⚔14)─4─堕落したイエズス会とパスカルとの論争書簡。~No.51 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代日本人は、時代劇はすきだが歴史が嫌いで、歴史力・文化力・宗教力が乏しく、イデオロギー(主義主張)に憧れるが哲学や思想がない。
   ・   ・   ・   
 1637~38年 天草・島原の乱
 1656年 ブレーズ・パスカルは神の恩寵について弁護する『プロヴァンシアル』を執筆。
 1657年 明暦の大火。犠牲者約10万人。 
 第111代後西天皇徳川家綱保科正之
   ・   ・   ・   
 ジャンセニウス
 デジタル大辞泉の解説
 17~18世紀、フランスから興り、ヨーロッパのカトリック教会に論争を巻き起こした教派、およびその神学。オランダの神学者ヤンセン(1585~1638)の、アウグスティヌス研究に基づく恩恵論に由来する。イエズス会と対立。のち、ローマ教皇により禁圧された。
 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
   ・   ・   ・   
 2021年3月号 WiLL「たたかうエピクロス 古田博司
 第20回 数理学者パスカルこそ社会科学の祖だった
 西洋人も生き生きと生活態で
 西洋思想史は、自分でキッチュな年表を作ってみると面白い。17××年に固まっているのは、ディドロ、エルヴェシウス、ヒューム、カントたち、遅れていたドイツでは、カントはヒュームの影響しか受けていない。英仏では一番、形而上的だったからだと思う。ものすごく意識していたので、『純粋理性批判』のなかに、ヒュームの名は18回も出てくる。
 100年前の16××年に固まっているのは、ホッブズ、ロック、そしてパスカルがいる。その100年前の15××年に固まっているのは、ルター、カルヴァンのような宗教改革者と、エセーのモンテーニュだ。カルヴァンはルターを読んでいた。恨みが深すぎて、スイスのジュネーヴを占拠するや、旧教徒の逮捕、火刑を始めた。教会の祭壇を探索すると、髑髏(どくろ)を引っ張るザリガニの仕掛けで、大衆を操る『奇跡の詐術(さじゅつ)』を行っていたことなどが分かったという(『渡辺一夫著作集』4巻、389頁)。モンテーニュはその頃、ボルドー市長に祭り上げられて、旧・新教徒の争いの調停役をやらされていた。書斎の人だから、さぞかし嫌だっただろう。
 無味乾燥な思想史も、こんな風に書いたら楽しいのだろうが。……
 パスカルは思弁の人ではない
 前回、時は18世紀、エルヴェシウス、ディドロが、中世キリスト教世界の既得権益層、聖職者・神学者・道徳家たち、具体的には教皇大司教・高等法院・大学の進学者たちに威嚇され、ソルボンヌ大学の犬たちに身辺を嗅ぎまわられ、告発・火刑の恐怖にいかに曝(さら)され、畢生(ひっせい)の大業を焼却されたかを描いてきた。エルヴェシウスは嘲弄(ちょうろう)した。ディドロは『人類の仇討ち』を叫ぶも、フランス革命の5年前に没した。
 キリスト教界の既得権益層がいつからこのように強硬になったのか、それは当初からというほかないだのが、ルターが現れて、エラスムスの著作が告発された1525年あたりからは、一層苛酷になったのではないかと、私は認識している。
 反宗教改革がどんどんやりすぎになっていく様は、ありがたいことに、実証主義の研究者たちが邦訳『パスカル全集』で、ちゃんと書いてくれている。いわく、プロテスタントの攻撃に対抗して、バスクの貴族、イグナチウス・デ・ロヨラが、1534年にイエズス会(ジェズイット)を立ち上げた
 ジェズイットは、法王と教会を守るべく、『清貧』『貞潔』『服従』の3つの契約のもとに集まり、大学へは教授として、宮廷には聴罪司祭として、インドやシナへは宣教師として入りこんでいった。日本に来たザビエルもバスク人のジェズイットだった。
 16××年のホッブズやロックの頃、イエズス会と主に闘っていたのがジャンセニストのパスカルらだった。『人間は考える葦だ』のパスカルだ。ジャンセニストは、カルヴァンのような予定説で、神の恩寵は定められた人のみ授かる、オランダのジャンセニウスの説をとる。ジェズイットは、スペインのモリスの説で、神の恩寵は誰にでも与えられるとした。
この『誰にでも恩寵』というのがまずかったのだろう。程度の低い、司祭や神学者、神学教師にも全能感を与えてしまったのである。『神の恩寵があるのだから、オレのやっていることは正しい、間違ったものを正してやる』になった。パスカルが、これを分かりやすい平易な文体で揶揄(やゆ)している。
 ジェズイットの教書に、『掏摸(すり)を働くとか、微行({びこう}=おしのび)で遊里に出掛けるとかいうがごとき恥ずべき理由で僧服を脱いだときには、ただちに身につけねばならぬ』(『イエズス会の学校の教える実践要領』)とあったので、驚いたパスカルが神父に尋ねたという。なぜこうした連中を破門にしないのか、帰りに脱いだ服をつけろとはどういうことか、と。すると神父は、いけしゃあしゃあと、『僧服のままで出入りしているのを見られたら悪い評判を立てられるからだ』と答えたというのである。……(『パスカル全集』Ⅱ、『プロヴァンシアル』『田舎(プロヴァンスの住人に、友達の一人が書き送った第六の手紙)』人文書院、1975年、144頁)。
 またイタリアのグラッツ大学のラミー神父は、『司祭や修道士は、悪口をたたいて名誉を傷つけようとするものも見破り、これを阻止するために相手を殺して構わない』と、教えた。また彼らは『ジェズイットはジャンセニストを殺しうるや否や』で、討論していると、同じく匿名の手紙形式で印刷し、パリの書店から告発した(同『第七の手紙』170頁)。こんな闘いの歴史があったのだ。もちろんこの書店は襲撃された。
 全能感にひたる人々
 パスカルの批判の筆はさらに高潮へと向かう。
 『神父様方、なにをお考えになっているのですか、あなた方は人々の信仰をはるかにも徳行をはかるにも、あなた方の会に対する意向だけでなされることがかくも公然と示されているのに。あなた方自身の証言から、ご自分が瞞着(まんちゃく)者にも誹謗者にも見なされることをなぜ恐れないのですか。なんですって、神父様方、同じ一人の人間が、その人として少しも変わらないのに、あなた方の会に敬意をはらうか、攻撃を加えるかによって、「敬虔」になったり「不敬虔」になったり、「非のうちどころがなく」なったり「破門」されたり、「教会の小教区主任司祭に価(あたい)」したり「火刑に価」したり、そして最後に「カトリック」になったり「異端」になったりするものでしょうか。とすれば、あなた方の用語では、あなた方の会を攻撃することと、異端であることは同じことなのでしょうか。神父様方、まことに滑稽な異端であります』(同『田舎の友への手紙の著者が、ジェズイットの神父方に宛てて書いた第十五の手紙』317頁)と、書いた。
 これ、なにか日本学術会議に似ていないか。2020年10月から、その存在が疑問視されている学者の組織だ。ちょっと語句を現代風に入れ替えてみよう。
 『先生方、なにをお考えになっているのですか、あなた方は人々の学問をはるかにも徳行をはかるにも、あなた方の会に対する意向だけでなされることがかくも公然と示されているのに。あなた方自身の発言から、ご自分が瞞着者にも誹謗者にも見なされることをなぜ恐れないのですか。なんですって、学術会議の先生方、同じ一人の人間が、その人として少しも変わらないのに、あなた方の会に敬意を払うか、攻撃を加えるかによって、「自由」になったり「侵害」になったり、「助成金に価」したりしなかったり、そして最後に「正統」になったり「異端」になったりするのもでしょうか。とすれば、あなた方の用語では、あなた方の会を攻撃することと、異端であることは同じことなのでしょうか。先生方、まことに滑稽な異端であります』。以上、ある宗派で全能感にひたると、人は大体同じようになるという諫(いさ)めである。批判の対象となる日本学術会議会員を具体的に一人挙げておこう。
 『国民からの負託がない、官僚による科学への統制と支配は国民の幸福を増進する道ではない。私は学問の自律的な成長と発展こそが、日本の文化と科学の発展をもたらすと信じている』(『政府に従順でない人々を切っておく事態』『東京新聞』2020年)
 ……私のゼミでも、破門したかつての弟子が東文研教授をしている。一体どういう人事か説明してもらいたいものだ。
 社会科学の祖パスカル
 さて、パスカルの家はフランス国のど真ん中オーヴェルニュの裕福な家で、徴税関係の法官だが名ばかりのエルヴェシウスとは違い、宰相リシュリューの恩寵を受けていたので、ずっと権力があったことだろう。父親エチエンヌは恩寵でノルマンディーの地方総監となるもフロンド(貴族)の乱に遭遇し、その苦しみから当時ルーアン市付近で活躍していたジャンセニストに入信した(1646年)。
 フロンドの乱後、その残党が次々と難を逃れて、パリ郊外のポール・ロワイヤル修道院に集まり、ジャンセニストと貴族の残党の結合体のようになっていった。敵のジェズイットは虎視眈々と修道院襲撃の機会を狙っていた。1653年、教皇インノケンティウス10世は、ジャンセニストの遺書に異端の宣告を下した。ソルボンヌでは、早速異端審問の特別委員会が設置された。この危機のとき、パスカルの『プロヴァンシアル』が次々と神の箙(えびら)から世に放たれたのだった。ルーアンの司祭はジェズイットの腐敗した道徳を非難する説経を行い、教皇もジェズイットの扱いを厳重にするようになったという。
 ……こうして、パスカルたちは、辛うじて『全能感にひたる者たち』の魔の手を逃れたのだった。
 パスカルの父、エチエンヌはエピクロスの『自然学をする者は神話を遠ざけるべきである』という部分に関心を抱いた可能性がある。父親はパスカルの数理実験の道具に財を惜しまなかった。パスカル自身には、エピクロスの快楽主義の影響は全くないように見える(前掲『第四の手紙』113頁)。
 今回、なぜパスカルを試みてみたのかというと、16××年に固まっている、ホッブズは『必死の快楽主義者』、ロックは『凡俗な快楽主義者』だったので、パスカルはいかにと思ってしみたのだ。そこで分かったことは、この人が後世の社会科学の源流だということである。ジェズイットの『十分なる恩寵』と、ジャンセニストの『有限の恩寵』を類型化し、それがどのような行動に結びつくかを次々と例示していく。つまり、事実を集め実証していくのである。そしてジェズイットの『全能感』がどのような瞞着な結果をもたらすかを、理路整然と帰納する。説得力がロックやホッブズよりも一段上であり、だから世論を動かし、ポール・ロワイヤルの危機を救い、遥か後世の異国日本の学者集団の欺瞞(ぎまん)と高慢の正体まで暴くことができたのだろう。これが社会科学というものである。人文科学よりずっと明晰(めいせき)感をともなうので、読者にもよく感得されるのではないだろうか。
 私はロシア語とか、シナ語とか、コリア語などの古代文化に固着した民族の言語しかしなかったので、フランス語とかはまったく読めない。でも、邦訳でも分かることがある。たぶん、パスカルの文体は、一時代前のモンテーニュたちの文体に比べて、相当品格の劣る『市場の文体』だったのではないだろうか。中世の知性から言えば、『冷酷で、殺伐として、えげつない』のだ。反感ものだったので、世論には説得力があったが、知識階層では埋もれてしまった。でも、それを受け継ぐのは、ゾラの自然主義文学ではないかと思う。ゾラの文体は『市場の文体』であり、驚くほどに社会科学的なのだ。」
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623年6月19日 - 1662年8月19日)は、フランスの哲学者、自然哲学者、物理学者、思想家、数学者、キリスト教神学者、発明家、実業家である。
 神童として数多くのエピソードを残した早熟の天才で、その才能は多分野に及んだ。ただし、短命であり、三十代で逝去している。死後『パンセ』として出版されることになる遺稿を自身の目標としていた書物にまとめることもかなわなかった。
 「人間は考える葦である」などの多数の名文句やパスカルの賭けなどの多数の有名な思弁がある遺稿集『パンセ』は有名である。その他、パスカルの三角形、パスカルの原理、パスカルの定理などの発見で知られる。ポール・ロワヤル学派に属し、ジャンセニスムを代表する著作家の一人でもある。
 神学者キリスト教弁証家として活動
 1646年、パスカル一家はサン・シランの弟子らと出会い、信仰に目覚め、ジャンセニスムに近づいてゆく。
 1651年、父が死去。妹ジャクリーヌがポール・ロワヤル修道院に入る。
 パスカルは一時期、社交界に出入りするようになり、人間についての考察に興味を示す。オネットムhonnête homme(紳士,教養人)という表現を用いる。
 1654年、再度、信仰について意識を向け始め、ポール・ロワヤル修道院に近い立場からものを論ずるようになる。
 1656年 - 1657年、『プロヴァンシアル』の発表。神の「恩寵」について弁護する論を展開しつつ、イエズス会の(たるんでしまっていた)道徳観を非難したため、広く議論が巻き起こった。また、キリスト教を擁護する書物(護教書)の執筆に着手。そのために、書物の内容についてのノートや、様々な思索のメモ書きを多数記した。だが、そのころには、体調を崩しており、その書物を自力で完成させることができなかった。
 ノート、メモ類は、パスカルの死後整理され、『パンセ』として出版されることになり、そこに残された深い思索の痕跡が、後々まで人々の思想に大きな影響を与え続けることになった。神の存在について確率論を応用しながら論理学的に思考実験を行った「パスカルの賭け」など、現代においてもよく知られているパスカル思想の多くが記述されている。
 『パスカルの賭け』において、パスカルは、多くの哲学者や神学者が行ったような神の存在証明を行ったわけではない。パスカルは、そもそも異なる秩序に属するものであることから神の存在は哲学的に(論理学的に)証明できる次元のものではないと考え、同時代のルネ・デカルトが行った証明などを含め哲学的な神の存在証明の方法論を否定していた。パスカルは、確率論を応用した懸けの論理において、神の存在は証明できなくとも神を信仰することが神を信仰しないことより優位であるということを示したのである。
   ・   ・   ・   
 百科事典マイペディアの解説
 〈ヤンセン主義〉とも。オランダの神学者ヤンセンの恩寵論,およびその影響下に17,18世紀のフランスで展開された宗教運動。ポール・ロアイヤル修道院が中心となり,A.アルノー,P.ケネルが主導,パスカルも強力に支援した。イエズス会,フランス王権,ローマ教皇庁と激しく対立,1709年の修道院閉鎖,1713年のケネル断罪と弾圧が続くなか,政治化してガリカニスムに接近するなど,一般信徒にも支持者を得て大革命期まで存続した。
→関連項目アウグスティヌス|異端|ポール・ロアイヤル運動|ラシーヌ
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
   ・   ・   ・   
 世界大百科事典 第2版の解説
 17,18世紀フランスの宗教,政治,社会に大きな影響を及ぼした宗教運動。字義どおりには神学者ヤンセン(フランス名ジャンセニウス)が主張し,ローマ教皇によって断罪された恩寵に関する教義を指すが,ヤンセンの支持者たち(ジャンセニスト)はそのような意味におけるジャンセニスムは実体のない幻影であるとして,教会当局さらには国家権力に抵抗した。したがってジャンセニスムは,たんにヤンセンの教説の枠を越えて,いわゆるジャンセニストたちの信仰,思想,行動の総体を指す呼称である。
 出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 ジャンセニスム(Jansénisme)は17世紀以降流行し、カトリック教会によって異端的とされたキリスト教思想。ヤンセニズム、ヤンセン主義ともいわれる。人間の意志の力を軽視し、腐敗した人間本性の罪深さを強調した。ネーデルラント出身の神学者コルネリウスヤンセン(1585年-1638年)の著作『アウグスティヌス』の影響によって、特にフランスの貴族階級の間で流行したが、その人間観をめぐって激しい論争をもたらした。
 沿革
 ジャンセニスムのルーツは16世紀のルーヴァンの神学者ミシェル・バイウス(Michael Baius,1513年 - 1589年)の唱えた教説にあるといわれる。バユスとも呼ばれたバイウスの説の特徴は神の恩寵の意味の絶対化と人間の非力さの強調であった。同地で活躍していたイエズス会員たちはそこにジャン・カルヴァンの影響を感じ取り、すぐに反論した。
 その後、同じくネーデルランド出身の神学者で、イプルの司教コルネリウスヤンセンが生涯の研究の成果として完成させた著作『アウグスティヌス-人間の本性の健全さについて』(Augustinus;humanae naturae sanitate)が、彼の死後の1640年に遺作として発表された。ヤンセンはバイウスの説に影響を受けており、同書ではアウグスティヌスの恩寵論をもとに、バイウスと同じように人間の自由意志の無力さ、罪深さが強調されていた。ここにいわゆる「ジャンセニスム」がはっきりと姿を現した。
