🏯71)72)─1─貧富の格差解消方法。暴力的富の再分配。町人の打ち壊しと貧窮組。百姓一揆。~No.135No.136No.137No.138 @ 

江戸の自然災害 (同成社江戸時代史叢書)

江戸の自然災害 (同成社江戸時代史叢書)

  • 発売日: 2010/04/01
  • メディア: 単行本
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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の真の脅威は、自然災害及び疫病と飢餓であった。
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 江戸幕府を弱体化させ崩壊を早めたのは、幕末に起きた巨大複合自然災害による疫病・飢餓そして百姓一揆と町人の打ち壊しであった。
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 日本で発生する自然大災害は、権力者だろうが、金持ちであろうが、名僧・高僧・宗教家であろうが、例外なく被害お与え、そして命を奪った。
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 幕府や諸大名は、貧しい庶民(百姓や町人)の不平不満が豪商・資産家や豪農・地主に向けられ暴動を起こす事を黙認し、殺人・略奪・強姦など犯罪行為に暴走しない限り放置した。
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 1800年〜1865年 寛政・天保小氷河期。
 1828(文政11)年9月17日 シーボルト台風
 1833(天保4)年・1835年・1836年・1838年は大凶作で、天保の大飢饉が起き、多くの餓死者が出た。
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 1853(嘉永6)年2月2日 小田原地震。 
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 1854(安政元年)6月15日 伊賀・伊勢・大和地震
 南海トラフ地震。11月4日、安政東海地震。11月5日、安政南海地震
 11月7日 豊予海峡地震
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 1855(安政2)年8月3日 仙台地震
 首都直下型地震。10月2日 安政江戸地震と江戸大火。
 死者、1万人。
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 1856(安政3)年7月23日 陸奥地震
 9月23日・24日 安政の江戸台風。江戸暴雨風と巨大高潮。死者、約10万人。
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 1858(安政5)年2月26日 飛騨・越中地震
 1858年59年 江戸でコレラ大流行。死者、20万人。
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 2018年1月号 新潮45「昭和史の人間学 保阪正康
 21 自己ハ過去ト未来ノ一連鎖ナリ
 …… 
 これは幕末の話なのだが、師走の江戸の街には、奇妙な集団があらわれた、という。『貧窮組』という旗を押したてた一団、といっても男女数百人というのが、街中を練り歩き、角々に大釜を据える。町内の金持ちの家から米やおかず、お金をもらっておかゆを炊き食べるのだそうだ。そして次の町内へとでかけていく。別にこの年が不況でも景気が悪いというわけでもない。この貧窮組はねずみ算式に各地にと広がっていく。とくに盗人や遊び人ではなく、ふつうの庶民である。しかしどの家も協力的ではない。
 幾つもできる貧窮組はやがて金持ちの家を襲うことになる。逆にこれらの『デモ隊』に米を二俵もだす鰻屋もいれば、とにかく鍵をかけてやりすごそうとする商家もある。すると打ち壊しになる。暴力の程度が時間と共に激しくなる。幕府も始めは弾圧しないが、打ち壊しが激しくなると町内に小屋をつくり、貧窮人に米を渡してその動きを抑える。
