♨4)─1─世界最古の温泉宿。庶民の物見遊山や食べ歩きの行楽・温泉旅行。岩倉具視。~No.8No.9No.10 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 徳川幕府は、幕府の権威で貨幣に信用を持たせ流通させた。
 江戸時代の金融と物流は、世界レベルで経済的繁栄を生み出していた。
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 庶民(百姓や町人)は。遊び好きで、自由に物見遊山の行楽をし、旅先で旨い郷土料理を食い、女と酒で楽しんでいた。
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 庶民は、貧しかったが、劣等感やコンプレックスがなく、人生の不幸や身の不運を深く考える事をしなかった。
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 庶民は全国で物見遊山の旅やグルメ旅を制限付きながらも楽しんでいた。
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 江戸時代の庶民は、旅費や遊興費などの大金を日本各地に落としていった。
 地方経済は、大名行列と庶民の旅費で成り立っていた。
 江戸経済は、江戸・京・大坂などの都市とそれ以外の地方の間を活発に移動するヒト・モノ・カネで成り立っていた。
 その経済・情報・運輸のネットワークは、一ヵ国で地球規模の広がりを持っていた。  
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 2016年11月3日号 週刊文春「創業1300年 世界で一番古い宿
 その歴史の長さや、世界一──そんな宿が日本に存在していることを、どれだけの人がご存じだろうか。最古の宿が有する伝説を『武士の家計簿』でお馴染み、歴史学者磯田道史氏が巡る
 705年創業 甲州西山温泉 慶雲館 山梨
 慶雲館が世界最古の旅館としてギネスに認定されたのは2011年のこと。創業は慶雲2年(705年)で、『古事記』や『日本書紀』の作成年よりもわずかに早い。
 『ことらの源泉を発見したのは、藤原鎌足の長男・真人の・・・年代的には息子か孫と思われます。いずれにせよ藤原一族の一人がいち早く発見し、広まるきっかけを作ったということでしょう』(磯田道史氏・以下同)
 また、時を経た戦国時代、この南アルプスの秘境の地は様々な密談場にもなっている。
 『徳川家康が、武田信玄重臣である穴山梅雪と西山温泉に隣接する下山で会談を行い、その際「温泉でも入りましょう」と言ったという伝説が残っています。その梅雪が慶雲館の守護神湯王大権現に奉納したと地元で伝わる銅鑼(どら)には・・・天文15年(1546年)正月吉日とありますね』
 源泉かけ流しの湯を堪能しつつ、戦国武将のロマンに思いを馳せたい。
 717年創業 城崎温泉 千年の湯 古まん 兵庫g
 和銅元年(708年)、日生下権守(ひうけごんのかみ)の夢に天日槍(あめのひほこ)付きの神様4人が現れ、そのお告げによって建立されたのが四所神社である。古まんを興した日生下家には、これらの詳細を歴史を記した『曼陀羅記』が代々伝えられている。
 『養老元年(717年)、道智上人が木の下にいると、大地震と共に曼陀羅華が空から降ってきて、霊湯がぶくぶく湧いてきた。それが始まりとあります。霊湯は赤狐と白狐によって守護されていて──これは中世の思想ですね。今も狐の祠があります。面白いのは日生下家が温泉の掟を残していること。「牛馬に橋を越えしむことなかられ」「この家にて出産することなかれ」「4足2足食うことなかれ」の3箇条を守り、天日槍らを敬えば、湯が濁ることなく日生下家は栄えると。関ヶ原の合戦頃までの温泉は神域だったんですね』
 語り尽くさせぬ程の物語を秘めた宿・古まん。城崎温泉の随所に、伝説は今も残る。
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 飛鳥時代の宿を訪れて
 温泉と日本人
 1300年の歴史に浸る! 磯田道史
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 お湯はなぜ湧くのか?
