🏯80)81)─1─庶民は生き残る為に逃げ回り、子殺し親殺しの尊属殺さえ厭わなかった。~No.153No.154No.155N.156 @ ⑩

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本人は、特段、優秀な人間ではなく、心細やかで暖かく優しくもなかった。
 むしろその正反対である。
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 日本人の感情を、僻み、妬み、嫉みといった嫉妬心が苛んでいる。
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 日本社会とは、「出る杭は打たれる」という進歩や進化を嫌う歪な社会である。
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 庶民は、命を大事とし、死ぬのはバカと軽蔑し、生きる事に執着し、ぶざまにみっともなく逃げ回った。
 武士でない以上、生命に執着し、潔さはなく、死の美学も持っていなかった。
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 現代日本人はサムライ・武士の子孫ではなく、現代日本人には武士道の心・志・気概など存在しないし士道とは無縁である。
 さりとて、昔の百姓や町人などの庶民とも違う。
 1980年頃までは、昔ながらのサムライ・武士そして百姓や町人などの庶民は生きていたが、それ以降は日本から消えた。
 現代の日本人が、自分はサムライ・武士の子孫であり、武士道を持っていると思い込んでいるとすれば、愚かなことである。
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 昔は、家・家柄、身分・地位によって多様な生き方死に方があった。
 サムライ・武士が百姓や町人などの庶民になったり、逆に、百姓や町人などの庶民がサムライ・武士になったりと、人としての流動性があった。
 唯一誰も成れなかったのが、祭祀王・天皇のみであった。
 公家はもちろん将軍や大名には、百姓や町人などの庶民でも成ろうと思えば成れた。
 それが、日本の物事をハッキリさせない曖昧模糊とした柔軟な多様性であった。
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 2008年9月号 WiLL「『雅子妃問題』究極の論点 渡部昇一
 終戦時の昭和天皇
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 日本の君主の御君徳
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 明治天皇パラドックス
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 普通の人でない方の連続
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  昭和天皇もまた、普通の人ではありませんでした。ですから、天皇は普通の人でない方の連続の歴史なのです。これが神話の時代から今日まで、男系で続いてきた世界唯一の王朝の特徴です。
 ですから、『文藝春秋』8月号に代表されるように天皇や皇室を庶民感覚だけで語るのは、むしろ皇室を庶民レベルに引き下ろしていることになりましょう。 
 突出して特殊な『家』
 『WiLL』2008年8月号で、日下公人氏との対談中に私が述べた会田雄次先生の祖父の話があります。
 会津武士だった会田雄次先生の祖父が、ある日、書見をしていた時に泥棒が入った。そこで床の間にあった刀をとり、泥棒を斬り殺した。刀の血をぬぐい、鞘に収めた後、何事もなかったようにまた書見を続けた。そして、奥さんに──会田先生の祖母に──死体片づけるよう指示し、奥さんも当たり前のごとく死体を片づけた。
 これは武家では普通のことだったのだと思います。商人の家であれば、大騒ぎになったでしょう。
 私の恩師である佐藤順太先生も武家の方でしたが、家に錠をあけたことはないとおっしゃっていました。泥棒が入ってきたらいつでも刀をとって斬り殺そうと、床の間に刀を置いてあったといいます。昭和になっても武士の家系ではそういう意識を持っていた方がいました。
