🌈43)─1─江戸町人文化とは、よそ者やはぐれ者が江戸で生きる為に始めた深川文化である。~No.84No.85 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 西洋生まれのマルクス主義階級闘争史観では、日本の江戸時代を説明できないどころか有害である。
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 日本民族日本人の祖先である海民や川民は、中華(中国・朝鮮)の海民や川民とは異なる。
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 江戸は、徳川家康よって人工的に造られた町である。
 江戸町人文化とは、正業を持たない身分卑しい「よそ者」や「はぐれ者」が生み出した下賤な庶民文化であった。
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 日本町人文化は、朝鮮両班文化や中国読書人文化と無関係である。
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 日本の文化は身分卑しい中間層以下から生まれたが、中華(中国・朝鮮)の文化は身分の高い教養ある上層から生まれた。
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 2017年12月30日号 週刊現代「アースダイバー  中沢新一
 東京下町篇 第10回 深川芭蕉庵(1)
 魚河岸の鯉屋
 伊賀上野の人、松尾宗房(むねふさ、のちの芭蕉)は、寛文12年(1672年、ただし諸説あり)に江戸へ出てきた。京都の有名な俳人北村季吟(きぎん)のもとで俳諧を学んで、卒業を認められた宗房は、ツテを頼ってまず日本橋の貸家を借りて、江戸の住人となった。
 俳号を『桃青(とうせい)』と名乗ることにした。日本橋で句会を催しているうちに、そこに魚河岸の有名な鯉問屋として知られていた鯉屋市兵衛こと杉山杉風(さんぷう)が、出入りするようになった。桃青はまだ無名に近い新進気鋭の俳人だったが、鯉屋市兵衛とたちまち意気投合。終生の友となる。この出会いこそが、そののちの芭蕉の人生に、じつに大きな意味を持つこととなる。
 鯉屋の一族は、摂津国(大阪)大和田村の出身である。大和田村は淀川河口にある海民の村で、隣村の佃村とは親戚づきあいの仲であった。海賊的な体質をも備えていたこの両村の漁民が、江戸の建設が始まろうとしていた頃、この新しい都への移住を敢行した。彼らははじめ江戸湾で白魚漁をおこない、それを江戸城に納入することで、幕府の信頼を得た。
 その信頼をバックに、佃・大和田両村の漁民は、日本橋に彼らの経営する魚市場を開く許しを得た。その市場で、大和田村出身の井上与一右衛門が、鯉を扱う問屋を開いた。この鯉問屋は成功して、三代目からは鯉屋を名乗るようになり、日本橋魚河岸でもたいそうな大店となったのである。
 武家は鯉を好んだ。滝を登っていくほどの気迫を秘めた鯉の姿に、自分の理想を重ねたのであろう。正月だ、節句だ、大奥の出産だ、と言っては、しょっちゅう鯉料理を所望した。この時代、鯉は鯛と並んで、祝いの席に欠かせない高級魚として、高値で取引された。
 もともと摂津大和田村と言えば、鯉の産地で知られていた土地柄であるから、鯉屋のご先祖は江戸に出てくるとすぐに鯉の養殖に乗り出した。生簀(いけす)を深川村に置いて、そこから毎日生きの良い鯉を魚河岸に運んだ。鯉屋はほどなくして幕府の御油商人の地位を獲得して、周囲もうらやむほどの財力を蓄えた。その鯉屋の主人である杉山杉風あ、若き桃青のパトロンになった。
 深川移住
 ……
 『かるみ』と『俗』
 芭蕉庵は、深川の開拓者である深川八郎右衛門を祀った深川明神社近く、いたって閑寂の土地にあった。芭蕉はここを拠点にして、『奥の細道』の旅をはじめとする何度もの大旅行を敢行するとともに、もっぱら『をかしみ』を追求する言語遊戯にすぎなかった俳諧を、芸術の域にまで高めていく努力を重ねた。しかし『芸術』と言っても、京風の『雅(みやび)』とも、江戸ブルジョア的な『粋(いき)』とも異なる、『かるみ』の境地をめざした。
 『かるみ』は軽業師や放下師(ほうかし)の術に似ている。軽業師は、手に持った品物を空中に投げ上げて放下しながら、地面に落とすことなく、宙に浮かべ続ける。芭蕉が目指した『かるみ』の境地でも、世間の価値に一体化してしまうことなく、かといって世間から離れてしまうのでもなく、絶妙な距離を保ち続けることが追求された。
 『雅』も『粋』もこの点では、俗世間から超脱しすぎている。『俗』の極みのような対象を取り上げて、それを通俗の地面に落下させることなく、また超俗の境地に逃げ込んでしまうことなく、中間にある『かるみ』の宙に浮かべ続けるのである。このような『かるみ』の境地を確立した一句
