⚔42)─3─徳川秀忠は徳川家の全国支配を確立し恐怖の徳川幕府体制を確立した。キリシタン弾圧。~No.172 

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2018-09-13
⚔42)─1─徳川秀忠キリスト教禁令とキリシタン処刑。徳川秀忠の死。1626年~No.170・ @ 
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 刀剣・日本刀の専門サイト 刀剣ワールド 日本史/合戦・武将・戦国史を知る 日本史/合戦歴史年表 江戸時代「踏み絵の導入」
 江戸時代に入ると、幕府は鎖国政策を採ってキリスト教を弾圧するようになります。その中で江戸幕府は、キリスト教信者をあぶり出すために、「踏み絵」(ふみえ)と呼ばれる制度を作ったのです。キリスト教信者にとって大切な聖画像などを踏ませ、踏めなかった人物を「キリシタン」と見なし、厳しい処罰を行いました。踏み絵についてだけでなく、キリスト教が弾圧された時代の中で、キリスト教信者であった武将達についても併せてご紹介します。

 江戸時代になって強まったキリスト教弾圧
 江戸幕府が厳しい弾圧を行う
 江戸幕府は、一強体制をより強固にするため、キリスト教に対する弾圧を一段と強めるようになっていきます。ただし、「徳川家康」が江戸幕府初代将軍の座に就いていた時代には、キリスト教は黙認されており、南蛮(スペインやポルトガルなどのヨーロッパ諸国)との貿易についても、禁止されていた訳ではありませんでした。
 ところが、2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の代になると、1612年(慶長17年)にキリスト教の「禁教令」を発布。これに加えて1616年(元和2年)には、ヨーロッパからの船の来航を「長崎港」(長崎県長崎市)と平戸港(ひらどこう:長崎県平戸市)に制限する、「二港制限令」が出されることとなったのです。
 そして徳川秀忠は、さらにキリスト教弾圧を進めます。1617年(元和3年)には、長崎の住民に対して宣教師との接近を禁じ、各地に潜伏していた宣教師やその関係者を次々と捕らえ、処刑したのです。
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 12月2日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「NHK大河ドラマを信じてはいけない…「徳川秀忠=凡庸な二代目」とは言えないこれだけの理由
 『どうする家康』で秀忠役を演じる俳優の森崎ウィンさん。第33回東京国際映画祭のオープニングセレモニーに登壇した(=2020年10月31日、東京都千代田区東京国際フォーラム) - 写真=時事通信フォト
 江戸幕府の第2代将軍・徳川秀忠とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「文武を兼ね備え、すぐれた決断力で幕府の基礎を築いた。NHK大河ドラマ『どうする家康』で描かれたような凡庸な人物ではなかった」という――。
 【図版】徳川秀忠
■徹底的に「凡庸で鈍感な人物」として描かれている
 こんなに頼りなくていいのか、と感じる視聴者も少なくないのではないだろうか。NHK大河ドラマ「どうする家康」での徳川秀忠(森崎ウィン)の描かれ方である。たとえば、第44回「徳川幕府誕生」(11月19日放送)では、本多正信(松山ケンイチ)に「いうなれば偉大なる凡庸」といわれ、「関ヶ原でも恨みを買っておりませんしな。間に合わなかったおかげで」と説かれても、「たしかにそうじゃ。かえってよかったかもしれんな」と素直に答えていた。
 徳川軍の主力3万8000を率いる秀忠が関ヶ原合戦に遅参したのは事実であり、その印象が強いせいで、凡庸だという評価が定着しているのも否めない。そもそも、遅参したのが秀忠のせいだともいい切れないのだが、秀忠が自身の「不始末」を後々まで気にしていたことは、その後の言動からもまちがいない。
 失敗を自分の胸に深く刻印する賢さがあったから、秀忠は徳川将軍家の二代目として、家康が築いた支配体制をしっかり固めることができた。関ヶ原の遅参について「かえってよかったかもしれん」と無邪気によろこぶほど鈍感であったら、家康亡き後に天下を固めることなど、できなかったのではないだろうか。
 大河ドラマのように、関ヶ原に遅参したから凡庸で、凡庸だから鈍感な人物として描くのは、人物の造形として安易ではないか。若いときに「どうする家康」の秀忠くらい鈍感だった人間が、年を重ねてきわめて鋭敏になることは、あまりないように思うのだが。
■家康の重臣による秀忠評
 関ヶ原に遅参したのは、中山道を進んだ秀忠の軍勢が、途中で上田城(長野県上田市)の真田昌幸を攻めたところ、昌幸らに翻弄(ほんろう)され、時間を空費したのが原因だった。このときの秀忠を「軽い気持ちで上田を攻めた」「若気の至り」などと評する向きもあるが、当たっていない。上田城の攻撃は「小山の評定によって策定された既定の作戦であって、秀忠の個人的な功名心などに発するものではなかった」からである(笠谷和比古『論争 関ヶ原合戦』新潮選書)。
 とはいえ、遅参の影響は大きかった。家康は関ヶ原合戦に勝ったといっても、戦場に徳川軍の主力がいなかったため、それは豊臣系武将の働きによる勝利で、彼らの領土を大幅に加増するほかなくなった。結果として、西国の8割が豊臣系大名の領土となるなど、徳川にとっては不安定な状況が生まれてしまった。
 だから、開戦から6日たって、大津にいる家康にようやく追いついた秀忠に対し、家康は面会を拒否した。また、家康は秀忠を嗣子と決めていたものの、『寛政重修諸家譜』巻七〇七によると、家康は大久保忠隣、井伊直政榊原康政本多忠勝平岩親吉本多正信を呼んで、だれを嗣子にすべきか、あらためて尋ねたという。
 正信は次男の結城秀康、直政は四男の松平忠吉、忠隣が秀忠を推し、その忠隣は「乱を治め、敵に勝は、武勇を先とすといえども、天下を平治し給はんとならば、文徳にあらずしては基業をたもち給はん事かたし」と説いたとされる。すなわち、乱世において敵に勝つには武勇が優先されるけれど、天下を治めるためには、文武が兼備でなければいけない、という理屈である。
■文武のバランスが◎
 二次的な史料なので創作の可能性はあるが、少なくとも家康は秀忠を、このように評価したということではないだろうか。凡庸だ、鈍感だ、というのではなく、文武のバランスがとれていた、という評価である。
 それでも、関ヶ原に遅参した経験は、秀忠に大きな影をおよぼしていたようだ。そこで負のイメージがついたという意識があればこそ、文武の「武」に弱点があるとは思われたくなかったのだろう。慶長19年(1614)、大坂冬の陣の際には、遅れてはならぬという決死の覚悟が見てとれる。
 家康は10月11日に駿府城(静岡県静岡市)を発って23日に上洛した。一方、秀忠が6万の軍勢を率いて江戸を発ったのは23日。自分が着く前に戦いがはじまってしまっては大変だ、という思いが強かったようで、猛スピードで進軍している。
 たとえば29日には、掛川(静岡県掛川市)から吉田(愛知県豊橋市)まで、およそ70キロを1日で進軍したという。その間、家康はたびたび「大軍行程ヲ急ニセバ、兵馬疲労セン。緩ニ来ラレルベシ」、すなわち、大軍が急いで進軍すれば、兵も馬も疲労してしまうので、ゆっくり進むように、とたしなめたが、秀忠は最後まで急行軍を続け、11月11日に京都に着いている。
■死の間際の乳母が秀忠に語ったひと言
 その後の判断も、凡庸で鈍感な人物によるものとは思えない。
 翌年の大坂夏の陣大坂城が落城する寸前、秀忠の長女で秀頼に嫁いでいた千姫は、大坂方の大野治長のとりなしで、秀忠らの陣所に届けられた。目的は茶々と秀頼の助命を嘆願することだった。その際、家康は千姫が助けられたことをよろこんだが、秀忠は「秀頼と一緒に焼死すべきところを、出てきたのは見苦しい」とはねつけ、対面しなかったという(『大坂記』など)。
 秀忠のこの判断について、福田千鶴氏は「ここで千に会ってしまえば、義母茶々と夫秀頼の助命を嘆願されることになり、娘を前にした父親が往々にして示す優しさによって、将軍としての決断が鈍ることを避けたものととれなくもない」と記す(『徳川秀忠 江が支えた二代目将軍』新人物往来社)。卓見ではないだろうか。そうであれば、凡庸な人物の判断とは到底いえない。
 秀忠の乳母は大姥局(おおうばのつぼね)といい、元来が今川義元の家臣の妻で、家康はまだ竹千代といって駿府で過ごしていたころから、彼女のことを知っていたという。大姥局が秀忠をどう育てたか、具体的な記録はないが、死に際の逸話が残されている。病床を見舞った秀忠が、なにか望みはないかと聞くと、ないという。しかし、秀忠が帰ろうとすると「殿、殿」と呼び、「私の子が流罪になっているが、私を哀れだと思って罪を許したりしないように。天下の法を曲げてはいけません」と説いたという。
 こうした教えが秀忠には、若いころからしみ込んでいたのだろう。
■家康にもできなかった冷徹な処断
 大坂夏の陣後、家康は一国一城令で諸大名の城の多くを破却させ、武家諸法度で大名が守るべきことを規定し、禁中並公家中諸法度で天皇や公家は学問に専念するように定めた。戦乱を防いで徳川の世が永続するように、万全の布石を打った。とはいえ、秀忠が凡庸であればその布石を活かせなかっただろう。
 元和2年(1616)4月17日に家康が死去したのち、秀忠が最初に行ったのが、家康の六男で実の弟である忠輝の処分だった。伊達政宗の娘婿で謀反の噂もあった忠輝には、すでに家康が大坂夏の陣での不戦などを理由に謹慎処分を課していたが、秀忠は所領を没収し、伊勢(三重県)に流したのだ。続いて、兄の秀康の嫡男、松平忠直を改易にしている。まずは将軍たる自身の地位を脅かしかねない近親者を処断したというわけだ。
 続いて、元和5年(1619)には豊臣恩顧の大名の代表格で、49万8000石の福島正則を改易にした。居城の広島城(広島県広島市)が洪水で破損した際、幕府に無断で石垣を修復し、武家諸法度に違反したというのが理由だった。正則は関ヶ原合戦の功労者だが、その後も大坂との関係が取り沙汰されていた。家康には功労者を切ることはできなかったが、しがらみがない秀忠にはできたのである。
 正則の改易に外様大名たちは震え上がり、効果絶大だった。改易のタイミングも冴えていた。「このとき、秀忠はかなりの兵を随えて上洛しており、その中に、正則の子忠勝が福島家の家臣団の一部を率いていた。正則は江戸城にいたので、そこにも家臣団がおり、本拠広島城にも家臣団の一部が残っていた。つまり、福島家の家臣団は三分割される形になっていたのである」(小和田哲男徳川秀忠PHP新書)。
