🌏43)─2─日本に来た外国人教養人が見た明治期の偽りのない嫌悪すべき日本人の実像。~No.141 

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 日本人は賢くもないし優れてもいないし秀でたところも少なかった。
 日本国と日本人は、特別ではなく、特殊ではなく、必然でもなく、ただ偶然と幸運そして勢いで生きてきただけである。
 それは、農耕民ではなく、狩猟民でもなく、漁労民の生き方である。
・・・
 2020年1月19日号 サンデー毎日「今こそ、読みたい
 スペイン語圏の人々に伝えたロジカルで率直な日本論
 『コロンビア商人がみた維新後の日本』
 ニコラス・タンコ・アルメロ  寺澤辰麿/訳  中央公論新社
 工藤美代子
 とにかく、明治時代に日本を訪れた外国人が書いた体験記はどれも面白い。
 もちろん、好き嫌いや上手(うま)い下手はある。それでも江戸時代の文化が色濃く残る当時の日本が、旅行者や外交官、政府のお雇い外国人などの目にどのように映っているかは興味深い。
 そして、彼らの作品が、外国語で発信されることによって、世界中の人たちが、東洋の島国に関する新たな情報を得た。その結果、中国とはまったく違う日本文化に対して、強い憧れを抱く芸術家や富豪たちが現れたのである。
 こうした作品を読むのは、明治時代の庶民の生活が、実際にはどのようなものだったかを知る、またとない機会だ。そして、多くの読者は同じ問いかけを自分自身に発するだろう。はたして令和を迎えた私たちは、その本質の部分において変わったのだろうか、あるいは変わらなかったのだろうかと。
 それは日本人にとっては永遠の課題だともいえる。これだけ国際化が進み、外国のニュースが映像と共にリアルタイムで映し出され、ネット配信の情報も世の中に溢(あふ)れている現代である。それでも私たちは以前として、他国の思惑や主張を理解するのが難しい局面に何度も立たされている。日本に来た外国人の言動に戸惑いを覚えることも多い。
 だからこそ、先人たちが日本をどう捉えたのかは知識として必要なのだろう。
 本書は南米のコロンビアの商人が、明治4年から11年の間に、何度か訪日した記録を綴(つづ)ったものである。スペイン語で出版されたのは明治21年だった。
 著者であるニコラス・タンコ・アルメロはコロンビアの裕福な家庭で生まれ、初等教育をニューヨークで、中・高等教育をパリで受けたという。したがって、コロンビア人とはいうものの、彼の視線はきわめて欧米的である。しかも、日本へ旅するより以前に、商用で長く中国に滞在した。そのため、日本をしばしば中国と比較して論じる。さらに商人であるだけに、解説はロジカルだが文学的ではない。
 それにしても、スペイン語で初めて書かれた日本訪問記が、なぜかくも長い年月、翻訳される機会がなかったのかは不思議だった。だが、なるほど、こういうことかと気づいたのは、本書を読了した後だった。
 『日本人は、生まれつき怠惰(たいだ)で無気力であり、これはすぐに見て取れ、このことは、日本人の生き方と習慣に現れている。中国人と異なり、浪費家であり、生きていくためだけの金を稼げば、満足している。生来懐疑的であり、また、独善的でうわべだけを繕い、腹を立てている時でさえいつも口元に微笑みを浮かべ、そして激怒せざるをえないよになった時でも、どんなことでも、派手に大笑いしてかみ殺す』
 これはどう見ても好意的な評価ではない。例えば、ヴェンセスラウ・デ・モラエスラフカディオ・ハーンやピエール・ロチの筆致(ひっち)とは明らかに異なる。そのため、日本に紹介されるのが遅れたのではないかと思う。
 しかし、商取引の場における日本人の態度を『スニーキー』(卑怯でずる賢い)と評する外国人にとって、今でも不変の真理であろう。
 翻訳は正確でわかりやすい。まるで著者の自然な呼吸に合わせたかのような文体だ。著者と訳者の運命的な邂逅(かいこう)から生まれた貴重な一書というよう」
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 良い日本人が2割、悪い日本人が3割、その時の空気・空気圧・同調圧力で何方かに転ぶ自我のない日本人が5割。
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 世界の常識では、「日本は中国の一部であり、日本の文明・文化は中国の亜流である」と言う事である。
 日本の高学歴出身知的エリートの中には、そうした世界の常識を信じている者がいる。
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 日本は世界で愛され、日本人は世界で信用されている、とはウソである。
 世界には、日本に好意的な言説や書籍より日本に悪意的な言説や書籍の方が多い。
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 日本の常識は、世界に通用しない。
 「世界が日本に期待している」は、ウソである。
 「日本が世界を救う」は、ウソである。
 さらに、日本の常識は中華世界、中国や朝鮮でも通用しない。
 中華世界では、日本は中国や朝鮮の下位に存在している。
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 人類史から見て、日本国・日本文明・日本民族日本人は滅び消え去る運命にある。
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 人は、自分が知りたい事だけを信じ、自分説に都合の良い記録やデータのみを採用し加工して用いる。
 なければ、平然と改竄し、捏造し、擬装し、誤魔化し、言い訳して恥じない。
 知りたくない事や都合の悪い記録やデータは、無価値として否定し切り捨てる。
 日本人は、その傾向が顕著である。
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 世界において、親日派知日派反日派敵日派は少数派で、無関心無興味が多数派である。
 それは、アジアにおいても同様である。
 それを知らないのは、知ろうとしないのは、国際感覚のない日本人、特に右翼・右派・ネットウヨクである。
 それを知っているのは、反天皇反日発言を繰り返す左翼・左派・ネットサハである。
 右翼・右派・ネットウヨクは、ポジティブに、能天気に日本を持ち上げ褒めちぎって希望と夢を拡散している。
 左翼・左派・ネットサハは、ネガティヴに、日本の名誉を堕とす為に罪悪感を増幅強化して虚無と絶望を広めている。
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🏕38)39)40)─1─「日本人は自然を愛し衛生観念が高く綺麗好き」はウソである。1964年の日本。~No.72No.73No.74No.75No.76No.77  ⑧

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 2020年1月17日号 週刊朝日「1964年 当時中学生の池上彰が振り返る
 東京オリンピックの光と影
 スモッグ、ポイ捨て、立ち小便
 レガシーは日本人のマナー向上
 1964年10月10日の東京は雲一つない快晴だった。国立競技場の上空で、航空自衛隊ブルーインパルスが、くっきりと五輪を描いた。青空のもと、各国選手団が入場行進を始める。心躍る瞬間。東京オリンピックが始まった。
 しかし、あのときの東京の現実を、どれだけの人が知っているだろう。当時、私は東京都内に住む中学生だった。
 当時の開会式の映像を見た人は、東京がスモッグに覆われていたことを知らないだろう。『あんなに空気が汚いところでマラソン選手を走らせるのは人権問題ではないか』という海外からの批判の声が聞こえていたくらいだ。実は開会式前夜から未明にかけて大雨が降り、スモッグを洗い流していたので青空だったのだ。
 あの頃の東京は、高度経済成長の真っただ中。工場がモクモクと排煙を出すのは、豊かさへと進む日本の象徴だった。隅田川神田川多摩川には各家庭から出る生活排水が流れ込み、悪臭を放っていた。
 それまでの東京の街はゴミだらけ。誰もが道路にポイポイとゴミを捨てていた。これに危機感を抱いた東京都は、『ゴミはゴミ箱に捨てましょう』という一大キャンペーンを展開。街のあちこちにゴミ箱を設置した。私が住んでいた東京都内の住宅街でも、町内会を挙げて清掃運動が繰り広げられた。家の前を流れている排水溝から泥を掬(すく)い上げ、道路に放置。道路は舗装されていなかったから、泥はやがて土に還った。
 当時は大気汚染がひどく、痰(たん)を吐く人が多かったので、『痰は痰壺(たんつぼ)に吐きましょう』という運動も行われ、駅のホームには、白い陶器の痰壺が設置された。
 痰壺は、オリンピック後も長く駅のホームに居続けた。いまでも覚えているが、オリンピックが終わった後の1970年前後でも、山手線渋谷駅のハチ公口に降りるホームに白い陶器があったものだ。
 夏になると、上半身裸でステテコ姿の男性はごく当たり前。東京都がオリンピックを前に都内の各家庭に配布したチラシには、『立ち小便はやめましょう』と書いてあった。立ち小便が当たり前だったからだ。
 新幹線以外の長距離列車はトイレが垂れ流し。トイレに入ると、下に線路が見えた。沿線では洗濯物に黄色い斑点がつくことがあり、『黃害』と呼ばれた。驚くべき衛生観念。でも、これを当たり前だと人々は受け止めていたのだ。
 数年前、ロシアのハバロフスクからウラジオストクまでシベリア鉄道に乗ったとき、トイレの下に線路を発見。懐かしかった。
 東京オリンピックのレガシーとして新幹線や高速道路が挙げられるが、最大のレガシーは、日本人のマナー向上だったと私は思う。
 『五輪の名花』のその後
 ……
 4年後に起きたチェコ民主化運動『プラハの春』に参加した彼女は、ソ連軍の戦車によって民主化運動が踏みつぶされた後、表舞台から姿を消した。
 ……
 東西ドイツ統一チーム
 ……
 中国は大気圏内核実験
 オリンピック期間中、私が最も驚いたのは、中国が核実験を実施したことだった。オリンピック開会式から1週間後の10月16日、新疆ウイグル自治区のロプノル実験場できのこ雲が上がったのだ。これで核保有国はアメリカ、ソ連、イギリス、フランスに次いで5番目となった。この核実験は大気圏内。つまり大量の放射性物資が大気中に吹き上げられ、偏西風に乗って日本上空へと飛来した。
 2日後の10月18日、新潟大学新潟市内に降った雨から放射能の塵を検出。これ以降、『傘をささないで雨に濡(ぬ)れると禿(は)げる』などという根拠のない噂が広まった。それにしても、世界のアスリートが集結している東京の風上で放射性物質をまき散らす神経に驚く。このときを選べば、世界にアピールできると考えたのだろうか。
 閉会式でハプニングが
 ……」
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 幕末から明治初期に来日した外国人は「日本の清潔で綺麗さと日本人の笑顔」を驚いて書き記していたが、それがウソのような汚く不潔な日本がそこにあった。
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 現代日本人は、中国人観光客のマナーの悪さやゴミを所構わず捨てる無神経さに嫌悪感を感じているが、昔の日本人は同じくらいかそれ以上に酷かった。
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 日本人が、食べ物を生産する農耕を神聖視した頃のお年玉は「餅」であったが、食べ物を輸入に頼り農業を軽視し金を稼ぐ産業を重視し始めるとお年玉は「金」に代わった。
 日本民族日本人は、自然・里山で生産して採れた農作物と山海の食物を神社に供えた。
 お年玉とは、新年に家を訪れた年神さまが新しい魂・命を授ける事であった。
 年神さまは、自然の中、里山に鎮座されていた。
 日本民族日本人にとって、自然、里山八百万の神々が住まう神聖か神域であった。
 日本人は、経済の為、金儲けの為に自然を里山を穢し壊した。
 そして、農業不要論が広がった。
 日本人を労働者にする為に、守るべきは日本農業であって日本人農家ではないとされた。
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 日本人は金儲けになるのであれば、里山を潰し、自然を壊した。
 日本人は、金が大事の現実主義者であって、理想主義者でもなければ夢想主義者でもなく空想主義者でもない。
 それは、昔も今も変わりはしない。
 真っ赤なウソが、日本人を毒する。
 日本人は「水に流す」をよろしく、全てのゴミ・汚物・廃棄物を川から海に流して目の前から消し去る事で自然を大切にしていると自慢していた。
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⛩13)─1─古事記。男性神・伊耶那岐命が男系父系Y染色体神話の原初である。~No.24No.25 

