💖24)─3・A─杉原命のビザ奇跡物語のウソ。ポーランド・ユダヤ人難民は敦賀に上陸した。敦賀空襲。〜No.101 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 戦争は、善人も悪人も、兵士も民間人も、男も女も、大人も子供も、敵とみなした人間すべてを容赦なく殺し、生きたまま焼き殺す。
 ユダヤ人難民を助けた日本人は、こうして殺された。
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 日本政府・外務省・軍部・特高警察は、昭和天皇と日本国の名誉を守る為に、杉原千畝が訓令を無視して発行した通過ビザを正式なビザと認め、「命のビザ=杉原ビザ」を持ったポーランドユダヤ人難民全員の上陸・滞在・通過・出国を認めた。
 軍国日本は、ユダヤ人難民を拒否しなかった。
 外務省は、ポーランドユダヤ人難民の引き受け国家を探した。
 アメリカやイギリスは、国内の反ユダヤ派の反発を受け、ユダヤ人難民を押しつけてくる日本国の動きに激怒し、日本ルートを遮断するべく動いた。
 A級戦犯である松岡洋右外相と東条英機陸相は、同盟国ナチス・ドイツが不快に思う事を承知で黙認した。
 それは、親ユダヤ派の昭和天皇の希望でもあった。
 親ドイツ派、反ユダヤ派、右翼・右派などの人種差別主義者は、ナチス・ドイツが弾圧しているユダヤ人の日本上陸に猛反対し、全員日本から追放してナチス・ドイツに引き渡す事を求めた。
 軍部・陸軍・特務機関、軍国主義者、民族主義者は、親ユダヤ派として積極的にユダヤ人難民を保護した。
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 昔の日本人と現代の日本人とは別人の日本人である。
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 敦賀空襲(つるがくうしゅう)は、福井県敦賀市及び東浦村、東郷村(全て当時)で1945年(昭和20年)に起きた空襲のことである。敦賀市史では、日本海側初の空襲である7月12日の空襲を特に「敦賀大空襲」と表記し大きく割いている。単に「敦賀空襲」といった場合、この7月12日に起きた空襲を指す。
何れも1945年の出来事である。
 詳細
 敦賀は空襲を受けた都市の中では最小規模だったが、軍需工場の存在や港湾拠点という理由で3回空襲を受けている。特に第一空襲が日本海側の港町にも関わらず、大編隊で襲撃する等きわめて激しかった。

 敦賀市が受けた空襲は以下の通り。
 7月12日-B29 約100機よる波状攻撃。兵士1名戦死、市民ら109名死亡。この日の空襲を特に敦賀大空襲と呼ぶ。
 7月30日-P476機による空襲。死者15名。
 8月8日-B29単機空襲。東洋紡績敦賀工場に直撃弾。死者33名。
 記録では3回空襲を受けたことにはなっているが、6月25日にも空襲を受けたとする資料、『敦賀空襲・戦災誌』が存在する。

 余波
 空襲や機雷敷設により、港湾能力が低下、航路が著しく阻害された。特に終戦前の1945年8月3日に1隻、終戦後の僅か2日後の8月17日は、2隻の船が敦賀湾において触雷・沈没している。死者等は不明。
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 命のビザ、遙かなる旅路 | Sonar Members Club No45 | Since ...
 2017 JAN 4 5:05:07 am by 野村 和寿
 北出明著『命のビザ、遙かなる旅路 ~杉原千畝を陰で支えた日本人たち』(交通新聞社新書044)読了。
 命のビザ、遙かなる旅路
 杉浦千畝を陰で支えた日本人たち 交通新聞社新書
 リトアニアの首都カラナスの杉原千畝総領事の、ユダヤ人難民への日本通過ビザ発給は、つとに有名だが、本書は、ビザ発給を受けたユダヤ人たちが、シベリヤ鉄道の終点ウラジオストクから、国際航路で就航していた日本郵船の「天草丸」に乗船して敦賀港へ向かったとき、実は、JTBの前身、ジャパン・ツーリスト・ビューローや、日本郵船の多くの日本人たちが、半年以上に亘り、彼らを献身的にサポートしていた事実が書かれています。
 難民が着いた敦賀市では、戦雲急を告げる中、中学の校長が「ユダヤの民は、今は、ぼろを着ているが、高名な学者や芸術家、銀行家などを多く排出しており、ぼろをきているからといって、けっしてさげすんではいけない」と子ども達に訓示。
 ユダヤ人たちに、無償で銭湯を提供したり、宿を提供したり、また、難民たちにりんごを配る少年がいたなどのエピソードを発掘しています。難民たちは、敦賀から列車で、横浜や、神戸に向かい、アメリカを目指しました。著者は長く国際観光振興会に奉職後、たった一人で、ユダヤ人難民の生き残りを探し、家族達を探し当て、アメリカ中を旅をします。
 リトアニアカウナスで発給されたビザを携えたユダヤ難民は経由地である日本の敦賀をめざしました。敦賀市ホームページより引用
 この事実を当時のユダヤ難民たちの生き残りや家族へのインタビューを通して明らかにしていく迫真のドキュメンタリーです。多くの名もない日本人たちが、敦賀で、神戸で、ユダヤの難民を助けたという事実は重く、運命の糸でつながっていることを感じてしまいます。こんなことを70年経って発掘した本が出るとは本当に、すごいことだと思いました。
 ▇本書から見つけた興味深いことがら▇
 1,本書には「ヴェルディヴ事件」のことが若干触れられていました。1942年7月19日早朝ヴィシー政府下のフランス警察は、自主的にパリ在住のユダヤ人1万3000人を検挙。うち4115人の子、2016人の女性、1129人の男性をエッフェル塔近くの「ヴェルディヴ」と呼ばれる自転車競技場に閉じ込め、最終的にはアウシュビッツに送り込まれ、生存者はわずか25人だった。この事件が公にされたのは1995年シラク大統領の時で、そのときはじめてフランス政府は謝罪したということでした。
 2,1937年満州国ハルピンで開かれた第1回極東ユダヤ人大会を開き、ユダヤ人の立場に同情したのが、関東軍指揮下のハルピン特務機関長樋口季一郎中将だったこと。満州国の経済圏の確立を企図したことがうかがえるとはいえ、関東軍ナチスを非難し、ユダヤ人に同情。 1938年3月満州と国境にあるソ連側のオトポール駅にナチスに追われたユダヤ難民が大挙して流れ込んだ。寒さと餓えに苦しむ彼らを救ったのが、で、ユダヤ難民をハルピンに逃れることが出来た。というエピソードにも触れています。
 3,ユダヤ人たちを、ウラジオストクから敦賀まで運んだ船、天草丸は数奇な運命の船でした。ドイツで竣工し、帝政ロシアに売却され、日露戦争で、日本海軍に拿捕、そして最後は、米海軍に撃沈されます。つまり、ドイツ→ロシア→日本→アメリカ と結びつきます。しかも時代は異なるものの、ユダヤ人を迫害していたドイツと、ロシアで活躍していた船が、日本でユダヤ人を助けることになるのでした。
 ▇天草丸の歴史
 ウラジオストク敦賀間でユダヤ難民を乗せた天草丸
 ドイツ北部バルト海に面する港湾都市ロストックのネフタン造船所で1901年浸水し、帝政ロシア東清鉄道に売却、され、貨客船アムールと命名される。1905年日本海軍が、拿捕、天草丸と改名される。
 1906年に大阪商船に払い下げ、1929年北日本汽船に売却、その後日本海汽船に引き継がれ、敦賀~ウラジオストク間に就航。1932年、ジュネーブ国際連盟会議に出席する全権代表の松岡洋右:後の外務大臣が乗船していることである。
 1943年合併から大阪商船に移籍、1944年台湾近海で、米海軍潜水艦バングとレッド・フィッシュの両潜水艦の水上雷撃により沈没
 4,杉浦千畝の発給したビザの有効期間はわずか10日間でした。これではとても日本からアメリカへの乗船までの期間が確保できません。窮状を聞きつけたユダヤ研究家小辻節三は、松岡が南満鉄総裁時代の部下だったことから、窮状を当時の外相松岡洋右に直訴。松岡は「ドイツ・イタリアと同盟は結んだが、ユダヤ人を殺せとまでは約束していない」として、小辻に秘策を伝授。それは、元官僚らしく、ビザの延長権限は地方公共団体の警察にあることを話し、これが認められれば、外務省はぐうの根も出ないとアドバイス。そこで、小辻は神戸の警察幹部に、1回のビザ延長15日間を認め、事実上何度も申請することで、無期限までビザ延長が可能になったのです。
 小辻節三については、下記のHPで詳細がありました。
 ユダヤ人ビザに奔走した小辻節三についてのHP
 敦賀市によるユダヤ難民関係のHP
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 産経WEST 
 2017.9.13 07:58
 「助けなければ、私はいなかった」 ユダヤ人難民の長男 「命のビザ」たどり敦賀を訪問
 「人道の港敦賀ムゼウム」の資料を見るデイビッド・マンスキーさん=敦賀市
 第二次世界大戦中に外交官の杉原千畝氏が発給した「命のビザ」で敦賀に上陸したユダヤ人難民の長男、デイビッド・マンスキーさん(64)=米国在住=が福井県敦賀市を訪れ、難民に関する資料を展示している「人道の港敦賀ムゼウム」を見学した。
 デイビッドさんの父で2年前に亡くなったサウルさんは、母や兄のサムエルさんらとともに1941年に敦賀に上陸した。デイビッドさんは妻のシーラさん(64)とともに、ポーランドからシベリア鉄道を経由してロシア・ウラジオストクから敦賀にたどり着いた父らの経路をたどる旅をしている。
 ムゼウムでは、サムエルさんが寄贈したビザのレプリカなどの資料を見て回った。同市役所も訪れて渕上隆信市長とも面談。デイビッドさんは「家族が自由を勝ち取った場所に来て感動している。敦賀の人たちの助けがなければ今の私はいなかった」と話した。
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 JTB
 6,000名ものユダヤ人を救った「命のビザ」とJTBとの意外な関係
 投稿日:2020年3月18日
 第二次世界大戦下のリトアニアで、ユダヤ人を救うため「命のビザ」を書き続けた、「日本のシンドラー杉原千畝」については、書籍・映画にてご存知の事と思います。実は、杉原が発行した「命のビザ」を持ってヨーロッパから日本へと続く、6,000名ものユダヤ人を救う命のリレーに、JTBも関わっていました。
 2020年は杉原千畝生誕120周年・杉原ビザ発行80周年という記念すべき年であり、リトアニア政府も「杉原年」と国会で正式に宣言し、「Visa for Life Chiune Sugihara」として、両国間での多くの文化交流活動が行われ、10月には杉原ウィークも開催されます。このプロジェクトには、JTB Europeも少なからず関りを持ち、リトアニアへのグループツアーなども用意しております。今回のブログでは、命をつないだJTBの役割と、リトアニアの魅力を紹介します。
 ユダヤ人の足取り
 ナチス・ドイツポーランドに侵攻し、迫害から逃れてきたユダヤ人たちは、リトアニアに辿り着きます。当初ビザは、日本領事館だけでなく、オランダなど他の領事館でも発給されていました。しかし、1940年6月、ソ連ラトビアエストニアに続き、リトアニアを占領。7月には併合が決まり、各国の大使館や領事館は次々に閉鎖され、唯一残された日本領事館の閉鎖も8月末と通告されます。追い詰められたユダヤ人が生き延びるには、日本の通過ビザを手に入れ、シベリア鉄道で極東まで進み、日本へ渡って第三国へ脱出するしか道は残されていなかったのでした。
 リトアニアの首都カウナスで、杉原千畝が発行したビザを持ったユダヤ人は、シベリア鉄道でロシアを横断して、ウラジオストクへ。ここから船で敦賀に上陸し、その後横浜や神戸へ移動、最終的にはアメリカなど他国へと渡って行ったのです。この長く厳しい避難の旅の一部を、アメリカのユダヤ人協会から依頼されたのがジャパン・ツーリスト・ビューロー(現JTB)でした。
当時、日本はドイツと友好関係にあったことから、この依頼を受けるべきか、ジャパン・ツーリスト・ビューロー本社内で議論の末に、人道的見地から引き受けるべきと決断。敦賀に臨時の事務所を開設して駐在員を置き、「天草丸」に添乗員を配置。受け入れ体制を整えました。
 敦賀の人々は到着したユダヤ人たちを、花を手に笑顔で出迎え、銭湯を無料で開放したり、リンゴを無償で配布するなど、言葉も文化も違う異国での暮らしを心身ともに支えました。
 画像出典:JTB職員 大迫辰雄の回想録 ユダヤ人輸送の思い出 | 素敵な日本人へ~命をつないだ JTBの役割~ | JTBグループ 交流創造事業 発信サイト colors | JTBグループの地域活性化・交流創造事業
 参考サイト:ユダヤ人難民|人道の港 敦賀ムゼウム
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 和楽
 「命のビザ」を繋いだのは大迫辰雄敦賀の住民だった。杉原千畝が救出したユダヤ人のその後
 2020年06月13日
 目次
 中継地は日本
 2000トン級の船で幾度も往復
 敦賀では銭湯の無料開放も
 第二次世界大戦下のヨーロッパで、ユダヤ人に「命のビザ」を発給した外交官・杉原千畝
 彼のビザを手にしたユダヤ人は、その後アメリカやカナダ、オランダ領キュラソーインドネシア、オーストラリア、アルゼンチン等に移動した。だが最終目的地は各人で違っても、中継地は全く同じだった。ユダヤ人たちは福井県敦賀市に上陸しているのだ。
 日本は島国だから、どこかで必ず船に乗らなければならない。その手引きを実行したのは、大迫辰雄という人物である。
 中継地は日本
 杉原千畝が日本領事館領事代理として赴任したリトアニアは、ドイツとソビエト連邦というふたつの軍事大国に挟まれていた。
 1939年9月に始まった第二次世界大戦は、ドイツのポーランド侵攻から始まった戦争だ。アドルフ・ヒトラーは、第一次世界大戦以降分断されていた西プロイセンと東プロイセンの再接続を目指した。いわゆる「回廊問題」だが、ヒトラーにとってはポーランド側の先制攻撃をでっち上げてでも成すべき政治課題でもあった。
 無論、ドイツが占領した地域のユダヤ系住民は最低限の荷物を持って他国に避難するしかない。そうでなければ、ゲットー(強制移住区)か強制収容所で死を待つのみである。
 ヨーロッパの歴史上、ユダヤ人は常に被差別側だった。それがフランス革命以後の国民国家の時代に入ると、その独特な風習や財界への影響力がますます異端視されるようになる。1929年の世界恐慌の波を真正面から受けてしまったドイツ国民は、動揺の最中にその救いをナチスの主張に求めた。「すべての諸悪の根源はユダヤ人にある」という内容のそれだ。
 ナチスによるユダヤ人迫害は、1936年のベルリンオリンピック閉幕後から本格化する。
 ボーランドからリトアニアに逃れたユダヤ難民が注目したのは、カリブ海地域のオランダ領だった。このあたりは英、仏、蘭の領土がモザイクのように連なっているが、幸いにもドイツの魔の手からは遠い位置にある。だからオランダ亡命政府の領事館に列をなした。外交官のヤン・ズヴァルテンディクはユダヤ難民に対し、2200枚を超えるオランダ領植民地入境ビザを発給した。
 が、長距離旅客機のない時代にリトアニアからカリブ海までどうやって行くのか? もっとも、本当にカリブ海のオランダ領に行く必要はない。これはヨーロッパを逃れるための口実だ。
 だがいずれにせよ、この時点での選択肢はただひとつ。シベリア鉄道に乗ってロシアを横断し、遥か極東のウラジオストクへ向かう。そこから船に乗って日本を経由し、神戸のユダヤ人コミュニティーの力を借りつつ各国に分散する……という流れだ。
 そのような背景を知った杉原千畝は、本国の指示に逆らう形でユダヤ難民に日本通過ビザを発給し続けた。
 2000トン級の船で幾度も往復
 この「杉原ビザ」を持った人々は、逃避行の半ばで大迫辰雄という日本人に出会っている。
 大迫はジャパン・ツーリスト・ビューローという旅行関連法人の職員である。現在のJTBだ。
