🏕45)─1─ゾロアスターによる一神教エコロジー。仏教における生命網の目エコロジー。~No.93No.94No.95  ⑪ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 ミトロジーとは、神話、神話学、民族的世界観。ギリシャではミュトス。
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 日本には数多くのエコロジー思想が存在する。
 現代日本人は、エコロジー思想を口に為ても、行動としてのエコロジーはない。
 現代日本人が口にするエコロジー思想とは、マルクス主義の科学エコロジー思想である。
 マルクス主義の科学エコロジー思想とは、反宗教無神論で命と人生から超自然的な不可解な神仏を排除し、命と人生を現代科学で論理的合理的そしてデータを総合的に分析して理解する事である。
 現代日本人は縄文人とは別人で、縄文人は特殊なローカル的エコロジー思想を持っていた。
 縄文人の子孫は、日本民族アイヌ民族琉球民族であって日本人ではない。
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 2021年9月25日号 週刊現代「今日のミトロジー  中沢新一
 エコロジーの神話 (1)
 現代エコロジー思想の背景に、一神教的ミトロジーの世界観が据えられていて、人間中心主義のそのミトロジーと科学が結合している。そこに何かが欠けている。
 創始者ゾロアスター 
 現代エコロジー思想の著そう礎を築いたのは、いまから数千年前のペルシャに現れた、ゾロアスターという宗教改革者である。ゾロアスターが出現した頃(*)、現在のイランから中近東にかけての地帯は、農業の発展による「新石器革命」の最盛期に、さしかかっていた。
 {*これには諸説がある。一般的に2千数百年前頃の人と言われているが、ゾロアスター革命の意味を掘り下げていくと、Settegastの主張するような8000年前頃の人という考えも可能だ}
 牛や豚の家畜化が進んで、そこでは動物を神々にささげる血なまぐさいサクリファイズの儀式が、盛んにおこなわれていた。農地を拡げるための土地開発も、すさまじい勢いで進行していて、森林はつぎつぎに失われていった。
 そういう世界で隆盛を極めていたのが、サクリファイズを中心とする多神教宗教である。ゾロアスターはこの宗教に深い疑いを抱いた。神々はたくさんいたが、絶対的な正義を確立して、善と悪を峻別することのできる原理を体現している神はいなかった。
 たくさんの牛たちが、神々へのお供え物として、毎日無造作に殺されている。こんなことに意味があるだろうか。ゾロアスターは考え抜いた末に、当時の世界のありかたを根底から覆す、宗教の大革命にとりかかった。
 ゾロアスター新宗教では、絶対的な正義を体現する神アフラ゠マズダが君臨し、悪の神と闘争することによって、世界の秩序がつくられた。自然神たちの整理がおこなわれて、アフラ゠マズダだけがこの世界の成り立ちを支えている、唯一の善の神とされた。
 農業革命から派生(はせい)した、さまざまな原始的な風習が禁止され、多数の動物を殺害するサクリファイズの儀式をやめさせ、植物食を重視するおだやかな生活を推奨した。森林伐採による自然の乱開発に歯止めをかけようとした。ゾロアスターの思想は、西洋文明の基礎を築いた。
 一神教エコロジー
 ゾロアスター一神教の考えの原型をつくった。ユダヤ教キリスト教イスラム教も、独創的な彼の宗教からじつに大きな影響を受けている。しかし、ミトロジーにとってそれ以上に興味深いのは、ゾロアスターが今日でいうエコロジーの思想を、力をこめて語っていることである。
 ゾロアスター教聖典『アヴェスタ』には、じっさいにゾロアスターが語ったと思われている、『牛の嘆き』という一節が残されている。そこでは、サクリファイズ儀礼で殺された牛の霊が、天国のアフラ゠マズダ神をつかまえて、痛烈に批判を浴びせかけている。牛は人間とその神をこう糾弾する。いったい人間は何匹の牛を、意味もなく殺せば気がすむというのか。あなたが人間たちに許しているこの愚行のために、私たち牛は塗炭の苦しみをなめている。これを放置しておくようなら、私たちはあなたを信じない、と。
 人間はあまたの種類の動植物といっしょに、神によって創造された。その被造物のなかで、人間の卓越した知力によって、生物界の頂点に立つ存在となって存在となった。しかしそれだからといって、人間は他の生命を、自分の好き勝手に利用していいというわけではない。ゾロアスターは、人間は神によって創造された環境世界の『牧人=シェパード』となって、そこに生きるすべての動植物を保護管理する役目を負っている、と考えた。環境世界の羊飼いとなって、自分より弱い立場の動植物を守るのである。
 この考えは、イエスの思想にも受け継がれている。世界の支配者ではなく『良い羊飼い』になることが、人間にあたえられた使命だと、イエスも語っている。これは現代エコロジーの考えと、基本的に一致している。農業が開いた新しい新石器的産業時代に、ゾロアスターが抱いた環境思想が、ほとんどそのままのかたちで、資本主義の現代に『エコロジー思想』として、蘇っているのである。西洋で発達したエコロジー思想の背後には、一つのミトロジーが横たわっている。私はそれを『一神教エコロジー』と呼ぶことにする。
 一神教エコロジーではごく自然に、環境世界にヒエラルキー(位階)ができあがる。創造主である神に包摂されるようにして、環境世界の頂点には人間が立ち、その下にもろもろの動物と植物が据えられる。この位階秩序のなかで、もっとも卓越した存在である人間は、動植物を自分のために搾取するのではなく、地球全体の環境バランスを考えながら、良い牧人として、動植物の生きる環境を守り管理すべきである、というのが、一神教エコロジーの考えである。
 ホモ・デウスぬきで
 この考えでいちばん問題になるのが、環境保護がすべて人間の視点から考えられていることである。人間が見ている世界だけが、唯一の実在世界で、動植物たちはその人間中心主義的な世界の、たんなる脇役の登場人物でしかない。良い牧人である人間は、その動植物たちを守り管理するのだが、すべての操作は人間の側からコントロールされる。
 その人間がAIの発達によって、いまや神をも凌駕(りょうが)する、『ホモ・デウス』の地位につこうとしていると言われる。人間中心主義が突き進んでいった末に、地球環境まで人間が決めてしまう『人新世』に、踏み込んでしまった。一神教エコロジーには、どこか重大な欠陥が抱え込まれている。エコロジー思想の別の可能性を開発しないかぎり、地球上の生命に未来はない。」
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 10月2日・9日号 週刊現代「今日のミトロジー  中沢新一
 エコロジーの神話 (2)
 仏教エコロジーは、人間を動植物の世界から特権的存在として分離する。そのために、動植物は人間にとって客観的な対象になる。人間の視点から自然を観察して、自然保護のための計画を立てて、実行に移す。そうやって人間は、環境世界の『牧人=シェパード』としての任務を果たさなければならない。一神教ミトロジーに裏打ちされたエコロジーの考えでは、あくまでも環境保護の主体は、人間である。
 こういう思想にたいして、仏教はまったく対極的な立場から、別のエコロジー思想を考えてきた。仏教では人間を特権化しない。人間がとらえている世界だけが、唯一のリアルな世界ではなく、あくまでも人間の脳と感覚器官と身体がつくりあげている、『さまざまな可能性のなかの一つ』としての世界にほかならない。
 ほかの動植物には、彼ら独自のそれぞれの世界がある。動物のことを取り上げてみても、進化の過程で彼らが発達させてきた、身体や神経組織の構造は、どれもがみんな違っていて、そのために彼らが見ている世界は、どれも同じではない。つまりこの世界は、もともと『多世界』としてできている、というのが、仏教の考え方である。
 だから、同じ場所でカエルとコオロギが出会ったとしても、それぞれが心のなかで思い描いている世界は違っているのである。それでも匂いや視覚などの回路をとおして、おたがいの間に連絡がつけられ、相手の動きにハッと気がついたカエルは、コオロギを捕食しようと身構える。カエルが伸ばしてきた長い舌から、あわてて身を逸らしたコオロギは、『カエルの世界』とは異なる『コオロギの世界』の構造のなかを、一目散に逃走する。
 人間は中心ではない
 仏教の考えでは、それじれの異種生物は、それぞれが夢のようなつくりをした『自分たちの世界』を生きているが、そうした多世界の間に、蜘蛛の巣のような緻密な網の目が張り巡らされることによって、環境世界がつくられている。
 この網の目のなかには、特権的な存在はいない。小さなものも大きいものも、すべての生命が平等で、この世界のどんな小さな部分を担っている存在も、それがいなくなるようなことになれば、全体に衝撃が走ることになる。人間ですら、特権的な存在ではない。人間が宇宙からいなくなることと、絶滅危惧種の小動物がいなくなることは、仏教では同じ重みをもっている。この緻密な網の目が、仏教エコロジーの考え方を象徴している。
 ここには、世界を創造する神はいない。仏教のミトロジーではそのかわり、宇宙を隅々まで満たしている知性的な力(仏性)があって、それぞれの生き物はその知性的な力の『表現』になっている、と考える。宇宙そのものであるこのこの知性的な力は、それぞれの生命をつうじて、自分の一部分を表現しているから、生命の種類が豊かであればあるほど、この表現は豊かで、多彩で、力に満ちたものになる。
 こんな風に考えてみると、仏教エコロジーは、一神教エコロジーよりも、ずっと現代科学との折り合いがよいように思えてくる。現代科学そのものが、仏教エコロジーの思想に近づきはじめているからである。いまの世界で影響力をもつエコロジー思想は、一神教的なエコロジーに裏打ちされて発展をとげてきたもので、人間中心主義への強いバイアスをひめている。そういう人間中心主義を、現代科学は乗り越えようとしている。
 未来のエコロジー
 シェパードは羊の群れを、外から眺めて観察して、保護や管理のやり方を考える。羊たちがまわりの世界をどうとらえ、どう思考しているかについては、あまり関心がない。あくまでも、特権的な生き物である人間の側から、観察や管理がおこなわれる。
 これにたいして、仏教的エコロジーでは、世界は生物の内側の視点からとらえる。それぞれの生物種が、各自の生物的条件をとおして見ている『多世界』が交錯しあう場所に、環境世界はつくられている。小さな路地一つとってみても、スズメのとらえている世界のマップと、犬のとらえている世界のマップが、互いに重なり合い、連結しあいながら、複雑なネットワークをなしている。そこに人間が歩いてやってくる。人間の頭のなかでは、さまざまな想像や感情や思考がたえまなく動き続けているが、そんなことに関係なく、スズメは警戒して逃げ去り、犬は人間に一瞥をあたえて、散歩の進路を少し変化させる。小さな路地も、響き合いの宇宙である。
 人間にはほかの生物にはない取り柄があるとしたら、脳のなかにDNAや環境の条件に左右されにくい、自由な領域が広く確保されていることによって、世界に充満している知性的な力に、近づいて行くことができるからである。その知性的な力には、ほかの存在を思いやる『慈悲』の力が内蔵されている。人間はその力をほかの生き物たちに注いでいくことができる。
 仏教ミトロジーによるエコロジーでは、環境世界の特権的なシェパードではなく、生命のネットワークそのもが、主人公なのである。人間はそこで宇宙の庭師として、ネットワークの保全につくすことになる。」
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⛩20)─5・B─日本民族が世界に誇る伝統的魚食文化と正統性天皇の宮中祭祀。〜No.43 

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 日本民族の歴史において、中国や朝鮮の様に「自分一人が生きる」為に僅かな食糧・食べ物を奪う殺し合いは少なかった。
 日本にも飢餓の歴史はあったが、西洋や中華(中国や朝鮮)とは全然違っていた。
 日本人は、特別に優秀といううわけではないが、大陸で生きている人びとには見られない特殊さを持っていた。
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 賢く秀でている日本人は2割、馬鹿で愚かな日本人は3割、平凡で凡庸な日本人は5割。
 現代の日本人は、昔の日本人とは違って民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいか、ない。
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 昔の日本人は、食生活が欧米化し、飽食化、食べ物を捨てる現代の日本人とは別人である。
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 どうして和食の食材は豊富なの?~日本の自然環境 - NHK
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 ユネスコ無形文化遺産「和食」
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 砂浜海岸、リアス海岸、干潟…
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 海岸線の違いで獲れる魚が違う
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 海流がもたらす恵み
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 四季折々の山の幸
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 さまざまな気候がもたらす多様な食材
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 青森県の「雪下にんじん」
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 各地の気候に適した野菜栽培
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 果物と自然環境・地形との関係は?