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 天地開闢と共に高天原に最初に現れた神は、造化三神で、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、次に高御産巣日神タカミムスビノカミ)、次に神産巣日神カミムスビノカミ)である。
 造化三神から他の多くの神々が次々と生まれてきた。
 最後に現れた神は、男性神伊耶那岐命と(イザナギノミコト=イザナギ)と女性神・伊耶那美命(イザナミノミコト=イザナミ)の夫婦神である。
 日本列島を創ったのが男性神伊耶那岐命と女性神・伊耶那美命である。
 伊耶那岐命が、左目を清めると天照大御神アマテラスオオミカミ)、右目を清めると月読尊(ツクヨミノミコト)、鼻を清めると須佐之男命(スサノオノミコト)が生まれた。
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 女性神、伊耶那美命と天照大御神
 男性神伊耶那岐命と月読尊と須佐之男命。
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 現天皇家・皇室の正統性は、天照大御神の直系子孫という特殊な血統・血筋と特別の皇統・家系であって、憲法・法律ではない。
 天皇に必要なのは、神話の正統性であって憲法の正当性ではない。
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  ウィキペディア
 三貴子(みはしらのうずのみこ、さんきし)とは『古事記』で黄泉の国から帰ってきた伊邪那岐命イザナギ)が黄泉の汚れを落としたときに最後に生まれ落ちた三柱の神々のことである。イザナギ自身が自らの生んだ諸神の中で最も貴いとしたところからこの名が生まれた。三貴神(さんきしん)とも呼ばれる。
 天照大御神 - イザナギの左目から生まれたとされる女神(本来は男神だったとする説もある)。太陽神。
 月読命 - イザナギの右目から生まれたとされる神(性別は記載していないが、男神とされることが多い)。夜を統べる月神
 須佐之男命 - イザナギの鼻から生まれたとされる男神。海原の神。
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 日本神話は、男系父系Y染色体神話であって女系母系X染色体物語ではない。
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 東京新聞
 【東京新聞フォーラム】
 「よみがえる古代の大和 古事記1300年のツボ」
 2012年9月9日
 東京新聞奈良県立橿原(かしはら)考古学研究所主催の東京新聞フォーラム「よみがえる古代の大和 古事記1300年のツボ」が8月18日、東京都墨田区横網江戸東京博物館で開かれた。和田萃(あつむ)京都教育大学名誉教授が基調講演で「古事記の楽しい読み方」や「魅力」などを紹介した後、菅谷文則・橿原考古学研究所所長の司会で、和田氏に加えマンガ家の里中満智子さん、今尾文昭・橿原考古学研究所附属博物館学芸課長の3人のパネリストが意見を交換。パネル討論では考古学からみた古事記や、歴史的背景、成り立ちから「原文が書かれたのは木簡、それとも紙?」など興味深い話も取り上げられ、400人を超す聴衆は熱心に聴き入っていた。
 【主催者あいさつ】仙石誠・東京新聞代表
 「古事記」は、もともと口承で伝わってきた歴史を文字化したもので、極めて人間的な神様がいっぱい出てきます。古代国家が成立した千三百年前、当時の為政者がこの歴史書を編纂したこと自体、なかなかのものです。
 東京新聞も、後世に残る時代の記録をつくるため、今の世の中の出来事、皆さんが考えていることを正確に伝える努力をしています。本日のフォーラムもその活動の一環です。
 たっぷりと「古事記」の世界に浸ってください。

 【基調講演】「現代語訳から 親しみやすく」和田萃
 ことしは「古事記」が撰録(せんろく)されて千三百年というおめでたい佳節(かせつ)に当たり、奈良県や各市町村では、いろんな特別展を計画されています。
 最初に、「古事記」の読み方をお教えします。原文や読み下し文を読む前に、現代語訳を読む。一時間もかからずに内容が全部わかります。その後、日本神話の部分とか、八俣大蛇(やまたのおろち)の話とか、関心を持たれたところを深く読み込んだり、現地を訪ねたりされると、非常によくわかるのです。
 元明天皇の命令で「古事記」を筆録した太安万侶(おおのやすまろ)さんは、多臣品治(おおのおみほむじ)の子どもで、安万侶さんとその後一、二代だけ「太」という字を使っています。品治は大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)が信頼する家臣の一人で、壬申(じんしん)の乱の最大の功労者だったことが、後に安万侶さんの「古事記」の筆録に結びつきました。
 「古事記」には偽書説もありましたが、安万侶さんのお墓が見つかり、墓誌も発見された。また、「古事記」では「万葉集」より古い万葉仮名を使っていることがわかり、現在は安万侶さんが「古事記」を筆録したことは確かとされています。
 多氏(おおのし)は神武天皇の子である神八井耳命(かむやいみみのみこと)の直系子孫で、安万侶さんは十五代目に当たります。安万侶さんは文人だけでなく、武人としても名をはせた人でした。
 次に、「古事記」と「日本書紀」を比べると、「古事記」は非常に完成度が高く、文学性も豊かです。「日本書紀」はいろんな史料を提示しているのですが、歴史研究者から見ると、素朴な形から複雑な物語へどう変わっていったかということがよく分析できます。
 「古事記」と「日本書紀」は、帝紀(ていき)と旧辞(きゅうじ)を共通して使用しています。帝紀天皇の系譜、事蹟(じせき)を書いたもの、旧辞はいろんな伝承、物語、それに伴う歌謡です。「日本書紀」はそれに加えて、歴代天皇や各豪族、社寺の史料なども使っていますから、「古事記」は全三巻ですが、「日本書紀」は十倍の全三十巻あります。
 また、「古事記」は推古天皇のところで終わっています。編纂(へんさん)された和銅五(七一二)年から見れば、百二十年前の古代史に当たる歴史書です。「日本書紀」は七二〇年に完成しましたが、その二十三年前の持統天皇文武天皇に位を譲った日で終わっていますから、古代史から現代史まですべてを含んでいます。
 「古事記」の序文には、壬申の乱の後、天武天皇稗田阿礼(ひえだのあれ)を相手に帝紀旧辞の削偽定實(さくぎじょうじつ)(偽りを削り、真実を定める)を行ったという記事があります。これは「古事記」を考える一番のポイントです。
 稗田阿礼は非常に聡明(そうめい)で、目で字を追っていくと、おのずからその読み方が口をついて出る。聞いたことはいつまでも記憶している。それで天武天皇がみずから語りかけて、帝紀旧辞を誦習(しょうしゅう)(よみ習うこと)させた。これは丸暗記でなくて、既に記録にまとめられたものの読み方、時代背景などを習い覚えたという意味です。何が偽りで、何が真実か、天武天皇の高度な政治判断によって決められ、「古事記」が完成度の高い神話になったということが非常に重要です。
 京都教育大学名誉教授・和田萃氏 わだ あつむ 1944年、中国東北部(旧満州国遼陽市)生まれ。72年京都大学大学院(国史学専攻)博士課程修了。京都大学文学部助手をへて、京都教育大学へ、88年に教授。日本古代史を専攻し、日本古代の思想や文化、木簡などを研究。著書に「大系 日本の歴史2古墳の時代」「日本古代の儀礼と祭祀・信仰」など。

 【冒頭スピーチ】「農耕 全て恵みのもと」里中満智子
 私は、小学校6年生のころ、少年少女向けの「古事記物語」を初めて読みました。おもしろかったんですが、排せつ物の話がたくさん出てくる。
 戦いで負けたほうが苦し紛れに脱糞(だっぷん)するとか、豊穣(ほうじょう)の女神のような方が亡くなると、体のありとあらゆるところから、いろんな植物が生まれる。これがすべて食物のもととなるのですが、書かなくていい場所まで全部書いてある。子ども心に、農耕の中で捨てるものは何もない、すべてが恵みのもとであるということかなと思いました。
 「日本書紀」は歴史書であり、「古事記」は民族の物語です。日本と百済(くだら)は、白村江(はくすきのえ)の戦いで唐と新羅(しらぎ)の連合軍に負け、百済は滅びました。日本は確固たる独立性を保たねばならなかった。それでつくったのが歴史書律令制度、機能する都の3点セットです。物語性が豊かで、私たちのアイデンティティー(自己の存在を認知させること)となるのが「古事記」、外交文書・国の独立性の根拠を示すものが「日本書紀」だと思います。
 マンガ家・里中満智子氏 さとなか まちこ 1948年大阪生まれ。64年(高校2年生)に「ピアの肖像」で第1回講談社新人漫画賞を受賞しプロデビュー。持統天皇を主人公にした全21巻の長編マンガ「天上の虹」で知られるように古代史にも精通。2010年度文化庁長官表彰。日本漫画家協会常務理事。大阪芸術大学キャラクター造形学科教授。

