⛩80)81)─1─靖国神社とは、勤皇の志士や尊皇派浪士の死を顕彰する神社である。~No.177No.178No.179No.180 * 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 矢作直樹「危険な宗教に近寄ってはいけません。見分けるのは簡単です。心身を追い詰める、金品を要求する、本人の自由意志に干渉する、他者や他の宗教を貶す、そんな宗教は危険です」
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 明治維新、明治近代化とは、10代・20代・30代の貧しく身分の低い若者達が、中国・朝鮮・ロシア・アメリカそしてキリスト教イデオロギー(特に共産主義)などの侵略から天皇・国・民族、宗教・文化・伝統、歴史を軍事力で死守するべく蹶起して成功させた大変革であった。
 それが、本当の「攘夷」であった。
 江戸時代後期の平均寿命は、43歳であった。
 男子は、15歳で元服し大人とされ、命をかけて責任を果たした。
 明治から人口爆発が起き人口は急増し、若者は溢れ老人は少なかった。
 当時の武士は、40歳頃に息子・若者に家督を譲り城勤め・宮仕えを辞め隠居し、50歳頃から老人として市井の世捨て人となって余生を楽しんだ。
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 大変革を成功させたのは、少年や若者であって大人や老人ではなかった。
 何故なら、少年や若者は夢と希望を持って未知なる未来を生き、大人は家族の為に今まで現状を維持しながら現在を生き、老人は過去の栄光を思い出し自慢して生きる、からである。
 子どもは、遊びの天才として、遊ぶ道具がなければ自分たちで遊び道具を作り、やり慣れたゲームはあきてより高度な新しいをゲームを求める。
 大人や老人は、昔を否定させない為に今を変えさせない為に、少年や若者の将来への夢や希望をくだらない妄想、無意味、無価値と否定して意欲を潰す。
 2000年以降の大人や老人達にそれが色濃くあらわ、高齢経営者が増える事でイノベーションは口先だけで起きなくなった。
 それ故に、昔の日本人と現代の日本人(特にバブル崩壊以降の日本人)は別人のような日本人である。
 現代の日本人には、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力はない。
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明治維新は、人類史的規模の世界革命ではなく、外敵から日本を守る為の単ある近代化であった。
本居宣長 (本居神社)「敷島の やまと心を 人問はば 朝日に匂ふ 山ざくら花」
「神と言へば みなひとしく思うらん 鳥なるもあり 虫なるもあり」
佐久間象山靖国神社)「君の恩は天地の如く、国の恩は紅海の如し」
・月性         「男児志を立てて郷関を出ず、学もし成らざれば復び帰らず」
橋本左内 (靖国神社)「志なき者は、魂なき虫に同じ、何時まで立ち候ても、丈ののぶる事なし」
吉田松陰 (靖国神社)「身、皇国に生まれて、皇国の皇国たる所以を知らざれば、何を以て天地に立たん」  
   高杉晋作久坂玄瑞らに朝鮮征服を訴えた。
頼三樹三郎靖国神社)「われら各々その分に国恩に報じ申すこと、これあるべくと存じ奉り候」
平野国臣 (靖国神社)「わが胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば 煙はうすし 桜島山」
武市半平太靖国神社)「花は清香によって愛せられ、人は仁義を以て栄ゆ」
久坂玄瑞 (靖国神社)「国家の御盾となるべき覚悟肝要たり」
吉田稔麿 (靖国神社)「結びてもまた結びも黒髪の 乱れそめにし世を如何にせん」
清河八郎 (靖国神社)「魁けてまたさきがけん死出の山、まよひはせまじ皇の道」
高杉晋作 (靖国神社)「国を売り、君を囚へて至らざる成し。生を捨て、義を取るは、是れこのあした」
坂本龍馬 (靖国神社)「その死にぎはに目を付くべし。大切にすべし」
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 靖国神社には、その他にも藤田東湖中岡慎太郎梅田雲浜横井小楠真木和泉奇兵隊隊員、海援隊員ら尊皇の為に命を捨てて活躍した数多くの勤王の志士らが、民族的な「神」として祀られている。
 彼らの多くは、二本差しの下級武士、一本差しの郷士・浪人、百姓・町人、下層民・ヤクザ・浮浪者であった。
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 1868(明治元)年11月5日 榎本武揚率いる旧幕府軍は、松前城を攻略した。
 敗れた松前藩兵は、城と城下に火を放ち、江差の館(たて)城に向けて敗走した。
 住民は、家と食料を焼かれて、厳冬の中に置き去りにされ、路頭に迷った。
 足軽の妻・川内美岐は、住民が置かれた惨状に悲憤慷慨を感じて自害した。
 後年。川内美岐は靖国神社の祭神として祀られた。
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 戊辰戦争(1868年1月〜69年5月)の犠牲者は、約1万人とされている。明治初期の失業武士の反乱や反体制の民権運動による国内犠牲者数を加えても、死者数は5万人にを越える事はない。
 日本的解決法とは、勝敗をわざと曖昧にし、物事を白黒はっきり付けない、いい加減で生ぬるい無責任な手法である。それが、逃げ出せない閉鎖社会の因襲である。
 東アジアの様な悲惨な虐殺を防止する為に、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)が存在してる。女系ではなく、男系のみにその役目を果たしてきた。
 日本の平和と発展、秩序ある安定は、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)の存在によってもたらされている。
 靖国神社御神体である勤王の志士は、その万世一系男系天皇の守護神となっている、
 大抵の日本人が、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)の詔に従った為に、日本では大陸的なおぞましい惨状は起きなかった。
 一部の国際派日本人は、歴史的事実を余す事なく理解した上で、日本を国際化する為に天皇制の廃止を国民世論に訴えた。
 今、同じ日本人の靖国神社拒否反応によって、靖国神社の存続が脅かされている。
 靖国神社参拝反対派は、明治維新を戦い抜いた志士の志は絶無である、それ以上に志士の心を嫌悪して踏みにじっている。
 靖国神社廃止論者は、日本神話の「血と命」を共有する仲間でもなく、「志」を持ったサムライの末裔でもなければ、「心」を持った日本民族日本人の子孫でもない。
 靖国神社反対派は、反宗教無神論者として、口先だけで実体を伴っていない。姿形は日本人であっても、本当の日本人ではない。
 彼等は、日本を嫌い、日本を消滅させようとしている。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 徳川幕府は、目の見えない視力障害者・検校が行う高利貸しを保護していた。
 検校の中には、御家人株を買って子供を武士にし、上司や同輩に賄賂を贈っていた幕臣にしていた。
 百姓や町人も、金を使って武士の身分を手に入れ、才覚で町奉行勘定奉行などの役職について出世した。
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 数千年前の弥生時代古墳時代から、日本国・日本民族を1つにまとめている3つの力が存在している。
 1つ目が武力の政治権力、2つ目が経済力の宗教権威、3つ目が文化力=畏れの天皇の御威光・権威・御稜威・大御心であった。
 日本の歴史において、政治権力と宗教権威は人間の強欲・私欲・個人欲で栄枯盛衰を繰り返し目まぐるしく入れ替わっていたが、その中で文化力の天皇の御威光だけは変わらなかった。
 そんな文化力の天皇の御威光を滅ぼうと忍び寄ってきたのが、キリスト教の宗教とマルクス主義共産主義イデオロギーであった。
 そして、現代日本人は日本のグローバル化の為にローカルな日本の文化力をゴミのように捨てようとしている。
 反天皇反民族反文化的行動を行っている日本人の多くが高学歴な知的インテリや進歩的インテリ達である。
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 世界の王侯貴族は他国からの軍人征服者であったが、日本の天皇は民族の伝統・文化・宗教の権威者であり保護者であった。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 靖国神社は、天皇と皇室と日本を守ろうとした勤王の志士が祀られた、日本民族日本人だけの神々の御座所である。
 日本民族日本人と靖国神社は、切っても切れない「絆」にある。
 靖国神社に祀られている彼等は、仏教徒であり、キリスト教徒であり、イスラム教徒など、個人的な信仰は度外視されている。
 神として祀られる条件は、天皇に忠誠を誓い、国家と民族を守る為に戦って死んだ者である。
 靖国神社は、民族にとって特別な意味を持つ特異な宗教施設であった。
 ゆえに、日本民族日本人の一員である事に誇りを持つ者は、「氏子」として靖国神社を守り、日本の為に死んだ祖先の魂を感謝を込めて慰霊した。
 靖国神社とは、日本国家の精神・心であり、民族の魂・命であり、国のカタチ・姿そのものである。
 靖国神社参拝反対派日本人は、アジア諸国の指示に従って、靖国神社の「日本を憂える『志』」を邪悪であるとして否定し、神の裔・万世一系男系天皇を守ろうとした「尊皇の志」や「勤王の魂」を廃棄するべきであると、子供達に教育している。
 彼らは、民族性を否定する国際人として、民族の「心」と「絆」も捨てている。見た事も会った事もない遠い祖先には、愛着もなければ、尊敬の念もない。言葉巧みに詭弁を弄しても、心底から靖国神社の祭神への愛着を持たない。
 彼等の心は、祖先の心との「絆」が断絶している。
 靖国神社を否定し参拝に反対する反戦平和の現代日本人は、地球市民日本人であり、日本民族日本人ではない。
 彼等は、日本民族との「絆」は全くない。
 靖国参拝問題は、今や、反宗教無神論者日本人の無関心から国際問題となっている。
 参拝反対派日本人は、反宗教無神論者として、宗教性を完全排除した、神仏はもちろん霊魂さえ伴わない国立墓地を造るべきだと主張している。
 中国、韓国、北朝鮮などのアジア諸国は、靖国神社を世界的に危険な宗教施設として糾弾し、世界平和の為に廃棄すべきであると要求している。
 日本の宗教は、祖先・人を平等に神として神社に祀り、八百万の神々と日本民族日本人との絆をつなぐ心の信仰である。
 日本民族日本人とは、祖先神の「血と心と志」を受け継ぐ、祖先神の子孫の事である。
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 靖国神社には、勤王の志士や尊皇派として死んだ、非人やエタなどの賤民や川の民・山の民・海の民などの部落民を祀っている。
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 反天皇反日的日本人は、靖国神社はもちろん皇室・天皇家に関係した伊勢神宮明治神宮を最も嫌い、近代的天皇制度と国家神道の為の明治維新を否定する。
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 靖国神社に祀られている軍人以外の祭神・人神。
 満洲開拓団員・満洲開拓青年義勇隊員・沖縄県一般邦人・南方および満洲開発要員・洋上魚漁監視員など、軍の要請に基づいて戦闘に参加して死亡した者。
 学徒・徴用工・女子挺身隊員・報国隊員・日本赤十字社救護看護婦など、国家総動員法に基づいて徴用されて死亡した者。
 輸送船対馬丸疎開中に敵潜水艦により撃沈され、死亡した乗員と沖縄県の小学校児童達。
 西南戦争日清戦争日露戦争大東亜戦争などで軍病院、病院船で死亡した、従軍看護婦など。
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 満州南樺太・朝鮮で逃げ惑う日本人避難民(女性や子供)数十万人を虐殺したのは、ロシア人共産主義軍兵士、中国人と朝鮮人の暴徒であった。
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 広島原爆で被曝死した男子学童や女子挺身隊合計6,000人以上は、準軍属とされ、靖国神社の祭神として祀られている。
 ヒロシマナガサキの原爆投下は爆破実験であり、日本人は原子力開発実験のモルモットにされた。
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 疎開対馬丸で犠牲になった6〜15歳の学童775人の霊魂も、靖国神社の祭神として祀られている。
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 靖国神社には、学童、女子挺身隊、従軍看護婦の霊魂も祀られている。
 世界は、日本の霊魂を祀る靖国神社を嫌っている。
 沖縄戦でのひめゆり学徒隊、白梅学徒隊の女生徒、南樺太での真岡郵便電信局の女性9人。
 学徒動員中に軍需工場で爆死した学徒。
 女性は、5万7,000余柱が祀られている。
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 万世一系男系天皇(直系長子相続)と靖国神社は、切り離せない関係にある。
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 靖国神社参拝を拒否する日本人の「心」には、明治維新で死んだ勤王の志士の「志」「大和心」は存在しないし、日本民族として命の通った「絆」もない。
 勤王の志士は、日本国をキリスト教を国教とする欧米列強の植民地にしない為に、日本民族キリスト教徒白人の奴隷にしない為に、その一心で戦って死んだ。
 靖国神社を否定し参拝を拒否する日本人は、そうした勤王の志士の「己を犠牲にしても」阻止したいという、やむにやまれぬ切なきまでの国への憧憬を踏みにじっている。
 靖国神社反対を主張する日本人は、突き詰めれば明治維新の否定論者である。
 彼らは、言霊なき無味乾燥の美辞麗句を並べ立て、宗教心をけなす意図を持った屁理屈をこね、そして民族の心と魂を土足で踏みにじる悪態をついている。
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 維新の原動力は、神国日本を外敵の侵略から守り、外国の恫喝や脅迫や威嚇という内政干渉を排除しようとした、勤王の志と憂国の情を抱く変革を求めた若き下級武士や身分低い知的庶民層であった。
 神国日本は植民地化され、天皇の臣民日本人は奴隷にされるという、瀬戸際に立たされていた。
 戦って死んだ彼等は、護国の神となり、靖国神社御神体として祀られた。
 アジア中心の中華的価値観を教養とする身分高き大名の多くは、将軍への忠義に殉じ、260年以上続いた幕藩体制を崩壊させる事には消極的であった。
 世界というものを再認識した若者の身分低い階層が、硬直化した儒教常識に固守固執する大人の身分高い階層に対して反抗した。当時の若者の間には、下克上的気運が充満していた。
 日本の将来を憂いた下級武士団や有志の庶民層に突き動かされ、外敵の侵略から神州・日本を守る為に内戦を短期間で収め、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を中心とした中央政権の樹立を急いだ。
 800年間。支配階級として君臨していたサムライは、神の裔・男系天皇の一声で全ての特権を放棄し、一般市民と同じ様に質素で粗末な生活を始めた。
 庶民の大半は一般常識を持たないサムライに軽蔑の眼を向け、庶民の子の多くはかって威張っていたサムライの子弟を苛めた。
 生活能力のないサムライは、下層の労働階級に転落し、天皇藩閥政府を呪った。
 もし、幕府と雄藩が「個の利益」と「武士の体面」にこだわって、西欧列強の恫喝や脅迫に怯えてその外圧に屈し、国際資本の財政援助や軍事支援を受け、信念無く外人の助言に盲従して戦っていたら、内戦は長期化し、植民地となり、日本人全員が奴隷となったであろう。