 反抗できない時期をたくみにねらっている。
■全国に徳川家の支配を行き届かせた
 また、正則が去った広島城には、和歌山城(和歌山県和歌山市)から浅野長晟(ながあきら)を移し、和歌山には家康の十男の徳川頼宣を入れた。実の弟を大坂の南方の要地に置き、西国の監視をさせることにしたのだ。
 こうして秀忠は40以上の大名を取りつぶし、改易された領地が重要な位置であれば、そこには必ず譜代大名親藩を置いて周囲の監視体制を強めた。西国を監視し、陸海の交通ルートを幕府が掌握するために、大坂を直轄地にしたことも重要だった。
 しがらみにとらわれないドライな施策を重ね、全国に徳川家の支配を行き届かせた秀忠。家康は事実上、東国の大名に対する指揮権しか握っていなかったが、それを西国まで根づかせたのは秀忠の功績だった。
 むろん、すぐれた父がお膳立てを整え、その教えに忠実であったからこそ、体制を固めることができたのだが、秀忠がドラマで描かれるように凡庸であったなら、これほどのことを成し遂げるレベルにまで、突然変異のように能力が高まることは、難しかったのではないだろうか。

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 香原 斗志(かはら・とし)
 歴史評論家、音楽評論家
 神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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 12月3日 MicrosoftStartニュース 東洋経済オンライン「家康の死後に急変「徳川秀忠」驚きの"恐怖政治" 何度も大名の領地を没収したり、領地を移す
 真山 知幸
 第2代将軍の秀忠は改易や転封を連発した。写真は江戸城桜田門(写真: PhotoNetwork / PIXTA
 © 東洋経済オンライン
 NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第50回は家康死後に秀忠が敷いた、恐怖政治の裏側を解説する。
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 家康が秀忠に伝えたかったこと
 徳川秀忠は、何度か父の徳川家康から叱責を受けている。
 【写真】大坂夏の陣で勝利した秀忠は秀頼と淀殿に対するある決断を下す。写真は激戦地となった茶臼山
 最もよく知られているのは、関ヶ原の戦いへの遅参だろう。真田昌幸と信繁の父子が立て籠もる上田城を攻略できずに、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。
 激怒した家康は3日にわたって秀忠との面会を謝絶したが、実のところ、遅れてきたこと自体を責めているわけではなかった。家康や秀忠の専属の医者だった板坂卜斎が記した日記『慶長年中卜斎記』によると、大津で家康にようやく会ってもらえたときに、秀忠はこう言われている。
 「今回は合戦に勝ったからよかったが、万が一、負けていたならば、弔い合戦となる。それに備えて軍勢をそろえて上ってきたならばまだしも、道中を急いで軍勢をまばらにして上ってくるとは何事か」
 遅参そのものよりも、遅れたことで慌てて軍勢をばらばらにして上ってきたことを、戦略ミスとしてとがめているのである。
 家康は「大局観を持て」と秀忠に懸命に伝えていることがわかる。秀忠もそれに応えようと、家康の意向に沿いながらも、将軍となるのにふさわしい判断力を磨いていくことになる。
 それを象徴する場面が「大坂夏の陣」で勝利したあとの戦後処理である。
 大坂夏の陣で勝利した徳川だったが…。写真は激戦地となった茶臼山(写真: PhotoNetwork / PIXTA
 © 東洋経済オンライン
 「大坂夏の陣」で徳川の勝利が決まると、大野治長などの豊臣家の家臣たちから、豊臣秀頼の助命を乞われた家康。江戸時代初期に家康の動静を記録した『駿府記』によると、こう伝えたとされている。
 「放免しよう、秀忠に聞いてみよう」
 だが、秀忠は助命を拒否。非情にも秀頼と母の淀殿切腹を命じている。この決断には、周囲も驚いたことだろう。だが、秀忠の立場になれば、当然の判断でもあった。
 そもそも、この戦いは政権譲渡の仕上げとして、家康が豊臣家滅亡を目論んだものであることは、火を見るより明らかなこと。秀忠は自分に判断を委ねられた意味をきちんと理解して、秀頼に切腹を命じたのだろう。
 もちろん、家康としても息子に汚れ役を押し付けたわけではないだろう。秀忠に非情な判断を下させることで、大名たちにこれから政権を担うのは誰なのかを、明確なメッセージとして伝えている。自分が亡きあとの、秀忠と諸大名との関係に思いを馳せたのだ。
そして秀忠もまた、そんな先代のお膳立てに応えながら、自らを脅かしかねない存在の芽を完全に摘むことをやってのけた。
 秀忠を駆り立てた「関ヶ原のトラウマ」
 もともと秀忠はこの「大坂冬の陣」と「大坂夏の陣」に並々ならぬ意欲を見せていた。父の陰から一歩出ようとする秀忠の姿がそこにある。江戸城を出たとき、家康の事実上の側近である本多正純に書状でこう伝えた。
 「大坂城攻めは、私が着くまでお待ちなさるように申し上げてください」
 もう関ヶ原のような遅参だけは避けたい、という思いがありありと伝わってくる。秀忠は自分の長女、千姫を秀頼のもとへ嫁入りさせており、彼女も大坂城にいた。
 それにもかかわらず、戦意のほうが上回ったようだ。そして真田との戦いに敗れて、大坂冬の陣ではいったん和睦に応じることになると、こう徹底抗戦を主張している(『駿府記』)。
 「この程度の城郭がどうして攻め落とせないのでしょうか」
 家康は「小敵を見て侮るな」と息子をたしなめながらも、胸中では秀忠にたくましさを覚えたのではないか。秀忠はそれでもおさまらずに、「大御所(家康のこと)は文武の道で天下無双の大将であるのに、ためらうのはおかしい」(『駿府記』)とまで言っている。
 秀忠が家康の意をくみながらも、自分の最終判断で、秀頼親子を死に追いやったのも、やや危うさを感じるほどの熱意の延長だったのだろう。
 自分だってやれる――。そんな思いは家康の死後、加速していくことになる。
 大名の改易や転封が相次いだ
 元和2(1616)年4月17日、家康は75年の生涯に幕を閉じる。約3カ月前の元旦に、秀忠は江戸城黒書院で、次男で11歳の家光を自分の左側に座らせた。跡継ぎを家光とするというメッセージである。
 秀忠ばかりか、その次の代まで徳川家が承継する道筋を立てられて、家康としても安心して、あの世に旅立てたことだろう。
 いよいよ秀忠が自由に采配を振るうことになった。家光に将軍を譲る元和9(1623)年までの7年間が「秀忠の時代」だ。そこに秀忠の本来の姿が凝縮されている。
 これまでは「何事も大御所様の仰せのままに」といっていた秀忠がやったこととは、何か。目立って多かったのが、大名の改易や転封である。つまり、大名の領地を没収したり、領地をほかに移したり、ということを何度も行ったのである。
 家康の死からわずか3カ月後に、秀忠は自身の弟、松平忠輝に伊勢の朝熊へ移るように命じた。また甥の松平忠直も豊後の萩原へと流している。処分は外様大名にも及び、秀忠は安芸広島藩主の福島正則も「無断で広島城を築城した」という理由で改易してしまう。
 だが、豊臣系大名の重鎮である正則まで改易してしまえば、当然のことながら波紋も大きい。このままでは大名間に亀裂が入りかねない。そう考えて「正則の改易はやりすぎではないか」と秀忠を諫めた人物がいた。本多正信の子、正純である。
 家康との二元政治では、秀忠のもとに、政治力の優れた本多正信がお目付け役として付けられたことは連載ですでに述べたが、そのときに正純は家康のもとに置かれた(記事参照「天皇激怒『宮中震撼させた女性問題』家康の対応力」)。
 家康に長く付いていた正純からすれば、秀忠をリーダーとして正しいほうへ導かなければ、と考えたのかもしれない。正純は家康にも異論を唱えることがあり、そのことが一層家康からの信頼を厚くした。
 口出しをしてくる家臣を嫌った
 だが、秀忠が最も嫌うのは、先代と自分を比べているかのように、そういう口出しをしてくる家臣である。
 どいつもこいつも自分を軽んじている――。秀忠の怒りは収まらず、正純も遠国へと流してしまう。処分を下す際に、秀忠がよく使った言い回しはこれである。
 「御奉公然しかるべからず」
 働きぶりが不十分である――。何とも漠然としているではないか。要は気に食わないということだろう。
 その代わりに、酒井忠世土井利勝を老中として側近に固めた秀忠。少しでも歯向かう可能性のある大名は片っ端から、改易や転封を行い、自らの地位を盤石なものにした。
 ただし、そんな臆病な秀忠だからこそ、江戸幕府の基礎固めが行われたのも、また事実である。元和9(1623)年、秀忠は将軍の座を次男の家光に譲り、父と同じように大御所として権勢を振るうのだった。
 【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉~〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫三河 松平一族』(新人物往来社
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館
笠谷和比古徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書
福田千鶴徳川秀忠 江が支えた二代目将軍』(新人物往来社
山本博文徳川秀忠』(吉川弘文館
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⚔42)─2─二代目プリンスとしての凡庸な徳川秀忠と英邁な豊臣秀頼。~No.171 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 徳川秀忠は、弱いリーダーとして、徳川幕府の基礎を築いて天下泰平をもたらし260年間続いた「徳川の平和」を実現した。
 豊臣秀頼は、強いリーダーシップを発揮するが最後に判断を見誤り滅亡した。
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 凡庸なリーダーは、自分の短所・欠点・弱点を自覚して否定せず受け入れ、虚背を張らず、自惚れと独断を避け、自我を抑え、数多くの優秀なブレーンを集めて意見を聞き、自分で最善と思われる幾つかの意見を取り纏めて、決断し実行していく、それが日本の理想的リーダーであった。
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 マルクス主義のエセ保守やリベラル左派は、イデオロギーから反徳川家康として豊臣秀頼贔屓ではあるが、それは民族の伝統文化である判官贔屓や滅びの美学などではない。