 1646年にジャンセニスムに入信したブレーズ・パスカルは『パンセ』において「人間は考える葦である」と述べた。
 ヤンセンの盟友であったジャン・デュヴェルジェ・ド・オランヌ(Jean Duvergier de Hauranne)はフランス人のアントワーヌ・アルノーの知己を得て、同書を携えてパリへ赴き、そこで1641年に出版した。これがフランスの上流階級の間で反響を呼ぶ。デュヴェルジュは本名よりも「アベ・ド・サン・シラン」(サン・シラン修道院長、以下サン・シラン)という名前で知られるようになる。やがてサン・シランはアルノーの姉妹が暮らしていたパリ郊外の女子修道院ポール・ロワヤル修道院の霊的指導者となり、そこをジャンセニスムの拠点とするようになった。サン・シランはかねてよりイエズス会員の道徳教説が信徒の堕落を招いていると考えており、ジャンセニスムに名を借りたイエズス会攻撃を行った。これにイエズス会員たちが反論したため、以後、ジャンセニスムイエズス会という図式が出来上がっていく。
 当時のフランスでジャンセニスムに傾倒した著名人の中には哲学者ブレーズ・パスカルや戯曲作家ジャン・ラシーヌもいた。パスカルジャンセニスムに傾倒していたことは有名だが、彼はジャンセニスムへの批判に反論して1656年に『プロヴァンシアル』を執筆している。
 ジャンセニスムはその行き過ぎた悲観的人間観、特に自由意志の問題をめぐって激しい論議になった。ローマ教皇庁では神学者たちがこれを慎重に検討した結果、『アウグスティヌス』に含まれる五箇条の命題を異端的であると判断したため、インノケンティウス10世の回勅『クム・オッカジオーネ』(1653年)がジャンセニスムを禁止した。
 18世紀に入るとジャンセニスムが新しい展開を見せる。元オラトリオ会員だったパスキエ・ケネルによってジャンセニスムに新しい息吹が吹き込まれることになる。ケネルはジャンセニスムをフランス教会の教皇の権威からの自由(ガリカニスム)と結びつけて展開したのである。ケネルがイエズス会員を「教皇の走狗」であると非難したことから、再びジャンセニスムイエズス会という構図がつくられた。(最終的に他のヨーロッパ諸国と同じようにイエズス会は禁止・追放の憂き目にあうことになる。)
 当時のフランス国王ルイ14世は政治的見地からジャンセニスムを弾圧し、その中心地となったポール・ロワヤル修道院を1710年に閉鎖させたが、国内的にジャンセニスムを弾圧する一方で、対外的にはジャンセニスムローマ教皇との政争の具として利用もしている。
 果てのない論争が繰り返された後で最終的にクレメンス11世が回勅『ウニゲニトゥス』(1713年)でジャンセニスムを禁止し、論客パスキエ・ケネルの著作に含まれる命題を誤謬であるとした。ジャンセニスムの源流ともいうべきコルネリウスヤンセンに関しては、その著作『アウグスティヌス』こそ問題となったが、本人の死後に発行されたという事情も考慮され、ヤンセン自身が断罪されることはなかった。こうしてジャンセニスム論争そのものは18世紀には終焉したが、オランダではジャンセニスムの精神を引く一派がカトリック教会から離れ、やがて復古カトリック教会という分派が誕生することになる。
 ジャンセニスムの精神は20世紀初頭に至るまで、フランスのみならず全ヨーロッパのカトリック信徒に影響を及ぼした。その証左として、20世紀の初頭の教皇ピウス10世が回勅において、頻繁な聖体拝領と子供の早期初聖体を奨めていることが挙げられる。これは、ジャンセニスムの影響を受けて秘跡を敬遠するようになった多くの信徒が結果的に教会から離れてしまっていた当時の状況に対応しようとする試みであった。
 思想
 ジャンセニスムアウグスティヌスの人間理解が根底にあるが、人間の原罪の重大性と恩寵の必要性を過度に強調し、予定説からの強い影響を受けていた。 ジャンセニスム思想によれば、人間は生まれつき罪に汚れており、恩寵の導きなしには善へ向かい得ない。このため罪の状態でイエスの体である聖体を受けることは恐れ多いことである。だから、聖体拝領に際しての準備と祈りはどんなに行っても十分すぎることはないとした(結果的にジャンセニスムの影響を受けた信徒たちは聖体拝領の回数を著しく減らすことになった)。
 さらにジャンセニスムジャン・カルヴァン思想の影響を受けて、救われることが予定付けられている人間は本当に少ないと説いた。
   ・   ・   ・   
 日本には、哲学・思想はあっても宗教とイデオロギー(主義主張)はなかった。
 日本の宗教は、祀るローカルな崇拝宗教であって祈るグローバルな信仰宗教ではなかった。
   ・   ・   ・   
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として売買する事で金儲けしていた。
 バチカンカトリック教皇は、日本人キリシタンを奴隷とする事禁止した。
 イエズス会などの宣教師達は、日本人を奴隷から救うべく布教活動を活発化させ、「隣人愛信仰」に目覚めた日本人は洗礼を受けてキリスト教に改宗し祖先の神や仏を破壊した。
 つまり、日本人キリシタンは奴隷にならない為であった。
 世界の宗教史は、非キリスト教徒非白人の日本人を奴隷として交易する事を非人道の犯罪行為と断罪せず、逆に日本人奴隷交易を禁止したキリスト教禁教とキリシタン弾圧を行った日本・徳川幕府を人類に対する極悪非道な犯罪者と認定している。
 徳川幕府鎖国令は、西洋を排除するのではなくキリスト教のみを邪教として追放する事が目的であった。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、古代から神の裔・天皇を統治者とした主権国家・日本国を形成していただけに、奴隷とされた事に対して世界に復讐権・報復権を持っている。
 が、現代の日本国家・日本国民・日本人は国民主権天皇主権を否定している以上、日本天皇・日本国・日本民族の復讐権・報復権は継承されず「ない」。
 現代の歴史教育から、「日本人奴隷交易」という歴史的事実は抹消されている。
 そもそも、現代日本人如きは「乱取り」で捕らえた日本人を奴隷として売って金を稼いだ日本人の子孫である。
 それは、左翼・左派・ネットサハでも右翼・右派・ネットウヨクでも、リベラル派・革新派・保守派でも、人権派護憲派でも、同じである。
 昔の日本人と現代の日本人は別人というべき日本人である。
   ・   ・   ・   

🌏40)─1・B─コレラ一揆。領事裁判権とヘスペリア号事件。明治12(1879)年6月。〜No.115 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本列島は、ヤマト王権時代から雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合的災害多発地帯であった。 
 疫病は朝鮮半島・中国大陸など海の外から襲ってきて夥しい死者を出した為め、朝廷や幕府は強権を用いて疫病の水際政策として鎖国政策を断行していた。
 日本国は、国の豊かさよりも国民の生命や健康を優先した。
 現代の歴史教育は、鎖国策を愚策であったと否定している。
   ・   ・   ・   
 明治12(1879)年 コレラが大流行。全国で、患者は約16万8,000人、死者は約10万400人に達した。
   ・   ・   ・   
 習志野市役所
 〒275-8601
 千葉県習志野市鷺沼2丁目1番1号
 電話:047-451-1151(代表)
 No.90 平成18年7月1日号 シリーズ・災害と闘う3 「コロリ」の恐怖 鷺沼村のコレラ一揆
 更新日:2019年3月14日
 新ならしの散策 No.90
 シリーズ・災害と闘う3 「コロリ」の恐怖 鷺沼村のコレラ一揆
 コレラ(注釈1)は、かつて世界で大流行し、多くの死者を出したことで知られています。幕末から明治にかけて日本でも猛威をふるい、急激に脱水症状を起こし、もがき苦しみながら死んでいく姿があまりに酷(ひど)いことから、「コロリ」とか「虎列刺(これら)」と書かれ、悲惨(ひさん)な病として恐れられました。 
 明治12年(1879年)8月の千葉県の記録には、鷺沼村(注釈2)でコレラが流行し、30名以上の死者が出たことが記されています。コレラの場合、患者の汚物から伝染することが多かったようで、患者の汚物が流れ込んだ海老川下流船橋漁師町(注釈3)では、コレラのために多くの人が亡くなっています。当時、鷺沼村には江戸から肥料として糞尿を積んだ船が多く入ってきており、これらが感染源となったようです。 
 千葉県は鷺沼村に役人を派遣し、コレラ退治に立ち上がります。役人たちの奮闘により、コレラの被害も下火になり、さらに被害の拡大を防ぐため、コレラの病死者を火葬するための焼き場を建てようとします。しかし、隣接する久々田(くぐた)村(現在の津田沼)の人々は、「火葬場の煙を吸ってコレラにかかる」という迷信を信じ、火葬場の建設を止めようとして大挙(たいきょ)して鷺沼村に押し寄せます。その数170名ほど。手に凶器を持った多くの村人を前にして、県の役人は丁寧に説明し何とか騒動を静めようとしますが、暴徒と化した村人は村長や県の役人に襲いかかります。最後には周辺の警官を動員して何とか騒動をおさめましたが、このような騒動は各地で発生していたようで、「コレラ一揆」と呼ばれています。
 例えば、同じころ鴨川(注釈4)では、医師の沼野(ぬまの) 玄昌(げんしょう)が、伝染病予防のために撒(ま)いていた白い消毒薬をコレラの病原菌を撒いていると勘違いされ、ついには大勢の村人に撲殺(ぼくさつ)されるという事件も起こっています。
 コレラ菌がコッホ(注釈5)によって発見され、その治療法が確立されるのは19世紀末で、それまで、コレラへの恐怖と伝染病に対する無知が多くの悲劇を生みました。
(注釈1)コレラコレラ菌を病原体とする感染症
(注釈2)鷺沼村…現在の習志野市鷺沼周辺。
(注釈3)海老川下流船橋漁師町…現在の千葉県船橋市周辺。
(注釈4)鴨川…現在の千葉県鴨川市周辺。
(注釈5)コッホ…ロベルト・コッホ(1843-1910)。ドイツの医師・細菌学者。
 虎の怪物のイメージで描かれたコレラの瓦版〔かわらばん〕(大阪・片桐棲龍堂薬局 所蔵 岐阜・内藤記念くすり博物館 協力)
参考
『千葉県伝染病史』 川村純一 著
『千葉県史料 近代篇・明治初期7』
   ・   ・   ・   
 新潟県立文書館
 〒950-8602 新潟県新潟市中央区女池南3丁目1番2号
 TEL 025-284-6011(代表)/ FAX 025-284-8737
 E-MAIL archives@mail.pref-lib.niigata.niigata.jp
 [第56話]新潟コレラパニック1879 ~病気だけではなかったんです!!~
 風邪やインフルエンザ、ノロウィルスをはじめとする胃腸炎などの感染症。感染力が強いので瞬く間に蔓延まんえんし、特に冬になると全国的に大流行することが多いようです。
 これまで7回の世界的流行があり、日本では江戸から明治時代にかけて数年間隔で猛威をふるった感染症があります。コレラ(虎列拉)病です。コレラ菌に感染することにより突然の高熱、嘔吐おうと、下痢、脱水などの症状が顕れます。
 明治12年(1879)の大流行の時、新潟県では警察が出動する大変な騒動になりました。病気の流行と警察の出動、この無縁のような2つの事柄がなぜ結びついてしまったのでしょうか。
 当時、コレラ病は「コロリ」と呼ばれ、人々に強い恐怖心を植え付けていました。加えて予防に対する正しい知識が不足していました。新潟県明治10年・11年に「虎列拉病者取扱手続」等を相次いで布達ふたつし、コレラ病患者が発生した場合の対応を定めています。これらの規則の中で注目すべきは、人々の健康に関することは警察の職務である、という点です。医師や衛生担当者は警察の指示で行動することになりました。患者は原則として避ひ病院びょういん(伝染病専門病院)に収容され、自宅療養患者の家族は外出禁止など、伝染を防ぐための配慮から隔離する措置がとられました。しかしこのような措置はコレラ病や死に対する恐怖に加え、警察という権力への畏怖いふともあいまって、一層恐怖心を高めることになりました。
 そんな空気が充満する中、明治12年3月に西日本でコレラ病が発生します。県は港での検疫けんえきを強化し、家屋内外・街路がいろなどを清潔に保つよう通達しましたが、7月に入るとついに県内で感染者・死者が確認され、コレラの恐怖が現実のものとなったのです。感染予防のために魚介類や生鮮食品の販売が禁止されたことにより、関係者は大打撃を受けます。さらに新潟町では、大火や洪水等の発生による米価の急騰きゅうとうが人々の生活を脅かしました。そして8月、生活の糧かてを失った漁師たちが安米を要求して富商宅を打ちこわし、巡査に抵抗する者も現れたため、警察と衝突する大騒動になりました。この騒ぎは沼垂町などへも飛び火し、竹槍などを手にした人々が警察や富商、避病院などを破壊しました。駆けつけた警察によって鎮圧されますが、死者を出すに至りました。
 この大騒動の原因は、米価の高騰、コレラ予防のための魚介類・野菜果物の販売禁止等の経済的理由や、患者は避病院に送られることなどから不安が広がり恐怖心を増幅させたことによると考えられます。『新潟古老雑話』(請求記号E9111-62)の「大コレラの時」には患者の家を見張る警官の挿絵があります。こんな風に家の出入りを監視され続けることは恐怖以外の何ものでもなかったことでしょう。全国各地で発生したコレラ騒動により、国や府県では衛生行政の見直しが緊急課題として浮上しました。国の対応を受けて、新潟県でも衛生課が学務課内の一係から独立し、町村では公選による衛生委員が置かれるなど、衛生行政の強化が図られていきました。
 コレラ予防に関する諸注意が記された「虎列拉病予防注意箇条(明治13年)」(請求記号E0311-26「虎列拉病予防村中申合約束書」)を紹介します。この注意箇条には、家を清潔に保つことや、食事での体調管理をしっかりと行うことなど、現代にも通じる家庭でできる感染症対策の基本が記載されています。
 (要約抜粋)
 ・家屋内または屋敷内にゴミを片付けて、時々掃除をすること。
 ・海老・蛸たこ・生烏賊いか・天麩羅てんぷらほか、消化の悪い物は食べてはいけない。
 ・(略)吐瀉物としゃぶつで汚れた衣服・紙・手拭等に速やかに濃厚石灰酸を注ぎ、便器その他汚れた器は希薄石灰酸で洗うこと、取り扱った者は希薄石灰酸で手を洗うこと。
   ・   ・   ・   
 防災情報新聞
内務省、急きょ初の感染症予防法規:虎列刺(コレラ)病予防仮規則を布告
 -コレラ一揆起こる(130年前)[復刻]
 1879年(明治12年)6月27日
 3月14日、愛媛県で突然発生したコレラが、前月には西日本一帯に拡大し、この月に入り東日本に波及するなど、全国的に流行しはじめていた。
 内務省衛生局(現・厚生労働省)では、1876年(明治9年)5月、わが国古来の感染症で国民病ともいうべき“天然痘”に対する予防法「天然痘予防規則」を布達し、翌77年(同10年)8月には、19年ぶりの国内大流行を察知して「虎列刺(コレラ)病予防法心得」を布告していた。しかし明治維新以降、諸外国との海運が発達し、国内の陸路も72年10月(同5年9月)の東京-横浜間の鉄道開通以来、77年(同10年)には京都-神戸間が開通するなど、人、物の交流がますます増えていた。これは政府の掲げる“富国強兵”“殖産興業(産業、資本主義の育成)”のためには、喜ぶべきことだが、反面、感染症の国内侵入、拡大の危険を増すことでもあった。
 そこで同省では、それまでの個別的な感染症対策ではなく、総合的な「伝染病(感染症)予防規則」を制定する必要を感じ、これを起草して各関係官庁の官吏を集めて検討、この年の1月には原案を作成し、太政官(内閣)に上申していたが、まだその発令を見ないうちにコレラが発生、全国に広まりつつあった。そこで、急きょ同予防規則の内からコレラに関する部分を抜粋し、とりあえず「虎列刺(コレラ)予防仮規則」として施行するよう太政官に上申した。同官も緊急性を認めたので、6月17日には内務省衛生局報告「虎列刺(コレラ)病予防および消毒法心得」を発表、この日、日本で始めての感染症に関する予防法規として同仮規則を、太政官布告第23号として布告し、防疫に乗り出した。
 またこの予防法規はあくまでも緊急的な仮規則であり、事実、この日から2か月後の8月25日には、太政官布告第32号として大幅に改正されている。しかしこの仮規則の基本項目は、次のようにすでに整理されていた。1.患者の届け出、1.検疫委員の制度、1.避病院(感染者隔離の専用病院)の設備。また感染を防ぐ方法として、1.交通遮断、1.物件の移動禁止、1.清潔方法、消毒方法の施行、1.死体の処理。となっていた。