 ムラ的日本人は、光輝ある歴史を持った民族としての「体面」を保ちながら、自立した人としての「気概・志・心」を持ち、国家の自主独立を守る為に外圧を排除して戦った。
 集団主義信奉者の日本武士団は、他国から自国を守る為ならば戦争を恐れず、「自己の信念」を貫く為ならば同胞を裏切り仲間を分裂させる行為を嫌悪した。
 日本精神・大和魂を信条とするサムライは、仲間を敵に売る行為を卑劣な行為として唾棄し、「個」の自分が助かる為なら同胞を見捨てて逃げ出す行為を「恥」として軽蔑した。
 日本民族は、弱者を見捨てる事を「恥」とする、人類史上まれな「お人好し」の少数民族であった。
 「弱きを助け、強きを挫く」や「道理に合わぬ事は、相手が強者であっても従わない」や「損を承知で、節を守る」、それが日本民族固有の自己犠牲を本文とする日本精神、大和魂である。
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 反天皇反日的日本人は、靖国神社を邪悪な宗教施設として憎みきり、そこに祀られている天皇を守ろうとした全ての神々をも嫌悪している。
 だが彼等は、心にない事であっても言葉巧みに、美辞麗句をもって明治維新の志士を讃えている。
 彼等のいう言葉は、レーニンが言うように決して本心ではない。
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 世界では、国家が霊魂のない無名戦士の碑に公式に献花を捧げ、有名戦士の霊魂は家族が自分の宗教で慰霊して国家はタッチしない。


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 靖国神社には、日本が外国の侵略を受けて植民地となり、日本人が外国人の奴隷にされない為に戦って死んだ民族主義者日本人が「神」として祀られている。
 日本を守る為に戦って戦死した民族主義者は、軍国主義者として犯罪者とされた。
 中国や韓国・北朝鮮などのアジア諸国は、祖国を守る為の靖国神社を戦争を美化する悪魔教施設として否定している。 
 反宗教無神論者は、死後の世界を信じないし、日本の神を全て害悪であるとして完全否定している。
 当然、靖国神社の神を無用の長物、無価値として否定している。
 国際世論も、祖国防衛の支柱である靖国神社を弁護せず否定している。
 靖国神社を守るのは、日本民族日本人のみであった。
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 儒教は、擬人化した「天」のみを絶対的存在とし、人、動物、植物の順番で秩序を構成した。
 森羅万象には価値を認めず、自然界に神を認めなかった。
 日本と中国、韓国は、幾ら話し合っても分かり合う事は不可能である。
 中国と韓国は、日本を理解する意思はなかった、というより幾ら説明されても分からなかった。
 靖国神社は、決して、東アジアでは理解されない。
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 吉田松陰「永遠に生きる」
 靖国神社とは、神の裔・天皇を守護し、日本国を外国の侵略から護り、日本人を外国人の植民地奴隷にしない為に、国家を国民国家に作り替えようとして戦って犠牲となった、下士・下級武士あるいは郷士や百姓・町人出身浪人などの尊皇派浪人や勤王の志士に感謝し顕彰する宗教施設である。
 上士の武士は個人主義で、下士の武士・郷士や百姓・町人の浪人達は集団主義である。
 靖国神社とは、共に生き共に死ぬ運命共同体としての集団主義信仰である。
 日本の集団主義は、「一人が皆の為、皆が一人の為」ではない。
 それは、自然災害多発地帯日本で「共に生き共に死ぬ」為の知恵であった。
 天皇や国に守る為に犠牲になった地位低き者や身分卑しい者を、武士道の作法を持って顕彰した。
 「命を惜しむな。名こそ惜しめ」
 「人は一代、名は末代」
 大名や公家、あるいは上士・上級武士は、格式高い檀家寺や一族を祀る由緒ある氏神神社を持ち、親戚縁者が数多くいて死んでも末代まで祀られた。
 だが。下士や百姓・町人出身のや尊皇派浪人や勤王の志士には、一族はなく、特定の檀家寺や氏神神社を持たず、死んでも無縁仏とし忘れられる存在であり、天皇や国の為に犠牲となって死んでも、欧米諸国や中国の様に「無名戦士」として誰からも感謝されず弔われる事なく名も消えて忘れ去れる運命にあった。
 彼らの命と引き替えに助かった者や外国人の植民地奴隷にならなかった者は、自分の身代わりとして犠牲となった勤王の志士や尊皇派浪人達がいた事を後世に知らしめるべく、実名を神名とし、霊魂をご神体として靖国国神社に祀った。
 明治神宮天皇家の神社なら、伊勢神宮は民族の神社であり、靖国神社は庶民の神社である。
 だが、中国、韓国・北朝鮮アメリカ、ロシアなどの諸外国や幾つかの国際的機関は、靖国神社を好戦的神社あるいは戦争礼賛神社として完全否定している。
 アメリカは、2013年12月に安倍晋三首相が靖国神社公式参拝した事に対して「失望した」との公式コメントを発し、中国や韓国に同調して日本を非難した。
 アメリカのケリー国務長官ヘーゲル国防長官は、靖国神社を否定する為に、無名戦没者慰霊碑の千鳥ヶ淵墓苑に献花した。
 国際社会において、日本人が外敵の侵略から祖国日本を守る事、日本人を外国人の植民弛奴隷にならない為に戦う事を否定されている。
 戦争の犠牲となった自国民をどう顕彰し慰霊するかは、国事に千差万別であり、国民の自由である。
 それが認められていないのは、世界広といえども日本だけである。
 世界中の如何なる宗教団体も、日本独自の「公」としての慰霊行為を擁護しない。
 靖国神社参拝は、個人の秘めた「私」ではなく国家としての開かれた「公」である。
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🎑65)─1─モノ作りの源流は京都の森。次世代に残した植林の里山ともったいないのSDGs。~No.149 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本民族は、数万年前の石器時代縄文時代から甚大な被害をもたらす巨大な災害を繰り返す自然の中で、辛抱強く、我慢強く、耐えに耐えながら歯を食いしばって、循環型社会を「宗教的」に護り維持しながら生きてきた。
 民族的伝統的宗教性で、現代日本人と日本民族とは違う。
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 2022年6月16日 MicrosoftNews 毎日新聞「ものづくりの源流 京都の森にあり 自然に寄り添う日本の工芸
 © 毎日新聞 提供 「地域に根差した活動を続けたい」と話す髙室幸子さん。2022年1月に結婚し、姓を変えた=京都市右京区京北で、小柳津早霧撮影
 「ものづくりの源流は森にある」という独自の哲学で、京都市右京区京北を拠点に活動する一般社団法人「パースペクティブ」。漆の苗木を植えたり、市民工房づくりを進めたりしている。共同代表の髙室(旧姓・松山)幸子さん(45)は「地域の暮らしや風土とひと続きになったものづくりを取り戻したい」と話す。【まとめ・小柳津早霧】
 生態系と結びつく工芸
 私はもともと日本の伝統工芸を海外に伝えたり、商品を販売したりする仕事をしていました。工芸を英語に訳すと一般的には「クラフト」になりますが、ニュアンスが伝わらない。なぜなのか、ずっと考えていました。
 工芸の旧字「藝(げい)」の文字の由来が「人が苗を捧げ持って植えようとしている姿」だと学んだとき、腑(ふ)に落ちたのです。日本の工芸の根底には「自然へのリスペクト」「自然に寄り添う態度」があると。
 海外に工芸を伝えようとすると、最終形状を作る職人さんだけフォーカスされがちです。でも実はその裏側に、自然に関与して材料を育てる人、材料を集めて加工する人がいる。材料も道具も、それぞれに関わる人の知恵も。日本の工芸の営みは、これら全ての“生態系活動”だと気が付いたのです。
 同時に、あらゆる伝統工芸の素材や道具に関する職人がいなくなっている事実を知りました。「何かできないか」と模索するなか、漆精製業「堤淺吉(あさきち)漆店」(京都市下京区)の4代目堤卓也さん(44)と知り合いました。
 減りゆく国産漆に危機感
 漆は日本では身近な植物として、1万年以上前から人の暮らしに近いところに植えられてきました。植えてから15年たつと樹液がとれるようになり、塗料や接着に利用されます。40年前には国内で400トン以上の漆が流通していましたが、最近は約30トンにまで低下。大部分は輸入に頼っています。
 現状に危機感を募らせていた堤さんと、新たな工芸の見方(パースペクティブ)を発信する活動を、2019年6月に始めました。活動のシンボルは「工藝の森」と名付けました。
 活動は京都市中心部から車で1時間ほど離れた京北という山間地域で行っています。私が19年に移住先に選んだのがきっかけですが、驚いたのはその地域性でした。平安京以来、京都の建築のための木材を供給してきた土地で、まさにものづくりの源流だったのです。
 コロナ禍で私がほとんど京北にいたので、山や森に関わる人たちと交流が深まりました。林業の衰退、森林の荒廃、土砂災害や獣害―などの課題を知りました。木材を含めた地域の自然環境が、山間部と都市の間で循環する状態にしたい。そんな思いも強くなりました。
 当初から漆の苗を植えることを計画しており、これまでに3回、計120本を京北にある京都市有「合併記念の森」の一角に植えました。この地域でかつて、漆を育てたことがあるか分からなかったので、国内の各産地から苗を取り寄せ、どれが土地になじむかを検証しています。
 廃校跡に今秋「市民工房」
 現在、22年秋のオープンを目指し、市民工房「京北ファブビレッジ」の準備をしています。廃校になった地域の小学校跡を活用。大量生産とは異なるものづくりで地域の資源循環を図る「ファブシティー」の考え方からインスピレーションを受けました。
 ものづくりについて学んだり、リサーチしたりする機会やツールを提供します。可能性を感じてやってみる。コミュニケーションのなかで、新たなものづくりが生まれていく場所を目指します。
 対象はものづくりをしたい一般市民の方。山と木材について一緒に考えたいので、デザイナー、職人、工務店林業家―など木材を生産する人や使う人たちに来てもらいたいと思います。大阪大学京都工芸繊維大学の人たちも関わって、アカデミックな側面から応援してくれています。
 ここに暮らして3年。目の前の山の景色一つとっても、「人の暮らしが環境を作っている」という当たり前の気付きが深まりました。かつて杉、ヒノキの需要があったから、植える人がいた訳です。また木を植えることが楽しい、素敵だなと思える地域であってほしい。そんな未来が実現するように、私も活動していきたいと思います。
 一般社団法人「パースペクティブ
 京都市右京区京北に3か所の拠点を構える。活動は▽「合併記念の森」(京北下弓削町)での漆の植樹・育林▽市民工房「京北ファブビレッジ」(京北第三小学校跡)の準備▽木製のサーフボードに漆を塗る工房運営(京北辻町)―など。詳しくは、ホームページ「工藝の森」(https://www.forest-of-craft.jp/)。」
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 SDGsとは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称です。そもそもどう発音するかというと、SDGsエス・ディー・ジーズ)です。時々エス・ディー・ジーエスと読まれる方がいらっしゃるのですが、最後はGoals(ゴールズ)の略です。
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 日本ユニセフ協会トップページ
 SDGsって何だろう?
 人類がこの地球で暮らし続けていくために、2030年までに達成すべき目標
 貧困、紛争、気候変動、感染症。人類は、これまでになかったような数多くの課題に直面しています。
 このままでは、人類が安定してこの世界で暮らし続けることができなくなると心配されています。
 そんな危機感から、世界中のさまざまな立場の人々が話し合い、課題を整理し、解決方法を考え、2030年までに達成すべき具体的な目標を立てました。
それが「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals:SDGs)」です。
 持続可能とは、何かをし続けられる、ということです。
 SDGsは、私たちみんなが、ひとつしかないこの地球で暮らし続けられる
 「持続可能な世界」を実現するために進むべき道を示した、つまり、ナビのようなものです。
 人類はいま、そのナビが示す方向に進めているでしょうか? そして、あなた自身はどうでしょう?
 さまざまな社会の課題とSDGsとのつながりを知り、「持続可能な世界を築くためには、何をしたらいいだろう?」「SDGsの達成のために、自分はどんなことができるだろう?」ひとりひとり、みんながそれを考えて、行動することが大切です。
 SDGs CLUBでそのヒントを見つけてください。
 SDGsの前文・宣言
 「我々の世界を変革する」SDGsに向けた決意の思いを知ろう
 「持続可能な開発のための2030アジェンダ」としてSDGsが国連総会で採択されたのは2015年。
 具体的な17のゴール・169のターゲットを示したそのアジェンダの前半には、なぜSDGsが必要なのか、どんな決意でこの目標を掲げたのか、そしてみんなが当事者として協力してほしいことを述べた前文と、目指す世界を示した宣言があります。
 SDGsの前文・宣言を見る
 SDGsは、2015年の国連総会で全会一致で採択された
 「我々の世界を変革する 持続可能な開発のための2030アジェンダ
という文書の一部です。
 この文書は、「わたしたちはどんな未来を望むのか」、「その未来はどうしたらやってくるのか」ということを世界中のさまざまな立場の多くの人が、真剣に考え、話し合って、まとめたものです。
 あなたは、どんな未来が来てほしいですか? 
 それはこの文書に書いてあるでしょうか?
 文書の「前文」には、このSDGsで何を目指すのか、17の目標とは何か、目標を実現するためにどんな決意をしたのかということが書かれています。
 では、まず「前文」を読んでみましょう。
 前文
 この計画(アジェンダ)は、人間と地球、そして 繁栄のための行動計画です。
 そして、より大きな自由と、平和を追い求めるものでもあります。
 わたしたちは、持続可能な世界を築くためには、極度の貧困をふくめ、あらゆる形の、そして、あらゆる面の貧困をなくすことが一番大きな、解決しなければならない課題であると、みとめます。
 すべての国と人びとが協力しあってこの計画を実行します。
 わたしたちは、人びとを貧困や欠乏からときはなち、地球を守ることを決意します。
 わたしたちは、持続可能で、強くしなやかな世界に向かう道を歩んでいくために、今すぐ大胆で変化をもたらす行動を起こすことを決意します。
 ともに持続可能な世界へ向かうこの旅をはじめるにあたり、だれひとり取り残さないことを誓います。
 わたしたちが発表する17の目標と169のターゲットは、このアジェンダがどれだけ広く高い目標をかかげているかを表しています。
 これらの目標やターゲットは、ミレニアム開発目標をもとにし、達成できなかった目標をすべて達成することを目指しています。
 すべての人の人権を実現し、ジェンダーの平等、そして女性や女の子の能力を引き出すことを目指します。
 これらの目標とターゲットは互いにつながり分けられないものであり、持続可能な開発の3つの側面、つまり、「経済」と「社会」と「環境」のバランスを保つものです。
 これらの目標とターゲットは、人類と地球にとってとても大事な分野の、2030年までの行動を進めるものになるでしょう。
 5つの決意
 
 持続可能な開発目標のそれぞれの目標が、お互いにつながり、関連していることは、このアジェンダの目的を実現するうえでとても重要です。
 わたしたちが、このアジェンダにかかげた高い目標のすべてを実現することができれば、すべての人の生活が大きく改善され、より良い世界へと変わっていくでしょう
 宣言
 わたしたちのビジョン 思いえがく世界
 あなたが望む未来の世界はどんな姿をしていますか?
 「前文」に続く「宣言」の部分には、
 わたしたちが望む未来の世界の姿がいくつも具体的に示されています(パラグラフ7~9)。 
 あなたが考えた世界はこの中にありますか?