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 日本の魚
 魚とともに歩んできた日本の食文化(仮訳)
 小泉武夫氏インタビュー
 2013年12月にユネスコ無形文化遺産にも登録された和食。様々な食材を繊細な感性で料理に仕上げる和食文化のなかでも、魚は特に重要な存在だ。和食と魚について幅広い知識をもつ発酵学者・食文化論者の小泉武夫氏にお話をうかがった。
――日本は魚とどのようにかかわってきたのでしょうか。
 日本は周囲を海で囲まれた海洋国家です。昔から魚を捕る機会は多く、縄文時代中期(約5000-4000年前)からすでに魚食をしていた記録が残っています。親潮黒潮の流れが小魚を沿岸近くに運び、それを追って大きな魚たちが集まってくるので、豊かな漁場が沿海に数多くありました。
 海から内陸に視線を移すと、日本は国土の中央に山脈が走っており、年間2000ミリ近い雨量があります。大量の雨は山脈で分かれて太平洋側と日本海側に多くの川を形成しながら流れ落ちます。これによって清流にアユ、ウグイなどが育ち、淡水魚にも恵まれています。さらに稲作民族なので水田のために用水池や沼があり、そこにも魚がいるという状況であり、今から100年ほど前まで日本人はほとんど肉食をせず、魚を主な動物性たんぱく源としていました。
――和食においての魚の存在はどのようなものですか。
 和食は7つの主材と1つの副材で成り立っています。主材とは根菜類、菜っ葉、青果、山菜、大豆を主とする豆類、海藻、米を主とする穀類です。これに副材である動物性たんぱく質、つまり魚・肉・卵などが加わります。
 動物性たんぱく質は体内でアミノ酸になり、スタミナ源として機能しますが、栄養面では主材の大豆の植物性たんぱく質でも十分なので、副材はなくても和食は成り立ちます。ただ、魚は動物性たんぱく質のなかでも日本人が長い歴史の中で食べ続けてきたという点で、和食文化には重要な存在です。動物への畏敬の念と愛護精神が強い日本人は、飢饉のときですら四足動物を食べなかったといわれる民族ですが、魚だけは命をいただくことへの感謝を持ち、はらわたや骨まで無駄にせず食べてきたのです。
――UMAMIが世界共通語になりつつありますが、魚は旨味文化にどのようにかかわっていますか。
 生理学的に味覚は甘い、辛い、酸っぱい、苦い、しょっぱいの五味だと長くいわれてきましたが、今ではそれに旨味が加わり六味とされています。大豆を発酵させるとタンパク質がグルタミン酸を主体とするアミノ酸に変化し、魚はタンパク質がイノシン酸主体の核酸に変化します。この2種が合わさると相乗効果で人間は何倍にも旨味を感じることがわかっています。この旨味を世界に教えたのが日本人であり、だからこそUMAMIが世界共通語になってきているのだと思います。
――日本の魚の特徴として挙げられることは何でしょうか。
 第一に、魚の種類が大変豊富であるため、「旬」に合わせてその時々でもっともおいしく、安く、栄養価がある魚を様々な調理法で楽しめるという点です。第二に、海淡水魚ともに新鮮な魚を生食する点です。第三に、魚によく合う調味料「醤油」の存在を挙げることができます。大豆を発酵させて造る醤油の旨味ほど魚に合うものはありません。
 日本では、現代の子どもは魚を好まないともいわれますが、それは小さな頃から大人がしっかりと魚を食べさせる習慣をつけないから。子どもたちが今食べているものの影響は30年後に表れます。小さいうちから魚をはじめ大豆や野菜が主体のヘルシーな和食をもっと食べさせるべきだと声を大にして言いたいです。
 RIEKO SUZUKI
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 和食普及研究会
 和食普及研究会って?
 『和食と魚』
 日本は魚食国です。魚食といえば和食、和食といえば日本固有の食文化・食生活と連想されます。
 それが、飽食の時代に入り、魚ではなく肉を食べる欧米型の食事が増えてきたようです。それに伴い今まで日本人に少なかった生活習慣病なども増えてきたのだと思います。
 新聞かなにかに、アメリカのマクガバンという人が今でいうところの生活習慣病の発生原因を世界各国の食生活との因果関係から調査して米国人の食生活が原因であるとした記事を読みました。その中で肉ばかり食べていないでもっと魚を食べようと言っています。私も賛成です。
 魚のタンパク質はアミノ酸バランスがいい!良質なタンパク源なわけです。更に、砂糖の代わりにごはんから糖質を取るようにともあります。 ごはんに魚…それって和食じゃないですか。 最近、和食、魚が見なおされてきていますが、共働きが増え家庭で調理する時間が少なくなっています。魚を料理出来ない人までいます。
 案外知られていないことですが、かまぼこって魚からできているので、魚と同じように良質なタンパク源って知ってました?!しかも、かまぼこになると脂質の量が少なく低カロリー。ダイエットにもいいらしい。
 かまぼこは切るだけで簡単に食べられますし、高タンパクで低カロリーなのですから、忙しいお母さんにもお薦めってわけですね。魚を料理出来ない人にもお薦めですね。ちょっとした工夫で魚、和食に近づけます。
 調べてみれば、かまぼこも日本の日本固有の食文化なのですね。
 身体にいい、和食、日本の固有の食文化を取り入れた食生活が増えて欲しいものですね。
 (T.S)
 和食大好きさん、集合! トップへ
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伝えよう魚食文化、見つめ直そう豊かな海 - 水産庁
 第Ⅰ章
 特集 伝えよう魚食文化、見つめ直そう豊かな海
 第1節 伝えよう、魚食文化 
(1)我が国が育んだ豊かな魚食文化
 (日本人の生活と密着した水産物
 日本人なら誰しも、魚が日本文化の中に溶け込んでいるとの印象を持っていることでしょう。お正月のお節にも、小魚を煮付けた田作りや昆布巻きなど水産物を使った総菜は不可欠です。成人式や結婚式といったお祝いには、尾頭付きの鯛が供されます。幸福をもたらすとして信仰されている七福神のうちタイを抱えた恵比寿様は、現在、商売繁盛の象徴とされていますが、もともとは漁業者が大漁を祈願した漁業の神でした。さらに、海や河川、湖は、食生活だけではなく、レクリエーションや自然との触れ合いの機会も提供してきました。このように日本では、水産物が日々の生活と密着しており、季節の節目に行われる儀式の中にも組み込まれてきたのです。
 (自然の恵みを余すことなく利用してきた、日本人の知恵)
 豊かな海に囲まれ、高い生産性を持つ汽水域や湖にも恵まれた日本人は、地域や季節に応じて多種多様な水産物を利用してきました。その歴史は古く、縄文時代貝塚からはアサリの貝殻、アジやマダイの骨が出土しています。そして、獲れた水産物の保存性を高めるとともにおいしく食べるための方法を生み出しました。塩分と乾燥によって独特の食感と濃縮された旨味を引き出した干物のほか、近海で獲れた小魚を保存する目的で生まれた練り製品は改良が重ねられ、カニ風味カマボコは、欧米においても人気の食材となっています。鰹節や昆布などはその旨味をだしとして利用するなど、自然の恵みを余すことなく利用してきました。
 (江戸に生まれ、世界に広がる「にぎりずし」)
 江戸時代には、東京湾でとれた水産物を使ってにぎりずし、天ぷら、佃煮、鰻のかば焼といった料理が誕生しました。中でも、にぎりずしは江戸のファーストフードとして誕生し、今や世界中に広まり、日本が世界に誇る魚食のひとつとなっています。
 (魚食を支える匠の技)
 にぎりずしの誕生によって、マグロを醤油に漬け込んだりコハダを塩と酢でしめるといった、すしネタの保存性を高め、魚介類の旨味を引き出すための調理方法も発達しました。
 また魚を調理する際には、用途に応じて様々な包丁を使い分けています。骨を切る時には出刃包丁を使い、刺身はその切り口によって食べた時に感じる舌触りや旨味が異なるため、その特徴を活かすように、魚に応じた工夫が刺身包丁に施されています。
 さらに魚を食べる際には、魚の骨や皮をお箸できれいに取り除く、のりを一枚だけお箸でとるなど、箸を上手に使う技術も自然と身につけてきました。
 水産物の消費が拡大するにつれて、流通業も発達してきました。東京都中央卸売市場築地市場)は、江戸時代、幕府に魚を納めた残りを漁師たちが日本橋で売り始めたことが始
まりといわれています。仲買人達はより良い魚を求めるため、魚の鮮度を目の色で判断したり、マグロの尾を切り落とし、その断面の色や脂の溶け具合で品質鑑定を行い、目利きの技が発達しました。
 こうして、仲買人やすし職人など水産物に関連した独特な技術をもつ職業が発達しました。我が国の魚食は、個別専門化した技術を持ったプロ集団がそれぞれの役割を果たすことで発達してきたのです。
 (「魚食文化」とは何か)
 日本には包丁などの道具、様々な調理法で生み出される多彩な料理、箸の使い方など、魚を食べることを中心とした、独特の「魚食文化」が存在します。
 単に魚を沢山食べるとか、食卓に魚を並べるだけでは「魚食文化」とは言えません。魚を獲る技術や処理、品質を評価する目利き、加工・保存の方法、調理道具や方法など、魚を中心とした食生活の中で受け継がれ、蓄積されてきた知恵や知識を総称する概念が「魚食文化」であると考えられます。
 次節では、「魚食文化」を支えている「魚食」の現状を明らかにします。
{コラム 世界に広がる我が国の魚食文化
 海外において日本食は、健康的、美しい、安全・安心、高級・高品質として高い評価を得ています。健康志向が高まる中、海外の日本食レストランの数は急増しており、日本の食文化を身近に体験できる機会を提供しています。
 米国には日本食レストランが約9千あるといわれ、その数は10年で2.5倍に増加しています。このうちすしをメニューとして提供するレストランは約6割も存在します。かつては生の魚を食べる習慣がなかった米国でも、すしは「Sushi」としてすっかり定着し、カリフォルニア・ロールといった新たなすしも生み出されています。
 さらにロシアも欧米の影響を受け、日本の魚食文化が伝わっています。経済発展に伴い、伝統的に食されてきたニシンやスケトウダラに加え、ティラピアアメリカナマズといった多種多様な水産物を消費するようになっています。日本の魚食文化は、その国の食文化と融合して形を変え、定着しつつあります。
 このように日本で育まれた魚食文化が世界に広がることは、食を通じた国際交流が深まるとともに、世界の食文化や食生活の豊かさに貢献するとして期待されています}
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GLOBIS 知見録
 知見録 Premium MBA/テクノベート G1/大学院セミナー キャリア/志 ダイバーシティニュース Twitter Facebook YouTubeJP / EN
 知見録トップ G1/大学院セミナー なぜ日本料理はコメ・魚が中心なのか 世界を魅了する日本の食文化 Part1/3 京都吉兆・徳岡氏×国士舘大学・原田氏×辻料理学館・辻氏×辰巳 琢郎氏
 2015.03.24 G1地域会議
 なぜ日本料理はコメ・魚が中心なのか 世界を魅了する日本の食文化 Part1/3 京都吉兆・徳岡氏×国士舘大学・原田氏×辻料理学館・辻氏×辰巳 琢郎氏
 G1地域会議2014 関西
 第7部 分科会C 「世界を魅了する日本の食文化」Part1/3
 四季折々の豊かな食材、季節の移ろいごとの室礼、うつわや作法--古代から連綿と受け継がれてきた日本の食文化は、世界の食通たちを魅了してやまない。2013年にはその文化が、ユネスコ無形文化財に登録された。各地の個性溢れる風土が育んできた食文化を継承し、日本の生活文化として発信し、次世代に託していくために、現代を生きる我々は何をするべきだろうか。日本の食のキーパーソンたちが議論する(肩書は2014年10月19日登壇当時のもの。視聴時間24分58秒)。
 辰巳 琢郎氏
 俳優
 徳岡 邦夫氏
 株式会社京都吉兆
 代表取締役社長
 総料理長
 原田 信男氏
 国士舘大学21世紀アジア学部
 教授
 辻 芳樹氏(モデレーター)
 学校法人辻料理学館 理事長
 辻調理師専門学校 校長
 【ポイント】
 〈日本の食文化について〉
・日本人の食の中心はコメと魚だが、コメと対照的ものには麦があり、同様に重要なものだった
・麦は寒冷地が適していてユーラシア大陸の北西は小麦文化。小麦文化には牧畜がつくので、牛乳と肉。それが今の西洋文化につながらる
温暖湿潤を好むのが米でアジアモンスーン地帯に発達する。日本はその極東に位置する。水が必要なので魚がいる。コメと魚はそれでセットになる
・魚を発酵させて、調味料の魚醤が生まれた。これが発展して大豆に換えてできたのが味噌
・稲作地域では魚では栄養に偏りがあるので、豚を飼う。コメ、魚、豚が一つのセットになる。日本にも豚が入ってきたが、殺すと稲作に悪影響が及ぶという信仰が影響して豚がなくなり、魚に集中することになった(以上、原田氏)
・多様性が失われる現状について。残ってきたものは、環境で必要だから継続されている。守って残っているものもあるが少数。必要だから人気だということ(徳岡氏)
 〈日本食のハイブリッド性について〉
・料理の様式は時代ごとにある。神饌料理(神に捧げる料理)、大饗料理(貴族が食べる)、ここまでは生や干物など、あまり味をつけていなかった
・次にくる精進料理がイノベーションだった。食品そのものに味をつけたのがここから。室町時代から本膳料理となり、これが今の日本料理の原型。だしをとるのもこの時期から始まった
・その後、茶の文化とむすびつき、茶の前に食べる懐石料理となり、おもてなしの工夫もはじまる
・はじめから日本料理があったのではなく、中国や朝鮮半島かなはいってきてアレンジして日本料理になった。14~15世紀からにすぎない(以上、原田氏)
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東洋経済オンライン
 外国人が驚いた日本の「魚料理」の当たり前
 魚焼きグリルや昆布を使う技術に驚嘆
阿古 真理 : 作家・生活史研究家
2019/07/19 5:30
 外国人が驚いた日本の魚料理に関する技術とは(写真:shige hattori/PIXTA
 今やすしは世界中で親しまれるようになっており、日本のすし屋にも「本場の味」を求めて外国人が殺到している。だが、例えばイタリアやギリシャなど比較的魚を多く食べる国に対して、アメリカといえばいまだに「魚より肉」というイメージが強い。そんなアメリカ人にとって、日本の魚料理や魚食文化はどう映るのだろうか。