 【冒頭スピーチ】「本居宣長のころ流行」菅谷文則氏
 太安万侶の墓は、春日山の奥にあります。出てきた墓誌橿原考古学研究所附属博物館で展示しています。邸跡は平城宮の東にありますが、具体的な位置はわかっていない。
 稗田阿礼がどこにいたかは全くわかりません。奈良県大和郡山市に稗田という町があります。私は若いとき、そこをだいぶ発掘調査したんですが、わからなかった。
 明治の後半から天岩戸(あまのいわと)神話は日食だと盛んに言われました。私は昭和32年の日食を覚えていて、そんなに真っ暗にならない、違うと言い続けていました。
 鎌倉時代神道では、伊勢神宮の外宮の山の頂上にある巨大な横穴式石室を、天岩屋だとしておりました。
 「古事記」研究がブームになったのは、本居宣長(もとおりのりなが)のころが1回目で、現在の「古事記」研究の基本です。
 2回目は明治20~30年ごろ、市町村合併を強力にやって、新しい町名を記紀にある地名からとりました。3回目は昭和15年の紀元2600年の祝賀の時、現在が4回目です。

 【パネル討論】「歴史源泉 いざなう」
 菅谷文則さん(奈良県橿原考古学研究所所長) 最初に今尾さんから一言。
 今尾文昭さん(奈良県橿原考古学研究所附属博物館学芸課長) 「古事記」は天地開闢(てんちかいびゃく)より始めて推古天皇の御世(みよ)に終わる、非常に歴史観の明確な書物です。
 では、推古以前と以降でどのように変わるのか。推古の後は舒明(じょめい)天皇で、考古学から見て非常に新しい遺跡を提供しています。先年の発掘調査で明らかになった百済大寺は舒明みずからの勅願で、隣には宮殿をつくる。左右対称に整然とお寺と宮殿を配置するというのは、多分、舒明が最初でしょう。奈良県桜井市の段ノ塚古墳が舒明天皇陵とされていますが、何と平面形は八角形で、日本列島の古墳文化の中で最後に登場する墳形です。
 菅谷さん 「古事記」の人物イメージは。
 里中満智子さん(マンガ家) 「万葉集」に残された歌などを読んで、イメージしてくるものはあるのですが、基本的には私自身が描ける顔に限られます。四苦八苦しながら描いています。ただ、ビジュアル的にイメージがつかめると、流れがわかりやすくなります。人物配置とか出来事でも、こういう顔の人がこういう振る舞い方をしてとイメージすることで、理解が深まるような気がします。
 菅谷さん 「古事記」は、天武天皇がこういうものをつくろうと思ったときにつくらずに、二代置いて三代目の元明天皇のときにできる。なぜすぐに文字にしなかったのでしょうか。
 和田萃さん(京都教育大学名誉教授) 天武紀十年三月に天武天皇川島皇子(かわしまのみこ)以下十二人の人々に(天皇系図を中心とした)帝紀および、(神話や伝承などの古い時代の出来事を記した)旧辞を定めさせたという記事がある。このときの人たちは、天武十二、三年にほかのポストに移っているので、この事業は三年くらいの間のものと考えられます。恐らくその段階である程度まとめられたものをもとに、天武天皇が削偽定實し、稗田阿礼が誦習したのだろうと思います。
 橿考研(奈良県橿原考古学研究所)の飛鳥京跡の百四次調査で、天武十年のこの事業に符合した木簡が出土しています。将来的にはあの辺から天武朝にかかわる大量の木簡が出るのではないか、飛鳥での木簡の状況から、天武朝における歴史の編纂事業はかなりつかめるのではないか。
 菅谷さん 推古朝につくられた国の歴史が「古事記」等に反映しているかどうか。大化の改新で焼けたことになっていますが、内容は皆さん知っていたわけですね。
 今尾さん 歴史書は、出来事については前代から引き続いていますから、反映はしているんだろうと思います。壬申(じんしん)の乱という、皇統がどちらに傾いてしまうかもわからない状況を実体験した持統や天武は、皇統をしっかりと受け継がせていくために歴史編纂をした。また、自分の皇統につながる人を皇祖として整える作業が必要で、そのために時間がかかったと思います。
 菅谷さん 「古事記」の理解を深めるためには、何を研究したらいいでしょうか。
 和田さん 「古事記」の神話伝承を明治になって初めて絵に描いたのは青木繁です。日本神話を具体的に人々に知らしめた。功績は高く評価されると思います。
 里中さん 私も、今、「古事記」を描いておりまして、来年一月一日発売予定ですが、本当に青木繁の絵はすばらしい。特に「わだつみのいろこの宮」はギリシャ神話のような描き方で、後で本を読んだときに、あっ、このシーンなんだと、すごく理解が深まるんです。
 政治的なことや考古学的なことは諸説があるでしょうが、自分たちの民族の神話を持つことで、自分たちの先祖がこれをよしとしたという価値観を読み取れます。何が事実か調べようもない部分はあっても、真実はあると思います。
 今尾さん 「古事記」の中に出てくる出来事を実際の考古遺物に置きかえることも必要だとは思いますが、「古事記」は編纂物ですから、編纂者の意図を念頭に置かないといけないだろうと思います。
 菅谷さん 今、学校でも(古事記を)「こじき」と習いますが、本居宣長は「ふることふみ」と呼んでいます。
 和田さん 正しくは「ふることふみ」で、古い時代のこと、あるいは歴史を編纂した書物という意味です。「日本書紀」も、最初完成したときは「日本紀」で、「日本書紀」とされたのは天平十(七三八)年ごろからです。日本の歴史書という意味で「やまとのふみ」です。
 菅谷さん 「古事記」は最初、何に書かれていたのでしょうか。われわれは「古事記」ができてから四百年ほど後のものしか見てない。その間どんな形で伝わったかが大事だと思うのです。
 里中さん 昔から竹簡とか木簡に字を書いて、それを正式なものにするときはきちんとした和紙に書いていた。正倉院に納められた物の中にも巻物はたくさんあります。最終的な完成品は巻物の形ではなかったかと思います。
 和田さん 「古事記」は紙に書かれていたことは間違いないと思います。正倉院に大宝二(七〇二)年の美濃国の戸籍がありますが、それは全部紙に書いておりますし、その後に「古事記」(七一二年)が世に出たわけですから、紙に書かれていた。平安時代になると紙すきが非常に盛んになって、紙が大量に生産されるようになるのですが、奈良時代はどこで紙をつくっていたのか。正倉院文書あるいは東大寺文書は、経典の裏の白紙に書いております。
 菅谷さん きょうのまとめとして、「日本書紀」「古事記」の二つの歴史書は、編纂の目標・目的が少し違うらしい。そして、「日本書紀」はともかく、「古事記」は紙に書かれて巻物の形であったらしい。そういうことを知るためにも、考古学の資料も見ていただいたら大変ありがたいと思います。

 橿原考古学研究所附属博物館学芸課長・今尾文昭氏 いまお ふみあき 1955年兵庫県生まれ。同志社大学文学部卒業。78年から奈良県橿原考古学研究所勤務。博士(文学)。著作に「古墳文化の成立と社会」「律令期陵墓の成立と都城」など。専門は日本考古学、古墳時代、地域史。
 橿原考古学研究所所長・菅谷文則氏 すがや ふみのり 1942年奈良県生まれ。68年から奈良県橿原考古学研究所に勤務。95年から2008年まで滋賀県立大学教授。同名誉教授。この間中国で北周の発掘調査を行うなど、シルクロードの考古学を研究。09年から現職。今年4月から7月に、東京新聞夕刊に「絹の道 文化考」を連載した。
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 日本赤十字社「日本の神話 古事記 
 日本の神話を読んだことはありますか?
 子どもも大人も、楽しく日本の神話を読んでみましょう!
 2018.1.13 神話を訪ねて 第14回  大神神社 をアップしました。
 東日本大震災で犠牲となられた方のご冥福を心よりお祈りいたします
 また被災地の一日も早い復興を応援いたします
 アマテラスオオミカミスサノオノミコトヤマタノオロチ(八岐大蛇)、オオクニヌシヤマトタケル、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)...みなさんは、日本の神話に登場する人物などの名前を一度は、聞いたことがあるでしょう。でも、神話の本(古事記こじき)を実際に読んだことがある人は少ないと思います。
 私が、子どもの頃(昭和40年代)は、まだ本屋さんでは、日本の神話の絵本がたくさん売っていました。「因幡(いなば)の白兎(うさぎ)」の話は、特に印象に残っています。ところが、最近は、(お子さんをお持ちの大人の方はご存知かと思いますが、)東京のかなり大きな書店でも、日本の神話の絵本などほとんど見かけることはありません。日本の昔話の絵本もかなり少なくなっていて、幼児の絵本といえば、ミッキーマウスファインディング・ニモといったディズニーのものや指輪物語など西欧の物語本がほとんどです。
 世界では、グローバリゼーションといって、英語が事実上の国際語となり、アメリカを中心とした世界的な経済市場の自由化が進められています。世界中の国々にアメリカの商品(コカコーラ、マクドナルド、スターバックスコーヒー)や文化(ハリウッド映画、ディズニーランド)が広がって来ているのです。またコンピュータやインターネットの技術などもアメリカの独占場となっています。
 したがって、グローバリゼーションとは、「世界の人々の生活スタイルの均一化(アメリカ化)」を促進しているともいえます。これから日本の将来をになう子どもたちは、イヤでも、こうした国際化社会の中で生きていかざるをえません。今よりももっと外国人との交流や外国の文化に接する機会は多くなっていくことでしょう。英語やインターネットをしっかり勉強しなくてはなりませんね。しかし、現在のようなアメリカ化をすることがよいことだとは思いません。アメリカ化するのが、国際化では決してありません。国際化とは、世界がひとつの国になるということではありません。民族や文化が違う人々が、その違いを尊重しつつ、戦争のない平和な社会を作って行くことが、本当の意味の国際化だと思います。
 みなさんが、将来、仕事で外国に住んだり、日本に来る外国人と友だちになったりする機会はますます増えてくるでしょう。外国人の友だちとお互いの国の文化について話をするときに、日本人であるみなさんが、自分たちの国の神話について何も知らないとすれば、それはとても恥ずかしいことです。ヨーロッパやアメリカの西欧文明は、キリスト教という宗教がその母体となって進歩してきたものです。西欧の文明を理解するには、キリスト教の歴史を学ばなければなりません。それと同じように、日本文化を理解する上で、日本の神話の知識は不可欠です。
 このサイトは、日本の若い人たちに日本の神話を楽しく読んでもらおうという目的で作りました。それでは素朴で大らかですばらしき古事記の世界へみなさんをご案内いたしましょう!」
 第1章 神々の出現
 昔むかし、この世界で最初に天に現れましたのは、アメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)という神様でした。次に、タカミムスビノカミ(高御産巣日神)とカミムスビノカミ(神産巣日神)という神様が出現なさいました。この三柱(みはしら。※神様の数は、「柱」で数えます。)の神様は、そのお姿を地上には、直接現しませんでした。
 その次に、日本の国がまだ海に浮かぶ脂のごとく、くらげのようにただよっていた時に葦(あし)の芽が萌え上がるように現れたのは、ウマシアシカビヒコジノカミ(宇摩志阿斯訶備比古遅神)とアメノトコタチ(天之常立神)という神様でした。これらの五柱の神様は、コトアマツカミ(別天つ神)といって、それぞれ独身(ひとりみ)で現れた天の神様たちです。
 その後、クニノトコタチノカミ(国之常立神)とトヨクモノカミ(豊雲野神)の二柱の神様が独身で現れました。その次からは、ご夫婦の神として五組の神々が現れました。そのうちの最後に現れましたのは、イザナギの神と(伊耶那岐命イザナギノミコト)とイザナミの女神(イザナミノミコト=伊耶那美命)のご夫婦の神様です。(以上、クニノトコタチの神からイザナミの女神までを「神代七代(かみよななよ)」といいます。※ご夫婦の神は、二柱で一代です。)

