🕯124)─1─陰惨・陰湿な闇を秘めていた江戸時代。隠れ念仏・隠し念仏。女児の水子「へし子」。姥婆捨て山。~No.266No.267 @ ㉖

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 日本は建前と本音の多重社会として、目に見える表の現実と目に見えない裏の現実、そしてその中間に存在する曖昧な漠とした現実がある。
 日本人は、とりとめもない、はかない、やるせなく切ない自然環境で生活している為に、曖昧な漠とした現実社会を好む。
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 2017年3月23日 週刊新潮「生き抜くヒント 五木寛之
 宮沢賢治が好きになってきた
 最近、宮沢賢治が好きになってきた。
 それまで、嫌いというわけではないが、どことなく敬して遠ざける気分があった。
 先日、国文学関係者の学者のかたがたにお話をうかがう機会があった。そのおりに、宮沢賢治が熱心な春画のコレクターだったという話がでた。
 私はそれまでそんな事を全く知らなかったので、びっくりした。
 『神田の古書店春画の値段が高騰したという話もあるくらいですからね。まあ、ゴシップかもしれませんが』
 『本当ですか』
 『私ども研究者のあいだでは常識です』
 その日、帰って改めて宮沢賢治の作品をいくつか読んだ。そしてやっぱり宮沢賢治はすごい、と思った。近代日本の偉大な思想家であり、芸術家である。
 この数年、宮沢賢治国柱会の田中智学のことをずっと考えていた。また土俗信仰と習合した東北の『隠し念仏』のことも気になっていた。宮沢賢治は『隠し念仏』が嫌いだったようだからである。
 花巻に住んでいた高村光太郎も、『隠し念仏』について抵抗があったらしい。
 私は以前、岩手県の水沢で『隠し念仏』の深夜の行事に参加したことがある。小学校にあがる数人の子供たちに対する『オトリアゲ』という儀式だった。風の強い晩で、ロウソクの灯が消えそうに揺れていたことを憶えている。
 当時の教育委員会の人は、
 『隠し念仏?そんなものはありませんよ』
 と、断乎として答えられたが、実際はいまも生きている。九州南部の『隠れ念仏』もそうだ。
 よくまちがえられるのだが、九州のは『隠れ』である。東北は『隠し』であって本質的にちがう。九州は堂々と公言してはばからない。鹿児島には『かくれ念仏洞前』というバス停まであるくらいだ。
 『へし子』
 本願寺鹿児島別院の前庭には『涙石』という石が置かれていた。かつて薩摩藩が念仏者に対して行った拷問のなごりである。
 〈その一例として石抱きというのがあります。これは三角の割木(わりき)を並べた上に容疑者を正座させ、幅30センチ、長さ1メートル、重さにして30キロの平たい石を、膝の上に一枚二枚三枚とつみ重ね、前後にゆらゆらとゆりうごかします。五枚になって石の高さがあごの下に及ぶほどになると、足の骨は砕け──……〉(桃園恵真著『新訂 さつまのかくれ念仏』)
 熊本県人吉、球磨地方には『隠れ念仏の里として、いろんな史跡が整備されている。
 ノーブレス・オブリージュという言葉が、よく語られる。高い身分や社会的地位についている人は、それにふさわしい責任と義務があるというのだ。しかし、そういうエリートたちでない農民や庶民たちがそこまでして守ろうとしたものは何か。
 江戸末期、財政逼迫(ひっぱく)に苦しむ薩摩藩では農家に苛酷な口減らしを命じた。五軒単位の門(かど)というグループに、男の子だけ3人を許したという。女の子は産むなというわけだ。しかし当時は産んでみなければ男か女かはわからない。女の子の場合は間引きせよ、という藩命である。これを『へし子』といった。
 こういう唄が残っている。
 