・豊かな人生 すべての人が貧困や飢えや病気から守られ、必要なことが満たされ、心豊かに人生を送ることができる世界
・安全と安心 恐怖と暴力のない世界
・読み書き すべての人が読み書きできる世界
・教育や医療 だれもが、質の高い教育、医療や社会サービスを公平に受けられる世界
・健康と幸せ からだや心の健康や、社会の一員としての幸せが守られる世界
・水と衛生 安全な飲み水が手に入り、トイレなどの衛生的な環境が守られている世界
・栄養 だれもが買える、安全で栄養のある食料が、十分にある世界
・住まい 安全で、災害などにも強く、持続的に住むことができる住居がある世界
・エネルギー 安い値段で、安定的に、持続可能なエネルギーをだれもが使える世界
・人の尊厳と権利 すべての人の尊厳や権利が尊重され、法によって治められ、正義や平等、差別のないことがあまねく大切にされる世界
・民族や文化 さまざまな人種、民族、文化が尊重される世界
・平等な機会 生まれもった可能性を最大限に伸ばし、人類の繁栄の力になるために、みんなに平等なチャンスがある世界
・子ども 子どもたちの成長のために資金や力をそそぎ、すべての子どもが暴力や搾取にあわずに成長できる世界
ジェンダー 女性や女の子がその能力を発揮することをさまたげる法律や社会・経済面での障害が取りのぞかれ、ジェンダーの平等が完全に実現されている世界
・すべての人に もっとも弱い立場にある人びとが必要なことが満たされ、公正で、寛容で、開かれていて、だれもが受け入れられる世界
・経済 すべての国で、継続的で、だれも取り残さない、持続可能な経済成長が成しとげられ、みんなが、人間らしく働きがいのある仕事をできる世界
・天然資源 消費や生産の方法が持続可能であり、大気から、土地、川、湖、地下水のある地層、海洋にいたるまで、すべての天然資源が持続可能なかたちで利用される世界
・民主主義と法 民主主義、よい統治(グッド・ガバナンス)、法にもとづいて治めること、またそれを可能にする国内や国際的な環境が、持続可能な開発※のために大切な役割を果たす世界
 ※持続的なだれも取り残さない経済成長、社会の開発、環境の保護、貧困や飢餓をなくすことなど
・地球環境と技術 技術を開発したり利用したりするときには、つねに気候変動への影響が考えられ、生物の多様性が尊重され、強く、回復する力のある世界
・自然との調和 人類が自然と調和して生き、野生の動植物やすべての種が守られる世界
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🏞90)─1─徳川幕府は統治権者としてロシアの侵略から日本と蝦夷地・北方領土を守っていた。~No.371 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 アイヌには、ロシアの侵略から父祖の土地である蝦夷地・北方領土を守る力はなかった。
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 歴史的事実として、島国日本にとって北の北海道・北方領土4島(対ロシア)、西の対馬壱岐・北九州(対朝鮮)、南の尖閣諸島・沖縄(対中国)は、大陸勢力の日本侵略から天皇・国・民族を守る最前線であった。
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 徳川幕府は、アイヌ人が住む蝦夷地、北方領土を日本の固有領土として統治し守っていた。
 ロシアは、千島列島を南下していたが樺太には進出していなかった。
 1785年 老中・田沼意次は、ロシアの侵略を警戒して蝦夷地探索隊を派遣した。
 1792年 老中・松平定信の寛政日露交渉。水戸学による攘夷運動の始まり。
 1806年 文化露寇。
 1807年 徳川幕府は、蝦夷地を防衛するべく東北諸藩に派兵を命じた。
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 ロシアの日本侵略は、ヨーロッパ戦争と連動していた。
 1729年~1796年 ロシア女帝エカテリーナ2世(ドイツ人将軍の娘)。
 ロシアの海外戦略は、1,ウクライナ黒海バルカン半島への領土拡大、2,アラスカ・北米大陸の開拓、3,日本との交易であった。
 1796年~1815年 ナポレオン戦争
 1812年 ナポレオンはモスクワ遠征に失敗した。
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 江戸後期に盛り上がった攘夷運動の原因は、ロシアの軍事侵略とキリスト教会の宗教侵略に対する危機感であって、アヘン戦争(1840~42年)による西洋の文明侵略ではなかった。
 開国と近代化の発端は、ペリーの黒船艦隊(1853年7月)の来航ではなかった。
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 日本を侵略する危険性がある仮想敵国が、中国とロシアである。
 日本を攻撃・核攻撃する危険性がある仮想敵国が、中国・ロシア・北朝鮮である。
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 2022年6月号 WiLL「『アイヌはロシアの先住民族と認定する』
 いいかげんにしろ、プーチン
 『防衛』は江戸幕府から学べ──危機意識なき岸田政権への国防講義
 中村恵子
 消された江戸幕府松前藩
 北海道の歴史年表から、江戸幕府松前藩が消されつつあります。
 そのことに気づいたのは、ライフワークとして研究・活動していた循環型社会構造のための執筆や講演をするなかで、北海道内の郷土資料館や博物館にある年表の表記に違和感を覚えたことがきっかけでした。どの年表も、江戸時代の蝦夷地の時代区分が『アイヌ文化時代』と表記されていたのです。
 実は、蝦夷地を守るために警備していた箱館奉行所や各藩の元陣屋(城)などの史跡を訪ねていたので、江戸幕府松前藩や東北諸藩と命がけで蝦夷地を守ったことは知っていました。その史実が抜け落ちていたので、おかしいと思ったのです。
 このままでは日本の歴史が書き換えられてしまう──江戸幕府の北方防衛の事実を広く国民に知ってもらい、蝦夷地が日本の領土であることを日本人の共有知識とするため、新著『江戸幕府と北方防衛』(ハート出版)を上梓しました。
 日本では江戸時代を劣った(遅れた)時代とする明治維新派の策謀もあり、明治以後、江戸時代は勝者である薩長史観で語られるようになりました。その結果、江戸幕府による北方防衛の事実や松前藩アイヌとの共生による物々交換で繁栄した北前船交易など江戸時代の蝦夷地の歴史は忘れられ、『北海道の歴史は明治以後の開拓から』『それ以前はアイヌが住んでいた』という開拓史観が日本人に普及しました。
 さらに第二次世界大戦後は、GHQによるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争への罪悪感を日本人に植付ける洗脳工作)に沿う『日本が悪い』という自虐史観マルクス経済学に基づく階級闘争史観によって『支配者・強者=江戸幕府=悪』『被支配者・弱者=アイヌ=善』『松前藩(和人)=侵略者』『アイヌ=搾取された』という誤った認識も広がりました。
 このような歴史認識の教育を受けた行政職員や政治家になったらどうなるのか。『日本人は悪いことをしたのだからアイヌに優しくしてあげよう』という変なヒロイズムに立って、『アイヌは日本の先住民族』と学術的定説にもなっていないのに『アイヌ先住民族決議』を全会一致で国会決議したり、『アイヌ民族支援法(アイヌ新法)』に基づいて全国でアイヌ施策推進地域計画を策定させ、多額の税金を費やす施策を平気で実施するような人になるのです。
 一方で、全道各地にある開拓時の和人とアイヌが協力した話や江戸幕府松前藩の善行は語らず、『シャクシャインの戦い』『クナシリ・メナシの戦い』が、多くの和人がアイヌに殺されたことから始まったことにも触れられません。『悪いのは日本人』という論理と同じく、和人の被害は付せられるのです。しかし、それはフェアではありません。北海道の開拓史を封印し、ことさらアイヌ文化のみを発信して日本を貶(おとし)めようとするウソを正すことは、ロシアの領土主張や北方侵攻に対抗するためにも必要不可欠なことです。どのようにして武士たちが『日本の領土』を守ってきたのか、少しご紹介しましょう。
 松前藩の実効支配
 江戸時代の北方防衛は、『第一次蝦夷地直轄』(1799年)と『第二次蝦夷地直轄』(1855年)の大きく2つに分けられますが、そもそも江戸時代になる前から蝦夷地は日本の領土でした。日本が日本として成立したことを示す『日本書紀』に、飛鳥時代の659年、安倍比羅夫が蝦夷地後方の後方羊蹄(しりべし)に郡領を置いたと記されており、平安時代奥州藤原氏蝦夷統治者という位置づけでした。
 また、鎌倉時代には東夷成敗権を執行する『蝦夷管領』が置かれ、室町時代まで安藤氏が政権の代官として役割を果たしていました。とりわけ、鎌倉時代を画期として、日本の時の政権は蝦夷地を意識し、官職を置き、日本の支配領として実効支配していたのです。
 松前藩による蝦夷地の実効支配は、室町幕府に藩祖の蠣崎(武田)信広がコシャマインの戦いに勝ち、その後、蠣崎氏が安藤氏の蝦夷地覇権の代官になったことから始まります。
 そして1593年、5代目蠣崎(のちの松前)慶広は、豊臣秀吉朝鮮出兵準備中の肥前国名護屋蝦夷地から出向き、秀吉から蝦夷地支配の『朱印状』を得ており、1604年にも徳川家康から『黒印状』を得て、蝦夷地支配を公認されていました。江戸幕府とそれに続く千島、樺太を支配地として交易『場所』(商場)を設け、直領かつ藩士の知行地(ちぎょうち)にしたのです。
 それは当時の史料でも明らかです。1644年、江戸幕府は各藩に提出させた自国領地図をつなぎ合わせて日本地図『正保日本御地図』をつくるのですが、その際に松前藩が提出した『正保日本御地図』は、蝦夷地全土・千島・樺太を自国領としています。これは、のちに最上徳内近藤重蔵伊能忠敬間宮林蔵らが作成する日本地図にも影響を与えています。
 一般的にロシア人が初めて千島列島に進出し、占守(シュムシュ)島に至ったのが1711年とされていますから、日本が先に統治していたことは明白です。1721年にロシアの探検隊が作成した地図でも北方の島々には、『オストロア・アポンスキヤ』(日本の島々)と書かれています。
 その後、ロシアの南下対策で幕府は2次にわたって蝦夷地を直轄した時も、幕府はこの松前藩の支配地を踏襲しています(詳細は後述)。松前藩の〝我が支配地〟という実効支配があってこそ、日本国の領土として主張できているのです。
 江戸幕府蝦夷地直轄
 1783年、医師で経世家だった工藤平助がロシアの動きを著わした『赤蝦夷風説考』は、日本で初めて北方防衛を意識させる一撃になりました。時の老中・田沼意次は1785年、蝦夷天明探検隊を派遣し、蝦夷地の現状把握と開拓の可能性を探る調査を実施。さらに1789年、アイヌの蜂起クナシリ・メナシの戦いが起きます。その背景にロシアがいると疑っていたところ、1792年、初の公式遣日使節ラクスマンが通商を求め、シベリア総督の信書を手に根室に来航します。
 こうした事態に危機感を覚えた幕府は、1798年、近藤重蔵最上徳内らを団員に180名の蝦夷地大調査団を派遣し、択捉島に『大日本恵登呂府(えとろふ)』の標柱を立てます。そして、松前藩の統治だけでは蝦夷地は守れないと判断し、1799年、幕府は藩主の松前章広に東蝦夷地直轄を伝え、幕府内に蝦夷地取締御用掛を設けました(第一次蝦夷地直轄)。
 その幕府の危機察知は見事に的中します。ラクスマンに続き、1804年に日本へ派遣された外交使節レザノフは、半年以上も待たされた挙句、幕府に通商交渉を拒否されたことから武力で北方における日本側の拠点を部下に攻撃させたのです。
 1806年、ロシア艦は樺太を襲撃し、番人をとらえて米を強奪。運上屋の焼き払いも行いました。翌年4月には再び択捉で、5月には樺太利尻島でも略奪・放火を行いました(文化露寇)。
 この一連のロシアからの襲撃を受けて1807年、幕府は松前藩陸奥国梁川(やながわ)に移封すると同時に、松前を含む蝦夷地・樺太・千島を幕府直轄にし、大規模な警備出兵命令を出します。仙台藩箱館、国後、択捉に2,000人。会津藩松前、斜里、樺太に1,600人。南部藩は砂原、幌泉(ほろいずみ)、根室に250人。津軽藩は天塩(てしお)、留萌(るもい)、増毛(ましげ)、熊石に150人が出兵して蝦夷地をロシアから警備します(幕府『通航一覧』の記録)。
 しかし、一難去ってまた一難──1811年、ロシアが南千島沿岸を測量しようと上陸したため、江戸幕府は船長のゴローニンを捕縛し、松前奉行所で監禁しました。それに対し、ロシア側も1812年、国後近海にいた廻船業者の高田屋嘉兵衛をカムチャツカまで連行。1813年、ロシア艦『ディアナ号』の副艦長のピョートル・リコルドは高田屋嘉兵衛を通じてゴローニン釈放交渉を行い、江戸幕府はロシア政府の謝罪状提出と略奪品の返還を要求します。リコルドは箱館に入港し、シベリア総督の書簡(謝罪状)を提出。ロシア政府は、『文化露寇事件はロシア政府の関与はなく、私的な暴力事件だった』と謝罪し、高田屋嘉兵衛を返したので、日本側も謝罪を受け入れゴローニンを帰国させました。
 高田屋嘉兵衛は幕府の蝦夷地経営を熟知していたので、日露間の交渉をまとめることができたと称賛されています。
 幕府は筋の通った因果応報に徹する方法をロシアに対して行い、謝罪を勝ち取り、人質を取り返しています。このことを、北朝鮮による日本人拉致問題、ロシアの理不尽な北方領土奪取を、数十年たっても解決できない現代の日本政府、政治家には……
 ゴローニン事件の解決とロシアのヨーロッパ戦線への傾注で南下が緩んだこともあり、幕府は1821年、松前藩の復領を決定。幕府の松前奉行所を撤収し、以前のように松前藩蝦夷地・樺太・千島の統治を任せるようになります。
 しかし、1840年に始まったアヘン戦争で清がイギリスに敗れ、米国、英国、フランス、オーストラリアなどの外国船が日本近海や蝦夷地近海に出没し始め、1853年に米国のペリー艦隊が浦賀に来港し、ロシアのプチャーチン艦隊も長崎に来航。『攘夷』『開国』と国内世論が紛糾するなか、1854年の日米和親条約を皮切りに幕府が各国と結んだ条約によって、箱館は薪水や食料欠乏品を供給する港として開港します。
 こうした状況に、幕府は北方警備の対象だったロシアとの国境問題だけでなく、諸外国にも警戒心を募らせました。幕府は諸藩に対し、新たな築城を禁じていたのですが、1849年、蝦夷地警備厳重化のため松前藩に築城を指示。
 また、1854年6月、箱館奉行所(旧松前奉行所)を再び設置し、1855年、松前藩福山領を除く蝦夷地・樺太・千島を幕府直轄地とすることを決定。箱館奉行所蝦夷地統治の拠点として、警備、行財政、産業政策、開拓政策も行うことになりました。松前藩福山領以外の土地の警備は、仙台、秋田、南部、津軽藩に命じました(第一次蝦夷地直轄)。