 ユダヤ難民に対する国際的支援は、決して皆無だったわけではない。アメリカのユダヤ人協会が各旅行会社に呼びかけ、それがジャパン・ツーリスト・ビューローのニューヨーク支店にも波及した。ウラジオストクに退去したユダヤ難民のために、輸送船を手配する。到着地は福井県敦賀港。
 大迫はその船に20数回も搭乗し、難民たちの名簿整理や身の回りの世話、さらに路銀の援助まで行っていた。片道2泊3日の日本海を毎週往復する旅である。しかも大迫の搭乗した輸送船天草丸はたったの2000トン級。筆者は日本と中国を往復する国際フェリー新鑑真号に乗ったことがあるが、この船の総トン数は1万4500トンだ。それでも外洋に出た時は大きく揺れた。
 実際に大迫の乗った船内では嘔吐する者が相次ぎ、大迫自身も体調不良に見舞われたそうだ。しかも彼がこの職に従事していたのは、1940年9月から翌年6月まで。波立つ極寒の日本海を、小さな船で毎週のように往復していたのだ。超人的な体力と言わざるを得ない。
 これだけの功績を成し遂げたにもかかわらず、後年の大迫はそれを周囲に明かすことはあまりなかったそうだ。彼の部下も「大迫さんは謙虚な人」と発言しているが、それ故に彼の名と功績は歴史の渦に埋もれかけていた。このあたりの性格は、通過ビザを発給した杉原千畝にも当てはまる。
 敦賀では銭湯の無料開放も
 敦賀港の地元住民は、大挙してやって来たユダヤ難民を優しく迎え入れた。
 「外国から難民が来る」という理由で反対運動が起こったり、デモが発生したり……ということは一切なかった。それどころか難民たちに対する金銭や食料の寄付が相次ぎ、銭湯の無料開放まで行われた。旅館に宿泊させてもらった難民もいる。もともと敦賀は明治時代からウラジオストクとの定期便があり、外国人旅行者の往来が盛んだった。航空機が発達するまで東洋と西洋をつなぐ移動手段はシベリア鉄道しかなかったという事情も相成り、敦賀港はその東端の拠点として機能した。そのため、住民も国際的な肌感覚を持ち合わせていた。
 さて、着の身着のままの状態で敦賀にたどり着いたユダヤ難民の中に、当時8歳のレオ・メラメドという少年がいた。
 レオの一家も、リトアニアで杉原ビザを受け取っていた。一家は最終的にアメリカへ逃れることになり、レオ自身は移住先のシカゴで財を成した。いや、「財を成した」という言葉では足りない。レオは金融先物取引市場の祖として、世界経済に多大な影響を与える存在になった。
 レオが敦賀への再訪を果たしたのは、2014年。この時、彼がマスコミの前で語ったのは敦賀と神戸での思い出だった。天草丸に乗った杉原サバイバーは、皆一様に「敦賀港が天国に見えた」と語っている。日本人からの親切を、彼らは生涯忘れない。レオはサバイバーの総意を、公人として代弁したのだ。
 それは、世界大戦の惨禍の中で華開いた奇跡でもあった。
 澤田真一
 ノンフィクションライター、グラップリング選手、刀剣評論家。各メディアでテクノロジー、ガジェット、ライフハック、ナイフ評論、スタートアップビジネス等の記事を手がける。
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 人道の港 敦賀ムゼウム(じんどうのみなと つるがムゼウム)(Port of Humanity Tsuruga Museum)は、敦賀港の歴史をまとめた資料館。
 特に、第二次世界大戦中に杉原千畝の命のビザに救われた多くのユダヤ人難民が敦賀にたどり着いた史実を紹介している。
 主な展示
 敦賀港は古くから、大陸への航路が開かれていたが、明治から昭和初期には特に欧亜国際連絡列車の出発地として、ウラジオストクへの航路が開かれ栄えた。その歴史を展示する。
 特に第二次世界大戦ナチスにより迫害されたユダヤ人の命を救うため、カウナスの日本領事館の副領事であった杉原千畝が外務省本省の意向を無視して発給し続けたビザ「命のビザ」を持ったユダヤ人らが上陸したのは敦賀港であった。
シベリア鉄道ウラジオストクから船の長旅を経て、最終目的地に向かうまでの束の間の平穏を、敦賀市民とのかかわりを展示やビデオ、また実際に救われたユダヤ人やその子孫のインタビューなどで振り返る。
 ムゼウムはポーランド語で資料館を意味する[2]。杉原によって救われたユダヤ人の大半がポーランドからであり、多くのポーランド孤児を救ったことが命名の理由。
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 TRiP EDiTOR 
 6千人のユダヤ人が上陸した過去も。鉄道と港の町「敦賀」の意外な歴史
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 御田けいこ
 2018/02/07
 敦賀のホスピタリティー
 杉原が発給したビザを持ち、日本行きの船に乗船できた難民たちがたどり着いたのが敦賀だった。敦賀の人たちは多くの避難民たちを支援した。銭湯の旭湯は無料でお風呂を開放し、人々は空腹の難民に食事を提供するなど、手厚い援助の手を差しのべたのだ。
国際港として開け、さまざまな国の人々の往来があったおかげで、敦賀の人々は外国人を受け入れる土壌が出来上がっていた。難民への支援は敦賀だからこそ成せたホスピタリティーではないだろうか。
 敦賀港のある金ヶ崎緑地に立つのが「人道の港 敦賀ムゼウム」だ。ここはポーランド孤児や杉原千畝の発給した「命のビザ」を持って敦賀に上陸したユダヤ難民たちに関わる資料や写真、杉原の肉声を通し、人を思いやる気持ちについて深く考えさせられる場所である。
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💖24)─4・A─ポーランド・ユダヤ人難民を保護した神戸市民と神戸空襲の地獄。〜No.102 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 「善因善果、悪因悪果」はウソである。
 日本では幾ら自己犠牲的に人助けをしても、いい事は起きず、むしろ悪い事しか起きなかった。
 ポーランドユダヤ人難民を保護した神戸は空襲で焼け野原となった。
 人を助けても、殺される時は殺される。
 殺される時は女性や子供も関係なく殺される。
 人道貢献した神戸市民は生きたまま焼き殺された。
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 昔の日本人と現代の日本人は別人の日本人である。
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 神戸大空襲は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍が繰り返し行った神戸市およびその周辺地域に対する戦略爆撃・無差別攻撃の総称。特に兵庫区や林田区など西神戸に大きな被害を出した1945年(昭和20年)3月17日と、東神戸および阪神間の町村を壊滅させた同年6月5日の爆撃を指して用いられることが多い。

 被害面積は神戸周辺都市部の21%に及び、戦災家屋数14万1,983戸、総戦災者数は罹災者53万858人、死者7,491人、負傷者1万7,002人とされるが、これは確定的なものではなく実際はさらに膨大な被害であったと推測されている。神戸市の人口1000人当たりの戦争被害率は47.4人であり、人口および面積から換算した被害率としては当時の五大都市の中でも最悪の数字であった。
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 杉原千畝「命のビザ」ゆかり 神戸に歴史伝える石垣
 時計2020/1/22 05:30神戸新聞NEXT
 杉原千畝「命のビザ」ゆかり 神戸に歴史伝える石垣
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 戦前の「神戸ユダヤ共同体」に隣接していた石垣=神戸市中央区山本通1
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 戦前の「神戸ユダヤ共同体」に隣接していた石垣=神戸市中央区山本通1
 戦時中、外交官杉原千畝(1900~86年)が発給した「命のビザ(査証)」に救われたユダヤ難民のうち、多くが身を寄せた神戸市中央区に、今もユダヤ人が訪れる石垣がある。戦前の姿をとどめる石垣の西隣に、難民支援の拠点だった「神戸ユダヤ共同体(通称ユダヤ人協会)」の異人館があったからだ。ビザの発給から80年。石垣所有者らが今春、神戸とユダヤ人の歴史を後世に伝えようと、掲示板を設置する。(段 貴則)
 神戸は開港後からユダヤ人貿易商らが渡来し、12年ごろには同共同体やシナゴーグユダヤ教会堂)が設立された。39年、ナチス・ドイツポーランドへ侵攻後、リトアニアに避難したユダヤ人に対し、領事代理だった杉原は本国の方針に反し、日本経由の亡命を助ける「通過ビザ」を発給。同行の家族を含め約6千人とも言われる命を救い、その多くが神戸に滞在した。ユダヤ人協会が、住居や生活資金の提供、亡命に関する相談などに応じた。
 石垣は高さ約2メートル、長さ約25メートル。異人館は空襲で焼失したが、石垣は無事だった。現在、異人館が建っていた土地半分と、石垣が残る土地は、神戸電子専門学校を運営する学校法人「コンピュータ総合学園」が所有し、同校校舎が建っている。
 掲示板は、同学園の福岡賢二常務理事や神戸外国人居留地研究会の岩田隆義理事、石垣そばにある一宮神社の山森大雄美宮司を中心に準備を進めている。日本語、英語、ヘブライ語で石垣周辺が「人道支援の地」だった歴史を紹介。歴史家デイビッド・クランツラーが著書に記した「神戸には反ユダヤ主義はなかった。あったのは、あたたかい思いやりとやさしさばかりだった」も添える。
 また、石垣のある同校校舎は阪神・淡路大震災時、約200人の被災者を受け入れ、多くのボランティアが避難生活を支えた。「戦前のユダヤ人だけでなく、大災害の避難者を助け合う土壌は25年前の神戸にもあった」(福岡常務理事)として、震災の記述も掲示板に刻むという。
 3人は「戦争の色が濃くなっていく時代にあって、誰も排除せずに受け入れ、救いの手を差し伸べた人たちが神戸にいたことを、次世代に受け継ぎたい」としている。
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 神戸新聞社
 肉親奪ったホロコースト ユダヤ教ラビ、一族の壮絶な過去 2020/08/14
 第2次世界大戦の嵐が欧州を吹き荒れる1940~41年、神戸の街にナチス・ドイツの迫害を逃れる人々が押し寄せた。駐リトアニア領事代理・杉原千畝氏の発給した「命のビザ」を手に、一時滞在したユダヤ人難民。その数は4千人以上といわれる。
 外国人の多い神戸には、12年ごろ既に、ユダヤ人のコミュニティーが形成され、シナゴーグユダヤ教会堂)が設立された。国内でユダヤ教組織があるのは現在も東京と神戸だけだ。
 その「関西ユダヤ教団」のシナゴーグ神戸市中央区北野町4)を訪ねると、ラビ(指導者)のシュムエル・ヴィシェドスキーさん(35)が迎えてくれた。
 ニューヨーク出身でイスラエルで学び、2014年に来神。神戸とユダヤ人の関係を語る上でも避けられない戦争の話を巡り、ヴィシェドスキーさんは「日本の人に知ってもらいたい」と、これまで公にしてこなかった一族の壮絶な過去に触れた。
 「私の祖母は、ホロコーストユダヤ人大量虐殺)で家族を殺されたんです」
 ◇   ◇
 祖母のリブカさん(96)は1941年、ソ連レニングラード(現サンクトペテルブルク)で、兄の家族と暮らしていた。
 同年6月、ナチス・ドイツ軍がソ連に侵攻。レニングラードは包囲され、解放までに飢えや寒さで命を落とした人は、約100万人ともいわれる。
 「軍人だった兄の助けで、祖母たちは包囲戦の前に脱出できたが、兄は飢餓作戦の犠牲となった」
 だが、リブカさんたちが逃れた故郷の小さな村も、既に安全な場所ではなくなっていた。「ナチが『特別行動部隊』を設置していたのです」
 特別行動部隊(アインザッツグルッペン)は、前線後方の占領地域でユダヤ人や共産党員ら「敵性分子」を銃殺する任務を負って、組織された。
 「村のユダヤ人は大きな穴を掘らされ、その穴は銃殺されたユダヤ人の死体で埋め尽くされました」
 両親と7人きょうだいの家族のうち、生き延びることができたのは、リブカさんともう一人だけだった。(杉山雅崇)
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 第2部 都市のモザイク
 【9】パンと風見鶏 ユダヤの苦難発想の種
 手塚治虫の代表作「アドルフに告ぐ」の中で神戸のドイツパンが描かれている。北野の異人館街を思わせる神戸らしい風景が数多く登場。主人公の1人はパン店を営む一家の息子だ。神戸で100年近い歴史を持つ老舗「フロインドリーブ」を訪ねて物語の世界に思いをはせる。
 パンはパンでもどっしり重い。フランスパンよりもあっさりと、イギリスパンよりもみっちりとした風味が食べていると癖になる。
 パンの街・神戸でも指折りの老舗「フロインドリーブ」のドイツコッペは、吉田茂元首相が神奈川県大磯町の自宅へ毎週のように届けさせたという逸品だ。
 創業者は、ドイツ人のパン職人ハインリッヒ・フロインドリーブ。第1次世界大戦中、中国・青島で捕虜となり日本の収容所に。解放後、1923(大正12)年に来神し、翌年ハンター坂近くの洋館に店を開いた。
 その波乱の人生は半世紀後、NHK連続テレビ小説「風見鶏」のモデルとなり、「風見鶏の館」のある北野異人館街は脚光を浴びた。ブームも冷めやらぬ83年、神戸のドイツパンと風見鶏が描かれたもう一つの壮大な漫画連載が始まる。
 「アドルフに告ぐ
 戦争への怒りが込められた、手塚治虫の代表作だ。
 神戸をたびたび訪れた手塚治虫
 アドルフ・ヒトラーユダヤ人-。
 「アドルフに告ぐ」は、ヒトラーの秘密を巡る、神戸の二人の少年の物語だ。一人はナチス高官の父と日本人の母を持つアドルフ・カウフマン。もう一人はユダヤ人のパン店の息子アドルフ・カミル。ナチスによるユダヤ人迫害の中で、二人の友情は無情にも引き裂かれていく。
 実際、神戸の外国人にはユダヤ人がいた。シナゴーグユダヤ教会堂)があり、ユダヤ人協会があった。1940~41年、いわゆる「命のビザ」で4千人以上のユダヤ難民が神戸に一時滞在したという。
 「流氓(るぼう)ユダヤ」と題して、関西のアマチュア団体「丹平(たんぺい)写真倶楽部(くらぶ)」が彼らを撮影している。その中には手塚治虫の父、粲(ゆたか)もいた。
 十数年前、丹平メンバーの未発表ネガが発掘され、手塚少年が写っていると話題になったことがある。
 「おやじに連れて行かれたのは私で、兄貴はいなかった」と証言するのは、2歳違いの弟の浩さん(86)。「三宮の駅から山手の方へトコトコと行った記憶がある」。撮影場所とされるユダヤ人協会はまさに、駅北側の山本通にあった。
 ただ、宝塚に住んでいた手塚治虫も神戸には「よく行って、日本離れした雰囲気に魅力を感じていた」と書いている。神戸とユダヤ難民の史話にも関心を示し、「アドルフ」の発想の種となったのかもしれない。
 さらに、フロインドリーブのパンも設定のヒントになったのでは-。そんな想像も膨らむ。
 港町への深い思い入れ
 激動のストーリーの背景には、見覚えのある風景が描かれている。
 例えばカウフマン邸。塔屋に立つのは風見鶏。ベランダを飾る幾何学模様の窓は「萌黄(もえぎ)の館」そのものだ。
 「北野の異人館の特徴を組み合わせて描かれているんです」。今夏に開催された手塚治虫展のイベント“聖地探訪”ツアーで、自身も熱烈な手塚ファンという神戸市立博物館学芸員、川野憲一さん(43)が解説した。今はなきドイツ人社交場「クラブ・コンコルディア」、元町商店街のスズラン灯、そごうや大丸の建物も写真を下敷きにしており、物語にリアリティーを与える。
 「国際的な神戸を舞台に設定したからこそ、さまざまなイデオロギーを持つ人物が絡み合う物語に厚みを持たせることができた」
 川野さんはそう指摘する一方、神戸に対する手塚の思い入れも込められていたと考える。
 象徴的なせりふが、物語の後半、明石の軍需工場を襲った米軍の空襲シーンにある。被害を受けなかった神戸の街並みを見下ろし、日本人であるカウフマンの母がつぶやく。