 第2章 日本列島の誕生(1) 国生み
 ある時、天の神様たちは、イザナギノミコトとイザナミノミコトに「この海の中にふわふわと漂っている国をしっかりと固めて完成させてほしい。」とおっしゃって、天にあるりっぱな矛(ほこ)をお授けになられました。
 そこで、イザナギノミコトとイザナミノミコトは、天からつながっている浮桟橋(うきさんばし)までやって来て、矛を降ろして、下界の海水をゴロゴロと掻き回してから、引き上げてみました。その時に、矛の先からしたたる海水が重なってできたのがオノゴロ島(大阪湾内の島?)です。
 イザナギノミコトとイザナミノミコトは、その島に天から降り立って、天の神聖な大きな柱をお立てになり、その柱を中心として大きな御殿を作られました。そして、イザナギノミコトは、妻のイザナミノミコトにお尋ねになりました。
「あなたの身体はどのようになっていますか?」
 「私の身体は、すっかり美しく出来上がっていますが、一カ所だけ出来きれていないところがあります。」
 とイザナミノミコトがお答えになられると、
 「ほう、私の身体もよく出来上がっているが、一カ所だけ出来き過ぎたところがあります。では、私のからだの出来すぎたところをあなたの身体の出来きれないところに刺して、塞いで、この国を生みたいと思うのだが、どうだろうか?」
 「それがよろしいでしょう。」
イザナミノミコトもおっしゃいましたので、イザナギノミコトは、
 「では、私とあなたはこの天の御柱(あめのみはしら)を回って出会い、男女の交わりをいたしましょう。私は、右から回るので、あなたは、左から回ってみてください。」
と約束されてから、お回りになったときに、妻が先に
 「まあ、本当にすてきな男性ですね。」
 とおしゃって、その次に夫が、
 「やあ、本当に美しい女性ですね。」
 とおっしゃいました。それぞれが言い終わった後に、イザナギノミコトは、
 「どうも女が先に言うのはしっくりとこない。」
とおっしゃいましたが、ともかく暗い場所で子をお生みになりました。しかし、この子はとても醜くい子であったので、葦の船に乗せて流してしまわれました。次に淡島(あわしま。四国の阿波地方=現在の徳島県を指す)をお生みになりましたが、これも子どもとはみなされませんでした。

 第6章 黄泉返りと禊ぎ(よみがえりとみそぎ)
 こうしてイザナギノミコトは、やっと黄泉の国から地上へ戻られました。(このことから、日本語の「よみがえる=蘇る・蘇る」は、「黄泉の国から返る」という意味が元になっているのす。)
 イザナギノミコトは、「わたしは、とても汚く穢(けが)れた醜(みにく)い国へ行ってしまったので、みそぎ(禊ぎ)をしなければならない。」がおっしゃって、九州の日向(ひゅうが=現在の宮崎県北部)の「橘の小門の阿波岐原(たちばなのおどのあはきはら)」にお出ましになり、みそぎをなさいました。その時に、身につけていたもの(杖・帯・袋・衣服・袴・冠・腕輪)を投げ捨てする時に十二柱の神々※が出現しました。
 ※衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)、道之長乳歯神(みちのながちはのかみ)、時量師神(ときはかしのかみ)、和豆良比能宇斯神(わずらいのうしのかみ)、道俣神(ちまたのかみ)、飽咋之宇斯神(あきぐいのうしのかみ)、奥疎神(おきさかるのかみ)、奥津那芸佐?古神(おきつなぎさびこのかみ)、奥津甲斐弁羅神(おきつかいべらのかみ)、辺疎神(へさかるのかみ)、辺津那芸佐?古神(へつなぎさびこのかみ)、辺津甲斐弁羅神(へつかいべらのかみ)
 そして、イザナギノミコトは、「上流の方は水の流れが速く、下流はおそい。」とおっしゃられて、海の真ん中で身体(からだ)をお洗いになった時に、十柱の神々がお生まれになりました。
 最初の二柱の神は、黄泉の国にいたときの汚れたものから生まれた神(禍の神)で、ヤソマガツヒノカミ(八十禍津日神)とオオマガツヒノカミ(大禍津日神)です。
 次に生まれた三柱の神は、黄泉の国で取り憑いた禍(わざわい)を取り除くときに生まれた神で、カミナオビノカミ(神直?神)、オオナオビノカミ(大直?神)、イズノメ(伊豆能売)です。
 次に生まれた六柱の神は、いずれも海の神です。
 海の底で身体を洗われた時に生まれたソコツワタツミノカミ(底津綿津見神)とソコツツオノミコト(底筒男命
 海中で身体を洗われた時に生まれたナカツワタツミノカミ(中津綿津見神)とナカツツオノミコト(中筒男命
 海面で身体を洗われた時に生まれたウエツワタツミノカミ(上津綿津見神)とウエツツノオノミコト(上筒男命)
 以上のうち三柱のワタツミノカミ(綿津見神)は、安曇氏(あずみうじ)たちの祖先の神です。
 また、ソコツツ、ナカツツ、ウエツツの三柱の神は、住吉神社に祭られている神です。
 最後にうまれた三柱の神々は、左の目をお洗いになった時に出現したアマテラスオオミカミ天照大御神)、右の目をお洗いになった時に出現したツクヨミノミコト(月読命)、鼻をお洗いになった時に出現したスサノオノミコト須佐之男命)です。
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 古事記
 現代語譯 古事記
 稗田の阿禮、太の安萬侶
 武田祐吉
 古事記 上の卷 序文がついています
 序文
 過去の時代(序文の第一段)
 ――古事記の成立の前提として、本文に記されている過去のことについて、まずわれわれが、傳えごとによつて過去のことを知ることを述べ、續いて歴代の天皇がこれによつて徳教を正したことを述べる。太の安萬侶によつて代表される古人が、古事記
 内容をどのように考えていたかがあきらかにされる。古事記成立の思想的根據である。
 ――わたくし安萬侶(やすまろ)が申しあげます。
 宇宙のはじめに當つては、すべてのはじめの物がまずできましたが、その氣性はまだ十分でございませんでしたので、名まえもなく動きもなく、誰もその形を知るものはございません。それからし天と地とがはじめて別になつて、アメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神が、すべてを作り出す最初の神となり、そこで男女の兩性がはつきりして、イザナギの神、イザナミの神が、萬物を生み出す親となりました。そこでイザナギの命は、地下の世界を訪れ、またこの國に歸つて、禊(みそぎ)をして日の神と月の神とが目を洗う時に現われ、海水に浮き沈みして身を洗う時に、さまざまの神が出ました。それ故に最古の時代は、くらくはるかのあちらですけれども、前々からの教によつて國土を生み成した時のことを知り、先の世の物しり人によつて神を生み人間を成り立たせた世のことがわかります。
 ほんとにそうです。神々が賢木(さかき)の枝に玉をかけ、スサノヲの命が玉を噛んで吐いたことがあつてから、代々の天皇が續き、天照らす大神が劒をお噛みになり、スサノヲの命が大蛇を斬つたことがあつてから、多くの神々が繁殖しました。神々が天のヤスの川の川原で會議をなされて、天下を平定し、タケミカヅチノヲの命が、出雲の國のイザサの小濱で大國主の神に領土を讓るようにと談判されてから國内をしずかにされました。これによつてニニギの命が、はじめてタカチホの峯にお下りになり、神武天皇がヤマトの國におでましになりました。この天皇のおでましに當つては、ばけものの熊が川から飛び出し、天からはタカクラジによつて劒をお授けになり、尾のある人が路をさえぎつたり、大きなカラスが吉野へ御案内したりしました。人々が共に舞い、合圖の歌を聞いて敵を討ちました。そこで崇神天皇は、夢で御承知になつて神樣を御崇敬になつたので、賢明な天皇と申しあげますし、仁徳天皇は、民の家の煙の少いのを見て人民を愛撫されましたので、今でも道に達した天皇と申しあげます。成務天皇は近江の高穴穗の宮で、國や郡の境を定め、地方を開發され、允恭天皇は、大和の飛鳥の宮で、氏々の系統をお正しになりました。それぞれ保守的であると進歩的であるとの相違があり、華やかなのと質素なのとの違いはありますけれども、いつの時代にあつても、古いことをしらべて、現代を指導し、これによつて衰えた道徳を正し、絶えようとする徳教を補強しないということはありませんでした。