 このエピソードは何を語っているのか。幕府は貧窮組の動きを大目に見ることで、暴力的に行われる富の配分について温情的にふるまい続けるのだ。江戸時代にはこうした形での年末の富みの分配が頻繁に行われていたとするなら、まさに過去と未来のつながりを富の再分配ということで許容していたように思えるのだ。こういう形の中に、人は(ここでは幕府の権力はとなるが)時代をつなぐ連絡の役目を迫っているとの自覚をもつのだろう」
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 YAHOO!ジオシティーズ「幕末維新裏話
 幕末の頃にあったちょっとした裏話です。
 貧窮組
 1866年、江戸において取締の不行届けに乗じ「貧窮組」が旗揚げされた。
 何者が始めたのかは不明であるが、この組は自然に盛り上がっていった。
 この組は、菰の旗を押し立てて、何百人という男女がグループになって市中を押し歩いた。
 そして、四つ辻や角に大釜を据え、物持ちの家からお米や野菜や金等を貰って粥などを作り、食べ終わると、時の声をあげて他の町内へ繰り込んでいった
 ただ食べ歩くというだけで乱暴はしなかった
 これが一種の流行となり、ついには中流以下の家に強制的な誘いが来るようになった
 やがて、職人は職人同士という職能別組合まで結成されるようになる
 このようにして変なムードで盛り上がっていったある日
 どこからともなく貧窮組が集まり、やがて大部隊となり、馬場町の油屋の打ち壊しから始まり
 様々な町家を40軒ほど壊すとすぐ解散してしまった
 そして、これと同じようなことが他の方面でも発生し、大暴動が起きた
 この事態に幕府は、町会所から1人につき一貫匁を支給、百文につき米2合5勺を払い下げると予告した
 しかし、これが実行されなかったので貧民が蜂起し、米屋、味噌屋等を襲撃し、
 これが各方面に広がり、各所で打ち壊しが行われた
 そこでやむなく幕府はお救小屋を建て、米を施した
 この一連のことは、内外施政者に、国政混乱が直ちに民衆蜂起に導くという教訓を与えた」
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 信研ゼミ中学講座
 【近世(安土桃山時代?江戸時代)】 打ちこわしと百姓一揆の違い
 打ちこわしと百姓一揆の違いがわかりません。教えてください。
 打ちこわしと百姓一揆(いっき)は,次のような点が違います。
 ■打ちこわし
 [だれが]都市の貧しい人々
 [どこで]都市(おもに江戸や大阪など)
 [何のために]ききんなどで米が不足し,商人が米を買い占めたことによってつり上がった米価を引き下げるなどのため
 [何をしたか]米商人らを襲った
 ■百姓一揆
 [だれが]百姓
 [どこで]農村
 [何のために]年貢(ねんぐ)の減免や,不正をはたらく村役人を交代させるなどのため
 [何をしたか]領主に直訴したり,村役人らを襲った
 打ちこわしも百姓一揆も,18世紀以降,大きなききんの後にとくに多発しました。これは,米の不足で生活に苦しむ人々が,不満をぶつけたものだといえます。 打ちこわしは「米よこせ」運動,百姓一揆は「年貢を減らせ」運動と覚えると,わかりやすいと思います。
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 ウィキペディア
 打ちこわしとは、江戸時代の民衆運動の形態のうち、不正を働いたとみなされた者の家屋などを破壊する行為のこと。「打壊」、「打ち壊し」、「打毀」、「打ち毀し」などと表記されることもある。[1]主に都市部において、買い占めなどによる物価高騰の原因とされた者に対して行われることが多いが、百姓一揆に伴って、領主の悪政と結びついたとされた特権商人や村役人に対して行われることもあった。家財の略奪なども行われたが、一方で正当な制裁行為であることを主張するために、家屋の破壊だけにとどめ、略奪や放火は厳に戒められた事例も多く知られている。
 都市における最初の打ちこわしは、元禄16年(1703年)に長崎で発生し、享保18年(1733年)には江戸でも初めて発生した。それ以後も飢饉や政情不安などによりしばしば発生し、特に物価が急に上がった幕末にかけて増加した。
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 享保の打ちこわし(きょうほうのうちこわし)とは、江戸時代中期の1733年(享保18年)の江戸で起こった庶民による打ちこわしである。
 1732年(享保17年)夏に起こった享保の大飢饉による米不足で米価が高騰した際、庶民の間で米価高の原因は徳川吉宗に協力し、米価の安定に尽力していた米商人の高間伝兵衛が米を買い占め、米価をつり上げようとしているという噂が立った。それに対し、幕府は米を供出するなどして米価を下げようとしたが失敗した。