 そんな疑問を日本の出版社から投げかけられ、自ら日本で取材して答えを出したのがジャーナリストのキャスリーン・フリン氏だ。昨年10月に来日し、築地や豊洲市場を訪れたり、自ら魚料理を学んだりして得た日本の魚文化について、自身の人生にからめて『サカナ・レッスン』にまとめた。
 実はフランスの名門料理学校を卒業しているフリン氏は、自ら料理教室を開催するなど料理の世界には明るい。が、そんなプロの料理家である同氏でさえ日本の魚料理は新たな発見の連続だったようだ。
 食事会で参加者が驚いた昆布のうまみ
 中でもフリン氏が驚いたのが、魚料理における2つの「技術」だ。1つが、料理の下ごしらえ。「脂分が多いサバの臭いを取り除くために、酢と塩を使うなんて、今まで思いつきませんでした。今はほかの脂分が多い魚にも、この方法を使うようになりました。魚に塩を振りかけて水分を抜き取り、味を引き出す下ごしらえも、すばらしい」とフリン氏は言う。
 もう1つが、肉類のだしではなく昆布のうまみを活用する技術。「とくにスープで、うま味と塩のレイヤーができる。おかげで私の料理技術も向上し、料理の材料について改めて考える機会にもなりました。昆布を魚と一緒に煮ることで、うま味を移す技術も覚えました。
 大勢を招待しこの方法で料理した魚を出したところ、食べた人たちから『この魚にある木のような香りは何?』と聞かれ、『昆布よ』と言うと、皆驚きました。西洋料理ではこのような技術は使いません。このように地球環境を守りつつ、食べものをおいしくする方法を持たないことは恥ずかしいと思いました」
 「魚焼きグリル」との出会いもフリン氏には新鮮だった。同氏は本に入れるレシピを書くために、ガスコンロに内蔵する引き出し式と、上部にふたがついた独立型の2つの日本式のグリルを購入。現在は、夫がソーセージを焼くのに愛用しているという。「完璧に茶色に焼けますし、キッチンに煙を出すこともありません。ベーコンも試しました。カリカリに焼けるのだけれど、後でグリルを洗うのが大変ですね」と笑う。
執筆に際し、シアトル公立図書館で、57冊もの英語で書かれた日本料理の本を読み込んだフリン氏。バランスよく食べるために5色の食材を組み合わせる考え方や、漬物の作り方を知り、買いすぎてしまった野菜をピクルスにするなどその知恵を生活に取り入れるようになったという。
 みりんやしょう油、米酢など日本の調味料にも興味を持ち、「数少ない調味料で、合わせ方によってバラエティー豊かな料理ができるのはとても興味深い」と語る。そんなフリン氏がとくに気に入ったのがみそだ。
 「以前、すしを食べたときの献立で気に入っていたのが、みそ汁でした。そこから私は夢中になって10種類ものみそを買いました。今でもみそを数種類冷蔵庫にストックし、スパゲティソースなど、何にでも入れて料理しています」
 日本人には魚に対する敬意がある
 日本人と魚の「親しみ方」にも驚くポイントがあったという。
 「日本ではたくさんの魚がちゃんと消費されています。私は取材で魚のさばき方を学んだ東京すしアカデミーでヒラメの肝臓を食べさせてもらい、とてもおいしくて感動しました。魚になじんで育った私ですら、肝臓を食べることは思いもよらなかったからです。
 また、魚をどのように獲り、締めて新鮮さを保つかについて、とてもよく考えられていることに感動しました。それは、魚に対する敬意だと思う。アメリカの水産企業では、新鮮さを保つことが必須とされていないのです」
 フリン氏が、日本の魚食文化を「敬意を払うべき完璧さ」があると考えるのは、日本の歴史や、すし経済と歴史をたくさん調べたからだ。
 「アメリカには200年しか歴史がありません。なので、日本でとてもたくさんの固有の歴史があることに驚いたのです。私はフランスにも住んだことがあるので、やはり固有の歴史を持つフランスと比べることが、日本の歴史を理解する助けになりました。日本の歴史を読めば読むほど、その文化がどこから来たのかがわかり、魚食文化についても、よく理解するのに役立ちました」と話す。
 フリン氏が日本の魚食文化に感銘を受けたのは、日本とは大きく違うアメリカの魚食文化があるためかもしれない。先祖がスウェーデン人だというフリン氏自身は、子どもの頃から魚料理が好きだったというが、一般のアメリカ人にとって魚料理に親しみを持っている人はあまり多くないのだ。
 「魚にはとてもたくさんたんぱく質が含まれ、野菜的な要素と多少のデンプン質もあります。イギリスでは肉であり、2つの野菜でもあると言います。しかし、アメリカで魚は“皿に載った小さな一切れ”にすぎないことが多い。そこにアメリカ人の考え方が表れていると思います」
 「アメリカでは、魚と言えばフライと考えている人も少なくない。それは子どもの頃からフライを食べて育ってきたことにも問題があると思います。私の両親は釣りをして、それを料理しました。切り身を食べて育ったので、フライは奇妙な食べ方だと思っていました。しかし、私の夫のマイクはフライを食べて育ち、それが魚料理だと思っていたのです」
 だが、夫は取材来日を機に、苦手だった生魚のすしを食べるように。世界中で食べられているすしをマイク氏が苦手だった理由は、日本以外では冷凍魚をよく使うからではないかと話す。「今では少し高くても、質の高いすしを食べるようにしています。シアトルではそれが可能ですから」。
 魚を食べ慣れていないことの“弊害”
 とはいえ、すしが身近になったからといって、アメリカ人が魚を好むようになったとは言えない、とフリン氏は話す。
 「人々は今でも、3、4種類の魚しか食べていません。スーパーには、鮭、ティラピアなど7、8種類しか置いていないのです。その魚には香りがありません。多くのアメリカ人にとってそれは、単に鶏の胸肉のように白くておいしくない『たんぱく源』にすぎないのです。たまにマスを見つけることはできますが、それもめったにない。だから多くのアメリカ人は魚を食べないのです」
 前作や『世界一受けたい授業』(日本テレビ)に出演したことで、日本にもファンが多いフリン氏。今回のプロジェクトでも多くの日本ファンからコメントが寄せられたという(撮影:梅谷秀次)
 魚を食べ慣れていないことによる“弊害”もある。「多くの人はメロを好んで食べますが、レストランで注文するとき、それがどこで獲れたものなのかまでは誰も気にしていません。
 チェーンの安いレストランでは、お皿いっぱいに魚を出しているけれど、人々はその半分も食べないで、残りは捨てられてしまう。そういう光景を見ると胸が痛みます。メディアなどで取り上げられてはいるけれど、アメリカ人にとって食品ロスは関心のない話なのだと」。
 今回の企画に際し、フリン氏は手はじめにSNSで魚食についての調査を行っている。すると1日で400人、最終的には1100人からコメントが寄せられ、魚食に関する問題には関心が高いが、混乱している人が多いと感じたという。なぜなら、魚は高たんぱく低脂質とヘルシーな一方で、世界的に乱獲が問題になっているからだ。
中でもシアトルなど西海岸の人たちは意識が高く、「乱獲を防ぐためには、養殖の魚を食べればいいの? でも、それも体に悪いと聞いているし、何を食べるのが正しいのかわからない」「サケを食べるたびに、(それをエサとしている)シャチを殺しているのではないかと心配になる」という声が寄せられたという。
 対して、フリン氏も住んでいた内陸の中西部は「悪い状態の魚はすべて捨てられてしまうことで有名」なほど、魚慣れしていない。「スーパーで魚を買ってきたけど、家に帰ってきたらなんか臭う気がする。家がくさくなるから捨ててしまった……という経験からちゃんとした魚を選んだり、調理したりする自信をなくしてしまっている人が少なくないのです」(フリン氏)。
 丸ごと買えば生きものだったことを意識できる
 では、より魚とうまく付き合うにはどうしたらいいのか。1つは、乱獲の現状を知り、意識を高めることだろう。フリン氏はこれについて規模の巨大さで知られるアメリカのモントレーベイ水族館にメール取材を行っており、「魚介類の観察」というプログラムがあると回答を得た。「この魚は『青信号』なので好きなだけ食べられます。この魚は『黄信号』なので食べるときは注意が必要。この魚は『赤信号』で、乱獲されているので食べるのを避けたほうがよいでしょう」といった表示をしているのだそうだ。
 『サカナ・レッスン』(書影をクリックするとアマゾンのサイトへジャンプします)
また、フリン氏自身は料理を教える際、「例えば鶏を丸ごと買うことをすすめています」と話す。「そうすると、これがもともと生き物だったと意識できるうえに、低コストだからです。魚や動物、たんぱく質について、考えを改めてもらわなければいけないと思います」。
 フリン氏は、魚大国の日本の食文化の奥深さを、外からの目で教えてくれた。塩であらかじめ水分を抜くことで臭みを抜き、味を引き出す基本や、たいていのキッチンにあり、塩焼きの魚をパリッと塩焼きにする魚焼きグリルは、独自の積み重ねで生まれた知恵だったのである。
 しかし同時に、日本は諸外国に比べて漁獲制限が進んでいないという指摘もある国だ。漁業者の高齢化が進み、将来の漁業が安泰とは言えない状態でもある。
 食べる側の消費量も減少傾向にあり、農林水産省の調査によると、消費量のピークだった1988年に比べ、2016年には6割強まで減っている。FAO(国連食糧農業機関)の調査でも、2005年まで年間1人当たりの魚介類の消費量世界一だったのが、2013年には7位にまで転落している。
 今や魚は肉より割高なたんぱく源であり、買い置きしづらい食材であることもあって、仕事を持つ忙しい人が敬遠しがちになっている。誇りを持つべき文化が衰退する危険にさらされていることに対し、私たちも意識的になる必要があるのではないだろうか。
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 Kathleen Flinn/作家、ジャーナリスト、料理家、IACP(国際料理専門家協会)理事。マイクロソフト勤務などを経て、渡仏。2005 年に37 歳でフランスのル・コルドン・ブルーを卒業後、アメリカに帰国。2007 年、『36 歳、名門料理学校に飛び込む!』が、ニューヨークタイムズ紙のベストセラーに選ばれる。2017 年、『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』が日本でベストセラーに(撮影:梅谷秀次)
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⛩20)─5・A─和食の魚食文化はアフリカのホモ・サピエンスの魚食に繋がっている。〜No.43 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 魚食ホモ・サピエンスにとって、魚介類の種類と数量が豊富な日本近海は理想的な漁場で、日本列島の山野でも食べられる動物や植物も溢れていて、命を賭けて食べ物を奪い合う競争相手は少なく、弱肉強食の頂点に立つ大型捕食獣はクマ以外になく、日本は安心・安全な天国の様な「神の島」であった。 
 ゆえに、魚食文化とは惟神の道である。
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 日本民族の伝統的和食・日本料理は、揚子江流域=南中国(長江文明)、東南アジア、南アジアなどの海洋を経由してアフリカのホモ・サピエンスの魚食に繋がっている。
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 日本の魚食文化のルーツは、朝鮮、黄河流域=北中国(黄河文明)、シベリアなどの北東アジアやバイカル湖中央アジアなどの草原大陸にはない。
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 2021年2月25日号 週刊文春「文春図書館
 私の読書日記   
 鹿島茂
 ホモ・サピエンスと魚食
 ×月×日 世界的ベスト・セラーになったユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』のバンド・デシネ(漫画)化がフランスで進んでいるという話は聞いていたが、こんなに早く日本語版『漫画サピエンス全史 人類の誕生編』(原案・脚本ユヴァル・ノア・ハラリ 脚本ダヴィッド・ヴァンデルムーレン 漫画ダニエル・カザナヴ 安原和見訳 河出書房新社 1,900円+税)が出るとは思わなかった。ただし、『ハラリ原案・脚本』とあるように、原書に基づいたメタ物語化といったほうがいい。つまり『サピエンス全史』の内容をハラリ自身が、ときに姪のゾーイに向かって語ったり、生物学者のサラスワティ先生の教室を訪ねたり、あるいは『先史時代人ビル』というバンド・デシネを劇中劇として用いたりして、ナラティブを多角化しているのだ。とくに興味深いのは、原作の核に当たる《認知革命》を図解するのに、アフリカ系のスーパーウーマン『虚構博士(ドクター・フィクション)』が宇宙から飛来して解説を加えるところだ。
 『サピエンスが世界を支配してるのは、自分で生み出した虚構を信じるなんて、そんな動物がほかにいないよ』『みんなが同じ虚構を信じていれば、同じ規則に従うことができるわけ』。たしかにこのように図解されると、国家、宗教、金銭、法人も『虚構』であると理解できるような気がする。
 では、その『虚構』をホモ・サピエンスがどうやって作り出したのか?この根源的疑問についてハラリは原書と同じく『たまたま遺伝子の変異が起こって、脳の配線が変わったんだろね』と答えるだけで、『科学ではわからないと認めほうがいいんですよ。虚構を作り出すより』と科学者らしい態度に終始している。
 私のような漫画リテラシーに乏しいオールド・ジェネレーションにはけっこう読むのに時間がかかるが、若い人には読みやすいかもしれない。卒業・入学おお祝いに最適である。。
 ×月×日 『サピエンス全史』の冒頭に掲げられた歴史年表では250年前にアフリカでホモ(ヒト)属が進化して200万年前にアフリカを出てユーラシア大陸に広がったのが第一段階で、第二段階は20万年前に東アフリカで進化したホモ・サピエンスが7年前に認知革命を起こしてユーラシアに進出したという大まかな見取り図が示されるが、これに異を唱えるのがニホンザルの研究者として知られる島泰三の『魚食の人類史 出アフリカから日本列島へ』(NHKブックス 1,400円+税)。