 古事記の企畫(序文の第二段)
 ――前半は天武天皇の御事蹟と徳行について述べる。後半、古來の傳えごとに關心をもたれ、これをもつて國家經營の基本であるとなし、これを正して稗田の阿禮をして誦み習わしめられたが、まだ書物とするに至らなかつたことを記す。
 ――飛鳥(あすか)の清原(きよみはら)の大宮において天下をお治めになつた天武天皇の御世に至つては、まず皇太子として帝位に昇るべき徳をお示しになりました。しかしながら時がまだ熟しませんでしたので吉野山に入つて衣服を變えてお隱れになり、人と事と共に得て伊勢の國において堂々たる行動をなさいました。お乘物が急におでましになつて山や川をおし渡り、軍隊は雷のように威を振い部隊は電光のように進みました。武器が威勢を現わして強い將士がたくさん立ちあがり、赤い旗のもとに武器を光らせて敵兵は瓦のように破れました。まだ十二日にならないうちに、惡氣が自然にしずまりました。そこで軍に使つた牛馬を休ませ、なごやかな心になつて大和の國に歸り、旗を卷き武器を納めて、歌い舞つて都におとどまりになりました。そうして酉の年の二月に、清原の大宮において、天皇の位におつきになりました。その道徳は黄帝以上であり、周の文王よりもまさつていました。神器を手にして天下を統一し、正しい系統を得て四方八方を併合されました。陰と陽との二つの氣性の正しいのに乘じ、木火土金水の五つの性質の順序を整理し、貴い道理を用意して世間の人々を指導し、すぐれた道徳を施して國家を大きくされました。そればかりではなく、知識の海はひろびろとして古代の事を深くお探りになり、心の鏡はぴかぴかとして前の時代の事をあきらかに御覽になりました。
 ここにおいて天武天皇の仰せられましたことは「わたしが聞いていることは、諸家で持ち傳えている帝紀と本辭とが、既に眞實と違い多くの僞りを加えているということだ。今の時代においてその間違いを正さなかつたら、幾年もたたないうちに、その本旨が無くなるだろう。これは國家組織の要素であり、天皇の指導の基本である。そこで帝紀を記し定め、本辭をしらべて後世に傳えようと思う」と仰せられました。その時に稗田の阿禮という奉仕の人がありました。年は二十八でしたが、人がらが賢く、目で見たものは口で讀み傳え、耳で聞いたものはよく記憶しました。そこで阿禮に仰せ下されて、帝紀と本辭とを讀み習わしめられました。しかしながら時勢が移り世が變わつて、まだ記し定めることをなさいませんでした。

 古事記の成立(序文の第三段)
 ――はじめに元明天皇の徳をたたえ、その命令によつて稗田の阿禮の誦み習つたものを記したことを述べる。特に文章を書くにあたつての苦心が述べられている。そうして記事の範圍、およびこれを三卷に分けたことを述べて終る。
 ――謹んで思いまするに、今上天皇陛下(元明天皇)は、帝位におつきになつて堂々とましまし、天地人の萬物に通じて人民を正しくお育てになります。皇居にいまして道徳をみちびくことは、陸地水上のはてにも及んでいます。太陽は中天に昇つて光を増し、雲は散つて晴れわたります。二つの枝が一つになり、一本の莖から二本の穗が出るようなめでたいしるしは、書記が書く手を休めません。國境を越えて知らない國から奉ります物は、お倉にからになる月がありません。お名まえは夏の禹王(うおう)よりも高く聞え御徳は殷(いん)の湯王(とうおう)よりもまさつているというべきであります。そこで本辭の違つているのを惜しみ、帝紀の誤つているのを正そうとして、和銅四年九月十八日を以つて、わたくし安萬侶に仰せられまして、稗田の阿禮が讀むところの天武天皇の仰せの本辭を記し定めて獻上せよと仰せられましたので、謹んで仰せの主旨に從つて、こまかに採録いたしました。
 しかしながら古代にありましては、言葉も内容も共に素朴でありまして、文章に作り、句を組織しようと致しましても、文字に書き現わすことが困難であります。文字を訓で讀むように書けば、その言葉が思いつきませんでしようし、そうかと言つて字音で讀むように書けばたいへん長くなります。そこで今、一句の中に音讀訓讀の文字を交えて使い、時によつては一つの事を記すのに全く訓讀の文字ばかりで書きもしました。言葉やわけのわかりにくいのは註を加えてはつきりさせ、意味のとり易いのは別に註を加えません。またクサカという姓に日下と書き、タラシという名まえに帶の字を使うなど、こういう類は、もとのままにして改めません。大體書きました事は、天地のはじめから推古天皇の御代まででございます。そこでアメノミナカヌシの神からヒコナギサウガヤフキアヘズの命までを上卷とし、神武天皇から應神天皇までを中卷とし、仁徳天皇から推古天皇までを下卷としまして、合わせて三卷を記して、謹んで獻上いたします。わたくし安萬侶、謹みかしこまつて申しあげます。
 和銅五年正月二十八日
 正五位の上勳五等 太の朝臣安萬侶

一、イザナギの命とイザナミの命
 天地のはじめ
 ――世界のはじめにまず神々の出現したことを説く。これらの神名には、それぞれ意味があつて、その順次に出現することによつて世界ができてゆくことを述べる。特に最初の三神は、抽象的概念の表現として重視される。日本の神話のうちもつとも思想的な部分である。
 ――昔、この世界の一番始めの時に、天で御出現になつた神樣は、お名をアメノミナカヌシの神といいました。次の神樣はタカミムスビの神、次の神樣はカムムスビの神、この御(お)三方(かた)は皆お獨で御出現になつて、やがて形をお隱しなさいました。次に國ができたてで水に浮いた脂のようであり、水母(くらげ)のようにふわふわ漂つている時に、泥の中から葦(あし)が芽(め)を出して來るような勢いの物によつて御出現になつた神樣は、ウマシアシカビヒコヂの神といい、次にアメノトコタチの神といいました。この方々(かたがた)も皆お獨で御出現になつて形をお隱しになりました。
 以上の五神は、特別の天の神樣です。
 それから次々に現われ出た神樣は、クニノトコタチの神、トヨクモノの神、ウヒヂニの神、スヒヂニの女神、ツノグヒの神、イクグヒの女神、オホトノヂの神、オホトノベの女神、オモダルの神、アヤカシコネの女神、それからイザナギの神とイザナミの女神とでした。このクニノトコタチの神からイザナミの神までを神代七代と申します。そのうち始めの御二方(おふたかた)はお獨立(ひとりだ)ちであり、ウヒヂニの神から以下は御二方で一代でありました。
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✨52)─1─敗戦後も守られた日本国の国旗、日の丸、日章旗。〜No.211No.212 ㊹ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2020年1月17・24日号 msnニュース 週刊ポスト「日の丸の歴史 敗戦国なのに国旗変更がなかったレアな例
 © NEWSポストセブン 提供 天皇陛下や皇太子が乗る「お召し列車」にも日の丸が(時事通信フォト)
 日常にあふれる日本の国旗「日の丸」は、いつ頃、どんな経緯で形作られ、今に受け継がれているのか。世界の国旗・国歌研究協会代表の吹浦忠正氏に、太陽の恵みに支えられたニッポンの日の丸について聞いた。
 * * *
 もともと日本人にとって太陽は特別な存在でした。農耕社会の日本は、古来、太陽の恵みに支えられていたからです。高松塚古墳奈良県明日香村)からは藤原京の時代(694~710年)の壁画が発見されており、そこには日の丸と思しき太陽の意匠が確認されています。
 やがて武士たちが軍扇や旗のデザインに日の丸を採用するようになりますが、正式な国旗として定められたのは幕末のこと。開国した際に、国際社会に認められるために国旗が必要だったからです。
 しかし、1999年に「国旗及び国歌に関する法律」が施行されるまで、日の丸の明確な基準がありませんでした。この法律によって、日の丸の国旗は縦横比が3:2、円の中心は対角線の交点に一致、円の大きさは縦の5分の3、と定められたのです。
 実は、敗戦国にもかかわらず国旗が変更されなかったのは、日本がほとんど唯一の例。私は、国旗を知ることは国際理解の第一歩という視点で普及活動をしています。変な偏見をもたず、他国を排除しない健全なナショナリズムの象徴として日の丸を見てもらえたらと願っています。」


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🏞101)─1─軍国日本は阿部正弘の安政の改革から始まった。1853年〜No.400No.401 