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 2023年11月21日 MicrosoftStartニュース サンケイスポーツ「NHK大河「どうする家康」なぜ2代目将軍は徳川秀忠森崎ウィン)? その理由に 「どうする家康」徳川秀忠森崎ウィン)(C)NHK
 © サンケイスポーツ
 松本潤が小国に生まれながら乱世で奮闘し、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯を演じるNHK大河ドラマ「どうする家康」(日曜後8・0)。19日に第44回「徳川幕府誕生」が放送され、家康が三男・徳川秀忠森崎ウィン)に征夷大将軍の座を譲ることを宣言するシーンが描かれた。
 ※以下、ネタバレあり
 第44回では、家康(松本潤)が征夷大将軍となり江戸に幕府を開く。国づくりに励むが、秀忠(森崎ウィン)の頼りなさが不安の種。一方、大坂では大野治長玉山鉄二)が茶々の下に戻り、反撃の機会を伺っていた…という展開だった。
 同回で家康は不安の種である秀忠に対し、事をあるごとに関ヶ原の戦い(慶長5年、1600年)に遅参したことを持ち出して叱責するなど厳しく指導。しかし、「征夷大将軍、1年のうちにそなたに引き継ぐ。用意にかかれ」と自身の後継者に指名したのは次男・結
 当の秀忠は「わしが将軍??」と困惑。本多正信松山ケンイチ)、榊原康政杉野遥亮)に「わしを選んだのは、兄(秀康)が正統な妻の子ではないからか?」と疑問をぶつけた。
 正信と康政は「才ある将1人に頼る家中は長続きしない」と秀康を選ばなかった家康の考えを説明。康政は「於愛様のお子様だけあって、おおらか。誰とでも上手くお付き合いなさる。豊臣家ともうまくおやりになりましょう」とフォローしたが、正信は「その点、あなた様はすべてが人並み」「言うなれば、偉大なる凡庸、といったところ」「関ヶ原でも(豊臣家の)恨みを買っておりませんしな。間に合わなかったお陰」と歯に衣着せぬ言い方で秀忠を評価した。
 「どうする家康」(C)NHK
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 しかし、秀忠は「たしかにそうじゃ。却って(関ヶ原に遅参したことが)よかったかもしれんな!」と意に介さず、高笑いするのだった。
 秀忠が後継者に選ばれた理由が描かれたシーンについて、X(旧ツイッター)上の視聴者からは「『人並みの者が受け継いでいけるお家こそ長続きする』って真理だなぁと思った」「『偉大なる凡庸』。深いシーンだった。トップに立つ人は人徳こそ大事」「家康と違うこの気質が、家臣たちを束ねて徳川260年の礎を固めたんでしょうね。。」「物は言いようだけどすごく納得!秀忠ポジティブ、2代将軍にピッタリかも」「秀忠様が将軍かあ。頼りねえ~と思ったら家臣から言いたい放題されてて笑った。それを笑って受け入れられる秀忠様は上に立つ器だよ」「家康が凡庸な秀忠を2代将軍に据えたのは、敢えて人並みにすることでカリスマ依存にしないためだったのか。一理あるよね」などの反応が上がっていた。
 「どうする家康」(C)NHK
 © サンケイスポーツ
 「どうする家康」(C)NHK
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 11月24日 MicrosoftStartニュース ENCOUNT「【どうする家康】豊臣の期待のプリンス秀頼 どうする頼りない徳川秀忠
 豊臣秀頼を演じる作間龍斗【写真:(C)NHK
 © ENCOUNT
 松本潤徳川家康を演じるNHK大河ドラマ 第45回の見どころ紹介
 松本潤が主演を務め、徳川家康を演じるNHK大河ドラマ『どうする家康』(日曜午後8時)。11月19日放送の第44回では、家康は大坂城で、関ヶ原の戦勝報告を行う様子や征夷大将軍となり江戸に幕府を開く展開が描かれた。一方、大坂では大野治長玉山鉄二)が茶々(北川景子)の下に戻り、反撃の機会をうかがう流れと成長した豊臣秀頼作間龍斗)の姿も描かれた。26日放送の第45回はどんな展開になるのか。
 (※以下、ドラマの内容に関する記述があります)
 NHKによると、関ヶ原で敗れ、牢人となった武士が豊臣のもとに集結していた。憂慮した家康は、秀頼を二条城に呼び、豊臣が徳川に従うことを認めさせようとするという。しかし、初めて世間に姿を見せた秀頼の麗しさに人々は熱狂。脅威を感じた家康は、秀忠(森崎ウィン)の世に憂いを残さぬためにも、自らの手で豊臣との問題を解決しようとする。そんな中、豊臣が大仏を再建した方広寺の鐘に刻まれた文言が、大きな火種になるという。
 第45回のサブタイトルは『二人のプリンス』。公式サイトの次回予告の映像には「プリンスの光と闇」という字幕が映し出された。麗しさに人々が熱狂する豊臣秀頼に対して、徳川秀忠が「私は負けます。負ける自信がある」と弱音をはく姿があった。その後、「逆襲の豊臣」という字幕と茶々の不気味な笑みが映し出された。終盤には家康の「わしの志を受け継いでくれ」という秀忠に向けた声が聞こえ、「どうする秀忠」という字幕があった。
 第45回は、豊臣にとっては頼もしい期待の秀頼と頼りない徳川秀忠という対照的な2人のプリンスが描かれるようだが、茶々と家康がどう絡んでくるのかも見どころの一つのような気がする。さらに、気になるのは方広寺の鐘に刻まれた文言をめぐる事件。史実では大坂の陣のきっかけの一つとなったとされる方広寺鐘銘事件。歴史好きにはよく知られている事件ではあるが、この作品では、どう描かれ、視聴者の心を揺さぶってくれるのか注目したい。ENCOUNT編集部
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 11月24日 MicrosoftStartニュース Lmaga.jp「【どうする家康】秀頼と秀忠の魅力、カリスマ?ポジティブ?
 古沢良太脚本・松本潤主演で、江戸幕府初代将軍・徳川家康の人生を描きだす大河ドラマ『どうする家康』(NHK)。11月19日放送の第44回『徳川幕府誕生』では、ついに家康が将軍となり、正真正銘の天下人に。それと同時に、豊臣秀頼徳川秀忠という、対照的な二代目たちにも注目が集まった(以下、ネタバレあり)。
 【どうする家康】秀頼と秀忠の魅力、カリスマ?ポジティブ?
 © Lmaga.jp
 『どうする家康』第44回より、将軍職を譲り受けた秀忠(左・森崎ウィン)と成長した秀頼(作間龍斗) (C)NHK
■ どうする家康、それぞれの二代目が成長
 関ヶ原の戦いで勝利した家康は、茶々(北川景子)と豊臣秀頼から、天下の政を引き続きおこなうという了承を得た。そこで本多正信松山ケンイチ)が「いっそ将軍になるというのは?」と提案し、家康も「徳川は武家の棟梁で、豊臣は公家」という住み分けができると賛同。そうして1603年に家康が征夷大将軍に任ぜられ、徳川幕府は開闢(かいびゃく)した。
 しかしまだ豊臣の威光と、戦を求める牢人たちが数多く残っている状況を案じた家康は、早々に将軍の座を三男・秀忠(森崎ウィン)に譲る。それを知った茶々や豊臣の家臣・大野治長玉山鉄二)は、「太閤殿下との約定破り」と激怒した。やがて時代が流れ、秀頼(作間龍斗)は19歳の青年に成長。家康もまた、時が満ちたことを感じたのだった・・・。
■ 「柱の傷」で平坦な年月の経過を刻む描写
 とうとう家康が幕府を開き、日本史も江戸時代に突入。家康の人生のひとつの大きな到達点であり、SNSでも「征夷大将軍おめでとうございます!」「徳川幕府爆誕」とお祝いの言葉が相次いだ44回。ただこの後の10年は、歴史の教科書に記されるような大きな出来事が起こらなかった時期でもある。その平坦な年月の経過を、秀頼の1年ごとの成長を記録する「柱の傷」を刻みつけることで描写するという構成は、非常に優れた発明だった。
 【どうする家康】秀頼と秀忠の魅力、カリスマ?ポジティブ?
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 『どうする家康』第44回より、秀頼の成長記録として柱に傷を入れる茶々(北川景子) (C)NHK
 SNSでも「今日のMVPは『柱の傷が刻まれるごとに容赦なく止めどなく残酷に経過する歳月』の演出」「柱の傷と時間の経過(つまり去り行く人たち、成長する若い人たち)を絡めるってうまい」「豊臣家にとっては1年に一度のめでたい行事が、すでに破滅のカウントダウンでもあった事を暗示してるみたい」などの声が上がった。
■ カリスマ性を感じる秀頼、一方で不吉さも
 そうして最後に登場した大人秀頼は、父・秀吉とは似つかぬシュッとした美丈夫。一昔前までの秀頼は、母に頭の上がらない優男として表現されることが多かったが、最近は身の丈190cm超えの堂々たる風貌だったことも合わせて、今回の作間龍斗や『真田丸』(2016年)の中川大志のように、カリスマ性を感じさせる若手がキャスティングされるようになっている。
 【どうする家康】秀頼と秀忠の魅力、カリスマ?ポジティブ?
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 『どうする家康』第44回より、成長した豊臣秀頼作間龍斗) (C)NHK
 おそらくは茶々に帝王学と「家康は信用できない」という呪詛を吹き込まれて成長した秀頼。SNSでは「秀頼さま~!(うちわ振る家臣)」「雅なる天下人のお顔立ち」「この秀頼さまなら今年は豊臣方が勝つ」と盛り上がる声と同時に、「腹の底に黒いものを抱えた雰囲気をまとう秀頼もめっちゃ良い」「文句なしの毒親で、秀頼が真っ直ぐ育つ方が無理だわな」と、不吉さを読み解いたコメントもあった。
■ 父同様の「頼りないプリンス」が二代目に
 そんな天下への野心満々そうな秀頼に対して、父親同様「頼りないプリンス」キャラが定着してきたのが秀忠だ。今回は登場早々、家康に関ヶ原の失態を責められるという仕打ちに、SNSでは「ヤッス厳しいけど間違ってないから何も言えんな」「やっぱあれ? 自分に似てるからこそキツくなっちゃうやつ?」「秀忠、まさに昔の自分を見ているようなんじゃないか」と、家康のパワハラを叱りつつも納得したような声が。
 このように心の傷をえぐっておきながら、二代目の座を優秀な兄ではなくて自分に譲ると言われたら、確かに誰もが疑心暗鬼になるだろう。そこで本多正信が「偉大なる凡庸」さが二代目には必要ということを秀忠に説くのだが、その容赦のない表現の数々に「すべてが人並みって、秀忠くんボロクソ言われてて草」「主君の息子にまったく忖度してないのが良い」と笑いが止まらないような言葉が。
 【どうする家康】秀頼と秀忠の魅力、カリスマ?ポジティブ?
