🎑78)79)─1─庶民芸能。茶道と懐石料理。~No.171 @ ⑮

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 西洋礼賛派日本人による、日本文化のグローバル化という思惑。 
   ・   ・   ・  
 日本文化は、多様性に富み、柔軟な伝統と頑固な継承ゆえに新旧綯い交ぜにした飽きる事のない面白さがあった。
   ・   ・   ・   
 世界が興味を持っているのは、日本の伝統や文化である。
 伝統を軽視する日本人や伝統に関心がない日本人には、興味がない。
 世界に好かれているのは、古き良き伝統を持った日本であって、無味乾燥的な現代の日本人ではない。
 外国人が見たいのは、超近代的高層ビルが建ち並ぶ欧米風の街並みではない。
 日本に来てまで自国のような風景など、誰が好きこのんで見たいと思うのか。
 自国と同じ風景ならば、高い旅行費を出してまで見にはこない。
 日本の街並みは、何処に行っても個性がなく、似たり寄ったりの欧米風になりつつある。
 住まいも生活も総べて欧米風にして喜んでいるのが、グローバル化を目指す現代の日本人で或る。
 欧米の猿真似する日本から、日本らしい個性が消え始めている。
   ・   ・   ・   
 T・S・エリオット「文化とは、生を生きるに値するものにしてくれるもの」(『文化の定義の為の覚書』)
   ・   ・   ・   
 もの作りが盛んであった昔の日本は、役に立つかどうか分からないが、あれば世の中や人が楽しくなるだろうと確信して無駄金を湯水のように注ぎ込んで新しいモノ・奇抜なモノを作っていた。
   ・   ・   ・                
 2014年 日本経済の低迷と日本人の自信喪失から、その自信のなさを隠し空威張りするかのように、病的とも言うべきほどに異常な日本持ち上げ報道が行われている。
 日本に来た外国人に無理矢理、「日本は凄い」「日本は捨てたものではない」「日本は世界で信頼されている」「日本っていいね」などなど遣らせに近いほどの「自国褒め」のコメントを言わせている。
 それは、しょせん敗北者である負け犬の哀れな悲鳴であり、何を遣っても上手くいかない無能無力な馬鹿な自分を慰める暗示に過ぎない。
 惨めな自分を誤魔化し救いようのない自分から目をそらす為に、自分を被害者に祭り上げべく、反中・嫌中や反韓嫌韓の書籍を読んで悦に惚ける。
 香山リカプロ野球ファンが絶対に勝てない状況で前向きに勝利宣言する事を『ボジる』という。マイナス要因に全く目も向けず、日本は世界から愛されているというという根拠のない自信をもっている。ナショナリズムとしては末期的な状況です」
 「日本人は、もともと欧米に出遅れているという強いコンプレックスがある。今はアジアの中でも、中国や韓国に抜かれているという切実な不安を抱いている。外からのお墨つきを得る事で、劣等感や不安を少しでも払拭したいからでしょう」
 「本当は国ではなく自分自身を褒めてもらいたいが、今は個人を承認してもらえる機会が少ない。雇用不安や社会とのつながりを保てないで、自分が何者かという属性がどんどん削がれていく。そして最後に残る揺るがない属性が日本人。努力しなくてももてる肩書みたいなものです。個人として満たされていないから、最後の拠り所が〝日本人である私〟なのでしょう」
 吉野耕作(上智大学社会学教授)「今の日本はグローバル化の中で飲み込まれそうになっている。経済的にも文化面でも強かった日本にかげりが見えてきたからこそ、『俺たちにはこんなにいいところがあるんだ!』と自己確認するのだと思います」
   ・   ・   ・   

 旧題名。ユダヤ系国際穀物商社・抗日中国人連合と資源輸入国家日本との食糧戦争。
   ・   ・   ・   
 二つのブログを、五つに分けて建設する。
 プロフィールに、五つのブログを立ち上げる。↗
   ・   ・   ・   
 2015年7月号 月刊文藝春秋「文字に美はありや 伊集院静
 第19回 秘伝の書、後継の書
