🏯45)46)─1─未調整、乱雑。徳川家康が作った閉鎖的封建社会。~No.85No.86No.87No.88 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 食糧自給自足列島日本と自助努力ムラ社会日本における飢饉の恐怖。
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 徳川家康は、武士だけではなく百姓も町人も、全ての日本人が字を覚え本を読む事を奨励した。
 その結果、江戸時代の識字率はたかった。
 本を読む事で智識を付けた人々は、知らない事を知りたいという好奇心を持った。
 徳川家康は、身分に関係なく有能な人間を登用した。
 それが、外国人でも関係なかった。
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 徳川家康は、経教分離の原則で、幕府主導の外国交易を盛んに行っていた。
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 神道では働く事は神事で、キリスト教では労働は懲罰で、儒教では労働を蔑視した。
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 現代日本人は、昔の武士道精神を持ったサムライ日本人とは無関係である。
 武士道を失った現代日本人は、サムライ・武士・武者ではない。
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 鶴彬「神代から連綿として飢ゑてゐる」
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 安藤昌益「人は米なり」
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 鈴木正三「農業則仏行なり、何の事業も皆仏行なり。仏行の外成作業有るべからず」
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 日本の税金は、百姓が生産する「コメ」のみであった。
 日本の納税者は、生産者である百姓のみで、サムライはもちろん町人・職人・漁民は納税の義務のない消費者であった。
 コメは、食糧であったが、金銀と同等の価値ち、商品であり金銭でもあった。
 農本主義として、重商主義重農主義を調和させ、海上と陸上に一大流通網を整備し、統一通貨の他に手形為替や地方流通券を多用した金融システムを構築した。
 東南アジアや西洋に対して、金銀銅の鉱石と刀剣・美術工芸品・昆布などの乾物やその他を輸出していた。
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 鎖国状態にあった日本では、生産量の増加の為に、周辺地域の貧民を農奴として大量に移住させる事が出来なかった。
 日本の戦いは、食糧生産を維持する為に、無駄に田畑を荒らし、納税者の百姓を殺す事が出来なかった。
 日本の戦場は、城下町・寺町などの人家の多い町屋か、河川敷・山野・原っぱなど人気のない地域かの、何れかで田畑はできる限り避けた。
 百姓町人は、弁当をもって合戦を見物し、戦いが終われば落ち武者狩りを行って褒美をもらい、戦死したサムライから身ぐるみはいで近くの寺に弔った。
 日本で、中国や朝鮮の様に大量虐殺が起きなかったのは、食糧生産基盤を破壊しない為であった。
 日本の合戦と世界の戦争とは、同じ殺し合いでも、その本質が違っていた。
 大陸の王宮は、高い城壁と深い堀に囲まれた難攻不落の城塞都市の中で、さらに堅固な防壁で守られていた。
 日本の王城は、低い壁に囲まれるだけの無防備都市であった。
 戦って死ぬのは、サムライとその家臣のみで、百姓や町人などの庶民ではなかった。
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 戦乱時代の下級武士は、強い方に付いておこぼれを得るという特定の主君を持たない渡り奉公者で、安い俸禄で領地・領民とは縁もゆかりもなかった為に、農村を襲撃しては百姓を殺害し娘を強姦し食べ物や金目の物を強奪するなどの乱暴狼藉を働いた。
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 戦いに勝って領地を増やしても、食糧を生産する百姓がいなければ手に入れた領地は不毛な土地にすぎなかった。
