💍35)─2─このままだと由緒ある古き良き現皇室は2086年には皇統が途絶える。〜No.130No.131No.132 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 リベラル左派で超エリート層の高学歴の政治的エリートと進歩的インテリ達は、マルキシズムによる反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人として、日本民族の歴史・伝統・文化・歴史・宗教を否定し、民族神話を唯一絶対の正統とする現皇室の血筋・血統を断絶させようとしている。
   ・   ・   ・   
 2023年1月27日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「「このままだと2086年には皇統が途絶える」皇室研究家が危機感を持つ"絶望的な試算"
 3年ぶりの新年一般参賀で、集まった人たちに手を振られる天皇ご一家、上皇ご夫妻、秋篠宮ご一家。2023年1月2日、皇居で - 写真=AFP/時事通信フォト
 皇室も少子化と無縁ではない。神道学者で皇室研究家の高森明勅さんは「専門家の試算でも、皇位継承者を男系男子に限定したままだと100年以内に皇統が途絶える可能性が高いと出ている。今の持続可能性のないルールにしがみついていると、皇位の継承も皇室の存続も行き詰まってしまう」という――。
 【この記事の画像を見る】
■皇室は少子化と無縁なのか
 岸田文雄首相は本年の年頭の記者会見で「異次元の少子化対策に挑戦する」と述べた。“異次元”というインパクトの強い表現を使ったことで大きな反響を呼んだ。去る1月23日に召集された第211回通常国会の施政方針演説でも、岸田首相は「出生率を反転させなければならない」と少子化への取り組みを強調した。しかし早くも、その実効性への疑問や財源への不安感などが浮かび上がっている。
 ここでそうした議論に立ち入るつもりはないが、「少子化」が現在、わが国が抱える最も重大な課題の1つであることは、疑いがない。
 では皇室は少子化とは無縁なのか、どうか。皇室の将来を見通す上で、この問題は度外視できない。そこでこの点の実情について振り返ってみたい。
■日本全体よりも少子化が進んでいる
 上皇陛下以降の世代において、ご結婚によって皇室にお入りになった女性方(皇后・上皇后親王妃)の数(6人)を分母とし、実際にお生まれになったお子様方(親王内親王・女王)の数(12人)を分子にして値を出すと、6分の12でちょうど“2”になる。
 病気や事故の可能性を考慮すると、一般的に人口が減らない限界はほぼ2.1とされている。だから2というのは、皇室の維持・存続という観点からすれば、決して安心できる数字ではない。
 しかも一般国民の場合、数値を押し下げているのは非婚率の高さだ。なので、ご生涯、独身を通された事例(1人)や、現時点で結婚平均年齢(男性=31.0歳、女性=29.4歳)より5歳以上、年齢が上で未婚の方(3人)も一応、分母に加える。すると、10分の12となって、“1.2”という数字になる。
 これは国民の合計特殊出生率(令和3年[2021年]で1.30)よりも低い。ただし、こちらの数字は未婚の方々が結婚されれば、その分だけ改善することになる。それでもすでにご独身のまま亡くなられた方がおられるので1.7…以上にはならない。
 いずれにしても、楽観できる数字ではない。こうした状況がにわかに好転することは考えにくい。むしろ、一般的な晩婚化の傾向を見据えると、皇室においても一層、少子化が進む可能性も織り込んでおくべきだろう。
■次の世代の「男系男子」は1人だけ
 それ以前に、上皇天皇陛下の世代には、現在の皇室典範皇位継承資格を認める「皇統に属する男系の男子」が複数おられた。上皇陛下の世代に“5人”、天皇陛下の世代には“2人”という状況だった。
 ところが、次の世代では周知の通り、秋篠宮家のご長男、悠仁親王殿下ただ“1人だけ”となっている。「男系男子」限定というルールのもとで、短い期間に次世代を生み出す基盤そのものが“極小化”してしまった。
■「旧宮家プラン」に憲法違反の指摘
 その極小化による将来への不安を緩和する苦肉の策として、いわゆる旧宮家プランが提案されている。
 旧宮家プランというのは、被占領下に皇籍離脱を余儀なくされた旧宮家(当時は11あったが、後継者がいないためにすでに廃絶した家が複数ある)の子孫に対象を限定して、当事者の合意を踏まえて養子縁組などによって特権的に皇族の身分を取得できる制度を新しく設けよう、という提案だ。
 しかし、同プランは憲法が禁じている「門地(家柄・家格)による差別」に該当する疑いが、憲法学者東京大学大学院教授の宍戸常寿氏などによって指摘されている。
 憲法第14条第1項には次のような規定がある。
 「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」
 戸籍に登録されている国民は皆、原則としてこの条文が適用される。いわゆる旧宮家の子孫ももちろん、国民としての権利と義務が等しく認められている以上、その適用対象だ。したがって、それらの人々“だけ”に限定して養子縁組による皇籍取得を“特権的”に認める制度は、まさに「門地による差別」に当たり、憲法上、許されない。
 念のために付け加えておくと、皇統譜に登録されている皇室の方々は、憲法が定める「世襲」制(第2条)を支える存在として同条の適用外とすることを、憲法自体が認めている。皇室の方々は第14条よりも第2条が“優先的”に適用され、旧宮家子孫は国民として第14条が“そのまま”適用される、という関係だ。
 また、男性皇族の結婚相手の国民女性が皇族の身分を取得する現在の制度では、その対象について「門地」による限定がないので、もちろん憲法には抵触しない。「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」であり、「主権の存する日本国民の総意に基く」とされる「天皇」をめぐる制度に憲法違反の疑いが生じることは、もちろんあってはならない。
有識者会議事務局も“ダメ出し”
 これについては、内閣に設けられた皇族数の確保策を検討した有識者会議の事務局自身も問題性に気づいていたようだ。メディアにはほとんど黙殺されたが、同事務局が作成した「事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究」(令和3年[2021年]11月30日)というレポートは、旧宮家からの養子縁組を認めるプランについて、抑制的な表現ながら以下のような疑問点を列挙していた(一部順序を変更した)。

                  • -

 養子縁組を恒久的に制度化し、例えば旧11宮家の男系男子に限って養子となることができると規定した場合には、旧11宮家の男系男子が他の国民と異なる立場にあるという見方を恒久化することにつながりかねない。これは、国民の間における平等感の観点から問題が大きいのではないか(32~33ページ)
 一定の期間を限って制度化したとしても、法律の明文で規定する以上は、養子となり得る者として規定される国民と他の国民の間の平等感の問題はあるのではないか(32ページ)

                  • -
                  • -

 個別の養子縁組の機会を捉えて養子縁組を可能とする立法を行う場合、養子縁組の成立に向けた様々な準備は、皇室典範により養子縁組が禁止されている状況の中で行わなければならないこととなる(33ページ)
 権力分立や、国家に対する国民の自由・平等の確保という観点から、法律は一般性(不特定多数の人に対して、不特定多数の事案に適用されること)を有していなければならないとする考え方もあり、このような個別処分的立法は難しいとの考え方もあるのではないか(同ページ)

                  • -

 要するに養子縁組プランは、恒久制度でも期間限定でも個別対処でも、いずれも問題があるという指摘だ。これらは、事務局という立場上の制約の中でもぎりぎり示された“ダメ出し”と受け取るべきだろう。
■専門家による絶望的な試算結果
 以上によって、旧宮家プランが現実的な選択肢になり得ないことは、明らかだ。
 そうすると、これまでの皇室典範における「男系男子」限定というルールを維持する限り、次の世代は悠仁殿下だけという事態を避けられない。それを前提に皇室の将来を予測すると、果たしてどのような未来図を描くことができるだろうか。
 先頃、都市社会工学が専門で京都大学大学院准教授の川端祐一郎氏が、「男系男子」限定という条件下での皇位継承の持続可能性を探った興味深い試算を公表されている(『表現者クライテリオン』101号、令和4年[2022年]3月号)。
 同氏は「結婚する確率は90%とし、結婚年齢の平均は30歳、第1子をもうける年齢の平均は32歳、平均寿命は81歳」という条件を前提に、スタート時点での「男系男子」が1人・3人・5人で、さらに平均したお子様の数が1.5人・2人・2.25人・2.5人というケースのさまざまな組み合わせについて、丁寧に試算された(それぞれ1万回ずつ数値シミュレーションを行われたという)。
 しかし、先に見たようにスタート時点の「男系男子」は1人、お子様も1.2人プラスアルファというのが現実的な見立てだろう。そこで川端氏の試算から、スタート時点が1人で、お子様が1.5人の場合について取り上げる。
 すると、100年未満しか持続できない可能性が“61.4%”で、最後の男系男子が亡くなり、男系に限定した皇統が途絶える可能性が最も高い年は2086年という計算結果になっている。
 これは、スタート時点の男系男子について、一般的に「90年代後半から00年代後半にお生まれになった現皇族及び旧宮家の男系男子を想定している」ため、具体的に悠仁殿下を想定した場合よりも少し前倒しされた結果になっている。しかし、その点は差し引いても、極めて厳しい結果であることは揺るがない(200年未満の可能性は90.2%! )。
■「甘め」の仮定でも2代目から危険水域
 また私の周辺でも、独自に皇位継承をめぐる「期待値」計算を行っている。その結果によると、スタート時点で1人だった場合、将来どの世代も必ず結婚されて、代々欠かさず“2人”のお子様に恵まれるという、かなり甘めの仮定でも「継承可能性」の数値は以下の通り。

                  • -

2代目→75%
3代目→56%
4代目→42%
5代目→32%

                  • -

 楽観的な前提でも不安を拭えない数字になる。お生まれになるお子様が“1人”という現状により近い条件だと、次のような結果になる。

                  • -

2代目→50%
3代目→25%
4代目→13%
5代目→6%

                  • -

 早々と2代目から危険水域に入ってしまう。「次の世代の男系男子が1人だけ」という皇室の現実の険しさについて、改めて気づかされる。
■「男系男子」ルールには持続可能性がない
 もともと、正妻以外の女性(側室)から生まれた非嫡出子・非嫡系子孫による皇位継承という選択肢が除外されるという、(明治の皇室典範がまったく予想していなかった)皇室の歴史上、かつて前例がない局面に入った時点で、皇位継承資格を「男系男子」に限定するというミスマッチなルールに持続可能性がないことは分かり切っていた。そのルールにいつまでもしがみついていれば、皇位の継承も皇室の存続も行き詰まる他ない。したがって、「男系男子」限定というルールの見直しは避けられない。
 それを怠ると、悠仁殿下のご結婚相手が必ず健康な男子を1人以上生むこと以外に、皇室存続の可能性は望めなくなる(もしそれがかなっても上記の通り薄氷を踏むような危うさから逃れられないが)。そんな想像を絶する重圧下では、畏れ多いが悠仁殿下のご結婚自体が至難になりかねない。
■ルールを変えれば「安泰」になる
 一方、皇統に属する女子・女系については、最高法規である日本国憲法が「世襲=天皇の血統による継承」に含まれるとして認めている(内閣法制局・執務資料『憲法関係答弁例集(2)』参照)。そこで持続可能性を期待しがたく、下位法である皇室典範のルールにすぎない「男系男子」限定を解除し、女子・女系による継承も可能にした場合はどうなるか。スタート時点が同じ1人で、お子様が1人と仮定しても「期待値」計算の結果は以下の通り。

                  • -

2代目→100%
3代目→100%
4代目→100%
5代目→100%

                  • -

 男女ともに継承資格があるので当然の結果ながら、まさに安泰。
 しかも、女子の継承資格を認める場合、悠仁殿下と同世代の内親王が2人おられるので、それらの方々も加えるとスタート時点の人数は3人となる。内廷プラス2宮家という形だ。
 その場合、“直系優先”の原則に照らして内廷を担われるのは、皇女でいらっしゃる敬宮(としのみや)(愛子内親王)殿下になろう。こうした形なら、皇室の将来がより磐石になるのは改めて言うまでもない。もし途中でお子様を授からなかったり、ご独身を通されるようなケースが時にあったとしても、それを乗り越えて行ける可能性が開かれる。
 日本人は皇室の存続を望むのか、それとも望まないのか。もし存続を望むのであれば、明治の皇室典範に由来し、側室制度を前提とした「男系男子」限定ルールを、前提条件の根本的な変更に合わせて、しっかり見直す以外に方法はないはずだ。

                  • -

 高森 明勅(たかもり・あきのり)
 神道学者、皇室研究者
 1957年、岡山県生まれ。国学院大学文学部卒、同大学院博士課程単位取得。皇位継承儀礼の研究から出発し、日本史全体に関心を持ち現代の問題にも発言。『皇室典範に関する有識者会議』のヒアリングに応じる。拓殖大学客員教授などを歴任。現在、日本文化総合研究所代表。神道宗教学会理事。国学院大学講師。著書に『「女性天皇」の成立』『天皇生前退位」の真実』『日本の10大天皇』『歴代天皇辞典』など。ホームページ「明快! 高森型録」