 日本人が歴史で呼ぶ〝中世〟という時代はまことにユニークな時間の流れを持っている。特に中世前期は興味を引く。安土、桃山へ至る応仁の乱以降の乱世の期間は統治者の貌(かお)も転々としたが、日本の歴史の中で、日本人が発想しえなかった芸術の貌が誕生し、短期間のうちに成熟し、今日までそのかたち、風貌、精神を継承している。しかもその存在は光を失っていない。あの田舎侍たちが、日本という箱をガラガラポンと振り回した明治維新の荒波でさえ毅然と生き残った。欧州化がさも理想と声を大にせよとした折、岡倉天心は世界にこの日本という国と人々の、感性を主張する象徴に持ち出したほどだ。
 〝お茶の湯〟〝能〟と、である。
 人で言えば〝千利休〟と〝世阿弥〟である。
 以前、この連載で、文字(ここでは漢字であるが)について白川静博士もおっしゃっているが、人間にとって必要不可欠なものは長い歴史の時間で完成するのではなく、或る時期、少人数の才能ある人の創造力、推進力を持って脅威的な速度で完成をする」
   ・   ・   ・   

 中国や朝鮮でも、現代のイギリスでも古代のエジプトでも、人がいる所では茶が飲まれていた。
 茶を飲む事が文化というのなら、世界中に茶の文化が数えるほど存在する。
 日本の茶道は、その茶を飲む文化の一つに過ぎず、特別優れた飲み方ではない。
 茶道は、その特別優れた飲む文化という拘りを捨てる事にある。
 それでも、日本の茶道は、日本の気候風土や死生観・宗教観・人生観から生まれたオリジナル文化である。
 中国の茶の飲み方や、中国を真似して茶を飲む朝鮮の飲み方とは、本質からして異なる。
 日本の茶道は、中国や朝鮮で生まれたのではない。
   ・   ・   ・   
 茶道と懐石料理は切り離せない。
 茶懐石は、千利休が考案した料理である。
 旬の食材の味と素材を旨味にこだわり、その持ち味を損なわず、派手にならず、嫌みにならず、技巧に走り手を掛けすて台無しに為ない事。
 自然の素の趣き味わいを、貧相にならないように地味にしつらえる。
   ・   ・   ・   
 黒に赤が混じる事で、漆黒の黒となって深みのある光沢を放つ。
 「わび」「さび」に「みやび」が秘められる事で、味わいをます。
   ・   ・   ・   
 ランディー・チャネル 宗榮(そうえい。カナダ出身)「茶道は素晴らしい総合芸術です。建築、庭園、和菓子、懐石、陶芸、漆芸、竹工芸、華道、書道など様々な分野が融合され、お茶でつながっていることが大きな魅力です。茶の湯は日本の伝統文化のマスターキーというます。
 武道をやっていたからだと思います。茶道と武道はまったく違うように見えますが、私の中では同じ道です。所作や物の時の姿勢など、共通することも多い。茶道と武道はまったく違う様に見えますが、私の中では同じ道です。所作や物を持つ時の姿勢など、共通する事も多い。礼に始まり、礼に終わるのも一緒です。武道から学んだ『残心』と『無心の精神』も、茶道で生きています。
 茶道で一番大切なのは『一期一会(いちごいちえの心)』。出会った人においしいお茶を差し上げたいという気持ち、そのお茶を受ける側は感謝の気持ちでいただく。その心を持っている人を皆、茶人なのです」
   ・   ・   ・   
 2015年9月24日号 週刊新潮葉室麟。古都再見
 幕が下がる、その前に
 大徳寺で思いを馳せる
 名だたる茶人の修羅の最期
 ……北区柴野大徳寺町の大徳寺に出かけた。
 大徳寺派大本山。開山は宗峰妙超(大燈国師)である。
 京都で大徳寺が茶道と関わりが深いことから『大徳寺の茶面(づら)』と呼ぶ。『妙心寺の算盤面』や『東福寺の伽藍面』、『建仁寺の学問面』などとともに寺の特徴を表しているのだ。
 『茶面』の大徳寺は三門に千利休の木像を置いて、豊臣秀吉の怒りを買ったことでも知られる。また、小堀遠州作の茶室、孤篷庵(こほうあん)の忘筌(ぼうせん)がある。忘筌とは荘子の、──魚ヲ得テ筌ヲ忘ル からとったらしい。『筌』は漁の道具で目的を達すれば道具を忘れるという意味か。
 12畳の書院形式の茶室で、西に広縁を設け、吊り障子を開けて庭を開けて庭を眺める。
 庭を琵琶湖に見立て、茶室を千石船、窓を船窓になぞらえていると何かの本に書いてあった。座って見つめていると、茶室とは『見る』ことの芸術なのだな、と思える。
 床の軸を眺め、活花に目を遣り、さらには茶碗を鑑賞し、何より茶を点てる亭主の作法の美しい流れを見つめるのだ。
 茶室の窓から注ぐ光や隅にたまる陰翳(いんえい)までが細かく計算され、『見る』ことによって別な世界へと誘われる。
 さらに言えば、『見る』ことを極めれば、目前のものにとらわれず、