 なんとこの子が 女の子なら
 こもにつつんで 三(みつ)とこ締めて
 締めた上をば 文殊もんじゅ)と書いて
 池に棄てつれば 文殊の池に
 道に棄てつれば 文殊の道に
 やぶに棄てつれば 文殊のやぶに
 人が通れば 踏み踏み通る
 親が通れば 泣く泣く通る

 『五木の子守唄』の元の歌詞には、こんな文句があった。

 ねんね一ぺんゆうて
 ねむらぬ餓鬼は
 頭たたいて尻ねずみ

 水沢から花巻にかけて、宮沢賢治の故郷のあたりは、いわゆる『ゴナイホウ』の広く分布した土地である。『ゴナイホウ』は『御内法』と書く。いわゆる『隠し念仏』のことだ。
 黒く深い闇
 幕藩体制のもと、さまざまな宗教弾圧があった。まずは『隠れキリシタン』である。それだけではない。キリスト教とまぎらわしい信仰や、いわゆる檀家制度に属さない民間信仰に対しても苛烈な弾圧がくわえられた。
 追いつめられた信者たちは、いやおうなしに地下にもぐり、また他宗に偽装してみずからの信仰を守ろうとする。そこで土俗的な信仰、他宗との混合がなされた。そてを体制的な本山は、異端、邪宗と糾弾する。いわゆる秘事法門(ひじほうもん)とか、異安心(いあんじん)とかいうのがそれだ。するとさらに秘密結社的な闇の底に沈潜していく。宮沢賢治高村光太郎が嫌ったのは、そのどす黒い闇の深さだろう。
 ロシアで最も尊敬されている国民詩人は、プーシキンである。だが、プーシキンについても、いろんなゴシップがあった。それ故に国民大衆すべてに親しまれているのだ。宮沢賢治にまつわる下世話なゴシップも、私は半信半疑ではあるが、そのことで急に彼との距離がちぢまったような気がする。噂の効用とでもいうのだろうか」
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 江戸時代、宗教弾圧を受けていたのはキリシタンだけではなく念仏行者もいた。
 日本の宗教弾圧を論ずる時、キリシタン弾圧と同時に隠し念仏弾圧も加えなければ無意味である。
 日本の風土として、宗教が政治性を持つ事を嫌い、政治性を持つ恐れのある宗教・信仰を弾圧し、社会の表や生活の場から排除した。
 日本の宗教弾圧は、中国・朝鮮の恐怖の儒教的宗教弾圧とは違い、ましてや西洋などの大陸で起きた大虐殺に発展した地獄絵図のような一神教的宗教弾圧とも異なる。
 日本の宗教弾圧は寛容的で棄教を誓い踏み絵を行えば許されたが、中国・朝鮮の儒教的宗教弾圧や西洋の一神教的宗教弾圧は不寛容で棄教を申し出ても許さず問答無用で処刑された。
 西洋の一神教的宗教弾圧では、一度異端として告発された者は認めても認めなくても生きたまま焼き殺され、異教徒として捕まった者は洗礼を受け改宗してから殺された。
 地獄の拷問による魔女裁判や異端審問では、「死」しか選択肢はなかった。
 生き残る道は、捕らえられる前に、進んで洗礼を受けて改宗する事である。
 日本は、狭い列島の中で各地に隠れキリシタン隠れ念仏隠し念仏が存在した。
 西洋諸国では、広い国土にもかかわらず異端者や異教徒は生きていけなかった。
 日本の土は多様性に富んで多色であったが、西洋の土は単一性で一色しか存在しない。
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 水子と姥捨て山は一体である。
 無事に生まれて来た赤子や育ち盛りの乳幼児を殺す。
 年老いて働けなくなった産みの親を殺す。
 祖先神・氏神の人神信仰は、死んだ祖先と同時に、死と隣り合わせに生きていた乳幼児と年老いた者を神に最も近い存在として崇めていた。
 その信仰が、日本天皇の祭祀に組み込まれていた。
 姥捨て山を語る時に水子も語らなければ、無意味である。
 子供に棄てられる老親は自己主張できるが、親に殺される乳幼児は何も語れない。



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