 武士の意識と町人の意識は全く違います。日露戦争の真っ最中に、与謝野晶子が『君死にたもまふことなかれ』という歌をつくりましたが、これは弟に向かって旅順なんかで死ぬことはないというようないわば反戦の歌です。しかし、明治政府は何ら気にとめませんでした。
 当時の政府高官は武士の出身者ですから、『町人の女が何を言っている』というようなもので全く問題にしなかったのです。
 やがて与謝野晶子のような物言いが問題になっていくのは、階級の境が溶けてきたからだと言えます。しかし、3代くらい続いた軍人の家などは敗戦間近まで、家族も何も捨てて討ち死にするという覚悟ができていたと思います。
 武士が、『ちょっと家内が病気で引きこもってして戦争に行けません』などと言ったら、これはもう武士ではありません。
 農家について私はよく知っていますが、日本の農家は、日本の農家に生まれなければ絶対にできないものだと言えます。ようやく雪が溶ける頃から水に入って苗代(なわしろ)をとり、田植えをし、最も暑い時期に夏草をとり、稲刈りをする。1年の3分の2を、ずっと腰を曲げて働くのです。
 これは農家に生まれ、子供の頃から手伝わされていればできますが、そうでなければ辛くてできません。最近では機械化が進んでいるので、脱サラで農家を始めることもできるかもしれませんが、少なくとも私が大学生になる頃までは絶対に無理だったと言えます。
 こういった『家』の違いというものが厳然としてある中で突出して特殊な家が皇室です。その皇室の伝統は少なくとも昭和天皇までは、昔の通り守られてきました。それが敗戦によって揺らいできたので、小泉信三氏はそれを憂えて御君徳について挙げておられるのですが、具体的にそれが何なのかは述べておられません。
 そして小泉信三氏は、イギリスのジョージ5世を参考にされたようです。確かに参考にはなると思いますが、その前に核としての日本の伝統を伴った生き方がなければ、日本の天皇の御君徳にはならないのです。
 皇太子ご夫婦の違和感
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 家産相続法と系統相続続法
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 イギリス王室、つまりは欧米の王家と日本の天皇家は、相続法が基本から違うからです。欧米の王室、あるいは貴族の相続法は、家産相続法です。国家としての利益になれば、王はどこから連れてきてもよいということです。
 1688年にいわゆる『名誉革命』が起こりました。名誉革命とは簡単に言えば、次のような話です。
 ジェームズ2世という王が勝手気ままなので、議会が叛乱を起こし。こんな王ならいらないとなった。しかし、王がいないのは困るので、王の娘メアリーの結婚相手であるオラニエ公ウィリアムを迎え入れようとした。しかし、やはりしれではまずいと、ウィリアム&メアリーと並べ王位継承することになった。そのうち、メアリーのほうが先に亡くなってしまった。
 メアリーが男子を生まなかったため、メアリーの妹を呼び戻してみたりもした。いかし結局、系図を辿り辿ると血が繋がっているという理由から、ドイツがまだ小さな王国の集まりであった当時、ハノーファー王国の王であったジョージ1世を連れてきて即位させた。
 このジョージ1世という人は妻を死ぬまで牢獄に入れ、自分は愛人を引き連れてイギリスに入りました。元来、イギリスには来たくなかったと言われています。英語を話さず国内政治には関心を持たなかったため議院内閣制が発達した。宮廷楽長だったヘンデルをイギリスに連れてきたことだけが唯一の功績だった、と言う人もいます。
 イギリスは以上のような歴史がありますが、これはイギリスという国をなんとか存続させたいという国民の利益のための手段です。
 これが家産相続法ですが、日本でも徳川時代に大名家を継ぐ者がいないと、持参金を持ってきた者を養子に迎えたりして、血の繋がりなどは一切関係なくなってしまいました。大名家の家来にとっては、殿様がいるという事実だけが自分たちの生活に必要でした。殿様は誰でもよかったのです。
 大阪の大商人でも、家督を継ぐものがいなければ番頭に娘をめあわせる、適当な娘がいなければ夫婦養子にするなどの手段をとって、家の財産を守りました。
 対して、日本の皇室や公家は系統相続法です。これは男系を続けるという意味です。簡単に今風に言えば、Y遺伝子を辿れば悠仁親王は真っ直ぐに神武天皇までつながっているということです。こういった理由で日本の皇室だけが今まで続いたのです。
 ですから日本の皇室は、現在に適応することも必要なときがあり、また、事実適応し続けて今日に至っているのですが、同時に過去との連続を重んじなければ成り立たない王朝なのです。