 「(爆弾を)神戸へ落とさなかったのは/神戸が空から見てすごくきれいだったからだと思うわ」「神戸は日本でいちばん美しい港だわ/モダンでしゃれてて暖かで平和な町よ」
 現実には明石に続き、神戸も空襲で焦土と化した。ただ逃げ惑うことしかできない人々の姿が描かれる。手塚が神戸への愛着を語らせたカウフマンの母も、直撃弾を受けた家屋の下敷きになり、命を落とした。
 モダン、おしゃれ、暖か、平和
 「神戸は、フロインドリーブのホームタウン。何があっても、離れるなんて発想はなかったわ」。3代目社長のヘラ・フロインドリーブ上原さん(72)が、創業からの苦難の歴史を振り返る。
 ハンター坂の店から神戸市内に約10店舗を構えるまでに成長したが、戦争で全てを失った。バラックから再出発し、「風見鶏」の放送を経て北野の異人館街に出店した直後に、阪神・淡路大震災で被災。現在は、旧神戸ユニオン教会の建物に本店を移して営業を続ける。
 度重なる災禍を乗り越え、1世紀近くの歳月を共に歩んできた神戸の街。「モダン、おしゃれ、暖か、平和。どれもイメージにぴったりね」。ヘラさんがうなずきながら、漫画のせりふを繰り返す。
 そして、最近知ったエピソードを明かしてくれた。フロインドリーブを訪れる、手塚の姿を覚えている従業員がいたという。「ドイツコッペを買ってたのかしらね。詳しくは分からないんだけど」
 神戸の多彩なモザイクから放たれた個性的な光は、時代を超えて重なり合い、輝きを増していく。(記事・小川 晶、田中真治 写真・大山伸一郎、大森 武)
 【神戸とユダヤ
 神戸には開港後からユダヤ人が渡来し、20世紀初頭にはコミュニティーがあったとされる。1912年にシナゴーグユダヤ教会堂)が設立され、23年の関東大震災で横浜などからの移住も進んだ。第2次世界大戦中には、駐リトアニア領事代理の杉原千畝氏が発行した「命のビザ」でユダヤ難民が神戸を経由して亡命。神戸市文書館は、外交史料館の資料を基にユダヤ難民の滞在分布図を作成、昨秋の企画展で公開した。95年には「神戸・ユダヤ文化研究会」が創設された。
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 望海波日記
 神戸のユダヤ
 2016年12月18日 歴史物 コメント (1)
 神戸のユダヤ
 戦前の神戸にはサッスーン一族など、有力なユダヤ系市民がいた。欧州からシベリアを経由して日本にやってきたユダヤ人難民の8割近くが神戸に身を寄せたのは、このような事情による。

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 2015年秋の朝日新聞記事
 第2次世界大戦中、外交官だった故・杉原千畝氏が発給した「命のビザ」でナチス・ドイツの迫害を逃れてきたユダヤ難民を、神戸で 支えた人たちがいた。米国 のホロコースト博物館でボランティア講師をしている ユダヤ人男性とその妻が27 日、神戸を訪れ、当時の支援者の娘らに感謝を伝えた。 「あなたたちの支援を永久に忘れません。心の底からありがとうと伝えます」 米国に住むサイ・スタットマウアーさん(72)とジョアンさん(71)夫妻は、神戸市灘区の筒井篤子さん(91)らに語りかけた。夫妻は杉原氏のビザで救われた先人の足跡をたどり、ゆかりの人に謝意を伝えたいと来日した。1940年、リトアニア領事代理だった杉原氏は、ユダヤ難民に外務省の指示に反して日本通過ビザを発給。6千人ともいわれる人が欧州から福井・敦賀にたどり着いた。このうち約4600人が米国などへ渡る前、ユダヤ人コミュニティーがあった神戸に一時滞在したとされる。
 筒井さんの父、故・斉藤源八さんは当時、今の神戸市長田区にあった教会の牧師 斉藤さんらはユダヤ難民にリンゴを配るなどの支援を続けたという。当時は学生だった筒井さんは、「父はユダヤの人たちが国を持てるよう祈っていました。 私も当時、神戸港から出航するユダヤの人を教会の人たちと見送りました。迫害から逃れて神戸に来たユダヤの人たちはとても朗 らかでした」
 ユダヤ難民の大半は41年秋ごろまでに出国。翌年春に斉藤さんは 特高警察に逮捕され、その後に教会も閉鎖された。
 だが、神戸でのユダヤ難民支援について神戸市が まとめた市史に記述はなく公的な記録はほとんど残されていないという。神戸の ユダヤ人コミュニティーを 研究し、両者の面会を橋渡しした元神戸女子大非常勤講師の岩田隆義さん(74)は「証言者も少なくなり、ユダヤの人たちが神戸に残したかすかな痕跡は今たどらなければ失われる」と訴える。
 (大川洋輔、金井和之)
 父親が神戸でユダヤ人の世話をした筒井篤子さんと、戦前の写真を見ながら交流するユダヤ人夫妻27日午後、神戸市中央区、 水野義則撮影。 神戸に逃れてきたユダヤ人にリンゴを配る牧師たち(斉藤真人さん提供)
 「大戦中 ユダヤ難民支えた神戸へ」2015.10.28 wed 朝日新聞 p37
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 KOBEの本棚 第22号
 -神戸ふるさと文庫だより-第22号 1997年3月20日
 編集・発行 神戸市立中央図書館
 神戸に来たユダヤ
 一九四〇年七月末リトアニアナチスドイツのポーランド侵攻を逃れた何百人ものユダヤ人が、首都カウナスの日本領事館につめかけた。ソ連、日本を経由し、第三国へと逃れるためである。
 日本外務省は彼らに対する日本経由のビザ発給を拒否したが、当時の領事杉原千畝は、処分覚悟の独断で彼らにビザを発行した。この頃リトアニアソ連に併合され、各国領事館には退去命令が出されていた。残された短い時間のなかで、杉原は六千人分のビザを発行した。それは、彼がカウナスを去る列車の中まで続いたという。
 ビザを手にしたユダヤ人たちは、モスクワからシベリア鉄道ウラジオストクへ、そしてハルピン丸に乗船し、第一陣が敦賀に上陸したのが十月六日であった。神戸のユダヤ人協会やホーリネス教団の尽力により、彼らは神戸の地で長かった逃避行の疲れを癒し、安住の地を求めてアメリカやパレスチナへと旅立って行った。こうしてナチスドイツの手を逃れて日本にやって来たユダヤ人は、じつに一万五千人にのぼった。
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 朝日新聞デジタル>記事
 命つないだ神戸のリンゴ ユダヤ難民4600人支える
 大川洋輔、金井和之
 2015年10月28日 17時25分
 第2次世界大戦中、外交官だった故・杉原千畝(ちうね)氏が発給した「命のビザ」でナチス・ドイツの迫害を逃れてきたユダヤ難民を、神戸で支えた人たちがいた。米国のホロコースト博物館でボランティア講師をしているユダヤ人男性とその妻が27日、神戸を訪れ、当時の支援者の娘らに感謝を伝えた。
 「あなたたちの支援を永久に忘れません。心の底からありがとうと伝えます」
 米国に住むサイ・スタットマウアーさん(72)とジョアンさん(71)夫妻は、神戸市灘区の筒井篤子さん(91)らに語りかけた。夫妻は杉原氏のビザで救われた先人の足跡をたどり、ゆかりの人に謝意を伝えたいと来日した。
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 毎日新聞
命のビザ
 神戸の記憶 第二次大戦中、ユダヤ難民4000人滞在 証言・記録、市が募集
会員限定有料記事 毎日新聞2016年4月2日 大阪夕刊
 ユダヤ人難民たちにリンゴを配る牧師たち=斉藤真人さん提供
 第二次世界大戦中、外交官の杉原千畝(ちうね)(1900〜86年)が発給した「命のビザ」でナチスから逃れたユダヤ人難民が、神戸で滞在していたことについて、神戸市が調査に乗り出した。40〜41年に4000人以上が神戸で過ごしたとされるが、多くの資料は空襲で焼失し、当時を知る市民の多くは90代。「放っておけば記憶は失われる」と証言や記録の収集を始めた。【久野洋】
 市は寄せられた情報を検証し、研究者の見解も求めたうえで、今年度内をめどに市史の別冊にまとめる。
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🏞94)─6─シーボルト台風は過去300年間で最大級。犠牲者約2万人。負傷者約2万人。〜No.358 ㉞ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本人は、健忘症が強く、歴史を教訓にして学べないほどに過去の出来事を綺麗に忘れる。
 その傾向は、現代の日本人に強く、そして深刻である。
   ・   ・   ・   
 日本列島は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時的に頻発する複合的災害多発地帯であった。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は高度な科学力・グローバル力を持っていても歴史力・自然力・文化力・宗教力・民族力などのローカル力が弱い為に、数万年、自然災害の中を生き抜いてきた縄文人日本民族と、数千年、弥生人日本民族を支えてきた現人神・神の血筋(子孫)の日本天皇、そして皇道「八紘一宇」精神が理解できない。
   ・   ・   ・   
 シーボルト台風
 近代的な気象観測が始められる以前の台風であり、発生や消滅の時期は定かではない。しかし、各地の報告書を総合すれば、新暦9月18日の午前2時頃に現在の長崎県西彼杵半島に上陸し、55km/hの速さで北東に進行、関門海峡に至った後山口市付近に再上陸し、中国地方を縦断したものと思われる。当時長崎にいたシーボルトは、オランダ屋敷が倒壊する直前に952hPaの最低気圧を観測している。勢力や風速に関して、気象学者の高橋浩一郎は九州来襲時の中心気圧は900hPa、最大風速50m/s、総雨300mmと推測。一方、小西達夫は中心気圧は935hPa、最大風速55m/sと推測した。過去300年間に日本を襲った台風の中では最大級のものとされている。
(台風災害史より抜粋)
   ・   ・   ・    
 1800年〜1865年 寛政・天保小氷河期。
 冷夏が発生し、凶作が続き、慢性的な食糧不足で人々は満足に食べられず飢えていた。
   ・   ・   ・   
 文政11(1828)年9月17日 シーボルト台風
   ・   ・   ・   
 天保4(1833)年・1835年・1836年・1838年は大凶作で、天保の大飢饉が起き、多くの餓死者が出た。
 大金を持っていても食べ物は買えなかった。
   ・   ・   ・   
 嘉永6(1853)年2月2日 小田原地震。 
   ・   ・   ・   
 安政年間の百姓一揆は、179件。
 安政:1854年11月27日~1860年3月18日
   ・   ・   ・   
 安政元年(1854)4月6日 京都大火。京都御所焼失。
 6月15日 伊賀・伊勢・大和地震
 南海トラフ地震
 11月4日、安政東海地震
 11月5日、安政南海地震
 11月7日 豊予海峡地震
   ・   ・   ・   
 安政2(1855)年8月3日 仙台地震
 首都直下型地震。10月2日 安政江戸地震と江戸大火。死者、1万人。
   ・   ・   ・   
 安政3(1856)年7月23日 陸奥地震
 7月~9月 江戸降雪。
 7月23日 陸奧沖地震
 8月26日 北海道駒ヶ岳噴火。
 9月23日・24日 安政江戸台風。江戸暴雨風と巨大高潮。死者、約10万人。
   ・   ・   ・   
 安政3年・安政4年 東北の飢饉。
   ・   ・   ・   
 安政5(1858)年2月26日 飛騨・越中地震
 2月10日 江戸大火。
   ・   ・   ・   
 安政5(1858)・安政6年 江戸でコレラ大流行。死者、20万人。 
   ・   ・   ・   
 慶応期の百姓一揆は、498件。
 慶応:1865年4月7日~1868年9月8日。
   ・   ・   ・   
 慶応3(1868)年・明治元年 江戸幕府滅亡。
   ・   ・   ・   
 パブリネット:消防署検索シーボルト台風(文政11年)
 近代的な観測記録では、伊勢湾台風をはじめとした「昭和の三大台風」が多くの高潮被害を発生させた原因として知られていますが、日本には古来多くの台風が接近し、数々の高潮被害を発生させてきました。ここでは、その一例として1828年(文政11年)に発生したシーボルト台風についてご紹介します。
 国際問題の発覚に繋がった大型台風
 もともとは元号から「文政の大風(ぶんせいのおおかぜ)」、または干支の子年に発生した台風であるため「子年の大風(ねのとしのおおかぜ)」と呼ばれた台風でしたが、この台風がシーボルト事件(持ち出しが禁止されていた日本地図をドイツ人学者が持ちだそうとしていた事件)の発覚に繋がった説により、1961年(昭和36年)からは「シーボルト台風」と呼ばれるようになっています。
 災害の発端
 近代的な観測がなされる以前の情報ですが、当時の各藩による報告からの推測では、1828年(文政11年)9月18日(当時の旧暦では8月10日)未明に、長崎県西彼杵半島に台風が上陸し北東に進行、関門海峡付近の山口市あたりを経て中国地方を縦断したと考えられています。なお現代では、気象学者により最低気圧は900ヘクトパスカル程、最大風速は50m/s程であったと推測されています。
 被害の規模
 正確な記録は残されていませんが、死者数は全体でおよそ20,000人(行方不明者も含むと考えられます)、負傷者数も約20,000人だったとされています。
 強い雨を伴ったと記録にありますが、特に甚大だったのは強風の影響だったとする説が根強く、強風による吹き寄せ効果で有明海、及び博多湾で高潮が発生したとされており、その波は最大で4m(有明海)にも及んだと推測されています。また、周防灘や博多湾でも3mを超える高潮が発生したとされています。
 なお、シーボルト台風では伊万里焼の産地も被害を受けており、窯の損壊や焼失などが多く発生し、窯から漏れた火による焼死者が多かったと、当時の佐賀藩の記録には残されています。
 被害が大きくなった原因
 日本の歴史では、江戸時代に分類される時代に発生した自然災害です。到底近代的とは言えない時代ですから、現代とは比較にならない稚拙な防災体制であったことが被害を大きくしてしまった最大の原因と言えます。
 堤防などはなく自然のままの環境であり、また家屋は燃えやすい木材が中心であったこと、そして避難体制ができていなかったことは、当時としては仕方なかったのでしょう。
 総括とその後の対策
 死者数の規模は約20,000人とされていますから、日本の歴史上で最大級の被害を受けた大惨事がシーボルト台風です。この台風では有明海博多湾、周防灘を中心に港湾で3~4m級の高潮が発生したとされています。現代は伊勢湾台風(台風の規模としてはシーボルト台風よりも強力だったと推測される)を教訓とした防災体制が全国に整っていますが、この周辺はもともと強力な台風により高潮被害を受けやすい地形であり、江戸時代に大規模な悲劇があったという点は、後世まで語り継いでいきたい教訓です。
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 ウィキペディア
 シーボルト台風は、グレゴリオ暦1828年9月17日、(旧暦文政11年8月9日)に日本に襲来し、九州地方や中国地方にかけて大被害をもたらした台風である。襲来した文政11年が戊子に当たることから、子年の大風(ねのとしのおおかぜ)とも呼ばれる。有明海博多湾などで高潮が発生し、佐賀藩だけで死者が約1万人、九州北部全体で死者約1万9千人に達する被害が出た。
 名称の由来
 この台風は襲来年の干支にちなんだ「子年の大風」、あるいは元号にちなんだ「文政の大風」の名で長年呼び習わされていた。後に気象学者の根本順吉は、この台風によって当時日本に滞在中だったドイツ人学者・シーボルトの乗船が座礁し、船の修理の際に積荷の内容物が調べられたことで日本地図の国外持ち出しが発覚、世に言うシーボルト事件に至った事実に着目。そこから1961年、この台風に「シーボルト台風」の名を与えた。