 筆者が注目するのは霊長類が魚を食べる例はごくまれであるのに対し、人類の元祖であるホモ・エレクツスはトゥルカナ湖の遺跡から魚を食べていたことが確認されていること。この魚食がDHAやEPAを増加させ、ホモ・エレクツスの脳容量を拡大させたのではないかというのが第一の仮説である。
 第二の仮説は、ホモ・エレクツスの後裔であるネアンデルタール人についてのもの。ネアンデルタール人は大型草食獣はおろかライオンなどまで投げ槍を使わずに捕獲する『陸の王者』だったが、魚を食べていた痕跡がほとんどない。著者はこうした食生活がネアンデルタール人絶滅の原因ではなかったかと推測する。すなわち、ネアンデルタール人は魚食をしていなかったため、最終氷期の寒冷化による大型獣の減少で絶滅したのだと。
 これに対してホモ・サピエンスは肉食のほかに魚食も行っていたおかげで最終氷期も生き延びることができたのだ。これが第三の仮説である。ホモ・サピエンスのサバイバルは動物の中で唯一魚好きのヒグマのそれとパラレルな関係にあるという。
 『ホモ・サピエンスの食性はヒグマと似ているが、ヨーロッパで最終氷期を生き残った大型食肉獣はそのヒグマだけで、これを「ベアーケース」と呼ぶ(注略)。そして、そのクマとほとんど同じ食性をもつホモ・サピエンスもまた最終氷期を生き残ることができた』
 では、クマと似たホモ・サピエンスの食性はどれくらい遡るのか?しかし、その前にホモ・サピエンスの起源を探らなければならないが、最近の研究ではホモ・サピエンスの誕生はハラリの想定している20万年前よりもはるかに古く、35万年前に遡るらしい。居住地域もアフリカ全域だったと考えられるが、だとすると、ホモ・サピエンスはホモ・エレクツスと重なる時代に生き、生活地域も重複していたことになる。にもかかわず、ホモ・サピエンスが競合に勝ち抜いてサバイバルできたのは、これまた魚食のおかげだったのだ。つまり、ワニを主食としていたホモ・エレクツスと異なり、ホモ・サピエンスが魚食に特化したことがサバイバルを導いたのである。
 『華奢(きゃしゃ)であったホモ・サピエンスは、体格では太刀打ちできないホモ・エレクツスたちにワニ猟や大型哺乳類の狩猟を任せ、自分たちはより安全な小型獣や鳥類、そしてもっとも安全な魚介類を主食とする方向に進んでいったのではなかったか』
 この第四の仮説を支えるのは19万年前のエチオピア南部オモ河の遺跡で、そこではじつは多様な魚の骨が発掘されているのだ。
 『少なくとも、ホモ・サピエンスがことさら水辺や水中を好んだことはわかる。ホモ・エレクツスのように重い構造の骨や筋肉の塊のような体では難しかっただろうが、華奢な身体であれば泳ぐことは可能だ』
 ホモ・サピエンスが裸であることもこれで説明がつく。ただし裸という不利を逆に生かすように適応が行われたと考えたほうがよい。
 『ホモ・サピエンスは、ダーウィン流の淘汰による最適者の保存を行う保守的「進化」というよい、華奢な骨格や裸の皮膚という不適応形質を乗り越えるための不断の苦闘を経て、水辺の生活と魚食というホモ・エレクツスやネアンデルタール人と競合しない新ニッチの創出に至ったと考えるべきである』
 このように、魚食と水辺生活がホモ・サピエンスのサバイバルの原因という観点に立てば、7万年前のホモ・サピエンスのアフリカからの脱出も見事に説明できるのである。
 『スマトラ島のトバ大噴火と同期する7万年前から始まり最終氷期に、アフリカの気候は激変し、大地溝帯ヴィクトリア湖タンガニーカ湖周辺さえも乾燥地帯となった』
 乾燥で魚が採れなくなったアフリカの環境はヨーロッパよりも厳しかったが、唯一、紅海(こうかい)につながるエチオピア高原の熱帯棘藪林がこれを免れていた。つまり、7万年前にホモ・サピエンスは魚を求めてエチオピア高原から紅海へと逃れ、そこからユーラシア大陸の海岸沿いに拡散を開始したにちがいない。
 ここでユヴァル・ノア・ハラリの7万年の認知革命説への疑問が呈(てい)されることになる。
 ハラリはホモ・サピエンスオーストラリア大陸は4万5000年前というが、スティーヴン・オッペンハイマーによるとそれは6万5000年前まで遡るという。
 『つまりホモ・サピエンスニューギニアとオーストラリアへの進出は、東アジアへの進出と同じほど古かったはずである。ハラリのいう「認知革命」がこの時代に本当に起こったかどうかはここでは問わない。だが、このことは少なくとも彼らがすでに舟か遠洋航海用の筏を知っていたことを意味している』
 ホモ・サピエンスはほとんど無限に存在する魚に魅せられて筏や丸木舟で大洋に乗り出したのだ。
 『これらの海上移動手段の開発によって、人類はそれ以前にはとうてい到達できなかった未知の大陸や島々への道を切り拓いたのである』
 ハラリの認知革命説も魚食がホモ・サピエンスのDHAやEPAを増加させたと考えれば島泰三に接続可能ではなかろうか?」
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魚食の人類史 NHKブックス
漫画 サピエンス全史 人類の誕生編
サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福
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 生物界における生存の大原則は、競争相手が嫌って食べない物を食べ、競争相手が嫌がって住まない所に住む事である。
 同じ所に住んで同じ食べ物を食べる時、力強い者が独り占めし、非力な弱い者はそのお零れにあずかるしか生きられない。
 つまり、弱者が生き残る術は「ニッチ」戦略として、痩せ衰えた不毛に近い土地に逃げ、乏しくまずい食べ物を僅かに食べて命を繋ぐ事である。
 ニッチ戦略は、征服者・遠征者、冒険者・開拓者のフロンティア・スピリットではない。
 弱者・敗者が生きる上で大事な事は、「自分は負け犬」と卑下し卑屈になる事ではなく、「自分は弱い」と自覚し「死中に活を求める」行動に出る事である。
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 日本列島に流れ着いた日本民族とは、強者ではなく弱者であった。
 日本食における多様性とは、弱者が生き残る為に選び抜いた食材である。
 それ故に、和食文化は敗者・弱者の食事として、欧米や中華(中国)の勝者・強者・王者を饗応する豪華絢爛とした食事に比べて見劣りするほど貧乏臭い。
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🌏41)─4─札幌神社(現・北海道神宮)は日本を護る「神の盾」である。〜No.133No.134 * ⑦ 

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 札幌神社は、国家神道として明治2(1869)年に創建された新しい神社であった。
 札幌神社とは、北海道(アイヌ人の土地)入植和人を加護する為の開拓神社であり、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略を神の力で粉砕する尊皇攘夷神社であった。
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 札幌神社は別名・北海道神社で、現代では明治天皇を合祀して北海道神宮と改称された。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力そして宗教力が乏しいか、歴史嫌い・宗教嫌いから全くない。
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 2021年9月23日 MicrosoftNews ダイヤモンド・オンライン「北海道在住なら一度は行っておきたい北海道一の神社
 © ダイヤモンド・オンライン 提供 Photo: Adobe Stock
 私たちの生活には、いろいろなところで神様の存在を感じられることがあります。身近なところでは、「初詣」。受験生なら「合格祈願」。ビジネスパーソンなら「商売繁盛」。名だたる経営者も、日本の歴史をつくった戦国大名や歴代天皇も、神様を信仰し、力を借りて成功を収めてきました。漫画やゲームのキャラクター名でつかわれていることもあります。もしかしたら、ヒットの要因は、神様のご利益かもしれませんね。
 日本には、八百万(やおよろず)の神様がいると言われています。膨大な神様の中から100項目にわたって紹介する新刊『最強の神様100』には、古代から現代まで、めちゃくちゃ力のある神様が登場します。最強クラスの神様なので、ご利益も多種多様。
 今回紹介する神様はオオナムチ・スクナビコナのコンビです。オオナムチは出雲大社に祭られている神様オオクニヌシの別名であり、スクナビコナ一寸法師のモデルとなったといわれています。北海道開拓の守護神でもあり、北海道在住なら一度はご参拝ください。
 日本国をつくった凸凹コンビ
 日本の国づくりの神といえば、オオナムチ(大己貴・大那牟遅)と小人神スクナビコナ(少彦名)の大小コンビです。スクナビコナカミムスビの子で、一寸法師のモデルとしても知られます。日本書紀などによれば、両神は全国を回り、人間と動物の医療、農業における鳥獣害・虫害対策、温泉治療、酒造りなどを伝え、国の基礎を築きました。医薬品業界や酒類業界からの信仰は現代でも篤いものがあります。
 オオナムチはオオクニヌシの別名。それをまた紹介するのは、オオクニヌシはいろいろな神様が合わさってできているようだからです。
 オオナムチの名は、スクナビコナとのコンビで、多くの文献・伝承にて語られています。「大+ナ」「少+ナ」と明らかにセットで、国づくりの神はこの大小コンビなのでしょう。
 もし「経営の神様」を選ぶなら、オオナムチ・スクナビコナでしょう。日本書紀によると、両神は心をひとつに力を合わせて「経営天下」、つまり天下を経営しました。国づくりとは天下をつくることで、両神は経営者のお手本です。それだけに歴代の天下人は、両神を篤く信仰しています。
 私が神社を「仕事」としてお伝えするようになったのは、両神を含む開拓三神明治天皇を祭る札幌市の北海道神宮がスタート。それまではただ趣味で神社が好きなだけでしたが、突然パワースポットの旅行ガイド制作の依頼がきて、「北から順に書こう」と参拝したのです。両神は、北海道開拓の守護神で、「始めたことを形にする」「事業を発展させる」ご利益があります。私の神社関係の仕事も、おかげさまで発展しました。
 他に両神を祭るのは、茨城県ひたちなか市の酒列磯前(さかつらいそさき)神社、東京都千代田区神田神社神田明神)、和歌山市淡嶋神社などがあります。事業発展や、長所を伸ばし、欠点をカバーする、そんなお互いを補い合える人間関係のご利益を期待できるでしょう。
 【主なご利益】商売繁盛、身体健全、立身出世
 【こんな人にオススメ!】
 起業家や経営者、何か事業を起こした人
 *本原稿は、八木龍平著『最強の神様100』からの抜粋し、再編集したものです。
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 日本の歴史における北海道は、江戸時代からはじまる。
 日本・徳川幕府とロシアの蝦夷地・北方領土を巡る対立は地球規模の世界史的意味があった。
 日本の戦争は、祖国防衛の積極的自衛戦争であった。
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 徳川幕府は、1800年代後半からロシアを日本を侵略してくる敵と認識し、日本を防衛する為に蝦夷地(北海道)と北方領土を国防の最前線として軍隊を配備していた。
 水戸藩吉田松陰宮部鼎蔵尊皇攘夷派・勤皇派は、野蛮な夷狄の軍事侵略と日本人を奴隷にした非人道的キリスト教の宗教侵略から天皇・神国を守るべく北へ走っていた。
 つまり、攘夷の敵は、アヘン戦争に勝利したイギリスやアメリカなどの西洋ではなくロシアとキリスト教であった。それ故にオランダを通じてキリスト教抜きの西洋を受け入れていた。
 日本側の最大の懸念は、日本とロシアの間で生活する数万人~十数万人のアイヌ人(アイヌ民族)の動静であった。
 ロシアはアイヌ人を野蛮な人間以下の獣と認識し、千島列島を戦場にする為にアイヌ人達は邪魔者と判断し、千島列島に住んでいたアイヌ人達をカムチャッカ半島強制移住させて無人の島にかえた。
 ロシアが千島列島を南下したのはラッコ猟による高価な毛皮を収穫する為であったので、ラッコがいない樺太には興味がなかった。
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 当時のロシアが国家的最重要な課題としていたのは、アラスカ開発と北米大陸の植民地化で日本をその為の補給基地・軍事基地にする事であった。
 ゆえに、ロシアはアジア・中国への侵略には消極的で、日本へは水・少量・資材確保の交易が目的であって不凍港を求めての南下ではなかった。
 結果的に、ロシアのアラスカ開発と北米大陸の植民地化という国家計画は、徳川幕府の頑迷な拒絶で失敗してアラスカを失った為に、アジア・中国への侵略に本腰を入れ軍隊を派遣した。
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 日露戦争は避けられない戦争であった。
 日露戦争は避けられた戦争であったと主張する現代日本人には歴史力がなく歴史が理解できない為、彼らの話を真に受けて聞くとさらに無能・バカになる。
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 北海道神宮社務所
 所謂的神道(中国語翻訳)
 神道は自然の信仰に由来するので、「人間と神との共存は従うべき道」と言えます。古代人は、人間の知性が理解できる存在(御魂)を超えて神として崇拝しました。そして、神々の存在は、日本のことわざ「八百万の神」で述べたように、非常に多く存在します。神社の原型は、神宮の「御魂」が存在する聖域と俗世を区別するために作られています。
 所謂的神社
 神社では自然神と人間神を祭る。神社の特徴は、中庭の入り口に鳥居(境内)があり、聖職者や魔女(神社で聖職に従事する未婚の女性)がいます。比較的、寺院では仏像が奉献されていますが、仏教の伝来から江戸時代まで、神仏が調和し、2つの信仰が混じり合った時期なので、一部の寺院には「鳥居」があります。
 日本人の生活、文化、神社の間には密接な関係があります。
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 ウィキペディア
 北海道の神社の歴史