 奈良の都が生んだ温泉大国・日本
 705年創業の慶雲館、717年創業の古まんと訪ねて、温泉と日本人の歴史の始まりが見えてきました。鳥取県、石川県、栃木県などにも700年代から続く宿があるそうですね。そしてその多くが藤原真人や道智上人のように貴人、僧侶が訪れて霊泉が生じたという縁起をもっています。
 なぜ、この時期に一斉に貴人・僧侶が国中をうろうろしだしたのか?答えは平城京にあります。710年の遷都の後も、都の整備は何十年も続きました。寺院も造りたいし、何といっても聖武天皇が大仏建立は発願します。大量の金属を国は必要としていたのです。そこで当時の知識層である貴族や僧侶が鉱産調査を命じられ、全国へ派遣される。これが各地に伝わる貴種流離譚の正体でしょう。だから城崎温泉の縁起には製鉄にまつわる神様が関わり、近くに銀山もある。鉱物が生成される場所というのはたいがい地熱が高いですから、金属を求めた結果、副産物的に湯が湧くのも必然に思えます。
 どこに行っても温泉がある国、温泉を愛してやまない日本人のルーツには、飛鳥天平の国造りの熱気があるのだとぼくは思います」
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 2016年10月23日 産経ニュース「【教えて!goo】外国人が日本の紅葉に惹かれるワケ…実は当たり前のことだった
 行楽の秋というと、紅葉を楽しむ人も多いのではないか。遠方まで足を運んで色づいた木々の絶景を楽しむのはもちろん、通勤通学で見かけるいつもの景色が紅葉で変化している様子を楽しむのも、これまた一興である。そんな紅葉の楽しみ方として、前回、「粋な紅葉の楽しみ方!重要なのは時間帯と人工物との融合」という記事をリリースしたが、そもそも紅葉を楽しむ習慣は日本人だけのものなのだろうか? 気になったので旅の専門会社である株式会社ベンチャーリパブリックのトラベルjpナビゲーター・水津陽子さんに尋ねてみた。
桜よりも人気 訪日客最多は紅葉シーズン
 水津さんによると紅葉を楽しむ習慣うんぬん以前に、世界の紅葉事情はこのようになっているという。
 「実は、世界で紅葉が見られる地域はカナダなど限られているようです。広葉樹がないと紅葉もないですし、東南アジアのような常夏では楽しめません。ロシアなどの寒冷地では針葉樹が多いのでこれも紅葉しませんね」(水津さん)
 その結果、紅葉シーズンは桜の時期同様、訪日外国人には人気なのだという。
 赤く色づく木々、人工美との融合は日本独特
 来日する外国人観光客は、一年の中で10月から11月が一番多いという。また、海外で売られている日本のガイドブックでは、紅葉が大きく紹介されているらしい。ヨーロッパでは黄色・黄褐色系が中心で、葉が赤く色づく樹木の種類そのものが少ないそうだ。
 「日本は社寺などに枯山水の庭があり、人工的、箱庭的な場所への興味もあるのかもしれません」(水津さん)
 人工美と紅葉の組み合わせは、伝統的な庭園文化からも受け継がれてきた、我々日本人の独特の感覚なのかもしれない。
 普段あまり気にもとめていなかったが、世界のどこにでもあるわけではない紅葉を気軽に愛でることができる環境は実に貴重である。今年の紅葉はこれまでと違った視点で楽しんでみてはいかがだろうか。
 「教えて!goo」では、「紅葉の楽しみ方って?」ということで皆さんのアイデアを紹介中だ。
●専門家プロフィール:株式会社ベンチャーリパブリック 2001年設立。格安航空券、パックツアーを同時に比較できる旅行情報サイト「Travel.jp」やホテル・宿選びの口コミ情報サイト「Hotel.jp」等の比較サイトの運営を行う。532人の旅の専門家がナビゲートする「たびねす」が好評を呼んでいる。」
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 2018年1月1日 読売新聞「明治あとさき 維新150年
 1、旅
 1868年に明治の世が始まってから、今年で150年。それまでの江戸の世から、日本人の生活文化は大きく様変わりした。だが、近年、『江戸あってこその明治』だと、両時代を連続的に捉えようとする見方が強まっている。
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 寺社参拝から文化観光へ
 岩倉具視、京都再生へ『誘客』の妙手
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 庶民の間で、現在につながる『楽しむための旅』が盛んになったのは、戦乱の世が遠ざかった江戸中期のこと。整備された街道は、長崎オランダ商館医だつた植物学者ツュンベリーが『この国の道路は一年中良好な状態であり、広く、かつ排水用の溝を備えている』とたたえた。安全な旅が実現し、伊勢神宮を始めとする寺社への参詣が盛んになり、神仏崇敬に名を借りつつ、旅人は名所巡りや美酒美食を堪能すた。