 なお、シーボルト事件に関しては1996年に出された論文で、1828年8月9日(グレゴリオ暦)の暴風雨でオランダ船が座礁したが、オランダ側の資料などから座礁船の積み荷から地図などが発見された事実はないとして旧来の蘭船積み荷発覚説を否定する説が出されている。オランダ商館長の日記や長崎商人の中野用助による報告書の写しなどからシーボルト事件は江戸で露見したとする江戸露見説が有力になっている。詳細はシーボルト事件の項参照。
 概要
 1828年9月に九州西岸を北上したと考えられる台風である。9月17日(旧暦8月9日)、ドイツ人のシーボルトが出島で952hPaの気圧を観測したとの記録が残っており、後に気象学者の根本順吉が「シーボルト台風」と命名した。気象学者の高橋浩一郎の推定によれば、九州来襲時の中心気圧は900hPa、最大風速50m/s、総雨量300mmで、過去300年間に日本を襲った台風の中で最強のものとされる。また、小西達男の推定によれば、中心気圧は935hPa、最大風速は55m/s程度とされる。有明海博多湾・周防灘などで高潮が発生し、佐賀藩だけで死者が約1万人に達する被害が出た。
 近代的な気象観測が始められる以前の台風であり、発生や消滅の時期は定かではない。しかし被害地域の藩が作成した報告書により、大体の進路が推測できる。久留米では四時半(午前0時)ころから暴風となり、北東風から東南に、門司では亥の刻(午後11時)に吹き始めた巳午(南南東)の風が寅卯(東北東)に変ったと言う。これら各地の報告書を総合すれば、新暦9月18日の午前2時頃に現在の長崎県西彼杵半島に上陸し、55km/hの速さで北東に進行、関門海峡に至った後山口市付近に再上陸し、中国地方を縦断したものと思われる。なお、当時長崎にいたシーボルトは、オランダ屋敷が倒壊する直前に952hPaの最低気圧を観測している。
 勢力や風速に関して、気象学者の高橋浩一郎は九州来襲時の中心気圧は900hPa、最大風速50m/s、総雨量300mmと推測。一方、小西達夫は中心気圧は935hPa、最大風速55m/sと推測した。過去300年間に日本を襲った台風の中では最大級のものとされている。
 平成3年台風第19号や平成11年台風第18号、平成16年台風第18号など近代の著名な風台風と似た進路を取ったため、暴風や高潮による被害が顕著であった。有明海では最大で4mもの高潮が発生し、6千町歩の耕地が水没、埋没。暴風などによる家屋の全半壊は約5万軒に上る。さらに磁器の名産地・伊万里では操業中の登り窯が損壊、漏れた炎が暴風に煽られて町をなめつくし、1,200軒を焼失、115人の焼死者を出した。以上は佐賀藩のみの被害である。また、周防灘、博多湾でも3mを超える高潮が発生したと推定されている。
 いずれにせよ、平安時代の989年に近畿地方を襲ったとされる台風(永祚の風)、1281年、弘安の役のいわゆる「神風」で元の兵士10万人が溺死した事件、1856年に関東地方を襲い10万人余りの死者を出した台風(安政3年の大風災)とならんで、日本史上最大級の被害をもたらした台風といえる。
 各地の被害
 肥前国佐賀藩
 耕地の水没・埋没6,021町歩、家屋全壊33,490軒、同半壊14,565軒、大火での焼失1,173軒、死者8,550人、負傷者8,665人、牛馬の斃死753頭、橋の流出250ヶ所、土砂崩れ2,828ヶ所、往来筋だけでの倒木320,295本、破船105艘、堤防の決壊294ヶ所。
 肥前国大村藩
 家屋全壊3,000余軒、同半壊1,720軒、死者3,107人、焼失家屋318軒、牛馬の斃死107頭、土砂崩れ31ヶ所、耕地の水没1,200石余、壊船1,921艘。
 肥前長崎と近隣の村落(天領
 家屋全壊2,780軒、同半壊1,049軒、死者45人、負傷者103人、破船283艘、石垣の崩壊428ヶ所、焼失家屋86軒、さらにオランダ屋敷が倒壊。
 筑後国柳川藩
 新田6万石に海水が流入、死者3,000人以上、負傷者1,800人以上、全壊家屋1,630軒、流出家屋3,200軒。牛馬の斃死、倒木に関しては「調方行き届かず」。
 筑後国久留米藩
 家屋全壊10,078軒、城下町並びに周辺村落での出火473軒、死者208人、負傷者563人。牛馬の斃死、倒木、石垣の崩落、橋梁の被害に関しては「調方行き届かず」。
 筑前国福岡藩
 博多湾で顕著な高潮。家屋全壊22,018軒、同半壊17,132軒、死者2,353人、負傷者3,420人、破船420艘。福岡城の御殿が全壊、二の丸・櫓が半壊。
 豊前国英彦山
 英彦山神宮の本殿が大破。神殿の扉が筑前国まで吹き飛ばされたという。
 豊前国小倉藩
 小倉城城下のみで、家屋全壊318軒、死者53人、負傷者107人、破船18艘。その他の地域は不明。
 長門国長州藩
 下関だけで、家屋半壊412軒、死者65人、負傷者200余人。海側の石垣、塀、土蔵は残らず崩壊、流出。
 九州や中国地方には他にも多数の藩や天領があり、北陸の加賀藩や東北の仙台藩にも被害の記録が見受けられることから、全国で2万人以上の死者を出したことは確実である。
   ・   ・   ・   

🏞121)─1─安政の江戸台風と徳川幕府の衰滅。民族伝統文化の自助・公助・共助。~No.483 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本人は、健忘症が強く、歴史を教訓にできないほどに過去の出来事を忘れる。
 その傾向は、現代の日本人に強く、そして深刻である。
  ・   ・   ・   
 日本列島は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時的に頻発する複合的災害多発地帯であった。
   ・   ・   ・   
 関東とくに江戸は水害に弱い大都市であった。
   ・   ・   ・   
 日本における政権交代や権力者交替は、新旧の権力闘争ではなく自然災害で起きていた。
   ・   ・   ・   
 日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略し領土を拡大できなかったのは、多発する巨大な自然災害と人口数が増えず低迷していたからである。
   ・   ・   ・   
 台風は、虐殺を繰り返していた蒙古・高麗連合軍を撃退し日本を救ってくれた神風であったが、江戸幕府にとっては滅亡をもたらした悪神風であった。
 「日本人は神風を信じていた」あるいは「日本は神風に守られていた」は、大ウソである。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は高度な科学力・グローバル力を持っていても歴史力・自然力・文化力・宗教力・民族力などのローカル力が弱い為に、数万年、自然災害の中を生き抜いてきた縄文人日本民族と、数千年、弥生人日本民族を支えてきた現人神・神の血筋(子孫)の日本天皇、そして皇道「八紘一宇」精神が理解できない。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は御上に弱いが、江戸庶民(百姓や町人)は御上に強かった。
   ・   ・   ・   
 2016年9月23日 YAHOO!JAPAN「死者10万人と書かれた資料もある160年前の安政江戸台風 自然災害が続きすぎて江戸幕府の終焉
饒村曜 | 気象予報士
 昔の改元は1月1日に遡って改元
 嘉永7年は6月15 日(1854年7 月9 日)に奈良地震で死者1500 名以上、11月4日(12月23 日)に安政東海地震で死者3000~4000名、11月5 日(12月24 日)に安政南海地震で死者数千名という大きな被害が発生しています。
 このため、安政改元となるのですが、昔の改元は、今のように改元された時から新しい元号を使うのでほなく、改元されると、その年の1月1日に遡って改元となります。
 このため、嘉永7年6月15日に起きた東海地震は、安政という新しい元号ができたことにより、安政元年6月15日に起きた東海地震ということになり、安政東海地震と名付けられています。安政南海地震も同様です。
 安政2年の地震安政3年の台風
 安政改元されても災害が相次いでいます。それも、幕府の財政基盤である東日本を中心にです。
 安政2年10月2 日(1855年11月11 日)には、相模湾震源とする南関東直下地震により死者4000 ~1万人という被害が発生しています。安政の大地震、あるいは、単に江戸地震と呼ばれる地震です。被災地は江戸を中心とする関東平野南部の軟弱地盤のところで、深川などの海の埋立地や日比谷から神田の埋立地では大きな被害が発生しました。しかし、江戸城の西側に広がる台地の被害は軽微でした。
 そして、今から160年前の安政3 年8 月25 日(1856 年9月23 日)には、台風で関東地方が暴風雨となり、「其惨害、実に乙卯の震災 (江戸地震)に倍する」と称せられるほどの被害が発生しています。
 {江戸大風雨 城中を始として市中大小の家屋殆ど損破せさる莫く芝 高縄 品川 深川 洲崎等の海岸は風浪の被害有り 本所出水床上に及ぶ 永代橋 新大橋及ひ大川橋 何れも損所を生じ築地西本願寺 芝青松寺 本所霊山寺の佛殿を始として 神社佛閣の或は潰倒し 或は破損する者少なからず 共惨害 実に乙卯(安政二年)の震災に倍すと称せらる  出典:東京市史稿}
 {二十三日微雨。二十四日、二十五日、続いて微雨。二十五日、暮れて次第に降りしきり、南風烈しく、戌の下刻より殊に甚だしく、近来稀なる大風雨にて、喬木を折り、家屋塀墻を損ふ。又海嘯により逆浪漲りて、大小の船を覆し、或ひは岸に打上げ、石垣を損じ、洪波陸へ溢濫して家屋を傷ふ。この間、水面にしばしば火光を現はす。此の時、水中に溺死怪我人算ふべからず。暁丑時過ぎて風雨漸く鎮れり。始め程は少時雷声を聞く。又風雨の間、地震もありしなり。 出典:武江年表}
 江戸湾の高潮で10万人の死者という記録もある
 安政3年の台風は、伊豆半島付近から江戸のすぐ北を通過し、江戸湾では大きな高潮被害が発生しました。しかも、このときに、地震も大火も発生しています。高潮だけでも大変なのに、地震と大火が加わっての災害でした。当時の瓦版には、火災も描かれていますので、かなりの大火であったと思われます。
 「近世史略」によると死者10万人余となっています。しかし、「安政風聞集」では、その被害について、「家ごとの損失は地震のときの十倍にもなるが、幸いにして人の死亡は去年の十分の一もなかった。」と記録されています。前年の安政江戸地震の死者が4000~1万人ですから、これの10分の1なら、400~1000人となります。
 東京市史稿の2倍なら、8000~2万人となります。
 このように死者数には大きな差があり、正しいかどうか確かめるすべはありませんが、かなりの死者がでたことは確かです。
 そして、旧暦の25日ということは小潮のときの高潮です。これが一週間前の満月のとき、あるいは、一週間後の新月のときの大潮のときの高潮であったなら、もっと大きな被害になったと思われます。
 安政3年は、東北地方で凶作となっでいますが、この凶作は翌年も続き、江戸幕府にとってふんだりけったりの災害が続きました。
 幕末の動乱で江戸幕府があっけなく終焉をむかえた理由はいろいろ考えられますが、財政基盤である東日本で、これだけの自然災害が相次げば、幕府の財力がどんどん消耗し、倒幕の動きを阻止できなかった遠因となったことは十分予想できます。
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 現代日本人には、江戸時代が理解できないし、徳川幕府を悪し様に批評する資格はないし、江戸文化を持ってはいない。
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 徳川幕府は、鎖国をして他国・隣国からの支援を一切受けなかった。
 江戸庶民は、閉鎖ブラック社会で、孤独に、孤立して、自力で生きていた。
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 1800年〜1865年 寛政・天保小氷河期。
 冷夏が発生し、凶作が続き、慢性的な食糧不足で人々は満足に食べられず飢えていた。
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 文政11(1828)年9月17日 シーボルト台風
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 天保4(1833)年・1835年・1836年・1838年は大凶作で、天保の大飢饉が起き、多くの餓死者が出た。
 大金を持っていても食べ物は買えなかった。
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 嘉永6(1853)年2月2日 小田原地震。 
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 安政年間の百姓一揆は、179件。
 安政:1854年11月27日~1860年3月18日
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 安政元年(1854)4月6日 京都大火。京都御所焼失。
 6月15日 伊賀・伊勢・大和地震
 南海トラフ地震
 11月4日、安政東海地震
 11月5日、安政南海地震
 11月7日 豊予海峡地震
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 安政2(1855)年8月3日 仙台地震
 首都直下型地震。10月2日 安政江戸地震と江戸大火。死者、1万人。
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 安政3(1856)年7月23日 陸奥地震
 7月~9月 江戸降雪。
 7月23日 陸奧沖地震
 8月26日 北海道駒ヶ岳噴火。
 9月23日・24日 安政江戸台風。江戸暴雨風と巨大高潮。死者、約10万人。
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 安政3年・安政4年 東北の飢饉。
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 安政5(1858)年2月26日 飛騨・越中地震
 2月10日 江戸大火。
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 安政5(1858)・安政6年 江戸でコレラ大流行。死者、20万人。 
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 慶応期の百姓一揆は、498件。
 慶応:1865年4月7日~1868年9月8日。
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 慶応3(1868)年・明治元年 江戸幕府滅亡。
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 2019年 10月12日 Nnote「【江戸時代の台風(「颶風(ぐふう)」)と台風対策~勝海舟の『氷川清話(ひかわせいわ)』より】見えてくるのはいかに徳川時代の防災に対する心構えと対応が素晴らしかったか見えてきます。
 コバタケ
 【江戸時代の台風(「颶風(ぐふう)」)と台風対策~勝海舟の『氷川清話(ひかわせいわ)』より】見えてくるのはいかに徳川時代の防災に対する心構えと対応が素晴らしかったか見えてきます。
 皆さま 台風19号が上陸してきます。何事もなく無事通過することを願うばかりです。さて久しぶりに自宅にいます。
 じゃあ江戸時代は?少し調べてみました。
 ■江戸時代に関東地方を襲った「安政3年(1856年)の台風」江戸が壊 滅!?の凄まじさ歴史上の台風といわれています。死者は10万人出したといわれています。
 その前に 実は「台風」という名称が使われるようになったのは1956年(昭和31年)と、最近のことです。それまではどう呼ばれていたのでしょうか?