 ところが防疫対策としては、対処的な消毒か患者や使用した物件などを隔離する方法しか無かったので、官憲がむりやり魚介類や青果物の販売を禁止したり、患者を避病院に収容しようとしたので、庶民はこれに反抗、7月から9月にかけて新潟県、愛知県を中心に、コレラ予防反対、避病院設置反対や、流言による医師、警官への暴行など24件にのぼる“コレラ一揆”が頻発した。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション「虎列刺病予防仮規則」、山本俊一著「日本コレラ史>Ⅱ 防疫編>第一章 法令>第二節 コレラ病予防仮規則 259頁~260頁」、日本全史編集委員会編「日本全史>明治時代 933頁:コレラ予防に新法、対策うらめに、コレラ一揆起こる」。参照:2006年5月の周年災害「内務省天然痘予防規則布達」、2007年8月の周年災害「内務省、虎列刺病予防法心得公布」、2009年3月の周年災害「明治12年コレラ史上最大級の流行始まる」)
   ・   ・   ・   
 現代日本は、国民の生命や健康よりも、中国との貿易による豊かさを優先した。
 その結果が、2020年・21年の新型コロナ・武漢ウイルス・武漢肺炎の蔓延である。
 武漢肺炎の蔓延は、親中国派・媚中派中国共産党に忖度し、国家主席国賓招待を国民の生命や健康を優先した事が原因であった。
 そして、親中国派・媚中派は国内のマスクを大量に中国に贈った為に日本国内のマスクが買う事ができなくなった。
 日本で売られているマスクは中国で作られていたので、中国共産党政府はマスク輸出を禁止した為に日本国内からマスクが消えた。
 中国共産党は、マスクを外交の武器として利用して新型コロナ蔓延で苦しむ日本を苦しめた。
   ・   ・   ・   
  ウィキペディア
 ヘスペリア号事件(独: Hesperia Zwischenfall)またはドイツ船検疫拒否事件(ドイツせんけんえききょひじけん)は1879年(明治12年)、ドイツ船ヘスペリア号が日本政府の定めた検疫停船仮規則の実施をめぐって起こった日本とドイツ帝国の紛争事件である。
 コレラ
 詳細は「コレラの歴史」を参照
 幕末から18年間駐日英国公使を務めたハリー・パークス
 幕末以来、日本にはしばしばコレラが上陸して流行するようになり、コレラに罹患した人はあっけなく死んでしまうので、人びとは「コロリ」と呼んでおそれた。漢字では「虎列刺(コレラ)」「虎狼狸(コロリ)」の字があてられた。コレラの流行は、当時の都市生活の衛生状態が劣悪だったことにも起因している。西南戦争直後の1877年(明治10年)にも流行し、この年の夏は長崎から関西地方・関東地方に広がって、東京では北品川、市ヶ谷、本所において病院が新しく急造されるほどであった。この夏だけで614人がコレラのために死去している。
 このコレラは翌78年にかけても流行し、当時はコレラ菌も未発見で特効薬もなかったところから、明治政府は、1878年明治11年)8月、各国の官吏や医師も含めて共同会議をひらき、検疫規則をつくった。しかし、駐日英国公使であったハリー・パークスは、イギリス人が日本の法規を破ったとしてもイギリスの法規を破ったのでなければ犯罪の要件を構成しないとして、日本在住イギリス人はこの規則にしたがう必要なしと主張した。そのうちコレラはますます拡大してしまった。
 事件の発生
 1879年(明治12年)初夏、コレラは再び清国から九州地方に伝わり、7月には阪神地方など西日本で大流行した。政府は前年の検疫規則を修正し、検疫停船仮規則を作成して検疫の実施を図ったが、各国公使の同意を得ることができなかった。
 阪神地方でのコレラの大流行を受けて、1879年7月3日、日本政府は各国公使に仮規則の内容を通知、これに対し、アメリカ合衆国・清国・イタリア王国の各国代表は異議のないことを伝えたが、ドイツ・イギリス・フランスは規則の不備を指摘して異議を唱えた。同月、ドイツ船ヘスペリア号が、コレラ流行地である清から日本へ直航してきたので、当局は神戸港外に停泊させていた。7月11日、ヘスペリア号が神戸から東京湾方面に入ろうとしたので、政府当局は、仮規則で定めた神奈川県長浦港(現横須賀市)に設けた検疫場に回航させた。これに対し、駐日ドイツ弁理公使であったフォン・アイゼンデッヘルは、公使館付一等軍医のグッヒョウを検疫場に派遣して独自の検査をおこない、異状のないことを確認し、ヘスペリア号の即時解放を強硬に要求した。
 第4代外務卿寺島宗則
 7月13日、アイゼンデッヘル公使は船長の不服申立書と立ち入り検査報告書の写しをたずさえて再度ヘスペリア号の解放を要求し、日本側の検疫規則にしたがうことはできない旨を申し伝えた[5]。政府当局は最初、規則の遵守を主張したが、やがて譲歩して規則改正をおこない、異状のまったく認められない場合は停船日数を短縮することを認めた。しかし、ドイツ公使は14日、一方的に自主出港を通告、7月15日、検疫要請を無視したヘスペリア号は砲艦ウルフの護衛のもと横浜入港を強行した。これがヘスペリア号事件のあらましである。
 検疫を受けた方が外国人居留地に在住する自国民の安全に資したはずであったが、かれらは日本の検疫そのものが厭わしいというよりは、これが糸口となって、日本の行政規則にしたがわなければならなくなることを警戒したのであった。
 外務卿の寺島宗則は、この出来事について、日本の行政権に対する重大な侵害に相当するとして、ドイツ政府に対し厳重に抗議した。
 影響
 この年は横浜・東京はじめ関東地方でもコレラが大流行し、患者は全国で約16万8,000人、コレラによる死者は1879年だけで10万400人にも達した。東京市においても、市内数カ所にバラックの板囲いで避病院を急造して患者を隔離したが、1日平均200名を超過する新規患者が出るようになると、医師も看護婦も人手不足となり、ろくな看護も受けることなくほとんどの患者は死んでいった。死者は警察官立ち会いのもと火葬に付され、避病院も用済みになると建物ごと焼き捨てられた。
 いっぽう、ヘスペリア号事件に先だって1877年(明治10年)、イギリス商人ジョン・ハートレーによる生アヘン密輸事件が発覚している。これは安政五カ国条約のなかの日米修好通商条約付属の貿易章程に違反していたが、翌1878年2月、横浜イギリス領事裁判法廷は生アヘンを薬用のためであると強弁するハートレーに対し無罪の判決を言い渡した(ハートレー事件)。また、開港以来の横浜居留地での生糸を中心とした貿易においても、外国人商人の商品代金踏み倒しなど不正な取引が頻発していた。しかし、治外法権によって守られていたこともあって、多くの場合、日本人側が泣き寝入りを余儀なくされていたのである。
 1880年明治13年)に着工された鹿鳴館(落成は1883年)
 ヘスペリア号事件に対して、日本の国内世論は沸騰した。日本の知識人の多くが、この事件やハートレー事件等により、領事裁判権の撤廃なくば国家の威信も保たれず、国民の安全や生命も守ることのできないことを理解するようになった。世論は、日本の経済的不利益の主原因もまた、日本に法権の欠如していることが主原因であると主張するようになった。実際問題として、領事裁判においては、一般の民事訴訟であっても日本側当事者が敗訴した場合、上訴はシャンハイやロンドンなど海外の上級裁判所に対しておこなわなければならず、一般国民にとって司法救済の道は閉ざされていたのも同然だったのである。
 この事件は、不平等条約の改正の必要性を広く世論に知らしめた事件のひとつとなった。寺島宗則につづいて井上馨大隈重信青木周蔵など歴代の外交担当者はいずれも条約改正に鋭意努力した。しかし、日本が海港検疫権を獲得するのは、1894年(明治27年)に陸奥宗光外相下でむすばれた日英通商航海条約などの改正条約が発効した1899年(明治32年)を待たなければならなかった。
 なお、この時期におけるコレラ赤痢などの水系感染症の蔓延が一つの契機になって日本の近代水道事業が発展した(→日本のダムの歴史 参照)。医療の充実については、佐々木東洋によって杏雲堂病院が、佐藤泰然によって順天堂病院がひらかれたが、このころにひらかれた医療機関の多くは民間人の手によるものであった。
   ・   ・   ・   

💖9)─2─日本赤十字社の集団的自衛権と同盟国への戦争貢献。赤十字救護看護婦「竹田ハツメ」。~No.39No.40No.41 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 赤十字救護看護婦「竹田ハツメ」展
 出発・病室、フランス救護班の概要出発・病室、フランス救護班の概要
 イギリス、フランス、ロシアへの救護班派遣の概要
第一次世界大戦中、日本政府はイギリス、フランス、ロシアの3国から救護派遣の依頼を受けた。日本政府は直ちに日本赤十字社に対して、3国に救護班1個班を派遣し、戦傷病患者の救護に当たるよう懇請した。
 日本赤十字社は救護班を外国の病院に派遣することは創設以来はじめてのことであった。そのため欧州各国の赤十字救護班と比較されることを考慮し、また日本赤十字社救護班として、無事その大任を果たされるよう、派遣救護員の人選については技量、身体、人格、語学等の細部にわたり特別の注意を払った。厳選の結果、全国各支部から選ばれた救護員数はイギリス派遣27名、フランス派遣29名、ロシア派遣20名である。
 日赤熊本県支部からは竹田ハツメ看護婦が選ばれ、フランスに派遣された。日本赤十字社は派遣救護員が博愛精神に則り救護活動を展開し、大任を無事全うできるよう細心の注意を払った。救護班は責任の重大さを胸に秘め、総裁閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王殿下をはじめ、本社、各支部職員及び政府、国民の激励と盛大な見送りを受け、大正3年10月(ロシア)及び同年12月(イギリス、フランス)に、それぞれの任地に出発した。
 イギリス、フランス、ロシアへの救護班派遣の概要
 塩田医長(東京帝国大学医科大学助教授)以下28人は大正3年12月16日に横浜を出港した。その後、長途の航海を終え、大正4年2月4日にマルセーユに上陸し、パリに到着したのは翌日の5日朝であった。
 日本赤十字社救護班が診療を開始する建物は、凱旋門に近いパリで一流の「ホテル・アストリヤ」を改装して当てられた。派遣救護員は医療機器、薬品、看護用具、事務具等を整備し、「日本赤十字社病院」として、3月16日から診療を開始した。4月3日には開院式が盛大に行われた。参列者は、各階の病室、とくに3階の治療室、調剤室等の整備された施設整備の状況を視察し、全員賞賛の言葉を惜しまなかった。その後「日本赤十字病院」の名声が広がると、大正4年4月4日にポアンカレー大統領の病院視察が行われた。開院当初は80人の戦傷病患者を収容し、治療看護に当たったが、救護班全員の規律正しい行動と、博愛の心に富んだ治療看護、すぐれた医療技術はフランス国民に賞賛され、わずか半年の間に130人に増加した。
 フランス派遣救護班は、大正4年7月13日にフランス政府と協定した5ヵ月間の勤務期間を終了したが、入院患者も満床の状態が続き、また日本赤十字救護班に対する信頼と賞賛の声は各地で高まり、戦時病院の模範とまで賞賛されるに至り、再再延期の末、大正5年7月1日閉院までの間、救護した患者数は、実人員910人、延べ人員にして54,832人に達した。フランス国に別れを告げるに当たり、フランス赤十字総裁の感謝状、フランス政府の表彰状、あるいは大統領の謝辞、各界からの送別の宴の催し等、救護班全員に対して心から感謝の意が表された。
 救護班は大正5年7月10日にパリを出発、9月15日に日本に到着、翌16日解散式を挙行した。その式場で総裁閑院宮載仁親王殿下より慰労のことばを賜った。竹田ハツメ救護看護婦は1年10ヵ月の間、終始健康で無事大任を果たすことができ、県民の盛大な歓迎を受けた。その後竹田ハツメ救護看護婦は、フランス派遣救護員とともに、フランス国勲章を受領した。
 (日本赤十字社熊本県支部100年史より)
 日本赤十字社 熊本県支部
 〒861-8039
 熊本市東区長嶺南2丁目1-1 熊本赤十字会館3階
   ・   ・  ・   
 赤十字救護看護婦「竹田ハツメ」
 日本赤十字社熊本県支部創設120周年記念・赤十字思想誕生150周年記念事業
 2009年は赤十字思想が誕生して150周年の年であり、日本赤十字社熊本県支部が誕生して120周年の年でした。
 このことを記念して、第一次世界大戦中にフランスからの要請に応えて、ここ日赤熊本県支部から派遣された赤十字救護看護婦・竹田ハツメさんの貴重な遺品(熊本県文化企画課博物館プロジェクト班所蔵品)を皆様にご覧いただきました。 赤十字の歴史と活動を少しでも身近に感じていただくことができ、幸いです。
 竹田ハツメ救護看護婦は、大正3(1914)年、日赤熊本県支部から選ばれてフランスに派遣された日本赤十字社創設以来初めてとなる外国の病院への派遣救護員の一人です。また、日本赤十字社看護師同方会熊本県支部の初代支部長でもあります。
 展示品は、以前から竹田家の資料として県に所蔵されていたもので、縁あって初めてその一部を一般公開いたしました。赤十字活動の歴史的資料がほとんど残っていないなか、明治、大正、昭和初期における日赤熊本県支部の事業や、当時の欧州における日本赤十字社の国際活動を顕彰できる貴重な品々でした。
 竹田ハツメさんは、日赤退任後は熊本医科大学看護長や、従軍看護婦としてご活躍後、家政婦紹介所を創業されたとのことです。今後もこれにとどまらず、ご紹介の機会を設けていきます。
 史料展 平成21年5月1日~8月31日
 熊本赤十字会館 1階 展示ホール
 パネル展 平成21年6月29日~7月31日
 熊本赤十字病院 1階 外来大通り ギャラリー
 主催 日本赤十字社熊本県支部
 共催 日本赤十字社看護師同方会熊本県支部
 協力 熊本県(文化企画課博物館プロジェクト班)、日本赤十字社
   ・   ・   ・  
 2014年11月10日 産経新聞「【野口裕之の軍事情勢】第一次大戦、日本も欧州で闘っていた…日本人従軍看護婦の活躍
 安倍晋三政権は女性活躍の場を増やそうとしている。女性活躍推進法案も審議入りしたが政策・法律整備だけでは効果は限定的だろう。女性に限らぬが、やっぱり使命感は尊い。手元に日本赤十字社熊本県支部編纂の《竹田ハツメ展 史料集》が有る。後に旧制熊本医科大学看護長となる竹田ハツメさん(1881~1973年)は第一次世界大戦(1914~18年)中、日赤熊本県支部から選ばれ、日赤創設以来初めて欧露に派遣される救護班の一員となる。第一次大戦は近代的兵器で鎧われた堅牢な野戦要塞と鉄道での物資・人員輸送により防御側有利→持久戦となり、武器弾薬の生産・補給施設など戦場外や、鉄道・船舶=民間人も使う輸送手段も標的と化した。従って軍人・軍属に民間を含めた死者は1700万前後、負傷者を加算すると3700万以上に達した。英国人ジャーナリストは戦場を「肉のミンチ調理器具」、野戦病院勤務の米国人看護婦は戦死傷者を「人間の残骸」とまで形容した。人類が経験したことのない国力を総動員した《総力戦》において、目を背けたくなる患者や血の臭いと闘った日本人看護婦の、強烈な使命感や職業意識は実に誇らしい。
 露仏英へ精鋭を派遣
 大日本帝國は大正3(1914)年9月、ロシア/フランス/英国の救護員派遣要請に閣議決定で応える。参戦半月後のことで、国際的地位を一層向上させるためにも、派遣を成功させなければならなかった。最新医療機材と大量の薬品を用意し、医長▽医員▽事務員▽通訳▽看護婦長・看護婦で救護班を編成。戦時救護訓練を受けた《救護看護婦》は日赤本社や道府県支部別に技量/肉体強健/人格/一定の語学力を基準に厳選された。救護看護婦とは日赤用語で第一次大戦後、帝國陸軍が一般看護婦を採用して以来呼ばれ始める《従軍看護婦》と実態は同じだ。
 早くも翌月ロシアに向かう。4週間近くシベリア鉄道に揺られ現在のサンクトペテルブルクに着く。救護班総数20名(内看護婦13名)で、社交倶楽部、後に貴族の別邸に戦時病院・日赤救護班病院を開設。延べ4万3600名の患者を診る。
 2カ月近く遅れて、フランスに29名(同23名)が、船で横浜を出発し、スエズ運河経由でマルセイユ→パリに50日も掛かって到着。凱旋門にほど近い一流ホテルを戦時病院・日赤病院として借り上げ、延べ5万4900名の患者と向き合う。
 さらに3日後、27名(同22名)が英国へ発つ。米国を横断し1カ月後にロンドン郊外で救護に従事、患者は延べ7万8800名に上った。
 「戦時病院の模範」と激賞
 冒頭触れた《史料集》が収録する戦死傷原因や使用兵器を記したノートには、ハツメさんらがくじけそうになったであろう地獄絵図が透ける。「白兵創/刺創」「銃創」「砲創」「爆傷」など大戦以前にも在る戦死傷原因と人数が並ぶ。「轢傷」というのは新兵器のタンクで轢かれた将兵だろうか。一方で、大戦で進化した「機関銃」「地雷」や低性能ながら投入された「飛行機」、非道なダメージ故国際法で当時既に使用禁止だった「ダムダム」弾も、使用兵器として特記されている。
 さすがに看護婦らは精神的にも肉体的にもボロボロだったに違いない。「さすがに」と断ったのには訳がある。3カ国に赴く看護婦には、日清戦争(1894~95年)→北清事変(義和団の乱/1900年)→日露戦争(1904~05年)時、内地の陸軍予備病院や外地より傷病兵搬送に当たった病院船などで勤務した、経験者が優先された。仏派遣看護婦も経験者が3分の1を占めた。看護実績は高く評価され、パリの日赤病院は他の仏病院に比し重篤者を治療する拠点となる。ハツメさんも日露戦争で傷病兵を扱ってはいた。だが、第一次大戦は毒ガスによる熱傷や右肩から左肩を串刺しにした砲弾片、シェルショック(戦争ストレス反応)…など、凄惨の烈度は別次元だったようで、ハツメさんは「戦慄」した。
