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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本の伝統文化の全ての面を、ケガレに満ちた非人・エタなど賤民・被差別部落民が下支えしていた。
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血と死を最も忌むべき「穢れ」とするなら、その最たる職業人は、人殺しを生業とする武士・サムライである。
武士・サムライは、人を殺し血に塗れ差別される身分でるがゆえに救いを天皇の高貴にすがり、系図の源流を天皇家・皇室に求めた。
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日本文化は、死と血を「穢れ」として忌避していた。
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花鳥風月・虫の音という目に見える情景と目に見えない情緒の日本文化を後世に正しく残す為にも、争いを忌避する平和の民であり、文の守護者であった非人・エタなど賤民・被差別部落民の文化的功績を明らかにし、文化的貢献を讃える必要がある。
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1889(明治22)年 初代神武天皇を祀る橿原神宮創建。
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2017年9月22日号 週刊ポスト「逆転の日本史 井沢元彦
近現代編 第三話
大日本帝国の構築 Ⅱ
宗教の整備と教育勅語
日本文化の根幹にかかわる大事件『洞村強制移転』の歪められた『横暴』
……
被差別部落民が支えた日本文化
……
この編のテーマである『宗教の整備』のみならず日本文化の根幹にもかかわる重大な事件であった、と私は考えている。
それは『洞村(ほうらむら)の強制移転』という事件である。
これは被差別部落民史の研究者、いわゆる天皇制廃止論者にとってはよく知られている事件といっていいが、一般に知名度は低いと言っていいだろう。大日本帝国が天皇の神聖化を進める過程で、天皇家初代とされる神武天皇陵と礼拝施設である橿原(かしはら)神宮の整備・建立を進めていた政府が、その神域を『見下ろす位置』にあった奈良県の被差別部落の洞村を『ケガレた民』がそんな場所に住んでいるのはけしからんと、近くの狭くて不便な土地に強制移転させたと伝えられた事件である。
昭和20(1945)年、敗戦によって大日本帝国が崩壊すると、天皇制を批判していた人々は待ってましたとばかりに、おの事件を天皇制横暴の象徴として取り上げた。とくに1968年に部落問題研究所の鈴木良所長(当時)が雑誌『部落』に発表すた論文『天皇制と部落差別』以後、この横暴は通説となった。ところが、このような主張に対し真っ向から異を唱えたのが、ほかならぬ洞村出身の辻本正教・部落解放同盟奈良県連合会執行委員(当時)だった。どうして辻本がそう思うようになったのか、そのきっかけが興味深い。かつ辻本は、鈴木説を『まるでテープレコーダーでもあるかのように』繰り返し、現地で説明にあたっていた。
『この道、ほんとうに狭いでしょう。消防車も通らないんです。家と家の間にも隙間がないでしょう。3万坪あった洞村を、わずか6,000坪の狭い所に閉じ込めるために、こうしたんですよ』(中略)そんなある日のこと。どこの誰であったかは記憶していないが、ある人物が独り言のように、こう言った。『この道は、当時としてはたいへん広いですね。当時は、大八車が通れば、それでよかったんですから・・・。』私の心の中に戦慄が走った。考えてみればその通りであり、それまでの確信は音を立てて崩れる外なかった。(『洞村の強制移転 天皇制と部落差別』辻本正教著 解放出版社刊)
辻本はそのあとになにをしたのか?まずは基本的なデータつまり数字の確認である。調べたところ移転地は約1万坪であったことがわかった。狭い土地に移転させられたことは事実だが、それは『5分の1』では無く『3分の1』であった。つまり鈴木説は『横暴』を印象づけるために数字の操作を行っていたのである。ならば、他の部分も信頼がおけないとして徹底的に調査したところ、……結論だけ言えば洞村の住人は政府に協力し粛々と移転に応じたというのが歴史的事実だった。