 そして、1733年(享保18年)正月に高間伝兵衛の自宅を1,700人の庶民が襲い、家材道具や米俵等を川に投げ入れるなどした[1]。これが江戸時代最初の打ちこわしとされている。
 なお、その時高間伝兵衛は房総にあった自宅に戻っていたので無事であった。その後、高間伝兵衛は自身が所持していた多量の米を放出して米価の安定に努めた。幕府は打ちこわしに関わった中心人物数人を流刑にした。
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 天明の打ちこわし(てんめいのうちこわし)とは、江戸時代の天明7年(1787年)5月、ほぼ同時期に江戸、大坂など当時の主要都市を中心に30か所あまりで発生し、翌6月には石巻、小田原、宇和島などへと波及した打ちこわしの総称である。天明7年5月の打ちこわし発生数は江戸時代を通じて最多であり、特に5月末の江戸打ちこわしは極めて激しかった。全国各地で同時多発的に発生した打ちこわし、とりわけ幕府のお膝元の江戸打ちこわしによって当時幕府内で激しい政争を繰り広げていた田沼意次政権派と、松平定信を押し立てようとする譜代派との争いに決着がつき、田沼派が没落して松平定信が老中首座となり寛政の改革が始まることになった。
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 天保騒動(てんぽうそうどう)は、江戸時代後期の天保7年(1836年)8月に甲斐国で起こった百姓一揆。甲斐東部の郡内地方(都留郡)から発生し、国中地方へ波及し一国規模の騒動となった。別称に郡内騒動、甲斐一国騒動、甲州騒動。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 天明の打毀 てんめいのうちこわし
 江戸時代の天明年間(1781〜89)に勃発(ぼっぱつ)した都市騒擾(そうじょう)。この期は、江戸時代を通じて一揆(いっき)・打毀の激化・高揚した時期の一つである。天明期の都市騒動件数107件中、69件が打毀であり、残りの大半の件数も打毀未遂分。なかでも1783年(天明3)には17件、87年には44件(ほとんどが同年5〜6月に集中)の打毀(未遂も含む)を数え、いずれも天明の飢饉(ききん)による米価暴騰に起因した米一揆米騒動としての性格を帯びていた点が特徴的である。とくに87年5月には江戸、京都(不穏)、大坂をはじめ、長崎から岩槻(いわつき)(埼玉県さいたま市)までの九州〜関東に及ぶ諸都市(城下町、港町、宿場町、門前町)に発生した。各地ともいずれも町方の下層民が、闘争の主体勢力となった。[山田忠雄
 天明の打毀の関連キーワード |天明の飢饉 |田沼時代 |町方騒動 |山田忠雄 |打毀
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 打毀 うちこわし
 江戸時代に,おもに都市においてみられた暴動。百姓一揆との違いは,第1に暴動の主体勢力が都市下層民であったこと,第2に原因が米価高騰にあったことである。打毀の対象となったのは,米屋,酒屋,質屋,問屋などの富裕商人たちで,彼らが意識的に米価の吊上げをはかったことから,その影響をいちばんこうむりやすい都市下層民たちにねらわれることとなった。大規模な打毀の例としては享保18(1733) 年の江戸におけるものがある。これ以後打毀は激しさを増し,天明年間 (81〜89) における飢饉に際しては,江戸だけでなく大坂,京都,広島,長崎,石巻など全国に及ぶほどであった。幕末期における打毀は幕府崩壊を早めることになった。
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 百科事典マイペディアの解説
 打毀【うちこわし】
 打壊とも書き,打潰(うちつぶし)などともいう。江戸時代,百姓・町人の中下層身分による,大庄屋・庄屋層,地主・在方商人・都市富商などの豪農・豪商の家屋・家財・生産用具類を破壊し,被害を与える闘争手段。
 →関連項目磐城平元文一揆|加茂一揆|絹一揆享保の飢饉|郡内騒動|山中一揆|七分積金|信達騒動|尊王攘夷運動|田沼時代|町人|伝馬騒動|天明上信騒動|天明の飢饉|鳥取藩元文一揆福島藩武州一揆|蓑虫騒動
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 世界大百科事典 第2版の解説
 うちこわし【打毀】