 武士などの支配階級は、領地を不毛な土地にしない為に、百姓を虐待し搾取するのではなく手厚く保護した。
 そこが、反宗教的儒教国の朝鮮や中国と違う所である。
 忠誠心のない百姓は、横暴な領主が支配する土地からは逃亡し、人徳のある領主の領土に逃げ込んだ。
 開放的な大陸では。領主が、気にくわない農民を大量に虐殺して食糧難になっても、戦争で敵国から不足分の食糧を強奪し、敵国人を農奴として強制移住させて農業をさせれば事が足りた。
 付加価値の高い牧畜を行う為に、暗い森林は悪魔や盗賊の住処であると言いがかりを付けて大伐採を行い、芝生を植えて循環可能な自然環境を破壊した。
 大陸の土地は、変化の少ない安定した自然環境にあったが、その多く栄養分のある表土が少ない痩せた農地不適用地であった。
 大陸の支配階級は、下層階級の人民を奴隷の如く扱い、差別し搾取の限りを尽くし半殺しの目にあわせても、罪の意識はなく、むしろ特権として猟奇的に楽しんでいた。
 上流階級は、町の郊外では、草原であろうと農地であろうともお構いなく馬車を疾駆させていた。
 農作物を踏み荒らそうと、農奴を跳ねて殺そうと、如何なる行為を好き勝手に行おうとも、特権で保護されていた為に罪に問われる事がなかった。
 戦争さえ、娯楽の一部としてスポーツかゲームにすぎずなかった。
 死ぬのは身分低い兵士であって、上流階級出身の高級将校は戦死する事はまず無く、捕虜となっても身代金で自由の身となった。
 戦争捕虜として保護されるのは、身代金が取れる身分の高い将校であり、資産の無い将校や兵士は保護の対象外とされた。
 普遍宗教は、大陸の世界宗教として、特権階級からの多額の寄付をて壮麗にして荘厳な教会を建て、信者である下層階級に領主の命令に従う事は絶対神の御意思であると教えた。
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 大陸の、王侯貴族などの支配階級は富を蓄えゴージャスな生活を満喫していたが、下層民は圧政で搾取され悲惨な生活を死ぬまで強いられていた。
 島国の、サムライなどの領主は領民に恨まれない様に質素で慎ましい生活に心がけたが、百姓町人はたまに物見遊山の観光旅行が出来るだけのゆとりある生活を楽しんでいた。
 開国するまで、食糧を海外に依存できなかった閉鎖社会日本は、百姓が生産する限られた農作物で食いつなぐしなかった。
 アメリカの恫喝外交に屈して開国するや、里山を中心とした日本の再生可能な自給自足体制は崩壊し、循環型の農村経済は弱肉強食の市場経済に飲み込まれて崩壊した。
 安定した農村の崩壊と百姓の悲惨は、開国によって始まった。
 近世までの日本は、生産者有利・消費者不利の神道的社会であった。
 近代以降の日本は、消費者有利・生産者不利の西洋的社会である。 
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 日本と中国・朝鮮は、全ての価値観を異にする異質な国であり、共通点が限りなく少ない別の民族である。
 唯一。同じ所があるとすれば、生物学的な人型動物という所である。
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 江戸時代の地方には、現代日本の地方都市とは違って、人が伝統と文化と宗教と歴史と共に生きているという生活臭が色濃く存在していた。
 現代の様な統一規格によ没個性的な金太郎飴的画一性ではなく、個性を持った複数の特性を持った多様性が存在していた。
 大名は、租税を増やす為に領民が増えるような施政に心掛けた。
 百姓や職人は、物がより多く売れる為に、他にはない特産品や名産品を生み出す事に心掛けた。
 町人は、旅人が多く訪れるように、人の心を引きつけるような魅力ある町作りと、人の好奇心を?き立てるような幾つものイベント施設・行楽地・景勝地を、創意工夫で領内に作るように心掛けた。
 そうした他人を重視した心掛けが、「おもてなし」の原点である。
 相手を思う「おもてなし」によって、日本は一国で一つの宗教文化圏・金融経済圏を形成し、ヒト・モノ・カネが陸と言わず海と言わず騒々しいほどに移動していた。
 そこにあったのは、四季折々の豊かな自然環境で、粋を壊すような野暮ったい付け足しもせず、雅を損ね趣向を壊すような取り除きもしない。