 本項では北海道の神社、神社行政について、主に歴史的な観点から概説する。
 明治の神仏分離以前は神道と仏教は混淆しており、古い寺社について仏寺と神社を明確に弁別することはできない。例えば現在は厳島神社と称する神社の多くは、仏教的な弁天堂や弁天社と呼ばれていた。後述する脇澤山神社の鰐口には弥陀信仰の銘が刻まれている。
 ここでは神仏分離後に神社として存立したものを神社とみなし、神仏分離以前のものについても「神社」と表現する。
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 北海道神宮は、北海道札幌市中央区にある神社(神宮)。円山公園に隣接する。1964年(昭和39年)までは札幌神社。旧官幣大社であり、現在は神社本庁別表神社。また、全国一の宮会より蝦夷国一の宮に認定されている。
 概要
 北海道の開拓当時樺太・千島に進出を進めていたロシア帝国に対する守りということで、大鳥居が北東を向いている。末社である開拓神社には間宮林蔵などの北海道開拓の功労者が数多く祀られている。
 北海道神宮崇敬奉賛会がある。
 『北の志づめ』という小冊子が社務所から発行されている。
 祭神
 大国魂神(おおくにたまのかみ)
 大那牟遅神(おおなむちのかみ、大国主命〈おおくにぬしのみこと〉の別名)
 少彦名神(すくなひこなのかみ)
 明治天皇(めいじてんのう)
 開拓三神
 北海道の開拓は明治初年から懸案事項となっていたが、開拓にあたって、明治天皇は北海道鎮護の神を祭祀するよう勅を発した(明治2年9月21日)。北海道開拓の守護神として、大国魂神・大那牟遅神少彦名神開拓三神が奉遷されることになった。北海道鎮座神祭が行われ、開拓長官の東久世通禧以下23名らが参列した。神祇伯中山忠能によって祭祀が行われ、三面の神鏡が東久世通禧に託された。
 仮社建設まで
 これより古く、安政4年(1857年)から福島出身の早山清太郎が札幌に住み着いていた。早山清太郎は豊平街道と元村街道の辻に小祠を建て、周囲からは当時一般的な山神を祀るべきだと言われるにもかかわらず、出雲神を祀っていた。
 札幌に着任した島義勇は、明治天皇から預かった開拓三神を既に早山清太郎が札幌で祀っていたことに感銘を受け、1870年(明治3年)5月に北海道 (令制)石狩国札幌郡創成川河畔に仮社殿を造り、官舎から神代を移して開拓神勅祭社とし、北海道一宮と称した。
 札幌神社の成立
 1871年明治4年)6月14日に勅旨によって札幌神社と命名され、国幣小社に列せられた[8][4]。当時の東久世通禧の日誌によると、明治天皇の勅命によって奉斎されたことから、札幌神社は勅祭社と同様の扱いとされた。
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 明治天皇は、北海道の開拓と守護の為に出雲系神(大国魂神、大国主命、少彦名)を奉遷した。 
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 現代日本歴史教育は、ロシアの日本侵略と蝦夷地、北方領土アイヌ人を現実・事実に基づいて正しく評価していない。
 それどころか、アイヌ人を日本民族とは血の繋がらない別種の先住民族とし、アイヌ人の目線から和人(日本国・日本民族)を侵略者・犯罪者と子供達に教えている。
 悪いのは加害者である日本国と日本人で、アイヌ人は良い人・善人で被害者である、と。
 その象徴が、明治2(1869)年に北海道開拓の鎭守として創建された札幌神社である。
 昭和39(1964)年に、昭和天皇は、北海道開拓を勅許した明治天皇を合祀して北海道神宮に改称した。
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 天皇家・皇室にとって、南の沖縄と北の北海道・北方領土4島には重要な意味がある。
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 北海道と北方領土4島を日本国土としてロシアから死守する為には、土地勘のあるアイヌ人を味方にする事が絶対条件であった。
 それは、南の沖縄でも同じ事で、琉球人が敵に味方して日本を攻撃してくれば沖縄は奪われた。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人には、北方領土4島全島を取りもどそうという本気度は少なく、2島だけでも構わないという妥協案を抱く日本人さえ存在する。
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 日本の近代化は、北から侵略してくるロシアから日本国・日本民族そして日本天皇を軍事力で防衛する為の国家改革であった。
 ロシア軍の物理的侵略を撃退する為に、東北諸藩の派遣兵士に替えて旧武士団の屯田兵及び庶民志願者の開拓団を蝦夷地・北方領土に送り込んで半永久の防禦陣地を築いた。
 日本の屯田兵・開拓団は、北米大陸やオーストラリアなどへの先住民からの国土強奪目的移民ではなかった。
 ただし、先住民であったアイヌ人が日本と共にロシアと戦ってくれるのか、ロシアの味方して日本を攻撃するか、それが判断できなかった。
 キリスト教ロシア正教)の精神的侵略を撃退する為に、国家神道として札幌神社を創建し、屯田兵・開拓団らの地域神社創建を促した。
   ・   ・   ・   
 アイヌ人にとって、日本政府の蝦夷地開拓と国土防衛は生活圏を侵害する犯罪行為であった。
 明治新政府は、ロシアの侵略に備えて、アイヌ人に対する土人保護法を制定した。
   ・   ・   ・   
 徳川幕府や当時の日本人がキリスト教を怖れ嫌ったのは、中世キリスト教会が白人キリスト教徒商人の日本人奴隷交易を仲介して布教活動費を稼いでいたからである。
 それ故に、ロシアとキリスト教に対する尊皇攘夷運動が下級武士や庶民(百姓や町人)・賤民・部落民・芸能の民など貧しい下層民の間に広がり、彼らが天皇崇拝の狂信的な尊皇派・勤皇派となり祖国防衛戦争を訴えた。
 幕府・大名・上級武士、豪農・豪商らは、日本を崩壊させる対ロシア戦争の原因となる尊皇攘夷運動には反対もしくは消極的であった。
 開国派の井伊直弼は、対外戦争を防ぐ為に、安政の大獄天皇を担ぎ出そうとした尊皇攘夷派を弾圧した。
   ・   ・   ・   
 明治維新戊辰戦争は、ロシアの侵略に対する日本防衛選択戦争であった。
 佐幕派は、徳川将軍家を中心とした地方分権の諸大名連合体制国家を目指していた。
 倒幕派は、近代天皇を中心とした挙国一致の中央集権体制国家を目指した。
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 日本が教訓とすべきは、清国の中国ではなくムガル帝国のインドであった。
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 明治新政府は、日露戦争において軍国主義中央集権体制と国民軍=日本軍は戦力差のあるロシアの大軍と一ヵ国で孤独に戦い、苦しい戦争の末、夥し犠牲者を出しながら辛勝(しんしょう)し、ロシアの侵略から日本を守った。
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見方によっては狂信的な尊皇派・勤皇派は天皇主義テロリストであったが、だが、世界の、現代の宗教テロリストと違っていたし、共産主義イデオロギー革命家とも違っていた。
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 江戸時代後期。ロシアは、極東アジアに領土を広げ新たな植民地を獲得し、太平洋へ侵出するべく日本に侵略してきた。
 徳川幕府は、ロシアの侵略から日本を守る為に、東北諸藩に蝦夷地と北方領土樺太南部への派兵を命じた。
 ロシアは、ナポレオン防衛戦争とオスマン・トルコ侵略戦争に主力軍隊を派遣していて日本侵略に差し向ける軍隊がなかった。
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 反日派・敵日派の清国(中国)と李氏朝鮮は、極秘にロシアの日本侵略に賛同し協力していた。
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💖16)─1─足軽出身の堀口九萬一公使はメキシコ・クーデターで大統領一家を助けた。大正2(1913)年〜No.62 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 明治・大正で世界的に活躍した政治家・軍人・官僚そして学者の多くが、地方の身分が低い家柄の出身で、子沢山の貧し家庭で厳しく育てられ、世襲に無縁で、親の七光りはなく、自分の学力と能力で実績を積み、時代の必然・場の幸運・人の偶然に恵まれてのし上がっていった。
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 2021年10月3日号 サンデー毎日「これは、アレだな  高橋源一郎
 お(祖)父さんは総理大臣
 ……
 『狼の義』(林新・堀川恵子 角川書店)は、犬養毅の伝記本だが、その中で評論家大宅壮一は『明治の政治的性格は、初期にさかのぼるほど、かえってよりリベラルであった』として、犬養毅大隈重信原敬高橋是清らの名をあげている。明治から戦前にかけて、実は、ある意味で現代よりも、原書を読み海外の事情を深く知り、海外に知己も多い政治家がたくさんいたのである。犬養毅が、亡命中の『中国建国の父』孫文の世話をしたことは有名だ。」
 伊藤博文は、英語が話せる事と交渉能力が高い事が認められて総理大臣になった。
 伊藤博文は、林十蔵の長男として生まれた。
 貧しい小作人であった林十蔵は、縁あって足軽の伊藤家に養子に入り、伊藤博文も伊藤家に家族として迎え入れられた。
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 ウィキペディア
 堀口 九萬一(ほりぐち くまいち、1865年2月23日(元治2年1月28日) - 1945年(昭和20年)10月30日)は日本の外交官、漢詩人、随筆家。号は長城。詩人、堀口大學の父として知られる。
 来歴・人物
 越後長岡藩足軽の子として生まれる。彼が3歳の時、戊辰戦争で父は戦死。
 秀才として知られ、18歳のとき地元長岡の学校で校長となる。上京後、東京帝国大学法科大学に最優秀の成績で入学、在学中の1892年に息子が誕生。後の詩人堀口大學である。その翌年に卒業した。
 1894年、日本初の外交官及領事官試験に合格。外務省領事官補として朝鮮の仁川に赴任中、1895年、閔妃暗殺に際して、朝鮮の大院君に日本側から決起を促した廉で停職処分を受ける。翌1896年に復職するも、外交官としては陽の当たらない道を進むことを余儀なくされた。1898年に公使館三等書記官に任ぜられる。

 太平洋戦争(大東亜戦争)中には「アングロサクソンの残忍性」「今度は米国は負ける」など戦意高揚の文章を書いている。敗戦直後の1945年10月に死去。
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 2021年9月16日号 週刊新潮「変見自在  高山正之
 自国軍が欲しい
 日本人はともかく、どの国も隣の国が安定、繁栄するのを好まない。
 米国も然りで19世紀、メキシコ大使にジョエル・ポインセットを任命した。
 任務は反政府勢力を育て、内乱を起こさせること。
 しかしあと一歩というところで陰謀がバレた。
 ポインセットに与(くみ)した者は処刑され、彼も這々(ほうほう)の体で逃げ出した。お土産はクリスマスの頃に葉っぱが赤く染まる野辺の花だった。
 それは米国で大いに流行って、彼に因んでポインセチアと名付けられた。
 彼の後任大使も内乱誘発を心掛けた。彼から数代後のヘンリー・ウイルソン大使がとうとうウエルタ将軍を唆(そそのか)してクーデターをやらかせ、成功した。
 大統領のマデロは殺され、夫人と子供にも処刑部隊が差し向けられた。
 夫人は日本公使堀口九萬一を頼り、堀口は随員らも含めて保護した。
 部隊が公使館を取り囲むと堀口は入り口の床に日の丸を広げて大音声した。
 『日本と戦争する覚悟で我を倒し、日の丸を踏んで乱入するがいい』
 部隊はその気迫に押されて退散した。
 堀口はウエルタに会って夫人らを亡命先に送り出すことも認めさせた。
 当時の日本は最強の露西亜陸軍を壊滅させ、不沈とされた露の装甲戦艦12隻をすべて沈めた驚異の強国として知られていた。
 戦争は他の手段で行う政治の一形態だと言われる。外交はその最先端での政治行為に外ならない。
 ウエルタは九萬一の気迫に加えて彼の後ろに透けて見える『強い日本』に十分気圧(けお)された。
 『セニョール、何の文句がありましょうや』
 しかし外交官の後ろ盾になってきた大日本帝国陸海軍は戦後、マッカーサー憲法によって廃棄された。
 外交官には気迫しか残さなかったが、GHQによって首相になった幣原喜重郎は『外交は軟弱に限る』を新路線とした。
 この男はワシントン会議で米国に日英同盟を切れと言われると、国益より国際協調とか言って応じた。
 『外交は白人様の言う通り。争わず、譲歩する』がモットーだった。
 かくて戦後外交は気迫も要らなくなった。
 それが見える形になったのが三島割腹事件の後に起きた日本赤軍パレスチナゲリラPFLPのシンガポール襲撃事件だった。
 爆弾を投げ、現地人5人を人質に魚本藤吉郎大使が人質解放を交渉した。
 『ならアンタが身代わりになれば』と言われた。
 前によど号事件があった。日航機をハイジャックした日本赤軍に運輸政務次官の山村新治郎が交渉して乗客の身代わりを買って出た。彼は北朝鮮まで飛んで大任を果たし、男をあげた。
 その機会を与えてやろうと言う日本赤軍。しかし魚本は断った。『それは軟弱外交に反するので』
 膠着に嫌気したPFLPの別働隊が在クウェート日本大使館を襲った。
 石川孝大使は女性職員の更衣室に隠れた。見つかると本省に涙声で『助けて』と電話をかけてきた。
 イラン戦争ではまだ煙も立たない前に日本大使館は安全圏に引っ越した。川口順子外相が『余りに早い』と戻らせたこともあった。
 とっくに外交官は気概も気骨も捨てていた。
 先日の天声人語が早めに撤収したあと『英大使は一人残ってアフガン人協力者の出国ビザにサインし続け』『最後の最後に英軍機で帰国した』と書く。
 日本は自国軍がないけれど現地スタッフを置き去りにして逃げたのは『割り切れない』と続ける。
 それをお前が言うのか。