                  • -

   ・   ・   ・   

🎑23)─5─歌舞伎は高齢者頼みでは未来がない。〜No.54No.55No.56No.57 ⑦

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   

 2023年1月25日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「高齢者頼みでは未来はない…「歌舞伎座ガラガラ問題」を直視しなければ歌舞伎は滅びてしまう
 日本人の歌舞伎離れが進んでいる。日本女子大学の細川幸一教授は「特に本丸である『歌舞伎座』の客層は高齢者ばかりで、日によっては半分も埋まらない。伝統と慣習に重きをおくなかで、高齢者からも若い世代からも見放されてしまっている」という――。
 【写真】若い女性で賑わう新橋演舞場SANEMOI公演
■人気俳優が揃い、伝統的な演目が並ぶのに
 東銀座は松竹の本拠地だ。主に歌舞伎座新橋演舞場で歌舞伎等の興行を行う。500メートルほどしか離れていないこの2つの劇場の1月の公演はともに歌舞伎だ。歌舞伎は松竹演劇の最大看板。歌舞伎座では歌舞伎座新開場十周年と銘打って「壽 初春大歌舞伎」、新橋演舞場では初春歌舞伎公演・市川團十郎襲名記念プログラム「SANEMORI」が上演中だ。
 二つの劇場の歌舞伎興行ははっきり明暗を分けた。
 歌舞伎座は客の入りが悪く、日によっては座席の半分ほどしか埋まらない。筆者が鑑賞した日は、1等の2階席は8割ほどが空席のガラガラ状態だった。一方の新橋演舞場團十郎公演はほぼ即日完売で、チケット入手がかなり困難な状況だ。
 歌舞伎座公演は3部制で松本白鸚中村梅玉市川猿之助松本幸四郎中村勘九郎片岡愛之助中村七之助市川染五郎など、幹部俳優・人気俳優が揃い、伝統的な演目が並ぶのにこの状況だ。なぜこれほど不人気なのだろうか。
■コロナ規制が終わっても高齢者は戻らず
 コロナ禍で歌舞伎座は長期の休場も余儀なくされたし、開演時も販売座席を半分以下に抑え、日本特有の観劇スタイルである劇場内で幕ノ内弁当などの食事を楽しむことも禁止となった。食堂、弁当売り場も閉店した。2020年5月から3カ月間予定されていた市川團十郎襲名記念興行も延期せざるを得なかった。
 ようやく販売客席数も通常通り(幕見席は販売停止中)となり、飲食も可能となったが相変わらずの不人気ぶりだ。
 東京では浅草公会堂で若手俳優が競演する「新春浅草歌舞伎」、国立劇場では尾上菊五郎ほかで、令和5年初春歌舞伎公演「通し狂言 遠山桜天保日記―歌舞伎の恩人・遠山の金さん―」も上演中だ。東京で同じ月に歌舞伎4公演は多すぎるのか、「SANEMORI」以外は客の入りは良くなく、1月14日時点でこれらの3公演は満席の回がまったくない。
 同じく松竹が興行主の浅草公会堂公演と比較しても歌舞伎座の入りはさらに悪い。浅草歌舞伎は毎年正月にテレビなどでも人気の若手歌舞伎俳優を中心に演目が組まれる。また、観劇料も歌舞伎よりかなり安い設定で、歌舞伎観劇初心者、若い客層を意識した公演だ。高齢者が多い歌舞伎ファンに歌舞伎座は敬遠されているのだろうか。
■歌舞伎ファンにすら見放される恐れ
 歌舞伎座で歌舞伎を観たいという歌舞伎ファンは多い。歌舞伎座には歌舞伎の殿堂としての格式・雰囲気がある。
 とくに人気なのが特等席と言える1階桟敷席(今月:17000円)と、料金が安い3階A席・B席(同:5500円、3500円)だ。桟敷席は一般客席の両側にあり、一段高くなった半個室スタイルの20区画・40席で、注文した弁当も届けられる人気の席で、予約が困難なことが多い。
 3階席は歌舞伎の常連が頻繁に通うこともあり、こちらも予約がしづらい。1等席(同:16000円)は客席数が一番多く、1等の価値があるか疑問の席もあり、これが埋まらないのは理解できるが、今月の歌舞伎座は桟敷席も3階席もガラガラの日がかなりあり、相当深刻な状況だ。1月14日から2月興行の一般予約がはじまったが、やはり売れていない。
 歌舞伎座の格式ゆえ、松竹は歌舞伎役者以外が出演する革新的な演目は歌舞伎座以外で興行を行ってきた。伝統的な歌舞伎に歌舞伎ファンが足を運ばなくなっているのではないか。さらに言えば、伝統的な歌舞伎演目に重きをおくあまり、若い世代の新しい歌舞伎ファンの発掘に失敗している印象を受ける。
■なぜこれほど不人気なのか
 歌舞伎俳優は300名ほどいる。歌舞伎座ではそのなかの幹部俳優、中堅、若手俳優等をまんべんなく配役できる演目で興行が行われる。歌舞伎の殿堂だから、若手人気俳優の「ワンマンショー」的な演目は組まれず、古典的な演目、慣習に沿った配役になりやすい。これが新たな観劇層の獲得を拒んでいるように思う。
 例えば、今月の歌舞伎座では歌舞伎役者の中で、今もっとも観客を集められると言われている市川猿之助が出演しているし、女形で人気の中村七之助、中性的美貌で注目の市川染五郎などが出演しているが、それほど集客に結びついていない。数多くの出演者の一人という感じで、目立っていないのだ。配役でも序列が重んじられるし、芸達者の幹部俳優=集客力のある人気役者とも限らない。
 実は、コロナ禍の前の、令和の時代になったあたりから歌舞伎座の不入りは話題になっていた。すでに高齢者を中心とした観客層が減ってきていた中でコロナ禍の影響で、より足が遠のいている可能性がある。今月の歌舞伎座公演の第2部を観劇したが、観客は70歳以上と思われる高齢者が多くを占めた。そうした観客層が減ってきているのだろ。
 観劇料も高くなったと感じる。今月の観劇料は1等で16000円だ。コロナ禍前の2019年12月の2部興行の19000円と比べてみよう。このとき昼夜観ると、19000円×2で38000円だ。現在3部を観ると16000円×3で48000円だ。歌舞伎座の公演は各部で演目が違うので、同じ月で複数回見る人にとって影響は大きい。
 高齢者を中心とした従来の歌舞伎観劇層がコロナ禍もあり激減しているなかで、新たな観客を取り込めていないのが歌舞伎座ガラガラの理由だろう。2部制から3部制になったことで、興行回数・販売客席数がかなり増えているので余計空席が目立つということはあるだろうが、芝居小屋としての大きさも、興行回数も過剰になっているということだ。歌伎舞座はかなり大規模な劇場で総客席数は1800席ほどある(3階席後方の幕見席を除く)。この半分くらいでよいのが現状だ。
歌舞伎座はガラガラだが、新橋演舞場は大盛況
 しかし、新橋演舞場で行われた公演は違った。むしろ筆者は、人気を失いつつある歌舞伎の可能性を感じた。
 昨年末に市川海老蔵改め市川團十郎白猿を襲名した新團十郎とジャニーズ・Snow Man宮舘涼太が主演する「SANEMORI」だ。古典歌舞伎の名作『源平布引滝』に現代の感覚を取り入れた公演で、歌舞伎界の大名跡團十郎と人気ジャニーズグループメンバーの異色コラボだ。
 筆者が観劇した際は拍手喝さいの大盛り上がりで、通常歌舞伎にはないカーテンコールが繰り返され、客席は最後にはスタンディングオーベイだった。見たところ、客の9割は女性でそのうちの8割は30歳代以下と思われる若い人たちだった。シニアばかりだった歌舞伎座公演と客層が決定的に異なっていた。
 昨年11月、12月に歌舞伎座で行われた團十郎襲名記念公演は昼夜2部制だったが、昼の部では最後まで多くの日で客席をすべて埋めることはできなかった。当初3カ月の予定だった興行を2カ月とした状況でだ。これから考えると新橋演舞場公演の人気ぶりは團十郎より宮舘涼太目当てで集まった観客たちによるところが大きいと言えるだろう。
 しかし、筆者は、團十郎×宮舘涼太の異色の共演に、歌舞伎の未来を見る。
市川團十郎Snow Man宮舘涼太の共演は異色ぶり
 歌舞伎界でも当然、未来を危ぶむ声は大きい。それゆえにいろいろな試みがなされてきた。
 劇界の風雲児とも言われた先代の3代目市川猿之助は昭和61年にスーパー歌舞伎の第一弾「ヤマトタケル」を上演した。その甥にあたる現在の猿之助スーパー歌舞伎を継承し、「スーパー歌舞伎IIワンピース」等で話題となった。中村獅童バーチャルアイドル初音ミクと共演する「超歌舞伎」に挑んでいる。これらは表現様式が歌舞伎であっても、伝統歌舞伎の文脈からは逸脱している。
 2006年3月に新橋演舞場で初演された、滝沢秀明主演の時代劇LIVEミュージカル「滝沢演舞場」はジャニーズとのコラボレーションだ。滝沢が現役を退いた後は2019年からは『滝沢歌舞伎ZERO』と名前を変え、Snow Manが主演を務める。しかし、そこで見られるのはジャニーズのエンタメにおける和テイスト、歌舞伎様式の導入であり、歌舞伎自体がジャニーズ要素を取り入れたという感じはしない。
 そうした中にあって、團十郎×宮舘涼太の共演は異色だ。
 團十郎は歌舞伎の破壊者などのイメージで語られることもあるが、この「SANEMORI」はいたって伝統歌舞伎の枠組みにはまっているのだ。ジャニーズエンタメに歌舞伎要素が入ったのではなく、歌舞伎公演で役者としてジャニーズメンバーが主役級を勤めたということだ。この点は従来のスーパー歌舞伎、ジャニーズとのコラボと異なる。
■宮舘の起用に歌舞伎の未来を感じる
 現代語的なセリフ、舞台装置・照明の現代的活用、通常の歌舞伎音楽では使わない和太鼓の利用などはあるが、物語、舞台設定、人物描写などは伝統的な時代物歌舞伎そのものだ。
 そのなかで主人公・斉藤実盛を團十郎が演じ、木曽先生義賢と源義仲の父子二役を宮舘涼太が演じきった。歌舞伎は実力ある舞台俳優でも簡単に演じられるものではない。独特なセリフ回しの「口跡」と、日本舞踊の修行から生まれる「所作」が大事だからだ。筆者が見るに、宮舘はどちらもまだ「板についている」という感じではないが、歌舞伎を演じきっている。
 今の中村勘九郎の父・18代目勘三郎は、因習にとらわれず積極的に歌舞伎界以外からも役者を登用した。かつての芝居小屋を再現した「中村座」を中心に笹野高史荒川良々などの個性ある俳優が出演したが、それでも「世話物」といわれる現代にも通じる人情噺の舞台だった。
 しかし、今回の宮舘の起用は「時代物」と言われる歌舞伎ならではのジャンルで、義太夫に乗せた語りもある。これも團十郎×宮舘涼太の共演が異色である理由である。
■観客が面白いと思える伝統歌舞伎が必要だ
 新橋演舞場での2人の共演に、日ごろ歌舞伎を観ないような世代の人々が集まった。20~30代くらいの若い世代が、伝統的な枠組みを踏襲した歌舞伎を楽しんでいた。歌舞伎離れが進む現状において、この共演が示した成功体験は大きい。
 歌舞伎はやはり、時代背景、登場人物が現代人には理解しづらいこともあるので、有料の同時解説「イヤホンガイド」がある。その機器の貸し出しコーナーに若い女性が殺到している風景に驚いた。ただ、ジャニーズアイドルを観たいというのではなく、この機会に歌舞伎を理解しようとする姿勢がみてとれた。
 昭和41年に開場した半蔵門国立劇場が建て替えられる。55年が経ち、老朽化したということだが、あぜくら造りの素敵な建物で内部も豪華かつ美しく、もったいない。しかし、施設を運営する日本芸術文化振興会が改装ではなく抜本的な建て替えを選んだ背景には「伝統芸能離れ」への危機感があるという。伝統芸能としての歌舞伎も危機的な状況になっているということだ。
 問題は観る側の環境変化だ。着物を着る機会が減り、生活様式も、近代化する前の日本とは様変わりだ。そうした状況のなかで、着物を着て髷を結い、刀を差す武家社会の慣習や美意識、義理と人情といった世界を描写する伝統的な歌舞伎を現代人が面白いと思い続けるだろうか。歌舞伎界が人々の環境変化位に対応しなければ、伝統芸能離れはきっと止められないだろう。
 宮舘涼太Snow Manのメンバーのひとりとして「滝沢歌舞伎ZERO」や、阿部亮平市川海老蔵自主公演「ABKAI」に参加するなかで、その素質を團十郎に見い出され、単独で「歌舞伎俳優」としての道に踏み出した。そして、大勢の観客の動員に成功し、一公演ではあるが、歌舞伎を環境変化に順応させた。
 松竹は主に歌舞伎俳優のみによる伝統的な歌舞伎演目は格式を重んじる歌舞伎座、実験的な公演は新橋演舞場等で行ってきたが、歌舞伎の本丸も大改革を迫られているのかもしれない。そこでのキーパーソンは紛れもなく團十郎だ。

                  • -

 細川 幸一(ほそかわ・こういち)
 日本女子大学家政学部 教授
 独立行政法人国民生活センター調査室長補佐、米国ワイオミング州立大学ロースクール客員研究員等を経て、現職。一橋大学法学博士。消費者委員会委員、埼玉県消費生活審議会会長代行、東京都消費生活対策審議会委員等を歴任。立教大学法学部講師、お茶の水女子大学生活科学部講師を兼務。専門:消費者政策・消費者法・消費者教育。著書に『新版 大学生が知っておきたい生活のなかの法律』『大学生が知っておきたい消費生活と法律』(いずれも慶應義塾大学出版会)などがある。歌舞伎を中心に観劇歴40年。自ら長唄三味線、沖縄三線を嗜む。