 平安時代は「野分(のわき・のわけ)」と呼ばれていました。風が野の草を吹いて分けることからこの名称が付きました。あの『源氏物語』にもその名称を確認することができるそうです。江戸時代になると「颶風(ぐふう)」と呼ばれるようになり、明治時代になって「大風(おおかぜ)」や「颱風(たいふう)」と今日にも通ずる呼び方になりました。
 歴史上で有名な台風が「弘安の台風」。1281年(弘安4年)、この台風が日本に侵攻してきたモンゴル軍を襲い、撤退に追い込みました。このことから「神風」とも呼ばれたこと日本史で習ったかと思います。
 「安政3年の台風」は1856年9月23日から24日の夜にかけて関東地方を襲った台風。非常に強い勢力を持ったまま、伊豆半島付近から江戸の西側を通過したそうです。恐るべきはその猛烈な風でした。風による被害だけでなく、それによって引き起こされた高潮と洪水が江戸の町を襲ったそうです。被害は江戸をはじめ、関東の広い範囲に及び、約10万人もの死者を出したそうです。ーJapaaanー参照
 ■勝海舟さんの談話より
 今回は、明治二十九年に、東北で津波が起きたときに、勝海舟さんが明治政府と江戸時代の対応の比較を述べた文章をご紹介します。いくら天下太平の江戸時代とはいえ、地震津波・台風・洪水・飢饉・火事・疫病は頻繁にやってきていたので、徳川幕府という軍事政権の対応や考え方が分かって興味深いものがあるのです。
 参考文献【『氷川清話(ひかわせいわ)』 勝海舟著 講談社学術文庫P175より】
 ★難民の救済
 天災とは言ひながら、東北の津浪(つなみ)は酷(ひど)いではないか。
 政府の役人は、どんなことをして手宛(てあて)をして居るか、法律でござい、規則でございと、平生やまかしく言ひ立て居る癖に、この様な時に口で言ふ程に、何事も出来ないのを、おれは実に歯痒(はがゆ)く思ふよ。全体人間は幾(いく)ら死んで居るか、生き残りたる者はまた幾らあるか、おれは当局で無いから知らないけれども、兎(と)にも角(かく)にも怪我(けが)人と飢渇(きかつ)者とは、随分沢山あるに相違はない。
 この様な場合に手温(てぬ)るい寄附金などと言うて、少し計(ばか)りの紙ぎれを遣(や)つた処が、何にもならないよ。昔、徳川時代の遣り口と、今の政府の遣り口とは、丸で違ふよ。
 今では騒ぎ計(ばか)りいらくつて、愚頭(ぐず)々々して居る内には、死ななくてもよい怪我人も死ぬし、飢渇者もみんな死んでしまふよ。ツマリ遣り口が手温るいからの事だ。何と酷(む)ごたらしいぢやないか。
 徳川時代にはチヤント手が揃って居るから、イザと言ふこの様な場合になると、直(す)ぐにお代官が被害地に駆け附(つ)けて、村々の役人を集め、村番を使うて手宛をするのだ。
 先づ相応な場所を選んで小屋掛けをするのだ、此処で大炊(おおた)き出しをして、誰れでも空腹で堪(た)まらない者にはドン/\惜気(おしげ)もなく喰(く)はせるのだ、さうすると、この様な時には、少し位、身体の痛む者も、みんな元気が附(つい)て来るものだよ。
 炊き出しの米は、平生やかましく責立(せめた)てなくとも、チヤンと天災時の用意がしてあつて、何処(どこ)へ行きてもお蔵米がかこつてある。それだからイザ天災といふ時でも、苦労せずに、窮民を救ふことが出来るのだ。
 窮民に飯を喰はせなければ、みんな何処(どこ)かへ逃げて行つてしまふよ。逃げられては困るヂヤないか、どこまでも住み慣れたる土地に居た者を、その土地より逃がさずにチヤンと住まはしておくのが仁政と言ふものだよ。
 それから怪我人は、矢張り急場の間に合はせに幾らも大小屋を建て、みんな一緒に入れて置くのよ。さうして、村々のお医者はここへ集つて夜の目も眠らずに、急場の療治をするのだ。
 何でもこの様な時は素早いのが勝ちだから、ぐづ/\せずに療治していつたものだ。それゆゑ、大怪我人も容易に死な>かつたよ。
 徳川時代は、イクラお医者が開けないと言うても、急場になつてマゴ/\する様な者はなかつたよ。それに、なか/\手ばしつこい事をして療治するから、ドンナ者でも手遅れの為(ため)に殺す様な事はなかつたものだよ。
 左様(さよう)の風にやつて行くと津浪のために無惨なる者も憂き目を見る様な事が無くなつて来る。それから、三ヶ年も五ヶ年も、ツマリ被害の具合次第で納税を年賦にして、ごく寛(ゆ)るくしてやるのだ
 こう見てもいかに徳川時代の防災に対する心構えと対応が素晴らしかったか見えてきます。
 それは 思いやりとお互い様そして共生の文化だったかと思います♪
 かんながら ありがとうございます」
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 安政3年の大風災は、江戸時代の1856年9月23日(安政3年8月25日)から24日にかけての夜間に、江戸を中心とする関東地方で発生した大規模な風水害である。江戸のすぐ近くを強い勢力の台風が通過したことにより、江戸の街一帯が暴風雨や高潮などの被害を受けたことによって発生した。また暴風雨に加えて、火災が起きたことも被害を拡大させた。
 この台風による死者数は諸説あり、資料によっても異なるが、最も多いものでおよそ100,000人とされ、日本の風水害によるものとしては史上最悪の被害とされている。
 なお、この災害を引き起こした台風は、安政江戸台風と呼ばれる。
 概要
 江戸では夕方から雨が降りしきり、成の主 (午後8時) 頃から南風が強まり、雷鳴がとどろき、亥の刻 (午後10時) 頃には、近年まれな大暴風雨となった。夜明けの午前4時頃になって風雨はようやく衰え、 人の歩行もできるようになった。
 『武江年表』には、この大風災について以下のように記されている[4]。
 {「八月二十三日、微雨。二十四日、二十五日、続いて微雨。二十五日、暮れて次第に降りしきり、南風烈しく、戌の下刻より殊に甚だしく、近来稀なる大風雨にて、喬木を折り、家屋塀墻を損ふ。又 海嘯により逆浪漲りて、大小の船を覆し、或ひは岸に打上げ、石垣を損じ、洪波陸へいつ濫して家屋を傷ふ。この間、水面にしばしば火光を現はす。此の時、水中に溺死怪瑕人算ふべからず。 (略) 翌二十六日朝より霽に属す (諸商人活業を休みこと数日なり。) 人家所々潰れたる、数ふべからず。寅卯両年の災に罹りし場所、家作の新らしきも潰れしあり。去冬の地震にいたみしは更なり。微塵になりしもの数を知らず。(略) ことに駭歎すべきは築地西本願寺の御堂なり。さしもの大厦なれども一時に潰れて、微塵とはなれり。此の辺、船松町、上柳原町、南本郷町、十軒町、南飯田町、南小田原町、深川洲崎、芝高繩、品川等の海岸は殊に風浪烈しく、人家を溺らし、或ひは逆浪にさそはれて海中へ漂汎し、資財雑具は見るが内に流れ失せたり。(略)」
 ─── 武江年表}
 各地の被害から、猛烈な台風は静岡県伊豆半島付近から上陸し、江戸のすぐ西(江戸城付近)を通過して、関東北部を経て東北地方へと進んだと推定されている。暴風と高潮による被害が大きく、現在の東京にとっても最悪の台風のコースであった。
 被害
 江戸城中をはじめ、諸大名、武家屋敷、大小の家まで壊れぬものはないほどであり、屋根瓦を吹き落とし、戸障子に至るまで吹き飛んだという。築地本願寺では、前年に発生した安政江戸地震では少し瓦が落下した程度であったが、この台風の暴風により全壊してしまった。浅草三社の前の鐘楼は、屋上が吹き飛ばされて跡形もなくなった。湯島天満宮では銅鳥居と神楽堂が倒れ、芝の青松寺、本所の霊山寺の本堂なども倒壊し、御廓内の松の大木も折れたという。大風の被害は市中全般に及び、安政江戸地震の際の被害よりもはるかに大きいものとなった。
 江戸をはじめ、現在の神奈川県や千葉県などでも暴風の被害が大きかった。しかし、同時に東京湾で高潮が発生。台風による気象潮は、 2.5 - 3.2mに達したという。深川、洲崎、本所や芝、高輪から品川海岸にかけては高潮で海のようになり、夥しい人家の被害となり、木場の木材は流失した。佃島では、西一丁目がことごとく破損し、永代橋の中程から東へ7〜8聞は、風浪により押し流された500〜600石の大船によって壊され、ついに往来止めとなった。大川端から大橋への往来へも、大茶船が12〜13隻ほど打ち上げられ、浜町辺りは高潮が床上2尺4〜5寸 (およそ0.8m) となった。浸水の水位は 、 船橋町役場で床上0.9 m、築地で0.9m、芝増上寺・深川・本所で1mに達したという。 至る所で、倒壊した家の柱や梁等が流れてきたため、水中を逃げようとしてもまともに歩けず、多数の負傷者が出た。高輪の海岸には、薩州家の軍艦が吹き付けた。近郊では、大森、鈴ヶ森、川崎から六郷の渡しまで高潮の被害が多かった。砂村や行徳、猫実(浦安)の辺りでも、高潮で家が流されたり、溺死したり、また逆浪に誘われて海上で漂流したりする人も多くいた。
 一方、芝片門前の壊れた家から出火して火災が発生し、火災は雨中に延焼して神明前町の辺りまで焼けた。さらに、四谷や代々木の辺りでも火災があり、大風雨中の火災だったために人々は逃げ惑い、死者や負傷者が多数出た。この大風災による死者は、近世史略によると10,0000人余りとなっているが、仮にこの死者数が正しいとすると、日本台風災害の死者としては最多となり、日本の風水害によるものとしては史上最悪の被害となる。
 その他
 「安政風間集」(安政3年12月出版・金屯道人編)の挿絵には、安政3年の大風災の様子を描いた絵図がある。この大風災を機会に、武江年表、震災動揺集などの本格的な災害史が作られるようになった。
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⚔22)─1─黒人サムライ「弥助」。宣教師ヴァリニャーノは奴隷を信長に献上した。~No.93No.94  * 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 人類は、古代から宗教と同時に公的な奴隷制度を持っていた。
   ・   ・   ・   
 日本には、公的な奴隷制度はなかったが、乱取りという奴隷狩りがあり、日本人奴隷が売り買いされていた。
 代表的物語が、『山椒大夫』である。
   ・   ・   ・   
 現代日本は、あまりの恥ずかしさ故に、「乱取り」や「日本人奴隷売買」などの歴史的事実を隠蔽し、捏造・歪曲した間違った日本人像を子供たちに教えている、
 つまり、現代の歴史教育は嘘を教えている。
 日本人を奴隷とし売ったのは日本人て、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は日本人奴隷を日本人から買って世界に輸出して金儲けをしたに過ぎない。
 昔から、日本人の命は金で買えたのである。
 それを証明したのは日本人である。
 日本人は、賢くもないし、優れてもいないし、秀でているところなどはなかった。
 「日本は美しい国であった」も「日本人は優しく思いやりがあった」も、ウソである。
 そうした日本人の不道徳を、「自分の不徳」が原因であると引き受け「みことのり(御宣言)」を発して身を浄めて行いを正してこられたのが日本の天皇である。
 それ故に、日本民族日本人は申し訳ないと恥じ入り天皇を守ってきた。
 恥を知らない日本人は、天皇を罵倒し、天皇を滅ぼそうとした。
   ・   ・   ・   
 産経新聞iRONNA「アフリカ出身の侍がいた 戦国時代の数奇な人生、ハリウッド映画へ
 『BBC
 2020年01月20日 13:19 公開
 ナイマ・モハムド、BBCニュース
 今から500年近く前、1人の背の高いアフリカ人男性が日本に到着した。彼はその後、武士の地位を手に入れた最初の外国人となる。その数奇な人生が、複数のハリウッド映画の題材になろうとしている。
 弥助として知られるこのアフリカ人男性は、16世紀に日本統一を進めた最初の大名、織田信長の家臣となった。
 歴史学者のローレンス・ウィンクラー氏によると、弥助は1579年に当時の首都だった京都に到着。彼を一目見ようと大勢が互いの上によじのぼる騒ぎで、中には押しつぶされて死ぬ人もいたという。
 来日から1年もしない内に、弥助は侍としての身分を手に入れた。間もなく弥助は日本語を自在に操り、信長のお供として戦場に出るようになった。
 徳川家康の家臣だった松平家忠は1579年の日記に、弥助を目にした際のことを記している。それには、「肌は墨のようで、身長は6尺2分(約182センチ)」と書かれている。
 1900年の日本人男性の平均身長は157.9センチだった。16世紀ともなれば、栄養状態が悪い日本人の身長はさらに低かったはずで、弥助はほとんどの人を見下ろしていたに違いない。
 士分取り立て
 弥助の誕生日や出生地については記録が残っていない。多くの歴史家がモザンビーク出身ではないかとみているが、エチオピアやナイジェリアから来たという説もある。
 分かっているのは、弥助はイエズス会のイタリア人宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの視察旅行に同行して日本を訪れたことと、1579~1582年の間しか史料上の記録がないことだ。
 一部の研究者は、弥助が奴隷だったのではないかとみているが、確証はない。
 弥助のドキュメンタリー映画を製作しているフロイド・ウェブ氏とデボラ・ディスノー氏は、弥助が奴隷だったというのは憶測に過ぎないとみている。
 ディスノー氏は、「戦士としての経験がなければ、たった1年で侍に上り詰めることは難しいはずだ」と語る。
 武士階級に生まれた者は通常、子どもの頃から訓練を積まされるからだ。
 戦国大名との友情
 ウェブ氏とディスノー氏によると、弥助は日本に到着した直後に織田信長と出会った。信長は、弥助の巧みな話術に興味を引かれたのだろうという。
 弥助についての著書がある研究者のトマス・ロックリー氏は、弥助は当時すでに日本語を少し喋れるようになっており、信長とは馬が合ったようだと説明する。
 ロックリー氏によると、弥助は訪日前にアフリカやインドで生活した経験があり、こうした地域の話を信長に聞かせて楽しませたのだという。
 また、日本語が話せたなら、その分だけ周囲の覚えもめでたかったはずだとウェブ氏は指摘する。
 「イエズス会の宣教師たちは、日本人の魂に宗教を持ち込もうとした。しかし、弥助にそういう目的はなかった」
 また、信長は初対面の際、甥(おい)を通じて弥助に褒賞を与えたという記録も残っている。
 コートジヴォワール系のフランス人作家セルジュ・ビレ氏は、弥助の数奇な立身出世物語に興味を持って、弥助について本を発表している。
 BBCの取材でビレ氏は、「弥助にまつわる謎が、私をひきつけた」と語った。
 日本の大名の信長とアフリカ人侍の弥助の間には、多くの共通点があったとビレ氏は言う。
 信長は武術を好み、自分でも練習を怠らなかった。エキセントリックな人物としても知られ、西洋の衣服を身にまとい、高い規律を身につけた教養人を側に置きたがっていた。
 ウェブ氏は、「弥助には侍魂があった」と話す。弥助は日本の文化言語を理解していたほか、踊りも好きだった。また、スワヒリ語で英雄を称える歴史的な叙事詩「ウテンジ」を披露したという。このことから弥助は、スワヒリ語が今も使われている現在のモザンビーク北部出身なのではないかとみる歴史学者もいる。
 同じように、信長は能の愛好家で、様々な芸術の保護にも力を入れたとされている。
 信長は弥助を気に入り、家族のように扱ったと言われる。弥助は、信長と共に食事をする数少ない家臣のひとりだったという。
 ディスノー氏は、「信長は弥助の体力や体格を褒め、10人力だと説明していた」と話す。
 生き続ける伝説
 信長が弥助に士分を与えた当時、日本人ではない武士は存在しなかった。弥助以降、他の外国人にも士分が授けられるケースが出てきた。
 初の外国人侍として、そして織田信長の家臣として、弥助はいくつかの重要な戦いに参加している。
 さらに、信長の家臣だった明智光秀が謀反を起こした1582年の本能寺の変では、弥助は信長と共にこの寺に宿泊していた。信長はここで切腹している。
 歴史家のトマス・ロックリー氏によると、信長は弥助に介錯を頼み、自分の首を刀と共に息子に送り届けるよう頼んだという。これは絶大な信頼の証だ。
 信長の死後間もなく、弥助の伝説も終わりを迎える。本能寺の変の後、弥助は追放される。京都にいたイエズス会のもとへ戻った可能性もある。
 弥助のその後の行方や晩年については不明だ。しかし、弥助を描いた来栖良夫氏の絵本「くろ助」によって、黒人侍の物語は多くの日本人に親しまれている。
 弥助の半生を描いた「くろ助」のラストシーンはほろ苦い。信長が自害した後、くろ助(弥助)は寺に連れて行かれるが、そこで彼はアフリカにいる両親の夢を見て涙を流す。
 米エンターテインメント誌「ヴァラエティ」は昨年5月、映画「ブラックパンサー」に主演したチャドウィック・ボーズマン氏が弥助を演じる予定だと報じた。
 ハリウッドでは現在、弥助の物語の映画化が2つ、進行している。制作スタジオのライオンズゲートは2017年、黒人の侍についての映画を製作中だと発表した。
 500年近くたった今も、弥助の数奇な人生は大勢をひきつけているのだ。
 (英語記事 The mysterious life of an African samurai)
   ・   ・   ・       
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として世界中に輸出し大金を稼いでいた。
 日本民族日本人はアフリカ人同様に奴隷であったがゆえに、白人は罪の意識を持たず日本民族日本人を「イエローモンキー(黄色い猿)」「ジャップ(JAP)」と蔑称で呼び捨てにしている。
   ・   ・   ・   
 日本人には、人を奴隷としてキリスト教徒に与え酷使して殺す事を祝福し、同時に、死からの復活、奇跡と恩寵、自己犠牲、博愛、隣人愛などを福音として説き不寛容で排他的な信仰契約を強要するキリスト教絶対神が理解できなかった。 
   ・   ・   ・   
 ローマ教皇バチカンカトリック教会は、洗礼を受けキリシタンになった日本人を奴隷にする事を禁じたが、キリスト教を拒否する異教徒日本人を奴隷とする事は認めた。
 南蛮人=白人キリスト教徒商人は、スペイン国王・ポルトガル国王に日本人キリシタンを奴隷として売買できるように請願書を出していた。
 一部の宣教師は、神聖な使命である、日本での布教活動費を稼ぐ為に日本人奴隷売買に協力していた。
   ・   ・   ・   
 宗教的白人至上人種差別主義からすれば、日本人はアフリカ人同様に自由に殺してもいい家畜か獣であって、尊重すべき人間ではなかった。