 しかも、看護婦は言葉の壁に悩まされてもいた。パリ到着までの50日間、フランス語、特に体の部位などにつき猛特訓を繰り返す。ところが、地方訛の強い兵士との意思疎通は難しく、当初は日赤への入院を嫌がる将兵も少なくなかった。
 もっとも、悲惨な患者に慣れ、会話が少しずつ成立するようになると、既に称賛されていた医員の治療法に加え、ずれない包帯の巻き方など、看護技術は外国医療団の学習対象になり「戦時病院の模範」(1915年12月11日付仏紙)と激賞される。出血が止まらぬ兵士の傷口を9時間も抑え続けており、博愛の心に富んだ応対も連合軍将兵の心を打った。《史料集》に、浴衣を着た傷病兵とともに写る写真を見る。ハツメさんたちが激務の合間、血まみれで後送されて来る傷病兵用に、清潔な着替えとして縫ったものだ。斯くして、手づるを使い入院を画策する将兵まで現出する。
 強烈な使命感と職業意識
 派遣先政府も実力と献身的看護、規律に瞠目した。5カ月間の派遣予定が仏露2回、英国が1回延長を要請。わが国は受諾している。帰国に際し、フランスでは大統領の謝辞や政府/赤十字の表彰・感謝状、英国でも国王謁見の栄誉を得た。各界主宰の送別宴への出席も忙しかった。《史料集》に載るハツメさんの写真では、勲七等瑞宝章▽勲八等宝冠章▽仏国勲章▽日露戦争従軍記章が胸に光る。
 ところで、仏組は出国~帰国・解団式まで1年10カ月間、露組は同じく1年7カ月、英国組も1年3カ月と、独身者もいたろうが長期にわたる過酷な単身赴任が続いた。戦時の救護(日赤)看護婦召集には、乳飲み子を抱えるといった家庭の事情にかかわらず、原則20年の長期にわたり応召義務が課せられていたためであった(後15→12年に短縮)。しかし、御国の名誉に挺身する使命感と職業意識が占めた部分が格段に大きい。
 日清戦争当時は「卑しい看護婦が名誉有る帝國軍人の世話をするのか」と非難が聞かれたが、北清事変→日露戦争での評価が欧露派遣につながる。その欧露派遣は「看護婦さん」が女子の憧れになってゆく過程を加速した。女性の憧れる職場環境を、安倍政権が創造できるか-。女性の側にも、強烈な使命感や職業意識がなければ達成はおぼつかない。(政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS)」
   ・   ・   ・   

💖5)─2─日露戦争と習志野のロシア人兵士捕虜収容所。~No.15 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 習志野市 窓口案内・連絡所〒275-8601 千葉県習志野市鷺沼2丁目1番1号
 更新日:2010年12月16日
 日露戦争は1904年(明治37年)2月10日に宣戦布告され、8月の遼陽会戦、黄海海戦、翌年1月の旅順開城、3月の奉天決戦と展開されたが、仁川沖での緒戦で撃破されたロシア軍艦ワリャーグ号の負傷兵が1904年3月10日松山に着いて以来、ロシア捕虜は続々、日本内地に送り込まれてくることになる。『軍医の観たる日露戦争』(陸軍軍医監西村文雄著)によると、「我が軍の手に落ちたる露国俘虜の総数は79,367名で、之を得たる主なる戦場は鴨緑江594名、得利寺485名、沙河381名、旅順開城に際しては43,975名(内海軍9,475名)、奉天附近20,773名、樺太4,698名等であった。」このうち72,408名を内地の捕虜収容場に収容したとある。そして「俘虜は其階級に応じて名誉を重んじ優遇を与え、健康の保全に勉め、衛生部員は博愛の慈心を以て之に接し、上司も亦屡々其の取扱の懇切なるべきことを訓示した。
 内地の俘虜収容所は松山には初めて之を開き、次で丸亀、姫路、福知山、名古屋、静岡に設け、翌38年に至り、似島、浜寺、大里、福岡、豊橋、山口、大津、伏見、小倉、習志野、金沢、熊本、仙台、久留米、佐倉、高崎、鯖江善通寺敦賀、大阪、弘前、秋田、山形の各地に逐次之を開設した。」とある。
 各収容所の捕虜収容数は、1905年1月11日現在では次のようになっている。
 習志野に捕虜が送られてくるのは、1905年(明治38年)3月下旬のことである。それに先立ち『千葉毎日新聞』は3月20日付で、次のようなニュースを報じている。
 「捕虜収容所新設
 連戦連捷の結果として帝国軍隊の収容せし捕虜其数益々多きに加えて今や松山、福岡、名古屋、大阪其他既設の収容所にては到底狭隘を告ぐるの有様となりしを以て、政府は更らに一大捕虜収容所建設の必要を感じ前日来適当の位置を求めつつありしが、其結果は県下千葉郡津田沼村字実籾及び大久保附近の広地に一大規模を以て新築する事に確定し、已に大部分の土地買収を終りて工事に着手せるが建坪数万、棟数亦た10を以て、日に継ぎ遅くも3ヶ月以内に竣工せしむべき見込みなりと云えば、落成の暁きには捕虜将卒の続々送致せらるるなるべく、尚ほ取締上差支なき限り将校に対しては附近民家の宿泊を許さるるの方針なるやに聞き及べば、同附近は云うまでも無く千葉町、検見川町、幕張町、船橋町辺に於ても之れが為め直接間接に利する処尠なからざるべし。」
 新聞のその後の記事を追ってゆくと、3月25日、26日、27日の3日間で最初の捕虜2,020名が到着している。これは奉天戦の捕虜12,000名が広島県似島で検疫をうけたあと、伏見、大津、豊橋、佐倉、高崎、仙台の各地にも分配されたものである。
 東海鉄道大森駅より亀戸を通り津田沼駅に27日午後5時18分に到着した時の様子を次のように伝えている。
 「駅に着くと既捕虜は着いて居た。列車に並行して2列になって居る。何れも例の通り乱毛の帽子に一様に茶褐色の外套を羽織って、宇品より附き添ひ来りし指揮者陸軍少尉時山太郎以下下士卒12名の令に従って収容せらるべく総数700名習志野に向ふた。垢の嗅プンと鼻をついて臭きは渠等が長陣の労れを知るべく、見物人の煙草喫ふを見ては眼の色をかえて手をつき出すも哀れに、手鼻かみつゝキョロキョロ見廻はす髯面怪やしくも不思議に見えたり。」
 習志野原の収容所に着いたばかりの捕虜は建物はまだできていなかったので、テントに入っている。1つのテントに8人が入り、100張のテントを1区として、4区に区切られていた。炊事場だけは急場しのぎに建てられていて、長さ17間幅4間半のものが、囲いの竹矢来に沿って5棟並んでいた。内には石を積んで竈をつくり一斗焚きの軍用釜が各棟20ずつ備えられていた。記者の目からみると、「早急の場合に処して之れ等のもの総べて仮設的なれど万般の用意周到にして、間然する処無きを見る。」の状態だったらしい。
 テントに落ち着いた捕虜たちは、
 「天幕と天幕の間の空地に1人がバケツ形の水呑に水を入れて頬を湿すと他の1人が剃刀を出して髯を剃って遣り、或は支給された2枚の蒲団にくるまって安眠高臥し、或は一松形の盤に向ふて木屑の駒を使って三々五々頭を鳩めて将棋を戦はし、或は糸を酒保で求めて服の破れ繕ふあり。之も酒保に求め来し白パン、堅パンを噛りながら舌鼓をうって茶を啜るあり、バイブル読みて沈思するあり、蒲団にくるまりながら、故郷をや思ふ輾転反側するあり。是は又汚わしい公然服の縫目をあさりて半風先生を平ぐるあり。打ち見る所、二三を除きては何れも戦陣中の穴居より逃れて此好家居を得たるを悦べるらしく莞爾として巻煙草長閑に吹かす様悠長なりや。」
 収容所長は衛戍司令官森岡大佐で、その配下の1ヶ中隊が東京麻布から来て外部の守備に当っている。収容所内の守備と一切の事務は習志野騎兵一五連隊の森川大尉、和田少尉が責任者である。収容係が、到着した日にパンと手拭と歯磨粉を配ってやったので、捕虜たちは大いに悦んだそうである。
 5月16日に佐倉から300名の下士卒が習志野に転送されて来ている。佐倉の将校10人は従卒10人を伴ってすでに4月13日高崎収容所に移っている。『佐倉市』(林寿祐著大正13年)によれば、「明治38年4月2日、露国捕虜320名収容せられる。9月16日、さらに習志野収容所へ護送せられる。」と記されているという。9月16日は5月16日の誤りであろうか。千葉毎日新聞は佐倉の収容所について次のように報じている。(4月13日付)
 「捕虜数は総じて310名、都小路相済社に145名、公会堂鹿州館に70名、鏑木町妙隆寺に52名、弥勒町勝寿寺に32名宛の下士卒を収容し、将校10名、従卒10名は裏新町富士屋事角田岩吉方に収容し居れるが、その階級氏名は左の如し。(中略)別に新町教安寺に捕虜事務所あり佐倉衛戍司令官越野中佐を所長として京都大尉、中村少尉、及川特務曹長、吉田、荒井両通訳及数多の下士卒を以て一切の事務を整理す。△炊事は将校の分は富士屋自身にて、其他は同町の大川儀衛門、高橋由八の両人請負ひて仕出しつつあり酒保は之も同町の為田平三郎というもの1人にて請負ひ日々日用品を捕虜に供給し居れり。(中略)△渠等は目下定まわる用もなきままに其の習慣たる食後2時間位の昼寝と、将校はトランプ下士卒はシャカシャカと称する将棋の如きもの及び球投げなどをなして日を送る(後略)」
 5月18日名古屋収容所より下士卒250名が習志野に転送されてきている。さらに5月24日から31日までの7日間で浜寺(大阪)と馬場より5,950余名が到着し、7月18日現在11,800名に増えている。その他日付不明であるが、大津、金沢よりの転送もあったということである。いずれも将校は含まれていなかった。
 収容所の建物は3月以来大急ぎで工事が進んでいたらしいが、7月に入って大部分完成して、先着の捕虜がテントより移っている。下士以上1室8畳敷へ2人または3人、兵士は大広間数10人の割りである。亜鉛葺のバラックであるが天井が高いので夏でも暑くないという。なお、建築がいかに大規模で大急ぎであったかは次の記事からもうかがえる。
 「習志野行職工の逆戻り
 下総習志野の俘虜収容所が大急ぎで建築と聞いて、久し振りの大儲けは此時だと職人連は5割増の呼声に気乗りして飛出すも夥しく、大工はほんの必要なだけの道具箱を担ぎ石工は1袋の鉄槌を肩に投げかけ、両国から26銭の汽車賃を払って総武線津田沼駅より目的地へ入り込む。連中は少くとも毎日340人を下らず、差も広き習志野収容所の工事場は大工、石工、土方等にて3,000余人の著しき数に達したるが、此辺は兵営前に10余軒の商家と附近に数軒の農家あるのみにて、宿泊せんとするには半里余も隔たりたる大久保村か或は成田街道の薬園台村に赴かざるを得ず。去れば強いて農家の店前を借受けるものありしより、此まで10畳敷にて1ヶ月22、3円の飛値を現はし、僅か3畳敷の物置同然のものさえ6円以上に引上げたれば、縦え5割増の賃金を貰ひたりとも一室占領などは中々思ひもよらず、10畳敷へ20人も鮨付となって押合ひへし合い、一夜の雨露を凌ぐといふ有様にして、此の上毎日の弁当は外国米入のも5銭宛で大焚出場より買い入れ、酒といへば1合7銭のものが酒とは名ばかりのアルコール水にて、8銭5厘も出して漸く東京の5銭位しか飲めず、其他の食事もこれに準じ孰も眼の球の飛出るようなものばかりとて自ら愚痴も滴したくなり、ベランメヘ江戸ッ子様だ、こんな原の中で何が楽みで斯んな苦しい思いをするのだ。銭が残らぬ位なら寧そ家に寝てゐた方が増だいと、先着の気早連はポンポン言って舞戻るもの引きも切らぬ有様なりといふ。」
 7月13日、収容されていた非戦闘員(衛生部員)88名が解放され、帰国するために神戸に向って出発している。
 7月28日樺太捕虜452名が来着している。これは日本軍が7月8日南樺太コルサコフを占領したときに陸軍大佐アルチシュフスキー以下将校24名、下士以下466名、コルサコフ州長官その他の文官(家族共)154名、非戦闘員15名が捕えられ、船で青森に着き、将校は仙台に、文官・非戦闘員は神戸もしくは長崎で解放せられ、下士卒のみが習志野に転送されてきたものである。
 8月17日から23日にかけて、北樺太の捕虜2,770名が到着している。これはアレクサンドロフ附近で捕虜になったもので、リャーノフ中将ほか幕僚将校13名は弘前、仙台に送られ、下士卒のみが送られて来たのである。
 その他にも習志野収容所への入所があったらしく、9月24日現在で15,005名となっている(これに加えてこの収容所での病死者11名がある)。又、転送されて来たもののうちに、旅順戦役、日本海戦役(2,000人)の捕虜も居たという。
 9月下旬は収容所の建築は75棟完成している。ここで全体の構造を記しておこう。
 収容所の土地総面積55万坪。廠舎は1号から75号までの棟がある。1つの棟は間口4間奥行20間で、中央が通路で長いテーブルがあり、その両側が寝室になっていた。そして、1号から25号までが第一区、第26号より50号までが第二区、51号から75号までが第三区と分けられていた。その他第二区には本部ならびにパン焼場、縫靴工場があり、3区以外に普通病棟6棟と伝染病棟3棟があった。又、各区ごとに事務所、炊事場、寺院(礼拝堂)、酒保、湯室、遊戯室、洗濯室があった。
   ・   ・   ・   

💖7)─2─日本の世界から見捨てられたロシア人避難学童約800人の救出ミッション。~No.31No.32No.33 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本軍人には多様な人間がいて、戦場で、人殺しの悪い事・戦争犯罪をした軍人もいれば、人助けの善い事・人道事業・人道貢献をした軍人もいた。
 善い事をする日本人は2割、悪い事をする日本人は3割、悪い事をしないが善い事もしない日本人は5割。
 同調圧力・場の空気を、嫌い影響されない日本人が2割、好んで仕掛ける日本人が3割、恐れて従う日本人は5割。
   ・   ・   ・   
 共産主義は血を好み、人を虐殺しても、人を助けた事がない。
   ・   ・   ・   
 2021年2月号 正論「先人に倣う
 『革命難民』救出の裏に情報将校
 三浦小太郎 
 令和2(2020)年は、アメリ赤十字社と、日本の『船舶王』の異名を持った元神戸市長、勝田銀次郎、勝田の貨物船『陽明丸』を指揮する茅原基治、そして本稿で触れる日本の軍事諜報員によって、ロシア革命直後に遭難していた子供たちが救出されるという作戦が行われてから、ちょうど100年という節目だった。
 この事件の全貌は『陽明丸と800人の子供たち』(北室南苑編著 並木書房)、そしてDVD〔陽明丸 奇跡の大航海〕(NPO法人 人道の船 陽明丸顕彰会 映画製作委員会)に詳しく描かれている。ぜひご覧いただきたい。ここではまず、事実関係を簡単に紹介する。
 ロシア革命で孤立した子供たち
 1017年、10月革命とソ連邦の成立、その後の『戦時共産主義体制』によってロシア全土に飢餓が拡大する。ボルシェヴィキ政権の相次ぐ失政、特に農村に対する強制的な穀物挑発(というより収奪)という誤った経済政策によって引き起こされたものだった。ペトログラードにも飢餓が迫り、市民たちは、子供たちだけでも、食料があるはずの農村地域に疎開させようと考え、1918年5月から6月にかけて、5歳から15歳の少年少女総勢895人が南ウラル地方に到着した。
 しかし、不幸にも同地は激しい内戦に見舞われることになる。
 第一次世界大戦下、ロシア臨時政府は数万人のチェコスロバキア軍兵士を捕虜としていた。『反ドイツ』『反ハンガリー』意識が強い彼らは、ロシア軍に協力して戦っていた。
 ソ連が1918年3月、ドイツとブレスト・リトフスクで講和条約を結ぶと、チェコ軍は自分たちが嫌悪してきたドイツやハンガリーに引き渡されることを恐れ、海路でフランスにわたるべくまずウラジオストクに向かっていた。
 ところがその最中、ウラル地方でチェコハンガリーの捕虜同士で口論が起き、一人のハンガリー人が殺害される事件が起きてしまう。ソ連の軍事指導者、トロッキーは強権的な処置を取り、チェコ軍に武装引き渡しと赤軍への編入、抵抗するものは収容所行きという過酷な命令を下した。だがそれを 拒否したチェコ軍が同地で反ソ戦争に決起したのである。これを支援する白軍(反革命のロシア軍)や、様々な諸国が干渉し、鉄道も停止、同地に疎開していた子供たちは孤立してしまったのだった。
 米国赤十字社の尽力
 子供たちを引率(いんそつ)していた教師も、またペトログラードに残された両親も、事態を打開しようと懸命に努力する。だが、内戦下の混乱でほとんど身動きが取れない。
 次第に食料が枯渇し、子供たちは現地の農村で働いたり、教会で施しを受けるなどして何とか飢えをしのいでいたが、もちろんそれだけでは充分ではなく、やむなく畑で盗みを働いた子供もいた。しかし、子供たちの団結力は強かった。食料が手に入れば、子供たちは必ず皆で分け合い、独り占めするような子供はほとんどいなかったという。
 同年7月、ウラル山脈東部のエカテリンブルクに幽閉されていたロシア皇帝、ニコライ二世とその一家が、ソ連政府の命令で銃殺される。白軍が皇帝を救出することを恐れたソ連政府の虐殺だった。
 確かに革命下において、ルイ16世もチャールズ1世も処刑されているが、彼らは形式的とは言え裁判を経ていた。ニコライ二世は完全にテロの犠牲となったのである。
 緊迫する情勢下、多数の子供たちが孤立しているという情報が国際的にも伝わり、秋ごろから米国赤十字社の支援が開始された。