だからと行って辻本は天皇制が横暴で無かったとか、洞村の人々は何の被害も受けなかったと主張しているわけではない。むしろその逆かもしれない。しかし歴史的事実は鈴木説とは違っていたことを綿密に証明したのである。これが歴史家として、同時にジャーナリストとしての正しい態度でもある。
当たり前の話なのだが、人間はどんな主義・主張を持っていようと自由である。しかしその主張に沿うように事実を歪めてはならない。こんなことは、残念だが、欧米先進国ではわざわざ言うまでもないことである。しかし、日本では一流とされる学者、評論家、作家、ジャーナリストあるいは新聞社、出版社などマスコミ機関で、そのもっとも基本的なルールがまったくわかっていないとしか思えない人々が大勢いるので、私はこの『近現代史編』を始めるにあたって、まず『近現代史を歪める人々』を書かねばならなかった。逆に言えば辻本のような姿勢を取る人は、たとえ自分とまったく主義主張が違っても尊敬できる。
ちなみに私は神道に基づく『ケガレ忌避』が部落差別の根源にあるという見解の持ち主だから、この点では辻本とまったく同意見である。むしろ辻本のほうが先輩だ。しかし、『天皇制という表現はともかく、天皇が日本文化の核であるということを尊重する立場であるところが、辻本と異なるところかもしれない。
この『逆説の日本史』を通じて述べたように、もともと日本は肉食つまり血を流すことをいとわない、狩猟文化の徒である縄文人が先住民であったが、後から征服民として血を流さない農耕文化の担い手である弥生人がやってきた。だからどうしても征服者である弥生文化のほうが優位に立ち、縄文文化は蔑視される傾向がある。これが日本文化全体のひとつの大きな欠点であることは、事実は事実として認めなければいけないと思う。
そう認識していたはずの私が、ここ数年で初めて気づいたことがある。それは、この洞村からもそんなに遠くない、部落解放同盟の出発点とも言える水平社(被差別部落解放を目的とした全国組織。1922年結成)の発祥の地を記念した水平社博物館(奈良県御所市)を訪ねたときのことである。
そこに膠の製造工程の展示があった。膠とは『獣や魚の皮・骨などかを水で煮沸し、その溶液からコラーゲンやゼラチンなどを抽出し、濃縮・冷却し凝固させたもの。接着剤・写真乳剤・染料などに用いる』(『デジタル大辞泉』)ものである。このあたりの被差別部落(当然、洞村も含まれる)は牛馬の皮を扱う関係上、膠の材料の供給源でもあり一大産地でもあった。膠は動物の死体に触れる行程を必要とするから、膠製造は日本においてはケガレ仕事であり、近代以前は部落民でなければ絶対に作ることができなかった。
ところで、この膠、近代以前は何に用いられたかご存じだろうか?上記の辞書にも無い(つまり日本人の常識に無い)用途がある。それは墨(すみ、炭で作られた固形インク)の材料なのである。前掲の辞書にも『墨』の項目に『油煙や松煙(しょうえん)を膠(にかわ)で練り固めたもの。また、それを水とともに硯(すずり)ですりおろしてつくった黒色の液。書画を書くのに用いる』とある。千数百年前、中国からその製法が伝えられ、我々の祖先も二千年近くにわたって使っている墨は炭(燃料)を燃やしたときにできる煤(すす)を膠で固めたものなのである。この製法は古代から現在に至るまで一貫して変わらない。
被差別部落民がいなければ膠の生産ができなかったように、墨が無ければ日本文化はあり得なかった。『万葉集』も『源氏物語』も『古事記』も『日本書紀』も、いや雪舟や長谷川等伯の絵も基本的に墨で書(描)かれていた。つまり、この被差別部落民の貢献がなければ日本文化は成立し得なかった。それはおわかりだろう。これは鈴木説的誇張でも歪曲でも無く、歴史的事実である。
だが、日本人はその功績をまるで評価してこなかった。それも歴史的事実なのである。ちなみに劇場用映画のフィルムも膠が原料だった。日本のフィルムは欧米の技術を学んだメーカーによって作られたが、その材料である膠の製造技術を蓄積してメーカーに譲渡したのは被差別部落民なのである。
彼らの功績はまだある。『墨』についての文化的貢献よりははるかに小さいことかもしれないが、弥生文化全盛で『肉食』という習慣が定着していなかった日本に、『文明開化』以後すみやかに牛肉や豚肉をどこでも食べられるようにしたのは、肉を扱い慣れていた彼らの功績である。だからこそ牛鍋やトンカツが日本料理の新たな分野として直ちに成立したのである。