 戦争も軍靴の響きも嫌い。9条を守ればいいと70年間偉そうに言い続けた。
 軟弱外交もいい。支那朝鮮ごときにも友好で行うと紙面に書き続けた。
 その通りにやってきた外交官を今になって腐す方が割り切れなくないか。
 もうGHQの時代は終わった。はっきり自国軍が欲しい、外交官は気概を持てと素直に要ったらどうか。」
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 2017年12月12日 毎日新聞堀口九萬一 サムライ外交官の功績しのぶ メキシコ赴任中、大統領一族救う 駐日大使が遺品観覧 /新潟
 「美と文学の探策者 堀口大学展」の展示に見入る大使夫妻=長岡市の県立近代美術館で
 詩人の堀口大学の父で長岡出身の外交官、堀口九萬一(1865~1945年)が100年以上前にメキシコ大統領一族を救った縁にちなんで10日、カルロス・アルマーダ駐日メキシコ大使が長岡市を訪れた。同市立中央図書館で開催された「詩人堀口大学と長岡展」で九萬一の遺品などを観覧し、関係者と交流するなどして九萬一の功績をたたえた。【金沢衛】
 九萬一はメキシコ臨時代理公使に赴任中の1913年に軍事クーデターに遭遇。殺害されたフランシスコ・マデロ大統領の一族20人以上が親交のあった日本公使館に逃げ込んだ。人道的立場から一族を保護し、クーデター勢力から守ったことでメキシコでは「サムライ外交官」と慕われている。上院議会が一昨年、九萬一を模範的な生き方としてたたえ日本への感謝を示すため議会内に記念プレートを設置。自国民以外の上院議会での顕彰は…
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 2017年12月14日 朝日新聞「新潟)九萬一に感謝 メキシコ駐日大使が長岡訪問
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 堀口九萬一が愛用したスプーンなどの展示物に見入るアルマーダ大使(右から2人目)=長岡市の県立近代美術館
 駐日メキシコ大使のカルロス・アルマーダ氏が長岡市を訪れ、県立近代美術館で開かれている堀口大学展を見学した。大学の父で外交官だった堀口九萬一(くまいち)が、メキシコ赴任中に遭遇した軍事クーデターの際、当時の大統領の家族らを助けた史実があり、大使が訪問を希望していたという。
 九萬一(1865~1945)は長岡藩士の家に生まれ、大学は長男。ブラジルなどでも公使を務めた。メキシコ臨時代理公使だった1913(大正2)年2月、同国のマデロ大統領がクーデターで殺害された。大統領夫人ら親族20人余りは、親交があった九萬一に助けを求め、日本の公使館にかくまわれた。
 九萬一は自著「世界と世界人」で、公使館が襲われるとの風説を聞き、クーデター指導者に「窮鳥懐に入る。猟夫もこれを殺さず」と人道的な対応を求めたことを記している。大学は当時、九萬一とともにメキシコにいたという。
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 外務省
 深化し続ける絆 ― 日メキシコ外交樹立130周年
 日本とメキシコは,これまで400年以上にわたり友好的な関係を築いてきました。特に明治政府発足から20年後(1888年)に締結された「日墨修好通商航海条約」は,日本悲願の平等条約であり,当時の日本政府にとって,そしてその後の日本外交にとって,非常に大きな意味を持つものでした。外交樹立から130年を迎えた今,日本とメキシコ両国の,国と国,人と人との絆について改めて振り返ります。

 メキシコに渡った日本人と「サムライ外交官」
 日墨修好通商航海条約の締結から9年後の1897年,メキシコ南部のチアパス州に35人の榎本植民団が入植しました。これはペルーより2年,ブラジルより11年も早い,中南米への初の組織的移住となりました。以降日本とメキシコは,太平洋という広い海をまたいで,国と国,人と人との絆を大切に育んできました。当時の両国間の信頼関係を表すエピソードのひとつに「サムライ外交官」の活躍があります。メキシコ革命時の1913年,ウエルタ将軍がクーデターを起こした際,その標的となったマデロ大統領の親族たち20名以上が助けを求めて逃げ込んだのは,日本の公使館でした。当時の臨時代理公使だった堀口九萬一氏(詩人の堀口大学の父)は,公使館が攻撃される可能性もありながら,同親族を保護したのです。2015年にメキシコ上院議会は,両国間の平和と人道の証として堀口九萬一氏を顕彰する決議を採択。この史実は,メキシコ国民と日本国民の関係の歴史上,最も美しい1ページのひとつとして,今も現地で語り継がれています。
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 在メキシコ日本国大使館
 マデロ大統領家族に対する日本公使館の庇護に関するメキシコ連邦上院決議記念プレート除幕式及びメキシコ空手連盟による空手道実演
 4月21日、メキシコ連邦上院議会において、マデロ大統領一族に対する日本公使館の庇護に関し日本国民への感謝を記した記念プレートの除幕式が開催されました。この記念プレートは、パトリシオ・マルティネス・ガルシア上院議員の発意により、2月26日に上院本会議において採択された決議に基づくものであり、同決議は、1913年のマデロ大統領家族に対する日本国公使館の庇護に関して、日本国民、日本政府、外交官堀口九萬一の親族に感謝し、この史実をメキシコ国民と日本国民の関係の歴史の最も美しい1ページとして語り継ぐとしたものです。同プレートは、「1913年2月の苦難の日々における、その模範的な生き方とマデロ大統領家族に対する保護に関して、堀口九萬一と偉大な日本国民に捧げる」と刻まれており、上院議場中庭の栄誉の壁に飾られる予定です。
 同式典には、ミゲル・バルボサ・ウエルタ連邦上院議会議長、テオフィロトーレス・コルソ連邦上院議会アジア太平洋外交委員会委員長、パトリシオ・マルティネス・ガルシア上院議員、和久井伸孝日墨協会会長と共に、山田大使が出席しました。バルボサ上院議長は、堀口九萬一臨時公使がその倫理、道徳心に誠実に従い、マデロ大統領一族を庇護したこの史実は劇的であり、悲痛さ、苦しみを伴うものであるが、他方、日墨両国間にとっては偉大な勝利であると述べました。また、トーレス委員長は、堀口九萬一臨時公使の英雄的行動は、外交という観点だけで行われたものではなく、人道主義の立場から行われたものであり、日墨両国が400年以上にわたり築いてきた互いに尊敬しあう友好関係から生まれたものである等と述べました。
 また除幕式に先立ち、福田純子メキシコ・ナショナル・コーチ(全日本空手道連盟公認六段、糸東流)が、迫真の形の演武を披露したほか、メキシコ空手連盟所属選手たちによる約束組手等が披露されました。
 注:1913年2月9日、メキシコ革命の最中、悲劇の10日間と呼ばれるウエルタ将軍によるマデロ大統領に対するクーデターの際、マデロ大統領夫人、同父母の親族20名以上が日本国公使館に駆けつけ、一族の親しい友人であり、また臨時代理公使であった、堀口九萬一に庇護を求めた。堀口臨時代理公使は、ウエルタ将軍一派が日本公使館を攻撃すると見られていたにもかかわらず、一族の保護を続けた。クーデター後、マデロ大統領及び政権関係者は殺害されたが、一族は無事に公使館を出ることが出来た。この堀口臨時代理公使の人道的対応は、メキシコ国内において幅広く評価され、政権に就いたウエルタ大統領自身からも称賛されたと言われるなど、両国の友情を示す多くの逸話の1つとして知られている。
http://www.mx.emb-japan.go.jp/reconocimiento2015jp.html
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敗れし國の秋のはて 評伝 堀口九萬一
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 アメリカは、北米のメキシコやアルゼンチン、ブラジル、ペルーなどの中南米諸国で親日派知日派が増える事は国家安全・国家存立を脅かし、日本政府の国策としての中南米諸国への日本人移民促進を「静かな侵略」と認識し危機感を強め、日本を南北アメリカ大陸から追放し国力を削ぐ為の対日強硬策を採用した。
 アメリカは、日本を追い詰める対日強硬策として利用したのがファシスト中国(中国国民党)と中国共産党であった。
 その先兵手として協力したのが、日本・中国・朝鮮などアジア地域で信者を増やしていたアメリカ・キリスト教諸派ユダヤアメリカ報道機関(新聞や雑誌)であった。
 アメリカの国民世論は、急速に反日となっていった。
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 後年、親ユダヤ派の松岡洋右外相は、国内に増えるポーランドユダヤ人難民を減らす為に中南米諸国で受け入れてくれる国を探した。
 反ユダヤ感情が強いアメリカは、松岡洋右の外交をモンロー主義に基ずく安全保障に対する脅威として認識して警戒を強めた。
 松岡洋右は、詳しいアメリカ情勢を知る為に、信頼できる日本人外交官に反人種差別団体や人権派活動家に接触する密命を与えていた。
 FBIは、反政府・反白人の黒人・ユダヤ人への松岡コネクションを警戒した。
 中南米諸国は、一度はユダヤ人難民の上陸を認めたが、アメリカの強力な外圧(脅しに近い)に屈してユダヤ人難民を乗せた日本の輸送船の入港を拒否して追い返した。
 松岡洋右は、天皇の名誉と国家の責任として、アメリカとイギリスとの外交正式ルートを利用して、安全な航路を使ってアメリカ本土やパレスチナへの安全輸送を続けた。
 アメリカは、日本政府に対して、外務大臣松岡洋右は和平交渉の障害であるとして更迭を求めた。
 近衛文麿首相は、和平交渉を成立を優先して松岡洋右を解任した。
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 日本軍部、特に日本陸軍ポーランドユダヤ人難民救護に積極的に協力していた。
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 親ユダヤ派の昭和天皇は、ヒトラーナチス・ドイツから逃げて来たポーランドユダヤ人難民の保護と安全地帯への出国を望んでいた。
 これが、皇道主義に基づく八紘一宇の精神と靖国神社の心・志である。
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 戦後、敗戦国日本ではポーランドユダヤ人難民を助けた日本人の多くが戦争犯罪者とされ、杉原千畝は外務省から追放され、東条英機松井石根らは見せしめ的リンチ縛り首で殺され遺灰は海に捨てられた。
 松岡洋右の評価は、善人ではなく悪人で、有能ではなく無能というので一致しいる。
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 日本の常識では「情けは人の為ならず」としてお人好しに徹して人助けをしたが、世界の常識は「人助けは愚かな行為」として自分の命や家族を守る為に他人を助けず見捨てた。
 ホロコーストにおけるユダヤ人の悲劇は、世界の常識が生んだ事である。
 事実、同じ国民・隣人として生きてきたヨーロッパ人は、ユダヤ人を庇って処刑されない為にユダヤ人をヒトラーナチス・ドイツに引き渡した。
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 現代の日本人は善人であろうと独力を重ねている。
 が、日本は世界で信用され、日本人は世界で愛されている、はウソである。
 日本が信用され日本人が愛されているのは、戦前の軍国日本が行った数々の歴史的な自己犠牲による人道貢献と平和貢献・勝利貢献であって、戦後の平和憲法下で人道貢献と平和貢献を拒絶する現代日本人ではない。
 その証拠が、湾岸戦争で組織された多国籍軍自衛隊を派遣して参加せず、自分が死にたくない為に、戦死する他国の若者達に戦争資金を出して逃げた事である。
 つまり、友・友人、親友から生死を共にして戦う戦友を切り離した事である。
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🎃12)─1─対馬の仏像窃盗事件。窃盗団を擁護する裁判所の正義。~No.26 

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 2021年9月21日07:30 MicrosoftNews JBpress「対馬から仏像を盗んだ前科56犯の窃盗団を擁護する裁判所の正義
 © JBpress 提供 韓国が実効支配している竹島。2012年には当時の李明博大統領が上陸した(写真:The Blue House/ロイター/アフロ)
 © JBpress 提供 盗まれたまま戻らない高麗金銅観世音菩薩坐像(右)と返還された銅造如来立像(左)(写真:Yonhap/アフロ)
 (羽田真代:在韓ビジネスライター)
 韓国の窃盗団が2012年に日本から盗んだ「高麗金銅観世音菩薩坐像」。「日本には韓国から略奪した文化財が多いから、それを盗んで韓国で売ろう」と企てた身勝手な窃盗団によって、関係が良好でなかった日韓関係がさらに冷え込んだことを覚えている向きも多いのではないか。
 2012年といえば、8月に当時の李明博(イ・ミョンバク)大統領が韓国の歴代大統領で初めて竹島に上陸した年である。その他にも慰安婦問題や日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)締結延期など、当時の日韓間にはあまり良いニュースがなかった。
 そのような時代背景も相まってか、対馬の観音寺が所有する仏像が韓国人によって盗まれたことが判明すると、日本からは「仏像を返せ」と韓国を批判する声が高まった。仏像が盗まれて9年が経過した今でも、その声は鳴り止むことがない。
 窃盗団のメンバーは50代から70代の男性4人で、彼らの前科は合わせると56犯にもなるという。最年長の主犯者は民家や商店への空き巣を常習的に繰り返し、その弟は文化財・古美術品を中心に窃盗を繰り返したことで、どちらも複数回の服役経験を持っている。
 窃盗当時、韓国窃盗団は対馬にある海神神社から「銅造如来立像」を、観音寺から「高麗金銅観世音菩薩坐像」を盗んだ。「銅造如来立像」は韓国内で所有権を主張する者がいなかったために返還されたが、「高麗金銅観世音菩薩坐像」については2013年2月に韓国の浮石寺(プソクサ)が「倭寇の略奪で日本に渡ったはずだ」と主張、韓国政府が仏像を日本へ返還しないように仮処分を求めたた。そのため、この仏像だけがいまだに日本に返還されずにいる。