                  • -

   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
   ・   ・   ・   
 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
   ・   ・   ・   
 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、少子高齢化日本民族日本人の人口が激減すれば、民族固有の伝統文化・伝統芸能民族宗教は後継者を失い、伝承される事なく廃れていく。
 そして外国人移民(主に中国人移民)が急増すれば、ハワイ民族・ハワイ文化・ハワイ言語同様に先住民である日本民族の日本国語など民族由縁の全てが滅びる。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人、特にリベラル左派(マルクス主義)の超リート層である高学歴の政治的エリートと進歩的インテリ達やグローバルな資産家・富裕層達に民族否定主義者が多く、彼らは民族的な歴史力・伝統力・文化力・歴史力・宗教力がなく、縄文人から受け継いできた日本民族固有のモノが全て嫌いであり、子孫の為に後世に残したいとは思っていない、むしろ本音は根絶したいと願っている。
 それが、反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人達である。
   ・   ・   ・   

🎑108)─9・E─日本アニメ・漫画の原点は古事記・日本神話であった。~No.243  

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 超エリート層である高学歴の政治的エリートと進歩的インテリ達は、アニメ・漫画は教養ある文学とは認めず、勉強嫌いの子供が読む幼稚な読みものと軽蔑している。
   ・   ・   ・   
 2023年月11日 YAHOO!JAPANニュース 幻冬舎ゴールドオンライン「なぜ日本のアニメは世界で愛される?日本人が持つ物語力の凄さ
 日本には古くからの古典が存在します。「源氏物語」は世界最古の長編小説です。日本のアニメ文化は「クールジャパン」の象徴です。日本人の物語力は、世界レベルでみても、高いことが分かります。経営コンサルタントの井口嘉則氏が著書『リーダーのための人を動かす語り方』(日本能率協会マネジメントセンター)で解説します。
 世界中に愛される日本のアニメ
■日本人の物語力は実は凄い
 ストーリーテリングは、横文字言葉ですが、実は日本人の物語力にはすごいものがあります。古くは、「古事記」で、その物語は、天地創造から始まって、天照大神が生まれ、その子孫である天皇家にまつわる出来事が語られていて、その天皇家は二千年程続いていて、現代では世界最古となっています。
 紫式部による「源氏物語」は、世界最古の長編小説ですし、作者不詳の「平家物語」は、平家滅亡の長編物語ですし、江戸時代には近松門左衛門十返舎一九等が浄瑠璃や歌舞伎・滑稽本を書きました。明治以降は、欧米風の小説が書かれ、森鴎外夏目漱石が出て、川端康成は戦後ノーベル文学賞をもらいました。『ノルウェイの森』等の小説で有名な村上春樹も海外で翻訳され、1千万人以上の読者に読まれています。
 また、ディズニーのライオンキングは、手塚治虫の『ジャングル大帝』のパクリだと批判され物議を醸しましたし、映画『マトリックス』は日本のアニメが影響を与えたと言われていますし、SFアクション映画『トランスフォーマー』も日本の同名の玩具が元となっています。また、ゲームとアニメのポケットモンスターは、世界中で何億人もの人たちに楽しまれています。
 このようにみてくると、日本及び日本人の物語力は、世界レベルでみても、高いことが分かります。ですので、皆さんの中にも物語力が潜んでいるかもしれません。
■私たちはストーリーという人生を生きている
 実は、私たちの人生は、自分で紡いでいるストーリーとも言えるのです。もちろん主人公は自分自身です。皆さん、自分の生い立ちから始まって、幼少期、少年期、青年期、壮年期と、自分がどんな想いを持ちながら、その時々を過ごしてきたのか、どんな夢や希望を持って頑張ってきたのか、どんな山谷があったのか、どのようにして苦境を脱してきたのか等、いろいろなエピソードが語れますよね。
 映画も、一本の映画が全体で1~2時間程度ありますが、ビデオを借りて見ると、その中は、数十のエピソードから構成されているのが分かります。私たちの人生も、そうしたいろいろなエピソードから成り立っているストーリーということができます。
 ですから皆さんも、自分について語る時に、人生の1ページを開いて、そこでのエピソードを、物語の要素をきちんと入れて語れば、自分についてのストーリーテリングができるのです。そして、それらのエピソードは、人生のエンディングに向けて、自分でも予想しきれないストーリーで展開していくことになります。
■語り方を身につけられると、強い武器になる
 物語は、語り方によって、面白くも退屈にもなります。
 よく、研修の中で、受講者の皆さんの印象に残った体験談を語ってもらうのですが、聞き手にどの程度印象に残ったかで、相互投票を行うと、票に偏りがでます。皆さん、それぞれが、自分の人生で印象に残ったことを話しているのに、他の人に聞いてもらうと、印象の度合いに大きな差が出るのです。
 多くの人は、それはエピソード自体のドラマ性の違いではないかと思われると思いますが、必ずしもそうでもないのです。タイトルがドラマチックであっても、印象に残りづらいエピソードもあります。また、逆に、タイトルは大した話ではなさそうなのに、ぐっとくる話もあります。
 それは、実は語り方の違いなのです。自分にとって印象に残っていても、淡白に語ってしまえば、薄い印象しか残りませんし、ドラマチックに語れば、強い印象が残ります。つまり、同じエピソードでも語り方によって相手に伝わる印象が大きく異なるのです。
 ですから、皆さんも、自分の体験そのものを変えることはできませんが、その語り方を変えることで、聞き手にインパクトのある話にすることができるのです。
人を動かし、組織を動かし、国を動かす
ストーリーテリングが効果的な7つのシチュエーション
 このようにストーリーテリングは、人を動かし、組織を動かし、国を動かすのに有効なわけですが、本連載では、ビジネス・ストーリーテリングということで、ビジネスの場面で有効なストーリーテリングの使い方についてお話をしていきます。
 一般にストーリーテリングは、以下の7つのシチュエーションで効果的と言われています。
(1)自分を理解してもらう
 …自分が何者であるか、どんな人物であるか、その人柄を他人に分かってもらうのに効果があります。
(2)価値観・大切にしていることを伝える
 …自分やチーム、組織が大切にしていること、それが価値観です。その価値観は、例えば「安全・安心」等言葉で言ってしまうと平凡に感じられてしまうことも、ストーリーテリングによって、しみじみと深く浸み入らせることができます。
(3)変革のための行動を引き出す・考えを変えさせる
 …変革というと大げさですが、例えば、相手に意識や考え方を変えてもらうのに、単に「考えを改めろ」と言っても、改まりませんが、ストーリーテリングによって、相手の認識や考えを改めさせることができます。
(4)未来に導く
 …現状が厳しいと、ついつい下を向いてしまいます。しかし、そう思って何もしないでいると、さらに状況が悪化します。そうではなく、今よりもよい未来、目標に向かって歩き出すために、未来のことを語る=未来語りをすると、聞いている人たちの気持ちを変え、未来に向けた行動を引き出すことができます。
(5)共同作業を促す
 …一人では仕事は完結できませんが、他人と協力して取り組むのは、少し面倒くささが伴います。その面倒くささを振り払って、共同作業に大きく踏み出すためには、一緒にやった方がいいことがあると思ってもらえるようなストーリーテリングを行うとうまくいきます。
(6)ナレッジマネジメント(知恵を共有する)
 …自分の得意な技・ノウハウは人に隠しておきたいものです。ただ、いざ必要に駆られてそれを共有しようと思っても、なかなか頃合いの表現が見つからず、うまく説明できません。そういう時は、うまく行ったときのことをストーリーテリングで表現すると、言葉にできない部分まで相手に伝えることができます。
(7)プレゼンテーション
 …プレゼンテーションには、全体を通してのストーリー性が求められます。起承転結のような全体構成を検討してから、ディテールの造り込みを行うようにすると、うまくいきます。
 この他にも効果的なシチュエーションはまだありますが、本連載では、この7つについてストーリーテリングの仕方を紹介していきます。
 井口 嘉則
 オフィス井口 代表
   ・   ・   ・   
 飛鳥奈良時代古事記、民族中心神話、その他。
 平安時代鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)、仏教の説法絵図(地獄絵図、極楽浄土絵図)、仏教曼荼羅、その他。
 江戸時代の葛飾北斎の漫画、河鍋暁斎の漫画、妖怪・怨霊・英雄譚などの物語浮世絵、その他。
 明治文明開化の西洋風刺画、キリスト教宗教画、寓話、その他。
 昭和戦後のディズニー、その他。
 日本アニメ・漫画は、その時代ごとに海外から伝来した宗教、神話、物語を広める絵画や絵図の影響を強く受けてきたが、その根底にあったのは縄文祭祀の宗教文化=民族文化であった。
 日本アニメ・漫画・劇画は、日本独自の文化ではなく、ましてや突然日本で生まれた文化でもなく、古代から海外の影響を受けながら新規にリノベーションを繰り返してきたバージョンアップ文化で、それ故に全てを飲み込む変幻自在の多様性多元性多種性を秘めている。
 その象徴が、絶えず作風に創意工夫を加えて新しい作品を生み出し世に送り続けていた手塚治虫である。
   ・   ・   ・   