 救護隊長は、聖路加病院の初代院長だったルドルフ・トイスラー、現場指揮にあたったのは米赤十字社にいたライリー・H・アレンという救護隊員だった。
 彼らの支援がなければ、子供たちはこの冬に飢えと寒さで全滅したかもしれない。アレンは子供たちを保護し、翌1919年8月に鉄道でウラジオストクに輸送することができた。
 日本の『船舶王』の英断
 しかし、1920年3月から5月にかけて、極東ハバロフスクにあるニコラエスク港で日本軍や居留日本人、ロシア市民がソ連軍によって虐殺されるという尼港(にこう)事件が発生する。
 この事件を含め、ソ連パルチザン赤軍によってテロルや虐殺行為が引き起こされた。これらは決して偶発的なものでもなければ、『内戦』という非常時の行為でもなかった。明確にレーニンの指令によるものだった。
 レーニンロシア革命に伴う内戦や外国の干渉などがまだ起きていなかった1917年12月の段階で、すでにテロルの実行部隊、チェー・カー(秘密警察)を編成し、18年2月には『社会主義の祖国は危機に瀕す』という文書の中で明確にこう述べているのだ。
 『敵の手先、投機者、盗人、よたれ者、反革命アジテーター、ドイツのスパイは、その場で処刑される』
 この言葉には当時政権内からも『あまりに残酷だ』という反論があった。しかしレーニンはこう言い放った。
 『君は、最も残酷な革命的テロルなくして、我々が勝利できると、本当に信じているのかね』(リチャード・パイプス『ロシア革命史』成文社より)
 アレンは状況が危機的になったと判断し、子供たちを船で脱出させ、海路でペトログラードに送り届けることを決意する。だが、いくら助けを求め、協力を呼び掛けてもいい返事が得られない。アメリカ政府も、船会社も、すべて船舶の貸出を拒否するのだった。
 確かに孤立し窮状が深まる子供たちを救出するといっても、子供たちは法的にはもともと『ソ連国民』である。彼らを外国人組織の力で脱出させることは、ソ連国内の法に照らせば『拉致事件』となり、ソ連から批判されるのは目に見えていた。外交問題となることだってあり得る。それを恐れた関係者は救いの手を差し伸べることに二の足を踏んだのだった。
 事実、ソ連政府はこの子供たちの保護を『帝国主義アメリカ』の組織が不当に拘留しているなどと発表していたのである。事態が悪化するなかでアレンは『子供たちを赤軍に引き渡すわけにはいかない、直接両親のもとに送らねばならない』と焦りを深め、アメリ赤十字社の責任で救出策を講じることができないか、と考えるようになる。
 その時、日本で尽力していたトイスラー博士から、神戸にある『船舶王』、勝田銀次郎が所有する貨物船『陽明丸』が、この役目を引き受けてくれることを快諾した──との連絡が入ったのである。
 『陽明丸』の航海
 勝田銀次郎は明治6年、愛媛県松山市に生まれる。偶然出会った東京英和学校(後の青山学院)の本多庸一校長に感銘を受けて同校で学び、キリスト教や欧米の合理主義を学んだ。……子供たちの救出のために、彼は今の金額で数千万円に及ぶ巨費を投じて、貨物運搬ために作られていた陽明丸の内部を改造し、客室や医務室、シャワーなどを突貫工事で整備したのだ。
 1920年7月9日。茅原基治船長率いる陽明丸がウラジオストクに入港する。
 『船の煙突には赤十字旗、船側にはアメリカン・レッドクロスと大書し、メインマストに米国機と赤十字旗、船尾には日章旗』が威風堂々と掲げられ、あくまでも赤十字社の人道事業であると強調されていた。
 『子供たちは、その船の到着を心から待ちわびていました。まるで、自分たちを救い出すために、おとぎの国からやってきた魔法の船のように思えたのです。子供たちは、陽明丸を観て歓声を挙げました』
 祖父母がこの陽明丸で救出されたオルガ・モルキナ氏の言葉である。
 7月13日、ウラジオストクを出発した陽明丸には子供たち780人(男子428人、女子352人)が乗っていた。子供たちの数は残念ながら病死や行方不明になったものや、現地の住民に引き取られた者もおり、疎開時から減っていたが、米国赤十字社スタッフが17人、教師など子供たちの世話のために雇用されたロシア人85人、戦争捕虜78人、そして日本人船員が約60人と、手厚いサポートのなかで多くの子供たちが救出されたのだった。
 陽明丸は7月15日に北海道室蘭に到着する。ここでここで子供たちは一時下船し、住民の温かい歓迎を受けた。子供たちはこの日に市民からもらった絵葉書などの贈り物を生涯も持ち続け、子供や孫もそれを引き継いでくれていた。
 8月1日にはサンフランシスコを経て28日にはニューヨークに到着した陽明丸の子供たちは、ここでいくつかの問題に出くわした。アメリカにはロシア革命を歓迎するロシア人、反革命のロシア人、容共、反共と様々な立場のロシア人が住んでおり、『ソ連に帰るな』『一刻も早くソ連に帰れ』と様々な政治的に干渉する言葉が子供たちに吹き込まれてしまって、子供たちに動揺が生まれたのだった。
 予期せぬ出来事に米国赤十字社は帰港先を、ロシアではなくフランスにし、そこで家族と再会させようと提案するが、今度は子供たちを引率していたロシア人たちが激しく反発し大混乱となった。最終的にはアレンは双方をなだめ、結局、中立国フィンランドに向かい、その後現地で子供たちをソ連側の家族のもとに送るという結論に至る。
 10月6日、フィンランドヘルシンキ港に到着。この海上には機雷が多かったが茅原船長の見事な航海指揮によって乗り切り、同じフィンランドのコイビスト港に移動し、陽明丸の航海は終わった。子供たちは、何人か犠牲(病死、事故死)が航海中出たものの、多くが無事家族のもとに帰ることができたのである。 
 男たちのその後
 アレンはその後、ハワイでジャーナリストとして活躍、真珠湾攻撃の号外記事も執筆している。しかし、彼は自分の新聞では、記者たちに絶対『ジャップ』という言葉を書かせなかった。当時は日系記者ですらその言葉を使おうとしたのだが、彼は断固その姿勢を貫いた。1966年、82歳で世を去った。
 勝田銀次郎は経営につまずいて財産を失ったものの、その人格を評価されて神戸市長を二期務めた。大戦後、昭和27年に79歳でこの世を去った。
 茅原基治は昭和17年、57歳で亡くなったが、50歳を迎えた年、記念として、この航海記録をガリ版刷りの小冊子にして、友人や先輩に年賀状代わりに送っている。『陽明丸と800人の子供たち』にはその全文が掲載されているが、何ら自分を誇ることもなく、随所にユーモアを感じさせる品位ある文章である。この冊子は次の言葉で結ばれている。
 『この可憐な小児たちが、その後幸福な日を送っているかどうかは、一切不明で知りようがないが、「陽明丸」は先年、宮城県金華山の海岸で、濃霧のために暗礁に乗り上げて沈没した』
 この人道事業は、スターリン体制下で全く封殺され、両親も子供たち自身を守り通した。敵国であるアメリカや日本に助けられたということをソ連国内で公言することは収容所送りの対象となりかねなかったのだ。この事業が公的に口にされるようになるのはペレストロイカ末期、ソ連崩壊以後のことである。
 なぜか日本でもこの話は、明るみに出ることなく、数十年が過ぎていった。
 この事実が歴史からよみがえったのは、2009年、書家で篆刻(てんこく)家の北室南苑氏がサンクトペテルブルクで展覧会を開催した際、偶然、陽明丸の少年たちの子孫であるオルガ・モルキナ氏が訪れ、『約90年前に自分たちの祖先を救ってくれた「ヨウメイマル」の「カヤハラ」船長を探してほしい』と資料を渡されたことに端を発している。
 オルガ氏はそれまでにも何人もの日本人に依頼していた。だが、いずれも、『そんな過去のことは難しい』と断られ続けていたのだ。
 はじめは当惑した北室氏は、その後2年以上に及ぶ時間をかけて、報道機関や善意の協力者たちの助けを得ながら、ついに『陽明丸茅原基治船長』を突き止め、茅原氏がたった一冊残していた氏の小冊子を図書館から見つけ出したのである。
 『第五の男』
 情報統制されたソ連ならともかく、なぜ日本でこうした出来事が長く公にならなかったのだろう。この疑問に対して、前著の後半部『陽明丸大航海』を執筆した一柳鵺氏は興味深い論を、本書並びに、DVD〔陽明丸 奇跡の大航海〕にて展開している。
 少なくとも筆者は氏の結論に100%共感している。いくつかの論点を、筆者の解釈も交えながら述べておきたい。
 一柳氏は、この陽明丸の救援活動には、日本、特にシベリア派遣軍が大きく関与していたと考えている。いかに人道事業とはいえ、陽明丸があまりにも絶妙のタイミングで救援を申し出、このような大事業を茅原基治が迷うことなく引き受けたのはいかにも不自然である。
 またわずか1ヵ月の工事で貨物船を客船に変えるほどの改造に対し、監督官庁が直ちに認可することも普通はあり得ない。すくなくともここには一定の『上からの関与』があったとしか考えられない。
 そして一柳氏は、シベリア派遣軍高級幹部、石坂善治郎中将こそがこの事業に関係していたのではないかと述べている。石坂善次郎は1871年生まれ、陸軍軍医総監、森鷗外の上司でもある石坂惟寬の養子となった。日露戦争に出征、戦後もロシアに駐在、1917年1月から18年4月まで、ロシア大使館付武官として、10月革命とソ連誕生の現場に居合わせ、その報告書を送っている。
 ここで石坂善治郎は、同地の混乱や飢餓の状況などをまざまざと見たはずである。199年2月から21年3月までは、ハルピン特務機関長を務めた。当時のシベリア派遣軍の中枢にいた人物である。しかも、この石坂善治郎は、茅原船長の従兄叔父にあたる親族だったのである。
 石坂惟寬は軍人であるとともに人道的医師であり、赤十字にも深く共感しており、石坂善治郎はその影響を強く受けていた。救援活動を行っていたトイスラー博士、そして彼を引き継ぐアレンの献身的な努力にも共感していたはずである。かつ、ロシア革命の現場を知り、前任地ペトログラードからこの地にたどり着いた子供たちへの愛着や同情もあったはずだ。
 同時に、尼港事件以後緊迫する現地で、日本軍と赤軍の激突が生じ、万が一にも子供に犠牲が及べば、現地の日本軍の名誉や国益にも大きな損失が起きると判断した。
 さらに言えば、当時日米関係は決して良好ではなかった。特にシベリア出兵をめぐっては路線が対立していたからだ。この救援活動に日本軍が直接関与するやり方で助け出すよりも、あくまで民間人や赤十字社の救援活動という形で子供たちを救出したほうが、アメリカや赤十字社も受け入れやすいはずだった。
 そして救援後も、日本軍の関与は秘密裡にした方が、子供たちや両親に至るまで安全が守られるだろう。『敵国の軍に助けられた』という話が流れてしまってはソ連政府にとっては面白いはずがなく、その矛先は家族にも及び、粛清の対象にだってなりかねない。
 石坂善治郎はそう考え、親族の茅原船長に連絡、また勝田銀次郎に相談しさらには監督官庁にも陽明丸改造の許可を直ちに出すことを命じたのではないか。こう考えれば、この事業が当時殆(ほとん)ど公表されなかった理由もつじつまの合う話だと理解できるのである。
 一柳氏のブログ『人道の船 陽明丸 特務係の日誌』にある『米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長』では書簡集など新資料の発掘などを発信しつつ、さらに詳細緻密な解説をしている。
 石坂善治郎も、茅原基治も、勝田銀次郎も、そしてアレンも、己の功をほとんど語ることなく生涯を終えた。国益及び外交関係にとっても、また子供たちの身の安全のためにもそのほうが正しいと判断したからだろう。
 石坂善治郎は職務として徹頭徹尾、日本の国益のために行動した。しかし、それは民族を超えた人道精神と何ら矛盾するものではなかった。特に、ロシア革命が起きたのち、日本国内では共産主義に対して、幻想を抱く風潮が蔓延したと言われがちだが、当時の軍人はこうした風潮に踊らされることなく、目のあたりにした光景から共産主義の持つ恐怖政治の体質を直ちに見抜いたうえで即座に行動に移した点、さらには当時の国際情勢や共産主義の本質を踏まえながら的を射た適格な判断対象を講じていることは、もっと公正に評価されて良い。 
 また、従来の歴史観では、シベリア出兵は失策とされ、日本軍人は侵略や反共の意図のみで行動したとみなす傾向があった。
 しかし、ペトログラードで、いやロシア全土で民衆が飢えているというのに、共産主義のドグマから農村を収奪し続け、抵抗する者だけではなく、自分たちが『反革命』とみなした存在には自国民であれ、容赦なくテロを働き、尼港事件での日本人虐殺のみならず、海外で無謀な革命運動を煽動したソ連体制の指導者たちと、その後のスターリン体制を観る時、ロシア革命への『干渉』に対してはまた別の解釈も成立するように思われる。
 共産主義という悲劇
 前述したDVDでは、ちょうど子供たちがウラジオストクを旅立った1920年、北室南苑氏の祖父が軍人としてシベリアに向かったこと、祖父が人格見識共に優れた人物だったことが明らかにされている。万感の思いを込めてロシアに続く海を眺める北室氏に姿に感動を呼ぶ。
 特に日本国はシベリアにおける居留民保護という現実を抱えていた。これも諜報員としてシベリアで活動した日本陸軍の軍人、石光真清は、その回顧録『城下の人』四部差右作の『誰のために』(中央文庫)で、シベリア居留民たちが現地のロシア人と連帯して日本人義勇軍を結成したことを描いている。ロシア人の側が、むしろ日本軍の保護による地域の平和を求め、それに日本人も応じたのだ。
 しかし、石光はこうした案に消極的で、一時は義勇軍の解散をも提案した。日本軍が本当に彼らを守るために行動するという確信が持てなかったのだ。居留民たちは一度ロシア人と約束した以上裏切るわけにはいかないと提案を拒否、最後は極寒の戦場で赤軍と闘い崩壊した。
 石光は深い後悔と懺悔(ざんげ)の言葉を記し、日本を含む連合軍が、権益擁護や外交上の計算ばかりではなく、もっと地域の平和維持のために力を尽くすべきことを訴えている。
 私たちはこの陽明丸という人道事業と共に、ロシアに誕生した共産主義革命がいかに多くの惨劇を人類にもたらしたか、そして今もまた中国や北朝鮮ではその体制が存続していることを再認識すべきではないか、と思う。
 今も中国、チベットウイグル、モンゴル、そして北朝鮮においては、共産党独裁体制下で多くの人々が、特に罪もない子供たちが、同じく生命の危機や共産主義体制の洗脳による精神破壊の危機に陥っているのである。
 私たちの優れた先人は、ロシア革命勃発の段階でその残酷な正体を見抜き、犠牲者たちを救済する人道事業を実践した。国益を護る諜報活動や軍事活動は、普遍的な人道精神と何ら矛盾するものではなかった。……陽明丸によって子供たちを救った先人たちに学ぶべきは、この精神に他ならない。
 この陽明丸による人道事業は、NPO法人『人道の船 陽明丸顕彰会』(石川県能美市)により、顕彰活動や文化交流が行われている。」
   ・   ・   ・   
 2020年11月20日 朝日新聞デジタル「800人の子ども救った日本船 国境越えた「4人の男」
 編集委員・副島英樹
 ロシア革命後の1920年、混乱に巻き込まれた約800人のロシアの子どもたちを救い出し、3カ月かけて故郷に送り届けた日本船があった。ロシア極東から米国を経由し、二つの大洋を越えて航海した「陽明丸」。その大航海を果たして今秋でちょうど100年になる。日米ロによる国際人道協力に光を当て、時を超えて語り継ぐ試みが続けられている。(編集委員・副島英樹)
 陽明丸
 神戸の船会社が大正時代に運航した貨物船。米国赤十字の要請を受けて改造客船に模様替えされた後、ロシア革命下の混乱に巻き込まれた子どもたちを1920年7~10月、極東ウラジオストクから太平洋と大西洋を横断して故郷サンクトペテルブルク近くの港まで運んだ。
 「この驚くべき歴史を詳しく知って頂き、尊いヒューマニズムの先例として、日ロ間の大使の活動でも生かしてほしい」
 金沢市内で10月19日に開かれた日ロ交流の会合で、日露戦争のロシア人捕虜の歴史調査に尽力してきたミハイル・セルゲーエフ在新潟ロシア総領事は、そうつづられた一通の手紙を受け取った。
 手渡したのは、石川県能美市篆刻(てんこく)家、北室南苑(なんえん)さん(73)。祖父母が陽明丸に乗っていたロシア人のオルガ・モルキナさん(66)から託されたものだった。
 2009年9月、ロシアの古都サンクトペテルブルクで個展を開いていた北室さんを、モルキナさんが訪ねてきた。「カヤハラ船長の子孫を捜しています。子ども難民の子孫を代表してお礼を述べたいのです」。ロシア国内や米国で様々な史料にあたってきたが、カヤハラ船長の消息だけはつかめないという。祖父母の友人が保管していた制服姿の写真が、唯一の手がかりだった。
 北室さんは2年近く、海運業界や図書館、古書店を巡った。そして、大正末期発行の分厚い船員名簿の中に「茅原(かやはら)基治(もとじ)」を発見した。親族が岡山県笠岡市で墓を守っていることが分かり、11年10月に墓参が実現した。モルキナさんは花束とロシア国旗を捧げ、こう語りかけた。「茅原船長の魂は、ロシア難民の子孫の心の中に永遠に生きています」
 モルキナさんは「『ウラルの子供たち』子孫の会」の代表として、北室さんは13年に設立したNPO法人「人道の船 陽明丸顕彰会」の理事長として、調査・研究や民間交流を重ねている。二人の出会いが、長く埋もれていた歴史に光を当てることになった。