アメリカ合衆国における黒人差別撤廃に生涯を捧げ、最期は反対者の凶弾に倒れたマーチン・ルーサー・キング牧師は、有名な演説で『私には夢がある』と言った。その夢とは、要するに合衆国の独立宣言にあるように、人が人として完全に平等になる日が来るということなのだが、私にも夢がある。
被差別部落民の日本文化に対する多大な貢献は明らかであり、しかもそれは評価されてこなかったのだから、私は日本文化の頂点に立つ天皇に、この功績を評価していただきたいと思っている。
そのためにも、できれば水平社博物館あるいは洞村の移転の実態を記録保存している『おおくぼまちづくり館』(奈良県橿原市)を、ぜひとも訪問していただきたいと考えている」
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膠(にかわ)を生産していたのは、忌むべき穢れ仕事(血と死)を生業として生活していた非人やエタなどの賎民達であった。
膠は、獣や魚類の骨や皮などを煮込んで抽出したゼラチンで、主に物を接着させる為に使われていた。
油を燃やして出る煤(すす)と混ぜて、墨を作り。
日本絵の具の固定剤として、膠を使った。
日本文化は、穢れ多き最下層の賎民によって支えられていた。
日本天皇・日本民族・日本文化を支えていたのは、非人・エタなどの賤民と海の民・川の民・山の民達であった。
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サムライ・武士政権が、非人・エタ・河原乞食などの賤民を人間扱いしなかったのは、同じ血と死のケガレを嗅ぎ取り、己のケガレを誤魔化し、自分達の方が上位にある事を示す為であった。
天皇制度においては、サムライ・武士も非人・エタ・河原乞食など賤民も「穢れた同類」に過ぎなかった。
江戸時代の庶民(百姓や町人)は、サムライ・武士などの御上の手前、非人・エタ・河原乞食など賤民を身分上では差別したが、御上の見えない所で彼らを煩悩具足の同輩として受け入れていた。
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「ケガレ」という古層から見れば、サムライ・武士と非人・エタ・河原乞食など賤民は同類で、本来なら両者とも百姓より下位の存在である。
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サムライ・武士と非人・エタなど賤民の違いは、刀などの武器を持ち、野望・欲望の為に殺し合うかどうかである。
もし、殺し合いを否定して平和な世の中を訴えるのなら、人殺しのサムライ・武士を殺人鬼・殺人者と糾弾し、非人・エタなど賤民・被差別部落民を素晴らしい人々であると讃えるべきである。
つまり、差別すべきは、戦いを避ける非人・エタなど賤民・被差別部落民ではなく、戦いを生き甲斐とするサムライ・武士である。
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非人・エタなど賤民・被差別部落民は、平和の民、文の守護者として日本文化の発展に貢献した。
サムライ・武士は、戦の民、武の体現者として武士道を編み出し日本精神・大和魂・日本の志を「死」する事で残した。
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江戸時代、地方・農村地帯で自然災害が発生すると、生活できなくなった百姓達は離村して町の部落に流れ込んだ。
年貢が減った大名たちは、離散した百姓達を帰還させる為に災害地を復旧させ、新たに開墾・開拓・干拓して農地を増やして移住者を募った。
町の部落に流れ込んでいた百姓達は、働かず他人様の恵みで生活する生き方が性にあわず、還られると分かるや帰農した。
野良仕事に憧れた賤民は、帰農する百姓について移住した。
が、昔から「乞食も三日すればわすれられない」の譬えがあるように、如何に貧しくても自由勝手気ままな生き方をしていた賤民にとって、なんやかんやと決まり事・定め事が多く堅苦しい庶民生活が馴染めず何時しか元の部落に戻ってしまった。
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優秀な若き僧侶達は、行基・一休・一遍上人・西行法師などの高僧・名僧が賤民と生活しながら悟りを開いた事を手本として、乞食坊主となり、部落に住み着き賤民達と苦楽を共にした。