 民俗学者神崎宣武旅の文化研究所長によると、この頃の文献には『旅』『行旅』『遊山』などの言葉が使われ、今日のように『観光』という言葉で呼ばれることはなかった。
 明治6年(1873年)、米欧12ヵ国を旅した岩倉具視(1825〜83年)ら遣米欧使節団が帰国した。岩倉は報告の扉に『観光』の2文字を揮毫(きごう)した。『観光』の原典は、中国の五経の一つ『易経』。国の文物や礼制などをよく観察し、役立てることを意味したとされる。神崎さんは『欧米列強を前に新しい国造りをするには「観光」という言葉が必要だったろう』と推し量る。
 明治は、江戸に始まる旅への熱気が、さらに開花した時代だった。関所が撤廃され、鉄道が明治5年(1872年)の新橋ー横浜間開通以降、路線を延ばした。
 長距離鉄道網が広がった明治20年代、いち早く盛んになったのが修学旅行だ。教員を育成した各地の師範学校などが相次いで始めた。『世間を見て知る旅は、国土学であり、人間学だった。「観光」と「修学」という言葉が使われるようになったことが明治という時代を象徴している』と神崎さんは語る。維新の頃は本来的な意味で使われていた『観光』は、旅がいっそう大衆化するに合わせ、明治の後半頃から今のように遊覧旅行を意味するようになる。
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 江戸の人気行楽先だった寺社や温泉地は鉄道が延びてにぎわう一方、東京遷都後の京都は、日が暮れたように衰退していた。
 ここで『観光』に目を付けたのが岩倉具視だった。岩倉は、明治16年(1883年)1月、『京都皇宮保存に関する意見書』をまとめた。民業の衰退を挽回するため外国からの人々を京都に出入りさせるのが良い、という冒頭の言葉にもあるように、『京都を文化観光都市として再生させようとした』と霊山歴史館の木村幸比古副館長は語る。
 14か条に及ぶ提案には、平安遷都を行った桓武天皇をまつる神殿を造ること、御所の近くに洋風迎賓館を建てること、御所や御苑を整備して公開日を設けることなどが並んだ。岩倉はその実現を見ることなく、半年後に死亡したが、いくつかの献策は、後に実る。
 明治28年(1895年)の平安遷都1100年記念祭に合わせ、桓武天皇を祭神に創建された平安神宮京都市左京区)はその一つ。平安京の朝堂院を模した社殿の朱色が美しく、今も京都観光の定番スポットだ。同年京都で開かれた第4回内国勧業博覧会では、社寺が特別拝観を行い、建物や宝物を一般公開した。
 明治の京都で起きたのは、社寺参詣の近世的な旅から、歴史や文化を感じて楽しむ旅への転換でもあった。木村副館長は言う。『欧州の古都に滞在し、伝統文化を活用している様子を目の当たりにした岩倉は、京都1000年の歴史が持つ可能性に気付いた。まさに光を観(み)たわけです』
 鉄道に始まる交通の高速化は、空間への意識を変え、旅をせわしなくもした。だからこそ、『しっかり観察する』という、明治人が旨とした『観光』を、時に思い起こすのもいいかもしれない。(清岡央)」
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 2月14日 読売新聞「磯田道史の古今あちこち  
 女好き 旅中の遊興費
 都合の悪いことは文書に残さない。だが奇跡的に残ることもある。先日、こんなことがあった。京都の寺町通の古本屋で、店の人が奧から汚れた怪しい箱を出してきた。『和州・薬種問屋仲間議定取締帳箱』とある。大和高田(奈良県)の薬種商・喜右衛門という男の遺(のこ)した古文書がぎっしり詰まっていた。
 この男、関東を旅したらしい。道中記が出てきた。文化8年(1811年)『関東一見道中記』。江戸後期はすごい。庶民までが、しばしば旅日記を残した。世界的にみても前近代の庶民旅行記が、こんなに残る国は珍しい。それで道中記自体は珍しくないが多くは旅中の出費を記しただけの帳簿で面白い道中記は少ない。まれに旅中見聞の感想も記したのがあって江戸庶民の意識がさぐれるから、私はそれを探しているのだが、今回、出て来たのはもっとすごいものだった。
 江戸後期の庶民の旅費は1日あたり400文とされる。ちなみに当時の1文は米価換算なら現在の約10円だが、労賃換算では同50円になる。つまり旅費が1日2万円。江戸と京大坂は往復で約40日かかったから現在でいえば約80万円の旅費がかかった。
 これでも庶民は倹約旅行の場合である。豪商は1日約700文で旅をしていた。庶民との違いは宿泊費。従来の研究によれば『酒宴や女郎遊びに興じるなどの楽しみをより多く享受していたため、こうした金額の相違が生じたものと推測』されている(谷釜尋徳『近世後期における江戸庶民の旅の旅費』)。江戸のお金持ちは旅中に女性との遊興にお金を使ったため旅費が跳ね上がっていたのでは、とされてきたが、『女郎買い』の出費を詳述した道中記がなかったため、推測の域を出なかった。