 ロシア革命で混乱
 ロシア革命赤軍と白軍などの内戦が激化した1918年。当時の首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)から、5~15歳ほどの子ども895人が南ウラル地方に集団疎開し、米国赤十字シベリア救護隊の支援で19年に極東ウラジオストクまで避難した。」
   ・   ・   ・   
陽明丸と800人の子供たち
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 石坂 善次郎(1871年9月17日(明治4年8月3日) - 1949年(昭和24年)2月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・山本。
 経歴
 兵庫県出身。山本庄五郎の二男として生まれ、陸軍軍医総監・石坂惟寛の養嗣子となる(本籍・岡山県)。陸軍幼年学校を経て、1890年7月、陸軍士官学校(1期)を卒業し、翌年3月、砲兵少尉に任官し近衛砲兵連隊付となる。1895年11月、陸軍砲工学校を卒業。さらに、1900年12月、陸軍大学校(14期)を卒業した。
 参謀本部出仕、参謀本部員、ウラジオストク駐在、大本営付などを経て、1904年3月、第2軍諜報参謀として日露戦争に出征した。戦後、ロシア差遣、オデッサ駐在となった。1909年11月、野砲兵第5連隊長となり、次に第5師団参謀長を務めた。第一次世界大戦ではロシア大本営付となり観戦武官としてロシア軍に従軍した。
 1916年8月、陸軍少将に昇進。翌年1月から1918年4月までロシア大使館付武官を務めた。野戦重砲兵第1旅団長を経て、シベリア出兵では浦塩派遣軍司令部付となり、1919年2月から1921年3月までハルピン特務機関長を務める。1920年8月、陸軍中将に進級。1921年4月から由良要塞司令官を務めた後、翌年8月に待命となる。1924年3月、予備役に編入された。その後、遊就館長を務めた。
  ・  ・  
 石光 真清(眞清)(いしみつ まきよ、慶応4年8月30日(1868年10月15日) - 昭和17年(1942年)5月15日)は、日本陸軍の軍人(最終階級陸軍少佐)、諜報活動家。明治から大正にかけてシベリア、満州での諜報活動に従事した。
 概要
 明治元年(1868年)、熊本市に生れる。少年時代を神風連の乱西南戦争などの動乱の中に過ごし、陸軍幼年学校に入る。陸軍中尉で日清戦争に参加して台湾に遠征、ロシア研究の必要を痛感して帰国、明治32年(1899年)に特別任務を帯びてシベリアに渡る。
 日露戦争後は東京世田谷の三等郵便局長を務めたりしたが、大正6年(1917年)に起きたロシア革命の後、再びシベリアに渡り諜報活動に従事する。
 帰国後は、夫人の死や負債等、失意の日を送り、昭和17年(1942年)に76歳で没した[1]。没後に石光真人が編み完成させたのが手記(遺稿)四部作『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』である。この四部作のうち、『城下の人』『曠野の花』が1958年に毎日出版文化賞を受賞し、また伝記作家の小島直記、評論家の呉智英など、多の識者が自伝の名作と評価している。
   ・   ・   ・   
 世界は総論賛成・各論反対で、生きるか死ぬかの瀬戸際にあるロシア人避難学童やユダヤ人難民の絶望的状況に同情するが、「火中の栗を拾う」ような自己犠牲を伴う救済を嫌い、死の危険がある現場に飛び込んで彼らを助けようとしなかった。
 ボランティアとは、命の危険がない安全地帯で行う自己満足的奉仕活動であり、命の危険がある危険地帯で命や生活を犠牲にする覚悟の上での決死行為ではない。
 ボランティアと決死隊とは違うのである。
 世界には、ユダヤ人やアフリカ人そして日本人に対する偏見、宗教的人種差別が支配的であった。
   ・   ・   ・   
 日本民族には、本音と建て前があった。
 昔の日本人は、本音として、シベリア出兵時のロシア人避難学童・ポーランド戦争孤児及びロシア・ユダヤ人難民や白系ロシア人難民などの救出、日中戦争時のポーランドユダヤ人難民の保護を行った。
 その全てに、軍部特に陸軍が深く関与していた。
 現代の日本人は、本音より建て前を優先する。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、「泣く子と地頭には勝てぬ」である。
   ・   ・   ・   
 日本陸軍は、シベリアの激戦地からロシア人避難学童を助け助けたが、国際世論の非難を恐れて表立って行動せず、裏方に徹して支援した。
   ・   ・   ・   
 NPO法人にも、役に立つ善意のNPO法人があれば、役に立たない害悪だけのNPO法人がある。
   ・   ・   ・   
 軍国日本には、職業軍人として現役兵・予備役兵・後備役はいたが、民間人による義勇兵はいなかった。
 職業分離の原則から、軍隊は民間人が徴兵されて正規な階級兵士にならないければ無階級の非戦闘員として差別し作戦行動の邪魔者とし軍事施設から排除した。
 民間の国土防衛隊も同様である。
 金銭契約で軍属になった者は準戦闘員として扱った。
 本土決戦の為の根刮ぎ動員では、民間の義勇隊や国土防衛隊は正規軍の補助として扱われた。
   ・   ・   ・   
 シベリア出兵時に行われたロシア人避難学童救出劇は、靖国神社の心・志、死中に活を求める的に死地に飛び込む特攻精神であった。
 十中八九の死に一二の生を見出す、という死の覚悟であった。
 日章旗(日の丸)は希望の星であり、旭日旗(軍旗)は生きる光であり、国歌(君が代)は慰めと癒しと勇気の源泉であった。
   ・   ・   ・   
 軍国日本、軍部、陸軍が自己犠牲で行った人道貢献・人道事業は、戦後、世界正義による「戦争犯罪」として切り捨てられ、世界平和の為として歴史の闇に葬られ忘れられた。
   ・   ・   ・   
 戦前の日本は、キリスト教諸国も社会主義諸国・共産主義諸国もできないような事を行っていた。
 それが、天皇の御稜威・大御心であり、靖国神社の心・志・気概であった。
 そして、その象徴が昭和天皇裕仁皇太子)であった。
   ・   ・   ・   
 日本人漁民は、二次遭難として溺死する危険性があっても同じ海で生きる仲間として、幾度も嵐で遭難したロシア船から数多くのロシア人船員を助け出し、犠牲となったロシア人船員を丁重に弔い、引き上げた遺品を全て家族の元に送った。
   ・   ・   ・   
 日本人は、ロシア人に助けられた事は一度もない。
   ・   ・   ・   
 大正(1918)年7月~9月 シベリア出兵が発表されるや、商社や投機家はコメが兵糧として買われると予想して買い占めにはし言った為に米価は高騰した。
 富山県魚津の貧しい家庭の主婦達は、コメの廉売を要求して米屋・富豪・警察署などを襲撃した。
 米騒動は全国に波及し、貧困層の地方の農民や都市の労働者などが各地で富裕層に対して民衆暴動を起こした。
 政府は、暴動鎮圧の為に軍隊を派遣した。
 寺内内閣は、暴動の責任を取って総辞職した。
 日本国内は第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)とシベリア出兵(1918~22年)までの戦争特需で、商社は金儲けの為に民需を後回しにして軍需を優先した。
 産業界・船舶業界・造船業界は戦時体制として、軍部との関係を強め、軍人の無茶な要求に唯々諾々と従い、軍隊の仕事を受注する事で大儲けしていた。
 日本的な持ちつ持たれつの「魚心あれば水心あり」や「損して得(とく)をとれ」であった。
   ・   ・   ・  
 最高学府である帝国大学マルクス主義が流行り、学業優秀な学生ほどマルクス主義を熱心に学び、卒業後は革新官僚となって政治権力を握り政府・官公庁を動かしていた。
   ・   ・   ・   
 現代日本の高学歴知的エリートの中に、レーニン信奉やレーニン崇拝という隠れマルクス主義者・隠れ共産主義者が数多く存在する。
   ・   ・   ・  
 昔の日本人は現代の日本人とは違い、そして中国人や朝鮮人とも違い、命の危険や損をを承知で人類史的人道貢献を繰り返していた。
   ・   ・   ・  
 日本民族は、有言実行・不言実行で、契約書がない口約束でも、自分が不利になると分かっていても守っていた。
   ・   ・   ・   
 日本人共産主義テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
 日本政府は、1925年に治安維持法を制定し、特高警察(特高)を強化して、皇室廃絶・国家転覆・民族否定という暴力的人民革命を目指す共産主義者弾圧に乗り出した。
 軍部は、軍隊内に蔓延し始めた共産主義細胞を撲滅する為に憲兵を動員した。
 現代の歴史教育は、治安維持法を反人権の悪法とし、特高警察と憲兵隊を非人道的犯罪集団と決めつけている。
   ・   ・   ・   
 ロシア革命は、共産主義者が公的暴力機関である軍隊と警察・秘密警察・秘密情報部を掌握し、大学などで革命幹部を大量に量産し、報道機関を使って人民を煽動して成功した。
 共産主義者は、ロシア皇帝家族を惨殺し、ロシア正教などの宗教施設を破壊し、皇帝資産・民族資産(個人資産)・教会資産を人民搾取資産としてユダヤ系国際金融資本に売って私腹を肥やした。
 一部のユダヤ系国際金融資本や国際軍需産業は、隠れてロシア革命を支援していた。
 戦争や革命は、他国の資本家にとって大金を稼ぐ好機であった。
 共産主義大義を受け入れず、拒否する者や従わない者は反革命分子として家族諸共にその場で惨殺するか地獄の強制収容所に送り込んで殺した。
 共産主義とは、人民の正義に対する「従属の生か拒絶の死」の二者択一しかなかった。
 共産主義者が去った後には、死体の山と血の湖ができた。
 ソ連コミンテルン中国共産党は、日本への浸透を深めていった。
 特に、帝国大学などでマルクス主義教育が行われた。
 戦前の日本は、特高憲兵を使ってマルクス主義社会主義ではなく共産主義を弾圧した。
   ・   ・   ・   
 同じ金持ちでも、現代の富裕層と昔のお大尽とは違う。
 現代の富裕層は、貧富の格差が広がり社会のブラック化が深刻化しても気にはしない。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、見られているからやるのではなく、見られてんなくてもやるのである。
   ・   ・   ・   
 昔の日本人は、人道貢献・善因・善行をひけらかさして自慢せず、隠し、人に知られないようにした。
 皆に分かって貰わなくとも、分かる人だけ分かればいい。
 言わなくても、見せなくても、誰かが見ててくれる。
 が、世界は日本を見ていなかったし、見ようともしなかった、そして日本を分かろうとしなかった。
 日本は、世界で孤立していた。
 日本は信用されていなかったし、日本人は愛されていなかった。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は、中国共産党チベットウイグル・モンゴル・少数民族に対して行っている「人道に対する犯罪」であるジェノサイドを非難せず、沈黙し、他人事として助けようとはしない。
 日本国内に、中国共産党に忖度する親中国派・媚中派が蔓延っている。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、お人好し・お節介が強く、難儀をし困っている女性や子供、病人や怪我人などの弱者を見ると見捨てられず、「やむにやまれぬ」思いから「損を承知」で救いの手を差し伸べた。
 が、日本の善意は国際社会で理解されず、後でしっぺ返しを食らい大損する事が多かった。
 だが、日本民族は結果的に「善因悪果」であっても、それが自分の人生・定めなら「やむなし」と甘受して生きてきた。
 日本民族の信条は、「義を見てせざるは勇無きなり」であった。
   ・   ・   ・   
 誰かが見ていてくれる、と自分に言い聞かせ自分を慰めて生きていた。
 「天知る、地知る、我知る、子知る」(『後漢書楊震伝』)で、他人の評価・世間の評判を気にせず、自分が正しいと念う信念・志に従い、自分の心を偽らず、祖先神に恥じない生き方を貫いた。
 が、子知るの現代日本人は、祖先を罪悪人だったとする自虐史観歴史教育を子供たちに行っている。
 それが、靖国神社問題である。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人と昔の日本人は別人のような日本人で、昔の日本人が素晴らしかったからといって現代の日本人も素晴らしいとは限らない。
   ・   ・   ・   
 昔の日本人は、現代の日本人のように他人から誉めて貰い励まして貰いたいおだてて貰いたい、という甘えた気持ちはなかった。
   ・   ・   ・   
 現代日本人を象徴する事件は、イラン・イラク戦争勃発時、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、護憲派人権派労働組合反戦平和団体、左翼・左派などが戦場となったテヘランに取り残された邦人を救出する民間の特別機や自衛隊機を派遣する事に平和憲法の原則から猛反対した事である。
 つまり、救出機派遣に猛反対した日本人は、憲法に従い「国家は戦場となった国・地域に取り残された日本人を助けてはならない」と主張したのである。
 彼らは言う「国家は国民を助けず、見捨てる」と。
   ・   ・   ・   
 昔の日本人は、武器を持って戦う相手が兵士だろうが女性や子供でも戦場で殺したが、武器を持たず抗戦の意識のない敵国人は助けて安全地帯へ逃がした。
 それが、子供や女性であればなおさらであった。
   ・   ・   ・   
 ソ連軍・ロシア人共産主義者は、逃げ惑う日本人避難民を虐殺し、日本人女性は強姦した後に惨殺した。
   ・   ・   ・   
 ロシアは、戦前の日本に子供達が助けられたにもかかわず感謝せず、不法占拠した北方領土4島を日本に返還する事を拒絶している。
 しょせん、ロシア人とはそうした恩知らずの人間である。
   ・   ・   ・   
 日本人の金持ちと言っても金の使い方からして、昔のお大尽様と現代の富裕層は別人である。
   ・   ・   ・   

💖6)─3─ドイツ軍と戦う蜂起部隊イェジキの子供を陰で助けていたワルシャワの日本大使館。~No.27 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本陸軍・シベリア派遣軍の輸送船は、子供たちを救った人道の船。
   ・   ・   ・   
 2021年2月号 正論「先人に倣う
 親日の種をまいたポーランド人孤児
 坂本龍太朗
 2020年8月、ポーランドの首都ワルシャワでは76年前に起きたワルシャワ蜂起の慰霊祭が執り行われた。その1ヶ月後、同じ蜂起に関連した別の慰霊祭がワルシャワ北部にあるカンピノスの森で開かれた。その慰霊祭には『正論』令和元年11月号『語り継がれる日本への愛』で紹介した『ポーランド・シベリア孤児記念小学校』の子供たちが参列していた。簡単におさらいしておくと、『ポーランド・シベリア孤児』とは1920年代にシベリアに出兵していた日本軍によって救出された約800人のポーランド孤児たちのことで、2020年はこの救出劇から100周年となった。慰霊祭に小学校の子供たちが参列した理由、それは日本から帰国を果たした後、第二次世界大戦勃発に伴い多くの孤児たちが祖国防衛のために立ち上がり、ワルシャワ蜂起にも参戦していたためである。愛国心の大切さは日本から教わった。孤児たちがそう語っていたことからも分かるように、戦場において彼らを精神的に支えていたのは第二のふるさとともいえる日本の存在であった。その歴史は今でもポーランド人の間で語り継がれ、日本との絆を強くし続けている。
 今回はその歴史を紐解きたく、両国関係に大きな影響を与えたある人物を紹介したい。その男の名はイェジ・ストゥシャウコフスキ(1901~91)。彼はシベリアで救出された孤児の一人だった。無事に、帰国した彼はポーランド各地で精力的に日本について広め続けた。戦後は自身が日本で受けた温かいもてなしを苦境にあるポーランドの子供たちにほどこし、今では『1,000人の父』と称されている人物である。
 12歳で孤児に
 イェジはキエフ郊外のスウタノヴィツに生まれた。父方、母方の祖父ともに1863年の1月蜂起でロシア帝国の支配に立ち上がり、シベリアに連行されている。刑期を終えてもポーランドには戻れず、ウクライナで帰国の機会をうかがっていた。そのためイェジの両親はウクライナで生まれ、結婚後も農業を営みながらイェジを含む5人の子供を育てていた。
 悲劇が家族を襲ったのは1914年。父がポーランド人であるという理由だけでボルシェヴィキ(後に共産党へとつながるレーニンが率いた左派の一派)に射殺されたのだ。ロシア革命後の混乱でロシア領内にいたポーランド人のうち、15~20万人の命が失われたと言われている。大黒柱を失った一家は財産を失い、ウクライナ南部のヘルソンへ強制移住させられた。