 打壊とも書き,打潰(うちつぶし),打崩(うちくずし),ぶっこわしなどともいう。江戸時代,百姓・町人の中下層身分による大庄屋・庄屋層,地主・在方商人・都市富商などの豪農商の家屋・家財・生産用具類を破壊し,被害を与えた闘争手段で,近世の階級闘争のなかで最も激化した形態の一つである。とくに都市では飢饉その他による米価騰貴を原因とする都市下層民衆の米一揆米騒動に伴う打毀が多く,500件近い近世都市騒擾の約半分は打毀が占める。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 打毀 うちこわし
 家宅、家財、道具類を集団で破壊する、江戸時代の農民、都市民のもっとも激しい闘争形態。江戸時代の初頭には武力を用いる反乱もみられたが、兵農分離が完成する一方で百姓訴訟法が制度化されると、法に基づく訴願が広がり始めた。しかし、その方法によって目的が達せられないときは、他領に逃げたり、村役人が訴訟の手順を無視して上級の権力に訴える代表越訴(おっそ)の手段がとられた。村役人の代表越訴は、やがて中下層の農民が加わってきて惣百姓(そうびゃくしょう)の強訴(ごうそ)に変わった。集団的な行動である強訴は、領主に負担軽減を要求するだけに終わらず、打毀を伴うことが多かった。早い例としては1686年(貞享3)信濃(しなの)松本藩一揆(いっき)(加助(かすけ)騒動)に小規模な打毀が現れたが、1712年(正徳2)加賀大聖寺(だいしょうじ)藩一揆は、全藩規模の打毀を伴う強訴となった。以後、強訴と打毀が一体になった百姓一揆が多くなる。
 打毀は領主権力に向けられるものではなく、一揆に同意しない村役人、領主と結託したり内通した者、高利の金融で百姓をとりつぶしたり買占めで物価をつり上げた者などに向けられた。村方でも行われたが、城下町へ押し入って打毀すこともあった。打毀は、農民が悪人と判定した者に対して、領主の力を借りずに自らの手で行う激しい制裁行為であり、水争いなどの際にも類似のものがみられた。この行動は種々の道具を用いて行われ、生活、生産の諸手段を徹底的に破壊したが、家屋そのものを倒壊させることはほとんどなく、放火が行われたこともなかった。
 農民の打毀に対し、都市では、小商職人や雑業者が米の買占めや価格高騰に怒って特権的な商人宅を襲う、米騒動の性質をもつ打毀が起こった。早い例としては1713年(正徳3)長崎、31年(享保16)飛騨(ひだ)高山の打毀があるが、大規模なものは33年1月に江戸で起こった米問屋高間伝兵衛(たかまでんべえ)宅の打毀が最初である。以後、凶作、飢饉(ききん)の年には三都や城下町に頻発するようになり、各地の港町や在町(ざいまち)でもみられるようになった。都市民の打毀も富の独占に対する自らの手による制裁であったが、飢饉で米価が異常な高騰をみせる時期には、広域にわたって連鎖的に起こるのが特徴であった。ことに1787年(天明7)には全国的な広さで都市打毀が起こり、江戸は無政府状態になるほどであった。天保(てんぽう)年間(1830〜44)、慶応(けいおう)年間(1865〜68)にも打毀が激化した。また在町で起こる打毀では、農民と都市民が相呼応する形になった。[深谷克己]
 『林基著『百姓一揆の伝統』正続(1955、71・新評論社) ▽深谷克己著『百姓一揆の歴史的構造』(1979・校倉書房) ▽佐々木潤之介著『世直し』(岩波新書)』
[参照項目] | 飢饉 | 百姓一揆
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 世界大百科事典内の打毀の言及
 【江戸】より
 … 幕府がこうした数多い下層民のために拝借米の支給や町会所を通しての米金の施行に力をつくしたのも,将軍家のおひざもとである江戸に社会不安をひきおこしたくなかったからである。江戸の民衆の打毀(うちこわし)は1733年の米問屋高間伝兵衛への打毀が最初であるが,87年(天明7)の大打毀は,これによって田沼政権から松平定信の時代に変わっていったほどの事件として評価された。政権を獲得した松平定信は,江戸に社会不安をひきおこさないために,これまで個々の豪商たちの数ヵ町規模の施米金でなく,江戸全体で下層民の生活保障のしくみをつくろうとして町会所をつくったのである。…
 【寛政改革】より
 …田沼の重商主義的な政策に便乗した商人の物価つり上げに苦しむ生活困窮者や,都市に流れ込む没落貧農の増加により,都市下層貧民層が急速に増大した。彼らは,米穀買占めなどの不正が行われたり,飢饉により米価が極端に高騰したりすると,たちまち都市打毀(うちこわし)の主体勢力となった。天明期は,百姓一揆とともに,都市打毀の前代未聞の激発期でもあった。…