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 『どうする家康』第44回より、正信(松山ケンイチ)から「偉大なる凡庸」を説かれる秀忠(森崎ウィン) (C)NHK
 しかしそれを怒りもせず、むしろ超ポジティブに受け止めた秀忠に、「於愛の方の育て方が良かったのか、大らかすぎるw」「ここで怒らずに『たしかに! かえってよかったかも』って笑えちゃう秀忠。ぜんぜん凡庸じゃないよ大物だよ」「秀忠くんめちゃ推せるわ。このリーダーは支え甲斐がある」と、好感度が爆上がりしたというコメントが相次いだ。
 家康の人生と並行して、今川氏真武田勝頼などの「父親に比べたら・・・」と言われ続けた武将たちの汚名をすすぐ物語を紡いできた『どう家』だが、その姿勢は家康のネクストジェネレーションとなる、秀頼や秀忠にも続いていきそう。これまでになく応援したくなる秀忠と、これまでになく曲者の予感がする秀頼。このあと対照的な運命をたどる2人の2代目の対比も、今後の注目ポイントとなりそうだ。
 『どうする家康』はNHK総合で日曜・夜8時から、BSプレミアムは夕方6時から、BS4Kは昼12時15分から放送。11月26日放送の第45回『2人のプリンス』では、秀頼の人気が高まっていくことにあせった家康が、自らの代で豊臣家との問題を解決しようとする姿と、今川氏真溝端淳平)との再会が描かれる。
 文/吉永美和子
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 12月1日 MicrosoftStartニュース スポニチアネックス「「どうする家康」二条城会見“緊迫の上座下座バトル”策士・秀頼にネット鳥肌「狡猾」正信の屁理屈も打破
 大河ドラマ「どうする家康」第45話。「二条城会見」。豊臣秀頼作間龍斗・手前左)は徳川家康松本潤・手前右)の手を取り…(C)NHK
 © (C) スポーツニッポン新聞社
 嵐の松本潤(40)が主演を務めるNHK大河ドラマ「どうする家康」(日曜後8・00)は11月26日、第45話が放送された。話題のシーンを振り返る。
 <※以下、ネタバレ有>
 「リーガル・ハイ」「コンフィデンスマンJP」シリーズなどの古沢良太氏がオリジナル脚本を手掛ける大河ドラマ62作目。弱小国・三河の主は、いかにして戦国の世を生き抜き、天下統一を成し遂げたのか。江戸幕府初代将軍を単独主役にした大河は1983年「徳川家康」以来、実に40年ぶり。令和版にアップデートした新たな家康像を描く。古沢氏は大河脚本初挑戦。松本は大河初主演となった。
 第45話は「二人のプリンス」。関ヶ原に敗れ、牢人となった武士が豊臣の下に集結。憂慮した徳川家康松本潤)は若き当主・豊臣秀頼作間龍斗)を二条城に呼び、自らの権威を誇示しようとしたものの、世間にお披露目された秀頼の麗しさに人々は熱狂。豊臣人気に再び火がつく。脅威を感じた家康は徳川秀忠森崎ウィン)の世に憂いを残さぬためにも、自らの手で豊臣との問題を解決しようと試みる。そんな中、豊臣が大仏を再建した方広寺の鐘に刻まれた文言が大きな火種に…という展開。
 「二条城会見」(慶長16年、1611年)「方広寺鐘銘事件」(慶長19年、1614年)が描かれた。
 慶長16年3月28日。寧々(和久井映見)は秀頼に上段に座るよう勧めたが「滅相もない。大御所様こそが…」と遠慮。家康は「いえ!そういう取り決めでございます」「豊臣は、関白に任じられる高貴な家柄。武家の棟梁である徳川は、及びませぬ。上段に座られるのが、しきたりというもの。さあ」と下段に座った。
 2人とも上段&横並びに、という寧々の提案に、秀頼は家康の手を取り「意地を張るのも大人げのうございますので、横並びにいたしましょう」。秀頼が立ち上がった家康の手を引き、歩みを進める。家康が上段に座ると、秀頼は下段に降りた。
 「大御所様。長らくの無沙汰、大変ご無礼いたしました。秀頼、心からお詫び申し上げまする。何卒お許しくださいますよう、お願い申し上げまする。武家として、徳川殿と手を携えて、共に世を支えて参りましょう」
 「豊臣は武家ではなく、公家ってことにしちまう。公家ならば、城だの武力だの、持つべきではありませんな」という本多正信松山ケンイチ)の“屁理屈”は崩れ「えらいことじゃ」。秀頼は慇懃・立派、家康は無礼・恥知らず、の評判が沸き立った。本多正純(井上祐貴)は「してやられました」。家康は「涼やかで様子のいい、秀吉じゃ」と警戒した。
 SNS上には「秀頼様、策士すぎて鳥肌」「これは二条城会見という名の腹の探り合い」「カリスマだけど狡猾な秀頼様に、上座下座どうぞどうぞバトルでうっかり主導権を握られるスリリングな展開」「二条城会見は今まで見た中で最も知恵深い秀頼。徳川の狙いをことごとくかわして豊臣有利の状況に持っていく上座下座のやり取りは、家康の警戒を呼ぶに相応しい所作」「派手な動きはないものの、小さなやり取りの隅々まで極上のポリティカルアクション、激烈なパワーゲームとなっていて、息をのみました。このシーン、過去の大河でも何度も描かれましたが、自分の中で歴代最高が更新されました。非の打ち所がない」などの声が上がった。
 次回は第46話「大坂の陣」(12月3日)が放送される。
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🎑114)─2・K─『ゴジラ-1.0』は男達のご都合主義。 初代『ゴジラ」は恋愛映画。~No.256 

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 2023年11月30日12:17 YAHOO!JAPANニュース ニューズウィーク日本版「男たちが立ち上がる『ゴジラ-1.0』のご都合主義
 <個の力をアピールして高揚させるが、しょせんは敗戦国の敗者復活戦に過ぎない>
 主役を演じる神木隆之介 (C)2023 TOHO CO., LTD.
 *若干のネタバレあり
 11月3日から公開されている映画、山崎貴監督『ゴジラ-1.0』を鑑賞した。この作品のゴジラは、これまで観てきた「ゴジラ」シリーズの中でも屈指の恐ろしさで、第一作目の『ゴジラ』を彷彿とさせる。【藤崎剛人(ブロガー、ドイツ思想史)】
 <画像>生誕65周年、ゴジラの顔はこんなに変わってきた(写真15点)
 一方でストーリーに関しては、筆者がかつて批判した「現場プロフェッショナルロマン主義」的な要素がある。それに基づいて戦後日本の歴史に新たなナショナリズムを与えようとするかのようなテーマになっていることには違和感を覚えた。
 舞台は終戦直後の日本
 今回のゴジラ映画は、戦中から終戦直後にかけての日本を舞台としている。1954年に公開され、同時代を舞台とした初代『ゴジラ』に年代設定は近い。ゴジラの描写も、原点回帰ともいえる、純粋に人々に恐怖を与える怪獣として描かれている。
 この時代を舞台にしているだけあって、戦争というテーマはこの映画の内容に密接に関わってくる。主人公である敷島(神木隆之介)はいわゆる「特攻崩れ」であり、戦時中にゴジラと戦うことから逃げたため、ほとんどの味方が虐殺される中で生き残ってしまったというトラウマをもつ。彼は物語の後半、命を捨ててゴジラを倒すことを決意するが、「命を捨てる」ということについては最終的に考えを改める。
 この命の価値をめぐる議論は、映画を通したメインテーマの一つだ。戦前・戦中の、多くの人々の命を軽く扱いながら誰も責任を取らない国の姿勢を、登場人物たちは事あるごとに非難する。そして国への対抗意識から、対ゴジラ作戦を行う際も、命を大切にしようと主張する。ゴジラとの戦いは、戦前の軍国主義体制と決別し、新たな日本の基盤をつくるための戦いでもある。
 結局は国家を追認
 しかし極めてご都合主義的な理由でで、GHQ本部や日本国の中枢が壊滅する危機が迫っているにも拘わらず、政府やGHQゴジラに対して何もしない。それらに代わってゴジラに対応するのが、志願した「民間」の人間たちだ。彼らは一人一人が自分たちの家族や生活に責任を持っており、この責任意識がゴジラに立ち向かう動機となる。「民間」の活躍は、先述の軍国主義体制との決別にも関連している。古い社会は国家中心だったのに対して、新しい社会は民間が中心となるのだ。
 映画を貫く「現場プロフェッショナルロマン主義
 この映画で語られている「国家」に対する「民間」の礼賛は、戦後日本の歴史を知っている現在の視点から逆算して創られた一種の起源神話だ。この神話は、戦後日本人のナショナリズムを喚起する、ある種の信念によって支えられている。それは、この社会を良くするのは政治的な運動などではなく、「一人一人が自分に与えられた役割を全うすること」であるという信念だ。以前筆者は、この信念を「現場プロフェッショナルロマン主義」というイデオロギーとして、批判的に取り上げたことがある。
 確かに登場人物たちは、口々に国家の悪口を言う。しかし一方でそれは、ゴジラに対して国家に立ち向かわせるという方向には向かわない。彼らは国家の危機を自分たちで引き受ける。そして各々に出来ることを全うしようとする。
 この意味で、日本でつくられたゴジラ映画としては前作にあたる庵野秀明監督『シン・ゴジラ』との共通点を見いだすこともできる。『シン・ゴジラ』は主に国家の官僚が活躍する話で、民間が活躍する『ゴジラ-1.0』と対になる作品として扱われているが、「国家の危機に際して、現場の一人一人が自分に与えられた役割を全うする」というテーマとしては共通性があるともいえる。『シン・ゴジラ』も、結局ゴジラを倒す計画を練るのは、通常であれば国家の意思決定には関われない下っ端官僚たちであり、それを実践するのは警察や消防、自衛隊といった現場の部隊だからだ。
 ところで、この「現場プロフェッショナルロマン主義」は、国家と対立しているようでいて、結局は国家の価値観を追認する方向に働く。この映画でも、「現場」の努力でゴジラを何とかしようというやり方では、結局のところ戦前の日本のやり方との決別はできない。命が粗末に扱われた戦時中とは違い自分たちは一人の犠牲も出さないのだと演説する元技術士官の野田は、一方で対ゴジラ作戦に参加する者たちに死を覚悟させている(おとりとなる部隊などは、実際に犠牲者も出している)。対ゴジラ作戦に参加する民間人も、そのほとんどは旧軍出身者で固められている。彼らは旧日本軍の兵器を頼りにしており、重巡洋艦や幻の戦闘機に喝采するのだ。
 男たちの敗者復活戦
 従って、この映画でのゴジラとの戦いから受ける印象は、作中でしつこいぐらい強調されている戦後日本の新たな希望の勝利ではない。むしろ戦前の日本に対する未練を引きずった男たちの敗者復活戦なのだ。対ゴジラ作戦に関わるのは、見事に男性しかいない。数少ない女性登場人物であるヒロインは、フェミニズム批評でいう典型的な「冷蔵庫の女」である。
 「冷蔵庫の女」とはアメリカのあるヒーロー物のコミックスで、主人公の恋人が殺され遺体を冷蔵庫に詰められたことに由来し、男性キャラの成長のためだけに唐突に殺される女性キャラクターのことをいう。この映画のヒロインもまた、消沈している主人公にゴジラを倒す動機をあたえるために死ぬ(ラストシーンで生存が発覚するのだが)。このように、この作品は常に男性視点で進んでいくのだ。
 主人公を含む男たちがゴジラと戦うのは、日本や家族を守りたいからだけではないだろう。日本は連合軍に徹底的に打ちのめされ、国土を焦土にされた。これは男性的な価値観にとっては極めて屈辱的であり、「日本男児」は去勢されたにも等しい。しかしここでゴジラと戦い勝利する体験が得られれば、男たちは再び「立ち上がる」ことができるのだ。この映画の冒頭が、ある南洋の島から始まるにも関わらず、かの戦争は日本の侵略戦争だったという観点がまるでなく、敗戦という悲劇しか描いていないことも影響している。
 『ゴジラ-1.0』は日本人のナショナリズムを高揚させる。そのナショナリズムは、確かに表向きは、先述の通り個人の礼賛という「政治的正しさ」に準じたものとなっている。しかしこの戦いが男たちの敗者復活戦であることは、古いナショナリズムもまた喚起する。
 映画のクライマックスで、主人公たちの危機に、おびただしい数の民間船が救援に表れるというシーンがある。このシーンは明らかにクリストファー・ノーラン監督『ダンケルク』のオマージュであり、観客の気分を盛り上げる。だが、ダンケルクの戦いで連合軍兵士を救援するために多数の民間船が向かったのは、(いかにそれがナチス・ドイツに対する抵抗であったとしても)命の危険を冒して「国家」のための戦争に貢献するためだったことは忘れてはならない。
 国家と民間、生命の軽視と尊重、無責任と覚悟、これらの二項対立は、簡単に切り分けることができない。筆者は、『ゴジラ-1.0』が高揚させる「政治的に正しいナショナリズムの背後に、「ニッポンを、取り戻す。」という、あのスローガンが見え隠れしてならないのだ。
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 11月30日 MicrosoftStartニュース マグミクス「三角関係に苦悩するヒロイン! 初代『ゴジラ」は切ない「恋愛映画」だった?