  木ののとに汁も膾(なます)も桜かな
 風雅な桜の樹下には、汁や膾のお膳が広げられている。この異質な取り合わせを、『汁も桜』『膾も桜』と重ね合わせ、相互貫入させている。違うものどうしが、たがいの違いを尊重したまま、縁でつながりあっていく。この『かるみ』は俗を離れることなく、俗からの離脱を果たしている。
 芭蕉が俳句の中で実現しようとしたことは、水堀に浮かべられた材木の上で、オツでイナセな川並鳶が、鳶口一丁を手に、軽やかに実現してみせていた技と、同じ構造をしている。それはまた、キャハンで伝法な辰巳芸者が、エロティシズムのあやうい領域で、凜として演じている。
 江戸下町の深川では、職人技から芸術にいたるまで、同じ『かるみ』の精神に貫かれながら、奇跡のような達成が生まれ出されている」
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 2018年1月6日・13日号 週刊現代「アースダイバー 中沢新一
 東京下町篇 第11回 深川芭蕉庵(2)
 エッジとしての下町
 深川に庵を営んだかと言って、芭蕉がその土地に落ち着いて暮らした、と考えたら間違いである。この芸術家には多動症かと思われるほどのところがあって、しょっちゅう『そぞろ神』に誘われて、旅に出てしまうのである。『奥の細道』を生んだ東北への大旅行、甲子(かっし)紀行、更科紀行、鹿島紀行、嵯峨日記などの旅がようやく一段落した元禄4年(1691年)、しばらくは深川に腰を落ち着けようという気になった。
 このあたりが生粋の深川っ子と違うところである。深川っ子にとって、そこは隅々まで自分たちの気息の吹き込まれた『小宇宙』であった。日本の都市の多くは海民によって形成されている。大河の河口部にできた砂州の上や、川の中洲の上に、移動性の海民は交易のための『街』をつくった。
 『町』と書くと、水田から生まれる富の集積を連想させるが、街のほうはまっすぐな道の両側に並ぶ家並みを想起させる。こういう家並みは、漁村に特有のもので、その意味で、街というものの設計原理には、海民的発想が潜んでいる。
 江戸の下町を代表する深川は、このような街の典型で、辰巳芸者や川並鳶をスターとする深川っ子は、そこを自分たちの『島』や『宇宙』として、造形したのである。彼らはその宇宙の隅々まで、イキでイナセでキャンな精神が浸透していないではすまさなかった。そのかわり、彼らはその宇宙の外のことにはがいして無関心で、野暮な田舎者の侵入を嫌う、狭量なところも持っていた。
 そこへ行くと、多動症の天才である芭蕉にとって、深川という土地は宇宙の中心などではなく、異世界に触れているエッジにほかならなかった。芭蕉は西国の人であったから、江戸はどこまでも、征夷大将軍の開いた幕府の所在地でしかない。幕府は、野蛮人(夷)を征服しに出陣した将軍の滞在する、野営地の周りを取り囲む幕屋(ばくや)という意味しか持っていない。この意味でも、江戸は野蛮で野性的な異世界との境界に接している、エッジな領域の大本営なのである。
 風流の考古学
 おそらく深川っ子のほとんどは、自分たちが文明世界のエッジにいる、などという意識を持たなかっただろう。ところが芭蕉には、そこが異世界へのエッジの領域である、という強烈な意識があった。俳句はこういうエッジの領域で鍛えられることによって、はじめて芸術となりうる。伊賀上野の人、松尾芭蕉には、東国世界のエッジである深川へ、住み着かなければならない宿命があった。
 『奥の細道』の旅に出るとき、芭蕉随行者の曽良は、小名木川の岸で船に乗り込み、荒川を渡って千住で陸に上がった。ここから東北への旅が始まる。千住には多くの門弟や友人が見送りに来ていた。千住がいわば文明世界のエッジで、そこから先に異世界が広がっている感覚が、旅に出る者と見送りの者の両方に共有されていた。
 しかし本当の東北は、白河の関を超えたあたりから始まる。蝦夷の勢力に阻まれた西国勢は、長いこと白河の関あたりまでしか、支配圏を伸ばすことができずにいた。その感覚は、芭蕉の頃にはまだ強く意識されていた。その白河の関を超えたあたりで、田植え歌が聞こえてきた。西国の農村で聞いてきたよな、華やかな田植え歌と異なり、どこか古代的な響きをたたえた田植え歌である。芭蕉はその歌声にひどく感動して、つぎの句を詠んだ。
  風流のはじめやおくの田植えうた
 この感覚である。この感覚に触れたくて、芭蕉は東北への旅に出たのである。異世界に保存されている、古代の野性的感覚とでも言おうか。近世になると、エッジの向こう側の文明世界では、すっかりこのザラザラした野性的感覚は削ぎ落とされて、感覚の表面はなめらかに整えられてしまっている。ところがエッジのこちら側に身を移してみると、それがまだ生き生きとして、生活の中に根づいているのがあかる。