 その後、1859年には警備の実を上げるために、会津・仙台・秋田・庄内・南部・津軽藩蝦夷地を分領して警備と開拓を命じ、北蝦夷地(樺太)の警備を、庄内・会津・仙台・秋田藩に、二藩の隔年交替で行うことを命じています。ロシアの脅威に晒されていたのは、江戸時代も同じでしたが、江戸幕府は領土保全への危機意識をもって迅速な対応は、今こそ学ぶべき姿勢でしょう。
 教育分野で進む歴史改ざん
 江戸幕府の危機察知能力と対策能力の高さ、そして松前藩と東北6藩が多くの犠牲を出しつつも、蝦夷地・千島・樺太を日本の領土として懸命に守ってきたことが理解してもらえたと思います。
 しかし、そうした努力が史跡五稜郭内の箱館奉行所松前城資料館、仙台藩白老(しらおい)陣屋跡、標津(しべつ)町の『北邊(へん)防衛會津藩士顕彰碑』、増毛町秋田藩陣屋跡、石狩市庄内藩ハマシケ陣屋跡、斜里町の『津軽藩士殉難慰霊の碑』など、各藩の史跡や資料館に記録として残っているにもかかわず、日本国民はもちろん、北海道民もその事実を認識していません。
 それどころか、『江戸時代の蝦夷地は日本ではなくアイヌのもの』ということを日本人の常識にし、北海道を奪取しようとする超限戦が仕掛けられています。
 なかでも、一番顕著なのは教育(学習)分野です。冒頭で紹介したとおり、江戸幕府が守ろうとした北海道の郷土資料館や開拓記念館、博物館にある北海道年表では江戸時代の蝦夷地の時代区分を『アイヌ文化時代』と記しており、江戸時代の『エ』、松前藩の『マ』も出てきません。
 また、2019年の小学校社会科の文科省検定では、東京書籍が発行する小学校6年生用の歴史教科書『新しい社会6・歴史編』で、江戸時代初期の対外貿易について書かれたペ-ジの地図『北海道・樺太・千島の塗色が本州以下と同じ赤では、児童が誤解する恐れがある』と指摘され、日本列島のうち北海道と北方領土を白くする修正が行われたのです。どこに自国領であることが明白な地域を、わざわざ否定する教科書をつくる国があるでしょうか。検定者に工作員が入っていることが推測される事態ではないでしょうか。
 この教科書には『蝦夷地が日本国ではない』と言わんばかりの箇所がほかにもあります。江戸幕府の『幕府領と大名領の割合』の図には蝦夷地の図がなく松前藩は無視されていますし、『明治維新と北海道・沖縄』という箇所では、
 『明治政府は、蝦夷地を北海道と改め、役所を置いて開発を進めました。アイヌの人々は、土地や漁業をしだいに失っていき、日本語や日本式の名前を名のることなどをしいられました。こうした中で、生活が苦しくなっていったアイヌの人々への差別も強まっていくようになりました』
 との記述まであります。
 この教科書では蝦夷地に触れるのはアイヌのことだけで、和人に関する記述はありません。一体どこの国の教科書なのか。
 前知事による開拓貶め
 現在進行中の問題もあります。……
 ……
 この北海道命名150年事業を推進し、記念塔の解体方針を決めたのは高橋はるみ前知事(現在は参議院議員)です。高橋前知事は2018年7月、『月刊 事業構想』の取材に、北海道命名150年事業について次のように答えています。
 『私ども北海道も、1869年に「北海道」と命名されてから150年という節目にあたります。(中略)北海道は150年に至るまでの歴史も大変ユニークでありまして、弥生文化、いわゆる農耕文化を経ることなく、縄文文化から擦文(さつもん)文化、そして日本国の先住民族であるアイヌの人々が営んできたアイヌ文化などを経て、明治に至ったという歴史があります』
 この発言から、蝦夷地での江戸幕府松前藩の統治のことが、高橋前知事の頭の中にはないとわかります。
 当然、北海道100年事業までは『命名』ではなく『開拓』という表現が使用されていましたが。『北海道開拓150年事業』と口にするのがイヤなのか、わざわざ『命名』から150年だと強調しています。また、学術的定説にもなっていないのに、アイヌ民族を『北海道の先住民族』『日本国の先住民族』と言い切っています。さらに高橋前知事は、
 『松浦氏(北海道と命名した松浦武四郎)の探索をサポートしたのはアイヌの人たちだったのです。さらに広大な北海道の自然環境をしっかりと維持しながら、それを守ってきてくださったのもアイヌの方たちでした。そういう歴史があったにもかかわず、15世紀頃には、和人が本州などから北海道に入ってきて、開拓が進められ、北海道の近代化がなされる過程で、先住民族であるアイヌの人たちに対するいわれのない差別や低賃金労働、伝統的な生業の制限などにより貧窮を余儀なくされるなど、大変に反省すべきことも多々行ってきたという歴史的な事実があります』
 と語っています。
 鎌倉時代に『蝦夷管領』という官職を置いて以来、前人未踏の地だった蝦夷地を守ってきたのは紛れもなく日本人です。ひたすら『差別』や『低賃金労働』という表現を用いて一方的に『歴史的な事実』とすることを知事がしていいのか。あまりに軽率です。高橋前知事は数々のアイヌをめぐる政策も進めてきており、これらの言動が日本を窮地に追い込むことを危惧しています。
 優先事項は日本の防衛
 北海道を奪取する動きが、さらに激しくなってきました。
 昨年10月には中国海軍とロシア海軍の艦艇合わせて10隻が津軽海峡を通過し、翌月は両国の爆撃機が日本周辺の上空を共同飛行しました。
 最近もロシア軍は北方領土と千島列島で地対空ミサイル(昨年12月に択捉島に実戦配備)の発射演習を行い(今年3月10日)、軍用車両などを載せた海軍の艦艇4隻が津軽海峡を通過しています(同月16日)。
 3月24日には北海道沖EEZ内に北朝鮮のミサイルが着弾しましたが、それに対し打つ手がない現状です。私は対ロ制裁に対する北朝鮮を使った恫喝ではないかと疑っています。
 鈴木宗男参議院議員日本維新の会)が北方領土交渉を進めるため、国会で『アイヌ先住民族決議』を先導したことを逆手にとって、2018年にプーチンが『アイヌ民族はロシアの先住民族に認定する』(モスクワでの人権評議会)としています。
 ついには、4月4日、ロシア下院議員セルゲイ・ミロノフは『ロシアは北海道に対する権利をもっている』と発言しました。ロシア軍が『アイヌ民族保護』を名目に北海道や北方領土に侵攻すると想定し、江戸幕府のように、先手を打って備える時です。
 ……
 今、岸田政権が優先的に実施することは、ロシア、中国、北朝鮮から狙われている我が国を守るために、まったく様変わりした戦争への防衛戦略や装備品充実、抑止力をどう構築するかという国民への訴えと実効です。
 強大な軍事力を保有する大国が核兵器の使用をチラつかせ、劣勢にある主権国家を侵略している現実を目の当たりにしています。
 江戸幕府の『祖国防衛』には、日本の沿岸に接近した外国船を見付け次第、砲撃するよう命じる(異国船打払令)ほど、何としても自国の領土を守るという我が国の方針を外国に示す気概がありました。
 自国で防衛しない国は助けないとバイデン大統領は明言しました。この言葉をすかさずとらえた、中国、ロシア、北朝鮮という3つの核保有国にいつも脅かされている実態と、戦後、平和国家として十分役目を果たしてきた功績を、国の内外に明確に説明し、核抑止、機能しない国際社会の安全維持装置についても、国民、アメリカはじめ同盟国と議論、主張する機会がきたと考えます。」
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江戸幕府の北方防衛 ─いかにして武士は「日本の領土」を守ってきたのか
幕末会津藩 松平容保の慟哭―北方領土を守った男たちの最期
斜里の陣屋で
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 蝦夷地・北方領土、千島列島、樺太は、日本とロシアの間にあって戦場となる場所であった。
 当時の国際情勢からして、徳川幕府とロシアが戦争する時、アイヌ民族は平和中立として何方にも味方しないという選択はあり得ず、アイヌ人は和人(日本人)に味方するかロシア人に味方するか何れかを選ばざるおえない立場に追いこまれる。
 ロシアは、千島アイヌ人が徳川幕府に味方して敵になる事を恐れてカムチャッカ半島強制移住させ消滅させた。
 何時の時代でもアイヌ人は、天皇制度日本か、日本を侵略するロシア・中国・朝鮮かの二者択一を強要されていた。
 現代において、中国共産党政府、ロシア、北朝鮮アイヌ人独立派や反天皇反民族反日的日本人に接近している。
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 現代、定説・常識として信じられている幕末史(江戸時代後期~明治)にはウソが多い。
 ウソと分かっていて、伝道師のようにウソを広めている日本人が存在している。
 そのウソで毒された学校の歴史教育が正しい歴史として子供達に教えられ、子供たちは教師が教える歴史を丸暗記して試験で高得点を取って進級・進学していく。
 それは、洗脳教育である。
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 アイヌ人は、平安時代ごろから蝦夷地・北方領土樺太・千島列島などに広く別れて生活していた。その総人口は不明である。
 徳川幕府松前藩の日本人(和人)は、蝦夷地・北方領土樺太を統治し支配、経営し運営していた。
 徳川幕府蝦夷地を統治する主権者として、1854年に諸外国との間で和親条約を結び、箱館を国際港として開放し交易を始めた。
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 アイヌ人と親しく付き合った日本人が2割、アイヌ人を差別した日本人が3割、差別しないが親しく付き合わなかった日本人が5割。
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 明治以降に日本が実行した大陸戦争は、領土拡大の帝国主義侵略戦争ではなく合法的な正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
   ・   ・   ・   
 当時の日本人は外国語が話せず世界情勢に詳しくなかったが、現代の日本人より多少なりとも優れていた。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は「自分は歴史が好き」と自称しながら、江戸時代後期から幕末、開国、戊辰戦争明治維新、近代化、日韓併合までの明治時代を正しく理解する事ができない。
 何故か、それは現代の日本人には民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がないからである。
 その原因は、戦後民主主義教育の歴史教育で、中学・高校・大学・大学院・研究所などと高等教育機関に進学すればするほどその傾向が強くなる。
 その教育で高得点を取り優秀な成績で卒業したのが、高学歴な知的エリートや進歩的インテリ達である。
   ・   ・   ・   

⚔14)─5─教権的ファシズム。キリスト教ファシズム。宗教ファシズム。~No.52No.53 ⑤ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 宗教由来の教権的ファシズムには、一神教キリスト教ファシズムイスラム原理主義も含まれる。
 東アジアの教権的ファシズムは、中華儒教朱子学原理主義と日本的呪詛である。
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 宗教ファシズム=宗教原理主義
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 キリスト教には暗黒史がある。宗教弾圧。異端者審問。魔女狩り。悪魔討伐。十字軍による異教徒虐殺。
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 2022年6月9日 JBpress「ウクライナ侵略を草の根で支える「キリスト教ファシズム」とは
 侵略を受けたウクライナ人の気持ちは痛いほど分かる(5月10日ウクライナで、写真:ロイター/アフロ)
 千葉県松戸市の神社で「プーチン藁人形」が相次いで発見されたとの報道(https://mainichi.jp/articles/20220607/k00/00m/040/096000c)が波紋を広げています。
 ロシア大統領のウラジーミル・プーチンの顔写真を貼りつけた「藁人形」が、胸や額に五寸釘を打たれて、ご神木に磔にされているのが、10か所近くから見つかったという。
 現場はJR常磐線の「馬橋」駅から「北小金」駅にかけての国道6号線沿いに集中しており、藁人形の形状が似ていることから、同一犯の可能性もあると考えられている・・・。
 「戦争をやめてほしいのは分かるが、ご神木にこういうことをするのはやめて」という関係者の気持ちは察せられます。
 しかし、「ご神木は市の保護樹木にも指定され」「地域のシンボル」といった報道の論調は、やや苦しい逃げを感じざるを得ません。
 「保護樹木に五寸釘」という「器物破損」や「家宅不法侵入」的な方向からでしか、こういった行為に枷をはめることは難しいわけですから。
 つまり、現在の日本に「呪詛」することを禁じる法律はありません。
 例えば私が、誰かを呪い殺そうと護摩など焚いたとしても、その行為自体を法的に禁じることはできないし、信教の自由も厳然と存在する。
 もっと言えば、どこかの山奥で密かに藁人形や人形(ひとがた)を打擲して呪ったからといって、直ちに人に危害が加えられるわけでもなく、迷信以前でしかない。
 ここは微妙なところで「ご神木」とか「お祀り」さらには「お祓い」といった宗教行事にも、それで直ちに物理的な効力があるわけがなく、すべては「信心から・・・」という両刃の剣の側面がある。
 呪詛を含む「祈り」や「信心」「信仰」といった心の領域には、理屈で割り切れないものがあります。
 通販で売られる「プーチン藁人形」
 ところがです。そういう微妙な状況を反映して、というか逆手にとって、トンデモな商法が跋扈していることが社会に知れることとなりました。
 曰く「プーチン藁人形」(https://item.fril.jp/57f6edc02fbbf727e6480c97638ce39e)、あるいはプーチンに限らず「藁人形セット」「丑の刻参りセット」といった商品が、ごく普通に売られている。
 「セット」は藁人形と五寸釘、ご丁寧なケースでは金づちまで付いている。
 これで何をするかといえば、まあ決まっているわけで、松戸のケースはたまたま「ご神木」だったからいけないという話になるわけです。
 自宅の植木にどれだけ藁人形を打ち付けても、刑事司法に引っかかることはありません。
 実効性がないのだから、罰されるわけがない。
 2022年の日本は、相当病んでいると言わねばならないかもしれません。「ひとを呪わば穴二つ」という言葉もある通り、呪詛などろくな結果にしかならない。