 LUIS FIELD
 「『ゴジラ』4Kリマスター 4K Ultra HD [Blu-ray]」(東宝
 © マグミクス 提供
 巨大怪獣の出現の影に戦争が生んだ悲恋が
 1954年に公開された「ゴジラ」シリーズの1作目『ゴジラ』は、日本の怪獣映画の元祖です。怪獣映画でありながら恋愛ドラマ的な要素もあったため、幅広い層に受け入れられました。人知を超えた大怪獣の出現に騒然となる日本列島と同時に、ふたりの男性の間に揺れるヒロインが描かれています。今回は、第1作目『ゴジラ』の恋愛映画としての側面に迫りましょう。
 【画像】初代『ゴジラ』のポスターのなかには、「ヒロインがゴジラに鷲づかみされてる」絵もあった? 三角関係に揺れた170cmの高身長美女・山根恵美子を見る(3枚)
 第1作でゴジラ退治の鍵となる水中酸素破壊剤「オキシジェン・デストロイヤー」は、水爆以上の破壊力を持っています。
 開発した芹沢大助博士(平田昭彦さん)はゴジラの存在を国会で発表した山根恭平博士(志村喬さん)の愛弟子で、かつてはひとり娘の山根恵美子(河内桃子さん)と婚約していました。ところが、戦時中の大怪我によって片目を失明して、芹沢は一方的に婚約を破棄、研究に没頭してオキシジェン・デストロイヤーを開発します。
 その後、恵美子は芹沢の旧友である尾形秀人(宝田明さん)と恋人になります。しかし、尾形は芹沢が恵美子に対する未練があるのを知ってか、ふたりの仲を公言できないままでした。
 そんな折、芹沢は「ふたりだけの秘密」として、恵美子だけにオキシジェン・デストロイヤーの存在を打ち明けます。芹沢は悪用されるリスクのあるオキシジェン・デストロイヤーをこのまま封印するつもりでした。はからずも恵美子は、尾形に言えない秘密を抱えてしまいました。決して芹沢に浮気した訳ではないのに、擬似三角関係のような状態に恵美子は苦しみます。
 しかしゴジラが上陸し、町が破壊された人びとが犠牲になる姿を見た恵美子は罪悪感に耐えきれず、芹沢を裏切り、尾形にオキシジェン・デストロイヤーの存在を明かすのです。当初、オキシジェン・デストロイヤーの使用を拒否していた芹沢ですが、恵美子と尾形の説得に折れ、使用を認めます。恵美子が秘密を暴露した時点で、恵美子の心はすでに自分にはないと覚悟していたのかもしれません。
 芹沢は尾形に「幸福に暮らせよ」と言い残して、オキシジェン・デストロイヤーによって海中でゴジラとともに消滅します。開発者である自らを葬り去ることで、オキシジェン・デストロイヤーを完全に封印したのでした。
 国内外を含めて30作以上制作されたゴジラ映画ですが、恋愛がドラマの根幹になったのはこの第1作だけでした。見方によっては、ゴジラの存在よりも哀しい三角関係の結末の方が印象に残った人もいるでしょう。恋愛ドラマに比重が置かれるとゴジラの存在が霞んでしまうため、娯楽映画としてシリーズ化されるにあたって、恋愛要素は少なくなってしまったのかもしれません。
 関連するビデオ: 【ゴジラ-1.0】浜辺美波、歴代ゴジラと本作ゴジラの違いを明かす!『ゴジラ-1.0』初日舞台あいさつ (シネマトゥデイ)
 さらに、第1作でゴジラを唯一完全に倒せるオキシジェン・デストロイヤーを芹沢博士が封印したために、その後に次々と後続のゴジラや他の大怪獣が出現して、大暴れすることになってしまいます。
 その後、1995年公開の『ゴジラVSデストロイア』では、芹沢博士が使ったオキシジェン・デストロイヤーの影響で古生代の微小生物が復活してデストロイアになり、平成ゴジラと対決します。そして、山根恵美子(同じく河内桃子さん)が41年ぶりに再登場しました。劇中では詳しくは語られていませんが、山根の姓のままだったため、結局、尾形とは結ばれず独身を通したようです。
 (LUIS FIELD)
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 12月1日0:10 YAHOO!JAPANニュース ねとらぼ「「ゴジラ」歴代シリーズ作品人気ランキング! 第2位は「ゴジラvsビオランテ」、1位は?【12月1日は映画の日
 本日12月1日は「映画の日」です。1956年に制定された記念日で、1896年11月25日~12月1日にかけて映画が初めて「神戸」で上映されたことが由来。この時は、現在の映画館のスタイルではなく、エジソンが発明した1人ずつ見る「キネトスコープ」を輸入する形で作品が上映されていたとのこと。1896年から数えて60年目にあわせ、映画を普及させるために「映画の日」が制定されました。現在では各地の映画館などでイベントやキャンペーンが開催されています。
 【画像:ランキング29位~1位を見る】
 今回は「映画の日」にあわせて、「『ゴジラ』歴代シリーズ作品人気ランキング」(2023年4月ねとらぼ調べ・回答数1620票)を紹介します。
 投票対象は、初代「ゴジラ」から「シン・ゴジラ」までの歴代シリーズ29作品。ねとらぼ読者がもっとも好きなのは、どの「ゴジラ」作品だったでしょうか?
●第2位:ゴジラvsビオランテ
 第2位は、得票数186票の「ゴジラvsビオランテ」。得票率は11.5%でした。1989年に公開されたシリーズ第17作で、ゴジラ細胞(G細胞)を巡る争奪戦が繰り広げられている世界が舞台です。遺伝子工学の博士がバラの種子にG細胞を組み込んだことにより、巨大怪獣化しビオランテが誕生。三原山で目覚めたゴジラとの戦いを描いています。
 コメントには「ゴジラの細胞から生まれた怪獣というのが衝撃的でしたし、姿も神秘的に思えて初めて見た時から忘れられない作品です」「個人的に歴代ゴジラでNo.1イケメンは『ゴジラvsビオランテ』のゴジラ(通称・ビオゴジ)か『ゴジラvsデストロイア』のゴジラ(通称・バーニングゴジラ)の2択」といった声が寄せられていました。
●第1位:ゴジラ(1954年)
 第1位は、得票数204票の「ゴジラ(1954年)」。得票率は12.6%でした。1954年にシリーズ第1作として公開された作品です。原水爆実験の影響で復活した伝説の怪獣ゴジラが、東京に上陸。放射能をまき散らすゴジラの脅威と人々の攻防、核の恐怖が描かれています。
 日本映画界に「特撮怪獣映画」と呼ばれるジャンルを誕生させ、ゴジラの名を知らしめた記念すべき作品。コメントには「初代は別格」「初代『ゴジラ』の完成度の高さに1票」といった声が寄せられていました。
 高橋マナブ
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 11月30日17:00 YAHOO!JAPANニュース サンケイスポーツ「映画「ゴジラ―1.0」は米ハリウッドでも大盛況 神木隆之介「泣きそうなくらい感動」/芸能ショナイ業務話
 映画「ゴジラ―1.0」の北米上映会でスタンディングオベーションを受ける左から山崎貴監督、神木隆之介=米ロサンゼルス・ハリウッド
 米ロサンゼルスのハリウッドで11月10日(日本時間11日)に行われた映画「ゴジラ―1.0(マイナスワン)」の北米上映会を現地で取材した。主演の俳優、神木隆之介(30)と山崎貴監督(59)は約600人のファンと一緒に客席で鑑賞。上映終了直後から約48秒間のスタンディングオベーションがわき起こる盛況ぶりだった。
 【写真】米ハリウッドを訪れた神木隆之介山崎貴監督
 今作は1954年に誕生した実写版映画「ゴジラ」の誕生70周年記念作で、戦後まもない日本でゴジラが暴れ、人々を恐怖に陥れる。神木は戦争の特攻隊から生き逃れた後、ゴジラに立ち向かう民間人の敷島役を熱演している。今回は上映会後のトークイベントでのやり取りを紹介する。(取材・構成=山内倫貴)
――この映画のスケールの大きさと感情的な重さを感じた。米国のファンと映画をみた感想は?