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 阿部正弘は、英傑か極悪人か。
 阿部正弘。1819~1857年。備後福山藩主。
 日本の軍国主義化、軍国日本の端緒を開いたのは阿部正弘である。
 愛国心民族主義が芽ばえ、同時に過激な尊王攘夷が日本全国に広がり、外国人暗殺のテロへと発展していった。
 もし、日本の軍国主義化や軍国化が非人道的戦争犯罪というのならその責任は阿部正弘にある。
 阿部正弘安政の改革を行わなければ、軍国日本は生まれなかったし、愛国心民族主義に悩まされる事はなかった。
 故に、日本人の反戦平和運動家、命大事派、護憲派人権派、武器所持反対派らは、好戦的軍国主義への道を開いた阿部正弘を批判し否定する必要がある。
 日本の愛国心民族主義を消滅させる為には、日本人のアイデンティティーを否定して消し去る事である。
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 2019年10月31日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 [近世篇]
 134 運命の宰相 阿部正弘
 歴史には、フランスの歴史学者フェルナン・ブローデンが指摘したように、気候の変動といった、人間にはどうしようもない大きな波があり、人口動態やオーストリアハプスブルク王家とフランス王家の争いのような中規模の波があります。
 さらに個人の人生の波があり、3つの波が重なったときに、歴史上の大英雄が現れたりします。
 典型はナポレオンです。王政から国民国家へというフランス革命の大波や、産業革命という大波が重なる中に、ナポレオンという天才が現れたのです。
 そのような天才が幕末の日本にも現れます。それが阿部正弘でした。
 福山藩の阿部家は何人も老中を輩出した名門の譜代大名でした。1819年、阿部正弘は江戸で生まれ、17歳で家督を継いでいます。
 若くして将来を嘱望(しょくぼう)された阿部正弘は1840年、20歳で寺社奉行になりました。11代将軍徳川家斉以降、社会風紀が乱れていました。家斉はガールフレンドとひたすら遊んでいた将軍です。そうすると、みんなも遊びますよね。
 大奥スキャンダルを裁いて出世
 そんななかで千葉県市川市にある中山(なかやま)法華経寺の日啓らが、大奥に出入りして、奥女中たちと密通するというスキャンダルが起きました。
 阿部正弘がその事件を取り仕切って、日啓を島流しにした。でも女性のほうは、日啓が手を出していた田舎の農婦を捕らえて『お坊さんとデートとはけしからんで』と、自宅軟禁(押込)の処罰にしただけで、大奥に事件を波及させませんでした。
 実は日啓の娘は家斉の愛妾で、その手引きで日啓たちが大奥に入り込んでいたという事情があり、下手に追及すれば幕府の威信に関わってくるところでした。阿部正弘は上手にもみ消したわけですね。
 大奥と12代将軍家慶は『えらい有能なやつや』と感心しました。そこで1843年、家慶は阿部正弘を23歳で老中に抜擢、続いて25歳で老中首座に据えました。
 就任してすぐに阿部正弘は海岸防禦御用掛{がかり}(海防掛)を強化します。
 これは1792年にロシアのラクスマンが日本に来たときに老中松平定信が慌てて設置し、自ら就任すた役職でした。臨時の役職でしたが、阿部正弘は幕府中枢メンバーの半分を入れて常設化します。この海防掛は諮問機関でしたが、1853年、ペリーの黒船艦隊が浦賀沖に現れたとき行政機関に衣替えし、若手をガンガン抜擢しはじめます。
 御三家の中でも一番のうるさかった前水戸藩徳川斉昭も、海防参与として幕府内に取り込み、息子の慶喜を一橋家の養子に入れて斉昭を喜ばせました。阿部正弘は政治的なセンスに優れていたのです。
 開国・富国・強兵
 阿部正弘は、すでに前年ネーデルラント(オランダ)からの通報で、ペリーの来航を知っていました。
 アメリカ大統領親書の受領を決めた阿部正弘は、ペリー退去直後に将軍家慶が亡くなるアクシデント(後継は息子の家定)に見舞われつつも、全大名や旗本、庶民に至るまで対応策について意見を求めました。
 700余りも『こうしたらいい』という意見が出て、収拾がつかなくなったほどですが、明治維新時の『万機公論に決すべし』をもうすでにやっているわけです。
 そして阿部正弘は腹を肚を決めました。
 幕府は、産業革命後の欧米の商工業の発展とアヘン戦争の情報を十分に持っていました。産業革命国民国家という人類史上最大級の二大イノベーションに乗り遅れた清国が敗れた結果を見ると、日本には開国以外の選択肢はありません。
 『交易互市の利益をもって富国強兵の基本と成す』、つまり開国して交易し、産業革命を行って国を富まし、兵隊も強くしなければあかんという『開国・富国・強兵』というグランドデザインを描いたのです。
 これが阿部正弘の一番の貢献だと思います。諸藩の大型船建造の禁令を解禁し、幕府もネーデルラントから蒸気軍艦7隻購入などを決めました。
 富国強兵の考え方はどこに源流があるかというと、太宰春台が『経済録』のなかで書いています。
 国が富めば、兵隊も養えるで、外国と交易してお金を儲けて、そのお金で国を防衛すればええという考え方です。
 上杉鷹山は富国安民論を主張しました。お金を増やして国民が安心したら政権は長く続くでという話です。江戸時代は鎖国をしていたので、富国強兵論は富国安民論という形で発展したのです。
 こういう流れが以前からあったので、阿部正弘も開国・富国・強兵という構想が描けたのでしょう。
 そして『安政の改革』と呼ばれる幕政改革を行います。江戸時代の改革は享保・寛政・天保の三大改革が人口に膾炙(かいしゃ)していますが、実は安政の改革のほうが、その後の日本への貢献度が大きいと思います。
 明治を準備した安政の改革
 安政の改革の一番すごさは、川路聖謨井上清直、江川英龍勝海舟、永井尚志、高島秋帆といった、身分が低くても有能な人を次々と抜擢したことです。
 1851年には、鳥居耀蔵によって政治の表舞台から外されていた遠山の金さん(景元)を南町奉行に復帰させ、水野忠邦天保の改革で潰した株仲間を再興しています。
 54年には講武所を作ります。洋式砲術などを学ぶところで、これは陸軍のもとになりました。
 55年に海軍の前身、長崎海軍伝習所を作ります。なぜ長崎かといえば、鎖国で海軍のことがわかる人間がいないので、ネーデルラントの長崎商館に頼んで、ネーデルラントの軍人を講師に招いたのです。明治のお雇い外国人と同じことを、すでにこの時にやっているのです。
 56年に蕃書(ばんしょ)調所を作ります。これは蘭学の研究所でしたが、まもなく洋学の中心はネーデルラントやないで、ということで、洋書調所と名前を変えます。これが後に開成所となり、東大に発展するわけです。
 まとめると、安政の改革では、身分を問わずに有能な人間を抜擢し、陸軍、海軍、東大の礎になるものを阿部正弘が用意したわけですね。
 また両国の福山藩では、それまで弘道館という学校で漢学を教えていたのですが、55年に洋学を取り入れた誠之館(せいしかん)に改編します。
 誠之館のすごいところは、8歳から17歳の全藩士の子供に教育を受けさせたことです。義務教育をはじめたわけです。しかも庶民の中からも優秀な人には入学を許可しました。
 そして仕進法という試験を導入ます。勉強しただけではあかんというので、試験で優秀な成績をとったら『12石2人扶持(ふち)』の士分に取り立てます。つまりPDCA(計画・実行・評価・改善)のサイクルを回したわけです。
 『安政の改革』にみられる開国・富国・強兵という阿部正弘のグランドデザインを、大久保利通伊藤博文がそのまま実行したのが明治維新だともいえるでしょう。
 ペリー来航時がクリミア戦争で列強の目がアジアから逸れているさなかで、しかも英傑がたまたま老中首座に就いていたのは、日本にとって、ものすごく幸運なことでした。……」
   ・   ・   ・   
 東京裁判は、日本の近代的軍国主義化を戦争犯罪行為として否定した。
   ・   ・   ・   
 幕末期の日本が国策進路を誤れば、清国のように内部崩壊するかムガル帝国のように分裂崩壊するかの何れかで滅亡した。
 何故なら、欧米列強には日本を侵略して占領し、滅亡させて植民地化し、日本人を奴隷にし、キリスト教化する、と言う宗教的白人至上主義を神聖な使命として持っていたからである。
 西洋文明国として、「日本を開国させ、近代国家として国際社会に参加させる」というのは嘘である。
   ・   ・   ・   
 日本の近代化とは、日本の軍事国家化であった。
   ・   ・   ・  
 キリスト教が説く隣人愛の対象者は、同じキリスト教徒に対してであって、非白人異教徒に対してではなかった。
 キリスト教にとって、非白人反キリスト徒異教徒は人間ではなく家畜か獣でしかかなかった。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人のように奴隷として世界中に売って金を稼いでいた。
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 人類の歴史、世界の歴史、大陸の歴史、国家の歴史で、悪人は数多くいるが、善人は極少数であり、悪人は富み栄え善人は貧しく滅んでいる。
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 現代の日本人と昔の日本人とは、別人のような日本人である。