🎑77)─1─日本の家屋革命。畳離れ、和室離れの避けられない理由。外国人大工職人子。~No.173No.174No.175 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2022年12月1日6:00 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「日本人の「和室離れ」がますます進んでいる「避けられない理由」 「畳離れ」も顕著に
 阿古 真理 の意見
 和室が減っている…!
 去年から、賃貸物件を内見し続けている。資料の本が増え過ぎて手狭になり、17件も内見したうえで去年の11月にいったん引っ越しをした。しかし、選んだ部屋は定期借家だったので、期限までにもう一度引っ越さなければならないからだ。
 部屋の条件として、夫婦2人の仕事部屋と本棚置き場を確保することに加え、使い勝手のよいキッチンも欲しい。しかし予算内である程度交通と買い物が便利な場所では、なかなか見つからない。探し回っているおかげで、東京の物件事情にずいぶん通じてきた。
 たくさん部屋を見るうちに気づかされたのが、日本人の生活スタイルの変化だ。何しろ、賃貸に出されている部屋の中には、築数十年の古い物件や、元は昭和前半生まれの高齢者のオーナーが住んでいた、という部屋もあるからだ。中でも興味深いのが、和室のポジションである。そこで今回は、部屋を管理する家事の視点から、和室について考えてみたい。
 © 現代ビジネス
 広さがある割に家賃が安い物件は、何らかの難を抱えている。交通が不便、築年数がかなり古いという事情以上に目立つのが、実は和室の数である。
 仕事部屋と、本棚を置くスペースがたくさん必要な私たちは、2人暮らしだが75㎡以上のファミリー物件を探している。すると、居室のすべてが和室の物件は、相場の2万~3万円は家賃が安いことに気がついた。「リノベ済み」でキッチンを最新式にして売り出している古い物件にも、元は和室だったんだろう、と思わせる洋室がある。奥行きがちょうど押入れサイズの収納がついていたり、障子が入っているなど、和室的な特徴を備えているからだ。
 居室すべてが和室の物件はたいてい、昭和に建てられたものか、昭和前半に生まれたオーナーが住んでいたらしい部屋だ。後者の場合、和室の一角に仏壇置き場や床の間があったり、神棚がしつらえてあることもある。
 こうした実態から見えてきたのが、平成以降、居室の好みが和室から洋室へと変化したことだ。
 住宅の近代史から、和室のポジションをたどってみよう。今年の9月で放送が終了したが、『百年名家~築100年の家を訪ねる旅~』(BS朝日)という、邸宅を中心に古い住宅建築を紹介するマニアックなドキュメンタリー番組があった。
 登場した邸宅の中には、明治期ごろに建てられた立派な洋館なのに、内部をのぞくとオーナーや家族の居室は和室になっている家が散見された。外から見ると、和室があるとはとても思えない造りなのである。昔の日本人は、和室でこそくつろげたことがよくわかる。
 © 現代ビジネス
 かつて、和室は必須の部屋だった
 昭和初期、中流層が家を建てるようになると、洋室の応接間を一つ備えた和洋折衷住宅が増える。明治の富豪は、家族が暮らす和館と接客用の洋館を二つ建てる場合が多かったが、中流層にはそこまでの財力がない。それで、応接間だけ洋室にしたのである。今ではだいぶ少なくなったが、たまに古い住宅街の一角に、ステンドグラスをはめ込んだ窓とかわいいカラフルな瓦屋根が特徴的な、こうした和洋折衷住宅が残っている。
 年齢を数歳若く見せることができるヘアカットまとめ
 洋室化が本格的に進むのは戦後。日本住宅公団(現UR都市機構)が作った団地を皮切りにダイニングキッチンが普及し、ダイニングにテーブルを置いて椅子に座って食事する生活スタイルが広がっていく。公団は、「和室で食事をし、夜はそこに布団を敷いて寝る生活は不潔になりがち」と、わざわざ備えつけのダイニングテーブルを提供して食事専用の部屋を作る習慣を広げた。
 最初はせっかく作ったダイニングに布団を敷く人が多かったが、実は洋風スタイルの生活を求める人たちもいた。初期の団地は、2DKが基本形でその2室は和室だったが、和室の一つにじゅうたんを敷き、ソファを置いてリビングにする人たちが多かったので、LDKの間取りが一般的になっていったという経緯もある。
 それでも昭和期は、帰ってくると和装に着替える男性がたくさんいたし、和室に布団を敷いて寝るスタイルも一般的だったので、和室は必須という家庭が多かった。床に直接寝転がったり座ったりできる和室はくつろげる空間、と感じる日本人が昭和までは多数派だった。
 もともと日本人は家具をあまり持たず、一つの部屋を何通りにも使う習慣があった。和室は、昼間は居間、夜は寝室にできるなど、いろいろな用途で使える点でも便利だったのだ。
 部屋探しの過程で、高齢オーナーが使ったらしい物件には、二間続きの和室もよくあることに気がついた。もともと、家で接客する機会が多い農村部では、宴会時にはふすまを開ければ広い空間が出現する、二間続きの和室が求められる傾向がある。冠婚葬祭などで何十人も並んで食事することがあるからだ。東京の家が、そうした接待を前提としなくなったのは、ごく最近のことなのだ、と気づかされた。
 便利で好まれてきた和室だが、若い世代になるほど嫌がられる傾向が強い。だからこそ、和室が多い部屋は家賃が安くなってしまうのだ。いったいなぜ、和室はこんなに嫌われ者になってしまったのだろうか?
 © 現代ビジネス
 手がかりは「二段ベッド」
 寝室の変化という視点から、この問題を考えてみよう。LDKが普及し始めた昭和後期、子ども部屋に二段ベッドを入れる家庭が増えた。高度経済成長期、庶民の所得が向上して誰もが結婚できる時代が到来すると同時に、子どもを2人産むことが一般的になったからだ。
 結婚は子どもを産むためにすると思われていたし、1人産めば「一人っ子はかわいそう」と考える人が多く、「2人目はまだ?」と周囲からプレッシャーもかけられた。しかし、子どもが多いと経済的に苦しくなる。一般的になった2人の子どもがいる家庭で、狭い家でも部屋を効率的に使えるとして人気になったのが二段ベッドだった。
 『室内と家具の歴史』(小泉和子、中公文庫)によれば、日本ベッド工業会の調査で、1970年代以降にベッドは急速に普及した。二段ベッドや分割ベッド、ソファベッドのピークは1971、1972年頃。その後は普通ベッドが増えているので、この頃を境に「ベッドの用途が変わり、それまでのような部屋の狭さの解決策ではなくなってきて、空間的にも専用寝室化」されたと指摘している。
 © 現代ビジネス
 二段ベッドは省スペースになるうえ、布団の収納場所を必要としないので、管理がラクだったことも人気の要因だろう。思い返せば、1968年生まれの私の家でも、周りの家でも二段ベッドは導入されていた。そして、二段ベッドでベッドに寝る習慣をつけた現在の50~60代が、結婚後にダブルベッドを買うなどしたこともベッドが一般的になっていった要因の一つと考えられる。
 旅先で泊まる部屋も、食事の時間に制約がある旅館より自由度が高いホテルが求められるようになり、ホテルでベッドに慣れた人も増えたと思われる。そういえばホテルも和室を用意しているところが昔は多かったように思うが、最近次々と増えるビジネスホテルは、洋室だけのところが多いのではないか。
 つまり、ベッドで寝る習慣がついた人たちが、和室を不要と考えるようになり、和室を備えた部屋も減っていったと考えられる。ベッドの寝室が便利なのは、二段ベッドの場合と同様、寝具の収納場所を必要としないことに加え、布団の上げ下ろしをしなくて済むことだ。ただし、布団を上げてしまえば空間が広くなる和室より、ベッドの下の隙間に掃除機を入れる洋室の掃除は手間がかかる。
 もう畳の暮らしには戻れない?
 布団派の私が気がかりなのは、ベッドはマットレスを干しづらいこと。寝ているときは大量に汗をかくが、マットレスだと干して乾かすことが面倒そうだ。だからこそ、マットレスに消臭剤をかけて除菌しようと呼びかけるCMが流されるのだろう。ダニが発生することもある。こちらは干して乾燥させる以外に、敷布団でもベッド用のマットレスでも、掃除機をかけることが一番いい対策と言われている。
 和室が敬遠されるのはしかし、畳がマットレスと同様の問題を抱えているからでもある。今、畳を定期的に取り外して干す人はあまりいないのではないか。昭和半ば頃までは、季節の行事として年に2回程度畳を干していた。
 今は、賃貸の場合、数年で引っ越す人が多いので、入居者の交替の際に畳を取り替えることが一般的だ。住まいを所有する人は、自分たちでタイミングを決めて畳を取り替えることもあるだろうが、その手続きも面倒と思われるのかもしれない。
 フローリングの床は拭いてお手入れできるが、畳の床を拭く人は少なそうだ。しかし、畳はすき間にゴミが入り込みやすいし、飲み物などをこぼしたらシミになりやすい。日に焼けて変色しやすくもある。手入れのしにくさも和室が敬遠される理由の一つだろう。
 © 現代ビジネス
 また、家具を置くと畳が凹んでしまうことも気になる。キャスター付きの椅子などを引いたら傷んでしまう。高度経済成長期に洋風のライフスタイルが広がり、嫁入り道具として家具をそろえることが豊かさの象徴とされたこともあって、室内に置く家具の種類が多くなった。家具と和室の相性の悪さも、和室が敬遠されるようになった理由の一つだろう。
 近年は洋服ダンスは備え付けのクローゼットに、整理ダンスはプラスチック製のボックスへと、家具も減る傾向にあるのだが、ベッドを布団へ、とはあまりならないようだ。もしかすると、椅子式生活が定着し、床に直接寝たり座ったりする生活スタイルが消えつつあるのかもしれない。
 湿気が多い日本では、気楽なこともあり靴を脱ぐ生活スタイルは残りそうだが、他の暮らし方は洋風化が相当進んだ。もしかすると、和室との付き合い方自体が、忘れられつつあるのかもしれない。」
   ・   ・   ・   
 2023年1月27日16:40 YAHOO!JAPANニュース メ~テレ(名古屋テレビ)「ドイツの大工職人、日本の伝統的な木造建築技術を学ぶ
 ドイツの大工職人が愛知県の建設会社で、日本の伝統的な木造建築技術を学んでいます。
 ドイツでは若手の大工職人が、約3年間旅修業を行うのが伝統です。
 日本での修行を希望したアーミン・パチェンスさん(20)を、北名古屋市に本社を置く新和建設が、受け入れました。
 パチェンスさんは今月16日から研修を受けていて、きょうは一宮市にある明治34年に建てられた古民家でリフォームの工事に参加し、大工の棟梁から「のみ」の研ぎ方や使い方などを学びました。
 「日本独自の道具の使い方や、日本の建築技法がどうなっているかを学び、知識をつけたい」(アーミン・パチェンスさん)
 パチェンスさんは2カ月間研修を受けることになっています。
   ・   ・   ・   

