑として存した。…
 【致仕】より
…処罰の場合,原則として藩政には関与できないが,一般的理由なら,前藩主として時には藩政に口をはさむこともあった。初期には浅野長政のように幕府から5万石の隠居料を与えられ,子孫に相続させることができた場合,子の領地の一部を幕命によって分与された前田利常(22万石。死後藩主に戻された)の場合など,領地を与えられて老後の保障を受ける特殊な例もあったが,普通は藩主より年々一定の米金を受けて生活する。…
 【百姓】より
 …すなわち,家内奴隷的性格をもつ譜代下人(ふだいげにん)の労働と,半隷属的な小農の提供する賦役労働とに依拠して,大経営が維持されていた。半隷属的小農は名子,被官,家抱(けほう),隠居,門屋(かどや)など各地でさまざまの呼び方をされているが,これらはいまだ自立を達成しえない自立過程にある小農の姿である。これらの小農は親方,御家,公事屋,役家などと呼ばれる村落上層農民(初期本百姓)に隷属し,生産・生活の全般にわたって主家の支配と庇護を受けていた。…
 【奉公人】より
 …彼らは家内奴隷的性格が強く,主家に人身的に隷属して終身奉公する。自給的穀作農業を営む主家の農業経営は,譜代下人の労働と,自立過程にある小農(被官,家持下人,隠居など)の提供する賦役(ふえき)とによって支えられていた。譜代下人の成因には,中世以来の主家への隷属を継承したものと,人身売買の結果として発生したものとがある。…
 【老人】より
 …生産的労働からの引退ののちも家内的・自給的生産活動は引き続き行われる。社会的地位からの引退は,とくに村落社会の公的地位,すなわち政治的・経済的諸活動にかかわる地位からの引退であり,いわゆる村隠居である。村落社会における隠居制は同一家族内における生活単位の分離であり,その時期はさまざまであって,社会的地位からの引退に直結するものではないが,ほぼ60歳前後からはこうした地位を退くのが一般的である。…
 ※「隠居」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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武士は禿げると隠居する―江戸の雑学 サムライ篇

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