 特に、高学歴出身知的エリートにそれが言える。
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 現代日本は、幕末期の日本というより、アヘン戦争時の清国に似ている。
 何故か、現代日本の政治家や企業家・経営者らは、清国の発展には欧米列強の産業革命によるイノベーションが必要と考えていていながら実行できず滅亡をもたらした清朝高官に似ているからである。
 幕末期の日本に似ているのは、世界制覇を目論む中国共産党である。
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 昔の日本は、人生50年で若者が多く老人が少なかった。
 現代の日本は、人生100年で若者が少なく老人が多い。
 総人口は、1800年頃は約3,000万人で、2000年頃では約1億3,000万人である。
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 江戸時代の改革は、経験豊かな40代50代の年老いた老中・若年寄などの幕閣ではなく20代30代の若い優秀な幕閣が差配する事が多かった。
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 日本の歴史で20代30代の暴走が、成功して日本を救ったのは幕末から明治時代にかけての動乱期であり、失敗し甚大なる被害をもたらしたのは昭和初めの動乱期である。
 もし、昭和初期の20代30代が冷静に平和主義の昭和天皇や戦争回避の良識ある老人の忠告を聞き、40代50代の好戦的で野心的な現役高級将校等の甘い言葉に騙されなかったら絶望的戦争を避けられたのかも知れない。
 いつの時代でも、若手と言われる20代30代は、視野が狭く知識も乏しく経験も浅い為に思考が足りず、強欲に陰謀を企む大人に騙され洗脳されやすい。
 令和時代の若者は、幕末・明治期の若者か、あるいは昭和初期の若者か。
 いつの時代でも、大人の一部は自分の事しか考えていない。
 そして若者は、そうした大人の犠牲になる。
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 優れた武将とは、幼少の相手を見てその才を見極める観察眼を持っている事である。
 その代表例が、織田信長豊臣秀吉徳川家康らである。
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 徳川幕府は、才能ある若い藩主を幕閣にして幕政を任せ、出自にこだわらず百姓や町人から武士になった金上侍を勘定奉行町奉行・郡奉行などに任命して現場を仕切らせた。
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 開国近代化による軍事国家への暴走は、江戸時代後期、松平定信時代に起きたロシアの侵略に対する恐怖心・危機感から始まった。
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 田沼意次は、ロシア(赤蝦夷)の動静を探る為に探索隊を蝦夷地(北海道)・北方領土樺太に派遣した。
 この時、北方領土は日本を固有領土となった。
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 文化露寇事件(北辺紛争・フヴォストフ事件)。ロシア軍艦は、北方領土で海賊行為を行い、日本人とアイヌ人を死傷させ食料などを強奪した。
 ロシアは砲艦外交として、日本に軍事力を見せつけ開国させて交易をしようとした。
 軍事力で交易を迫るという外交は、元寇を命じたフビライの真の意図でもあった。
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 松平定信は、ロシアから北方領土蝦夷地を守る為に東北諸藩に守備隊派遣を命じた。 総兵力、兵力約3,000人。
 東北諸藩は、この時の負担で戊辰戦争に敗れた。
 ナポレオン戦争が、日本を救った。
 幕府は、ロシア帝国の侵略に備えて、アイヌ人を味方に付けるべく出来うる限りの保護策をとった。
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 ロシアの侵略に備える国防強化の為に、水野忠邦天保の改革を、阿部正弘安政の改革を行った。
 水野忠邦徳川幕府の為であったが、阿部正弘は日本国の為であった。
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 ロシアが日本に侵略してきた時、古代からの敵国であった中国と朝鮮がどう動くかによって日本の存続か滅亡かを分ける事になる。
 ハッキリしている事は、中国と朝鮮が日本に味方をしないし、中国と朝鮮が日本と共にロシアと戦わないと言う事である。
 その故に、歴史を知る吉田松陰らは清国や朝鮮を手に入れてロシアの侵略に備えるべきだと訴えた。
 吉田松陰の過激な発言を非難する日本人には、正しい歴史は分からない。
 ロシアの侵略に対する恐怖心は、日本一国のみで、清国(中国)や朝鮮にはなかった。
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 江戸時代は、人生50年時代で、喜寿(77歳)は稀なりで、若者が多く多く老人が少なく、早くて30歳代遅くとも50歳頃には現役を引退して15歳から20歳の子供に家督や役職を譲り隠居生活に入った。
 隠居生活とは、質素倹約とした慎ましい生活ではなく、自分で稼いだ金を使った、悠悠自適な自由で気楽で遊び呆けた生活であった。
 世界に誇る江戸文化とは隠居文化であった。
 金は稼ぐものであった貰うものではないとして、子や孫には、御店・家業・仕事・田畑などを残したが自分が稼いだ金は残さなかった。
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 能力ある者は、10代後半から20代前半に藩主となり、30代頃には幕府の要職に就任した。
 江戸時代における人の才覚は、10代後半で姿を現す早熟型で、年老いてから現れる晩熟型は凡人の部類であった。
 表舞台で活躍する才能は、20代前半で決まり、大器晩成とは才能の芽が出ない負け犬の遠吠えに過ぎなかった。
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 百姓は土で、大名は鉢植えの木であり、藩は大名という木を植えた鉢である。
 日本の土は、植えられた木がどんな木であろうと気にはしんないが必要以上の栄養分を吸い上げれて土を弱らせる事を許さず悪い木を枯らし、土を入れた鉢がどんな鉢かは気にしなかったが土に不利益として被害をもたらす粗悪な鉢は壊した。
 日本の土の栄養分は、哲学・思想・主義主張ではなかった。
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 諸藩では、身分低い武士や金で武士になった成り上がり者が主君・大名の信用を得て改革派となり、旧態依然の前例に固執する門閥派・守旧派の反発・反対を押し切って諸改革を行ったが、年貢を納める百姓の多くは祖先から続けて来たやり方を変える事に不平不満を抱き改革に抵抗した。
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 日本で起きるのは、基本・土台を破壊し構造を根底から新しく作り替える「革命」ではなく、基本・土台を残し構造を時代に適応できるように組み換える「改革」であった。
 日本の伝統的改革は、世界の非常識として、世界では理解されない。
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 江戸時代後期・幕末を動かしたのは、下級武士、貧しい庶民(百姓や町人)、軽蔑された芸能の民(歌舞伎役者、旅役者、傀儡師、軽業師など)、蔑視された賤民(非人・穢多・乞食など)、差別さえた部落民(山の民・川の民・海の民)らであった。
 狂信的な勤王派・尊皇派になって暴走したのは彼等であった。
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 現代日本は、1945年の敗戦から始まる日本でまだ75年しか経っていない。
 75年という短い年月しか経験していない現代日本人に、世界的な知識や視野があるからと言って260年続いた江戸時代を論じる資格があるのかどう甚だ疑問である。
 さらに、当世流行りの哲学・思想・主義主張は威張ったところでたかだか数年か十数年の時間に過ぎない。
 馬鹿にするように「日本の歴史は短い」と、声高に説教を垂れる高学歴出身知的エリートの生きた年数は100年にも満たない。
 そうした馬鹿な日本人の話を真剣に聞き信じ込むと、馬鹿を通り過ぎて頭の中が空っぽになり無味乾燥の虚しい風が吹き抜ける。
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 日本人が変質したのは、1980年代後半からで、それがハッキリ現れたのは2010年頃からである。
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🕯150)─1─亡くなった闘病者が残してメッセージで変わる死生観。小林麻央さん、34歳。~No.317No.318  