 ところが今回みつかった喜右衛門の道中記の『女郎』に関する価格と出費を詳述していた。私は、江戸後期の売買春の費用的実態がわかると思ったから、箱ごと全部、この史料を譲ってもらい分析をはじめた。
 喜右衛門の道中記を読むと、東海道の宿場にいた旅人相手の女性の多さに驚く。伊勢の茶屋では『むすめよし』と書き、伊勢国石薬師は『女共多し』とする。ただ伊勢では『女郎は道中不揃(ふぞろ)い』と気に入らず買わなかったようで『ぞめき(ひやかし)ばかりにて残念也』と、スケベ親爺(おやじ)丸出しの記述を残している。池鯉鮒({ちりゅう}愛知県知立市)は『女郎多し』。岡崎では200文の旅籠に泊まる。『上の宿にて女郎多し』『女郎分六百文』とあるから、ここでは買ったのだろう。家を出てから10日目であった。地方の旅籠の女郎の相場は600文(現在労賃換算で3万円)であったらしい。この道中記では潮来・鹿島(茨城県)が『女郎壱人六百文ずつ』とある。戸塚も『女郎沢山也』とある。
 この男、本当に女好きである。江戸に着くと早速『舟に乗り吉原に遊びに行』っている。まず茶屋・長寿屋で上方からきた珍しい『ゲイコ2人』をよび仲居の倅(せがれ)1人に小鼓を打たせた。そして揚屋・岡本屋へ行き、重(しげ)・息(おか)という2人の『時の全盛(の女郎を)買』ったという。『酒、大いに呑んだ』『部屋、甚だ見事なり』、『三つ布団』が敷いてあり『寝間入り口伝あり』とあるから床をともにしたのだろう。その費用は『全壱両』。現在の30万円。無駄遣いをしたものである。まさか、この男も200年後に自分の遊びが新聞記事になって全国に報じられるとは思っていなかっただろう。そう思うと、くすりと笑えた」
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*日本の島国文化は、泥臭く働く事を美徳とし、屈託なく人生を楽しむ身分低き町人や百姓の「庶民文化」である。町の外れにある神社の杜(鎮守の森)や里山にあり、万民に解放されていて、全ての庶民を偏見を持たず、分け隔てなく、等しく受け入れた。分をわきまえ、節度を守り、足を知り、傲慢に驕る事を穢れと嫌った。質素倹約を旨とし、地味で、見栄えを取り繕うを恥とした。「あるがまま」を大事に守り、後世・子孫に伝えた。
 ゆえに、曖昧模糊とした馴れ合い的な集団主義が生まれた。
 差別を奨励する儒教的素養を積んだ武士は、古代人の叡智で生きる「したたかな」百姓や町人を知恵なき者と小馬鹿にし、伝統ある神道的日本文化への貢献度は少なかった。
 現代日本は、国際化の美名のもと、メッキの様な中身のないゴージャスな文化・風潮が持て囃されている。そして、古代人の叡智を受け継いだ中身の詰まった燻し銀的な日本文化は、野暮ったく、見窄らしく、下品であるとして消滅しつつある。
 現代日本人は、古代性を捨てて急速に変質しつつある。
 そこには、痩せ我慢し辛抱するという、粋で、いなせで、気っぷを売り物にする「男だて、女伊達」の雑草の様な百姓・町人文化は存在しない。
 日本社会は、建前では亭主関白であったが、本音ではカカ天下であった。
 人材の少ない日本は、将来の為に子供を大事にし、地域ぐるみで育てた。
 そして、女性神最高神にする関係で、女性をも大事にした。世界の宗教常識は、男性神最高神とする為に、女性は男性に付属物としている。
 ネットー「日本ほど子供が、下層社会の子供さえ、注意深く取り扱われている国は少なく」
 モース「私は、日本が子供の天国である事を繰り返えさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供の為に深い注意が払われている国はない」
 エドウィン・アーノルド「東京には馬車がほとんど存在しないから、子供達があらゆる街路のまっただ中ではしゃぎ回っている」
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 江戸から京までの東海道53次は約125里(約490キロ)で、当時の日本人は1日平均して約9里(35キロ)歩いて、2週間程度で踏破した。
 日本人は、肉食ではな草食で粗食と少食であったが足腰が丈夫で、へたばらない強靭な体力とへこたれない頑固な精神力を持っていた。
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☆百姓や町人は、責任を持たないだけに、自由に物見遊山の行楽を楽しんでいた。
 庶民は、長期休暇を取り楽しんでいた。
 北島正元「道は天下の往来、御通しくだされずとも通ります。おしばりなされても、御切りなされても、通れるだけの者は通ります」(「信州南山一件文書」)