⚔39)─1・D─徳川家康の関東大改造治水事業。利根川の東遷。荒川の西遷。~No.165 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
徳川家康が命じた「利根川の東遷、荒川の西遷」の目的は、洪水や灌漑などの治水事業、船による物資輸送。
   ・   ・   ・   
 2023年1月15日 YAHOO!JAPANニュース 幻冬舎ゴールドオンライン「連載眺めるだけで教養が高まる!日本の地形見るだけノート【第5回】
 東京の発展をもたらしたのは、徳川家康の戦略「利根川の東遷」「荒川の西遷」だった!
 竹村 公太郎2022.7.4地理地図地形
 東京の発展をもたらしたのは、徳川家康の戦略「利根川の東遷」「荒川の西遷」だった!
 利根川の氾濫が多く、湿地帯だった関東平野。ここで稲作ができるようになったのは、徳川家康が主導した、利根川の東遷と荒川の西遷が大きいといえます。歴史的背景を探ります。元国土交通省河川局長で日本水フォーラム代表理事の竹村公太郎氏が解説します。
 江戸城の発展に貢献した、超大規模治水事業
 江戸時代初期、徳川家康によって戦略的な目的で計画された利根川の東遷。やがて治水による江戸防御に目的を変え、荒川の西遷を加えて完成しました。この治水事業が江戸の大都市への成長や、のちの東京の発展の要因になっていきます。
 利根川、荒川、関宿、東遷、西遷
 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、江戸に帰還後、鷹狩りと称して関東一円を巡視。関東制覇のための情報を収集しました。
 そこで得られたのが、利根川渡良瀬川が「関宿」にある下総台地に塞がれ、東から南へと流路を変えるという地形情報です。当時、周辺には有力な大名がおり、東北から南下すれば下総台地を通って、一気に房総半島を制圧できました。また西日本から東北に行く場合も、房総半島で上陸して陸路をとらなければなりません。
 江戸が拠点の家康にとって、関宿は重要なポイントだったのです。
 [図表1]江戸時代の関東平野
 家康は、大地を掘削して利根川渡良瀬川の流路を銚子に変える「利根川東遷」計画を立てました。
 河川の流水で巨大な濠を造り、敵襲を防御するのです。結局、大坂夏の陣に勝利した家康の敵はいなくなりましたが、利根川東遷は続けられました。当時の利根川は、中流域で荒川水系と合流していたため、流域は稲作に向かない氾濫地帯でした。
 戦略的目的の東遷は、治水による新田開発や舟運、内陸水路開発の意味合いが強くなったのです。1594年に新郷で会の川を締め切った工事に端を発した東遷は、続いて1629年に荒川を西遷させ、下流隅田川とするとともに、鬼怒川を小貝川と分流させ、常陸川と合流させます。こうして、約300年の歳月と巨費を投じて利根川が改修されたことが、江戸の大発展に貢献したのは周知の通りです。
 [図表2]荒川の流路の変遷
  埋め立てによる巧みな土地利用で、大きく発展した長崎
 いわゆる鎖国政策の中で、唯一、海外貿易の窓口となっていたのが長崎です。長崎はポルトガル船が入港した地であり、南蛮貿易の拠点となって発展しました。しかし貿易は人工島の「出島」を通した限定的なものでした。
 中島川、三角州、出島
 徳川幕府ポルトガルとオランダ貿易の窓口としたのが貿易港・長崎です。長崎は九州の西端、肥前国の中島川河口に形成された三角州を中心とした都市でした。1570年に開港された長崎は、当初、来航したポルトガルに寄進されてイエズス会領となりましたが、豊臣秀吉が宣教師追放令を出して長崎を没収し、直轄領としました。
 その後、江戸幕府は貿易を奨励していたため、当初はキリスト教にも寛大でしたが、やがて布教を禁止。市内に雑居していたポルトガル人を収容するため、中島川河口の北側に、円弧状の人工島「出島」を築きました。
 [図表3]江戸時代の出島の全貌
 また、この後の1639年、ポルトガル人は出島から追放され、2年後には平戸から和蘭(オランダ)商館が移転されます。出島の門や塀、橋などは幕府が造ったものでしたが、それ以外の土地、建物は「出島町人」と呼ばれる25人の豪商たちが共同出資で建造しました。
 商人は出島をポルトガル人たちに貸した賃貸料で利益をあげようと考えたようですが、追放事件に窮し、平戸のオランダ商館を移すように嘆願したのでした。それだけ海外貿易が巨額の利益を上げられる商売だったということでしょう。
 こうして開国まで長崎は西欧貿易の玄関として、日本の近代化に重要な役割を果たしました。長崎は埋め立てなどを巧みに利用し、大きく発展した都市なのです。
 竹村 公太郎
 元国土交通省河川局長・日本水フォーラム代表理事
   ・   ・   ・   
 利根川東遷概史  江戸川人工河川論
 現在の利根川は銚子に流れる大河となっていますが、江戸時代中頃までは銚子に流れ出ていたのは鬼怒川と小貝川が合流した常陸川でした。
 江戸以前の利根川は前橋付近で平野部へはいり、渡良瀬川と合流して南へ下り、さらに荒川(元荒川)とも合流して現在の隅田川、中川、江戸川を流末として東京湾に流れ込んでいました(江戸川については後述)。
 江戸開府とともに徳川家康東京湾に流れていた利根川水系の治水に着手し、洪水地帯を農耕地に変え、水運路の強化を行っています。
 その治水と開拓の総括をしていたのは家康の重臣であった関東郡代の伊奈氏で、信玄堤などの武田流の土木技術を習得していたとされます。
 その手法は自然地形を利用し自然堤防を強化して遊水地域(浸水を許容する地域)を設け、低い堤防で洪水の勢いを分散させて重要地を守り小被害は許容する考え方によるもので、関東流または伊奈流とも呼びます。
 部分的に浸水を許容するのでその地域に居住はできませんが、肥料分の多い洪水流土を農耕に利用することができ、河川と周辺環境が連絡している長所があります。
 (輪中という小堤防で村落を囲ったり、個々の家が高い基礎を作って浸水を防御する場合もあります)
 江戸時代初期の関東の治水はほとんどがこの考え方で行われています。
 対応するのが紀州流と呼ばれる治水技術で、強固な堤防によって河川を切り離して小氾濫も許さない考え方で、土地を目一杯活用できますがいったん破堤すると被害が大きい欠点があります。
 畿内では人口密集が早い時代から始まっていたために土地を目一杯使える手段が採用されていたのかもしれません。
 利根川治水でも1629に作られた見沼貯水池が1700頃に農地拡大の求めに応じて農地化され、はるか北から見沼用水や葛西用水が引かれて、かっての入間川(荒川)と現在の江戸川の間の広大な土地は人工的な水路によってコントロールされるようになります。
 明治以降では欧米技術が導入されていますが、紀州流の考え方を近代技術で強化したものともいえます。
 河川と周辺環境が切り離されてしまう欠点がありますが、最近ではそうならないような工夫もなされているようです。
 この図では現在の江戸川下流域は人工開削された河川であるとみなしています。これについては江戸川人工河川論を参照ください。
   ・   ・   ・   
 一般社団法人東京建設業協会
 ┃江戸幕府 60年かけ瀬替え、開削の大規模治水事業
 社会資本(インフラ)整備は、整備のための投資による直接効果(フロー効果)だけでなく、生活の安全・安心や生活の質向上、さらには生産性拡大といったストック効果によって、街・都市の発展と国の成長を支えてきました。現在の首都・東京は、第二次世界大戦以降の復興や高度成長だけで成り立ったものではありません。後に「利根川の東遷 荒川の西遷」と呼ばれる、江戸幕府を開いた徳川家康による大規模治水事業こそが発展の礎となっています。
 江戸に入った家康は、水田地帯を洪水から守り、新田を開き、木材を運ぶ舟運を開発し、五街道のひとつ中山道の交通確保と江戸を洪水から守るため、利根川の流れを東京湾から太平洋沿岸の銚子へ大きく変える一方、荒川の流れも西側へと変える大事業に着手しました。その事業のおかげで、江戸の人口は100万人と当時の世界で最大級の都市に発展しました。まさに東京の礎は、ふたつの大河川の流れを人工的に変える「利根川の東遷と荒川の西遷」にあったとも言えます。
 ┃利根川の東遷 舟運発達と新田開発で江戸繁栄に貢献
 1590年、徳川家康が江戸に入った当時、利根川と荒川は越谷(埼玉県)付近で合流し、東京湾に注いでいた。度重なる洪水によって、現在の埼玉東部から東京東部地帯は大湿地帯だった。
 利根川・江戸川分流点。分流点に設けられたスーパー堤防上にそびえる、千葉県立関宿城博物館から上流を望む。ここまで流れてきた利根川は、利根川と江戸川へ分流する。両川の向こう岸は茨城県だ。
 そこで家康は、利根川と荒川を分離させ、利根川の流路を太平洋沿岸の銚子沖へと東側に大きく変えた。これが利根川の東遷事業だ。
 具体的には1594年、利根川中流域で二股に分かれまた合流する、南側の川の「会の川」(埼玉県羽生市付近)締め切りに着手。これが、人工的に流路を変えた第一歩と言われる。
 1621年には、利根川渡良瀬川をつなぐ「新川通り」と利根川常陸川をつなぐ「赤堀川」(埼玉県栗橋から関宿間)の開削に着手する。会の川締め切りが、人工的に流路を変える瀬替えの第一歩なら、「新川通り」と「赤堀川」は開削という手法を使った人工河川の初弾と見てもよい。
 その後1624年から1643年にかけ、利根川の分流となる江戸川・逆川開削によって、利根川・赤堀川から江戸川が分流する分岐点の関宿(千葉県野田市)が、水上交通の要衝として発展することになる。
 赤堀川の通水は1654年。これによって利根川が小貝川、鬼怒川も併せて太平洋側に流れる「東遷事業」が完成した。赤堀川通水と利根川から分岐する江戸川との分岐点には現在、過去にその地を治めた関宿藩の城郭を模した、千葉県立関宿城博物館がスーパー堤防の上から、利根川の洪水や氾濫による先人の苦難の取り組みとその歴史を、訪れる人に語りかけている。
 分岐点の「関宿水閘門」今も現役
 利根川の東遷事業をより深く知るなら、「千葉県立関宿城博物館」がお勧めだ。野田市関宿三軒家にある同博物館は、利根川利根川から分流する江戸川に挟まれた、スーパー堤防(高規格堤防)上に建設されている。東遷事業の推移を始めとする川の歴史や、近代までの利根川流域での洪水や治水の歴史、さらには河川によって育まれた産業や文化を分かりやすく紹介している。
 博物館周辺は桜並木の公園で、過去に使われた浚渫機械の実物も展示されている。公園から橋を渡って目の前にある江戸川の中央部(中の島)まで歩くと、土木学会から選奨土木遺産として認定された、「関宿水閘門」を見ることが出来る。
 国土交通省関東地方整備局の江戸川河川事務所管内で土木遺産として認定を受けているのは4施設で、関宿水閘門はそのうちのひとつだ。
 関宿水閘門は、江戸時代に江戸川流頭部で活躍してきた流量抑制施設の「棒出し」に代わる、コンクリート造の土木構造物である。利根川から江戸川に流れる水量を調節 し、船を安全に通行させる目的で、大正7(1918)年に着工し、昭和2(1927)年に完成した。
 日本の大型建造物が、レンガ造りからコンクリート造へ変わりつつある時代に姿を現した関宿水閘門は、当時の建設技術を知る上でも貴重な建造物と言える。 
 ┃荒川の西遷 利根川と切り離し江戸の洪水防ぐ
家康が利根川の東遷と並行して行ったのが1629年、利根川と合流する「荒川」の流路を、それまでの川(元荒川)から西側にある入間川に流れ込ませ、最終的には隅田川として東京湾に流す、「荒川の西遷」であった。利根川から分離するための付け替え工事を行った場所(埼玉県熊谷市久下)から「久下の開削」とも呼ばれる。
 利根川の東遷が、銚子から利根川と江戸川を経由した舟運ルートを確立させたのに対し、荒川の西遷は、上流域から江戸への木材運搬に効果を果たした。一方で荒川の西遷によって、荒川の洪水リスクはより江戸に近づくことになった。江戸城下を荒川の洪水から守ろうと、上流側で洪水を溢れさせるための、日本堤と隅田堤が整備された。
 ただ、日本堤と隅田堤は、江戸城下を守るためのものであった。隅田川から東側は、たびたび洪水被害に遭っており、明治時代の大洪水を契機に、荒川と隅田川を分離し、新たな荒川を人工的につくることになった。ここに「荒川放水路」が着手されることになる。
 江戸時代以前
 現在の河川
 江戸から東京に名称が変わるなかで、明治新政府は帝都建設と欧米列強に追いつくための工場立地を進めた。農村やその周辺は、市街地の拡大・工場用地化という土地利用の高度化で様相を大きく変え、その結果、農村地帯だったころとは比較にならないほど河川氾濫による被害が深刻になりつつあった。明治末期に荒川から隅田川を分流させ、「荒川放水路」として新たな荒川の掘削に取り組んだ最大の理由がここにある。
 工業化と都市化は、度重なる河川氾濫と浸水被害を許さなかった。荒川放水路が完成した後も都市は拡大し、戦後復興以降、都心部を水害から守る放水路の役割は更に重要となる。昭和の高度成長期には、想定する洪水流量の見直しも行われるなど、周辺河川とともに新たな河川改修事業が進められている。
 荒川は江戸時代の「荒川の西遷」、明治に着手し昭和初期に完成した「荒川放水路」という二大治水事業によって、江戸時代から続く東京の生活と都市の発展を支えている。
 20年かけ「荒川放水路」完成
 岩淵水門が荒川と隅田川の分岐点に
 100万都市・江戸を支えた「利根川の東遷 荒川の西遷」。そして「荒川放水路(現在の荒川)」開削は、昭和の時代から現在に至るまで「首都・東京」の街を洪水などから守る役割を果たす起点となった。20年の歳月をかけ、北区の岩淵に水門をつくり、それまでの荒川の本流を水門で仕切り、岩淵から東京湾に注ぐ、延長22km、幅500mの新たな放水路(現在の荒川)を開削する大規模工事だった。第一次世界大戦による不況、台風被害、関東大震災など幾多の困難を極めながら、昭和5(1930)年に完成した。
 「荒川放水路」完成によって、岩淵水門で水量を調節できるようになったそれまでの荒川本流は、いま「隅田川」となり、荒川放水路が「荒川」と呼ばれている。
 国土交通省関東地方整備局の江戸川河川事務所管内で土木遺産として認定を受けているのは4施設で、関宿水閘門はそのうちのひとつだ。
 現在の岩淵水門
 荒川放水路は、明治43(1910)年の大洪水をきっかけに、東京の下町を水害から守る抜本的対策として着手。放水路の肝となる岩淵水門は、パナマ運河建設に携わった、当時日本を代表する土木技術者だった青山士(あきら)が設計・施工に尽力した。
 明治・大正・昭和の3時代にかけ、流域人口500万人超の住民を水害被害から守るために行われた、「荒川放水路」の着工から完成までの過程や、荒川の歴史と放水路完成による、さまざまな効果については、国土交通省関東地方整備局の荒川下流河川事務所が発刊した『荒川放水路変遷誌』に見ることが出来る。
   ・   ・   ・   
 利根川の歴史 利根川の東遷 - 関東地方整備局
 利根川について > 利根川の歴史 > 利根川の東遷
■なぜ東に流れを変える必要があったか
 古来、利根川は太平洋ではなく、江戸湾(現在の東京湾)に注いでいました。現在のような流路となったのは、数次に渡る瀬替えの結果で、近世初頭から行われた河川改修工事は利根川東遷事業と呼ばれ、徳川家康によって江戸湾から銚子へと流路を替える基礎がつくられました。
 東遷事業の目的は、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を推進すること、舟運を開いて東北と関東との交通・輸送体系を確立することなどに加えて、東北の雄、伊達政宗に対する防備の意味もあったといわれています。
■最初に命令をだしたのは徳川家康
 利根川の東遷は、江戸時代の最初の将軍(徳川家康)の命令で行われました。水害を防いだり、新しく農地をつくったり、船で物を運びやすくすることなどが目的でした。そのため、流れを変えるだけでなく、堤防もつくったり、農業用の用水路をつくるなどの工事も行なわれました。
 東遷の工事は、当時栗橋付近から江戸湾に流れていた利根川の流れを東に移し、台地を切り通して赤堀川としたほか、常陸川と多くの湖沼を結びつけて銚子に流すものでした。
天正18年(1590)に江戸に入った徳川家康は、関東郡代に伊奈備前守忠次を任命、利根川東遷事業を行わせました。事業は文禄3年(1594)から60年の歳月をかけて、忠次から忠政、忠治と受け継がれ、承応3年(1654)に完了。これによって、わが国最大の流域面積を誇る河川が誕生したのです。
■東遷(とうせん)の過程
 いまの利根川の流れは、人の手により東へ流れを変えてできたものです。江戸時代に少しずつ東へと流れを移し変える大工事が、約60年間にわたって行われました。これを東遷(とうせん・東へ移すこと)と言います。それまで東京湾に向かって流れていましたが、人々の努力によって現在のように千葉県銚子市で太平洋に注ぐようになりました。
   ・   ・   ・   