 3万石と800万石
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 世界で唯一、男系で続いてきた、すなわち血統相続法である日本の皇室伝統があったからこそ、戦国時代の皇室のように普通の大名や地主や商人よりも貧しいような無力な時代にあっても、皇室に対しての国民の尊敬は失われなかったのです。
 戦国武将もいち早く、皇室に手を差し伸べようとしました。織田信長は皇室復興に非常に力を入れ、武田信玄はやりたかったができませんでした。上杉謙信は皇室復興はできませんでしたが、わずかの人数を連れて宮廷にあがりました。豊臣秀吉や徳川家は盛大に皇室を盛り立てる努力をしています。
 徳川家は公称800万石と言っていましたが、対して皇室は3万石足らずでした。800万石対3万石では圧倒的な力の差がありますが、しかし皇室が尊敬されないわけではありませんでした。それは、徳川は家産相続の頭であり、皇室は血統相続の頭だからです。
 徳川家は権威づけのためには、自らを『源』と称しました。源と言った途端に、源の祖先は清和源氏ということになります。清和源氏清和天皇の皇子から出たのですから、源は天皇の傍系になるわけです。本家を非常に尊敬しなくてはならない。
 ですから勅使がくると、緊張のあまり松の廊下で刀を抜く浅野内匠頭が出るくらいです。3万石からきた勅使になぜピリピリするかは、以上のような理由からです。血統相続は持っている財産や権力にかかわず、権威があるのです。
 日本の天皇の御君徳とは、その血統相続から出てくる自ずからなる自信だと思います。皇室論の究極のポイントは、この部分にあります。
 皇室を論ずるならば
 ハンチントンが世界を文明圏で分けましたが、どのように分けようとも一つの文明には、多数の言語、多数の民族、多数の文化が入ります。例えば、シナ文明の中には、満州や韓国も入ります。民族が違ってもシナ文明圏です。
 ところが朝鮮海峡を渡った日本をそこに組み入れることができるか、といえば、絶対に組み入れることができません。シナ大陸のちょっと先にある小さな島だといっても、組み入れることができないのはなぜか。
 組み入れることができない動かし難い芯があるからで、それが神社と一体になった皇室です。ですから我々が皇室の安泰と繁栄を願うのは、日本文明が皇室とともにあるからであり、もし皇室と神社に万一のことがあるならば、日本全体がシナ文明の一部に組み込まれることになります。日本語はシナ語とは全く異なりますが、それは韓国語も同じ話です。後は文化の指標となる宗教の仏教や、文字の漢字、儒教のようなものにしても、シナから来たと言われればシナ文明圏になります。
 日本がシナ文明圏に組み入れられれば、シナ人は、あたかも今の韓国人に望むがごとく、チベット人に望むがごとく、モンゴル人に望むがごとく、さらに沖縄の人たちに望むがごとく、傲慢として日本人に望むがでしょう。
 それをわれわれ日本人は欲するのかどうか、という問題が、皇室論に横たわっているのです。この視点がなく、皇室を論ずるのは、皇室を庶民の家庭と同列に置くことになることを忘れてはならないでしょう」
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 日本民族日本人は、触る事ができない姿形のないモノあるいは見えないモノに対して畏敬の念を抱き恐れ戦いたが、触る事ができる姿形のあるモノあるいは目に見えるモノに対しては執着心は少ない。
 西行法師「何事のおはしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
 家や家名さらには自分の姓名にすら執着心も愛着心も薄く、平気で血の繋がらない他家の養子・夫婦養子になるし、親が付けた名(名前)は勿論先祖からの氏姓(名字・苗字)すら勝手気ままに何度でも変えて名乗って恥じなかった。
 日本文化とは、「養子文化」であり、「創氏改名文化」であった。
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 百姓や町人などの庶民が、貧乏な下級武士の養子となり、出世して町奉行勘定奉行外国奉行に就任した。
 が、落ち度が発覚すると、素性が卑しいぶん如何なる言い訳・弁明も許されず、事の正否に関係なく、全ての責任を押し付けられ切腹とお家断絶の厳罰が申し渡された。
 それが庶民から成り上がった武士の哀れな末路であった。