   ・   ・   ・   
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 2019年06月08日 15時34分 JST | 更新 2019年06月08日 17時50分 JST
 「弥助」ってどんな人? 織田信長に仕えた黒人武士の生涯を歴史資料で追った
 『ブラックパンサー』のチャドウィック・ボーズマンが主演でハリウッド映画化と海外報道されています。
 漫画に描かれた弥助の姿。山田芳裕へうげもの」第3服より
 『ブラックパンサー』で黒人ヒーローを演じたチャドウィック・ボーズマンの新作映画の報道が話題だ。織田信長に仕えたという記録が残る、黒人の武士「弥助(やすけ)」を描いた ハリウッド映画で主演するというのだ。
 5月7日付けのアメリカのエンタメサイト「DEADLINE」に対して、ボーズマンさんは「弥助の伝説は、世界史の謎の一つだ。アジア系以外でサムライになった唯一の存在(※)だよ。単なるアクション映画ではなく文化事業であり、異文化交流だから、僕はそれに参加できて興奮しているよ」と語っている。
 (※実際には、徳川家康に仕えて旗本となった三浦按針ことウィリアム・アダムスの例もある)
 果たして弥助とは、いかなる人物なのか。謎に包まれた弥助の生涯を歴史資料から追った。
 ■イエズス会の宣教師が連れていた黒人奴隷だった。
 弥助について触れた一次資料は非常に少ない。
 ただ、弥助が信長の最晩年、天下統一にあと一歩まで迫った時期に宣教師の黒人奴隷として出会い、その後に家臣になったということまでは、はっきりしている。
 宣教師に随行する黒人たち。狩野内膳が描いた南蛮屏風(左隻)より
 神戸市立博物館
 宣教師に随行する黒人たち。狩野内膳が描いた南蛮屏風(左隻)より
 天正9年(西暦1581年)2月23日に、イエズス会の宣教師オルガンティノが、京都で織田信長に面会した際に、黒人奴隷の従者を連れていった。これは日本側とイエズス会の報告の両方に記録がある。
キリシタンの国から黒人がやって来た。年齢は26~27歳ぐらいのようだ。全身がウシのように黒い。この男は健康で力が強く、10人がかりにも勝てそうだ。バテレンが連れてきて、(信長様に)挨拶させた(太田牛一信長公記」)>
<信長も黒人奴隷を見ることを望んでいたため、宣教師のオルガンティノが連れていったところ、信長はその色が生まれつきで、後から塗ったものでないことを信じようとせず、帯から上の着物を脱がせた>(ルイス・フロイスの報告「イエズス会の1581年の日本年報」)>
 そして翌1582年5月11日、徳川家康の家臣である松平家忠の日記に「信長には弥助という名前の黒人の家来がいる」という記述がある。信長が家康と組んで武田勝頼を攻め滅ぼした「甲州征伐」の際に、信長に随行していたようだ。
 「信長様が、宣教師から進呈されて召し抱えたという、黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は6尺2分(約1メートル82センチ)。名は弥助という」(家忠日記
 これらを総合して、オルガンティノが引き合わせた黒人奴隷を信長が召し抱えて武士となった。そして「弥助」という名前を付けられたというのが定説となっている。
 ■「短刀と屋敷なども与えられた」との記述も
 宣教師たちの記録から、初対面の出来事を補足しよう。当時、日本人にとって黒人の姿は非常に珍しく各地で人だかりができて、負傷者まで出る騒ぎになったようだ。
 珍しい物が好きな信長といえども、黒人の存在をにわかには信じることができなかったらしい。
 上半身の服を脱がせて半裸にしただけでなく、体を洗わせたというエピソードもある。アレッサンドロ・ヴァリニャーノは「信長は黒人奴隷の服を脱がせて体を洗わせたところ、洗い擦るほど一層肌が黒くなった」と記述している。
 しかし、その後、信長は、この黒人をすごく気に入ったようだ。
 フロイスは「黒人奴隷は少し日本語が分かったので、信長は彼と話して飽きることがなかった。また、彼が力強く、芸も少しできたので、信長は多いに喜んで庇護し、人を付けて京都市中を歩き回らせたので、『信長は彼をトノ(武将)とするのでは』という声もあった」と振り返っている。
 また、「信長公記」のうち、太田牛一の子孫に伝わった「尊経閣本」と呼ばれるバージョンでは、上記に続いて「黒人は信長様から家臣として召し抱えられて俸禄を得た。名前は弥助とされた。短刀と屋敷なども与えられた。時折、信長様の道具を運ばされた」とする記述がある。
 もし、この記述が事実であれば、信長に側近として仕えたことになる。
 ■「本能寺の変」で奮戦
 弥助はアフリカ南部のモザンビーク出身だったと言われている。
 大航海時代の当時、ヨーロッパからインドに向かう船は、アフリカ南端の喜望峰を通過する際に、モザンビークに寄港して食料や飲料水の補給のほか、現地で奴隷を購入することが多かった。
 弥助もモザンビークからインドに運ばれたが、そこで宣教師に同行して来日していたようだ。
 信長が「甲州征伐」に同行させるほどの信頼を置かれていた弥助だが、その運命は暗転する。甲州征伐を終えて信長が安土城に帰還したのが1582年4月21日だった。その約1カ月後の6月2日、主君である信長が「本能寺の変」で明智光秀に討たれたのだ。
 弥助は信長の死んだ後も、息子の織田信忠が籠もる二条城に駆けつけて刀を振るって奮戦したが、最終的に降伏したという。フロイスの報告を引こう。
<巡察師(ヴァリニャーノのこと)が信長に送った黒人奴隷が、信長の死後、息子の家に行き、相当長い間、戦っていたところ、明智の家臣が近づいて「恐れることなくその刀を差し出せ」といったので、刀を渡した。家臣は、この黒人奴隷をどのように処分すべきか明智に尋ねたところ、「黒人奴隷は動物で何も知らず、また日本人でないため殺すのはやめて、インドのパードレ(司祭)の聖堂に置け」と言った>
 明智の「黒人奴隷は動物で何も知らず」という説明は、あまりにも人種差別的だ。しかし東北大学藤田みどり教授は著書の中で、殺さないための方便だったのでは推測している。
 「皮膚の色こそ異なるものの、若干言葉を解し、最後まで主人への忠誠を果たした従者を殺すのは忍びないと光秀が思ったとしても不思議ではない」
 弥助は解放直後、イエズス会の宣教師から治療を受けたらしいことまでは分かっている。しかし、その後の消息はぷっつりと途絶えている。
 ■サブカルチャーの世界でアイコンに
 歴史の世界から姿を消した弥助だったが、20世紀以降にサブカルチャーの世界で再評価が進むことになった。
 1968年に来栖良夫が出版した児童文学『くろ助』で主人公として描かれたほか、1971年の遠藤周作によるユーモア小説『黒ん坊』の主人公のモデルとなった。
 安土桃山時代を描いた漫画で取り上げられることも多く、山田芳裕が描き、アニメ化もされた「へうげもの」では、信長殺害の真犯人を目撃した重要人物として描かれている。
 ハリウッド映画で、弥助の生涯がどのように映像化されるのか。今から楽しみだ。
 【参考文献】
藤田みどり『アフリカ「発見」日本におけるアフリカ像の変遷』岩波書店
・ロックリー・トーマス著、不二淑子訳 『信長と弥助――本能寺を生き延びた黒人侍――』 太田出版
・村上直次郎訳『イエズス会日本年報 上』 雄松堂出版
・金子拓『織田信長という歴史―「信長記」の彼方へ 』勉誠出版
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 安藤健二 ハフポスト日本版ニュースエディター。カテゴリー「知られざる世界」も担当。
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 弥助(やすけ)は、戦国時代の日本に渡来した黒人奴隷。戦国大名織田信長への献上品とされたが、信長に気に入られ、その家臣に召し抱えられた黒人侍として伝えらている。

 概要
 弥助の出自については、フランソワ・ソリエが1627年に記した『日本教会史』第一巻に記述がある。イエズス会のイタリア人巡察師(伴天連)アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日した際、インドから連れてきた召使で、出身地はポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)であると記されている。ヴァリニャーノは日本に来る前にモザンビークに寄港した後インドに長く滞在していた経験があり、弥助が直接ヴァリニャーノによってモザンビークから連れてこられたのか、それとも先行してインドに渡っていたのかはこの文章からは不明である。
 天正9年2月23日(1581年3月27日)に、ヴァリニャーノが信長に謁見した際に奴隷として引き連れていた。『信長公記』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述され、年齢は26歳〜27歳ほどで、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と描写されている。
 天正9年3月11日(1581年4月14日)付でルイス・フロイスイエズス会本部に送った年報や、同時期のロレンソ・メシヤの書簡によれば、京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して喧嘩、投石が起き、重傷者が出るほどであった。初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかとなかなか信用せず、着物を脱がせて体を洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったという。
 本当に彼の肌が黒いことに納得した信長はこの黒人に大いに関心を示し、ヴァリニャーノに交渉して譲ってもらい、「弥助」と名付けて正式な武士の身分に取り立て、身近に置くことにしたと、イエズス会日本年報にあり、信長は弥助を気に入って、ゆくゆくは殿(城主)にしようとしていたという。また、金子拓によると、『信長公記』の筆者である太田牛一末裔の加賀大田家に伝わった自筆本の写しと推測される写本(尊経閣文庫所蔵)には、この黒人・弥助が私宅と腰刀を与えられ、時には道具持ちをしていたという記述がある。
 『家忠日記』の天正10年4月19日(1582年5月11日)付けの記述には「上様御ふち候、大うす(デウス)進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥助ト云(信長様が、扶持を与えたという、宣教師から進呈されたという、黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は約1.82メートル、名は弥助と云うそうだ)」とその容貌が記述されている。これは弥助も従軍していた甲州征伐からの帰還途上に、信長が徳川領を通った時に家康の家臣である松平家忠が目撃したものであるが、日記の記述に弥助は下人や年季奉公人のような隷民ではなく扶持もちの士分であったとはっきり書かれている。
 天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の襲撃に遭遇すると、二条新御所に行って異変を知らせ、信長の後継者の織田信忠を守るため明智軍と戦った末に投降して捕縛された。『イエズス会日本年報』によると、「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した」という。
 家臣にどう処分するか聞かれた光秀は「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として処刑せず、「インドのパードレの聖堂に置け」と言ったので、南蛮寺に送られることになって、一命を取り留めた。現代から見れば、この処遇は光秀の黒人に対する蔑視を表していると考えられなくもないが、藤田みどりは弥助を殺すことを忍びないと思った方便であろうとの好意的な解釈を主張している。だが、本能寺の変当日、二条新御所で黒人の目撃談がないことから、弥助の供述の信憑性は疑問とする意見もある。

 消息
 その後の弥助の消息については、史料に現れないために全く分かっていない。
その後の他地域の史料の中には黒人が登場するものがいくつかあり、フロイスの『日本史』の沖田畷の戦いの記述の中にも大砲を使って活躍した有馬方の黒人が出て来る。

 世界ふしぎ発見
 クイズ番組『世界ふしぎ発見』では、この黒人が弥助で、主人を失った弥助が面識のあった有馬家を頼ってここまでやって来た可能性があるのではないかという解釈が、番組内で述べられた。しかしヴァリニャーノは確かに信長の前に有馬晴信にも謁見しており関係があったものの、この時代に日本へやってきた黒人は実は大勢いたと考えられている。右の『南蛮屏風』にも複数の黒人が描かれているのがわかるが、日本に渡来した黒人の中の誰かを弥助であったかどうか特定することは不可能で、あくまでも仮説に過ぎず、特に根拠を持っていない。
 同じく同番組では、弥助のルーツを探しに16世紀に「モザンビーク」と呼ばれていたモザンビーク島へ取材に行って、現地のマクア人の男性には「ヤスフェ」という名前が比較的多いことから、弥助はもともと「ヤスフェ」という名前であり、日本ではそれが訛って「弥助」と名付けられたのではないかとする仮説を番組内で紹介した。またマクア人の間では、日本の着物によく似た「キマウ」と呼ばれる衣装を着て踊る祭りが昔から伝わっており、弥助は最終的に故郷に戻って日本の文化を伝えたのではないかとも番組では語られたが、これらを具体的に証明する証拠は全く見付かっていない。
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 日本を支配しているのが、キリスト教史観・マルクス主義共産主義)史観・日本人残虐非道の極悪人史観(=自虐史観東京裁判史観)である。 
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黒き侍、ヤスケ:信長に忠義を尽くした元南蛮奴隷の数奇な半生

🌏49)─1─明治時代。イスラム教の日本伝来。イスラム1・0時代。イブラヒム。~No.168No.169No.170 ⑮

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 奈良時代、アラブ人や中央アジア人がシルクロードを利用して日本を訪問し、一部は日本に住み着き朝廷から官位と役職をもらった。
 彼らは、イスラム教徒ではなく、自分の宗教を広める意志はなかったが聞かれれば教えた。
 日本神道は、そうした外来宗教を排除せず取り込んでいった。
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 歴史力のない現代日本人には、日清戦争から日露戦争迄の人類史的意義が理解できない。
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 右翼、民族主義者は、ロシア・キリスト教ソ連共産主義からイスラム教徒を助けていた。
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 2020年5月号 WiLL「永栄潔の今月の一冊
 『イスラム2・0』 飯山陽 著  河出新書 
 『イスラムの道徳が日本人には自然に備わっている。清潔さ、羞恥心、忠誠、信頼。特に慈悲の心、寛大さと勇気』。日露戦争後の1909年来日、イスラム教誌に熱く日本を紹介したイスラム系ロシア人、アブデュルレシト・イブラヒムの『ジャポンヤ』(小松香織・小松久男訳)の一説だ。読後のモロッコやトルコの旅で私も心やすかった。後に彼は東京モスク初代指導者(イマム)となり、井筒俊彦前嶋信次らにアラビア語を教える。両教授の講義や著作が長閑(のどか)に思えたのは師の感化だったのだろうか。
 が、本書が説くイスラムは苛烈だ。〈自分が今この瞬間になすべきこと〉は人が考え決めることでなく〈神の思召{おぼしめ}し〉とする教理は不変でも、今やインターネットが聖典コーランの解釈を主導する時代となったためだと言う。著者の謂(い)うイスラム2・0だ。
 確かに今はインフォメーションで大抵の事はすぐ調べられる。ブログ、SNS、動画サイトも無数。たとえアラビア語でも自動翻訳で縦覧(じゅうらん)できる。前著『イスラム教の論理』は後藤健二さんらを殺害したイスラム国(IS)がネットで流すフォトリポートや多言語メッセージの質の高さに触れていたが、新著によると、ネット作用率は益々上昇、インドネシアではネットに1日8時間以上割く国民が6割、1億5,000万人。法学者が信徒を制御できたイスラム1・0から、舞台はこの20年で一転、ISも浸透した。
 その影響を著者はインドネシアに測る。イスラム教徒が国民の87%だが、キリスト教徒も仏教徒憲法で定める〈信教の自由〉のもと、平穏に共生してきた。が、イスラム法学者評議会(MUI)が05年、『宗教的多元主義自由主義世俗主義イスラム教に反する』との見解(ファトワー)を出すと空気が変わる。上級公務員やトップレベルの高校生・大学生が過激化、ISへ走る者も出、18年には裕福なビジネスマン一家6人が3組に分かれ、3つのキリスト教会で自爆するような〝家族テロ〟が続く。
 エジプトやサウジのイスラム法学者団が過激な啓示解釈を避けるのに、非アラブのMUIが原理主義的なのは妙だが、〈啓示について知れば知るほど、ジハード主義者の主張がコーランに沿うことが分かるからだ〉と著者。近年は『努力』『奮闘』が本来の意味と説かれる〈ジハード〉だが、啓示を忠実に読めば、『イスラム教の支配を拡大させるための戦い』の意で、ISが『戦線に加われ』と呼びかけるのもそのためだとする。
 前出イズラヒムは伊藤博文ら歴々をふらっと訪れ、宗教談義を交わす。歓談は興趣(きょうしゅ)に富むが、日本人のイスラム教改宗の見込みを訊(き)かれ、大隈重信は答える。『日本人の信仰は神聖で信心は固いものです。その拠り所はただ一つ。大和魂です。(略)日本人の利益は民族精神を守ることにあり、これを失うことは日本人を失う』。〝日本教徒〟大隈に、『同感です』とイブラヒムも声を弾ませている。
 インターネットが真面目なイスラム教徒を思い詰めさせるのはそうなのだろう。ただ、ホメイニ師賛仰一色で染まったかに見えた往時のイランでも、『イスラムを野蛮で時代遅れで一片の思想性も無い国にしよとする策謀だ』と憤る人々が結構いたようだ(『イスラム革命の虚像』柿崎崇著)。四種のコーラン邦訳を脇に、本書に大いに教わった。叶うものならイスラム1・0時代に戻りたい」