🌈10)─2・B─日本文明は肥沃な土壌。会話する植物。森は巨大な脳。〜No.20 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 土は、陸上だけではなく水中・海中、川底・湖底・海底にもある。
   ・   ・   ・   
 植物は、化学物質を出して会話している。
 植物は、地球上のいたる処、陸上や水中にも生息している。
   ・   ・   ・   
 日本の豊かな土壌は、火山灰と腐葉土を分解する苔・菌・微生物が産みだしていた。
   ・   ・   ・   
 緑の森林に覆われているから土地が豊かとは言えず、水が豊富だから緑の植物が育つわけではない。
 現に、原生林を切り開いて耕地にしても数年で農作物は収穫できなくなり、砂漠に流れる大河から森林は生まれない。
   ・   ・   ・   
 縄文人(日本土人)は先住民である森の民で、海洋民である旧石器人(南方東南アジア系ヤポネシア人)の子孫で、数万年前から日本列島に住んでいた。
 日本民族は、縄文人の血の繋がった直系子孫である。
 日本文明は、縄文文化を最深層の基礎・土台としてる。
   ・   ・   ・   
 2023年1月21日17:01 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「「日本の土」の“とてつもないポテンシャル”ーー今後、食料危機や健康不安を解決するのは「土」という決定的理由
 食を立て直すカギは「土」にあります(写真:dorry/PIXTA
 気候変動問題からなる「食料危機」を背景に、人工肉からワクチンレタスまで急速に進むフードテックの裏を描いた国際ジャーナリスト・堤未果氏の新著『ルポ 食が壊れる』が話題を呼んでいる。私たちの食を立て直すカギは、小手先のテクノロジーではなく、“土”にあるという。土壌を知り抜く人々だけが知っている環境再生の叡智について堤氏が語った(前回:「知らぬ間に食べている? 食卓にひそむ“問題点”」)。
 【写真】平気で「サラダ」を買う人が知らない超残念な真実
■なぜ今「土」なのか
 ――気候変動問題に関して、さまざまなテクノロジーによる解決が試みられるなか、なぜ「土」に注目しているのでしょうか。
 いま気候変動をめぐって世界各国で「肉食をやめて人工肉にシフト」「環境破壊の要因である畜産を減らすべき」という流れがつくられています。欧州では「牛を減らせ!  農地をわたせ!」と、「生産性」以外の家畜や農業の価値を完全に無視した政府の強硬策に、反発した畜産農家の大規模デモが広がっています。
 これが何を意味しているか?  強硬策の根底には、問題を起こす“欠陥品”は排除すればいいというモノカルチャー(単一栽培)の考え方があります。もはや限界まで進んだ大量生産・大量消費という食のあり方を見直すことなく、環境のために代替肉や培養肉に置き換えればいい、効率よく太らせたゲノム編集魚なら世界は養える、といったテクノロジー万能論は、木を見て森を見ていません。
 そもそも温室効果ガスがこれだけ増えた要因の一つは、世界中で進められた近代農業革命ーー大規模化・工業化した大規模単一栽培によって、土が劣化し、本来の炭素固定能力を失ったことにあると明らかになっています。弱った土は大量の化学肥料を入れなければ作物が育たないし、表土が流失しやすい。
 新型コロナウイルスパンデミックウクライナ危機などによる流通停止で世界的に肥料や農薬が手に入りづらくなるなか、実はいま、食糧危機と環境再生の切り札はズバリ「土」だという考え方に、世界から注目が集まっているのです。
 ――「土」が切り札とは、一体どういうことでしょうか? 
 「リジェネラティブ・アグリカルチャー(環境再生型農業)」といって、農業も畜産も、生命の循環のなかに位置づけ、土壌の修復・改善による環境再生に力を入れた取り組みが、各地で拡大しています。
 例えば「カバークロップ」という、収穫と次の作付けの間に、畑を裸にせずマメ科植物などの被覆作物を植えることで、土壌を保護し、ミミズやモグラが生息しやすくし微生物を増やす手法があります。
 窒素をたっぷり土中に閉じ込め、次に植える作物の肥料にもなることから、環境に配慮し、高栄養価の作物を育て、多様性のある長期輪作を可能にするローカル経済の起爆剤として、アメリカのアイオワ州を中心に続々と取り入れられ、議会でも注目を集めています。
 ――非常に面白い試みですね! 
 これまでの近代的手法とは真逆の、生態系に配慮して地域内で循環させる持続可能な農業にシフトする「アグロエコロジー」という考え方が世界各地に広がってきていますが、これは日本には、昔から当たり前のようにありました。
 豊かな森林や水田に囲まれ、虫や鳥や雑草も含め、すべてに神が宿るとするアニミズムの生命観を引き継いだ農村中心の日本では、有機農法は単に農薬を使わないというだけでなく、循環の思想そのものでした。とても多様性に満ちていて、全国で多くの方々がさまざまな知恵で実践してきたのです。
 例えば「高機能炭」を使うある田んぼは、化学肥料を一切使わないのに、周りと比べて色艶がよく茎も太くて長いイネが育っていました。日本人に馴染みの深い炭は、高温で焼いて完全炭化させた無機炭になると、まるで快適な高級アパートのように微生物がのびのび増える環境をつくるのです。この炭化装置をつくっているのは、日本の中小企業でした。
 高機能炭和歌山研究所の中田稔所長は、落葉と高機能炭を混ぜた真っ黒の土を畑にまくことで、その土地の土着菌を増やす手法について熱心に語ってくれましたが、ここでのカギもまた、「土壌微生物」でした。
 「いくら外から肥料を入れても、地元の土着菌にはかなわない」という言葉が、非常に胸に刺さりましたね。アメリカに住んでいたときは、栄養もお薬も「外から足す」という、近代科学の考え方が主流でしたから、まさに逆の発想でした。
 ――その土地に固有の土着菌を増やすという発想は、目からウロコです。
 すべての土地には、気象条件や水質、土の特性に合った最適な菌がすでにある。そう考えると、作物を画一化し、デジタルで農地も畜産も大規模に遠隔で管理して、という工業型のやり方が最もそぐわないのが「農業」であることが見えてきます。
 インドなどで、土壌を守り小規模農業を多様におこなう「農村主体」の手法こそが最も経済的だ、という考えへと見直しが進んでいるのも同じ流れですね。
■肥沃な土壌で育った野菜で「血液はサラサラ」に
 もう一例あげると、微生物の可能性を最大限引き出す「食」に関するユニークな取り組みをしているのが、菌ちゃん先生こと、「大地といのちの会」の創設者・吉田俊道さん。
 この方は長崎県庁に勤務していた際、「農業基本法」に沿って、地域内の農地を消毒する指導をして回っていました。バイ菌と一緒に、土壌微生物は減少し、かえって外敵に弱くなる。何度も使うと効かなくなって消毒回数が増え、栄養が減った野菜ほど虫がつく。そこに化学肥料を入れてさらに土着菌死滅……と、当時は悪循環だったそうです。
 「あ、自分が消毒して、土を弱くしていたんだ」と気づいた吉田さんは、退職後に自らの畑で、県庁時代とは真逆の方法を始めました。消毒や農薬散布は一切せず、発酵させた生ゴミや雑草を菌と一緒に畑に撒いたのです。すると土壌微生物が元気になり、ミネラルが増えた生命力あふれる美味しい野菜を食べたら、腸の調子もよくなってきた。
 そこで全国の保育園や小学校で、土壌を発酵させる「菌ちゃん野菜づくり」指導を開始、腸内微生物を元気にする菌ちゃん給食メニューも提案してみました。その結果、子どもたちの平熱は上がり、ドロドロに固まっていた赤血球がきれいになる等、驚きの結果が続々と出てきたのです。
 ――それは興味深い事例です。
 「食べたものが私たちになる」という言葉は、本当だと改めて実感しました。肥沃な土壌で育った野菜を食べている菌ちゃん先生はとっても生命力が強くて、話しているだけで元気をもらえるんですよ! (笑)。私たちは皆、微生物に生かされているんですね。
 今回「土壌の持つ力」の取材は、胸が熱くなる瞬間の連続でした。中でも、立正大学地球環境科学部の横山和成特任教授に、「世界の土の肥沃度の比較でトップの記録を叩き出しているのが日本の土」だというデータを見せてもらったときは、本当に感激しました。単位面積で農薬使用量が多い国でありながら、日本には、とてつもないポテンシャルを秘めている土壌が、まだまだ足元にたくさんあるんです。
〈「土」が変われば、日本はきっと元気になる〉、そんな希望が湧いてきました。
■「何を食べるか」ではなく「どう食べるか」
 虫にも鳥にも草木にも価値を認めてきた日本人の自然観において、かつて昭和天皇がおっしゃったように「雑草という草はなく」、福岡正信氏の提唱した「足し算ではなく引き算を軸に自然に委ねる」知恵は、近代化の大波の中でも決して消えずに引き継がれてきました。人間の都合で人工的に操作するのではなく、自然を尊び、その力を借りることで、食べ物として命を頂戴するという叡智が、日本人の精神の根底にはずっとあったのです。
 土壌微生物を死滅させて土を弱らせるのは、いろんなタイプの子がいるクラスを、学校が無理やり同一にしようとするようなもの。一見管理しやすいようで、個性を殺してしまうので一人ひとりの子の持つ力は出せなくなり、弱くなってしまいます。さまざまな微生物がいる土壌が病気や災害に強いと知ったとき、多様性に満ちていた母校の教室を思い出しました。 
 社会だって、みんながそれぞれの居場所からささやかな力を発揮できる共生型のほうが有事に強いですよね。土壌と腸は同じ、「教育」も同じだと思いました。
 だから、これから大切なのは「何を食べるか」ではなく「どう食べるか」。それによって私たちの価値観はつくられ、それが文化になり、社会全体の方向性を作り、文明そのものになっていくからです。
 「食料危機」に「気候変動」などの不安が煽られる今、テクノロジーで新しいタンパク質をつくり解決する、という狭い方法論ではなく、生きとし生けるものの循環と文明史的スケールで「食」を捉え直すと、日本が持つ、目に見えない宝の山がはっきり見えてくるでしょう。大切なものを守るのは今しかありません。世界が模索する道への大きなヒントは、私たちの足元にあるのです。
 堤 未果 :国際ジャーナリスト
   ・   ・   ・   
 WAC
 ガリレオX
 植物が会話する!? 匂いが伝えるコミュニケーション
 BSフジ
 本放送:06月11日(日)昼11:30~12:00
 再放送:06月18日(日)昼11:30~12:00
 私たち人間から見ると、植物は動物のように活発には動かない存在だ。そして鳴いたり、声を出したりもしない。そのため多くの人々は「実は植物は会話をする!」と聞いた時、とても驚くのではないだろうか? しかし、もしも「会話」という言葉の定義を「互いにコミュニケーションを取り合うこと」としたならば、植物たちの会話が近年、科学的に明らかになっている。 植物たちが言葉として利用するのが“匂い”。人間には感じることができない様々な匂い物質を使って植物は会話を行なっていたのだ。 はたして植物たちの会話とはどういうものなのか? 知られざる植物たちの会話に迫る。
 植物に知性はあるのか?
 植物には私たちが持つ知性のようなものはあるのだろうか?
そんな謎を研究しているのが京都大学生態学研究センターの高林純示教授だ。
 「植物は植物なりに外界の情報を判断する力っていうのがあるわけですよね。人間のような理性というのはないんだけど、植物の世界における、なんか似たようなものっていうのはあるのかもしれないですね。」
 そんな高林さんが探り続けるのは普段、私たちが感じることができない植物たちの会話だった。
 匂いで伝わるコミュニケーション?
 高林さんの研究室では様々な昆虫が飼育されていた。
 植物の会話のカギを握るのは植物が発する匂い物質。その手がかりは昆虫に対する植物のある戦略から見つかったという。
 「我々のような音声を発するわけではない、そのかわり彼らは、むしろ我々にはわからないような微量な香りの世界、香りの情報世界に生きているというふうに考えています。」
高林さんに植物と昆虫を用いたある実験を見せてもらった。
 「トーキング・プラント説」
 今から30年以上も前、植物に関する驚くべき仮説が発表された。それは「トーキング・プラント説」。植物の会話に関する論文だった。
 高林さんはオランダの大学への留学中に「トーキング・プラント説」に出会ったという。
 「みんなは多分、その当時びっくりしたと思うんですね。植物は会話するんだと。」
 ところが「トーキング・プラント説」は様々な科学者の厳しい批判を浴び、次第に研究は下火になってしまう。
 そんななか高林さんの研究グループは「トーキング・プラント説」の実証に挑むのだった。
 新たな農業技術へ
 現在、植物の会話に関する様々なメカニズムが研究されている。そしてその知見を新た な農業技術として応用する研究も進められていた。
 高林さんはこうした技術を用いれば、植物が丈夫になったり、害虫に食べられにくくなると言う。
 「現時点では殺虫剤を撒いたりするのに比べてかなり効果はマイルドですが、環境にやさしい農業というふうに展開していく可能性というのはあると思います。」
植物の会話を応用したまったく新しい農業技術に迫った。
 主な取材先
 髙林 純示さん (京都大学生態学研究センター)
   ・   ・   ・  
 YAHOO!JAPANニュース
 【世界初】植物は会話していた!? 人には見えない“生き物の別世界”を可視化した!
 植物で考える“超進化論”
 NHKスペシャル「超・進化論」取材班
 プロフィール
 よく耳にする「生物多様性」という言葉。でも私たちは、それが本当はどういうことなのか、まだ知らないのではないか。生き物たちは、厳しい生存競争を繰り広げる一方で、種を超えて複雑につながり合い、助け合って生きている。“人間は最も進化した生き物だ”という思いこみをやめて、生命の星・地球を支える「生物多様性の本当の姿」を見つめたい。
 そんなテーマを掲げて制作された、NHKスペシャルの大型シリーズ「超・進化論」。番組では、これまで見ることができなかった生き物たちの驚くべき世界を、映像化することに挑んでいる。植物がまるでおしゃべりするかのようにコミュニケーションをしている様子や、幼虫からまるで違う成虫の姿へと大変身するサナギの中の透視映像は、世界で初めて撮影されたものだ。私たち人間にはこれまで見えていなかった、生き物たちの世界…。そこには、私たちと生き物たちとをつなぐ大切なカギが隠されていた。(NHKスペシャル「超・進化論」ディレクター 白川裕之)
 ※本稿は11月6日放送「NHKスペシャル 超・進化論」取材班が制作した記事を紹介しています。
 NHK提供
 堺雅人さん「僕らの知らない世界がある、という喜び」
 NHKスペシャル「超・進化論」の中で、生き物たちが主役の不思議なドラマの収録現場に迷い込む、という設定で登場する堺雅人さん。思いもよらない新たな世界を知ることになる。
 堺さんは、収録の時に私たちにこう話してくれた。
 「(番組のストーリーを知るにつれ)自分が見ていなかった新しい世界があるんだ、というのがどんどん分かってくる。僕らの知らない世界があるというのが、喜びとして伝わってきた。まだまだ豊かなんだと」
 ドラマのワンシーン/NHK提供
 そう、私たちの目の前には、未知なるすばらしい世界が広がっている。
 しかし、身の回りの自然にどれだけ目を凝らしても、その世界は見えない。なぜか。不思議な世界は、「目に見えないところ」にあるからだ。
 この「目に見えない世界がある」ことが、私(筆者)がこの企画を着想した原点だ。
 きっかけは、「植物がコミュニケーションをしている」という研究だった。植物が、周りの植物や虫たちと、何らかの情報のやりとりを行なっている。そうした科学的な知見が集まり始めていることを最初に知ったのは、15年以上も前だ。とても興味深い話で、心の中にずっと残っていた。ただし、目に見えない営みである。映像で表現する対象として特に考えることはなかった。
 しかし、月日を経て、違う思いが湧き起こった。「目に見えない」ことこそが、重要なのではないか。ここからプロジェクトはスタートする。シリーズ放送開始の5年前のことである。
 目に見えない世界にこそ、真実がある
 私は、京都大学生態学研究センターの※高林純示さんを訪ねた(※「高」ははしごだか)。日本の植物コミュニケーション研究の第一人者である。高林さんらの研究の出発点には、ある謎があった。
 例えば、あるテントウムシは、小さなハムシの幼虫が大好物でそればかりを見つけ出して食べる。こうした、虫が虫を捕まえるという一見当たり前のような事象に、実は不思議があるという。
 「(小さなハムシを見つけ出すテントウムシは)例えて言えば、広い砂浜の中に落とした一粒の真珠を探すぐらい難しいことをやっている。どうしてそんなことができるのか、これは長い間謎だったわけです」
 テントウムシはどのように自分の獲物を見つけているのか/NHK提供 
 その謎を解くカギは、意外にも、「植物」にあった。
 ハムシの幼虫が大好物のヤナギの葉を食べたとき、ヤナギが「ある物質」を放出して、テントウムシを呼び寄せていることが、高林さんらの研究から分かったのだ。なんとその物質は、「ハムシの幼虫に食べられている」という情報をテントウムシに伝える“メッセージ”になっているという。
 「虫は自分の力だけで食べ物を見つけているのではなかったんですね。植物が発する“声”を聞くことで初めて、獲物にありつくことができているわけです」(高林さん)
 まさに、目に見えないやりとりこそが、自然界の営みを司っている。
 「食う・食われる」という、目に見える関係を、メッセージを伝える物質のやりとりという、目には見えない生き物同士のコミュニケーションが支えているのだ。
 人間の目には見えない、植物たちのコミュニケーションをVFXで再現/NHK提供
 陸上の他の生き物たちについても取材を広げてみると、植物だけでなく、昆虫や微生物もまた、目に見えない形でコミュニケーションをとり合いながら生きていることが分かってきた。生き物たちの営みのほとんどは、目には見えないところで繰り広げられているという当たり前とも思える事実と、今一度向き合った。
――私たちは、分かったような気になってはいないか。自分の目を通して見ている、この世界を。
 見えない世界にこそ、生き物たちの営みがある。科学の最前線を追うことで、その見えない世界の一端を描き出すことはできないものか。その志からプロジェクトは始動した。
 植物同士の“おしゃべり”を世界初撮影
 今回、専門家の全面協力により、植物同士がコミュニケーションをしている様子を、2年がかりで初めて鮮明に撮影することに成功した。
 植物コミュニケーションをとらえた映像の一部。左側が虫に食べられた植物、右側が虫に触れられていない植物
 ※実験協力:筑波大学 木下奈都子/NHK提供
 撮影した実験の映像では、例えば虫に食べられた植物は、虫にそれ以上食べられないよう防御の反応を起こすことが確認できた(実験上は、特殊なタンパク質を使って、防御反応が起きると明るく光るように工夫した)。そして、驚くべきことに、その後、少し離れた所に生えた、虫に触れられてもいない植物まで、なぜか光り始めたのだ。そう、これこそが、植物の“おしゃべり”の証拠。最初の植物が、「虫がいるぞ!」と少し離れた所に生えた植物に伝えている。そのコミュニケーションの様子が初めて映像でとらえられたのだ。
 最先端の科学を駆使し、見えざる世界に迫ることで、かのチャールズ・ダーウィンが「進化論」を唱えた時代には分からなかった、新たな世界が見えてくるのである。
 ここまで前編では、植物の“おしゃべり”を中心にお伝えしてきたが、後編「人類はまだ知らない…『食う・食われる』だけじゃない! 本当の“地球のルール”」では、植物の「支え合いの世界」についてお届けする。
 【番組概要】
 NHKスペシャル 超・進化論 (1)「植物からのメッセージ 〜地球を彩る驚異の世界〜」
 初回放送日: 2022年11月6日午後9時
 最先端の科学が明らかにする“新しい進化の物語”を、圧巻の映像美と珠玉のストーリーで描く大型シリーズ。第1集は、陸の王者・植物。「大人しくて鈍感な生き物」のイメージを根底から覆す。植物が“おしゃべり”する様子を世界で初めて映像で捉えた!多様な命が暮らす森の地下には、支え合いの輪が広がっていた!競争だけでなく助け合いに満ちた生き物の世界を、堺雅人×角田晃広×西田敏行らの心揺さぶるドラマと共にお届けする。
   ・   ・   ・   
 2023年1月11日 【科学者が語る】カナダの森の地中に隠された「あまりに巨大すぎる脳」…その驚きの正体は?
 スザンヌ・シマード
 三木直子
 森林は「インターネット」であり、菌類がつくる「巨大な脳」だった──。樹木たちの「会話」を可能にする「地中の菌類ネットワーク」を解明した『マザーツリー 森に隠された「知性」をめぐる冒険』がいよいよ日本でも発売される。
 発売直後から世界で大きな話題を呼び、早くも映画化も決定しているという同書だが、日本国内でも養老孟司氏(解剖学者)、隈研吾氏(建築家)や斎藤幸平氏(哲学者)など、第一人者から推薦の声が多数集まっているという。本書の発刊を記念して、本文の一部を特別に公開する。
 【科学者が語る】カナダの森の地中に隠された「あまりに巨大すぎる脳」…その驚きの正体は?
 Photo: Adobe Stock
 科学的エビデンスに裏づけられた「森の真なる姿」
 木々はまもなく、驚くような秘密を明かしてくれた。
 木々は互いに網の目のような相互依存関係のなかに存在し、地下に広がるシステムを通じてつながり合っているということを私は発見したのだ。
 木々はそこで、もはやその存在は否定しようのない、太古からの複雑さと智慧をもってつながり合い、関係をつくるのである。
 私は何百という実験を行い、次から次へと新しい発見をし、そのなかで、木と木のコミュニケーションについて、森という社会を形づくる関係性について明らかにした。
 その科学的エビデンスは初めのうちこそ大いに物議を醸したが、いまではそれは正確であることが認知され、査読を経たうえで広く学術誌に掲載されている。これはおとぎ話でも、単なる想像でも、魔法の一角獣でも、ハリウッド映画のつくり話でもない。
 森は大きな「脳」である──地下に隠された「菌類のネットワーク」
 その最初の手掛かりの一つは、木々が地中に張り巡らされた菌類のネットワークを通じて交わし合っている、暗号めいたメッセージを盗み聞きしているときに訪れた。
 この秘密の会話の経路を辿っていくうちに、このネットワークは林床全体に広がっており、拠点となるさまざまな木や菌同士のつながりが存在していることがわかったのだ。
 【科学者が語る】カナダの森の地中に隠された「あまりに巨大すぎる脳」…その驚きの正体は?
 『マザーツリー 森に隠された「知性」をめぐる冒険』本文口絵より。美しい樹木や菌類たちの魅力的なカラー写真も多数掲載。
 粗削りながらそれを地図にしてみると、驚いたことに、いちばん大きくて古い木は、苗木を再生させる菌同士のつながりの源であることが明らかになった。
 しかもそうした木々は、若いものから年寄りまで、周りのすべてのものとつながり、さまざまなスレッドやシナプスやノードの複雑な絡まり合いにおける中心点の役割を果たしているのである。
 こうした構図のなかでも何より衝撃的な一面──このネットワークには、私たち人間の脳と共通点があるという事実──が明らかになった過程をご紹介しよう。
 森のネットワークでは、古いものと若いものが、化学信号を発することによって互いを認識し、情報をやり取りし、反応し合っている。
 それは私たち人間の神経伝達物質と同じ化学物質であり、イオンがつくる信号が菌類の被膜を通して伝わるのである。
 (本原稿は、スザンヌ・シマード著『マザーツリー』を抜粋・編集したものです)
◎誰かとの「つながり」を大切にしたくなる、樹木と菌類の物語『マザーツリー』。気候変動が注目されるいま、自然のなかに秘められた「知性」に耳を傾けたくなるヒントが満載の一冊です。
 カナダの森林生態学者。ブリティッシュコロンビア大学 森林学部 教授
カナダ・ブリティッシュコロンビア州生まれ。森林の伐採に代々従事してきた家庭で育ち、幼いころから木々や自然に親しむ。大学卒業後、森林局の造林研究員として勤務、従来の森林管理の手法に疑問を持ち、研究の道へ。木々が地中の菌類ネットワークを介してつながり合い、互いを認識し、栄養を送り合っていることを科学的に証明してみせた彼女の先駆的研究は、世界中の森林生態学に多大な影響を与え、その論文は数千回以上も引用されている。研究成果を一般向けに語ったTEDトーク「森で交わされる木々の会話(How trees talk to each other)」も大きな話題を呼んだ。『マザーツリー』が初の著書となる。
 【訳者】三木直子(みき・なおこ)
 東京生まれ。国際基督教大学卒業。広告代理店勤務を経て2005五年より出版翻訳家。訳書に『マザーツリー』(ダイヤモンド社)のほか、『植物と叡智の守り人』『食卓を変えた植物学者』(以上、築地書館)、『CBDのすべて』(晶文社)ほか多数。埼玉とアメリカ・ワシントン州在住。
 「映画のような面白さ!」
 「世界の見え方が根っこから変わる!」
★ ★ ★ 養老孟司隈研吾、斎藤幸平 各氏大絶賛!! ★ ★ ★
 森林は「インターネット」であり、菌類がつくる「巨大な脳」だった──。
 【科学者が語る】カナダの森の地中に隠された「あまりに巨大すぎる脳」…その驚きの正体は?
 30年以上にわたり樹木たちのコミュニケーションを可能にする
 「地中の菌根ネットワーク」を研究してきた森林生態学者が明かす!
 木々をつなぐハブとなる「マザーツリー」の驚くべき機能とは?
 気候変動が注目されるいま、
 自然のなかに秘められた「知性」に耳を傾けよう。
 誰かとの「つながり」を大切にしたくなる、樹木と菌類の感動ストーリー!!
   ・   ・   ・   
 ・・・ 