5,庶民レベルでの貨幣・流通経済は、江戸時代の日本の方が大陸世界に比べて発達していた。
 中国文明圏の中国は正統派儒教価値観の支配で未熟であり、朝鮮では正統派儒教価値観の墨守で未発達であった。
 幕府や各大名は、財政の足しにする為に地場産業を育成して、特産品の開発を行い、より多くの旅人を呼び込む為に街道や航路を整備した。
 その中でも、東海道は一番で、年平均200万人以上が行き来していた。
 何処の街道も安全で、女や子供が一人でも旅が出来きた。
 武士よりも町人や百姓の方が金を所有し、資本を蓄え、旺盛な購買力を持っていた。
 ヨーロッパの王侯は、領民から資産を搾り取り貧困に追い込み、豪邸を造りゴージャスな生活を送る為に金銀財宝を蓄えた。
 日本は、世界的に平等が保たれ、貧富の格差が小さい社会であった。
 町人や百姓は、遊び好きで、寺社参詣などを言い訳にして温泉や名所旧跡を旅をし、各地の特産品や名産を土産で購入して持ち帰った。
 周期的に行われた伊勢御蔭参りの最盛期では、人口3,000万人中480万人以上の町人や百姓が、女郎や子供、さらには犬さえも伊勢参りの旅に出た。同数以上の庶民が、宗教に関係なく日本全国を自由に旅をした。
 信心深い老若男女数百万人が、京を訪れ、神の裔・天皇が住む御所を巡って参拝した。
 庶民は、人生50年といわれていた時代に、一生の間に10回前後は旅を楽しんだといわれている。
 街道沿いの住民は、お伊勢参りなどに向かう巡礼者には、進んで喜捨して旅の無事を祈った。
 さらには、見ず知らずの物乞いには、裏口で食べ物を分けてやり、わずかながらの餞別さえ持たせてやった。
 泊まる所のない旅人には、喜んで一夜の宿を与え、酒や食べ物を無償で振る舞い、旅で知り得た各地の珍しい話を聞いて楽しんだ。
 丹羽基二「フセの文字はほかに布瀬、伏勢、布西、などがあるが布施が原意に近い。いわゆるほどこしの事である。これは旅行、寺社参拝、その他の宿泊する貧しい者を無料または安価で泊まれる公共施設の事。多くは土地の寄進者がいてその費用に当てた。旅行中病気になった者なども介護した。全国にあったが、地名になって残っている」(『地名苗字読み解き事典』)
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 庶民が遊びで訪れる温泉地が、全国に数多く点在し、ご当地特産の郷土料理も多数存在していた。
 庶民が金を出して楽しく遊べる場所が、全国到る処にあった。
 観光地を持つ大名は、庶民が娯楽で落とす金を藩財政の資金にあてていた。

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 日本民族日本人が速成に国民国家を作り団結できたのは、近代教育の普及以上に庶民の国内旅行であった。
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 日本民族の一体感は、論より証拠、百聞は一見に如かず、つまり好奇心による物見遊山、生来の旅行好きで培われていた。
 江戸時代、子供(男の子・女の子に関係なく)や遊女(娼婦)さえも誰に憚る事なくお伊勢参りをし、油断するとスリ・ひったくり・置き引きなどの軽犯罪にあったが、命を奪われたり攫われたり強姦されたりの重犯罪にあうことは少なかった。
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 心身共に絶え間なく忙しげに「動く事」が日本民族の原動力である以上、目まぐるしい動きを止めたとき日本民族は衰退する。
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 日本民族日本人にとっての人生とは、一所に留まって安住しない旅であった。
 日本民族日本人の根源的気質が、大陸の定住農耕民族ではなく海原の移動海洋民族であるがゆえに、旅に憧れる。
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 昔の日本人は旅に出発する時、今生の別れになる事を覚悟して家族や知人と水杯をかわして家を出た。
 旅先で死ぬかも知れないと言う思いから、これが最後の旅と思い定め楽しみそして見聞を広めた。
 死出の旅を覚悟する以上、「立つ鳥跡を濁さず」と心がけた。
 旅人を受け入れる方は、二度と会う事もないとの思いと旅先で不運に命を落とすかも知れないとの思いから、命の出会いを機縁とし「袖振り合うも多生の縁」「一期一会の縁」として心を込めてもてなした。
 日本民族日本人の旅が、人と人の出会い、心と心の触れ合いであったがゆえに、人々は旅に憧れた。
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