 人間の醜い欲得を捨て去った、あるがままの自然の風情、すがすがしい趣き。
 昔の日本人の感性は、古来、曖昧さという中間色的な自然光の中にあった。
 日本の街道は、世界の道とはその本質を異にしていたし、その性質では他に類例がない世界的非常識な道であった。
 だが。現代日本から、人が生き生きと生きずいているという風情が消滅し、何故か引き寄せられてしまうという魅力がなくなりつつある。
 つまり、豊かな自然が金儲けの種となって無計画的に破壊されつつある。
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 安部龍太郎関ヶ原の戦いは江戸時代の史観では、豊臣家を守るのか、家康が新しい時代を開くのかという話で、家康の天下簒奪みたいな話になりがちです。本当はもう一つ大きな政治的なテーマがあった。それは朝鮮出兵で疲弊してしまったこの国をどうやって立て直すかということです。
 主に東日本は農耕主体、いわゆる鎌倉武士的武士たちが活躍するような土壌で、西国は完全に交易中心です。大阪湾に集まる交易船から関銭などを徴収するなどして、すごい金が豊臣家に入ってきた。その金で中央集権的な政権をつくった。それが朝鮮出兵の失敗で欠陥が露呈してしまう。
 この国をどう立て直すかというのは、昭和20年8月15日の日本みたいなものだったと、私は思う。政策の対立が大名たちの頭のなかにあったと思います」
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 1600年頃の人口は、1,200万人〜1,500万人とされている。
 戦国大名は、徳川家康が天下を統一して幕府を開き領地的私闘を禁止した為に、合戦で領地を広げる事ができなくなった。
 合戦がなくなるや、戦いに備えて雇っていた多くのサムライは、無駄飯食いの無用な家臣団となった。
 戦国大名は、生死を賭けた合戦で助け合って生き抜いてきた主従関係という情緒から、突然、家族もろともに暇を出して路頭に迷わせる事が人情として出来なかった。
 大陸では。領主は、無駄な支出を減らしゴージャスな生活を維持する為に、不要になった家臣を遠慮容赦なく解雇した。
 彼等には、利益に伴う合理的な契約意識はあっても、利益度外視の情緒的な情関係は存在しない。そこには、人情の入り込む余地はなかった。
 それは、儒教の朝鮮や中国でも同じである。
 財政難の大名は、大量の余剰家臣を養うべく百姓に重税を課したが、百姓は重税を課せられるや田畑を捨てて税の安い他領に逃亡した。
 幕府は、倒幕を起こす危険性のある有力大名を取り潰す好機を狙っていた。
 百姓が藩政に不満を持って一揆を起こして領内が騒然となれば、大名を潰すまたとない大義名分となり得た。
 各藩は、石高を上げる為に領内の未開地を開墾し、領内を豊かにする為に地場産業の保護と販路拡大を全力で行った。
 鎖国状態の日本経済は、自然に優しい再生可能な独自の土木技術を発展させ、田畑を増やした。
 農地の拡大に伴い百姓不足になるや、土地の相続が認められていない農家の次男・三男に農地を与えて独立させ、余剰のサムライを百姓身分に落として農作業を強要した。
 サムライは、主君の命令とあれば武士としての自尊心を捨て、刀を鍬に持ち替え、泥に塗れ、糞尿に汚れ、朝から晩まで重労働をして農作物を作った。
 自営農家としてコメを作って年貢を納めてくれるのであれば、サムライであろうが、町人であろうが、小作人であろうが、部落民であるエタや非人や乞食であろうが、山賊や強盗などの犯罪者であろうが、過去の身分や経歴は一切問わなかった。
 納税者の農村は、富を蓄えて知的水準を高めていた。
 彼等の中で精勤して成功した者には、准武士として苗字帯刀を許した。
 さらに、勤勉に励み学を積み博学となった者は、一代限りの下士郷士として武士身分に取り立て、藩政に参与させた。
 だが。失敗すれば、責任をとらせて、サムライとして切腹を命じるか、武士身分を取り上げて庶民として磔か斬首に処した。
 武士は、成り上がりのサムライを差別して、失敗を庇う事なく、自分達の失敗も擦り付けた。
 庶民も、成り上がりのサムライを俄武士と軽蔑して、処刑される事に同情はしなかった。
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 サムライは、260年間にわたって家禄の増額が望めず、町人・百姓に頭を下げて内職を分けてもらった。内職は、僅かな手間賃を得るだけで貧困には変わりなく、やむなく質素倹約に務め、継ぎ接ぎだらけのみすぼらしい生活で見栄を張って生きていた。