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 日本のイスラム社会
 この項目では日本のイスラム教社会(にっぽん/にほんのイスラムきょうしゃかい)について記述する。
 概要
 古来、イスラム世界において、日本は「ワクワク(アラビア語: الواق واق, 英語: al-Wāqwāq、諸説あるが、倭国の中国語発音が由来とされる)」として知られていた。
 歴史的には、奈良時代イスラム圏から玻璃器などの宝物が、シルクロードを通り、中国などを経由して日本にもたらされ、正倉院に保管されている。また、元のクビライが日本に送った使節には、2人のムスリムがいたことが確認されている。また、江戸時代にはオランダなどのヨーロッパからの情報として、イスラム圏に関する断片的な情報が日本にもたらされた。安土桃山時代には、中国やアラブからイスラム商人が訪日していたとも言われており、南蛮貿易などで東南アジアに渡った日本人商人の中には、イスラム教に改宗した者もいたとされる。
 日本に最初に入ってきたムスリム集団は、1917年のロシア革命によって国を追われた中央アジアタタール人たちである。第二次世界大戦では、日本はインドネシアやマレーシアなどのイスラム教徒が多数を占める地域を占領、3年程度であるが、軍を主体とする占領統治を行った。明治以降は、多くの日本人が移民として世界各国に渡る時期でもあり、その中には谷豊などのように、マレーシアなどのイスラム教の勢力が大きい国に移住し、イスラム教に親しむ日本人もいた。ジッダにあったイギリス公使館から本国に宛てた報告には、1938年に7人の日本人が巡礼に来たとの記録が残っている。記録に残る限り、日本人で初めての改宗者は山田寅次郎、あるいは1891年(明治24年)の野田正太郎が最初とされる。
 2010年現在の日本に住むムスリムは、1980年〜1990年代、パキスタンバングラデシュ、イランなど、東南アジアや中東から労働者として来日した者と、その家族(日本人配偶者も含む)が中心となっている。
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 アブデュルレシト・イブラヒム(タタール語: Габдрәшит Ибраһимов、シベリア・タタール語. Әптрәшит Ипрағимов (Äpträšit Ibrahimov)、トルコ語: Abdürreşid İbrahim Efendi (Abdürreşid İsker)、ロシア語: Абду-Рашид Гумерович Ибрагимов、1857年4月23日、オムスク州 – 1944年8月17日)は、帝政ロシア出身のタタールウラマー、ジャーナリスト、旅行家。明治末期に日本を訪問したことや、東京モスクの初代イマームを務めたことでも知られる。
 経歴
 アブデュルレシト・イブラヒムは、シベリアのトボリスク県タラ郡にて、ブハラ系タタール人のウラマーの家に生まれた。カザンのマドラサで学んだ後、帝政ロシアにおけるイスラム教育に絶望して1879年8月にメッカ、メディナに留学し、その後オスマン帝国の首都イスタンブールに渡った。
 1885年にロシアに帰国し、故郷のタラ郡でマドラサの教師を務めた。1892年には、その学識を買われてオレンブルク・ムスリム宗務局のカーディー職(イスラム法の裁判官)に任命されたが、1894年には、ロシア政府による抑圧的な対ムスリム政策に反発し、宗務局の保守的な風潮を批判してカーディー職を辞任した。その後、オスマン帝国イスタンブールに移住し、ロシア帝政を批判する論説活動を展開した。
 日露戦争や1905年のロシア第一革命によりロシア政府が弱体化したのを機に、イブラヒムはロシアに戻り、ムスリム民族運動のために首都ペテルブルクにてタタール語紙『ウルフェト Ülfet』の刊行を行い、ロシアのムスリム住民の政治参加の必要性を訴えた。また、アリー・メルダン・トプチュバシュやイスマイル・ガスプリンスキーらと共に、ロシア・ムスリム連盟の設立の際にも中心的役割を果たした。しかし、1906年にストルイピン政権が、非ロシア人の政治活動への取り締まりを強めると、イブラヒムも国外への脱出を余儀なくされるようになる。
 1907年末に、イブラヒムは中央アジアのブハラ、サマルカンドセミレチエを旅行し、さらに、1908年から1910年にかけて、シベリア、モンゴル、満州、日本、韓国、中国、シンガポールインドネシア、インド、ヒジャーズを巡る大旅行を行った。この旅行の内容は、イスタンブールやカザンの雑誌にも掲載された他、イブラヒムの著作『イスラーム世界 Âlem-i İslâm』(1巻:1910年刊行、2巻1913年刊行)にて紹介された。中でも約半年間滞在した日本での見聞は特に詳細に記述されており、日本に対して一貫して肯定的な評価を与えた。これはその後のイスラーム世界での日本観に大きな影響を与えたといわれる。
 イブラヒムは、この旅行の後、終着地のイスタンブールに活動の拠点を移した。第二次立憲制期のオスマン帝国で、イブラヒムは『スラト・ミュスタキム Sırat-ı Müstakim』などの雑誌に汎イスラーム主義的な論説を投稿し、同誌主筆のメフメト・アーキフや、サイード・ヌールスィーらと親交を持った。1912年にはオスマン国籍を取得し、イタリア・トルコ戦争やバルカン戦争にも従軍。第一次世界大戦中には、ヨーロッパにて反ロシア宣伝活動に従事し、ベルリンでは、ドイツ軍の捕虜となったロシア兵の中からムスリムを募集して「アジア大隊」を編成する任務に当たった。イブラヒムが組織したアジア大隊は、オスマン帝国に派遣され、メソポタミア戦線にてイギリス軍と戦った。
 1917年のロシア革命によりロシアで帝政が打倒されると、イブラヒムはロシアへ帰国した。当初イブラヒムは、ソビエト政権との連携を図ったが、後にこれをあきらめ、トルコのコンヤに移った。共和政下のトルコでは冷遇されたが、1933年に日本から招聘を受けて、再び日本を訪れた。日本では、東京ジャーミイの初代イマームを務めるなど、イスラームの普及に尽力した。1944年8月17日に東京にて死去。その死は日本のラジオでも放送された。イブラヒムの墓は、現在でも多磨霊園外国人墓地にある。
 日本での活動
 アブデュルレシト・イブラヒムは、その生涯で2度来日し、日本におけるイスラームの普及に大きな役割を果たした。1度目の来日は、1908年に始まる大旅行の途中で日本に立ち寄った際である。イブラヒムは、1909年2月から6月まで日本に滞在し、伊藤博文大隈重信、松浦厚ら要人と会見しただけでなく、学校や文化団体などで講演を行い、イスラームの紹介、ムスリムと日本人の関係強化を訴えた。各地で行った講演の内容は、『報知新聞』などの媒体で報じられた。
 日本のアジア進出を目指すアジア主義者の活動家らは、ロシアからの政治亡命者であるイブラヒムに関心をもち、イブラヒムもまた、自身の目的である汎イスラーム主義の宣伝や、反ロシア帝政運動に利用するために、日本の右翼、陸軍関係者に接近しようとした。イブラヒムは、日本滞在中に、頭山満内田良平ら、アジア主義団体黒龍会関係者と接触。1909年に東亜同文会会員で初めてイスラムに改宗した日本人と呼ばれる大原武慶陸軍中佐を会長に、アジア主義団体亜細亜義会が設立された際には、犬養毅頭山満河野広中、中野常太郎らと共に設立発起人に名を連ねた。
 また、イブラヒムは、ムハンマド・バラカトゥッラーら在日インド系ムスリムと共に、東京にモスクの建設を計画した。亜細亜義会の中野らから建設用地の提供申し入れを受けるなど支援を受けたが、結局モスクの建設計画は立ち消えとなった(その後モスクは1938年に別の場所に建設された)。
 一方、陸軍幹部の福島安正は、イスラーム世界の情報収集のため、部下で陸軍でロシア語通訳官を務めていた山岡光太郎をメッカに派遣することを決定し、イブラヒムにも協力を求めた。山岡はイスラームに改宗し、離日したイブラヒムを追ってメッカに向かった。イブラヒムは、ボンベイで山岡と合流し、共にメッカへの巡礼を行った。山岡は日本人で最初のメッカ巡礼者となった。
 イブラヒムは、1933年に再訪日し、イスラームの普及活動に尽力した。1938年に、日本政府の援助で東京代々木に東京回教学院(東京ジャーミイの前身)が設立されると、イブラヒムは学院併設モスクの最初のイマームとなった。イブラヒムは、東京で発行されていたタタール語の雑誌『新日本通報 Yaña Yapon Möxbire』に、イスラーム世界と日本との連携を謳う論説を投稿するなど、晩年も盛んに文筆活動を行った。同じくタタール人亡命者であるムーサー・ビギエフと共に、井筒俊彦の個人教授を行ったことでも知られる。
 イブラヒムの日本人評
 イブラヒム著『ジャポンヤ―イスラム系ロシア人の見た明治日本』(小松香織、小松久男訳)によると、日本到着後敦賀から汽車で移動中ばらばらに預けた荷物が一つも紛失せずに手元に戻ったことに驚き、日本国民の信頼性を高く評価、案内をしてくれた労働者階級の青年の面倒見のよさ、車中の人々の紳士的な態度にも感激し、非常によい第一印象を持った。横浜では人々のせっかちさに驚き、小銭の釣銭をわざわざ追いかけて渡してくれた店員や両替をしてくれた本屋などのエピソードを挙げてその誠実さを評価し、日本人の勤勉・誠実・清潔な国民性といった特質はイスラムの教えと合致していると述べている。
 再評価
 イブラヒムの名前は、1917年のロシア革命によるソヴィエト政権の成立、オスマン帝国の滅亡とトルコ共和国の成立、大日本帝国の滅亡といった時代の変化により長く忘れられていたが、ソ連末期のペレストロイカ時代に再評価の動きがあり、大旅行記の現代トルコ語版が1987年に刊行されたのはじめ、ソ連の解体によりタタール人など旧ソ連領内のトルコ系諸民族への関心が高まるとともに、日土関係や日本近代史への関心も高まり、イブラヒムに関する研究が急速に進展した。
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 2017,02,25
日本人はイスラームとどう向き合ってきたか
 イメージから知識へ、知識から理解へ
 小村 明子上智大学アジア文化研究所客員所員
 プロフィール
 イスラームに抱く戦闘的なイメージ
 一昨年以来、ISIL(イラクとレバントのイスラム国)によるテロがヨーロッパを震撼させ、イスラームに対するネガティブなイメージが増幅されることとなった。
 またアメリカ合衆国ではトランプ大統領によるイスラーム圏7ヵ国の入国禁止措置が実施されて以来、あちこちで抗議のデモが起きるなど国内が分裂する状況になっている。
こうしたイスラーム関連の出来事は異国の地で起きていることであり、日本では関係のないことのように思われている。そもそもこの国において、イスラームという宗教は異文化であり、これまで特に意識しなくとも日常生活を送ることができた。
 しかしながら、日本社会も、東南アジア地域を中心としたムスリム留学生の増加、2020年開催の東京オリンピック、年々増加している訪日ムスリム観光客への「おもてなし」対応等を考えれば、イスラームがもはや遠い存在ではなくなりつつある。
 実をいうと日本人のイスラームに対するイメージは一昔前と全く変わっていない。すなわち、「戦い、テロ=イスラーム」であるのだ。言い換えれば、戦闘的なイメージが強いのである。
 拙著『日本とイスラームが出会うとき―その歴史と可能性―』でも日本人のイスラームに対するイメージについて述べたが、「厳しい戒律」などといったネガティブなイメージばかりつきまとう。
 なぜか。
 ジャーナリズムがセンセーショナルな面に注視して報道しているだけでない。十数億ものムスリムがいるにもかかわらず、ごく一部の過激な行動を起こす者ばかりが注目され、それ以外の穏健で平和に暮らしているムスリムたちが無視されているという現実もあるからだ。
 だが、こうしたネガティブなイメージが先行する状況においても、イスラームに積極的に関わり、あるいはまた自らの宗教として選択する日本人が存在する。それはグローバル化が進み、インターネットが普及して情報が容易に入手できる現代に限らず、過去においてもまたいえることであった。
 ここでは、日本におけるイスラームの歴史の中で、日本人がいかにイスラームを知り、理解していったのかを明らかにしたいと思う。
 日本人とイスラームの歴史
 まずは過去における事例のいくつかを見てみよう。
 日本人とムスリムとの直接的な邂逅をもたらしたのは、戦前および戦中時における大陸政策および南方政策が展開されていた時期にあたる。
 この時期から、日本政府が大陸政策を推進するためにイスラーム(当時は「回教」と呼ばれていた)が調査研究されるようになった。
 一方で日本政府は中央アジア出身のムスリムたちを招聘、あるいはロシア(当時はソ連邦)からの弾圧を受けていたムスリムの亡命を積極的に受け入れた。それは、日本国内でイスラームを擁護する動きへとつながるのである。具体的には1938年の東京モスクの開設、亡命ムスリムの子弟のための回教学校の開校等である。
 このように、日本国内にイスラーム的な環境が生まれていった。
 一方、回教政策に従事する中で、ムスリムになる日本人が幾人か存在した。彼らに共通しているのは、ムスリムとの直接的な出会いである。中国西北部、いわゆる満蒙は回族と呼ばれるムスリムが居住する地域であり、中央アジアの出入り口ともなっている。
 もちろん、調査活動という職務に従事するためにムスリム接触し、あるいはイスラーム研究をしているのであるが、彼らと直接的に出会い、そして友情を育むことによって、イスラームに共感を覚えて改宗した人びとがいた。
 では彼らは本当にイスラームを理解して改宗したのであろうか。彼らのイスラーム理解は如何なるものであったのだろうか。
 日本の大陸政策を反映する、イスラームの宗教教義を説明した当時の文献資料がいくつか存在する。それらを読み解いていくと、どのような経緯でムスリムイスラーム)と出会い、その知識を得て、理解に導いていったのかを垣間見ることができる。
 例えば、日本人で初めてメッカ巡礼をした山岡光太郎は、道中のインド・ムンバイでイスラームに改宗した。それ故かイスラームの宗教教義を同行者のタタールムスリムから突貫工事的に習って、メッカの地に及んだのである。その山岡は改宗当初イスラーム唯一神アッラーを「天照大神」と同一視することで理解しようとした。
 また貿易業を営む中でイスラームに触れて改宗した有賀文八郎は、日本国内でイスラームを広めようと活動をした。彼は、その中で唯一神アッラーを「天之御中主神」と同一視して布教活動を行っていった。
 このような改宗者の考えは、神道の神々と同一視することで唯一神の本質を理解しようとしたことをうかがわせている。
 だが、全ての改宗者が他の慣れ親しんだ神々と比較、同一視することで理解に導いていったわけではない。改宗者であろうがなかろうが、ムスリムとの直接的な出会いと友好関係を重ねることによってイスラームの本義をよく理解していた日本人もいる。
 例えば、大陸政策に携わり、複数の著述もある須田正継や瀬川亀は、唯一神アッラー神道の神々に例えることなくそのまま理解し、かつイスラームの本質についても正確に記述していた。
 しかしながら、彼らの著述のいくつかを詳しく分析・考察すると、やはりより身近な「日本的なもの」と比較することで理解を深めようとしているのである。
 例えば、仏教など先祖代々からの慣れ親しんだ宗教との比較、あるいは日本人の道徳観に類似性を見出すこと――いわば、日本人としての宗教的および文化的背景に即してイスラームを理解していったのである。
 この理解への道程は回教政策が終焉した終戦以降にも見られた。
 それが、当時は難しかった海外留学、あるいは石油や投資ビジネスに従事する中でイスラームに共感し理解を示した日本人である。というのも、戦後の焼け野原から復興して高度経済成長期を迎えて先進国と呼ばれる国々の水準に到達した頃であっても、ムスリムとの直接的な邂逅は難しい時代であった。
 例えば、1970年代の日本国内のムスリム人口は公称で3万人程度とされていた。人口が少ないのだから、ムスリムとの直接の出会いの場は、おもに海外にあったといえる。
またその上で、日本国内でのイスラームについての主な情報源は、ニュース報道を媒体としていた。中東戦争や各地の内戦などである。ときには、イスラーム美術や建築などのオリエンタルなイメージをもたらす報道もあったが、やはりインパクトがあるのか、ネガティブなイメージが強く、誤解をもたらしていたことがいえる。
 すなわち、日本国内のムスリム人口が少ない上にこのようなネガティブなイメージが定着している中で、イスラームを積極的に知り、理解していこうとするきっかけは学問の習得や職務の従事にあったのである。
 知識から理解へ――これからの課題
 日本人にとって遠い宗教文化であるイスラームの理解に限らず、異文化を理解するには、ビジネスがきっかけとなることが多々ある。現地に出向し、あるいは現地の人と折衝する機会を得るためには、当然のごとく、現地の文化を知り理解しなければ円滑なビジネスが推進できないからである。
 それゆえ、あくまで戦前にみられたような神道の神々と同一視するということとは異なり、現地の文化や慣行を知るという点から、イスラームの教義を正確に理解することが重視されるようになった。日本人改宗者においても、その理由は何であれ、より正確に教義を知り理解していくようになっていった。
 だが、やはり異文化の地でイスラームの教義を実践するにあたり、社会がイスラームの教義に見合っていないことに疑問を持ち、言動などの形式によるものではなく、唯一神アッラーを心から敬えばそれでよいとする「日本的イスラーム」を試みるような改宗者も現れた。
 信仰心はもちろん重要であるが、心があるからこそ教義を忠実に守ろうとする言動があるのであって、この試みは成功することはなかった。
 その後、1980年代後半から日本は好景気となり、外国人労働者が押し寄せるように来日し、そのまま長期にわたって滞在するようになっていく。彼らの中には当時ビザがなくとも日本への渡航が可能であった国、すなわちイラン、パキスタンバングラデシュといったムスリムが多数派である国々からやってきた人びとがいた。
 その彼らと出会い、結婚した日本人がイスラームに改宗するケースが増加した。結婚をきっかけとして改宗した日本人のイスラーム理解は千差万別である。というのは、配偶者の信仰心の程度によって、改宗者に求められる宗教的行為が違うからである。