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非人・エタ・河原乞食など賤民・被差別部落民は、政治権力の武家政権からも、宗教権威の大寺院からも、見捨てられていた。
彼らが頼ったのが、第3の道徳・良心・志・心の権威である天皇家・皇室であった。
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非人・エタなど賤民・被差別部落民は、特段優れた才能が有るわけではなく祖先から受け継いだ生業を、毎日、不平不満を言わず、真面目に、誠実にこなしていただけである。
欲望も野望も持たず、今そこにある、目の前にある仕事を一つ一つきちんとこなしていた。
大きな夢を見ず、大それた希望も持たず、助け合い、協力し合って生きていた。
貧しかったが、人の悪意はなく善意のみがある心地よいムラであった。
邪な考えを抱かず、ただただ日々の生活と仕事をきちんとこなして生きる事のみを至極の喜びとした。
ただただ、誠実に、ふつうに、前向きに、きちんと生きていた。
けっして無理はしない、あるがままに受け入れる、と言う生き方である。
「より良い商品を作り顧客に喜んで貰う」事で、「より高く売って大金を得る」ではなかった。
非人・エタなど賤民・被差別部落民が、大陸の怒れる人民のように暴徒と化して治安を悪化させ秩序を崩壊させ社会を破壊しなかったのは、そうした誠実という生き方があったからである。
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明治時代までの非人・エタとして差別された賤民こそが、熱烈な天皇信奉者・天皇崇拝者であり、勤皇の志士・尊皇派として天皇家・皇室の為に武器を取って戦った。
それ故に、彼らは天皇制度・国體を破壊し天皇家・皇室・皇族を死滅させようとする無政府主義やマルクス主義・共産主義・社会主義を毛嫌いし、人民である事を否定し、反体制革命家になる事を拒否した。
日本における超保守派・原理的天皇主義者とは、非人・エタなど賤民・被差別部落民達の事である。
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日本の最下層が頑丈な岩盤として存在したから、天皇制度・国體は今日まで存続していた。
その姿は、霊峰・富士山にたとえられる。
それは、海を渡って来た南方系海洋民が日本列島で見出した産土神信仰である。
日本全国には、地元が毎日眺め愛してやまない「何とか富士」が存在する。
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人類史・世界史・大陸史の常識として、王家・王朝を打倒し王族を滅ぼすのは、搾取され虐げられた最下層階級の極貧人民の反乱であった。
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被差別部落民と言っても、室町時代、戦国時代、江戸時代、明治時代、日韓併合後の大正時代、昭和・敗戦後など、その時代によって別人のように違う。
被差別部落民が差別される原因とは。
江戸時代までは、生業・職種・職業柄であった。
明治時代は、技能技術なしの無能者であった。
日韓併合後(1910年・明治43年)の大正時代は、民族別であった。
昭和・敗戦後は、部落民・同和の民として差別されているという被害者意識を強く持っているかどうかである。
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日韓併合後の大正時代以前の非人・エタなど賤民と蔑まれる被差別部落民は、大陸の虐げられた奴隷や搾取された人民とは本質的に違い、単純に住んでいる土地の生業差別に過ぎない。
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現代の被差別部落民問題は、日韓併合後の大正時代から噴き出してきた問題・運動であり明治時代までの問題・運動とは直接的関係は薄い。
大正時代に、マルクス主義・社会主義の人民階級闘争史観・差別糾弾運動で思想武装した活動家が主導権を握るや、人道的部落解放運動は社会的反天皇反体制運動へと歪に変貌し、偏狭的革命家は暴力的共産主義革命を目指すようになった。
そうした反天皇反日的日本人は、現代にも数多く存在する。
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