 余談ではあるが、浮石寺による所有権の主張は2013年が初めてではなく1988年にもされており、この時は浮石寺が観音寺に対し仏像の返還を要求、観音寺側がこれを断っている。
 仏像窃盗裁判の過程で露見した「反日無罪」
 仏像を盗んだ窃盗団には2013年6月に懲役3ー4年の実刑判決が言い渡された。彼らとは別に、盗んだ仏像を韓国内に搬入する過程で犯行に関わったとする別の3人にも懲役1年ー1年6カ月(執行猶予2ー3年)が言い渡されている。
 裁判を進める過程で、窃盗団側は「日本が略奪して持ち帰った文化財を取り戻してきたのだから我々は愛国者だ」と主張。主犯格の男は裁判で、「我々の行いを国民に判断してもらいたい」と、刑事事件の裁判に国民が参加する国民参与裁判を請求した。最終的に、窃盗団の要望は通らなかったが「反日無罪」という考え方が韓国社会の倫理観を麻痺させていることが如実に表れた裁判となった。
 反日無罪というご都合主義な解釈は、仏像問題の他にも慰安婦や徴用工など様々な問題にまで影響を与えている。
 「浮石寺への返還請求」裁判は2016年4月に韓国内で始まっており、裁判所は2017年1月の第1審で仏像は浮石寺所有であることを認めた。
 韓国政府の代理である検察は、窃盗犯がこの仏像を釜山港で通関させた時に贋作であるという初見を提出した鑑定委員を2021年7月に開かれた裁判で証人として申請した。
 また、検察も問題となっている仏像は贋作であり、「浮石寺が主張する所有物ではない」と主張し続けていた。しかし、9月15日に浮石寺が韓国政府を相手取って起こした有体動産の引き渡し控訴審で主張を一転、「高麗金銅観世音菩薩坐像」の真偽についてこれ以上争わないことを明かした。
 これは、韓国文化財庁が「1330年に浮石寺で製作された仏像である」という鑑定結果を公表したことが背景にある。文化財庁の公表によって、検察が仏像の釜山入港時に“贋作”だと所見を述べた鑑定委員を証人として呼び、「仏像は偽物だ」と主張し続けることが困難となったからだ。
 裁判の進行に関して、検察は「昨年末に明確な所有権を主張するため、日本の観音寺が韓国での裁判に参加すると言っていたのだから、観音寺側が参加するまで裁判を延ばすべきだ」と主張する一方、浮石寺側の弁護人は「観音寺の参加意思がはっきりしていないのだから、裁判を進行して結論を出すべきだ」と双方意見が食い違った。
 昨年末の時点で、観音寺側は裁判の参加に応じる意向を示していたが、今回開かれた控訴審に出廷しなかった。次回裁判は11月24日午後3時に開かれる予定だが、コロナ禍で訪韓することは容易ではない。
 裁判所は「次の公判までに観音寺の参加意思がはっきりしなければ裁判を終結する」と決定した。そのため、11月に開かれる裁判で日本側に有利な判決は下されないだろう。この裁判で決着がつけば、韓国内での仏像問題は一段落つきそうだ。
 韓国に文化財を貸しても返してもらえないリスク
 しかし、仏像を日本に返却しなければ、韓国は世界から益々孤立する一途を辿るだろう。韓国側が政府ぐるみで日本に対して仏像の返還を拒否しているため、日本の博物館や寺院などは韓国に対し美術品の貸し出しを拒否するといった事案が発生している。
 「レンタル後、安全に返してもらえる根拠を示してほしい」という日本側の要求に対し、韓国政府が「返却責任は持てない」と返答したからだ。
 これは日本だけでなく韓国文化財を所蔵しているフランス、イギリス、アメリカらの博物館や美術館も同様で、「遺物が韓国に渡れば差し押さえられかねない」と懸念し、実際に韓国側が予定していた展示会に貸し出しを要求していた遺物が提供されなかったことがある。
 韓国政府は世界各国と文化交流ができなくても良いのだろうか。
 この9月から10月にかけて、「戻って来た、戻ってこなければならない文化遺産写真展」が忠清南道(チュンチョンナムド)で開催されており、ここには日本東京国立博物館大英博物館、米セルクロ博物館などにある韓国国外に搬出されたとされる忠清南道文化財及び返還文化財を各遺産の価値と共に写真で展示・紹介されている。
 これには「高麗金銅観世音菩薩坐像」も含まれているのだが、盗んだものを返さずにそれを自国のものだと主張するやり口は、竹島問題と非常に似通っている。
 そもそも、仏像には「高麗国瑞州」と記録されているが、李氏朝鮮(1392~1910年)は太宗による1407年の仏教弾圧の際に、高麗時代にあった1万もの寺は36寺院だけを残してすべて廃寺にした。存続を許された88寺院の中に浮石寺の名前はなく、世宗による1424年の仏教弾圧の際も存続を許された36寺院の中にも浮石寺の名はなかった。このことから、高麗金銅観世音菩薩坐像の所有権を主張する浮石寺は、少なくとも15世紀初頭は廃寺であったと考えられる。
 ところが、寺はもちろん韓国の裁判所までもが「仏像は倭寇や朝鮮征伐の豊臣軍が略奪したもの」として疑わない。韓国内ではこの他にも慰安婦問題や徴用工問題など日本にまつわる裁判が進行中であるが、これら問題は韓国側の反日無罪というご都合主義な解釈によって日本が振り回されるだけの格好となっている。
 先進国入りしたのに法治国家にほど遠い韓国
 2017年頃には韓国内で「仏像を日本に返却すべきだ」と訴えるデモが一部市民団体により開かれていたが、その声もいつの間にか消え去ってしまった。
 韓国の裁判所は「法の下で平等に裁く」という本来あるべき姿を遺却し、感情論で裁くことがしばしばある。特に日本が関連する裁判ではそれが顕著だ。国連貿易開発会議(UNCTAD)で先進国グループ入りした韓国民らは、法治国家とはほど遠い自国のその姿を恥ずかしいと思わないのだろうか。」
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⚔49)─2─徳川幕府の鎖国・開国と古代文明の通商都市を繋ぐ世界交通網。~No.212 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本民族が歴史的に信用されているのは、有言実行もしくは不言実行である。
 つまり、明治から昭和前期までに行った数々の歴史的な人道貢献や平和貢献であって、国際連盟設置会議で人種差別撤廃条項を提案した事だけではない。
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 2021年9月号 Voise「『次』の歴史と人類の新軌道
 エルサレムと日本の深い歴史の縁
 なぜ世界3大宗教の聖地が一ヵ所に集まったのか、なぜ鎖国に成功した日本は突如開国に迫られたのか。その理由は『世界交通網』にあった
 長沼伸一郎
 エルサレムになぜ聖地が集中した?
 今回は、少し目先を変えた番外編を送りました。テーマは『エルサレムと日本』である。具体的には、『エルサレムでなぜ宗教紛争が絶えないのか』、そして『日本がなぜ鎖国ができたか』という2点が、じつは大きなメカニズムを背景にもっていて、お互いに関連し合っていた、という興味深い話題について述べてみたい。
 さてエルサレムは、ユダヤ教キリスト教イスラム教の3つの宗教の聖地となっており、その聖地の帰属を巡って争いがたえないことは、現在でも頭が痛い問題となっている。そのため、せめて3つもの宗教の聖地がここに集中していなければもっと政治的に安定するだろうに、とは誰もが思うである。せのせいか、エルサレムという狭い地域から世界的宗教が集中的に3つも生まれていることは、しばしばオカルト的に解釈されて、何か地球の精神的な気のエネルギーのようなものがここに集中しているからそういう不思議なことが起こるのだ、などという怪しげな説が唱えられることも稀(まれ)ではない。
 しかし、ここから3つも宗教が生まれたことは、オカルト的な仮定がまったくなくても、地政学的な要因だけで半ば一種の合理的・必然的なこととして説明ができるのである。それには何よりも地図をみるのが手っ取り早く、大陸規模な地図(図1)で眺めると、エルサレムはちょうどユーラシア大陸、アフリカ大陸、アラビア半島の3つの結節点に当たっていることがわかる。それはイメージ的には、ちょうど図2のように3枚の紙の隅だけを重ねてピンで留めたようなものである。
 図1・図2 
メソポタミア :ユーラシア大陸
 │      /
エルサレム周辺▶── アラビア半島
 │      \
エジプト   :アフリカ大陸
 要するにエルサレムは世界地図レベルでの『交通の要衝』に当たっており、世界の通商路の中心部となる宿命を最初から背負っていたのである。これは大陸の地形の面のみならず、歴史的にもこの地域は、いわゆる『世界4大文明』のうちのメソポタミアとエジプトの2つを結ぶ通商路に当たっており、そのためもし人類の歴史で『世界交通網』が一番初めにどこで生まれたかを探すとすれば、このエルサレム周辺がその中心地であったことははぼ間違いないのである。
 歴史的な交通網というと、むしろ中国と西洋を結ぶシルクロードが連想されるが、中国がもっていた『貿易』の概念は、いわゆる『朝貢(ちょうぐ)貿易』で、つまり中国が周辺諸国にお土産として文物をくださる、というもので、商業と貨幣にもとづく貿易は必ずしも公的なものではなかった。そのせいもあってシルクロードには、東西の希少な文物が長い距離のあいだを細々と行き来していた、というイメージが強い。それに比べるとエルサレム周辺から拡大していったこの世界交通網は、遥かに本格的な商業のためのルートで、むしろ無国籍な商業文明そのもののヨリシロだったといる。
 ただし、この地域は砂漠地帯にあるというデメリットを抱えており、それゆえ飲料水となる水を確保するという課題をクリアせねばならなかった。そしてその課題をクリアできる、いくつかのオアシス都市が通商の拠点となったが、エルサレムもその1つであった。エルサレムは高台にあって飲料水を比較的潤沢に得られるという数少ない好条件に恵まれており、それが先述した地図上の位置のメリットと一緒になることで、通商路の中心地として栄えることになったわけである。
 ではエルサレムの地理的条件と宗教がどう結びつくのかということだが、そもそもわれわれはこれらの宗教がどんな環境で発達していったのかに関して、イメージ的に大きく誤解していることが多い。つまりここが砂漠地帯であったことの連想で、砂漠の遊牧民大自然のなかで生活するように宗教が育(はぐく)まれたのだ、と思われがちなのだが、むしり世界3大宗教は、高度に発達した都会のなかから生まれたのである。
 たとえばイスラム教の場合も、しばしば『砂漠に生きるベドウィン(アラブ系遊牧民)が、砂漠の日没の雄大な光景に畏敬の念を覚えて、祈りを捧げることから始まったのだ』というイメージで語られることがある。しかしこれほど大きな誤りはない。イスラム教が生まれたときのメッカの町はむしろ、現在の米国の西海岸に似て、金さえあれば世界のどんなものでも手に入れられる拝金主義の町だったのである。そしてイスラム教は都市のなかで、高度に発展した商業がもたらす退廃に対して、その一種の〝ワクチン〟として発達したのであり、さきほどのベドウィンのイメージとはむしろ真逆なのである。
 そしてこのような見方に立ってあらためてイスラム教などを眺めると、現代的な関心事からも非常に興味深い事実が浮かび上がってくる。それは、この時代の砂漠の通商都市では、現代のグローバル経済で発生しはじめた問題が、遥か昔に先取りされていたということである。
 軍事力の代わりを務めた宗教
 その問題とは、現代世界でいえば『資本の移動』が国家のパワーや栄枯盛衰に直結してしまっており、コントロールすることも難しいという話である。そして、じつは砂漠の隊商都市というものも、その特殊環境ゆえに2000年ほど前から同様の問題を経験していたのである。
 たとえば現代世界では、多国籍企業への課税が難しいことはしばしば悩みの種になっている。つまり多国籍企業が、ある国の国内で儲けているとき、その国の政府がこうした企業への課税を強化して税収入を増やそうとすると、企業はほかのもっと税金の安い、いわゆる『タックスヘブン』の国に逃げてしまい、結局税収そのものが消えてしまう、ということが起こりがちだが、砂漠の隊商都市というものは、それと似た問題を抱えていた。
 つまりこれらのような通商都市の場合もやはり、税金をあまり重くしてしまうと、通商路の側がそういう都市を嫌って、もっと税金の安い場所を通るかたちにルート全体を変更してそこをそこを迂回してしまう、ということが起こってしまう。そうなると、この都市の経済が通商に依存していて税金もそこから得られていた以上、通商ルートに見捨てられてしまうと、この都市では税収そのものがまったく得られなくなってしまう。それはさらに大きな問題に繋がっていた。
 それは、徴税が難しいことが軍事力の問題に直結しているということであり、こういった場合では君主が強大な軍事力を養うということが基本的に難しいのである。もともと商業で成り立つ通商都市は、人口の大多数が農業に従事する地域に比べると、徴兵で手っ取り早く大人数の軍隊をつくり上げることが難しいが、そこにさらにこの、軍事費の調達の困難という障害が加わることになる。逆にこうして眺めてみると農業社会との大きな違いがよくわかる。農民たちは土地に縛り付けられて動けないため、領主から重い税金を課せられても逃げることができず、一方君主や政府の側は租税を重くすることで強大な軍隊を養うことが可能なのである。
 農業社会の場合、それは封建社会のマイナス面であるが、文明レベルから眺めると必ずしもすべてがマイナスだったわけではない。なぜなら軍事力を基盤とする権力の存在は、秩序や風紀の維持を可能にする大きな要因だったからである。もともと農村社会は自然の暦(こよみ)とペースを合わせて生活するので、商業的退廃が紛れ込む余地は最初から少ないが、軍事貴族的の存在は、社会秩序の維持に関して適度の強制力をもっているため、商業のパワーがもたらす短期的願望の肥大と社会の退廃を食い止めるための力として、有効にそれを補完する。
 ところが砂漠の通商都市にはそうした社会的な力が生まれにくく、その状態で都市に通商路と一緒に外から金が流れ込んできて人びとの短期的願望を解放してしまうと、もうその願望を食い止める力が存在しない。こういった社会の退廃を食い止めるには、その商業の力を上回るだけの軍事力が必要となるが、その軍事力を養うために税金に頼ろうとすると通商路に逃げられて、都市自体が経済的に破綻してしまうのである。これはまさしく現代世界が悩んでいる問題と酷似しており、意外なことに砂漠という特殊環境のもとでは、2000年も前にそれと同じ問題が発生してしまっていたのである。