 山崎監督「(上映中の)素晴らしい反応に感無量です」
 神木「みなさまから拍手をいただいたときに、泣きそうなくらい感動しました。そして、みなさまがゴジラを愛してくださるレベルが、愛しているではなく、崇拝しているんだなと分かりました」
――映画を通じて知ってもらいたいこと
 山崎監督「(劇中では)日本が苦しかった時代にゴジラが暴れるということで、本当にひどい奴といわれるんですけど(笑)、でも、本当に苦しい中で民間の力で(ゴジラに)立ち向かう姿で勇気を与えられたらいいなと思います」
 神木「もちろん、ゴジラそのものを楽しんでもらいたい気持ちはあります。ただ、それと同時に、人間として生きていたいとか、生きていてほしいという、一番大事な気持ちというのは、すべての人間が同じように思っていること、それが一番大事なことだと感じてほしい」
――ゴジラが普遍的に愛されている理由は
 山崎監督「世の中にいろんな不安とか恐れが蔓延していて、それをなんとか沈めるという意識のところで、日本にはたたり神という概念がある。みんなが世の中の不安が高まったときに、その正体を見極めようとしてゴジラという形をとったものがやってきてそれを鎮めるという…この意識が必要ではと思う。だからゴジラは70年も愛され続けていると思う」
 神木「僕も監督と同じような意見ですけど、その時代その時代、ゴジラの作品がつくられて、その時代の抱えている不安、恐怖、少しの希望というのが表現されている。なので、今作には、今生きている人たちが抱えている不安や恐怖を投影できると思う」
――ゴジラとの最初の出会いは
 山崎監督「子供の頃にお風呂屋さんに行って、そこに(ゴジラを含めた)3大怪獣のポスターが張ってあって。ポスターには僕の住んでいる町の松本城があって、すごく見たくなって、親にこれをみせてくれたら2度と映画に連れて行ってくれなくていいとお願いして、連れて行ってもらった。自分の住んでいる町が壊されてすごく興奮したんですけど、それ以降、2度と連れて行ってくれなくなりました。悲しい思い出です(笑)」
 神木「小さい頃住んでいた家の隣の家に同い年ぐらいの男の子が住んでいて、よく怪獣のフィギュアを持って僕のことを追いかけていましたが、ある日、ゴジラの人形を持って追いかけ回した日があって、泣きながら逃げていたのが僕の初ゴジラでした」
――ヒーロー的要素と、愛する人の存在によって生きる意味を見出すドラマにひかれました。神木さんの役作りは?
 神木「僕は戦争を体験したことがなかったので、役作りは本当に大変でした。いろいろな資料を調べたりしたけど、敷島を演じるに当たり、いかにその時代を生きた方に近づけるか悩みました。一番意識したのは顔つきと目つきです。映画の最初の方から後半にかけての顔つきが変わるように表現できたらいいなと思ってやってました」
――監督はどのように撮影の準備をしたのか
 山崎監督「僕自身がVFX(コンピューターグラフィックスなどによる実写映像加工)のアーティストなので、自分でゴジラを作りました。いろんなアングルからみて、一番カッコいい、そして怖いゴジラを作りました」
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🎑108)─9・G─日本の子供向け漫画・アニメは世界常識では有り得ないR指定が多い。~No.243 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 
 江戸時代の昔から、大人は子供達に地獄絵を見せていた。
 日本民族、日本人の子供は、幸せな話より怪談・怨霊・幽霊・妖怪など怖い話が好きである。
   ・   ・   ・   
 2023年11月29日 MicrosoftStartニュース ハララ書房 マグミクス「子供は観ちゃダメ! 面白いけど過激すぎて「R指定」にされたトラウマ級アニ
 『ベルセルク 黄金時代篇III 降臨』DVD(バップ)
 © マグミクス 提供
 アニメだからこそ「ゴア描写」を本気でやられると怖い!
 大人向けのアニメが当たり前になった昨今、過激な描写などを理由に、レイティングが指定されるアニメ映画も珍しくなくなりました。今回ご紹介するのは、そんな「R15+」に区分されたアニメ映画の数々です。どうしても人を選ぶ作品にはなってしまいますが、逃げずに衝撃描写を描き切った名作が数多く存在します。
 【画像】一番自由にやりやすい? パッケージの時点で万人向けじゃないのが分かる「グロ描写」満載のOVA作品(5枚)
 たとえば夭折の作家・伊藤計劃先生の小説を原作とした映画『虐殺器官』は、さすが「R15+」指定とあって、戦闘や虐殺シーンに遠慮のない作品でした。同作はアメリカの特殊部隊に所属するクラヴィス・シェパード大尉が、各地で虐殺の種をばらまく謎のアメリカ人、ジョン・ポールを追い求めていく物語です。
 ミリタリーの要素をふんだんに盛り込んだ近未来SFで、特殊部隊の戦闘員である主人公たちは、みな感情を戦闘向けに調整されているという設定があります。戦場のストレスなどから過保護なまでに守られた彼らと、人間が進化の過程で場当たり的に獲得してしまった「虐殺の器官」の対比が物語のメインとなっており、少し難解ながらも考えさせられるテーマが見どころのひとつです。
 ちなみに同作は伊藤計劃先生の原作小説を映画化する「Project Itoh」で作られたひとつなのですが、全3作品あるなかで『虐殺器官』だけが「R15+」に区分されました。
 確かに同作は取り扱っているテーマがテーマなだけに、人が撃たれるシーンなどが容赦なく描かれているものの、「人を殺す」という行為にリアリティを感じられない主人公たちの異常性を浮かび上がらせるためには、効果的な演出だったといえるでしょう。むしろ血しぶきが飛び散る残虐シーンよりも、そのあとの人を殺してもなんとも思わない兵士たちの描写のほうが、「グロテスク」に感じるかもしれません。
 その他、アニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』はTVシリーズの時点でだいぶ人体破壊描写がありましたが、2015年に公開された『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス』でとうとう「R15+」に指定されました。
 人が罪を犯すリスクを「犯罪係数」という形で数値化し、管理する組織を描いた同シリーズですが、本編に出てくる残虐シーンの大半は、主人公たちが持つ特殊拳銃「ドミネーター」のせいといっても過言ではないでしょう。ただ劇場版ではいわゆる発展途上国が主な舞台となり、実銃や刃物による生々しい死体描写が増えたため、さらにレイティングが上がったのかもしれません。
 ちなみに2023年5月に公開された最新作『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス PROVIDENCE』も「R15+」に指定されています。「映画倫理機構映倫)」の公式サイトには「銃器による刺激の強い殺傷描写がみられ、標記区分に指定します」と記載されており、ここまでくるとむしろTVシリーズを地上波で放送できたことのほうが不思議に思えてしまいますね。
 ショッキングという意味でいうと、2013年2月に公開された『ベルセルク 黄金時代篇III 降臨』も負けていません。同作は三浦建太郎先生のダークファンタジーマンガ『ベルセルク』のなかでも、特に人気の高い「黄金時代篇」を映画化した3部作の最終章です。
 原作でも多くの読者に衝撃を与えた「蝕」のエピソードを忠実に映像化した結果、「R18+」というアニメ映画史を遡ってみてもなかなか見ないようなレイティングになりました。血しぶきだけでなく、誰もがトラウマになりそうなヒロイン・キャスカにまつわる一連の場面もしっかり描かれており、画面の明るさなどを調整して精一杯マイルドにしても「R15+」で、無修正オリジナルとなる「R18+」版は一部の劇場でレイトショーとして公開されています。
 そのほかアニメ映画のなかには、「よくこれでR15+指定されなかったな……」といった印象を受ける作品も見受けられます。たとえば、2016年には原作も残虐描写だらけの『GANTZ』の「大阪編」を、CGアニメとして映像化した『GANTZ:O』が公開されましたが、こちらは「PG12」というレイティングでした。
 ゴア描写の多い映画はあまり万人には勧められませんが、もし耐性があるのなら見て損はない名作ばかりです。そして何より、ターゲットを狭めてでも良い映画にしたいという気概が感じられます。
 (ハララ書房)
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 R指定のホラー物・恐怖物・怪奇物・呪い殺す物などおどろおどろしいオカルト的作品は、少女向けの方が少年向けよりも多かった。
 少女向け漫画・アニメには、人間不信・社会不信を植え付けるような作品が含まれていた。
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 少年向け作品の多くは、熱血スポーツ物・ヒーロー物・SF物・お笑い物など単純明快で明るいストーリー作品が多かった。
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 日本の漫画・アニメの強さは、R指定のホラー物・恐怖物・怪奇物・呪い殺す物などおどろおどろしいオカルト的作品を秘めている事である。
 日本の子供達は感受性豊かで物事を考えて行動する重要な成長期に、教養レベルの高い世界童話文学全集よりも、民族的な漫画・アニメを好んで読んでいた。
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💍42)─1─国連広報センターが日本で「家父長制を解体しよう」と呼びかけた。〜No.150No.151 

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 2023年11月27日 MicrosoftStartニュース 産経新聞「国連広報センターが「家父長制を解体しよう」と呼びかけるX投稿
 © 産経新聞
 国際連合広報センターが公式X(旧ツイッター)に「家父長制を解体しよう」と投稿し、物議を呼んでいる。11月25日の「女性に対する暴力撤廃の国際デー」に合わせた投稿とみられるが、X上では「なぜ日本に対して? もっと言うべき国があるでしょう」などのコメントが寄せられている。
 同センターは25日、Xに「秋です。家父長制を解体しよう」と投稿。「FALL」という英語に「秋」と「倒れる」という両義があることから、秋にちなみ「家父長制」の解体を呼びかけたものとみられる。
 ところが、SNS上では「日本の家父長制は昭和22年の民法改正により廃止されている」「日本において家父長制が残っている実例を提示していただきたい」「私は好き勝手に自分の家を出てマンション買ったけど? 新たな戸籍を作れるじゃん。それよりハマスにさらわれ性加害された生死不明の女性たちはどうなった?」などの声が上がった。
投稿が日本語だったことから、日本や日本人に対するメッセージと受け取られたとみられる。