 『風流』は、たんに上品で優雅であることではない。風流は、その原初の姿にあっては、このように野性味をたたえながらも、エレガントな力強さにあふれている。芸術は典雅な美しさを目指すものだが、その典雅は、原初の野生的感覚にふれているものでなければならない、と芭蕉は考える。こういう芭蕉の中には、とにかく水面の光景に満足しないで、水中への潜水(かずき)を始めてしまう、アースダイバーの先駆者がいる。
 自然児芭蕉
 そういう意味で、俳句とアースダイバーはじつに相性が良い。俳句は言語芸術のエッジに立とうとする。そこに立って、エッジの向こうから吹き寄せる野生の風を受け止めて、その感覚をエレガントに造形する。芭蕉の以前には『うふふ』という程度の野性味を『をかしみ』にして楽しんでいた俳句が、芭蕉以後はほんもののエッジ芸術へと変貌した。
 鳴子温泉から尿前(しとまえ)の関に取り掛かり、山中のみすぼらしい民家に宿を借りることになった。そのときの一句、
  蚤虱(のみしらみ)馬の尿(しと)する枕もと
 これはリアリズムなんかではない。蚤や虱のような小動物を着物の縫い目に『飼って』いて、同居人同然の馬は、人間の寝ている藁布団の脇で、ジョージョーと尿を放っている。人間と非人間の生物たちが、同じ平面で同居しあっている世界。痒いわ臭いわでたまらないと思いながらも、芭蕉は人間と非人間の間に敷居のない、このような『俗』の世界こそが、俳句の生まれる場所だと考えている。
 深川という江戸のエッジに形成された下町から出発して、芭蕉はエッジの向こう側に広がる、異世界の内側に踏み込んでいった。するとそこは異世界でもなんでもなく。そこにもやはり同じ人間の生きる世界があったが、人間は自然の、小さな、小さな間借り人でしかなかった」
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 江戸の豪商や豪農と言われたお大尽は、洗練された美意識・真贋を見極める優れた鑑定眼・高い教養によって文化人・芸能人・芸術家らを愛しそして支援した。
 世界的に高い評価を受ける江戸文化の芸術品・美術品そして演劇の数々は、そうした妥協を緩さに庶民によって後世に残された。
 そこが現代日本の外国語を巧みに話す富裕層・裕福層との違いである。
 江戸町人文化は、民族言語である日本国語と共にある。
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 現代の金持ちは、盲目的に、権威ある専門家からのアドバイスに従って外国で有名な美術品・芸術品を高値で買い漁るくらいが関の山である。
 現代日本人の美的才能はその程度で、江戸時代の庶民より劣っている。
 つまり、世界でゴッホルノワールなど有名な画家達の絵画を数十億円で買い漁って顰蹙を買っても、日本から新たな次世代の葛飾北斎河鍋暁斎俵屋宗達喜多川歌麿などを育て尊敬をうる事はない。
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 知的エリートにおいても、現代日本と江戸時代とは別人的に異なる。
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 政治権力や宗教権威は、歌舞伎や文楽人形浄瑠璃などの庶民芸能・大衆演劇は風紀を乱すとして禁止あるいは弾圧した。
 豪商・豪農などのお大尽は、庶民の憩いである芸能・演劇を絶やさない為に、御上のキツいお達しに逆らって護った。
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 江戸時代の豪商・豪農などのお大尽と現代の富裕層・裕福層などの金持ちとは、美的才能や鑑定眼は雲泥の差がある。
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 現代日本の富裕層・裕福層にとっての価値基準は、歴史的文化的伝統的ではなく、国際市場での高額な値段と世界的権威ある専門家の評価のみである。
 それがバブル期以降の日本人の実像である。
 現代日本の富裕層・裕福層などの金持ちは、民族としての歴史的文化的伝統的なモノは何も生み出さないどころか、日本を国際化・グローバル化する事を大義としてローカルな民族性に愛着を持つ事なく嫌悪して破壊する。
 現代日本の富裕層・裕福層達は、外国語を話して金儲けをする事は上手いが、民族的な文明度・文化度は低い。
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 日本政府と企業や経営者が、求めている人材、育てようとしている人材とは、グローバルな弱肉強食の市場競争を生き残れる人材、金儲けできる人材であって、それ以外ではない。


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