 そして軍事力という手段に頼れなくなったこの種の通商都市では、それにかわる最後の手段として、宗教というものの力に頼らざるを得なかったのである。そのためこの地域では宗教やその関係者は、法律や法律家の機能をも代行して果たすことが求められた。たとえばイスラム世界におけるイスラム法学者がそうであり、ユダヤ教におけるラビ=律法学者もそうである。
 つまりこれこそが、この狭い地域に世界的な宗教が複数発生し、それらの聖地が重なってしまうことの原因だったのである。いい換えれば砂漠という特異な条件を抱えていた場所が、地図的な要因で世界の通商路が集まる中心地となったため、どうしてもそうならざるを得なかったのである。ほかの文明のように社会秩序を国家や軍事貴族に依存している場合だと、国家や政権が倒れてしまえばその都度、歴史や紛争関係をリセットすることもできるだろうが、永続的な宗教に社会秩序を依存している場合、その種のリセットも行われにくい。つまりこれらを巡るジレンマが、もっともまずいかたちで現れてきてしまったのがエルサレムだったというわけである。
 エルサレムと日本の意外な関係
 さてこのようなかたちでエルサレム周辺から誕生した『世界交通網』は、時代とともに拡大していく。当初はヨーロッパや英国諸島などはまだ世界交通網の外縁にすぎなかったが、15~16世紀にかけて、ポルトガルの探検家であるバスコ・ダ・ガマによる喜望峰回りのルート開拓や、コロンブスが新大陸への航路を開いたことなどによって、地中海より大西洋が主要交通路となり、それに伴って、世界交通網の中心地は、エルサレム周辺からむしろ英国周辺にシフトしていった。
 そしてここで図3のように、エルサレム周辺を中心に世界地図を描いていく、世界交通網がそのように歴史とともに同心円に拡大していった様子が示されることになる。ところがこれを眺めると、われわれは1つの意外な事実に気づいて驚くことになるのである。それは『当時都市をもっていた文明のなかで、この世界交通網の中心からもっとも遠い位置にあった文明は何か』という問いを発したとき、世界の文明のなかでそれに該当するのは、ほかならぬ日本だったということである。
 図3
エルサレム
商業文明の浸透 )→ヨーロッパ
 ‿
 │
多神教文明の生存領域 )→日本(最も東方にある都市文明)
 ‿
 ↓
インカ(最も西方にある都市文明)
 日本の場合は鉄炮伝来に象徴される16世紀の安土桃山時代に、こうして拡大していく世界交通網の最前線と接触したことになるが、一方世界の反対側の西の方角に目を向けると、そこで都市をもっていた文明としてもっとも遠い位置にあったのがインカ帝国である。そして両文明は共に同時期に世界交通網の圏内に入ったが、インカ帝国の側はスペインに滅ぼされてしまったのである。
 ……つまり日本は世界の歴史のうえで、都市をもっていた文明として、この『世界交通網』と一番最後に接触した国として、客観的にみてもほかにないユニークな立場にあったわけけである。
 そしてこの世界地図をみると、もう1つ、興味深いことに気づく。それは多神教の文明が存在していた領域というものが、いずれもこの円の外縁部分にあって、それらはこの同心円上で同期をとるようにして、世界文明全体のなかから消えていったということである。
 一方、エルサレム周辺から生まれた宗教はどれも一神教であるという共通点をもっている。それは、『社会秩序の維持』という法的な役割を背負わされた宗教には不可欠なことで、商業文明による退廃(それは前回の第8回の言葉を使えば、『文明の縮退{しゅくたい}とコラプサー化』といい換えてもよいだろう)を防ぐためには、一神教という形態をとる以外なかったのである。
 なぜかというと、多神教というものはとくに金の力と結びつくと厄介で、極端な話、ある金持ちが自分に都合のよい神様をスター発掘の要領でフィーチャーし、金の力で巨大な神像などをつくって庶民をその壮麗(そうれい)な演出に誘い込んで虜(とりこ)にしていけば、法律以上に強力な力を自分のほうに引き寄せてしまうことが可能になる。そうしたことが起きるのを防ぐには、最初からその余地を断つために一神教のかたちにしておくことが必要であり、逆にいえば多神教というものは、大規模な商業文明による縮退の恐れを心配する必要のない農業社会でのみ、無害なものとして存在を許されるのである。
 日本の場合も、いわゆる『八百万の神』は一応その多神教のカテゴリーに入ることになるが、社会の商業化、とくに明治期に資本主義が導入された時期を眺めると、経済社会の中心部には一種プロテスタント的な文化が率先して導入されていった。従来この話題は、純粋に文化論の立場から語られることが多かったが、この問題を本当に捉えるためには、じつは世界交通網を巡る世界交通網を巡るエルサレム周辺からの距離と、『商業文明の縮退』ということについて理解していることが不可欠だったのである。
 日本が鎖国できた理由 
 ただ日本の場合は、先述したように、鉄炮伝来の時期の16世紀に一度この世界交通網と接触したものの、それは短期間に留まり、周知のようにその後間もなく日本は鎖国体制に移行して、この世界交通網との接触を断つことになる。そしてなぜそれが可能だったのかも、この地図をみるとあらためてよくわかるのである。
 鎖国が可能となった理由は当然、距離的にもっとも遠かったということにあり、さらに日本がこの世界交通網と最初に接触した16世紀前後には、先ほども述べたように、この世界交通網の中心地は次第にエルサレム周辺から英国周辺に移行しつつあって、交通網全体がやや西方にシフトしたため、距離的には日本の位置は以前にも増して遠くなっていた。しかしもっとも大きな理由は、日本がこの同心円の一番外側にあったため、それより遠い文明や目的地というものが当時は存在しなかったことで、それが鎖国を可能とした大きな理由の1つなのである。
 これは交通網というものの性格を考えるとよくわかる。一般的に、世界交通網(およびそれに関わる勢力)が、ある国への接触を望む際には2つの場合がある。1つはその国や文明自体が接触する価値や魅力をもっている場合、もう1つは、その国や文明自体には魅力はないのだが、中継地としての価値をもつ場合である。
 たとえばインド本土に魅力がなかったとしても、中継地として不可欠であるため、世界交通網やそれに関わる英国などは、どんなコストを払ってでも、そこに拠点をもとうとしたはずである。
 しかし日本の場合、この同心円の一番外側に位置していて、その先には何か接触すべき他の文明はない。それは線路でいえば、ちょうど一番先の末端にある終点の駅に相当していて、先にはもう駅はないようなものである。これがもし、もっと先に何か重要な地域があって、そこまで鉄道を伸ばさなければならないという場合、たとえ『日本駅』には乗降客がたいしておらず、コスト的にペイしなかったとしても、鉄道会社は中継点としてそこに駅をつくる必要性を感じたはずである。
 日本で鎖国が可能だった大きな理由の1つがここにある。つまり日本は路線上の終点の末端にあるため、世界交通網にとって中継点としての価値をもたなかったのである。
 その一方、日本自体に何か資源や文物などの大きな魅力があったかというと、たしかに日本の場合、ジパングの黄金伝説など、それなりに文明や国としての魅力はあったが、必ずしも絶対に欲しいものがあったわけではない。一方において、当時の日本はキリスト教宣教師を極めて危険な存在として認識し、武力に訴えてでもそれを排除しようとした。そして日本の軍事力は、鎖国直前の段階ですでに鉄砲を自前で量産する能力さえもち、到底侮(あなど)れるようなものではなかったので、ほかの文明のように制圧して土地を収奪することも難しい。
 そうなると、日本の『国としての魅力』のプラス分と『軍事的リスク』のマイナス分を秤(はかり)にかけるとどうなるかという話になり、少なくとも前者は後者を上回るほどではなかったのである。そのため世界交通網としては、そんなリスクを抱えてまでそことつながる魅力がなく、放棄したとしても大(たい)して痛痒(つうよう)を感じない。そのため代わりにたとえば一つ手前のバタビアインドネシア)やマカオあたりが終点となって、路線の長さが少し短くなったとしても、さほど差し支えなかったのである。
 『世界交通網』の繋りが日本を開国させた
 そのような特殊な条件に恵まれたことで、日本は鎖国が可能だったわけだが、日本が徳川時代鎖国を続けているあいだも世界交通網は勢力を広げていった。とくにそのあいだの米国の発展は、世界交通網の中心地をさらに西方にシフトさせることになったが、ここで世界交通網上には1つ、画期的なことが起こる。それは交通網の東の末端と西の末端が、地球の反対側で手を繫ぎ、地球全体を一周するものへと変貌(へんぼう)を遂げられる可能性が出てきたことである。
 そしてそれによって日本の立場は根本的に変わることになり、世界交通網の中継点としての価値が生まれてしまった。つまりそれこそが開国の圧力だったのであり、それを念頭に置いて眺めると、日本に開国を実現させた力が英仏よりも、むしろいままでとは反対側の米国から来たことの理由もよくわかる。つまりこの場合、世界交通網が英仏から東へ伸びようとする力よりも、米国から西に伸びようとする力の方が遥かに切実で、だからこそ日本の開国は米国によって行われたのである。……じつはこれは世界交通網がエルサレム周辺から拡大していったという、壮大な背景に基いて理解されるべき話だったのである。
 ともあれ日本は、世界交通網との2度目の接触をした19世紀の後半に、一応は商業文明とも接触して農業文明から脱却し、軍事貴族たる武士の時代は終わった。しかしこのときも商業文明というのは、じつは金融で物事をやりとりするよりも工業で大量の品物を量産することがメインの『産業文明』であり、商業民族よりもむしろ大勢の兵士を工場に動員する軍事民族のほうが適していたのである。
 つまり当時の日本は商業文明よりむしろ産業文明に対応すればよかったのであり、本格的な産業文明が世界に台頭しはじめて、それにともなう問題が表面化しはじめるのは、じつはコンピューターと金融が結びつきはじめた1990年代ごろであったといえる。
 そして現在、世界交通網はコンピューターのレベルで無形化したかたちでさらに拡大を続けるとともに、エルサレム周辺地域が抱えていた問題を、抽象化したかたちで世界に拡大させつつある。それは、むき出しの商業文明がもたらす退廃と縮退、そして前回までの言葉を使えば、その行き着く果てとしての『コラプサー化』を、従来の軍事力に基礎を置く国家の秩序では十分に阻止できず、対応自体が難しくなっているという問題である。
 その意味で、エルサレムと日本の武家社会は、一見まったく無縁の対極にあるものにみえるが、じつは世界の歴史のなかで世界交通網の『最初の出発点』と『最後の接触点』として、ともにほかの場所がもたない特殊な位置を占めており、そしてそこに発生する現代的な課題にこそ、日本のもつ『理数系武士団』の力が期待されるのである。」
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 人類の常識として、欧米の西洋は、日本に利用価値があれば日本を助ける為に中国に圧力をかけるが、中国の方が利益になるとすれば日本を切り捨てる。
 日本の利用価値とは、自由と民主主義の理念や国際法のルールを維持する事ではなく、経済発展と軍事転用可能な最先端技術開発で世界に貢献する事である。
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 人は、自分に利益をもたらす・金になると判断して行動するが、得にならないと判断したら動かない。
 他人・他国に助けて貰いたければ、「自分を助ければ得になる」事を相手に信じ込ませなければならない。
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 欧米諸国は、国益の為に、たえず日本と中国を「利益・金・得」という天秤棒で損得を測ったうえで行動している。つまり、いつ何時、突然、日本は世界から見切られ捨てられるか可能性がある、という事である。
 それが、歴史の鉄則である。
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 日本は世界で信用されている、日本人は世界で愛されている、はウソである。
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 欧米の西洋が、中国の話より日本の話を聞くのは、日本がいまだに中国が持っていない重要技術を持った経済大国・先進国だからである。
 それ故に、経済発展不要論や軍事転用可能な最先端技術破棄論は世界からの支援・救援を日本人自ら拒絶する日本亡国論である。
 つまり、左翼・左派・ネットサハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者の言う事を信じて行動すれば、日本は確実に滅んで消え去る。
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 インカ帝国ムガル帝国は、外敵に味方して自国を滅ぼして自分だけの利益を得ようとした内通者・協力者によって自国民が虐殺されて滅亡した。
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 現代の日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、歴史が分からない、明治維新や国家の近代化などの近代史が理解できない。
 それは、日本の歴史でも世界の歴史でも同じである。
 それが、高学歴の知的エリートや進歩的インテリの歴史能力である。
 その典型的日本人が、親中派媚中派、親韓国派・親北朝鮮派、マルクス主義者・共産主義者である。
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 日本が世界から一等国・一流国・先進国と求められているのは、明治から昭和前期まで日本人を犠牲にしながら自慢せず傲慢にならずならず、謙虚に、誠実に、真面目に取り組んできた人道貢献と平和貢献という実績である。
 それは、戦後の日本とは正反対の生き方であった。
 その象徴的事件が、湾岸戦争時の多国籍軍に対して「金を出すが人を出さない」という決定であった。
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