 「武士は食わねど高楊枝」と赤貧の痩せ我慢を、サムライの美徳とした。
 各藩は、生産に伴う収入を増大させ、消費に伴う支出を最小限に抑えた。
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 サムライにとって守るべきは、御家・藩であって主君の大名ではなかった。
 藩士にとって、主君・大名の優れたリーダーシップなど期待はせず、名君にならず、お飾り的に藩主の席に座って重臣が合議で決めた事を無批判で承認してくれればそれで良かったのである。
 幕府と大名は、主君を主君と思わないサムライ達の本心に恐怖して、儒教の「忠君」思想を広めるべく藩校などで教え込んだ。
 赤穂浪士忠臣蔵は、主君に対する忠誠心の証として賞賛され愛されていたわけではない。決して、愛社精神を美化したものではない。
 サムライには、自己責任が強要されていた。
 横領や横流しなど不正や犯罪行為が発覚すれば、一切の言い訳が許されず、家禄を没収されて藩外に追放されるか島流しにされた。最悪、切腹を命じられる事さえあった。
 主君の命令で藩を追放されたサムライは、常識ある人とはみなさず、まともな職にも就けず、日陰者として重労働の日雇い仕事かヤクザの用心棒が相場であった。
 切腹とは、滅びの美学としての武士の名誉ではなく、恥ずべき罪科の結果に言い渡される死刑の一種である。
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 ムラ人は、藩の約束違反の増収を許さず、納税者として泣き寝入りをせず、権力を振り回すだけの悪政や失政を懲らしめる為に一揆を行った。事勿れ主義的に問題を有耶無耶にして先送りにする事を許さず、責任あるサムライを切腹させ、大名に反省を促した。
 だが。喧嘩両成敗として、ムラの責任者や一揆の張本人は、如何に正当な理由があろうとも、サムライに逆らった罪で磔の刑にされた。
 何事においても、命を犠牲にする自己責任が強要された。
 ムラ人は、神道に従って、重罪として処刑された百姓の遺徳を偲んでムラ全体の百姓神として、緑生い茂る神社に祀った。
 仲間に貢献した者や悔しい思いを残して非業の死を遂げた者は、ムラ人全員がムラの「神」として神社に祀った。
 敵方の死者は、その魂への尊厳として死骸をうち捨てることなく、霊魂の供養として寺院に「仏」として手厚く葬った。
 味方は「神」であり、敵は「仏」であった。
 神仏は、同等の価値を持った日本人の信仰対象であった。
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 社会が貧しいから犯罪率が高いわけではなく、仕事があって働いて最低限でも家族が食べて行けるのであれば犯罪者にはならない。
 働いても家族が食べて行けないから、「生きて行く為にやむなく」犯罪に走るのである。
 金持ちが、慈善事業で金を恵んでやっても貧困者の助けにはならない。
 世界的な資産家・富裕者と日本のお大尽・金持ちとは、違っていた。
 其の違いゆえに、戦前の日本にはマルクス主義が根付く事が出来なかった。
 現代の日本社会が変容して貧富の格差が広がるにつれて、マルクス主義が支持される土壌が生まれた。
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 百姓や職人等は、目の前を大名行列が通過しても土下座はせず、仕事をしていれば仕事を優先し、仕事をしていなければ立ったままで失礼がない様に見送った。
 旗本や高家など陪臣の駕籠などには、けっして土下座などはしない。
 庶民を土下座させられるのは、天皇と将軍家と将軍への献上品だけである。
 御三家は、江戸市中で町民に土下座させられても、街道筋ではできなかった。
 土下座をするのがいやであれば、路地に逃げるか、別の道を通ればそれでよかった。
 大名は、仕事をしている百姓や町人を強制的に土下座させる事はしなかったし、できなかった。
 幕府は、大名の財力を弱らせる為に、1年おきに参勤交代で江戸と国許を移動させた。
 その為に。主要街道は、絶えず大名行列が行き来していた。
 その全てに、身分低い百姓や町人が仕事の手を止めて土下座するはずがない。