 しかしそういう意味で、最大規模の無意味な呪詛、ないし迷信に基づく暴力で実害を出しているのは、今回のウクライナ戦争を個人的な動機で始めたプーチンその人と言わねばなりません。
 6月4日、ウクライナ東部のドネツク州にあるスビャトゴルスク大修道院にロシア軍の砲撃があり、歴史的建造物の僧坊が焼け落ちる火災があった(https://www.jiji.com/jc/article?k=2022060500111&g=int)と報じられました。
 ご神木に五寸釘を打ち込んでも、率直なところ、それだけで木が枯れることはないでしょう。しかしウクライナ正教寺院に爆弾を撃ち込めば、跡形もなく燃えてなくなります。
 松戸の警察は、全国での累犯、模倣犯の再発防止のため、見せしめ的な意味も含めて犯人を特定、検挙し報道する可能性があります。
 しかし、ウクライナに対する「呪詛」の正犯、21世紀の怪僧ラス「プーチン」の正体は、誰もが知っています。
 藁人形と大差ないクリスチャン・ファシズム
 2000年に権力を掌握したのち、プーチンが振り回すようになった“イデオロギー”は俗に「クリスチャン・ファシズム」あるいは「キリスト教ファシズム」(https://en.wikipedia.org/wiki/Christian_fascism)と呼ばれるものです。
 キリスト教の衣をまとったナチス、東アジアで考えれば統一教会と大差ないと断じて構わない代物です。
 特に20世紀、ロシア革命が成立して以降、無神論を唱える共産主義に対して、キリスト教世界の「盟主」が専制的な力をもって「救世主」の後継者として立ち現れ、「悪」を討伐し「クリスチャンの正義」を実現するという荒唐無稽なシナリオが、かなり広範に支持されています。
 実のところ、独ソ戦を戦ったナチスアドルフ・ヒトラーはこの「クリスチャン・ファシズム」の盟主に祭り上げられた側面がありました。
 当時のイタリアは、ヒトラーのお手本であったベニト・ムッソリーニが率いるファシスト政権で、バチカンのローマ教会とは政治的な距離関係を保っており、ナチスは太いパイプを持っていました。
 このため、多くのナチス戦犯が戦後、ローマ教会ルートを通じて、カトリックが巨大な勢力を誇るラテンアメリカ、南米へと逃れていった経緯があります。
 世に知られる逃亡ナチス、アドルフ・アイヒマンもまたローマ教皇庁の有力修道僧を通じて偽造難民証を手に入れ、アルゼンチンに潜伏していました。
 ブエノスアイレスで偽名を用いて生活しているところを、イスラエルの秘密機関「モサド」に拘束され、エルサレムで裁判にかけられ、最終的に刑死しています。
 「エルサレムアイヒマン」の最期の言葉は「ドイツ万歳、アルゼンチン万歳、オーストリア万歳、妻、家族、友人たちに挨拶を送ります・・・私は神を信じて旅立ちます」という、キリスト教に染め上げられたものだったと伝えられます。
 キリスト教には本質的なパラドクス、矛盾があります。
 イエス・キリスト本人はパレスチナのナザレで生まれたユダヤ人ですが、ユダヤ教を内部から否定してキリスト教を開きました。
 しかしそのイエスローマ帝国に告発し、十字架の死に追いやったのもユダヤ教徒ユダヤ人なので、キリスト教社会の底辺には「神の子を殺したユダヤ人」への憎悪が沈殿している。
 カトリックプロテスタントも、またロシア正教会も、しばしば政治的にこの「草の根憎悪」の政治利用を繰り返しており、ナチス・ドイツも、スターリンソ連も、その延長の一例に位置づけられます。
 プーチンもまた、ロシア正教を振り回して権力奪取後、自身の出身母体である「共産党」を近親憎悪的に否定しつつ「ロシア的なるもの」を俄ごしらえの権力基盤に据えようと様々な工作を施しました。
 その自己正当化のシナリオ(https://www.theamericanconservative.com/articles/putins-philosophy/)の中に「キリスト教ファシズム」を据え、ロシア大衆の草の根心理を追い風に利用することへの腐心が挙げられます。
 ただ、ここで厄介なのは、そのプーチンとつるんでいるのがモスクワ総主教キリル1世という、形の上では正真正銘のロシア正教の権威であることです。
 これはプーチンにとって両刃の剣にもなっているのです。
 元KGBモスクワ総主教の微妙な離反
 「モスクワ総主教キリル1世」などと言われると、過去を払拭されてしまいますが、この人物、本名をウラディーミル・ミハイロビッチ・グンジャロフという旧ソ連KGBのエージェントであった可能性が指摘されており、プーチンの盟友として広く知られています。
 コードネーム「ミハイロフ」のミッションは、ロシア正教司祭として西側世界に潜り込み、カトリックマルクス主義アマルガム「解放の神学」を南米など旧教の信仰が篤い地域に根付かせることであったとされます。
 そんな「キリル1世」は、ウクライナ戦争に対しても、当初はプーチンの行動支持を表明、「ウクライナの現政権は邪悪」(https://bunshun.jp/articles/-/53214)などと、藁人形と大差のない呪いの言葉を述べる、文字通り21世紀の怪僧ラスプーチンまがいとなっていました。
 こうした傾向は、残念なことにロシア正教ネットワークを通じて末端のウクライナ正教会にももたらされています。
 キーウやドネツクなどでウクライナ難民が修道院に助けを求めても「ウクライナ人の罪が今回の戦争を巻き起こした」などと、門戸を閉じた経緯が伝えられます。
 これではまるで「ユダヤ人の罪がホロコーストを引き起こした」と同列で、正教の皮を被ったとんでもない政治勢力としか言いようがありません。
 ところが、先ほど記したウクライナ正教修道院へのロシア軍砲撃などで、下からの突き上げがあったのでしょう。
 ここにきて「KGB怪僧?」キリルことグンジャロフは、「盟友」であるはずのプーチンと距離を取り始めている可能性が指摘されるようになりました。
 5月29日、ロシア軍からの砲撃などを受け、ウクライナ正教会がモスクワとの分断、離縁を決議したことを受け「キリル1世」は「それを理解する」(https://www.rferl.org/a/russia-patriarch-kirill-understands-ukraine-break/31873751.html)との声明を出したのです。
 絶大な「権威」を誇るロシア正教といえども、信者からの支持を失えば、さびれた宗教法人でしかありません。
 プーチンにとって「キリル1世」が後ろ盾となるのも、ロシアの草の根大群衆が正教会をナイーブに支持しているからです。
 仮にプーチンへの肩入れが仇となって、信者が離反するようなことがあれば、キリルことグンジャロフ自身の宗教政治にヒビが入ってしまう。
 そういう事態は避けるよう、怜悧な元KGB(?)怪僧が政治の風を読んだとしても、何ら不思議ではありません。
 キリルことグンジャロフが大衆の支持を集めたまま、プーチンから離れれば、プーチンの支持が失われることになり、キリスト教ファシズム「救国の英雄」は、いつの間にか「ロシア教会の仇敵」に変質しかねません。
 情けないことですが、ここでの政治的な綱引きは「プーチン藁人形」をご神木に磔にして呪うオカルト未満と大差ない、ナンセンスな人気取りでしかない。
 日本語の解説ではロシア情勢に関して、様々な怪説も面白半分にもてはやされたりするようですが、実のところ、2022年のロシア大衆の心理は1945年のドイツや日本の群衆心理と大差がない。
 危うい群衆心理である事実を冷静に直視することが重要でしょう。
 玉音放送戦後民主主義に手のひらを返した日本と、ペレストロイカグラスノスチ以降「ソ連共産党」を仇敵扱いしたロシア。
 その群衆心理を見て取って追い風に利用したプーチンと、やはり同じKGBのむじなエージェントを指摘される「宗教権威」グンジャロフ・・・。
 近い将来、かつてソ連の通貨ルーブルが紙くずとなったハイパーインフレーション同様の社会経済的破局がロシアに訪れるリスクは低くはありません。
 大衆心理が「戦後民主主義」へとちゃぶ台返しとなる可能性は十分考えられることです。ほかならぬウクライナがまさにそうだったのですから。
 このように考えると、一見根拠を欠く「藁人形」のような呪詛も、信用不安を引き起こす元凶となるなら、政治体制を呪い倒す力にもなりうるわけで、決してばかにできないと考えるべきかもしれません。」
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 教権的ファシズム(きょうけんてきファシズム、英語: Clerical fascism)は、ファシズムの政治経済の理論とキリスト教神学とを結び付けた思想であり、政権と教会との持ちつ持たれつの関係によって成り立っていた。
 もともとファシズム共産主義を敵視するが、共産主義唯物論無神論)を唱えるためキリスト教会とは折り合いが悪く、欧米の反共主義キリスト教会と結びつく事例が多かった。
 歴史的には主にカトリック文化圏で発生した。聖職者ファシズムとも言う。
 ただし、ドイツのナチス政権は、キリスト教よりも古いゲルマン民族主義を称揚し、中央党とも敵対していたので、必ずしもキリスト教会と良好な関係とはいえなかった。
 概要
 1919年にイタリア人民党が結成され、教皇ベネディクトゥス15世によって承認された。この政党の選挙事務所は司祭館に置かれていた。1922年にベニート・ムッソリーニが政権を掌握すると、この政党は彼に接近し支持を表明した。イタリア北部の反社会主義者反共主義者はこの決定を歓迎した。1929年に教皇ピウス11世は教会組織を守る為にファシスト政権とラテラノ条約を結び、事実上の妥協を余儀無くされた。
 1930年代にオーストリアにはエンゲルベルト・ドルフース政権が発足、カトリック重視のファシズムを推し進めた。クロアチアのアンテ・パヴェリッチがカトリック教会の教義を全面的に打ち出したウスタシャを結成したり、ベルギーでレクシズムが発足する。
 スペインではフランコ将軍がファランヘ党を結成するとカトリック教会はそれらに対する支持を表明した。 また、チェコスロヴァキアでは、チェコナチス政権のドイツに吸収されたのち、チェコ人中心の政権に反発していたスロヴァキア民族主義者のカトリック聖職者ヨゼフ・ティソが、ナチスに協力的な政権を樹立した。
 第二次世界大戦後もフランコ政権やポルトガルエスタド・ノヴォはそれぞれの国の教会組織に支えられ続けた。
 スペインにおいては、1950年代以降、キリスト教団体オプス・デイの会員が官僚や政治家に大きな影響力を与え、フランコ独裁政権の維持に寄与した。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)
 教権ファシズム きょうけんふぁしずむ
 Klerikofaschismus ドイツ語
 資本主義の発達が相対的に遅れたヨーロッパのカトリック諸国における、極右保守勢力とカトリック教会の連合勢力によって樹立された、権威主義体制の一種。1929年の世界的大不況後、社会主義労働運動の急進化がみられたカトリック諸国、とりわけスペイン、ポルトガルオーストリアではカトリック聖職者とそれぞれの国の保守勢力が結んで議会制民主主義体制を否定し、教権支配を土台に権威主義的反動体制を確立した。それはカトリシズムの普遍主義を理論的基礎とする権威主義体制の一種ではあるが、ナチズムとは反共産主義、反マルクス主義の点で共通するものをもってはいるものの、その人種主義的民族主義とは相いれない側面をもっていた。オーストリアのシュパンの普遍主義的全体主義ナチスによって批判されたゆえんもここにある。
 [安 世舟]
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 キリスト教には、反宗教無神論マルクス主義共産主義に対する敵意と親近の相反する二面性があった。
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 豊臣秀吉徳川家康徳川幕府キリスト教禁教や鎖国政策には、歴史的宗教的道徳的に正当な理由があった。
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 日本人は、権威に弱い。
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 日本人には、教権的ファシズムの影響を受け感化され、キリスト教ファシズムや宗教原理主義などに染まりやすく、安易に流され、盲目的に分別のない行動に走る傾向がある。
 その傾向は、特に現代の日本人に見られる。
 日本人は、心に救い難い冷たい闇を抱えるブラックな面を隠し持っている。
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 日本人は「信じている宗教は何ですか?」と訊かれると、「無宗教」と答える。
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 中世キリスト教会とイエズス会などの修道会は、日本を絶対神に愛されるキリスト教国に生まれ変わらせる為に、異教徒日本人を根絶やしにするべく奴隷として海外に輸出していた。
 キリスト教に改宗したキリシタン大名は、領地をローマ教皇に寄進して教会領として宗教弾圧を行い、敬虔な宣教師の指導の下で日本人キリシタンを動員してを神社仏閣を破壊して改宗を拒否する異教徒日本人に暴力を振るった。
 当時のキリスト教は領主信仰で、領主が改宗すれば、全ての領民は領主と同じ宗教を信仰し、違う宗派を信仰すれば宗教弾圧=聖戦として異端者狩り・魔女狩り・悪魔討伐を行い「神の御名により」聖なる炎で生きたまま焼き殺した。
 それは、陣地取りゲームと同じであった。
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 敗戦後の日本で。GHQは日本における宗教改革・精神革命・文化革命を成功させる為に、反天皇反民族反日本を標榜する赤い神父や赤い牧師の活動を積極的に支援した。
 GHQが行った諸改革とは、キリスト教価値観と共産主義価値観を根拠とした、日本民族の歴史・文化・伝統・宗教・言語などの一切合切の完全破壊であった。
 それが、戦後民主主義教育の実態であった。
 それは、自由と民主主義を隠れ蓑としたキリスト教ファシズム、教権的ファシズムであった。
 赤い神父や赤い牧師は、上級階級の高学歴な知的エリートや進歩的インテリと最下級階級で貧困に苦しむ下層民や部落民在日朝鮮人達を積極的に取り込んでいった。
 が、無宗教的な中間層の日本人は胡散臭い彼らが説く福音(絶対神の御言葉)や「隣人愛」信仰に眩惑され誑(たぶら)かされる事がなかった為に、日本人におけるキリスト教徒は総人口の1%を越す事がなかった。
 彼らの最大の失敗は、昭和天皇や皇族とくに女性皇族を一人も改宗できなかった事である。
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 日本人共産主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇や皇族や惨殺する為に付け狙っていた。