 移住後、兄弟や母がチフスに感染、イェジはキエフの叔父に引き取られた。その道中、イェジも感染し、一命をとりとめたが、看病していた叔母は亡くなってしまう。その後、イェジは、家族の元へ戻ろうと決意し、ヘルソンに向かうが、到着数日前に家族全員がポーランドに帰国したことを知る。
 身寄りを失ったイェジは12歳で、ポーランド救済委員会に保護された。ポーランド救済委員会とは1919年9月16日にシベリアにいたポーランド人孤児たちを救済するために設置された組織だ。英米仏など主要国からの支援を断られ、最後に扉をたたいた日本の支援で救出されたのだった。
 ポーランド孤児は東京・渋谷にある孤児養護施設『福田会』で療養し、手厚いもてなしを受けた。子供たちの多くは皮膚病など様々な病気を抱え、靴を履いていた子供も少なかった。イェジも日本赤十字看護婦らによる手厚い看護を受け回復した。
 帰国後のイェジ
 イェジは翌年ポーランドに帰国し、家族との再会を果たす。帰国後、イェジのように身寄りを見つけることができたポーランド孤児は30%程度であった。当時、祖国独立に伴い、国外にいた数多くのポーランド人が帰国、国内は混乱状態に陥っていた。祖国ポーランドには孤児たちを全面的に受け入れる余裕はなく、イェジたちは同国北部にあるヴェイヘローヴォの施設に収容され、共同生活を送ることになった。
 ヴェイヘローヴォで子供たちの教育において中心的な役割を担ったのは救済委員会副会長のヤクブキェーヴィチ(1892~1953)だった。ここでも日本の歴史や文化が教えられ、徳育の精神も教育に取り込まれた。子供たちもまた、スポーツのクラスで使っていたヨットの一つを貞明皇后陛下の諱(いみな)である『さだこ』と名付けたり、裁縫の授業で手縫いの浴衣を作るなど、日本を常に身近に感じていた。
 ヴェイヘローヴォで中等教育まで受けたイェジは、1928年にワルシャワ大学心理学部に入学。その2年後に極東青年会を設立し、自ら会長に就任した。青年会は日本を深く知り、ポーランド国内に広めていくことを活動の主眼に置いていた。
 青年会が発行した雑誌『極東の叫び』には日本の歴史、文化、武士道に加え、日本語のレッスンコラムも組まれ、ポーランド全土に配布された。第25号(1923年)には『極東青年会はポーランドと日本を繋げる社会的な役割を担っていきたい。そのためポーランド国内で日本の情報を広く発信していく(著者訳)』と青年会がいかに日本を伝える活動を重視していたかが分かる記述がある。
 イェジ率いる極東青年会は日本大使館などから支援金などもあって活動の範囲を広げていった。ポーランド各地で日本映画上映会や日本に関する本の読み聞かせ、『日本の夕べ』『桜の国の夜』といった日本関連イベントの主催、図書館や学校への900種類を超える日本関連の本や記事の配布、ラジオなどを通して日本を紹介し、ポーランド親日へと導いていった。
 1940年には日本再訪が計画された。しかしその夢は1939年にドイツによるポーランド侵攻で灰燼と化した。 
 日本大使館との関係
 イェジは学生時代から未成年のための裁判所や、特別支援学校で働きながら、かつての自分と同じような境遇にある子供たちのための孤児院も運営した。ただ、表向き孤児院を運営しつつ、裏では祖国防衛に備え、孤児院に武器弾薬などを集め、1929年10月に『特別蜂起部隊イェジキ』を結成した。ちなみにイェジキとは『イェジの子供たち』という意味で、極東青年会のメンバーに加え、多くの孤児たちが加わった。
 部隊の秘密拠点だった孤児院に何度かドイツ兵が押し入ったことがあった。彼らは子供たちに銃口を向け、孤児院の捜索を始めるが、孤児院のベルがなると見慣れない服を着た紳士が現れた。常日頃から孤児院を支援していた日本大使館の職員だった。大使館職員はドイツ兵らに孤児院が子供たち、スタッフとも日本国の庇護下にあって、一切の手出しを許さないと伝え、ドイツ兵を追い出した。おちろん、あらかじめイェジと日本国大使館が事前に打ち合わせをしていたようだ。
 戦時下にあって孤児院の環境が悪化したときもイェジに手を差し伸べたのは日本だった。ナチス・ドイツワルシャワを占領、日本大使館に閉鎖要請が下ると、イェジは大使館から一つの鍵をい託された。それは大使館内の倉庫の鍵で、その中には子供たちが生きながらえるれるだけの食料が保管されていた。また、イェジは日本大使館の職員を通して、ロンドンのポーランド亡命政府と連絡を取ることができた。
 イェジはドイツ占領下のワルシャワにあって常に捜索対象リストの上位に入っていた。イェジを追い詰めようと周囲のスタッフは次々にナチスに逮捕された。イェジの恋人、バルバラユダヤ人の子供をかくまった罪でドイツ軍に子供たちと共に孤児院の隣で公開処刑されている。孤児院内では占領下で禁止されていたポーランドの歴史、地理、文化などの教育を行っていたこともあり、多くのスタッフも路上で射殺された。中にはアウシュビッツに送られた者もいた。
 しかし、側近が次々と逮捕、拷問、処刑されも誰一人イェジの居場所を口にする者はいなかった。孤児院内では逮捕者が出るたびに別のスタッフが代わって子供たちに愛国教育を施し続けた。愛国心を育む大切さを日本から教わったとイェジは言う。戦時においてもその意志は孤児院内で共通の認識として変わることはなかった。
 特別蜂起部隊イェジキは全国で1万5,000人の兵力を擁し、各地でドイツ軍への抵抗を続けた。部隊による鉄道輸送関係の破壊活動は122回に上り、その活動は戦闘機の破壊やドイツ車両の襲撃、地下出版までにわたる。部隊には17歳以上でなければ入隊できなかったが、それより若い子供たちの志願も多かった。イェジは成人していない子供たちを戦場に連れていくことを拒んだが、それにも関わらず多くの子供たちが自発的に同行した。それだけイェジが慕われ、彼らの多くが肉親らを目の前で殺され、ドイツ軍への復讐心に燃えていたのだった。
 現在、ワルシャワの旧市街地には『子供兵の像』が建っている。そこには子供連れの親がよく訪れ、自由とは戦いとの犠牲の上にあると子供たちに伝えている場となっている。
 イェジキ部隊はポーランド独立のために戦い続けた部隊であった。イェジは孤児院で日本の勇敢な軍人の話を聞かせ、特に強調したのが、日本人の勇気や祖国への忠誠心だった。
 全体主義との戦い
 ユダヤ人をかくまったことが知られれば家族全員処刑されると状況下で、イェジはユダヤ人の救出でも知られている。自分達は日本によって命を救われた。その命で、同じ境遇にある人たちを救いたい。そんなイェジの想いが実際の行動となった。ユダヤ強制移住地域ゲットーの壁に穴を開け、閉じ込められていたユダヤ人達を何度も救い出した。イェジキ部隊に救われたユダヤ人の数は約800人にも上る。
 ワルシャワ蜂起ではイェジを含む550名の部隊員が旧市街地防衛戦に参戦し、20日間で66名の犠牲を出す。その後、連合軍がワルシャワ北部のカンピノスの森に投下した武器や弾薬を回収し、旧市街に戻る作戦を引き受け、イェジは125人の隊員と共に森に入る。しかし武器は回収できたものの、圧倒的なドイツ軍に包囲された。イェジは16歳以下の者と家族のある男性を部隊から離脱させ、熾烈なゲリラ戦に入る。しかし離脱したはずの子供たちの中には、共に戦いたいとあえて部隊に戻り、その多くがイェジの目の前で散っていった。
 ゲリラ戦が始まって約1ヵ月後、生き残った隊員と共にイェジは森を出る。しかしそこでドイツ軍に囲まれ、多くがその場で射殺されたが、イェジは国内軍特別蜂起部隊イェジキ中尉と書いてある身分証を持っていたため、ドイツ軍に連行される。その後の尋問や軍事裁判の過程で、警備の目を盗み逃走し一命をとりとめた。
 1945年、イェジキ部隊が1,200人の戦死者を出した戦争が終結した。しかし、イェジの戦いは終わらなかった。ロンドン亡命政権の傘下にあった国内軍の幹部が次々と共産党政権によって逮捕されていったのである。幹部でなくとも国内軍に参加し、ポーランド独立のために戦った者は戦後、仕事で昇進できなかったり、突然クビになったりと社会で冷遇され続けた。イェジも1945年8月1日に逮捕され、死刑宣告を受けた。しかし、イェジを慕う多くの人たちの協力や、刑務所内でも態度が良く、更生の余地があるということで奇跡的に釈放された。
 建国の精神という遺産
 1959年、イェジはワルシャワで初めて戦後復興が始まったムラヌフ区の区長に就任した。ロンドン亡命政権はイェジをワルシャワの市長に据える意向だったのだが、共産党が政権を取ったことで、イェジは区長にしかなれなかった。
 戦後、ポーランドは大変荒れていた。そのためイェジが任されたムラヌフ区では強盗や喧嘩は日常茶飯事でアルコール中毒患者や荒れた子供たちであふれていた。そんな状況下でもイェジは奮闘した。
 管理しているムラヌフ区に7つの児童館などを設置し、子供たちが安全にいられる環境を作った。荒れた子供たちを土木工事などに積極的に雇い、社会の中での居場所を与えた。地区の緑化計画では子供たちに植樹させ、それぞれの木を子供たちに管理させた。
 区内にはあっという間に約2万本の木が植えられ、荒れ放題だったムラヌフ区はワルシャワの復興模範地区として何度も表彰された。戦後13年で区の人口は2万人にまで膨れ上がった。イェジによる、このムラヌフ区開発もまた、日本で学んだ『若い世代に対しての思いやり』『日本人の勤勉さと責任感』『強い意志の持ち方』などを具現化したものだった。
 イェジキ部隊がゲリラ戦を繰り広げたカンピノスの森には1957年に慰霊碑が建てられたが、当時簡易的なものに過ぎなかった。現在ある『十字慰霊碑』の設置許可は1984年まで待たなければならなかった。というのも、共産党政権は国内軍の活躍をできるだけ隠そうとしてきたからである。
 イェジは1983年にはポーランドせシベリア孤児の歴史を調査しているジャーナリスト、松本照男氏の協力もあって再来日を果たす。日本赤十字社などを訪問し、救われたポーランド孤児を代表して感謝を述べた。
 イェジは1991年5月に亡くなった。現在、ワルシャワから約30キロ離れたレシノ市にはイェジ・ストゥシャウコフスキ記念特別支援学校があり、クシシトフ・ラドコフスキ校長は武道に関する著書があるほどの親日家である。ワルシャワにはイェジ通りも設置されている。
 それだけでイェジがポーランドに遺したものは大きい。イェジが世話をしていた子供たちが大人になり、『特別蜂起部隊イェジキ記念協会』を創立。イェジの想いを伝え続けている。彼らが例外なく親日であることはイェジの精神が今でも生きている証である。
 イェジキ部隊が戦いを繰り広げたワルシャワ北部カンピノスの森にあるイェジキ慰霊碑の前では、毎年9月の第一日曜日に慰霊祭が執り行われている。2020年には初めて駐ポーランド日本国大使館から川田司特命全権大使(当時)が参加し、ポーランド国旗と同列に日の丸が掲げられた。
 普段、日本についてポーランドでは『桜の国』と形容されるが、関係者の方々は式辞で口々に『日本皇国(Empire of Japan)』という言葉をつかってイェジを救った日本への感謝を述べ、参列者たちの涙を誘った。最後にイェジキ慰霊碑に書かれた文言を紹介して締めくりたい。
 《ポーランドよ。……》
 シベリア孤児の救出という日本の先人達のほどこしを生涯忘れず、胸に刻んでポーランドの国づくりにつなげようと懸命に格闘したイェジ。極東青年会、イェジキ部隊という彼らの蒔(ま)いた〝種〟は、歴史とともに大きく育ち、今日のポーランド人の日本観の礎(いしずえ)となっているだけでなく、ドイツやソ連という全体主義と格闘しながら故国を再興しようというポーランドの誇り、精神の土台でもあるのだ。」
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 イェジィ・フィツォフスキ(Jerzy Ficowski、1924年9月4日 - 2006年5月9日)は、ポーランドの詩人・作家・翻訳者。熱心なカトリック教徒であるが、ポーランドのマイノリティ、とりわけユダヤとジプシー(ロマ)の文化に造詣が深い。
 経歴
 ワルシャワ生まれ。第二次世界大戦中、ドイツの占領下にあったポーランドで、国内軍(Armia Krajowa, 略称AK)のメンバーとしてワルシャワ蜂起に参戦する。戦後、ワルシャワ大学で哲学と社会学を学ぶ。
 1948年に最初の詩集『ブリキの兵士』(Ołowiani żołnierze)を出版。詩作の傍ら、ジプシーの生活する森のキャンプをたびたび訪れ、1948年から50年にかけてジプシーの集団とともに放浪の旅に出る。1953年に、これまで収集した資料と情報をもとにポーランドに住むジプシーの歴史・民俗学の研究書『ポーランドのジプシー』(Cyganie polscy)を出版。フィツォフスキはフェデリコ・ガルシーア・ロルカの専門家でもあり、ロルカの『ジプシー歌集』の翻訳を手掛けている。
 フィツォフスキはユダヤの文化や民間伝承の収集・記録・研究にも大きな業績を残している。とくに、ポーランドユダヤ系作家ブルーノ・シュルツの研究はフィツォフスキのライフワークであり、1967年に出版されたシュルツの評伝『大いなる異端の領域』(Regiony wielkiej herezji)は各国語に翻訳されている。
 1977年、ポーランドPENクラブ賞を受賞。2006年5月9日、ワルシャワで死去。
   ・   ・   ・   
 在シアトル日本国総領事館
 山田総領事(2017.6~2020.7)の見聞禄
 2018/12/21
 東京、シアトル経由でポーランドに帰ったシベリアのポーランド孤児の話
 (左から) テレサ・インディク・デイヴィス名誉領事、マーサ・ゴルンビックさん、
パウェル・クルンパさん(ポーランド・ホーム・アソシエーション代表)、
 私、アンナ・ドマラツカさん(シベリア孤児の娘)
 11月10日、私は二世ベテランホールでベテランズ・デイの記念行事に出席した後、ポーランド文化会館で行われた記念式典に出席しました。100年前のこの日(時差を考えるとヨーロッパではもう11月11日でしたが)、第一次世界大戦が終了し、同日、ポーランドが123年ぶりに独立を回復したのです。私がポーランド人の式典に招待されたのは、約100年前にシアトルで起こったポーランド人にまつわる出来事に日本が深くかかわっていたからです。
 ポーランド人は1795年に国土をプロシアとロシアに分割・併合されましたが、その後も独立の回復を目指して何度も蜂起しました。そのため、ポーランドに対するロシアの弾圧は厳しく、多くの政治犯や鉄道建設に徴用された労働者などがシベリアに送られ、過酷な条件の中で強制労働をさせられました。その子孫もあわせ、当時のウラジオストクやシベリア極東には約4~5万人のポーランド人が暮らしていたといいます。
 1917年にロシア革命が発生すると、赤軍と白軍の間で内戦が勃発します。混乱の中で、ロシア各地に住んでいたポーランド人達も難民となって極東に流れ込み、その数は15万~20万人に達したと言われています。混乱の中で、多くのポーランド人が命を落とし、多くの孤児が発生しました。第一次世界大戦の終了とともにポーランドは独立を回復したので、ウラジオストクでは、孤児たちをポーランドに送り届けようとポーランド救済委員会が発足します。しかし、ロシア経由のルートは内戦のため危険で通ることができません。委員長のアンナ・ビエルキエヴィチ女史は最初、ほかの国々に救済を訴えましたがうまくいかず、最後に東京に乗り込み、外務省に窮状を訴えました。外務省から連絡を受けた日本赤十字社が中心となり、仏教団体なども支援して、大規模な難民救済活動であるポーランド孤児の保護が行われたのです。
 1920年と22年の2回にわたり、陸軍の船で計765人の孤児がウラジオストクから敦賀港に着きました。第一陣の375名の孤児たちは、東京の施設に送られました。そこですっかり元気を回復した孤児たちは、8回に分けて日本の船で横浜からシアトルに渡り、米国を横断してポーランドに帰りました。第二陣の孤児たち390人は大阪に滞在し、スエズ運河経由の航路を取りました。このようにして765人の孤児が無事にポーランドに戻ることができたのです。シアトルのポーランド文化会館には、ポーランドへの帰途、シアトルに到着した孤児たちの大きな記念写真が掲げられており、日本語、ポーランド語、英語の三か国語で説明があります。
 これらの孤児たちは、青年になっても相互の連絡を絶やさず、「極東青年会」という互助組織を立ち上げました。1938年当時の記録では、会員数は434名だったそうです。会の発起人であったイエジ・ストシャウコフスキ氏は、第二次世界大戦が始まりポーランドが再びドイツとソ連に分割されると、ドイツ軍に占領されたワルシャワで発生した孤児たちのために孤児院を立ち上げました。同時に、「特別蜂起部隊イエジキ」を組織して、孤児院の子供たちもあわせてポーランド全体で数千人がこの地下組織に加わりドイツ軍に抵抗したということです。ちなみに、彼は共産主義体制下のポーランドを生き抜き、自由な社会になった1991年に亡くなります。ほかにも、シベリア孤児の中には、レジスタンス運動で逮捕されてアウシュビッツに収容され、そこから生還した人もいます。シベリア孤児の多くは、何という波乱に富んだ人生を生きたのでしょう!