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 大名行列のおかげで、街道筋の町や村は現金収入が入り、治安が良好に保たれていた。
 百姓や町人は、サムライ以上の自由で、神社仏閣の参拝以外に名所景勝地や温泉など行楽の旅を楽しんでいた。
 日本の治安のとれた街道は、女一人、子供一人でも、安心して旅を続けていた。
 病気になれば、無銭で宿場役人が面倒を見た。
 時には。女郎一人や犬一匹で、江戸から伊勢神宮まで御陰参りをしたという。
 東海道は、世界一安全で、身分低い旅人が行き交う騒々しいのどの賑やかな道であった。
 何時の時代においても、中国や朝鮮にはそうした庶民が自由に楽しむ道はない。
 江戸と大坂の距離は約500キロで、1日に約40キロ歩き、往復1ヶ月の旅行であった。
 旅費は、現代の金銭で約30万円であった。
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 神道では、緑に覆われた山林は祖先神や氏神が住まう神聖な土地として保護し、無闇に伐採して破壊する事を罰当たりと戒め、緑を絶やさない為に絶えず植林して守った。
 こうして、日本独自の自然豊かで緑多い田園風景である里山が生まれた。
 そこには、多様な生物が生きずく清らかな水が流れている。
 無駄な枝や下草を刈りとり、里山の自然を守った。
 神道とは、自然のままの「光と水と緑」を貴い神として敬う信仰である。
 パワースポット信仰であり、
 御利益信仰である。
 けっして。死にかけている病人を治したり、死者を生き返らせたり、永遠の命を与えたり、絶対神の隣人愛で奇跡を起こす信仰ではない。
 日本の八百万の神々は、豊かな自然の中に住まう為に、金銭を求めないし、金銀財宝を飾り立てた壮麗な教会や豪華絢爛たる伽藍を求めない。
 自然の動植物に囲まれ共に「そこにある」存在として心と命、血と体による絆を大切する以上は、絆を断ち切り存在を否定する様な如何なる生け贄を「穢れ」とし忌避した。
 人であれ、動物であれ、如何なる血でも流す事を忌み嫌った。
 神道は、環境保護を最優先する宗教である。
 ムラ人は、鬱蒼とした森林に八百万の神々の冒してはならない聖地を見出していた。
 サムライは大陸の支配階級ではなく、百姓も大陸の農民ではなかった。
 自然を神聖にして冒すべからずとして敬い従う島国の日本文明と、自然を敵対する相手として屈服させ従属させる大陸の世界文明とは、水と油に近いほどの違いがある。
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 日本の小作人は、朝鮮や中国の家庭内奴隷的小作人とも、大陸の農奴とも違っていた。
 近代以前の日本には、大陸的な階級は存在しなかったし、階級闘争もなかった。
 サムライは見た目以上に貧困な生活を強要されていたが、百姓町人は見た目以上に豊かで日々の生活を楽しんでいた。
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 農地拡大に伴う中小規模農家の増加に伴い、人口は急増して1721年には3,128万人となった。
 人口の8割が百姓で、人口の85%が地方の農村で生活していた。
 江戸中期以降。農地に開墾できる土地がなくなり増産が出来なくなるや、ムラにおける人口増加も停滞した。
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 ケンペル「この国の人口の多さは筆舌に尽くしがたく、国土はこれ以上大きくはないのだから、これだけの数の住民が生命を維持し支えていく事がそもそもできようとは、ほとんど誰も思うまい」
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 農民が精を出して農作物を作ると、その土地に含まれる窒素などの栄養分は失われて、栄養が補給されないと土地は痩せ衰えて不毛な土地となった。
 大陸の古代文明は、洪水によって栄養分が補給される大河のほとりで誕生した。
 自給自足できる食糧生産と人口増加で安定し、周辺地域とモノ・カネ・ヒトの往来が盛んとなり繁栄した。
 古代文明は、さに多くの農産物を増産して富を集中させ、るべく、自然を征服し支配しようとした。
 そして、数多くの複数的原因によって衰退し滅亡した。 