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⚔18)─3─中世キリスト教会とイエズス会は日本をポルトガルの植民地にしようとした。~No.73 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2022年6月9日 MicrosoftNews プレジデントオンライン「日本はポルトガル領になる予定だった…「長篠の合戦」で織田信長の鉄砲隊をイエズス会が支えたワケ
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 織田信長はなぜ「天下人」になれたのか。三重大学藤田達生教授は「キリスト教を保護する見返りにイエズス会から軍事協力を得た。鉄炮や大砲といった新兵器に関わる技術支援や軍事物資の供給は、信長の天下統一の大きな支えになった」という――。
 ※本稿は、藤田達生『戦国日本の軍事革命』(中公新書)の一部を再編集したものです。
 織田信長を勝たせるために兵站を支えた宣教師たち
 近年の研究によって、信長がイエズス会を介して硝石や鉛を大量に確保していたことが指摘されている。イエズス会宣教師によって、タイ産鉛と中国産硝石がセットで輸入され、堺商人を経由して信長のもとに届けられたとみるのである。
 その根拠は、メダイ(キリスト教聖品アクセサリー)や十字架や指輪といったキリシタン遺物に使われている鉛が、鉛同位体比分析によって、日本で使われた鉄砲玉の原料と同じタイのソントー鉱山産と判明したからだ。イエズス会と信長の親密さの背景には、キリスト教保護の見返りとしての軍事協力があったとわかる。
 宣教師たちの鉛と硝石の入手ルートとしては、タイのアユタヤやパタニなどで鉛を積み、中国のマカオなどで硝石を購入、そこから九州そして土佐沖を通る南海路を経て、紀淡(きたん)海峡を通り抜けて堺に至る航路が想定されている。
 信長は、土佐の長宗我部(ちょうそかべ)氏とは明智光秀を介して良好な関係を築いていたし、真鍋氏ら和泉水軍も麾下(きか)に組織して紀淡海峡制海権を掌握していた。
 宣教師たちは、軍事物資の輸入のほかにも、異教徒を対象とする人身売買や高級品である生糸の輸入にも関与したことがわかっている。布教資金の確保のためにはなんでもした、というのが現実だった。
 特に、信長を勝たせるために「死の商人」を演じたのには、理由があった。
 日本はポルトガル領となる予定だった
 大航海時代のうねりが、ヨーロッパで始まった軍事革命を極東の島国日本にもたらした。
 この時代の代表的人物として私たちが思い浮かべるのは、コロンブス、マゼラン、ヴァスコ・ダ・ガマといった航海者、探検家、商人たちだろう。彼らが活躍できたのは、ヨーロッパ諸国において、夜間航行すら可能な羅針盤を用いた航海技術が普及し、さらに向かい風を受けても前進可能な大型帆船・ガレオン船が造船されるようになったからだ。
 スペインやポルトガルといった南欧諸国は、優秀な航海技術を武器に莫大な富を求めて海外征服をめざすことになる。彼らは、あらかじめ利権がぶつからないようにするために、ローマ教皇も交えてキリスト教以外の異教徒の世界を二分した。両国間における排他的な航海領域の設定と新発見地の領有や独占権については、一四九四年のトルデシリャス条約の締結によってルールが決定された。
 すなわち、ベルデ岬諸島(アフリカ大陸最西端の岬西方の群島)の西沖の三七〇レグア(スペイン・ポルトガルで使用された距離単位、一レグアはポルトガルでは約六〇〇〇メートル)を通る経線を基準に、東側全域をポルトガル領、西側全域をスペイン領としたのである。今の常識からすればとんでもないことだが、両国によって勝手に未発見の諸国も含めて地球規模で領地が二分割されたのである。これをデマルカシオンとよぶ。
 この条約によると、日本はポルトガル領となる予定だった。ポルトガル国王は、このような一方的な植民地化を正当化するために、ローマ教皇に働きかけて、新発見地に対するカトリック化を奨励し、保護する姿勢を示したのだ。
 資金不足に悩むイエズス会と、織田信長の利害
 イエズス会は、一五三四年にイグナチオ・デ・ロヨラらによって設立され、一五四〇年にローマ教皇パウルス三世の許可を得た、宗教改革に対するカトリック側の対応として生まれた教団である。イエズス会は精力的に布教地を求め、インドさらには中国、そして日本へと宣教師を派遣した。
 ポルトガル国王は、植民地支配の正当化のために、イエズス会に対して海外渡航の便宜や経済的援助をおこなった。したがって、イエズス会の収入の第一は、ポルトガル国王からの給付金だった。次いでローマ教皇からの年金、篤志家(とくしか)からの喜捨(きしゃ)、インド国内の不動産からの収入、公認・非公認の貿易(斡旋や仲介も含む)などがあげられる。
 ただし、日本は極東にあるため行き来がままならず、これらの収入はいずれも不定期で、なおかつ教団を維持するには少額といわざるをえなかった。イエズス会の世界教団化に伴う急速な拡大と国王給付金の遅配により、日本のイエズス会は常に資金不足に悩まされたという。
 信長が天下統一の意志を明らかにしたのは、岐阜時代すなわち尾張・美濃・伊勢三ヶ国を本拠とした環伊勢海政権期(初期織田政権期)だった。
 永禄十一(一五六八)年の足利義昭を奉じての上洛、元亀四(一五七三)年の槇(まき)島城合戦における将軍義昭の追放、天正三(一五七五)年の長篠の戦いでの武田氏に対する勝利、このような経緯のなかで、室町幕府にかわる政権を構想したのであるが、その背景には鉄炮隊を中心とした圧倒的な軍事力の獲得があった。
 長篠古戦場で見つかった「タイ産の鉛玉」
 信長方が使用した鉄炮玉のなかにタイ産鉛の玉が確認されたのは、長篠の戦いの古戦場で見つかったものである。発見された二十点のうち二・五(混合)点がそれに該当する。また朝鮮半島や中国産が三点だった。
 これらの事実から、平尾良光氏は「信長は外国産の鉛と火薬を偶然でなく、意図して導入していたことを示唆する。(中略)反面、武田側では鉛を生産できたとしても、火薬の入手がかなり困難だったのではないだろうか」と指摘する。
 長篠の発掘事例は、天正三年までに、つまり信長の岐阜時代にイエズス会を通じて硝石や鉛を大量に輸入するルートが確保されたことを暗示するものである。この時期のイエズス会は、長崎の要塞化を開始したばかりであり、まだまだ経済基盤は弱体だったから、珍しい贈答品を贈るなどして信長の歓心を買うことで利用しようとした。
 特に、鉄炮や大砲といった新兵器に関わる技術支援や軍事物資の供給は、信長にとって魅力的だったことは確実である。
 このように、国内におけるイエズス会勢力の急速な浸透は相当に生臭いものであって、背後にはデマルカシオンという世界政治が横たわっていた。この一成果として、天正八(一五八〇)年の安土(あづち)におけるセミナリヨイエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関)の建設があげられる。
 信長の中国遠征計画の本気度
 ここで、天正十年六月の本能寺の変の直前に、信長関係者から宣教師ルイス・フロイスにもたらされた情報を抜粋する(『フロイス日本史』)。
 信長は(中略)毛利を平定し、日本六十六カ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった。
 よく知られた信長の中国遠征計画の一節である。「諸国を自らの子息たちに分ち与える考え」と記されていることから、情報源は信長三男の信孝(のぶたか)周辺と推測される。この頃、彼はキリシタンになる願望をもっており、オルガンティーノ(安土セミナリヨ設立)ら宣教師たちと親しく交わっていたからである。
 天下統一直前といってよいこの時期、信長は新たな政治段階に向けて画策していた。一門や近習を畿内近国に、懸案の四国地域を信孝を含む三好康長派閥に、平定予定の中国地域を秀吉(養子は信長五男秀勝)派閥に配置し、光秀ら宿老層に対して遠国への国替を断行しようとしていた。
 そのような時に、次代を担う信孝らに「大陸出兵」が表明されたものと推測する。これを、信長の途方もない「野心」と一笑に付すわけにはいかないのではないか。
 これには、イエズス会さらにはポルトガルの「世界戦略」との関わりを感じざるをえない。つまり、彼らに依存するほかなかった硝石や鉛を大量に確保するめどが立たなければ、このような意志表明などできるはずがなかったからである。
 信長、秀吉と他の戦国大名の決定的な違い
 本格的な鉄炮戦として知られる長篠の戦いに関する研究は、近年進展している。平山優氏は、従来のような三千挺の鉄炮隊(新戦法)対武田騎馬隊(伝統戦法)の図式は誤りだと断言する。すなわち、鉄炮の多寡がこの戦争の決定要因ではなく、『戦国日本の軍事革命』でもふれたように武田勢もそれなりの量を持参していたが、肝心の火薬や玉不足が大敗の要因だったと結論づけている。
 武田氏のみならず関東に覇を唱えた北条氏も含めて、東国大名は玉の原料である鉛の入手に手を焼いた。領国内に鉱山が乏しく、多くを外国産に依存しており、畿内を制圧した織豊政権がそれを獲得するのが有利だったのに対して、東国の戦国大名は鉛の調達に奔走していたのであった。
 不足を補う代替品として、武田氏は悪銭を、北条氏は梵鐘(ぼんしょう)の供出を領内から求め、それらを鋳(い)つぶして製造している。つまり、彼らは、銅玉や鉄玉を使用したのであるが、鉛玉と比較すると高価な割に破壊力は弱かった。
 そもそも、鉄炮玉に鉛が使用されるメリットは三つあり、一つは安価で比重が大きいことにある。鉛は、地球上にある金属のなかでもトップレベルで比重が大きい物質で、密度は一一・三四、ちなみに銅は八・九六、鉄は七・八七である。火薬の爆発速度の上限が決まっているうえ、空気抵抗は速度が上昇すると増大するため、軽い玉を速く撃ち出しても失速して威力を失ってしまう。そのため玉は比重が大きいことが重要といわれるから、鉛玉が有利なことは明白である。
 鉛玉が戦国大名の命運を分けた
 次にあげられるメリットは、鉛の柔らかさだ。着弾した際、弾頭がキノコの傘のような形になることをマッシュルーミングとよんでいるが、そのような形で潰れることで、敵兵に大きなダメージを与えた。
 最後のメリットとしては、融点が低いため兵士自らが鉄炮の口径に応じて簡単に大量に製造できたことである。戦場にインゴット(鋳塊(ちゅうかい))のまま持ち運び、必要に応じて鋳型を用いてつくることができた。これに対して鉄や銅は専門の鍛冶を必要とするから、あらかじめ口径に応じて製作し、戦場に持ち運ばねばならなかった。
 また、鉄炮は何度も続けて発射すると、カルカ(鉄炮に附属し、銃身の掃除や筒口から銃身に弾丸を込めたりするのに用いる棒)で掃除をしても火薬の焼けかすが筒の内部に付着することから、口径の小さな玉を使用せざるをえなかった。その場合も、自由に製造できる鉛玉のほうが対応しやすかったのである。
 たとえば、北条氏の山中城跡(静岡県三島市)や八王子城跡(東京都八王子市)から出土した鉄砲玉は、銅玉や鉄玉が圧倒的に多いという報告がある。その場で製造でき殺傷能力の高い鉛玉を大量に持ち込んだ豊臣方と、価格が高くあらかじめ製造しておかねばならず、しかも鉛玉よりも飛距離が短く殺傷能力が低い銅玉・鉄玉に頼らざるをえなかった北条方との戦力差は、戦前から明白だったのではあるまいか。

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⛩20)─5・D─開拓自由農民であった鎌倉武士の強さは粗食・少食のハングリーであった。〜No.43 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2022年5月27日号 週刊朝日「源平の明暗を分けたのは『食』⁉
 質素倹約を実践した鎌倉武士
 鎌倉武士の生活は質素だった。その理由は『方丈記』にも書かれているとおり、大地震や飢饉が相次いだことにある。京の都は荒れ果て、いたいが放置されたまま。そんな時代背景で、東国に活路を開いた開拓農民である鎌倉武士は質素倹約が身についていた。
 歴史作家の加来耕三氏は『源平騒乱期の主食は1日黒米(玄米)5合で、これを蒸して強飯(こわいい)にして、一汁一菜を添える程度。1日2食が一般的でした。将軍頼朝もそれは同じで、臣下らにも粗食を奨励していました。彼らが多少のぜいたくをするのは、正月と夏祭りのときくらいのものでした』と言う。
 加来氏その一例として、『吾妻鏡』に描かれている『埦飯(おうのはん)』を挙げる。埦飯とは正月に臣下のものが将軍を家に招いて饗応することだが、幕府の重鎮・千葉常胤が頼朝に献じたのはコイの一品料理だった。
 コイ料理は公家社会でも喜ばれたが、サケは『かく怪しきもの』(『徒然草』)として賤(いや)しまれていた。しかし、頼朝はサケを喜んで食べ、それを歌に詠んだという。
 戦の際には『干飯(ほしいい)』を戻して食し、『武士たちは野草でも山菜でも木皮でも何でも食べた。足りないたんぱく源として、戦場でシカやムササビ、タヌキを狩って食べ、ハチノコや昆虫のさなぎも食べていました。平家が敗れたのは貴族が好んだ精進料理ばかり食べ、力が出さなかったからという説もあるくらいです』(加来氏)。
 特に質素倹約が際立っていたのは5代執権・北条時頼だ。『徒然草』には、時頼が連署(執権の補佐役)の北条宣時と酒を飲んでいた際、宣時が台所から味噌を見つけてくると、時頼は『事足りなん』と喜んだと書かれている。時の首相と大臣ともいえる2人のツマミとしてはあまりにも質素だろう。加来氏は『この時代の調味料はせいぜい、塩、酒、蓼酢(たです)、醬(ひしお)。味噌があれば十分でしょう』と言う。
 『食』だけでなく『住』も『衣』も質素だった。
 『住居はわらぶき屋根。男たちが自分で建てました。服も奥さんが機織りから作ったものを着るのが当たり前でした』(同)
 明恵上人の伝記によると、時頼の祖父・泰時は畳も古いものを取り換えず、衣服も新しいものは求めず、烏帽子は破れたものを着用していたという。たくましい時代だった。
             本誌・鈴木裕也」
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 鎌倉時代の食事ってどんなもの?どんな食べ物や料理があったの?
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 鎌倉時代は、貴族中心の政治だった平安時代から、源頼朝をトップとする鎌倉武士が政権を握り、武家政治へと社会が大きく動いた転換期です。そんな鎌倉時代の食事には、どんなものがあるのでしょうか。2022年には三谷幸喜氏脚本の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されることもあり、鎌倉時代に関心が高まる昨今。ぜひ、当時の食事を再現してタイムトリップ気分に浸ってみませんか。
 鎌倉時代ってどんな時代?