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 産経新聞IiRONNA「関連テーマ 小林麻央さんが遺してくれたもの
 フリーアナウンサー乳がん闘病中だった小林麻央さんが34歳の若さで亡くなった。昨秋にブログを開設して以来、352回ものメッセージを発信し、多くの人々の心を動かした。麻央さんは私たちに何を伝え、何を遺してくれたのか。その意味を考えたい。
碓井真史(新潟青陵大学大学院教授)
 有名人や芸能人の人生は、私たちに大きな影響を与え、時に社会を変えていく。山口百恵のように、人気絶頂のアイドルが結婚を機にすっぱりと引退し、専業主婦として生きていくといった姿は、当時の日本女性に強いインパクトを与えただろう。そして「山口百恵」は伝説化されていく。
 さらに「死」にまつわることは、より普遍性が高いために、多くの人々の生き方にさえ影響を与える。スポーツカーで事故死したジェームズ・ディーン、愛と平和を歌いながら暗殺されたジョン・レノン、民家の軒先で遺体が発見された尾崎豊。彼らは、その芸能活動と死にざまがあいまって、熱狂的なファンを生み神格化されていった。
 人はみんな死ぬ。有名人も権力者も金持ちも関係ない。死から免れる人はいない。だから問題は、どう死ぬかだ。涙で包まれた穏やかな臨終の場面はドラマでよく登場するシーンだが、現実とは異なる「様式美」とさえ言えるよう最期が描かれたりする。事故死は、突然の死であり、ご遺族にとってはとても辛いことになる。だが、だからこそこの衝撃的な死に方も物語にはよく登場する。現実世界の芸能人も、事故死の方がその芸能人のイメージのままで死を迎えられるために、「永遠のスター」として私たちの記憶に残ることもある。
 だが、病気はなかなか辛い。徐々に体が弱る。痩せ細るなど容姿が変わることもある。長く苦しむこともある。病人の周囲では良いことばかりが起こるわけではない。体と心の苦しみ、お金の問題、看病、人間関係の問題など、さまざまなトラブルが起こることもあるだろう。辛さだけが残る最期もある。だから、有名人の中には闘病生活をほとんど世間に知らせない人もいる。華やかな結婚式や、授賞式や、一家だんらんなど公私にわたる人生を公開してきた人も、死期が近づいている闘病生活は公開しない。夢を売ってきた芸能人として、それも当然のことだろう。
 だからこそ、フリーアナウンサー小林麻央さんの活動は注目された。彼女のネット発信は素晴らしものだった。「私は前向きです」「今、前向きである自分は褒めてあげようと思いました」「何の思惑もない優しさがこの世界にも、まだたくさんある」「がんばれっていう優しさもがんばらなくていいよという優しさも両方学んだ」「今は今しかない」「今日、久しぶりに目標ができました。娘の卒園式に着物で行くことです」「空を見たときの気持ちって日によってなんでこんなに違うのだろう」「苦しいのは私一人ではないんだ」「私はステージ4だって治したいです!!!」「奇跡はまだ先にあると信じています」。小林麻央さんのブログには、宝石のような言葉があふれた。死との向き合い方のお手本のようだ。
 酸素チューブを鼻に入れた写真。ウイッグ(カツラ)の写真。闘病中の姿も、美しく、ユーモラスに公開した。そして彼女は語る。
 「私が今死んだら、人はどう思うでしょうか。『まだ34歳の若さで、可哀想に』『小さな子供を残して、可哀想に』でしょうか?? 私は、そんなふうには思われたくありません。なぜなら、病気になったことが私の人生を代表する出来事ではないからです。私の人生は、夢を叶え、時に苦しみもがき、愛する人に出会い、2人の宝物を授かり、家族に愛され、愛した、色どり豊かな人生だからです」。闘病生活をつづったブログなのだが、麻央さんのプログは闘病記ではなかったのだ。
 もちろん、公開されたことだけが事実ではないだろう。家族にしか言えない苦しみがあったことだろう。死も闘病も、きれいごとだけですまない。しかしそうだとしても、2016年9月1日に始まった麻央さんのブログは、人生の苦悩と希望を私たちに届けてくれた。それは日本人の心を動かし、世界にも報道された。彼女の言葉に、慰められ、励まされた人々はどれほどたくさんいたことだろう。そしてその活動が、小林麻央さん自身の癒しと勇気にもつながったことだろう。
 どう死ぬかという問題は、どう生きるかという問題であり、死生観が関わる問題だ。そして死生観には、宗教が絡む。普段は無宗教という人でも、葬儀の時には宗教的なことをする。しかし、世界的に宗教の力は落ちている。日本でも、簡易な家族葬無宗教の葬儀、そして「直葬」と呼ばれる宗教的葬儀なしに火葬場へ行く方式も増えている。仏教式の葬儀を行っても、以前ほど戒名などにこだわる人は減っているだろう。宗教への熱い信仰があれば、どう生きてどう死ぬかの指針になる。だが、非宗教化した現代社会で、人々は新しい死生観を求めている。
 インターネットは、まるで新しい宗教だ。人は確かに生きて日々活動しているのだが、人生とは各自が振り返ってみたこれまでの記憶とも言える。同じような生き方をした人でも、良い記憶でまとめられた人生もあるし、悪い記憶でまとめられた人生もある。人生は、当人の記憶であると同時に、周囲の人々の記憶だ。多くの人々の記憶が、その人の人生を形作る。
 神仏を信じていれば、神仏が私の人生を見守る。神仏は私に関する出来事を全て記憶し、私の人生に意味づけをする。心理学の研究によれば、信仰を持っている人の幸福感は高い。神仏的なもの抜きで人生の意味づけをすることは、簡単ではない。
 インターネットは、新しい神にもなるのだろう。私の人生を、ネット上で記録できる。世界に発信できる。世界の人々は、ネットを通して私を見て、リツイートしたり、「いいね」したりする。その記録は半永久的に残る。
 インターネットの黎明期(れいめいき)から、人生を語る人々はいた。一般の人の中にも、闘病生活を発信した人はいた。まだブログもなく個人ホームページも数少なかった頃、母であり教師であるある一人の女性は、死期が近づく中で、普及し始めた電子メールで配信を始めた。「私は、なぜ病気になったのかではなく、何のために病気になったのかと、考えるようになりました」と。その活動は、多くの友人、知人たちを力づけた。
 このような活動は、今や多くの人々に広がっている。ある元校長は末期のガンであることをブログでカミングアウトし、それでも最期まで自然に親しみ、グルメを楽しみ、家族や病院スタッフに感謝する。家族がそれを見守り、友人や知人が応援し、見ず知らずの読者との温かな会話が始まる。同じ病で苦しむ読者とも交流が生まれる。それは、どれほど素晴らしく意味あることだったことだろう。
 ネットを通して、記録を残し、思いを伝え、人々とつながる。それは、真剣に命と向き合っている人にとって、かけがえのない活動だ。死期が迫った終末期は、人生の中でもっともコミュニケーションを必要とする時期だ。しかし、しばしば死期が迫っているからこそ、孤独感に襲われることもある。だがネットは、豊かなコミュニケーションを提供する。神仏の腕に包まれるように、ネット世界で人は包まれることもあるだろう。
 余命いくばくもない人にとって必要なことは、安易な慰めでもなく、客観的だが悲観的なだけの情報でもない。必要なのは「祈り心」だ。神仏に祈れる人もいる。同じ宗教の信者たちに祈ってもらえる人もいる。健康心理学の研究によれば、祈られている人は病気が治りやすくなる。そして祈り心は特定宗教によらなくてもできる。祈り心とは、客観的には厳しい状況であることを知りつつ、同時に希望を失わない心だ。
 東日本大震災の時に、日本は祈りに包まれた。「Pray for Japan」、日本のために祈ろうと、世界が日本の支援に乗り出した。国連はコメントしている。「日本は今まで世界中に援助をしてきた援助大国だ。今回は国連が全力で日本を援助する」。
 義援金や救助隊員を送ってくれたことはもちろんうれしい。だが金や人だけではなく、その心に熱い想いを感じた人も多かったことだろう。真実の祈りは行動が伴い、真実の行動は祈りが伴う。世界はマスコミ報道により日本の状況を知り、そしてインターネットによってさらに詳細な情報が伝わり、人々はつながっていった。つながりこそが、人間の本質だ。
 このようなことは、個人でも起こる。今回は、小林麻央さんというたぐいまれな人格と文才を持った女性が、苦悩と希望を発信してくれたことで、大きな祈りと交流が生まれたといえるだろう。ネットは世界を変えた。ネットは私たちの死生観をも変えるのかもしれない。」
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🏯3)─1─日本の火縄銃は明・朝鮮の青銅銃より優れていた。〜No.4・ * 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本人は、中国人や朝鮮人と比べて数段も賢く優れ秀でていた。
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 日本の技術力や学習能力は、西洋に劣ってはいなかった。
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 日本を取り巻く中華世界・東アジア世界は、古代から現代に至るまで力の論理による軍事力が支配する非情な世界である。
 平和は、軍事力で守られてきたし、今後もそれは変わらない。
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 2020年1月2・9日新春特大号 週刊新潮「変見自在 高山正之
 例外的日本人
 日本人は賢い。モノの本質を見通す力がある。
 例えばキリスト教だ。欧州では不潔と抑圧と迷信に苦しむ人たちに心の安らぎを与え、大いに繁盛していた。マルクスが後に言った阿片の効き目が抜群の宗教だった。
 でも日本は清潔で、抑圧もそう酷くなかった。迷信もミミズにおしっこをひっかけるなくらいだった。
 むしろ日本人は奴隷を鞭打ちながら慈悲を説く伴天連に鼻白んだ。
 だから世界で唯(ただ)一国、この宗教を見限った。それが正しい選択だったことは世界の歴史が証明している。
 同じころ鉄砲も伝わった。日本人はこっちには目を輝かせた。領主、種子島時堯は刀鍛冶の八板金兵衛に同じものを作れと言った。
 金兵衛は心血を注ぎ、本物に勝るものを作った。銃身のお尻、尾栓には日本初の着脱自在の螺子(ねじ)を取り付けた。一説には娘と引き換えに毛唐からそのメカニズムを習得したという。
 火縄銃は世に広まり、金兵衛の孫の時代には日本の銃保有数は世界一の50万丁に達した。
 下地はあった。まず鉄と鉛も産した。高度な製鉄技術も持っていた。細かいことを言えば火縄には日本の檜皮(ひわだ)が最適と分かった。
 ただ問題はあった。火薬の原料のうち木炭と硫黄は余るほどあったが肝心の硝石がなかった。
 で、日本は隣の明に硝石の有無を尋ねた。明は日本から大量の硫黄を買っていた。琉球も硫黄を朝貢して好待遇を受けていた。
 もしかして硫黄は火薬用ではないかと思ったからだ。
 答えはイエス山東や四川で山ほど採れた。
 でも売らない。なぜなら200年前に太祖の朱元璋が『日本は敵だから硝石を売るな』と遺言したからだ。
 明の持つ銅製銃も日本人に見せたり、製造を漏らしたりすることを厳しく禁じた。これは属領の高句麗にも厳命していた。
 福沢諭吉支那朝鮮は友達だが『悪友』と言った。
 が、彼らは1000年前から日本を敵と見ていた。ゆえに硝石は売らない。
 ではイエズス会はというと硝石一樽と日本の女50人を交換すると言った。
 日本人は自力で硝石作りする道を選んだ。ヒントは臭くて埃の舞う産地の山東省の景色だ。
 五箇山では囲炉裏の床下に穴を掘ってヨモギや麻の干し草を敷き、蚕の糞と藁灰を入れ、尿をかけて埋めた。山東省を再現した。
 数年寝かせると、あら不思議、穴の底に硝酸カリウムつまり硝石ができていた。
 元素も化学式も知らない時代に日本は硝石を手作りし、世界最高の銃砲部隊を作り上げた。
 秀吉の軍勢はその銃砲隊を先頭に朝鮮に出兵して明の軍隊と対決した。
 火縄銃の威力は明の青銅銃を凌駕した。鉛弾は100メートル離れた明兵の鎧を貫通し、今のマグナム弾と同じに体に大穴を開けた。
 青銅の火器にしがみつき、改良を怠った明は日本に敗れて以後、種子島を真似た火器を作るようになった。
 ルイス・フロイスもその威力を知り、日本征服を断念するよう本国に伝えた。因みにナポレオンは後に日本の知恵を借りて同じ方式で硝石を国産化した。
 明治に来た英宣教師ヘンリー・フォールズは日本人がIDとして拇印(ぼいん)を押しているのを見た。
 調べたら誰の指紋も違い、成長しても不変と知った。日本人の知恵を英科学誌に発表したら『指紋の発見者』の称号を貰えた。
 昭和に来たマッカーサー天皇家が直系男子で皇統を紡いできたことを知った。彼は日本を壊すのが使命だった。意味も分からないまま皇室断絶の意図で宮家をほぼ廃した。
 今世紀に入り、男のY染色体が不変で継がれることが解明された。日本人はそれを神武の御代から知っていた。皇統が世界の奇跡と言われる所以だ。
 今、例えば園部逸夫朝日新聞が男女同権だからと女性天皇を立てようと言う。それで神武以来紡がれてきたY染色体が絶たれることも知らない。
 日本人の中にこんな蒙昧がまだいたんだ。」
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 昔の日本人が恐れたのは、日本人を獣と見下し人間とみなさなかった中世キリスト教会やキリスト教徒白人商人であった。
 国を外敵の侵略から守れるのは強力な軍事力・軍隊であり、民族の自由と権利と尊厳を守り他国の奴隷にしないのは殺傷能力の高い最新鋭の武器・兵器だけであった。
 人類史の鉄則として、武器を持って戦わない人間には自由はなく権利のない奴隷であった。
 武士・サムライはもちろん庶民(百姓や町人)も、奴隷身分を拒否して戦った。
 現代の日本人と昔の日本人は別人のような日本人である。
 現代の日本人は、生きる為ならば奴隷を選び、平和の為には戦争の道具である武器を保持せず喜んで放棄する。
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 日本が、朝鮮やベトナムと違って中華帝国に侵略されず植民地支配もしくは属国・隷属国にならずに済んだのは、海が守ってくれたのではなく、日本民族日本人の強大な軍事力のおかげである。
 西洋諸国は、豊臣秀吉が朝鮮へ大軍を渡海させた海軍力に恐怖し日本を世界七大帝国の1つと認め、日本征服を断念した。
 日本の自主独立を守ったのは、大陸軍と大海軍による強力な軍事力であり、日本民族日本人が一丸となって1人の裏切り者を出さず、全員が死を恐れずに戦ったからである。
 巨万の富を持ち強力な軍隊を持った巨大な帝国・国家は、敵に味方する裏切り者によって内部から崩壊して滅亡した。
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 日本の崩壊は、国を守る軍事力を放棄し、Y染色体系正統性の男系天皇を非Y染色体系正当性の女系天皇に換えると始まる。
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 中華文明(黄河文明)に憧れ日本人を文明人にしたいと真剣に考えていた日本人は、日本を中華帝国の属国・隷属国にし、日本民族日本人を中華皇帝の臣下になるべきだと確信していた。
 その為に邪魔だったのが、男系中華人(漢族系中国人)の血を引かない万世一系男系天皇(直系長子相続・Y染色体継承)であった。
 日本民族日本人のY染色体は、南方系海洋民の子孫である縄文人まで遡るが、西方系草原民の子孫である漢族系中国人や朝鮮人とは違う。
 日本民族日本人は、日本列島で、乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族であって、大陸や半島から侵略してきた征服民ではなかった。
 日本皇室の源流は、揚子江流域の長江文明であって、黄河流域の黄河文明ではない。
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