 日本の価値観には、白(イエス・生)と黒(ノー・死)とその間に灰色(中間)の多元論による三層構造であった。
 世界の価値観は、イエス(白・生・正・善)とノー(黒・死・邪・悪)の二元論による二層構造であった。
   ・   ・   ・   
 日本神道・日本神話とは、狭間・境を神聖視する自然崇拝宗教である。
 隙間・境とは、生と死、平地と山・森林・海、天と地、光と闇、明と暗、そして神と人、人と動植物である。
 人は、地上界、平地・平野で生き働き家族とともに生活している。
 八百万の神々は、天・天界(高天原)、山・森林・海におられる。
 神々の世界・天上界と人間界・地上界を繋ぐ狭間・境には、神社仏閣を建て穢してはならない祈りの場として掃き清めていた。
 狭間・境に立つ事ができる人が、男系の正統天皇御一人であり、女系の正当天皇ではないし皇族でもない自称天皇の紛い物でもなかった。
 狭間・境は、宗教的パワースポットであっても、カルト的神秘ではなく、科学でもなく、イデオロギーや哲学・思想でもなかった。
 にたような神霊スポットは、琉球の御嶽である。
   ・   ・   ・   
 世界文明・世界宗教キリスト教ユダヤ教イスラム教なども啓示宗教は「平野と森の対立文化」から発生した為、人は神に祝された命溢れる平野・平地に住み、山・森林・海は神と敵対する悪魔、魔物、獣、犯罪者などが巣くう魔窟であり、神の平野・平地を離れて魔窟がある山・森林・海に少し入った所は魔女・異端者・追放者が潜んでいると信じられていた。
 つまり、自然とは悪魔、魔物、獣、犯罪者が蠢いている魔窟であり、聖なる火で焼き滅ぼすべき汚れた土地であった。
 それ故に、普遍宗教である啓示宗教・都会宗教は自然宗教である田舎宗教・土着宗教を「神の御名」によって滅ぼし、人間文明は生活を邪魔する自然を破壊してきた。
 人類最古の神話とは、半神半人の英雄が森林の守護神(魔物)・大地母神(大蛇)を倒し、森を切り開き、開墾して農地を拡げ、城塞都市を造って王国を打ち立てる物語である。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、高温多湿で病原菌(悪玉菌)・有益菌(善玉菌)・雑菌(日和見菌)などの細菌が多い自然環境・住環境で生きてきた為に衛生観念が高く片付け上手で綺麗好きであったが、現代日本人の様な神経質で異常な病的潔癖性ではなかった。
 それを言い当てた狂歌が「白河の 清きに魚も棲(す)みかねて もとの濁(にご)りの田沼恋しき」である。
  ・  ・  
 日本の宗教的価値観から生まれた境・隙間、灰色、中庸とは、善・正であれ悪・邪であれ相手を逃げられない所まで追い詰めない為であり、曖昧な所・いい加減な所を残して言い訳可能な状況を残して助ける為であった。
 それが村八分である。
 昔の日本で、絶対価値観による不寛容な異端審問、魔女狩り、異教徒虐殺、人種差別・民族差別・人間差別が起きなかったのはこの為であった。
 善悪・白黒を付けないという多種多様な宗教性から、日本の物の怪・妖怪、幽霊・亡霊、怨霊は世界の悪魔、魔物、獣とは違う。
 つまり、日本には生き返って無差別に無関係な人々を虐殺するゾンビは無意味である。
   ・   ・   ・   
 仁徳天皇「私はすっかり富んだ。民が 貧しければ私も貧しい。民が豊なら私も豊ななのだ」(かまどの逸話)
 天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。 
  ・  ・  
 天皇は、宮中祭祀として、最高神の女神・天照大神と第一代天皇神武天皇の皇祖と第二代天皇以降の歴代天皇の皇宗に対して、正統性の世襲で受け継いできた一子相伝の秘儀で我が身の事よりも「国安から民安から」と数千年前の弥生時代古墳時代から祈られて来られた。
  ・  ・  
 紛れもなき日本民族日本人の切なる願いはただ一つ、数万年前・数千年前の祖先と数千年後・数万年後の子孫の為に、民族中心神話所縁の正統性世襲男系父系天皇制度と神の裔である現皇室の天皇・皇族を守り残す事のみであった。
 日本民族日本人が天皇に向ける畏敬・敬愛・親愛は、情緒、情愛よりも強く深く濃い「情念」である。
 ゆえに、日本民族日本人は天皇・皇族・皇室、国體=天皇制度を守る為ならば死を厭わず、武器を取って戦った。
   ・   ・   ・   