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 「常に厚味を喰らい、魚類を喰う者の不浄は、作物に良き肥やしとなる」
(常に贅沢をして御馳走を食べ、魚をよく食べる者の糞尿は、栄養素が多く良い肥料になる)
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 稲作神話を信じていた昔の日本は、自然崇拝の神道による農本主義社会であった。
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 江戸時代までの百姓は、堆肥にする為に山里などの雑木林から落ち葉や下草をかき集め、人や家畜の糞尿を溜め込み、時間をかけて腐敗発酵させてから田畑に撒いた。
 百姓は、江戸や京や大坂などの町中で糞尿を買い集め、肥だめ桶を担いで回っていた。
 世界の常識では考えられない、日本独自の糞尿事情である。
 町衆は、糞尿の代金で道を整備し橋を架け暮らし向きの改善にまわした。
 財政難に苦しむ幕府や各藩は、年貢を払う百姓を救済したが、税金を払わない町衆の暮らし向きは自腹を切る自助努力に任せた。
 大陸の諸国家は、農民や市民に関係なく全ての領民から、あらゆる名目で税金を徴収した。財政難に陥るや、新たな税を作って強制的に取り立てた。納税しなかったり、逆らえば、公権力にものを言わせて暴力で税金を奪い取った。
 日本の小規模農業は、大陸の大規模農業に比べて生産量は少なかったが、神道価値観に基付いた循環型の自然に優しい農業であった。
 日本の神道式農法とは、その土地で生産できる限りの農産物を重労働で収穫するという集約型農法であり、足るを知る欲張らない自然に負担をかけず寄り添う農法であった。
 大陸の田園風景と日本の田園風景は、共通性の全くない異質な田園風景である。
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 大陸の城塞都市において。
 貧民街の高層住居では、室内にトイレがなかった為に、糞尿は窓から路上に投げ捨てていた。
 地下埋設下水道が完備された高級住宅地域でも、各家庭からでた糞尿は遠く離れた河川にそのまま垂れ流されていた。
 建設当時のベルサイユ宮殿には、トイレがなかったといわれている。
 ベルサイユ宮殿がパリの郊外に建設されたのは、パリの糞尿の悪臭から逃げる為であったともいわれている。
 紳士淑女の洗練されたエレガントのシンボルである、帽子や服装や靴は汚物から身を守る為に改良され、香水は悪臭対策として開発されたといわれている。
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 徳川幕府が全国の主要街道を整備するまで、日本経済は大量に物資が運べる海と河川の運搬で成り立っていた。
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 江戸時代までの日本の河川は、大陸の河川に比べて、多様な生物が共生する豊かで清潔な清流であった。
 神道は、清流を龍神が住まう神聖な御座として大切にし、神社や社を建てて龍神を祀った。
 土着信仰は、清流にはカッパなどの水性妖怪が住むとして恐れ敬った。
 その清らかさは、神殺しを行う現代の河川とは雲泥の差がある。
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 儒学者は、日本に蘭学が蔓延る事に危機感を感じ、日本人を朝鮮人同様に中国礼賛や中国かぶれにするべく四書五経を教えて洗脳した。
 中国が匪賊・盗賊の国で戦争文化である事を隠蔽し、殺し尽くし奪い尽くすという事実を歪曲し、人間不信で騙しと裏切りの真実を嘘で捏造した。
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 日本は、儒教の中国や朝鮮とは違って技能者を大事にし、日頃世話になっている大工や左官屋や植木屋ら職人を正月に呼び、床の間に坐らせて酒や御馳走を振る舞いご祝儀を渡した。
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 自然災害多発地帯の島国日本では、家族や地域に必要な智慧や特技がなければ姥捨て山に捨てられ、労働力にならない娘は人買いに売られた。