 例えば、スカーフの着用。日本においては着用しなくとも良いと考える人もいれば、配偶者によっては、アバーヤやニカーブといった全身を布で隠す衣装の着用を日本国内でも求める人がいる。あるいはイスラームに改宗したのだから宗教教義は守らなければならないとして、配偶者よりも厳格に実践している人もいる。
 そして現在、冒頭でも述べたようにムスリム留学生の増加と、東南アジアからの訪日ムスリム観光客の増加が見られるようになった。
 とりわけ注目すべきは、訪日ムスリム観光客への「おもてなし」対応である。空港や観光地、ショッピングモールなどの集客のある施設では簡易礼拝施設を完備し、レストランではハラール対応食を提供するようになっている。それはそれで多文化共生社会の構築への一歩となる。
 しかしながら、あくまでビジネスを成功させるための知識の獲得に目的があるので、何が良くて何が悪いのか、ビジネスツールとしての知識にとどまり、理解に導くまでには至らない。
 だがその一方で、大学生たちがコンパやゼミの打ち上げの席でムスリム留学生の食事に気を使っている場を見ると、イスラームについての知識のみならず、配慮する姿勢を垣間見ることができる。学生たちはムスリムとの友情を育んでいる中で、自然と理解していくのであろう。
 以上、過去から現在に至るまで、日本人のイスラーム理解について述べてきた。時代を下るごとに、より正確に知識を得ていくようになっている。日本人改宗者は宗教教義を実践するために他の宗教と比較することはあっても、イスラームそのものをそのまま理解するようになっている。
 だが、非ムスリムの日本人はイスラームについての知識は十分に獲得しているが、様々な目的があるため、あくまで一歩引いたものであることがいえる。またそのために、正確な理解にまで至っているのかどうかは疑わしい。
 多文化共生社会を構築するには、ただ異文化を知識として知っているだけでは不十分である。そこから直接体験を伴った理解にまで発展させていかねばならない。その意味では、多くの日本人のイスラーム理解はまだ知識を獲得している段階に過ぎないのである。
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 日本神道は、閉塞・閉鎖されたローカルな民族神話宗教で、信者はなく、教祖・教団、教義・教理、戒律・律法はなく、そして布教がない。
 日本の信仰と世界の信仰は違う。
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 日本民族日本人は、キリスト教に改宗してもユダヤ教イスラム教には改宗しない。
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イスラム2.0: SNSが変えた1400年の宗教観 (河出新書)
日本のイスラーム 歴史・宗教・文化を読み解く (朝日選書)
日本とイスラームが出会うとき

🌏13)─4─殿様商売、士族の商法は庶民への富の再配分であった。~No.40 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代日本に残る歴史的建造物と世界の歴史的建造物とは違う。
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 殿様商売、士族の商法が近代化の起爆剤となった。
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 2020年9月3日号 週刊新潮「極みの館は残った。
 模範になった人  立花寛治邸 福岡県 1910(明治43)年
 明治から大正期、富裕層は好んで和・洋の館が連なる邸宅を建てた。
 だが残念ながら両方の館が共に現在も残されているケースは極めて少ない。両館とも解体された〝跡地〟になっていたり、和館しかのこっていなかったり、その逆であったり、と。
 ところが両館が今も実際に使われ、しかも泊まれる館がある。その一軒、柳川藩主の屋敷を利用した宿・御花(おばな)……。
 設計者については諸説あるが、どの人物も著名ではない。にも拘わらず和洋館共にこうして100年以上もの間残された理由を、やはり殿様の屋敷だったからだと私は勝手に結論づけていた。
 ところが、訪ねる前に調べ、現地で過ごすうちに、そんな単純には言い表せないことがわかってきた。
 農業試験と教育支援
 家主は柳川藩主の二男だった立花寛治。1857(安政4)年生まれ。寛治が12歳の時に、兄が夭折(ようせつ)したため父の隠居に伴い17歳で家督を相続、華族となる。
 と、書いてみたが、正直に言うと、華族について私は『とにかく偉い人』という程度の認識しかなかった。調べて初めて、旧公家と元大名に与えられた身分であり、実は様々な制約が設けられていたことを知った。
 そう、華族には東京での居住が義務づけられていた。それが徐々に緩和され、地元で産業をもりたてることで国力の増強を図る華族には東京以外の居住が認められるようになる。寛治の場合、その産業が農学だった。
 寛治は農学に関心を抱き農学校に入塾。東京からリンゴをはじめ様々な果樹の苗木を故郷に送り、邸内に植えるように指示を出す。30歳で我が国最初となる民営の農業試験場を開場。32歳で柳川に移住。蜜柑等の品種改良や水田農作の普及に尽力する。
 一方、地元の中学校設立に多大なる寄付をし、学生を対象とした奨学金団体の設立にも尽力。設立後はそこにみ寄付を継続した。
 小学校校長が、地元に献身的で勤勉な寛治の生活態度を模範として学ぶという文章を書き上げている。
 その寛治が、邸宅を完成させたのは1910(明治43)年、53歳のことである。
 ……
 国民の模範に
 ……
 滞在するうちに印象に残ったのは、ここで働く人びとが、立花寛治について私が調べて知り得たことなど頭に入っていたことだ。
 明治の初め、華族は国民の模範となるべき存在だった。教育に熱心であり、試験場で品種改良に尽力する姿も地域の人びとに目撃され、まさしく華族として模範となって、立花寛治。
 その人物像が地元の人のこころに受け継がれている限り、建てた邸宅もまた生き永らえるのであろう」
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 殿様商売
 デジタル大辞泉の解説
 商品知識や客とのかけひきなど、もうけるための努力・工夫に気を使わない商い方を皮肉っていう語。「あんな殿様商売じゃ、いずれ倒産するよ」
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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 士族の商法 
 デジタル大辞泉の解説
 明治初期、特権を失った士族が慣れない商売に手を出して失敗したこと。急に不慣れな商売などを始めて失敗することのたとえ。
 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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 マルクス主義階級闘争史観は、明治後半までは無縁であった。
 が、それ以降はマルクス主義階級闘争史観が高学歴出身知的エリートに蔓延し、皇族・華族の間にも信奉者が増え、各方面で天皇制度否定の赤化事件が起き始めた。
   ・   ・   ・   
 庶民(百姓や町人)は、家業・定職を持っているが蓄えが乏しかった為に、幾ら儲かると言われても、近代的西洋産業に一か八かの博打的に挑戦する事はしなかった。
 家業・定職を持たないが資金・時間・知識がある華族や士族だけが、無謀にも近代的西洋産業に飛びつき事業を起こしたがその多くは失敗した。
   ・   ・   ・   
 技術があって知識のない庶民は、現実的保守的消極的で変化・変革を嫌った。
 技術がないが知識のある華族や士族は、理想的革新的積極的で変化・変革を恐れず実行した。
   ・   ・   ・   
 地方・地元・地場のローカルな伝統継承のメイド・イン・ジャパンを生み出したのは、庶民であった。
 中央・都市のグローバルな時代先取りのメイド・イン・ジャパンを生み出したのは、華族や士族であった。
 近代のメイド・イン・ジャパンは、庶民のローカルと華族や士族のグローバルが融合し触発されて生まれた。
 新たな時代に突然する現代日本では、成功モデルであった昔のメイド・イン・ジャパンは時代遅れで役に立たず魅力がなく目が肥えた消費者は買わない。
 現代日本に必要なのはいい意味での殿様商売、士族の商法であって、悪い意味での殿様商売、士族の商法は排除しなければならない。
   ・   ・   ・   
 物好きな庶民は、殿様・士族が失敗して諦め打ち捨てた西洋近代産業に好奇心から興味を持ち、金を出し伝統技術を利用し考え工夫しながら取り組んだ。
 それが、面白いかどうかであった。
 日本民族の特徴は、「奇抜で珍奇な新しい物好き」と「趣ある古い物を愛でる」の多面性である。
 日本民族日本人の楽しみとは、相手が大金を使い努力し苦労しても成功させられず諦め止めた事を、相手が目標とした事よりもさらに数段良い物にして成功させて相手に自慢する嫌味な悪趣味であった。
 あ例えるなら、パチンコ思考である。
 日本民族日本人は、嫌味な悪趣味で嫌われ、信頼され愛されるとはウソである。
 日本の精神修行は、嫌味な悪趣味を業・煩悩・我欲・本能・本体として否定せず受け入れて鎮める事である。
   ・   ・   ・   
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 華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級。
 概要
 公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。1869年に華族に列せられたのは、それまでの公卿142家、諸侯285家の計427家。1874年1月(明治4年)に内務省が発表した資料によると華族は2891人。

 爵位制度以前
 華族の誕生
 明治2年6月17日(1869年7月25日)、岩倉具視の政策による版籍奉還と同日の太政官達54号「公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム」により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は華族となることが定められた。公家137家・諸侯270家・明治維新後に公家となった家5家・維新後に諸侯となった家15家の合計427家は新しい身分層である「華族」に組み入れられた。当初は華族に等級はなかったが、本人一代限りの華族である終身華族と、子孫も華族となる永世華族があった。
 またこの後も新たな華族が加えられた。奈良興福寺の門跡や院家だった公家の子弟が還俗して新たな華族となった26家は奈良華族と総称された。また、大久保利通の功により大久保家が、木戸孝允の功により木戸家が、広沢真臣の功により広沢家が、それぞれ明治天皇の特旨によって華族になったが、華族令以前に華族に列した元勲の家系はこの3家のみである。さらに歴史上天皇に対して忠節を尽くした者の子孫も天皇の特旨によりこの時代に華族となっている。

 華族令発布による爵位制度の発足
 明治17年1884年)7月7日、華族令が制定された。これにより華族となった家の当主は「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の五階の爵位に叙された。
 爵位の基準は、明治17年1884年)5月7日に賞勲局総裁柳原前光から太政大臣三条実美に提出された「爵制備考」として提出されたものが元になっており、維新期の勲功を加味された一部の華族を除いては、実際の叙爵もおおむねこの基準に沿って行われている。公家の叙爵にあたっては家格はある程度考慮されたが、武家に関しては徳川家と元対馬藩主宗家以外は江戸時代の家格(国主、伺候席など)が考慮されず、石高、それも実際の収入である「現米」が選定基準となった。しかし叙爵内規は公表されなかったために様々な憶測を産み、叙爵に不満を持つ者も現れた。
 また華族令発布と同時期に、維新前に公家や諸侯でなかった者、特に伊藤博文ら維新の元勲であった者の家29家が華族に列せられ、当主は爵位を受けている。叙爵は7月中に3度行われ、従来の華族と合計して509人の有爵者が生まれた。これらの華族は新華族や勲功華族と呼ばれている。また、終身華族はすべて永世華族に列せられ、終身華族が新たに生まれることもなかったため、全ての華族は永世華族となった。これ以降も勲功による授爵、皇族の臣籍降下によって華族は増加した。
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 皇族・華族・貴族にもいろんな人間がいて、特権意識が強く権力志向が旺盛で庶民を差別する嫌味な人間が3割、真面目な人間が2割、親の七光りで無気力に酒と女に溺れて自堕落な生活をする人間が5割。
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 旧武士階級であった華族や士族の祖先は、領民を権力・武力・暴力で支配するのではなく、百姓と一緒に汗水垂らし泥に汚れ糞尿に塗れながら土地を耕す土豪であった。
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 初期の近代化は、地方・農村から起きてきた。
 日本の近代化である、殖産興業・富国強兵・近代教育を推進したのは地方出身の華族であった。
 特に、新しい地方の特産品・名品は華族や士族などの旧武士階級が生み出した。
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 何故、華族や士族が近代化を牽引したのか、それは庶民(百姓や町人)と違って家業を持たない無職者であったからである。
 華族や士族が庶民と違った点は、西洋語の読み書きができないくせに西洋に対する基礎知識があり、西洋語の会話ができないのに好奇心から西洋渡航を行い、西洋産業に興味を持ち、西洋語の説明書が読めないのに西洋技術を見様見真似で学び、基礎技術を身に付け日本に持ち帰り、地元に西洋技術を伝え家内工業的生産から初めて地場産業に育てた。
 庶民が、都市に出て近代化の原動力=労働力になったのは、地方で近代教育を身に付けてからである。
 地方の近代教育を普及させたのは、華族や士族である。
 貧しい家庭の子供たとえ百姓の子供であっても「向学心があり優秀である」との噂を聞けば、資金援助をしコネを使って都市部の大学や専門学校に進学させ、本人が希望すれば欧米の大学や研究所への留学に金を出し、会社・商店を始めたいと言えば活動資金さえ惜しまず出した。
 金は本人が努力して成功すの為に提供したのであって、出世しての見返りは求めなかったし、成功してからの利子を付けての返金も求めなかった。
 成功する子供はほんの僅かな為に、資金援助した多くの華族や士族は資産を失って没落した。
 が、彼らは後悔はしなかったし、逆恨みをし復讐・報復などしなかった。
    ・   ・   ・   
 昔の日本の資産家・お大尽は、現代日本の金持ち・富裕層とは違うのである。
   ・   ・   ・   
 日本の近代化を成功させたのは、洋行帰りの華族や士族が西洋語の専門用語を日本国語に翻訳したからであって、日本人が西洋語を日常会話レベルまで習得したからではない。
 日本が近代化に成功したのは、日本国語にこだわってしたからである。
 西洋語を公用語として近代化を目指した国のほとんどは、近代化に失敗した。
 つまり、自国語・民族言語に愛着を持たず野蛮な言語として捨てた国は、例外なく裕福な国になれず極貧国に転落し不幸になった。
 それ故に、日本は華族や士族によって豊で幸せな国になった。
 が、新たな階級が生まれ貧富の格差によってブラック化したのは、特権階級である華族や士族ではなく、強欲で私利私欲に走りやすい庶民が西洋社会を真似て資本家と労働者に分離したからである。
 つまり、華族や士族は公利を優先したが、庶民には私利があって公利がなかった。
   ・   ・   ・   
 明治は華族や士族の時代でったが、大正・昭和初期は庶民の時代であった。
 明治時代は真っ当であったが、大正以降は真っ当ではなくなった。
   ・   ・   ・   
 天皇・皇室とは、貧しく差別され虐げられた哀れな下層民の心の支えであった。
 下層民とは、下級武士、身分低い庶民(百姓や町人)、芸能の民(歌舞伎役者・旅芸人・傀儡師・曲芸師・落語家・講談師)、異様の民・異形の民(身体障害者・病人)、賤民(非人・穢多・河原乞食)、部落民(山の民・川の民・海の民)、異能の民(匠の職人・修験者・山伏・渡り祈祷師・占い師・虚無僧・力士{相撲取り})などであった。
 故に、命を捨てても天皇・皇族・皇室を守ろうとした勤皇派・尊皇派とはそうした下層民であった。
 下層民こそが国體護持を願っていた。
   ・   ・   ・   
 日本の皇族・華族・貴族は、世界の王族貴族とは違い、中華(中国)や朝鮮の王侯貴族とも全く違う。
 日本の武士は西洋の騎士は違い、ましてや中華の読書人でもなく朝鮮の両班でもない。
 武士道と騎士道は違う。
   ・   ・   ・   
 皇族・華族・貴族は、天皇の藩屏と言われた。
 華族・貴族になった、旧公家や元大名は少数で、その多くは身分低く貧しい出身者であった。
 明治時代は、下剋上社会とまではいわないが実力次第の成り上がり社会であった。
 実力とは、個人の我欲・私利私欲ではなく天皇・国家・社会・国民・民族・会社・商店・文化・芸術・その他の為に功績を挙げたかである。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は、武士・サムライではないし、武士・サムライの子孫でもなく、ましてや華族や貴族とは縁も所縁もない。
 現代日本で、華族や貴族になる様な才能・教養・素質・気品・人格・品位のある日本人はいない。
 ましてや、現代日本人に明治の元勲や重臣、政治家や軍人、経済人や学者など望むべく、鹿鳴館を嘲笑う現代日本人はなおさらでる。
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