🏯13)─1─現代の成人は18歳。武士は14歳で元服し家督を継ぎ責任を取って切腹した。~No.23No.24 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 武士は、現代の日本人とは違って「甘え」は許されなかった。
 武士道は、滅私奉公を美徳として、甘えや曖昧を排除していた。
   ・   ・   ・   
 日本民族の歴史は、10代、20代、30代が動かし、40代、50代、60代はその指示に従って生き残るか死んでいった。
   ・   ・   ・   
 2023年1月9日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「【成人の歴史】現在は18歳。戦国時代を生きた徳川家康は14歳で成人していた⁉
 現在では法律ですべての国民が同じ年齢にて成人となることが当たり前だが、かつてはどような決まりや催事があったのだろうか?
 2023年もいよいよ幕開け。新年を迎えてすぐの催事といえば「成人式」である。日本では2022年4月に成年年齢が20歳から18歳に変わり、様々な議論が起こったのは記憶に新しい。公職選挙法の選挙権や、憲法改正国民投票投票権の付与、また携帯電話等の各種契約の権利、といった事項が若年化された。これからも「成人」という概念は時代とともに変わっていくだろう。ここではこれからではなく「成人」についての歴史について語る。現代とは違う時代の「成人」とはどのようなものだったのだろうか?
■昔、年齢は規則化されているわけではなかった
 現代の成人式にて対象となる若者層、少し前までは20歳が成人と制定されたのは、明治9年(1876)のことである。その後、明治23年の旧民法、同29年の民法にも引き継がれ、現在の成人制度の土台となっている。
 式典としては、いわゆる「成人式」のはじまりは昭和に入ってからであり、埼玉県蕨市にて執り行われた「青年祭」が基となっている、というのが定説である。以来、成人たちを社会全体で祝おうという活動が広がり、全国に広まりつつ、制度化されていった。
 今でこそ当たり前となった、成人に関する各出来事であるが、それでは昔はどうであったのか。令和の世では、成年が2年ばかり短縮することとなったが、奈良時代には、さらに若い時に立派な大人として認識されていた。いわゆる「元服」である。
 起源的には、中国における成人儀礼の習わしが発端とされている。我が国においては、奈良時代以降、時代や地域によって形態の変化はあるもの、脈々と受け継がれてきた儀式であり、常態化され始めた頃は、各家で催されていた。
 当時、年齢は規則化されているわけではなかったが、下限でおよそ12~13歳、上限としては16歳頃が目安となっていたとされる。近代と比較すると、かなり若かりし頃に成人と認められていたようだが、その背景には、平均寿命が短かったことがあるやも知れない。
 元服儀礼は「公家」と「武家」において、その内容を異なるものとしていた。前者は、特に天皇家が最も盛大であり、冠を頭首に加え、理髪する、といった役は、上位の者から順番に与えられ、階級により各々の使役は厳密に定められていた。
 後者、武家においては、もっぱら冠の代わりに烏帽子(えぼし)が用いられた。帽子をいただく者と与える者は、親子、もしくはそれに準ずる主従関係であることが通例であった。戦国時代以降は、露頂の風潮が広まるにつれ、儀式自体も簡素化されていった。
 特に戦国の乱世では、元服の儀式は、一人前の武将と認められた証とされた。元服を終えたことにより、何千もの軍を率いて、初陣を迎えた武将は大勢いた。戦場で刀を振るい、隊を率いた若き将が、群雄割拠する姿が見られたところである。
 時を少し進める。江戸という一時代を築き上げた祖・徳川家康(とくがわいえやす)について、元服に関する以下のような史実がある。徳川氏創業の事績を記した資料の一つである『松平記』に見られるが、名の変更と共に、名実ともに誰の元に位置付けられるか、家という単位を考えるに、大変興味深い内容である。
 弘治元年(1555)年に14歳となった「竹千代」(のちの家康)は、人質として預けられていた駿河戦国大名今川義元(いまがわよしもと)の下で元服し、「松平次郎三郎元信(もとのぶ)」と名乗ることとなった。義元の一字「元」を与えられ、改めて義元と主従関係が明確化、今川氏配下になったことを意昧した。
 このように、各時代に合わせて、変容を見せてきた成人に関する儀であるが、元服の世であれ現世であれ、継承されてきた事実は、子の成長を祝う者たちの気持ちは変わらない、という証左であろう。ただ実際には、式典での不届きな参加者が報道される等、恥ずべき行為は厳然と存在している。
 成人式を迎えるにあたっては、元服という言葉の趣旨、また当時の目的や意図に思いを馳せ、大人としての責任を負うこと、次世代の若者の手本となることを、改めて心に念ずる機会としたいところである。もちろん成人後、時間が経過している「大の大人」も含めてだが。
   ・   ・   ・   
 1月15日 YAHOO!JAPANニュース 幻冬舎ゴールドオンライン「戦国時代の人質の半数は殺害!徳川家康はなぜ生き延びたのか?
 NHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公の徳川家康は、幼いころから「ひたすら耐える生き方」を身につけ、堂々と意見を述べても命令には逆らわず、忠誠を尽くし、忍耐強く、裏切りません。今川義元は、家康のこうした性格を知り尽くしていたのです。作家の城島明彦氏が著書『家康の決断 天下取りに隠された7つの布石』(ウェッジ)で解説します。 
 初激突は信長27歳、秀吉24歳、家康19歳
■三英傑が初激突「桶狭間の戦い
 織田信長豊臣秀吉徳川家康が「戦国の三英傑」と呼ばれ、日本史上に燦然と輝くヒーローであることはよく知られているが、彼らが敵味方に分かれて初めて「合戦」という名の同じ土俵に上がったのは1560(永禄3)年5月、今川軍(今川義元)と織田軍(織田信長)が激突した「桶狭間の戦い」だったということは、案外、知られていないのではなかろうか。
 桶狭間の戦いは、駿河遠江三河の三国を領有する戦国大名今川義元の「上洛戦」だった。表現を変えると、「100万石の強大国主が、都へ進軍する通り道にある20万石の弱小国主を叩きつぶそうとした戦」ともいえたが、結果は読者諸兄がご存じのとおり、迎え撃った信長が義元の首を取って勝利し、戦国の勢力地図を一気に塗り替えることになる。
 ここで知っておきたいのは、戦史的な評価としては、信長・家康の同盟軍が新兵器の鉄砲を使って武田勝頼を破った「長篠の戦い」よりも、信長が今川義元を撃破した「桶狭間の戦い」の方が難しい合戦だったいうことである。
 当時の三英傑の年齢は、次のようだった。
 信長27歳、秀吉24歳、家康(元康)19歳。
 家康は当時松平元康という姓名で、「今川家の人質」となっていた関係で、今川義元の命によって参戦し、秀吉は「日吉」という名で、信長の「足軽組頭」として参戦した。
 今川軍……家康
 織田軍……信長、秀吉
 若き日の戦国の三英傑は、こういう形で敵味方に分かれて戦ったのである。
 3者の合戦体験年齢を比較すると、初陣が信長14歳、家康17歳なのに対し、秀吉はこの戦が初陣とかなり遅かったのは、武士の家系である信長や家康と違って、農民の倅という出自と関係があった。
 家康は、17歳の初陣以後、生涯で50数回(諸説あり)もの戦に出陣することになる。そのなかには、小さな合戦もあれば、大きな合戦もある。「六大合戦」と呼ばれるのは、29歳のときの「姉川の戦い」、31歳のときの「三方ヶ原の戦い」、34歳のときの「長篠の戦い」、43歳のときの「小牧・長久手の戦い」、そして59歳のときの「関ヶ原の戦い」、73歳から74歳にかけての「大坂の陣」で、勝敗は5勝1敗だった。唯一の敗戦は、死にかけた三方ヶ原の戦いである。
 一方、信長は、13歳のときに元服し、幼名の吉法師から三郎信長と名を変え、翌年14歳で初陣を飾った。そのとき6歳だった家康は、信長の父信秀の手にかかって織田家の人質に取られたから、その頃から信長と家康は互いの顔を見知っていたということになる。
 ところが、信長が16歳のとき、庶兄の信広が今川方に捕えられる事件が発生、「捕虜交換」という形で決着をみたことから、家康は今川義元の人質となって駿河へ連れていかれた。織田家での人質期間は家康が6歳から8歳までの約2年だったが、今川家では8歳から19歳まで足かけ12年にも及び、桶狭間の戦いを迎えることになったというわけだ。信長と家康の間には、そういう因縁浅からぬ関係があった。家康の人質に関しては、改めて詳しく後述する。
 織田家では、信長が18歳のときに父信秀が死去し、家督を継いだ。
 家康の松平家では、父広忠・祖父清康がともに家臣に殺され、凶行に関係した刀剣が伊勢国三重県)桑名の刀工「村正」の作だった。この事件が“妖刀村正伝説”の生まれる発端である。父は24歳、祖父は25歳という若さでともに不慮の死を遂げたことが、家康の性格の主要な部分をなす「用心深さ」につながり、健康面では自ら漢方薬を調合する晩年の〝健康おたく〟へと発展する。
 “大器の片鱗”を感じさせる元康の才能
 一方、秀吉は、尾張の国(愛知県西部)の愛智郡中村という村の農民木下弥右衛門の倅だったが、「戦国乱世の時代を逆手に取って、武士になって立身出世を遂げよう」との野心に燃え、しかも仕事ぶりがまじめで、頭もよく、といっても秀才のような賢さではなく、頓智が働き、機転がよく利く頭のよさで、おまけに剽軽で憎めないネアカな人柄ときたから、信長に気に入られて織田家に仕官する道を見つけた。
 そういう出自だったから、武士のような元服式もなく、織田家に仕官できたのは22歳と遅く、24歳での初陣となった次第である。
■大器の片鱗
 14歳で元服して「松平元信」と名乗った家康は、2年後には今川義元の姪(瀬名姫、のち築山殿)と結婚し、名を「元康」と改め、前述したように3年後には17歳で初陣を飾ることになるが、その仔細は次のようだった。
 「寺部城の城主鈴木重辰が、織田方に寝返った」との報を受けた今川義元は、ただちに城の奪還に立ち上がり、その役目を人質の松平元康に命じた。西暦では1558年のその年、改元が行われ、弘治4年が永禄元年となった2月初旬のことである。
 元康は、義元の許可を得て岡崎城(愛知県岡崎市)に里帰りすると、諸将を一堂に集め、「2月5日を期して寺部城(愛知県豊田市)へ討って出る。わが初陣ぞ」と宣言した。
 その日が来るのを一日千秋の思いで待ち焦がれていた老臣たちは、逞しい姿に成長した若殿を見て、一斉に大歓声を上げ、感涙にむせび、闘志をたぎらせたが、寺部城の攻略は赤子の手をひねるようにはいかない。寺部城主の鈴木重辰は、広瀬城主の三宅高清と手を結んでいるし、挙母城(豊田市)、梅坪城(同)、伊保城(同)といった諸城とも敵対している。そのあたりのことは、松平家の家臣たちもよくわかっていた。
 今川義元は、当初、家臣を前に「誰か、寺部城を攻略する者はおらぬか」といった。百戦錬磨の強者が何人もいたが、言を左右して誰も名乗りを上げなかった。その理由は、はっきりしていた。寺部城攻めは、誰もが二の足を踏む〝危険と背中合わせの任務〟だったからだ。
 家臣たちが引き受けようとしない命がけの厄介な任務を、なぜ義元が合戦経験が皆無の17歳の少年に命じたのかといえば、「元信が人質だったから」。このことにつきる。
 戦国時代の人質の半数は殺されている。神坂次郎『徳川家康』(成美堂出版)によれば、戦国期の人質50件は、以下のようだった。
 生きて返されたもの 22件
 奪回したもの 3件
 自力で脱走に成功したもの 2件
 虐殺されたもの 23件
 元康は、そういう情報を早くから知っていたのかもしれない。幼いころから「ひたすら耐える生き方」を身につけ、堂々と意見を述べても命令には逆らわず、忠誠を尽くし、忍耐強く、裏切らない。今川義元は、元康のこうした性格を知り尽くしていたのである。
 だが、その一方で義元は、“大器の片鱗”を感じさせる元康の才能に早くから着目して目をかけ、義元が軍師としてあがめていた叔父で臨済宗の僧雪斎から兵法などを学ばせていた。
 表面的にはそういうことだが、一筋縄ではいかない義元のこと、“したたかな計算”が働いていたと考えるべきだろう。嫡子の氏真は親の目から見ても“暗愚”としか思えず、行く末を案じて元康を補佐役候補として思い描いていた節もある。
 城島 明彦
 作家
   ・   ・   ・