 同センターは産経新聞の取材に対し、家父長制の定義について「男系相続に基づく社会制度」と説明。そのうえで、今回の投稿について「女性に対する暴力撤廃の国際デー」をめぐる「グローバルなメッセージであり、日本、日本人のみを対象にしたものではない」とした。また「国連では中東危機を含め、世界各地での女性への暴力を撤廃することを喫緊の課題と考えている」としている。
 同センターの日本語サイトによると、センターは世界63カ所にあり、日本では東京都渋谷区の国連大学本部ビル内にある。
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 日本における伝統文化としての血筋重視・家父長制・世襲制・男系父系相続は、天皇家・皇室である。
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 国連や国際機関の中に潜むマルクス主義の反天皇反民族反日勢力は、民族の宗教・伝統・文化である天皇制度を廃絶し、神話を正統の根拠とする皇家・皇室を消滅させようとしている。
 日本国内には、国連や国際機関による反天皇勧告を歓迎する日本人が存在する。
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🏕44)─5・B─100万都市江戸は水害都市で甚大な被害を出していた。徳川幕府の災害対策。~No.92 

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 日本の社会はブラックであり、日本の自然は地獄であった。
 日本の「世間体」や神道の「自然崇拝」には意味があった。
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 2023年11月26日 YAHOO!JAPANニュース Merkmal「「水害都市」だった江戸 その歴史から災害対策に生かす術を考える
 湿地帯を描いた浮世絵
 江戸を襲った台風を描いた『安政風聞集』(画像:国立公文書館
 今回は、実は江戸が「水害都市」だったことを伝える浮世絵や文献史料をもとに、現代の災害対策に生かす方法はあるかを考えたい。
 【画像】えっ…! これが江戸を襲った「台風」です(計7枚)
 安政年間(1855~1860年)の江戸を現在に伝える、1作の浮世絵がある。歌川広重(うたがわひろしげ)画の『名所江戸百景 箕輪金杉三河しま』(みのわ・かなすぎ・みかわしま)だ。現在の
・東京都荒川区東日暮里
台東区三ノ輪/下谷
 の一帯を描いたものだ。
 タンチョウヅルが2羽――1羽は飛来し、1羽はたたずんでいる。タンチョウヅルは湿地帯に住む鳥で、現在の生息地は釧路湿原が知られる。つまり、一見のどかな田園に見えて、この絵はかつて江戸城の北にあった
 「湿地帯」
 を描いているのである。
 江戸の水害
 歌川広重画『名所江戸百景 箕輪金杉三河しま』(画像:国立国会図書館
 歴史学者・土木工学者の竹村公太郎は、
 「当時の江戸がいかに水害に悩まれていたかがよくわかる絵」(『広重の浮世絵と地形で読み解く江戸の秘密』集英社
 であると語る。
 江戸はそもそも低地にあり、かつ湿地帯で、水害が後を絶たなかった。原因は
・荒川
利根川
 だ。
 徳川家康豊臣秀吉に命じられて江戸に入府した1590(天正18)年当時、利根川江戸湾東京湾)に直接流れ込んでいた河川で、荒川はその支流だった。荒川の由来は「荒ぶる川」で、氾濫しては水害を及ぼした。
 そこで江戸幕府は治水対策に着手し、1629(寛永6)年から荒川と利根川の瀬替え(せがえ/別の場所に流路を造りかえる)工事を断行し、荒川の流路を西へ移した。「荒川の西遷」という。これによって流域を洪水から守ると同時に、湿地を新田へと開発していった。
 さらに、荒川を埼玉県・入間川の支川である和田吉野川と合流させ、そこから江戸に至る流路も造った。この結果、荒川は隅田川を経て、江戸湾に注ぐことになった。
 だが、それでも防ぎきれず、記録に残るだけでも100回超の洪水が、江戸時代に起きている(『荒川上流改修六十年史』『荒川下流改修七十五年史』関東地方建設局)。
 利根川の東遷計画
 『安政改正御江戸大絵図』で見る箕輪・金杉・三河島(画像:国立国会図書館
 明治に入ってからも、洪水は『箕輪金杉三河しま』を襲った。
 1910(明治43)年8月8日から11日にかけて続いた激しい降雨によって発生し、
・死者:45人
・家屋全壊:87戸
・流出家屋:94戸
・浸水家屋:16万7410戸
 に及んだ。三河島近辺では、水没した家から辛うじて屋根にはい上がった人々が、救助を叫び続けたという。
 江戸時代初期には、「荒川の西遷」と並び、もうひとつの治水事業があった。「利根川の東遷」である。利根川も流域に湿地が多く、かつ川筋がいくつもにわかれて複雑だったため、洪水の中心地だった。
 そこで幕府は1621(元和7)年、利根川を東にあった渡良瀬川に接続したうえで、茨城県と千葉県を通る常陸川に合流させ、太平洋に面した銚子で海に注がせた。1654(承応3)年まで続いた難事業だった。
 これによって、江戸を含む武蔵国は急速に新田が増えていくが、それでも洪水のリスクと隣り合わせだった。
 死者10万人を出した幕末の安政台風
 かつての渋谷の地形を描いた地図(画像:農研機構 歴史的農業環境閲覧システムより転載)
 水害に遭った地区は、『箕輪金杉三河しま』だけではない。詳細な記録は残っていないものの、現在の山手エリアでも水害は起きたと考えられる。地名から、うかがえるのだ。
 例えば、渋谷・阿佐ヶ谷・世田谷・荻窪
 「谷」「窪」
 が入った地名は標高の低い谷地を示し、大雨が降れば増水した川から、水が流れ込んでくる。
 落合も「水が合流する」場所の意味で、池袋・沼袋の「袋」は川が屈曲している場所を指し、水がたまりやすい。読み慣れた地名が、実は水害多発エリアを表していたことにあぜんとする。
 江戸は河川の氾濫と同時に、高波の被害も多かった。
 1856(安政3)年に江戸を襲った大洪水は、高波が原因だ。伊豆半島に上陸した台風が関東に向けて北上し、深川・洲崎・佃島といった沿岸に近い地域や、芝高輪・品川海岸などが、甚大な被害を受けた。『安政風聞集』は、洪水で海のようになったなかを、無情にも流されていく人々を描いている。
 波の高さは推定2.5~3.2mで、1959(昭和34)年の伊勢湾台風に匹敵する猛威だったという。
 幕末から明治にかけての地誌『武江年表(ぶこうねんぴょう)』は、
 「近年稀なる大風雨にて、喬木(きょうぼく)を折り、家屋を損じ、浪(波)がみなぎって、大小の船を覆し岸に打ち上げた。この間、しばしば火光を現し(火災も起き)、溺死者と怪我人を弄んだ」
 と、悲惨な様子を記す。
 1871(明治4)年刊の歴史本『近世史略』(きんせいしりゃく)によれば、死者は10万人だった。
 洪水対策の名残の地名
 『安政風聞集』は洪水に流される人々の様子が描いている(画像 : 国立公文書館
 江戸幕府も、決して手をこまねいていたわけではない。すでに幕府初期から各地に堤を造成するなど、対策を講じてきた。
 例えば、東京都台東区には現在も「日本堤」という町名がある。これは1620(元和6)年、隅田川沿いに築かれた洪水対策の名残だ。堤の長さは8丁(約800m)だったという。のちの時代にはこの堤が、人々が遊郭の吉原へ向かう際の道となる。なお、日本堤は1927(昭和2)年に取り壊されることになり、1975年に姿を消した。
 隅田川は春になると桜の名所としてにぎわうが、この桜並木も、そもそもは洪水対策として植樹されたものだ。土手に桜を植え、根を張らせることによって、堤の強度を高める狙いがあったという。
 また、土手を人が頻繁に通れば、土を踏み固めることにつながる。吉原への通り道にし、桜見物に大勢が押し寄せるようにしたのも、実は土手をより強固にする方法だったというのだ。江戸時代の人々の考えは合理的で、したたかだった。
 前出の竹村公太郎は、『バカの壁』(新潮新書)の著者・養老孟氏との対談(PHPオンライン、2019年10月18日配信)で、こう述べている。
 「先進国で、これほどの湿地帯を上手に隠して、巨大なビル群を造ったのは日本だけです。他の先進国はみんな高台に都市を造っている。だから先進国の中で海面上昇によって最も大きな影響が出るのは日本です」
 温暖化による水位上昇が、洪水が東京を襲うリスクを、より高めていると指摘している。もはや江戸時代のような土手造成や植樹では、防ぎきれないだろう。抜本的な対策が求められている。
●参考文献
・広重の浮世絵と地形で読み解く江戸の秘密 竹村公太郎(集英社
・荒川上流改修六十年史 荒川下流改修七十五年史(関東地方建設局
・家康の都市計画 谷口榮(宝島社)
・地名は災害を警告する 遠藤宏之(技術評論社
・竹村公太郎・養老孟司対談 信玄堤を鉄壁にした武田信玄の「斬新なアイデア」(PHPオンライン)
 小林明(歴史ライター)
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⚔39)─1・E─埼玉「見沼たんぼ」が江戸から続く理由、多くの開発計画を乗り越え「江戸の景色」が残った~No.165 

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 戦後日本は、経済発展と社会の利便性を理由に、全国で歴史・文化・伝統・宗教を無視して民族の情景、江戸の景色、自然の風景を潰し壊してきた。
 その実例が、明治神宮外苑再開発事業である。
 戦後建てられたJRの駅舎は個性なく似ているものが多いが、江戸時代のお城(縄張り・天守閣)は自然や地形を利用して築城した為に個性豊かで2つとして同じものはない。
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 2023年11月19日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「地図にない?埼玉「見沼たんぼ」が江戸から続く理由、多くの開発計画を乗り越え「江戸の景色」が残った
 見沼たんぼからさいたま新都心を望む(撮影:河野博子)
 「え、それ、どこにあるんですか?」
 「見沼たんぼ」に行ってきた、と話すとそう聞かれることが多い。埼玉県さいたま市川口市の一部に広がるが、普通の地図を見てもわからない。
 【東京のすぐ近く】埼玉中心部に広がる「見沼たんぼ」の位置
 江戸時代中期、巨大なため池を干拓して新田を開発し、代わりの水源として利根川から分水する見沼代用水を引いた。その風景はいまも基本的に維持されている。下流域で大水害が起きるのを防ぐため、長く開発が抑制されてきた。知恵や工夫の数々も地域に伝わる。「見沼たんぼの魅力や江戸の知恵を世界に伝えたい」とガイドたちは研鑽を積んでいる。
■もとは沼や湿地帯、巨大なため池
 10月に「見沼たんぼ地域ガイドクラブ」の北原典夫さん(76)と山口知巳さん(59)に広大な見沼たんぼを案内してもらった。
 もともと見沼たんぼの一帯は、大きな沼や湿地だった。江戸時代に新田開発が盛んになり、農業用水を確保するため、一級河川・芝川の水をせき止めて「見沼溜井(みぬまためい)」と呼ばれる巨大なため池を作った。