 独立100周年記念行事では、ポーランド名誉領事のテレサ・インディク・デイヴィスさんが孤児のエピソードに触れた挨拶をしました。私も挨拶するよう求められ、ポーランドに勤務していた(1999年~2001年)ことを含めて自己紹介し、ポーランド孤児を巡る昔のエピソードや、1996年に神戸の震災孤児たちをポーランドが温かく受け入れてくれ、年老いたシベリア孤児の方々が子供の時の経験を話してくれたことなどを紹介しました。スピーチが終わると、私がスピーチの中で触れたポーランドで歌われる誕生日の歌「Sto Lat(100歳の意味)」を誰ともなく歌いだし、約200人のお客さんたちの大合唱になりました。会場にはシベリア孤児を父に持つアンナ・ドマラツカさんも来ており、お目に掛かることができました。彼女は既に日本で孤児ゆかりの土地を訪問したことがあるそうで、来年には父親の足跡を訪ねて、ハルビンウラジオストク敦賀、東京というルートで旅行する計画を立てているそうです。
 11月15日には、ベナロヤ・ホールでポーランド人のピアニスト、ヤヌシュ・オレイニチャクさんによる、ポーランド独立100周年記念のショパンのコンサートが行われ、家内と息子の3人で聴きに行きました。オレイニチャクさんは、11月に入ってから日本の複数の都市でコンサートを行い(私もですが、日本人は本当にショパンが好きですよね!)、14日の晩はニューヨークのカーネギーホールで弾いていたということです。オレイニチャクさんは、映画「戦場のピアニスト」でピアノの演奏を担当したピアニストで、この映画は私と家内の出会いのきっかけになった映画ですので、特別の思いがあります。オレイニチャクさんは、演奏プログラムを変更し、ポーランド魂を表現する曲のオンパレードとなりました。ユダヤ人のピアニスト、ヴワジスワフ・シュピルマンさんがドイツ軍に占領されていたワルシャワの隠れ家の廃墟でドイツ人将校に見つかったとき、自身がピアニストであることを証明するために弾いたノクターンNo.20遺作から始まり、第一部の最後には軍隊ポロネーズ、第2部の最後には英雄ポロネーズです。そして、アンコールの最後は革命エチュードで締めました。私にとっては、久しぶりに音楽で感動する幸せなひと時でした。
 (写真提供:アダム・ビエラフスキさん、ウィキメディア・コモンズ)
   ・   ・   ・   
ポーランド孤児・「桜咲く国」がつないだ765人の命
   ・   ・   ・   
 大正期のポーランド戦争孤児や昭和前期のポーランドユダヤ人難民達にとって、戦前日本の国旗「日章旗・日の丸」は憧れの星であり、軍旗・自衛隊旗旭日旗」は希望の光であり、国歌「君が代」は生きる勇気を与えてくれる響きであった。
 左翼・左派・ネットサハ、護憲派人権派、反自衛隊派、反戦平和団体そして反天皇反日的日本人達は、それを否定している。
  ・   ・   ・   
 現代の日本と昔の日本は別の国のように違う。
 特に、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者は、歴史上の日本人とは別人のような日本人である。
 彼らは、日本を世界に知らせて親日や知日を増やすのではなく、その逆に反日嫌日を国内外で増やしている。
 その象徴が、現代日本歴史教育における日本軍のシベリア出兵評価である。
 シベリア出兵を正しく評価でいない現代日本人には、歴史力・伝統力・文化力・宗教力はない、絶無である。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、自分が信じたい時代劇を好むが、自分に都合が悪い歴史事実が嫌いである。
 その傾向は高学歴知的エリートに多い。
 日本の外務省・駐外日本大使館は、昔と現代とでは違う。
 昔の日本の外務省・駐外日本大使館は、現代の外務省・駐外日本大使館と違って国家を代表して、守らなければならない名誉・体面、誇りを知っていたし、その為に命を捨ててでも行動していた。
 ただし、幣原喜重郎ら一部のエリート外交官は国際協調重視で日本に犠牲を強いていた。
 優れていた外交官は、A級戦犯達であった。
   ・   ・   ・   
 ポーランドユダヤ人難民達が、ヒトラーナチス・ドイツからリトアニアに逃げ、首都カウナスにある日本領事に助けを求めたのは偶然ではなく助けてくれるという確信があったからである。
 彼らは、日本天皇・軍国日本・日本軍(日本軍部・日本陸軍)なら見捨てるのではなく救ってくれるという思い込みがあったからである。
 ポーランドユダヤ人難民達は、さ迷いながら何時の間にかカウナスに辿り着いたのではなく、ハッキリと駐カウナス日本領事を目指したのである。
 つまり、ポーランドユダヤ人難民達は、きっと「日本の天皇なら、軍国日本なら、日本陸軍なら自分達を窮地から救ってくれる」と、昭和天皇に「一縷の望み」を託し、日本国に「希望の星」を見ていたのである。
 が、現代日本の反天皇反日的日本人達はポーランドユダヤ人難民の淡い期待を否定している。
   ・   ・   ・   
 ポーランドや北欧や中東が親日なのは、現代日本護憲派人権派反戦平和団体が護る戦争を禁止している平和憲法日本国憲法)が理由ではなく、戦争を行っていた戦前の日本軍の振る舞いからである。
 ゆえに、彼らは表面のみを取り繕う心卑しき現代日本人を信用していない。
 親日の彼らは、戦争を行っていた戦前の日本から多くの事を学んだ。
   ・   ・   ・   
 戦前の日本は、絶望的な戦時中にも関わらず、同盟国ナチス・ドイツからの外圧を無視して、ポーランド人を助け、ポーランドユダヤ人をホロコーストから守っていた。
   ・   ・   ・   
 軍国日本がポーランド人戦争孤児を助けたのは、天皇の御稜威・大御心と靖国神社の心・志・精神・気概からである。
   ・   ・   ・   
 ポーランドの子供達は、現代日本護憲派人権派よりも、数倍も優秀で勇気があり勇敢で、全体主義侵略者から祖国を守る自己犠牲精神の「愛国心」を日本から学んだ。
   ・   ・   ・   
 現代の歴史教育では、シベリア出兵は夥しい犠牲を出して失敗に終わり、世界から日本の領土拡張の戦争であったと激しく非難された、と教えられている。
   ・   ・   ・   
 現代日本は、平和な時代であっても「我関せず」として、中国共産党チベットウイグル・モンゴルなどで行っている人道に対する罪「ジェノサイド」から目を逸らし、中国共産党からの外圧を恐れて彼らを助けようとはしない。
   ・   ・   ・   

 ポーランドレジスタンス「イェジキ」は、日本大使館の職員を通してロンドンのポーランド亡命政府と連絡を取る事ができた。
 日本陸軍は、ポーランド軍人将校からソ連などの情報を集めていた。
   ・   ・   ・   
 軍国日本、軍部、陸軍は、戦争を始めるという悪い事(戦争犯罪)を行ったが、勝利に関係ないのに戦闘中でも困っている非戦闘員を助けるという善い事(人道貢献)も行った。
 ソ連コミンテルン中国共産党など共産主義勢力は、人民の正義で虐殺を繰り返したが人の命を助けるという善い事など一つも行わなかった。
   ・   ・   ・   
 軍部、陸軍は、対ソ戦略からドイツではなくポーランドを重視していた。
 陸軍内には多くの派が存在し、多数派が支那派で、次にポーランド派、その次にドイツ派であった。
 その中でも、親ユダヤ派が主流で、ユダヤ陰謀論を信じる反ユダヤ派は極少数であった。
 反ユダヤ派が、後にヒトラーを信奉する親ドイツ派の中核となる。
 最大の親ユダヤ派は、昭和天皇であった。
   ・   ・   ・   
 ドイツは、ヒトラー、ナチ党以来の根強い親中国反天皇反日本である。
 ポーランドは、反ソ連・反ロシア、反ドイツで親日・知日そして親天皇である。
   ・   ・   ・   
 戦時中。日本国は、日独伊三国同盟があっても、ナチス・ドイツホロコーストからポーランドユダヤ人難民を守り、ワルシャワでドイツ軍に攻撃されているポーランドレジスタンスを助けていた。
   ・   ・   ・   
 明治の激動を生きた江戸時代の日本人同様に、大正時代の激動を生きた明治時代の日本人も偉大であった。
   ・   ・   ・   
 国際社会も現代日本も、戦前の日本、軍国日本、日本軍部・日本陸軍がおこなった人類史的人道貢献を認めず、歴史の闇に葬っている。
   ・   ・   ・   
 人道貢献をする日本人は2割、戦争犯罪をする日本人は3割、人道貢献も戦争犯罪も行わず上官の命令を同調人形のように盲目的に従う日本人は5割。
   ・   ・   ・   
 昔の日本人と現代の日本人は別人のような日本人である。
 昔の日本人は、自分の命より大事な物がある事を知っていたし、その大事な物の為ならば自己犠牲として命を捨てた。
 現代の日本人には、その命を捨てるほどの価値のある物を持っていない、というより命の方がが大事として捨てた。
 現代の日本人は、人権・人道を口先にするが実際の人道貢献などはしない。
   ・   ・   ・   
 現代日本の人権や人道活動は、中身のない、表面だけを飾る薄汚れた金メッキにすぎない。
 現代日本は、中国共産党チベットウイグル・モンゴル・少数民族へのジェノサイドや香港民主派弾圧に対して厳しい抗議の声をあげない。
 つまり、現代日本人には、「知ったか振り」で歴史を論じ、全てを知る裁定者として「正義の名」で昔の日本を糾弾する資格はない。
 特に、中国共産党に忖度して機嫌を取る親中国派・媚中派にそれが言える。
   ・   ・   ・   

⚔32)─1─天正地震が徳川家康を救った。豊臣秀吉とナマズ。京の大仏。~No.138No.139 * 

  ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 小牧・長久手の戦いは、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄徳川家康陣営の間で行われた戦い。
   ・   ・   ・   
 豊臣秀吉は、徳川家康との戦いの準備を進めたが天正地震で甚大な被害を受けた為に断念し、和議を進めた。
   ・   ・   ・   
 歴史秘話ヒストリア - NHK
 2021年2月3日放送
 「災害と日本人 先人はどう向き合ってきたのか」
徳川家康の危機を救ったのは、史上最大級の内陸地震天正地震だった!?ほかにも江戸時代の浅間山大噴火で大きな被害を受けながら、奇跡の「復興」を果たした村人たちの絆。そして関東大震災を経て「防災」に人生をかけた地震学者の思いを紹介。東日本大震災から10年。歴史上、数えきれないほど起き、そのたび日本人ひとりひとりの暮らしはもちろん、日本そのものの行く末をも左右した地震津波・噴火などの巨大災害に迫る。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 天正地震は、天正十三年十一月二十九日(1586年1月18日)および同年十一月二十七日(1月16日)に日本の中部で発生した巨大地震である。主に前者の地震についてを天正地震、後者は天正越中地震と呼ぶ。
 天正地震(てんしょうおおじしん)あるいは天正の大地震(てんしょうのおおじしん)とも呼ばれる。また、各地の被害から長浜大地震(ながはまおおじしん)、白山大地震(はくさんおおじしん)、木舟大地震(きふねおおじしん)、天酉地震とも呼ばれる。
 『東寺執行日記』、『多聞院日記』など多くの古記録に記載され、『梵舜日記』(別名『舜旧記』『舜舊記』)には約12日間にわたる余震が記録されている。
 概要
 被害地域の記録が日本海若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ歴史上例のない大地震であるため、震源域もマグニチュードもはっきりした定説はなく、いくつかの調査が行われているが震央位置も判明していない。なお、11月27日に前震と考えられる地震と11月30日に誘発地震と考えられる地震が発生した。
 戦国時代末期の豊臣秀吉による東日本支配が完了していない時期であったため、統治機構の混乱から文献による歴史資料が残り難い時代背景であった。しかし、三河にいた松平家忠の日記によると、地震は亥刻(22時頃)に発生し翌日の丑刻(2時頃)にも大規模な余震が発生。その後も余震は続き、翌月23日まで一日を除いて地震があったことが記載されている。
 震源
 近畿から東海、北陸にかけての広い範囲、現在の福井県、石川県、愛知県、岐阜県富山県滋賀県京都府奈良県三重県越中、加賀、越前、飛騨、美濃、尾張、伊勢、近江、若狭、山城、大和)に相当する地域にまたがって甚大な被害を及ぼしたと伝えられる。また阿波でも地割れの被害が生じており、被害の範囲は1891年の濃尾地震(M8.0-8.4)をも上回る広大なものであった。そのことなどからこの地震は複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定されている。しかし、ひとつの地震として複数の断層が連動して活動したのか、数分から数十時間をかけて活動したのかは議論が分かれている。

 フロイス『日本史』(5、第60章、第2部77章)
 「ちょうど船が両側に揺れるように震動し、四日四晩休みなく継続した。
 その後40日間一日とて震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛もよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。
 若狭の国には、海に沿ってやはり長浜と称する別の大きい町があった。揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が遠くから恐るべきうなりを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。
 (高)潮が引き返すときには、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑み込まれてしまった。」

 『イエズス会日本書翰集』
 「若狭の国には海の近くに大変大きな別の町があって町全体が恐ろしいことに山と思われるほど大きな波浪に覆われてしまった。そして、その引き際に家屋も男女もさらっていってしまい、塩水の泡に覆われた土地以外には何も残らず、全員が海中で溺死した。」
  ・  ・  
 京の大仏(きょうのだいぶつ)は、京の方広寺(現・京都市東山区)にかつて存在した日本の大仏。
 豊臣時代から江戸・徳川時代の中期にかけて新旧3代の大仏が知られ、江戸時代には日本三大大仏の一つに数えられた。江戸の後期も天保年間になって再建された4代目は昭和の後期まで存続していたが、昭和48年(1973年)、失火により焼失した。
 本項では、大仏を主題に、大仏殿(方広寺大仏殿)についても述べる。
 造営の歴史
 秀吉による造営
 天正14年(1586年)、豊臣秀吉天正地震を機に奈良の東大寺に倣(なら)って大仏の建立を計画し、大仏殿と大仏の造営を始めた。文禄4年(1595年)、大仏殿がほぼ完成し、高さ約19メートル(長さの比較資料:1 E1 m)の木製金漆塗坐像大仏 が安置された。文禄5年、安房国の大名であった里見義康が正木頼忠らの家臣と共に上洛した際にも、この大仏が記録されている。
 しかし、慶長元年(1596年)に起きた慶長伏見地震により、開眼前の大仏は倒壊した。このとき秀吉は大仏に対し「おのれの身さえ守れないのか」と激怒し、大仏の眉間に矢を放ったと伝える。慶長3年(1598年)、秀吉は法要を待たずに死去し、同年、大仏の無い大仏殿で開眼法要が行われた。
 大仏殿は高さ約49メートル、南北約88メートル、東西約54メートルという壮大なものであり、また境内は、現在の方広寺境内のみならず、豊国神社、京都国立博物館妙法院智積院そして三十三間堂をも含む広大なものであった。大仏殿は、現在、豊国神社が建つ位置にあった。
 秀頼による造営
 秀吉の子豊臣秀頼が遺志を継ぐ形で、豊臣家家臣の片桐且元を担当者として今度は銅製で大仏の再建を行ったが、慶長7年(1602年)11月、鋳物師(いも-じ)の過失により仏像が融解して出火し、大仏殿は炎上した。これには、「放火による慶長9年(1604年)の焼失」とする異説もある。
 慶長13年(1608年)10月には再び大仏および大仏殿の再建が企図された。大仏殿の創建は慶長15年(1610年)から行われ、徳川家康も諸大名に負担その他を命じ、自身も米の供与や大工・中井正清を送っている。また、大仏に貼られる金の板金は江戸で鋳造されている(『当代記』)。6月には地鎮祭が行われ、大仏殿と銅製の大仏は慶長17年(1612年)に完成した。
 慶長19年(1614年)には4月、梵鐘が完成し、南禅寺の禅僧文英清韓に命じて銘文を起草させ、落慶法要を行おうとしたところ、7月に徳川家康より梵鐘の銘文について「不吉な語句がある」との異議が唱えられ、法要中止の求めがあった。これが、豊臣家と徳川の争いに発展し、両大坂の陣を経て豊臣家の滅亡に繋がる、世に言う「方広寺鐘銘事件」である。
   ・   ・   ・   
 YAHOOJAPAN!ニュース
 過去を学び将来に備える:歴史に影響を与えた戦国時代の地震
 福和伸夫 | 名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授
 2016/8/2(火) 16:10
 戦国時代
 戦国時代には沢山の地震が起きました。戦乱の中、地震による混乱が拍車をかけたように感じます。1467年の応仁の乱や、1493年の明応の政変から、信長、秀吉、家康が天下をとり、大坂の陣に至るまで、百年余りにわたって戦乱の時代が続きましたが、この間、多くの地震が発生し、歴史の変化にも影響を与えたようです。
 戦乱の時代に突入して起きた明応の地震(1498年9月20日
 明応地震南海トラフ地震の一つと考えられており、大きな津波被害を出しました。当初は、東海地震と考えられていましたが、近年、南海地震も一緒に起きた可能性も指摘されています。
 この地震では、淡水湖だった浜名湖の南岸が津波によって切れて、湖が遠州灘とつながり、今切ができたとされています。また、浜名湖の湖口にあった角避比古神社のご神体が津波により流されたそうです。後日、流れ着いたご神体を祀った細江神社は、地震の神様としても有名です。
 現在の三重県津市である安濃津津波によって大きな被害を受けました。鎌倉では、大仏の大仏殿が津波で流されたと言い伝えられています。ただし、1495年9月3日に起きた地震が関東地震で、その津波が原因だとの指摘もあります。また、1948年7月9日には西日本で大きな地震が発生していたようで、南海地震との関連も議論されています。
 なにせ500年以上前のことですから、明快な結論は得られていないようです。いずれにせよ、戦国時代の始まりの時期に、大地震が連続して発生したことだけは確かなようです。
 その後、戦乱の時代が続いたため、地震記録を残した古文書は十分に残っていません。1502年1月28日に越後、1510年9月21日に摂津・河内、1520年4月4日に紀伊・京都、1525年9月20日に鎌倉、などで地震の記録が残されています。戦乱の時代を収めた織田信長が生まれたのは1534年、今川義元桶狭間で破ったのは1560年、命を落としたのは1582年ですが、この時期には大きな地震は無かったようです。
 多くの武将を痛めつけた天正地震(1586年1月18日)
 1582年本能寺の変の翌年1583年に、秀吉による大阪城の築城が始まりました。豊臣秀吉徳川家康との小牧・長久手の戦いは1584年、この激動の時代に起きたのが天正地震です。近畿から中部を襲った内陸の大地震で、阿寺断層、庄川断層、養老・桑名・四日市断層などが連動して起きたと考えられています。若狭湾や伊勢湾で津波の記録もあるので、海の断層も動いたのかもしれません。被害地域の広さは、内陸最大の地震と考えられている1891年濃尾地震より遙かに広域にわたります。
 この地震では、近江の長浜城が全壊して山内一豊の一人娘与祢が圧死し、越中では木舟城が倒壊して前田利家の弟・秀継夫妻が死亡しました。さらに、飛騨では、帰雲山の山崩れで帰雲城が埋没し、内ヶ島氏が滅亡しました。この他にも、美濃の大垣城が全壊焼失し、伊勢の長島城や尾張の蟹江城も壊滅、清洲城液状化の被害を受けました。このように、多くの戦国大名に被害が及びました。
 地震の時、秀吉は、明智光秀が作った坂本城に居ましたが、慌てて大坂に逃げ帰りました。寒川旭先生によると、この地震の後、伏見城の普請に際して、地震ナマズとの関係を手紙に残したのが、地震ナマズを結びつけた最初の記録だそうです。また、秀吉が大垣城に前線基地として家康を攻めようとした矢先に、天正地震が起きたため、秀吉は家康と和解することになりました。
 その後、1590年小田原征伐、1592年文禄の役と続いた後、1596年に浅間山の噴火と慶長の3地震が発生しました。実際にはこれらは文禄時代に起きたのですが、災いを気にしてか、文禄から慶長に改元されました。
 伏見城を倒壊させ清正を復活させたと言われる慶長伏見地震(1596年9月5日)
 秀吉の晩年に慶長伏見地震が起きました。前日9月4日には豊後地震が起き、津波によって大分の多くの家屋が流失し、瓜生島の80%が陥没したと言われています。さらに、9月1日には、四国の中央構造線で.慶長伊予地震が起きたと言われています。5日間の間に大地震が3つ起きるという歴史上稀に見る事態でした。
 伏見地震では京都の被害が最も多く,明からの使節を迎える予定だった伏見城天守も大破しました。この地震に絡んで、歌舞伎の演目「地震加藤」も作られました。小西行長との確執で謹慎処分中だった加藤清正が、秀吉の身を案じて伏見城に駆けつけ、謹慎処分が解かれ、その後の戦乱で大活躍したという物語です。地震後、明との講和が頓挫し、1597年に慶長の役が始まり、清正は再び朝鮮に出兵し、翌1598年秀吉の死後、日本に撤退します。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍側に加わり、その後、熊本城や名古屋城を築きました。その熊本城が4月に起きた熊本地震で被災しました。
 ちなみに名古屋城は、1610年に家康の命で築城を始めました。清洲城から城下町ごと熱田台地の北西端に高台移転をしたもので、清洲越と呼ばれています。この背景には、豊臣の大坂方に対抗する政治情勢や、1586年天正地震での液状化の被災、五条川のほとり故の水害危険度の高さなどが関係したと思われます。築城に際して清正は最も重要な天守の石垣作りに携わりました。
 慶長地震(1605年2月3日)と慶長三陸地震(1611年11月2日)
 家康が1603年に征夷大将軍になり、江戸幕府が開府した後に慶長地震が発生しました。一般には、この地震は、南海トラフ地震の一つと考えられていますが、津波の被害が顕著で揺れの被害記録が余り残されていないことから、震源に関しては南海トラフ以外にも色々な説が示されています。また、1624年に完成した53の宿場を通る東海道は、慶長地震津波被災地を避けているように見えます。
 1611年には、慶長三陸地震が起きました。この地震では、北海道も巨大津波に襲われたとの指摘があり、2011年東北地方太平洋沖地震と同様の巨大地震だった可能性があります。丁度400年で巨大地震が繰り返したことになります。この地震の後、仙台藩の藩主だった伊達政宗は様々な復興事業を行いました。その内容については、以前に記したYahooニュース「東日本大震災で活きた伊達政宗の時代の地震教訓」を参照下さい。
 その後、1614年11月26日に越後や関東、東海、近畿、四国などで広域に被害を出す地震が発生したようですが、震源も含め不明な点が多いようです。この直後、1614年12月19日、木津川口で戦火を交え、大坂冬の陣が始まりました。そして、大坂夏の陣で、1615年6月4年に豊臣秀頼淀殿が命を落としました。次の地震の活動期まで、しばらく地震の静穏期が続き、その間、徳川は盤石の体制を固めていきました。
 福和伸夫
 名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授
 建築耐震工学や地震工学に関する教育・研究の傍ら、地域の防災・減災の実践に携わる。民間建設会社の研究室で10年間勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科で教鞭をとり、現在に至る。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。
   ・   ・   ・