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 昔の日本には、儒教的な敬老精神はなく、近代的な女性を大事にするというフェミニズムもなかった。
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 江戸時代。日本金融は、米を基軸としていた。
 税金は、百姓が納める年貢「米」のみであった。
 町人は基本的に納税しなかったが、家を貸している大家が地代を、商売をしている商人が株代を、それぞれ金で治めていた。
 領主・大名は、領内で収穫した米を商人に売って金に換え、家臣を養い、領地経営をし、幕府から命じられた参勤交代、天下普請、その他の諸役をおこなっていた。
 主君が昇進して老中や若年寄などの重責に就く事を望んでも、家臣は主君の出世欲を迷惑千万として嫌っていた。
 自然災害の多い日本列島では、豊作もあれば不作もあり、米の獲れ高はその年でバラツキがあって年貢は安定していなかった。
 領主・大名は、例外なく財政難にあって、来年取れる米を先物として商人らに売って借金をしていた。
 商人達は、先物商品である「米」に値段を付けて遣り取りして、豊作であれば大儲けし、不作であれば大損していた。
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 国を閉ざした鎖国時代。
 日本は、大凶作で甚大なる被害を出し、夥しい餓死者を出しても外国から食糧を緊急輸入する事ができなかった。
 喰う為に、外国を侵略して食糧を奪う事もなかったし、日本を捨てて外国に逃げる事もしなかった。
 諦めて、餓死するしかなかった。
 日本人は、食べ物を得る為に争って人を殺すより、人の食べ物を羨ましく眺めながら飢え死にする事を選んだ。
 日本で暴動が起きないのは、日本人が公徳心ある大人として規律を守る意識が高いからではなく、多発する自然災害に絶望し無駄な努力をしても助からないと諦めているからである。
 人は、逆境に追い詰められ絶望して諦めるてしまうと、動くのが嫌になり、無気力となって暴動を起こす元気もなくなる。
 生き残る可能性があると信ずる人間は、如何なる状況にあろうとも諦めず暴動を起こし、他人を殺して食べ物や荷物を奪う。
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 地球の寒冷期。
 日本列島は、地理的に天候不順地帯に存在し、数年に一度の割合で凶作に襲われ、大量の餓死者を出していた。
 日本全国を統治する単独の強権的政府がない時代。日本は、大小数多くの領主・大名が自主的領地経営を行っていた。
 幕府は、朝廷から統治権を委譲されて諸大名を支配していた。
 幕藩体制とは、武力による恐怖の支配体制ではなく、大名達の連合体制である。
 領地内における甚大なる被害を出す飢餓が発生した時。大名は、他の大名からの支援を充てにせず自力で領民を救済しなければならなかった。
 他の大名に救済を求めるても、寒冷による凶作が広範囲に及べば日本列島の半分近くで飢餓が発生している。
 大名には、親しい大名でも、親戚の大名でも、助けるゆとりはなかった。
 幕府においても、凶作の被害を受け全ての大名を救済する事は不可能であった。
 飢餓で食べ物が乏しくなるや、家族は口減らしとして生きる為に苦渋の選択を行った。
 男の子は将来の働き手として残したが、女の子は犠牲にした。
 今働けない乳飲み子や老人を、犠牲にした。
 生き残った者は、犠牲にした者達への後ろめたさからその霊を弔う為に祀った。
 それが、「こけし」であり、「水子供養」であり、「祖先神・氏神の人神」である。
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 乳幼児や女の子を犠牲にする時、容赦なく、老人も犠牲にした。
 如何に、産みの親とは言え、働けず無駄飯を食う老人を助け養う分けがない。
 災害の多い日本の自然は、凶暴である。
 老人で犠牲にならないのは、働ける者だけである。
 それも、誰も真似のできない名人級の「匠」の業を持った老人だけである。
 日本とは、腕に職がない者は生きずらい社会である。
 如何に、大金を持っていようが、広大な土地を持っていようが、高い地位にいようが、無意味である。
 日本の「もの作り」とは、大金を稼ぐ為ではなく、必要とされる人間として生き残る為であった。