 ──観じる
 ようになる。すなわち、世界をおのれの心に映し出すのだ。只管打坐して観ずるならば、すでに禅の境地かもしれない。
 ところでお茶に関わる話を書くようになったのは、千利休始め、山上宗二古田織部など名だたる茶人が非業の死を遂げたのはなぜだろうか、という疑問を抱いたからだ。
 利休と宗二はいずれも秀吉の逆鱗にふれた。利休は切腹、宗二は鼻と耳をそぎ落とされたうえで斬首である。
 織部大坂の陣に際して徳川家康から謀反の疑いをかけられ、『いまさらいいわけするのはみぐるしい』と一切弁解せず腹を切った。
 さらに幕末、茶道に堪能だった幕府の大老井伊直弼、号を宗観は、大雪の朝、江戸城桜田門外で尊攘派浪士に襲われて首をとられた。悲惨で思いがけない死は何も茶人に限ったことではないだろうが、一杯の茶に心の平穏を求める茶人の修羅の最期を遂げるのが不思議に思えた。だが、少し考えてみて、判然とするところがあった。
 だからこそ、茶なのではないか。
 戦国時代、茶を喜んだ戦国武将たちは、いずれも死線くぐり抜けて生き延びた。
 ということは、多くの敵を殺し、死に追い詰め、無明の闇をさまよったあげくに茶の湯にたどりついたのだ。
 一期一会というが、血潮を浴びて生き抜いた男たちにとって、茶は常に末期の水に等しいだろう。
 飲み干した茶がゆっくりと喉を伝うとき、俺はまだ生きている、と思うのではあるまいか。
 わたしも昔、苦しかったことがある。そのとき、知人に誘われて野点(のだて)の煎茶を飲んだ。
 茶の味は覚えていない。
 ただ、傍らに咲く白いモクレンの花が澄み切った青空に映えて美しかったことを覚えているだけだ。
 あのとき、茶を喫し、モクレンのそばに座る自分の姿が天から見えたように思う。
 あの光景の記憶が、
 ──観
 だったとでもいうのだろうか。無論、そんなことはあるまい。
 ただ、茶を飲んだだけである」
   ・   ・   ・   
 織田信長の茶頭
 ウィキペディア
 松井 友閑(まつい ゆうかん、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。松井長之の次男、松井正之の弟、松井康之の叔父。官名は宮内卿法印(正四位下)、庵号徳庵
 生涯
 友閑は京都郊外の松井城で生まれた。松井氏は、友閑の祖父の松井宗富が室町幕府8代将軍・足利義政に仕えて以来、代々の幕臣として仕えていた。友閑は12代将軍・足利義晴とその子・義輝に仕えたが、永禄8年(1565年)、永禄の変で義輝が三好三人衆らによって暗殺されると、後に織田信長の家臣となった。
 永禄11年(1568年)の織田信長入京後には京畿の政務にあたり、織田氏の右筆に任じられている。京都や堺の豪商らに接触して名物の茶器などを供出させた。天正6年(1574年)3月24日、相国寺で開かれた信長の茶会では茶頭を務めた。同年、東大寺正倉院の名香蘭奢待を拝受した時には奉行を務めた。天正3年(1575年)には堺の代官に任じられた。
 この頃になると堺の豪商・津田宗及とも親交を深めた。後にも信長が開く茶会には度々茶頭として呼ばれる事が多く、茶道に対する造詣が深かった人物と思われる(『兼見卿記』『宗及記』など)。7月3日、宮内卿法印(正四位下)の官位を授かった。村井貞勝、武井夕庵と並んで、信長の吏僚の中でも最高の地位にいた。
 織田家では主に財務などを担当したが、外交能力にも長け、上杉謙信宛の信長書状に副状を発したり、三好康長の投降交渉(高屋城の戦い)、本願寺との和睦工作、謀反を起こした荒木村重松永久秀の説得交渉、後期には伊達輝宗大友宗麟ら遠方の大名との外交交渉にも奔走している。本能寺の変当時は堺で茶会を催して徳川家康を歓待中であり、変を知ると上洛を目指したが、途中で断念し、堺の町衆に変の勃発と信長の死を報じた。変後は豊臣秀吉に接近し、堺の代官として以後も活躍する。しかし天正14年(1586年)に突然不正を理由に罷免され、その後の消息は不明。文禄2年(1593年)10月29日までの生存が資料上(『鹿苑日録』)では確認できる最後。
 目利きで知られ、鳥丸家、松江宗訥とともに天下三墨蹟の一つとされた無準の墨蹟を所持した。武野紹鴎より「相阿弥茶湯書」を伝えられている。戦国武将だけではなく、茶人、文化人でもあったと言われている。
   ・   ・   ・   


   ・   ・   ・