 その後、八代将軍の徳川吉宗はさらに新田開発を進めた。紀州(今の和歌山県)から召し出された井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)が見沼溜井を干拓し、代わりの水源として、約60kmも離れた利根川から取水する「見沼代用水」を開削した。代用水の水を田んぼに引き入れ、芝川に排水するシステムができた。
 東浦和駅前で北原さん、山口さんと落ち合った。北原さんによる見沼たんぼの説明は「もともと一帯は湿地や沼だった」から始まった。このあたりには、水の神様・龍神への信仰があったという。駅前には龍神の像がある。さいたま市のPRキャラクター「ヌゥ」も龍神の子孫という設定だ。
 見沼たんぼは、さいたま市川口市の2市にまたがり、面積は1257ヘクタール。北原さんの車に乗せてもらい、主な見どころに連れて行ってもらった。
 「さいたま緑のトラスト基金」による保全第1号地と見沼代用水原形保全区間のそばで、北原さんの説明に熱がこもった。
 「約40年前に住民たちは『見沼田んぼを愛する会』を作り、旧浦和市による市営霊園開発計画に対する反対運動をやりました。その後、『見沼田圃市民保全連絡会』もできました。愛する会、連絡会の中心人物はこの近くに住んでいる元県議会議員です」
保全運動で江戸以来の風景が維持された
 埼玉県やさいたま市の資料で「東京の都心から20~30km圏にある大規模緑地空間」と紹介される見沼たんぼ。住民による保全運動があったからこそ、維持されてきたらしい。
 旧浦和市は霊園開発計画をあきらめ、1990~1991年に開発予定地の約1ヘクタールの斜面林は県が中心になって設立した、さいたま緑のトラスト基金による保全第1号地となった。用地取得の7億円余の3分の2は県が出し、3分の1は旧浦和市が出した。
 畑和元知事(1972年7月~1992年7月、5期にわたり埼玉県知事)に自然環境保全に対する先見の明があったということだろうか。そうとも言えないようだ。
 北原さんは地面を指さし証言した。「1988年に5期目を目指す知事選があってね。当時、そこにビール瓶の箱を持ってきて畑知事さんが演説したんです。『この斜面林を保全します』と。見沼たんぼの保全に力を入れる住民の5万票が、対抗馬に流れてしまえば危ないと必死だったのでしょう」。
 保全第1号地のそばを流れる見沼代用水は「土の水路の原形」のまま維持されている。これも、住民団体が声を挙げた成果という。
 北原さんの説明が続いた。「斜面林の保全を求める運動に続き、歴史的な遺構である代用水を残そうという住民運動が盛り上がりました。ところが当初、県の農林部はかたくなでした。川の両岸と底をコンクリートで固める3面コンクリート護岸工事は水資源公団とともに行っている国策であり、進めるしかないというわけです」。
 「しかし畑元知事が、三面張り工事を認めなかったんです。文化財や歴史遺構の保全には深い関心を寄せていましたから」
 当時、北原さんは埼玉県庁職員で40代。その頃、見沼たんぼにゴルフ場を作る計画があり、県庁内の開発支持派がゴルフ好きの畑元知事に働きかけていたという。北原さんは1984~1986年に地域政策課職員として見沼たんぼを担当。見沼たんぼ内でのゴルフ場開発は農水省の農地転用許可が出ないことを熟知していた。
■「田んぼダム」の先駆け
 『環境保護の市民政治学 見沼田んぼからの緑のメッセージ』という本がある。1990年11月、第一書林から出版された。著者はかつて「見沼田んぼを愛する会」「見沼田圃保全市民連絡会」の中心人物だった村上明夫氏だ。
 この本によると、1958年9月の狩野川台風により、埼玉県川口市は市街地の大半が数日間にわたって水没。浸水深は最大2mだった。著者は川口市生まれで当時高校一年生。家は床上浸水し、腰の高さまで水が来た。
 川口市の北側に位置する見沼たんぼは、ほぼ全域で遊水機能を発揮し、一時的に約1000トンの水を蓄えたという。著者は「見沼田んぼの遊水機能がなければ、川口などは床上どころか屋根の上まで水が出て、人命さえ危うかったであろう。大げさにいえば、見沼田んぼによって、私は命拾いをしたといえる」と振り返っている。
 川口市史(通史編下巻)には、狩野川台風により「死者2名、床上浸水26798戸、床下浸水2457戸」の被害が記録されている。
 再びこの本の記述から。狩野川台風の後、栗原浩元知事(1956年7月~1972年7月)は「見沼田んぼを宅地開発すると、その下流域の住民はどうしても洪水の災害から免れない」と発言し、県農政課に対して見沼たんぼの宅地化を抑えるため、農地法に基づく農地転用を不許可にするよう指示した。
 続けて栗原元知事は1965年3月、いわゆる「見沼三原則」(正式名称は見沼田んぼ農地転用方針)を示してスタートさせたという。
 埼玉県企画財政部土地水政策課によると、県は1995年3月に「見沼田圃保全・活用・創造の基本方針」を打ち出し、これを受けて「見沼田圃の土地利用の基準の取扱い要綱」を定めた。「見沼三原則」を引き継ぎ、見沼たんぼの治水(遊水)機能を保持しつつ、農地、公園、緑地などとして利用していくこととし、必要な施策を行っている。
 県は芝川の河道の改修や調節池の整備も進めているが、豪雨時に見沼たんぼが一時的に水を貯める遊水機能を重視した。最近、政府は流域治水対策を打ち出し、全国で田んぼを活用する「田んぼダム」が注目されている。見沼たんぼは、その流れを先取りしたといえる。
■新入りのガイド、外国人の案内に意欲
 案内してもらった中には、250年以上前からの農家「ファーム・インさぎ山」の農園もあった。農作業の手を休めて話をしてくれたのは、代表の萩原知美さん(はぎわら・さとみ)さんの二男、哲哉さん(38)だ。
 あたり一帯は昔「さぎ山」と呼ばれ、何万羽ものサギが営巣する場所だったが、1970年代以降、サギは姿を消してしまった。農園では無農薬無化学肥料で野菜を作り、農のある暮らしを体験してもらう活動もしている。
 萩原さんは「ひと昔前は、エコとかロハスという言葉が流行っておしゃれな感じに惹かれて来る人も目立ちましたが、最近は、もう少し皆さん、深く探求する人たちが多くなっています。落葉する時期が遅くなるなど、夏の暑さの野菜作りへの影響や、地球温暖化による変化についても説明します」と語る。
 畑のそばには柿がなっており、柿渋作りも続けている。「柿渋は、番傘や漁師が使う網などに塗る塗料です。柿渋作りの機械を県民博物館に寄付してしまったので、自分の家で使う分を作っています」(萩原さん)。
 説明を聞いていたガイドクラブの山口さんは目を輝かせ「こちらにご案内してよければ、外国人の人を案内したいのですが、いかがですか」と尋ねた。「それは面白いですね。染物とか柿渋とか、外国人さんは興味を持つかも」と萩原さんが応じた。
 山口さんは昨年10月に見沼たんぼ地域ガイドクラブの募集に応じた“新入り”。半年間の研修を経て、4月に正式に入会した。2020年2月に大手電機メーカーを退職。ボランティア活動や地域の歴史の勉強を始めたところだった。東京・世田谷区生まれだが、父親の仕事の関係で小学校高学年の時、埼玉県に来た。
■ガイドクラブ、設立12年目で4回目のガイド募集
 見沼たんぼの魅力について、山口さんはこう語る。「どこかの棚田のように、目を見張る風景ではないけど、すごくリラックスできるところ」。
 そして「でも深堀りすると、縄文時代の遺跡から漆を塗った弓や櫛が見つかり歴史を見直すきっかけになったとか、中世の豊臣秀吉小田原城攻めの際に北条方として戦った城もあり、このあたりでこんなことがあった、とか、庶民の感覚に近い臨場感あふれる物語がある。何もないようでいて、掘ってみるといろんな宝物が出てくるんです」と続けた。
 山口さんは仕事で欧州、アメリカと日本を行き来した経験を活かし、ゆくゆくは外国人も案内したいと思っている。
 見沼たんぼ地域ガイドクラブが設立されたのは2011年5月。前年の2010年5月から1年間の研修を受けてガイドになったのが1期生。ガイドクラブの現在の会長、黒澤兵夫(くろさわ・たけお)さん(70代)は1期生だ。
 会員は現在28人。仕事や家庭の都合で、実際にガイドに立つのはその半数という。昨年秋、しばらくぶりに4回目の会員募集を行ったほか、新しい仕組みを作った。
 「昨年秋に募集した4期生に応募してきたのは10人でした。半年間の研修に出られない人向けに、テキストを勉強していただき、試験を受けてガイドになってもらうルートも作りました。3人が応募して、試験をパスしました」(黒澤さん)
 ガイドクラブのメンバーがコースや案内内容を練る企画コースと、団体が何月何日にここを見たいと申し込む一般ツアーの2種類がある。3時間のツアーの場合、一人300円の参加費(資料代を含む)が必要だ。
■水田はわずか6%
 黒澤さんは大手通信機メーカーに勤務後、技術士として各種学会に関わるほか、農家、市民、行政で連携して農業を発展させていこうという「さいたま市ランドコーディネーター協議会」の会長も務める。
 「農業をきちんと続けることが、これまで以上に重要になっています。(輸入は)紛争や戦争の影響を受けるでしょう。日本人が今後、生きていくためには、最低限必要な農産物はできるだけ国内で作るという方向が必要です」と黒澤さんは強調する。
 見沼たんぼの土地利用をみると、水田は6%に過ぎない。所有者が高齢化や代替わりで耕作できなくなった場合、住民が支援する取り組みもある。
 黒澤さんがガイドを得意とする場所は、通船堀。見沼代用水には、東縁、西縁の2本がある。それぞれから真ん中の芝川に舟を通すための堀(運河)が通船堀。水位差を木製の関で調整し舟を通過させる仕組みで、国指定の史跡になっている。
 「ただ米を作るのではだめなんです。消費地、江戸まで運ばなければ。人が運ぶと1俵、馬だと2俵、舟だと100~150俵運べた。ものを作ると、流通は絶対に必要なんですね。米とか柿渋とかを江戸に持って行き、帰りに人糞を買って運んで肥料にしたんです」(黒澤さん)
 江戸時代にできていたリサイクル、循環型社会。案内してもらう参加者は、通船堀を見ながら想像を膨らませることだろう。
■見沼たんぼを通過する「高速道路建設計画」
 黒澤さん、北原さん、山口さんの3人が今、頭を痛めているのが、高速道路建設計画。首都高埼玉新都心線と東北道を結ぶもので、見沼田んぼのど真ん中を通ることになるらしい。今年1月、大宮国道事務所が主催した「地元検討会」が開かれた。
 「導入位置は未定とされているが、さいたま市の都市計画マスタープランで導入ルートが図示されている。見沼たんぼの中心的な地域を通過することになり、環境や風景が台無しになる。見沼東部地域の渋滞を解消するためとしているが、全く解消にならないどころか、浦和インターからわずか1.8キロ付近にインターが新設され、危険極まりない。高速道路は害あって益なし、全く必要がない」。北原さんらはこう断じている。
 見沼たんぼでは数多くの市民団体が活動している。さいたま市のホームページから見沼たんぼのホームページに入ると、交流ひろばの活動メンバーとして会員15、サポーター30の団体名が並ぶ。見沼たんぼ地域ガイドクラブは会員団体の一つ。多くの団体とともに、見沼たんぼの景観や環境を守る活動を続けるつもりだ。
 河野 博子 :ジャーナリスト
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