 鎌倉時代とは、鎌倉(現・神奈川県鎌倉市)に幕府が置かれていた時代のことです。源頼朝が開府し、約150年間続きました。これにより、平安時代に権勢を誇っていた平家から、源氏へと政権が交代し、本格的に武士の時代が始まりまったのです。全国に守護・地頭が設置され、貨幣経済が盛んになったのもこの頃とされています。
 農業面では、牛馬耕や金属製の農具、水車などを利用した灌漑(かんがい)施設の整備、肥料の発達などで生産力がアップしました。早く成長する「早稲」(わせ)と呼ばれる稲の品種も登場し、二毛作ができるようになりました。このため、人手が大量に必要となり、村ごとのルールが生まれたのもこの頃です。
 お米の歴史については、ぜひこちらの記事も読んでみてください。
 「お米の歴史について知りたい!日本でお米が主食になったのはなぜ?」
 階級別、鎌倉時代の食事
 鎌倉時代は階級社会であり、貴族・武士・庶民の間で食事にも違いがありました。それぞれの食事について詳しく見てみましょう。
【貴族編】
 米と土地は権力の象徴であり、平安時代の流れを受け継ぐ贅沢ながらも不健康な食生活でした。白米をおかゆにしたり、釜で炊いたやわらかいご飯の「姫飯」(ひめいい)を食べたりしていたのが貴族です。柔らかくて食べやすい反面、栄養価の高い胚芽が取り除かれてしまい、いわゆる「脚気(かっけ、ビタミンB1不足で起こる)」にもかかりやすかったとされています。
 また、おかずは干物や塩漬けなどの保存食が中心でした。また、食事には細かい作法が決められていたため、同じメニューが何日も続くことも多く、栄養が偏りやすかったのも貴族の食生活が不健康だった一因です。
【武士編】
 「武士は食わねど高楊枝」という言葉があるように、鎌倉時代の武士も質素な生活がモットーでした。武士は同じお米でも玄米を好んで食べていて、「強飯」(こわめし、こわいい)と呼ばれた、炊くのではなく蒸した玄米を主食としていました。
 1日2回、1日あたり5合の米が基本でしたが、戦いや旅行など体力が必要なときは1日3回に増やしていました。この習慣がだんだん日常化していき、現在の1日3食につながったとされています。おかずは焼き塩・みそ・梅干しのいずれかと焼き魚が基本でしたが、現地調達で肉を食べることもありました。携帯食として、現代の「おにぎり」に当たる「屯食(とんじき、とじき)」が生まれたのもこの頃です。
 奈良〜平安時代は僧侶が権力を持っていたため、肉食禁止令が出るなど肉食は忌み嫌われていました。しかし、戦ったり長距離を歩いたりするために身体を作らねばならない武士にとって、肉は貴重な栄養源です。食べていたのは主に狩りで獲ったウサギ、タヌキ、猪、鹿、熊、猿など。鶏肉ではウズラや鴨、飼育した鶏が主でした。牛や馬は農作業で使う大切な家畜なので、食べなかったとされています。
【農民編】
 庶民も食事の回数は1日2食でした。ただし、お米は年貢として納めなければいけなかったため、庶民が食べられるのは麦・粟(あわ)・稗(ひえ)など。一部玄米が混じった粥を食べることが多かったようです。強飯は祭礼など、特別な日のご馳走でした。
 鎌倉時代にタイムトリップ!強飯やおにぎりの再現レシピ
 そんな鎌倉時代のご飯を再現したレシピをご紹介します。いずれも簡単にできますので、ぜひおうちで作ってみて、鎌倉時代に思いを馳せてはいかがでしょうか。
 強飯の再現レシピ
 強飯とは、現在のおこわのルーツです。現代ではもち米で作るのが一般的ですが、当時はうるち米の玄米を蒸して食べていました。玄米を蒸す手順は、以下の通りです。
<材料>
 玄米 100g
 水 100mL
<作り方>
 1.玄米を洗い、6時間程度浸漬させる
 2.ザルに上げて水気を切り、玄米と水を器に入れ、アルミホイルでフタをする
 3.蒸し器の準備をする
 4.蒸気が上がったら2.を入れて30分程度蒸す
 5.火を止め、10分程度蒸らしてできあがり
 ※玄米の浸漬時間は長いので、寝る前や朝、出かける前に水に漬けるのがおすすめ
 ※雑菌の繁殖を防ぐため、必ず冷蔵庫で浸漬させる(2~3回水を取り換えると臭みが軽減できる)
 ごはん彩々サイトでも、玄米を販売しています。ぜひチェックしてみてくださいね。
 新潟県コシヒカリの玄米
 秋田県あきたこまちの玄米
 おにぎり(屯食)の再現レシピ
 おにぎり(屯食)は、前述の強飯を丸めて握ったものです。貴族の宴席で蒸したもち米を握り固めたものが最初とされていますが、武士は主食の強飯で作っていました。そこで、強飯を握った屯食を作ってみましょう。
 1.強飯が炊けたら具材を入れ、白米同様に握り固める
 2.このとき、白米よりも強くぎゅっと力を入れて握り、米粒同士をしっかりくっつける
 玄米は固いので、しっかり握っても米粒が潰れにくいため、ぎゅっと握って構いません。シンプルにプレーンか、梅干し入りなどが主流です。
 まとめ
 鎌倉時代は武士が初めて政権を握った時代であり、まだまだ武士の食事は貴族化しておらず、質素で合理的な食生活でした。中でも玄米で作った強飯は武士の主食であり、携帯食としておにぎりにもしていたそうです。ぜひ、今回ご紹介したレシピを参考に、鎌倉時代の食事を再現してみてくださいね。
 (おいしいごはん研究チーム)
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 刀剣ワールド
 鎌倉時代の生活
 鎌倉時代の食文化とは - 刀剣ワールド
 人間が生きるために必要な食であるお米が登場してから、格差社会は大きくなり、富める者と貧する者とに分かれてしまいました。 鎌倉時代は、権力の移行期であり、食の変換期でもあります。武士の台頭で肉食も解禁されましたが、農民は相変わらず苦しい生活でした。そんな鎌倉時代の食生活についてご紹介します。
 目次
格差社会はお米から始まった!鎌倉時代の米事情
・体力勝負の鎌倉武士によって肉食再開
・災難続きの鎌倉時代~民のために働いた北条泰時
・醤油のもとになった溜(たまり)が誕生
 格差社会はお米から始まった!鎌倉時代の米事情
 権力の象徴となったお米
 「武士は食わねど高楊枝」(ぶしはくわねどたかようじ)と言う言葉。この言葉から、武士は質素な食生活を送っているイメージが伝わってきます。鎌倉時代から始まった、武士政権もやはり「質実剛健」(しつじつごうけん)がモットーでした。
 嘆かわしいことですが、現代の日本はお米の需要が減少。また、田んぼも農家の後継者問題や減反政策などを受け減少しているため、お米の生産も減ってきています。
 弥生時代は、我が国でのお米はお腹を満たすことと同時に、給料や通貨代わりでもありました。より多くのお米を手にするため、土地を奪い、農作業に従事する人々を作る必要が出てしまい、強い者が武力を持ち、争いや格差を生み出したのです。
 それ以来、お米と土地は権力の象徴となってしまいました。最初にその力を持った者は、大和朝廷から始まる天皇。そのうち、公家や貴族達も自分用の土地を持ち、さらに仏教が力を持ってからは僧が力を持ち、そこを守る武士達が、いつしか土地を奪う人達になったのです。
 権力者が誰に変わっても、お米を作っている農民や、すべての庶民が、日常的にお腹一杯お米を食べられるようになったのは、昭和の後半に入ってからと言っても過言ではありません。
 二毛作ができるようになったものの白米は貴族だけ
 鎌倉時代は、農業に馬や牛を使うようになり、金属製の鍬(くわ)や鋤(すき)などの農業機具が誕生。さらには、早く成長する「早稲」(わせ)と呼ばれる稲も登場し、二毛作ができるようになりました。
 農業技術が飛躍的に発展して、春にお米、秋には麦と、同じ田んぼで2回作物が取れるようになったのですが、お米は年貢に取られてしまうので、庶民が口にできるのは麦・粟(あわ)・稗(ひえ)など粗末な作物ばかり。武士は同じお米でも、玄米を好んで食べていました。質実剛健をモットーとしていたわりには、お米を食べていた分だけ、庶民よりはまだ良い食事です。「強飯」(こわめし)と言って、炊くのではなく蒸した玄米を主食としていました。
 しかし、源氏や平家は貴族ですが、その下に就いた武士という者は、元々自らの土地を耕し守る農民でもあったので、何もしないで白米を食べていた貴族達よりは、お米を食べる権利はあるのです。税の取り分を増やそうとした武士によって、灌漑(かんがい:田畑への水路)や水車などが作られ、草木や肥(こえ)などの肥料も工夫されるなど、農業が発展。さらに、戦のときなど外で食べることが多い武士達は、調理法や携帯食も工夫をしています。
 例えば、玄米をそのまま持ち歩き、布に包んだ玄米に、水を掛けた状態で土に埋め、その上で焚き火をすると玄米も炊き上がると言う調理法を使って、ご飯を食べていました。
 現代の「おにぎり」のように握って焼いた玄米を、竹の皮で包んで持ち歩く「屯食」(とんしょく)も登場しています。
 身体が資本の武士ですから、体力を付けるためにも食事は大切でした。そのうえで、戦中には食事に手間取っている暇はありません。当然、合理的価値観も出てくるので、年々発展していったのです。
 反面、公家や貴族達は、白米をおかゆにしたり「姫飯」(ひめいい)と呼ばれる、釜で炊いたやわらかいご飯を食べたりしていました。動くことも少ないので、贅沢病と言われた「脚気」(かっけ)にもなりやすく、実は不健康で早死にしていたのです。
 そのため、この時代の平均寿命は24歳。乳幼児の多くは、医学の発展した昭和後期まで、長生きは難しく、鎌倉時代は災害が多発した時代でもありました。武士は戦での死なども多く、食生活はあまり寿命と関係無かったとも言えます。
 体力勝負の鎌倉武士によって肉食再開
 忌み嫌われていた肉食を復活させた鎌倉武士
 焼肉は、現代人に好まれている食事です。おいしいだけではなく、人は本能で身体に必要な栄養素があることを知って、お肉を食べたくなると言えます。お肉の焼ける匂いや、タレの香りだけでも、ご飯をたくさん食べたくなるほど、食欲をそそられるものです。
 奈良・飛鳥時代から権力を持ち始めた、仏教の僧侶達。平安時代は、天皇も仏教に傾倒し、寺はより一層力を付けていました。その影響から、肉食も禁止令が度々出されていましたが、全く食べなくなったのかと言えば、やはり誘惑に勝てるものではなく、こっそり食べていたのです。
 肉食は、こっそり食べるしかないほど、一般的には禁じられた存在でした。信心深い人であれば、やはり忌み嫌う食物であり、天皇自らが禁止令を出していたこともあって、公家や貴族達、そして僧侶などは、堂々と食べたいと言えなかったのです。
 都は海のない京都、畑も遠く、そもそも新鮮な魚介類や野菜はありません。そのため、公家や貴族達は塩で加工されたおかずを食べていたのですが、お肉も極力避けられていました。
 武士達も、戦うために走ったり、長い距離を歩いたりしました。もちろん鎧や弓、そして槍、刀剣などの武具は重いため、まずは体力が必要となります。筋力と体力を付けるには、やはりお肉の栄養価が一番高く、効率の良い食材でした。
 武士は、武芸も磨かねばならないため、狩りもよくします。戦場で食べ物が不足すれば、現地調達ということもあり、その結果、庶民よりはお肉を手に入れやすい環境にあったのです。
 縄文時代の狩り
 鎌倉時代の武士達は、公家や貴族達に白い目で見られ、軽蔑されても、堂々とお肉を食べていました。お肉は現代と同じく、焼いたり煮たりして食べたので、おいしいそうな匂いがあちこちからしたと想像できます。同じ人間ですから、公家や貴族達、僧であっても我慢できるはずがありません。彼らもこっそりと、お肉を食べるようになってしまったのです。
 武士達が食べたお肉は、ウサギ、タヌキ、猪、鹿、熊、猿、鶏肉ではウズラや鴨。しかし武士達も、農作業で使う大切な牛や馬は、食べなかったと言われています。食べるのは、あくまでも狩りをしたお肉だけでした。狩りは、命対命の戦い。熊や猪などであれば、自らも危険が生じる訳です。
 武士達も家畜は食べなかったことから、信心深くなかった訳ではないことがうかがえます。ただ家畜は食べないとは言っても、飢饉が起きれば大切な牛や馬も食べざるを得ないため、飼育した鶏は食べていました。
 宗教の概念よりも、生きていくために食糧を確保するということは、鎌倉時代だけではなく、その後も人々の命題となっていくのです。
 災難続きの鎌倉時代~民のために働いた北条泰時
 試される大地、日本国の災害
 源頼朝
 災害大国日本。自然の恵みがある代わりに、ときに容赦なく人々を襲う自然の猛威は、現代人の我々も他人事ではありません。地震、台風、洪水、干ばつ、大雨、噴火など、日本は昔から災害が多発していました。
 お米が登場してからは、蓄えることもできたことから、権力の象徴となりましたが、畑や田んぼを手に入れても、天候に食を左右されることになります。
 日本の日記や古文書などには、天気を記録している書物がたくさん残されていたおかげで、当時の災害や気候の変動などを知ることができるのです。
 鎌倉時代に書かれた「吾妻鏡」(あづまかがみ)という歴史書にも、災害の数々が記録されています。源頼朝が、平清盛を倒して鎌倉に幕府を開いた頃が、気候の温暖な時期のピークになり、その後、寒冷化していきました。
 ちょうどその頃、1181年(養和元年)には雨が全く降らずに、京都や西日本全域で干ばつによる「養和の飢饉」(ようわのききん)が発生。気候の変化によって、大雨、台風、洪水、そして鎌倉時代は、地震がとても多くなっていきました。「衣食足りて礼節を知る」と言う言葉がありますが、人間心とお腹が不安になると、世情も乱れていくのが世の常です。
 瑞祥(ずいしょう)での改元希望!暗い改元が増えた鎌倉時代
 元号を変えることを「改元」(かいげん)と言います。改元は、天皇が変わったときにされますが、一世一元が制定される前までは何か災いが起きたときなどにも行なわれていました。平安時代前期までと鎌倉時代改元の理由を見比べてみると、鎌倉時代の災害が、いかに多かったかが見えてくるのです。
 平安時代前期までは、天皇が変わったときと、近隣国から何かを献上されたなどのお祝いごとでも、改元しています。そのことを「瑞祥」(ずいしょう)による改元と言いますが、平安時代後期から鎌倉時代は、お祝いごとの改元は消え、災害や疫病という暗い理由での改元が多くなりました。
 そのような中で、養和の飢饉の50年後には、鎌倉時代150年ほどの歴史の中で最大と言われる「寛喜の飢饉」(かんきのききん)が発生。1230年(寛喜2年)は夏に霜や雪が降り、続いて暴風雨と大洪水に見舞われたのです。
 食べ物や仕事を求め、農民達は逃げ出し、京都や鎌倉には彷徨う人々が集まりました。そこで、幕府は「備蓄米」などを出しましたが追いつきません。街は死臭が漂い、人買いが行なわれ、幕府も対応しきれないほどの大惨事だったのです。
 その頃の将軍は、源頼朝の次男である「源実朝」(みなもとのさねもと)でしたが、源頼朝亡きあとは、妻の「北条政子」(ほうじょうまさこ)が崩壊しかけた家臣達をまとめます。そして、北条方の人間が将軍補佐職の座に就き、執権政治という体制を取りました。
 北条泰時
 北条政子の甥であり、第3代執権になった「北条泰時」(ほうじょうやすとき)がその人物。
 1221年(承久3年)に起きた「承久の乱」(じょうきゅうのらん)に総大将として出陣し、大活躍した武士です。
 「承久の乱」とは、もう一度実権を取り戻したい「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が北条泰時の父であり、第2代北条執権だった「北条義時」(ほうじょうよしとき)を討伐するために京都で兵を集め挙兵した騒動のこと。
 10万の兵を引き連れて上洛した北条泰時は、上皇側を制圧。その結果、幕府軍の圧勝で終わり、後鳥羽上皇隠岐島(おきのしま:現代の島根県)に流されてしまいました。ここで朝廷の力は完全に弱り、実権は完全に北条家が握ることになったのです。
 武勇にも優れた北条泰時は、人物的にも優れており、寛喜の飢饉の際には年貢の免除やお米、酒などの配給をしました。そして、できる限りの心遣いをしたうえに、自分も徹底的に節制して武士達にも緊縮令を出したのです。
 さらに、飢饉をきっかけにして、武士達の法令「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)を作成。それまで無秩序だった武士達の規律を正したのです。
 醤油のもとになった溜(たまり)が誕生
 おいしい食を楽しむには欠かせない調味料
 鎌倉時代の料理は、基本的に味付けはありません。塩漬けにした干物や梅干しなど、塩味の料理はありましたが、その他は調味料を付けておかずを食べていたのです。
 この時代、味噌は貴重品でした。中国から来た僧が「すり鉢」を伝えたことから、粒味噌をすり鉢で潰したあとに、「お湯を注ぐと溶ける」ことが分かり、武士達はこの頃から味噌汁を味わい始めます。
 梅干しをご飯に乗せて食べるという概念も、武士達が始めたことでした。お肉を食べ、玄米に梅干し、そして味噌汁まで付くと、とてもバランスの良い食事になったのです。
 この時代、もうひとつ代表的な調味料があります。「醤」(ひしお)と言う、塩と「麹」(こうじ)を発酵させた調味料で、味は塩や醤油、酢を混ぜ合わせたようなイメージです。おかずは、この醤に付けて食べるのが定番の味付けでしたが、この醤自体を舐めておかず代わりにもしていました。
 鎌倉時代は、農業や武士政権、服装などの変換期ですが、日本人にとって欠かせない調味料である、醤油のもと「溜」(たまり)も発見された時代です。いつの時代も、発明や開発は、ちょっとした偶然から発展しますが、この溜もそのように発見されました。南宗(なんそう:現在の中国の一部)で学んできた、臨済宗の僧である「心地覚心」(しんちかくしん)が、信州で味噌作りを教えていたときに、溜が発見されたと伝えられています。