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 責任を取らず有耶無耶にできたのは、名門・名家の上級武士だけであった。
 だが、大名にはそれが許されなかった。
 幕府は、大名を取り潰し領地を没収する支配方針であった為に、全国の大名領に隠密を放って大名の落ち度・失政の粗探しをしていた。
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 徳川家は、源氏→新田氏(足利系吉良氏)→地下侍・郷士松平氏→徳川氏になっる。。
 豊臣家は、無姓の百姓→足軽の木下→武士の羽柴→公家に養子に入り豊臣氏となる。
 日本の姓名とは、出世魚の成長に従って名を変えるボラ・スズキ・ブリのたぐいと同じように、出世・昇進と共に変えるべきものであった。
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 武士は、潔くアッサリと斬り死にする事を武士の本懐と定めていただけに、命欲しさに戦わず抵抗せず蜘蛛の子を散らす様に逃げ回る庶民(百姓や町人)を軽蔑していた。
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 庶民は、安全地帯に逃げて武士同士の合戦を高みの見物で楽しみ、合戦が終われば戦場に流れ込んで死んだ武士の身包みを剥ぎ裸にして穴に埋め、負けて逃げる武士を襲い首を刎ね勝った側に持ち込んで褒美を貰っていた。
 人買い商人は、乱取りで攫ってきた庶民を中世キリスト教会の宣教師を通じて白人キリスト教徒商人に売った。
 白人キリスト教徒商人は、買い取った日本人を奴隷として世界中に売って大金を稼いでいた。
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 戦場で乱取りなどの無法行為を行うのは、教養ある正規の武士ではなく、金銭雇用で渡り歩く武士や百姓の足軽・雑兵達であった。
 日本の百姓は、異人種異民族の侵略を受けて虐殺と略奪で甚大な被害を繰り返し受けた世界の農民・農夫とは違う。
 日本の戦とは、、武士同士が潔く正々堂々と戦う合戦絵巻の様な美しいものではなく、欲望がドス黒く渦巻く汚れたえげつないものであった。
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 現代日本人は、乱取りをして日本人を奴隷として売り飛ばして金を稼いだ庶民の子孫であって、武士の子孫ではない。
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 日本人の感情の奧に、自分より弱い者・弱者に対する冷淡・冷酷・非情・冷血といった心の闇を隠している。
 それ故に、日本社会から相手を死に追いやるイジメや意地悪そして虐待はなくならない。
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 日本民俗には、口減らしを目的とした、働けない動けない老親を捨てる姥捨て山、中絶・堕胎や間引き・嬰児殺しなどの水子文化が、極普通に存在していた。
 日本人には、親殺しと子殺しという「尊属殺し」の歴史的民族的文化的前科が存在する。
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 日本人の原罪・宿罪とは、アダムが絶対神の神命に背いて禁断のリンゴを食べたというキリスト教の原罪より重く酷い、許しがたい「尊属殺し」である。
 日本には、キリスト教の救いや癒やしはなく、神の王国・天国に導かれる資格はない。
 ゆえに、日本列島は絶対神神罰として自然災害多発地帯に置かれ、日本人は地獄の様な自然災害に死ぬまで苦しめら運が悪ければ命を落とした。
 それが、キリスト教的考えである。
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 庶民とくに百姓は、年貢を搾りとられ合戦ごとに痛め付けられる可哀想な被害者ではなく、気を許すと何をするか分からない油断も隙もない手ごわい相手であった。
 えげつないムラ根性で生きていた百姓には、隣人愛のキリスト教も平等公平のマルク主義も無縁であり、関心も興味もなかった。
 ゆえに、キリスト教会やマルクス主義は都市や町で広がったが農村や村では受け入れず排除された。
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