 【強訴】より
 …18世紀に入ると強訴がふえるが,小百姓の多数参加によって,領主に対する直訴だけでなく,特権をもつ一部の百姓・町人や一揆に協力しない村役人の家宅を,制裁として打ちこわすことも起こりはじめた。加助騒動のなかでもすでに打毀(うちこわし)の端緒がみられるが,1712年(正徳2)の加賀大聖寺一揆は,激しい打毀をともなう全藩的な規模の強訴の画期となった。強訴の増加は一揆禁令にも反映し,幕府は41年(寛保1),〈地頭え対し強訴,其上致徒党逃散(ちようさん)之百姓〉に対する刑罰を決めた。…
 【七分積金】より
 …江戸町会所の運営は勘定所御用達に任ぜられた10名の特権的豪商のほか,名主の代表,地主・家守からとりたてられた吏員(座人)によって担われ,江戸の地主層の一種の共同組織(会所)としての性格も有した。この改革実施の直接的契機としては,1787年5月に江戸町方全域に発生した激しい打毀(うちこわし)があげられる。これは天明の飢饉による窮乏化の中での都市下層民衆による一種の米一揆であるが,江戸全域に及んで幕府に大きな衝撃を与えた。…
 【伝馬騒動】より
 …1764‐65年(明和1‐2)武蔵国を中心に起きた助郷(すけごう)役増徴反対の百姓一揆。64年8月,江戸幕府中山道の伝馬助郷役不足の解決と,翌年にせまった日光東照宮百五十回忌の交通量増大に対処するため,増助郷(ましすけごう)課役の方針をうちだし,板橋宿から和田宿までの武蔵,上野,信濃28宿の村々に高100石につき人足6人,馬3疋の増助郷を命じ,人馬役負担の困難な村には代金として高100石につき金6両2分を提出させようとした。…
 【徳川吉宗】より
 …22年には老中水野忠之を財政専任とし,本格的財政再建に着手し,諸大名に領地1万石につき100石の上米(あげまい)を出させて当面の急をしのぎつつ,新田開発,検見法の改革,年貢率引上げ,定免制施行などにより年貢増徴をはかり,かなりの成果をあげた。ところがその矛盾が不況,米価下落,農民の年貢減免要求などの形で表面化し,32年には瀬戸内海沿岸を中心に大飢饉が発生し(享保の飢饉),翌年1月には江戸ではじめて〈打毀(うちこわし)〉が起こった。そこで36年(元文1)通貨を悪鋳(元文金銀),増発して不況を緩和し,翌年老中松平乗邑(のりさと)を財政専任に,神尾春央(かんおはるひで)を勘定奉行に登用して再び財政強化をはかり,その後しばらく安定した状態となった。…
 【百姓一揆】より
 …1686年(貞享3)の松本藩一揆(加助騒動)はその事例である。この一揆は打毀(うちこわし)をともなったが,1708年(宝永5)の水戸藩一揆は打毀をともなわない惣百姓強訴になった。惣百姓強訴には二つの形態があったが,もっとも典型的なものは激しい打毀をともなう全領域的な惣百姓強訴である。…
 【蓑虫騒動】より
 …江戸時代において越前などで起こった打毀(うちこわし)などを伴った大規模な百姓一揆の総称で,特定の一揆をさす名称ではない。史料上では,〈百姓蓑虫出る〉〈丸岡御領内蓑虫騒立つ〉(藩政史料),〈七月廿七日夜六ッ時みのむしをこし候〉(一揆廻状),〈蓑虫徒党致すまじく〉(村法)などと表現されている。…
 【村方騒動】より
 …百姓一揆のなかには,村方騒動の内容である村役人の任期や不正を要求条項のなかに掲げるものがあり,また一揆の後に村方騒動が広がることもあった。豪農商に対する激しい打毀(うちこわし)である世直しの基礎にはたいてい村方騒動があり,打毀に連動して村方騒動が急速に波及していくことが多かった。なお近世村落には,村役人や地主,豪農などに対する村方騒動と同じ対抗関係ではないが,一村の内部あるいは村と村との間で山や水や地境などをめぐって山論,水論など種々の争論が発生しており,階層間の対立とあわせて数多くの村方出入が起こった。…
 【世直し】より
 …政言刃傷事件とたまたま期を同じくして江戸の米価が下落したこともあって,江戸市民は政言を〈世直し大明神〉と称し,その神号を書いた数十本の幟(のぼり)が徳本寺の墓地に立てられたという。
 [世直し大明神と騒動]
 18世紀の半ばごろから,百姓一揆と並んで,商人,高利貸,地主の〈不正〉を追及して打毀(うちこわし)を伴う騒動が展開しはじめた。その騒動に,騒動の要求とはげしい打毀行動とを正当化するものとして,世直し大明神が登場した。…
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