 食に対する飽くなき探求心は、昔も今も変わらない物なのかもしれませんが、この偶然できた溜で食べ物を煮て食べたという話もあり、新たな調味料として人々は使い始めます。しかし、庶民が醤油を楽しめるようになるのは、江戸時代に入ってからなので、鎌倉時代の人達はそのおいしさを知ることはありませんでした。
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⚔16)─5・A─小さな戦国領主・織田信長の軍事革命が150年続いた戦国時代を終わらせた。~No.65 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 明国は、火薬の原料である硝石を日本に輸出する事を禁止していた。
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 2022年6月7日 MicrosoftNews プレジデントオンライン「なぜ150年続いた戦国時代は終わったのか…尾張の小さな戦国大名織田信長が「天下人」になれた本当の理由
 © PRESIDENT Online 織田信長像(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons) 織田信長はなぜ「天下人」になれたのか。三重大学藤田達生教授は「鉄炮の登場が合戦を根底から変えてしまった。大量の鉄砲を揃えるほど有利になるが、そのためには大量の資金が必要になる。このため信長は鉄炮のために領土を拡大していった」という――。
 ※本稿は、藤田達生『戦国日本の軍事革命』(中公新書)の一部を再編集したものです。
 「新兵器・鉄炮」が戦国時代を終わらせた
 鉄炮伝来以前の戦国時代の一般武士は、戦争において武器を弓→槍→刀の順でおおむね使用した。対峙する両陣営は、戦端が切られて後、徐々に接近戦となってゆくが、一日中戦闘を続けることは困難だった。
 まず矢種に限界があり、馬上槍にしても太刀(たち)や打刀(うちがたな)(日本刀のこと、以下では刀と記す)にしても、必ず刃こぼれと曲がりや折れが発生するからである。
 いうまでもないが、これらの武器はいずれも消耗品であり、種類(大太刀や鎧(よろい)通しなど用途に応じて様々)も量もそれなりの予備を持参するのが普通であり、武装してそれを使用する人間の体力の消耗も激しかった。
 武士は、伝統的に騎馬で出陣する。木曽馬に代表される軍馬は、その育成に相当の手間暇がかかった。馬の種類や体躯は、持ち主の身分を表した。基本的に移動手段として利用したが、当然のことではあるが戦場で騎馬戦がおこなわれることもあった。
 その場合、人馬が一体となって戦うため、馬にも鎧(馬鎧)を着用させることがあった。去勢していない雄馬(おすうま)は獰猛で、戦場で敵の馬や武士を殺傷するほどの実力を発揮した。鉄炮戦が一般化すると、標的になりやすいこともあって騎馬戦は一気に下火になった。
 鉄炮が変えた合戦風景
 しかし、慶長年間になっても、戦場に騎馬は登場した。白兵戦の場合、よい敵を探すのに有利だったし、いち早く移動することができ、撤退も素早くおこなうことができたからである。
 ただし、この時代の武士は騎馬戦に有利な沓(くつ)(鐙(あぶみ)使用に適した革製の履物)よりも歩行戦に適した草鞋(わらじ)や、その半分の長さの足半(あしなか)を履いた。たとえば、信長クラスでも戦場において足半を腰にさげており、元亀四(一五七三)年の刀根山(とねやま)合戦では恩賞として兼松正吉(かねまつまさよし)にそれを与えている(『信長公記』)。
 元来、騎射や馬上槍は武士の嗜(たしな)みではあったが、必ず使用時に死角ができるので、それをカバーする従者の存在が不可欠だった。そもそも、戦場に武士は単独で参陣することはできなかった。
 馬の口取りをはじめとする歩行の雑兵が付いたし、その周囲を馬上の一族・郎党が護衛した。それに雑兵が率いた兵粮や飼葉(かいば)などを載せた駄馬(だば)が追随するのが、彼らの伝統的な出陣風景だった。
 なお、兵粮は基本的に持参である。敵地で稲薙(な)ぎ・麦薙ぎをして得ることもあったが、収穫前の稲や麦は実入りが悪かった。ましてや、乱取りによって敵方から調達するのはリスクが大きく、例外的だった。
 後の朝鮮出兵でもそうだったが、戦場でもっとも恐ろしいのは、兵粮が尽き飢餓(きが)に苛(さいな)まれることだった。戦争が長期化する戦国時代後半以降、戦場では市が立ち、商人が出入りするようになるのである。
 鉄炮もたらした軍事革命
 武士は、日頃から戦争のための修練が不可欠だった。馬術・弓術・槍術・剣術については、戦国時代までに大坪(おおつぼ)流・日置(へき)流・新当(しんとう)流などの代表的な諸流派が成立しており、師弟の間に免許皆伝が伝授・認可される印可(いんか)制度が存在した。
 戦国時代の新兵種として注目されたのが足軽以下の雑兵だった。彼らの得意とする武器は、長槍である。腕自慢・力自慢の若者が雇われて、最長で信長の長槍隊のように三間半(約七メートル)もの長大な槍をもち、横隊で叩くように振り下ろしながら前進するのである。
 それだけでも威力があったし、槍衾(やりぶすま)をつくれば騎馬部隊に十分対抗できたから、長槍隊の効果は絶大だった。諸大名は、槍の長さを競いつつ長槍隊の編成に心がけた。ただし、長大な長槍を使いこなすには足軽たちを専属で雇って訓練せねばならないため、それ相応の資本力がないと不可能だった。
 戦国時代前半の戦争は、規模こそ数千人規模へ拡大したが、軍備・兵粮さらには武士や足軽の体力に限界があり、何カ月にもわたる長期戦は不可能だった。しかも勝敗が偶然性に左右される側面もあったから、天下統一など想像もできなかった。
 ところが鉄炮の導入に端を発する軍事革命によって、このような限界は克服されることになった。戦国時代後半の戦場に注目しよう。科学兵器としての鉄炮がもたらした「勝てる戦争」の意義を問いたい。
 鉄炮はいつ日本に伝わったのか
 それでは、鉄炮はヨーロッパからいかに伝わったか。まずは鉄炮伝来に関する研究の新たな潮流を紹介する。
 明治時代以来の通説は、天文十二(一五四三)年に種子島へのポルトガル人漂着によって南蛮銃が伝来したとする「鉄炮記」(後述)にもとづくものだった。それに対して、鉄炮遺品や関係史料の分析によって、種子島への伝来は一事例に過ぎず、それ以前に、倭寇がマラッカなど東南アジアで使用されていた火縄銃を伝えたとする、宇田川武久氏の説が脚光を浴びた。
 これに加えて、倭寇(わこう)すなわち寧波(ニンポー)(浙江省東部にあった勘合貿易港湾都市)沖の舟山(しゅうざん)群島を拠点にした中国人密貿易商人のなかでも代表的な存在であった王直(おおちょく)(五峰(ごほう))が、自らのジャンク船(中国製の木造帆船)を使って天文十一年にポルトガル人を種子島に導いて鉄炮が伝来したとする、村井章介氏の説もある。
 これらの説からは、倭寇が介在した琉球や環日本海諸地域などへの鉄炮の多様な伝来のありかたが想起されるであろう。歴史的な出会いとみられてきた種子島への鉄炮伝来も、ワンオブゼムだった可能性が高まったのである。ここでは、初期の受容が海賊の拠点であった瀬戸内海でみられることを指摘しておきたい。
 通説よりも早く浸透していた可能性
 京都東福寺の僧侶が記した旅行記「梅霖守龍周防下向日記(ばいりんしゅりゅうすおうげこうにっき)」の天文十九年九月十九日条によると、同日の午刻(十二時頃)、備前日比島(岡山県玉野市)の付近を航行していた梅霖守龍一行の乗った船に海賊船が近づき、両船の間で交渉がおこなわれたが不調に終わり、戦いが始まったという。
 海賊が矢を射たのに対して、鉄炮で応戦したので、海賊側は多くの負傷者を出したことを記している。
 弓(最大射程三八〇メートル)に対して、格段に射程の長い鉄炮(最大射程五〇〇メートル)をはじめとする火器は、陸戦以上に海戦に有効な武器だったことを、この記事は物語っている。
 それにしても、この事例は天文年間(一五三二~一五五五年)に早くも西国社会で鉄炮が浸透していたことを暗示するものである。
 鉄炮を支えた「科学者たち」
 鉄炮国産化については、きわめて短時間で可能になったようだ。これについては製造地ごとに様々な背景があったと予想されるが、種子島と国友村に伝わる一般的な理解を示しておきたい。
 天文十二年(一五四三年。現在では天文十一年に修正されている)八月に、王直に従ったポルトガル人が乗船したジャンク船が種子島に漂着した。島主の種子島時尭(ときたか)は、彼らをもてなしたが、その折に彼らが携えた火縄銃の試射をみてその威力に感心した。
 自身も隣接する大隅(おおすみ)国の禰寝(ねじめ)氏との戦争で苦慮していた時尭は、二挺を買い求め、そのうち一挺を種子島の刀鍛冶に貸して複製することを命じた。
 よく知られた通説であるが、これは慶長十一(一六〇六)年に種子島久時が祖父時尭を顕彰するべく、大龍寺(臨済宗鹿児島市)を開山した南浦文之(なんぽぶんし)に執筆させた「鉄炮記」にもとづくものであり、信憑性という点ではいささか疑問符が付く史料である。
 担当した八板金兵衛は、高熱にも長期間の使用にも耐える銃身の製作は刀鍛冶の技術を投入して成功したが、銃底を塞ぐ尾栓(びせん)の加工に頭を悩ませた。ここを取り外せる構造は、銃身の清掃や不発弾の除去などのメンテナンスにおいて、必要不可欠だったからである。
 尾栓としての雄ネジと雌ネジの工夫については、娘若狭をポルトガル人に差し出して得たとする悲話を伴い、今に伝承されている。
 アジアで最初に実現した国産化
 種子島氏が購入したもう一挺は、島津氏を通じて将軍足利義晴に献上したという。義晴も、天文十三年二月に複製品の製作を国友村の善兵衛・藤九左衛門・兵衛四郎・助太夫ら四人の刀鍛冶に命じた。
 彼らも尾栓の技術に苦しんだが、わずか六カ月で二挺の鉄炮を製造して献上した。これは、奥書に寛永十(一六三三)年三月と記す「国友鉄炮記」(実際の成立は元禄五〔一六九二〕年以降とされている)によるものである。
 有名な由緒記にもとづいて紹介したが、これらはいずれも諸書の関係記事を適当につなぎ合わせたもので、信憑性は低いことが知られている。それでも、種子島といい国友村といい、わずかな期間で国産化したのは事実である。
 鉄炮は、それ以前にも中国や朝鮮に伝わっていたのであるが、国産化という点で日本はアジア諸国においても最速だったとされる。しかも高品質だったから、命中率が比較的高く信頼性も高かった。
 関与したのが刀鍛冶だったように、優れた日本刀の鍛造技術が活かされたといわれる。鉄炮の国内普及は、早くも永禄年間(一五五八~一五七〇年)には本格化した。
 量産、浸透の立役者…砲術師・鉄炮鍛冶・武器商人
 鉄炮の実戦への導入の背景としては、まず火器の取り扱い全般に長じた砲術師によって、鉄炮の扱い方や火薬の調合法が戦闘員(大名から足軽に至るまで)に広く浸透したことがあげられる。
 それには、稲富一夢(祐直(すけなお))のような廻国する揺籃(ようらん)期の砲術師たちの活躍が想定される。次に重要なのは、国産鉄炮の量産システムが完成したことである。
 これに関連するのが、製作者としての鉄炮鍛冶集団の成立である。その代表は、なんといっても堺と国友村であるが、紀伊国根来(和歌山県岩出市)や近江国日野(滋賀県蒲生郡日野町)の鉄炮鍛冶も有名である。
 さらに、武器商人の存在も欠かせない。鉄炮に必要な火薬(焔硝(えんしょう)に炭と硫黄を調合した黒色火薬)や玉の原料の鉛などを調達する武器商人は、領主と生産者たる鉄炮鍛冶とをつなぐ役目を果たす。
 なお、硝石(焔硝)であるが、当時は国内では得られず、産地の中国をはじめとするアジア諸国との貿易に依存していたから、かなり高価だったことも指摘しておきたい。
 たとえば、信長は上洛した翌年に撰銭(えりぜに)(商取引の際に、良貨を撰び、悪貨を拒否すること)に関する規定を発するが、金銀をもって売買する高級品のなかに「薬」すなわち火薬をあげている。
 戦国時代の国際貿易網
 硝石が国産化できた時期の詳細は不明であるが、一般的には江戸時代になってからとみられている。「煙硝」と記されるが、一向一揆の拠点越中五箇山富山県南砺市)で戦国末期から織豊期にかけて生産され始め、大坂本願寺一向一揆に供給したとする説もある。
 また鉄炮玉の原料である鉛も、安価な国内産もあるが、遺物を分析すると、その多くを国外に依存していたことがわかっている。硫黄が輸出するほど豊かだったことに比して、肝心の硝石や鉛の確保がネックになっていたのだ。
 いずれも、仲介人としては東アジアの武器商人と南欧(スペイン、ポルトガル)商人やイエズス会関係者などが想定され、彼らは今井宗久(そうきゅう)などの堺商人と結託し、信長のもとに集中するルートを形成していた。国際貿易を介して、日本の武器商人はアジア諸国からそれらを大量に輸入していたのである。
 たとえば、硝石の産地は中国の山東省や四川省だった。またタイ西部のソントー鉱山で産出された鉛は、要港である同国のアユタヤやマレー半島のパタニに集積され、これらが南欧商人によって日本に輸入されたというルートが、平尾良光氏によって指摘されている。
 織田信長の天下統一事業の背景にあるもの
 このように、鉄炮の量産・浸透システムは、砲術師 鉄炮鍛冶 武器商人(国際商人を含む)という三者間の緊密な関係が成立しなければ、誕生しなかったのである。
 「勝てる戦争」を保障した鉄炮であるが、高価な消費財そのものであり、その運用のためには常に資本の拡大すなわち領土の拡張と収奪の強化が必要不可欠だった。
 一度鉄炮の破壊力を知ると、たちまち数量をそろえたいという欲望に目覚め、必然的に高価な硝石を大量に確保したいという欲求に駆られるようになる。ここにこそ、抜け目のないイエズス会をはじめとする諸勢力が政治に付け入る隙が生まれる。
 信長の天下統一事業の背景には、勝ち続けるための飽くなき富の追求があった。巨大な財源の確保に向けて戦争が目的化し、継続してゆくことになる。

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 中世キリスト教会、イエズス会ら修道会、白人キリスト教商人らは、日本人をアフリカ人同様に売り買いして金儲けしていた。
 日本人の命は金で買えた。
 日本人を奴隷として外国に売ったのは売ったのは、貧しく身分が低い日本人であった。
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 西洋キリスト教文明国からすれば、日本人はアフリカ人同様に奴隷もしくは人間以下の家畜、自由に殺してかまわない獣であった。
 バチカンローマ教皇は、改宗した日本人キリシタンを奴隷にする事は禁止したが、改宗を拒む異教徒日本人を奴隷とする事は認めた。
 宣教師達は、日本人を救う為に布教活動を行い、多くの日本人をキリシタンに改宗させた。
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戦国日本の軍事革命 鉄炮が一変させた戦場と統治 (中公新書)
天下統一 信長と秀吉が成し遂げた「革命」 (中公新書)
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 一神教の信仰宗教であるキリスト教ユダヤ教イスラム教が生まれたのは、自然環境の変化が乏しい砂漠かわずかな水と農作物が作れる牧歌的な狭い土地である。
 水も緑もない荒涼として生物が住まない死の砂漠を旅をすると、突然、眼の前に水が湧くオアシスが現れ、人々が住む町や隊商(キャラバン)が集まる町や都市に行きつく。
 それら全てが、神の御意思、神の思し召し、神の計らいである。
 人は、大自然の中に神を感じ、大自然の偉大さに感動して宗教に目覚めるのではない。
 普遍宗教・啓示宗教・信仰宗教の神とは、唯一絶対の存在であり、万物創造の創り主であり、全知全能で万物を司る御一人であり、生と死を支配し怒りと愛で最後の審判を下す御方であり、父なる神である。
 神が為さる計らいを決して疑ってはいけない。
 自然災害や身の不運は、神に叛いた罪・大罪ゆえの天罰である。
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 日本列島では、一神教の信仰宗教であるキリスト教ユダヤ教イスラム教は通用しないし、天地創造の創り主たる絶対神による啓示、隣人愛、福音、奇蹟、恩寵も役には立たない。
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 日本神道の神輿・山車の原型は海原を移動する船であって、砂漠の上を輿として移動するユダヤ教の「契約の箱(アーク)」とは違う。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 庶民にとって、領主・大名・主君が誰であったも関係ない。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
 一説によると、ポルトガル商人による日本人奴隷の被害者は5万人以上。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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 日本人は、悪人、悪党、罪人である。
 故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。
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