 日本の過酷な自然環境における常識では、歳をとった老人だから尊ばれ、家族や地域で大事にされ面倒を見て貰える分けではない。
 長い人生で多くの経験を積んで知識を持っていようとも、家族や地域に役に立たなければ無意味であった。
 日本には、無駄飯を食って家族や地域に負担をかけるだけの老人は捨てられた。
 老人は、家族や地域に必要とされるようにならねばならなかった。
 同時に。家族はもちろん地域を充てにせず、自分で生計を立てて生活する必要があった。
 人生には定年がなく、人生の定年とは動けなくなって死ぬ時である。
 故に。昔の日本人は総べたが職人として、日本一、天下一、世界一を目指して腕を磨いた。
 オンリーワンであろうが、ナンバーワンであろうが、そんの事はどうでも良い些末な事であった。
 他人と競って負かし大金を得て高い地位に上る事ではなく、自分を磨く事であった。
 業を極め、悟りを求める、終わりなき求道の道。
 他人に負けない名人級の「匠」の業を持つ老人だけが、生き神様として大事にされた。
 日本の人神信仰とは、老人が生きる為の究極の姿である。
 老人が、役立たずの用済みとして姥捨て山に捨てられたくなければ、子供のうちから他人に負けないように血の出る思いをして努力する事であった。
 老人は、体力や腕力や気力で若者にかなわない以上、積み重ねた経験による確かな業で圧倒するしかない。
 だが、努力してかなわなかった老人を駄目な老人として切り捨てはしなかった。
 人には、人知ではどうしようもない定め、運命が存在する。
 運がなかった老人を、愚かな老人あるいは悪い老人と決め付ける事はしなかった。
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 子供は自分の昔であり、老人は自分の未来である。
 子供は、自分が来た道。
 老人は、自分が行く道。
 自分の未来を心配する者は、否が応でも老人を大事にする。
 自分の未来を気にしない人間は、老人を粗末にする。
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 老人には、色々な老人がいる。
 家族や地域に役立つ老人とは、取り立てて素晴らしい事をする老人ではなく、若者が仕事で子供の面倒が見れない時にかわって面倒を見る事でもいいし、昔話をする事でもいい。
 家庭的な食べ物を作るのも良い。
 柔やかに挨拶をするだけでも良い。
 雑草を取り、ゴミを拾うだけでも良い。
 今現在、何かしらで社会の一員として、地域と関わり合っていればそれで良い。
 其処にいるだけで、家族や地域に和みを与えて安らぎをくれるだけで良い。
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 江戸時代は、老人が社会に溶け込んだ老人の時代であった。
 苦しい時代もあったが、明日の事が分からないだけに今を目一杯楽しむ為に子供や老人はよく笑いよく遊んでいた時代であった。
 日本を訪れていた外国人の多くが、その屈託なさに驚いていた。
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 奈良時代でも、平安時代でも、鎌倉時代でも、動けなくなって死にそうな老人は嫌われ雑に扱われていた。
 日本の古典文学においても、家族や地域で嫌われる老いの悲哀を詠っている。
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 敬老精神を日本に持ち込んだのは、儒教であった。
 武士は、受け継ぐべき家と俸禄を断絶させない為に儒教の敬老精神を採用し、生きているうちに家督を子供に譲って隠居した。
 武士の子は、隠居した老父を死ぬまで養う事で正統な後継者として認められた。
 家督を相続した者には、老父母の面倒を見るという子としての責任があった。
 隠退した老父母を養わない者は、武士の社会では爪弾きにされた。
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 社会保障のない昔と社会保障のある現代とは、別の社会である。


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アメリカ白人による日本批判―民族間関係の研究

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