🏕33)─1─日本の自然破壊。里山の荒廃。春日山原生林のナラ枯れ。2017年。〜No.62No.63 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2017年3月18日 産経ニュース「世界遺産春日山原始林」もピンチ…奈良県で昨年のナラ枯れ被害、全国最大規模に 
 国特別天然記念物世界遺産の「春日山原始林」(奈良市)で、ミズナラやコナラなど主にナラ類の樹木が枯れる「ナラ枯れ」の被害が広がっていることが18日、奈良県への取材で分かった。同県内のナラ枯れ被害は昨年、全国最大の1万7900立方メートル(速報値)に上ったことが判明。「被害のピークはこれから迎える」(県担当者)ものの、有効な手立てはなく、関係者は対応に苦慮している。
 県森林整備課によると、県内でのナラ枯れは平成22年8月、奈良市内の森林で初めて確認された。この年の規模は200立方メートルだったが、28年は前年の約5倍、全国で最大規模の1万7900立方メートルにまで拡大した。
 被害地域は年々南下しており、昨年は奈良市のほか生駒市大和郡山市などで深刻化。一方で、奈良市東部の山並みに約250ヘクタール広がり、東大寺などと併せ世界遺産古都奈良の文化財」の重要な構成要件である春日山原始林での被害も増えているという。
 ナラ枯れは22年に30都府県で計32万5千立方メートルの被害が確認されたのをピークに減少傾向にあり、昨年は7万6千立方メートル(速報値)にまで減った。だが、奈良県では「これから被害のピークを迎える」(県担当者)とみられている。
 被害が拡大した要因は「里山の荒廃」とされる。ナラ枯れを引き起こす昆虫「カシノナガキクイムシ」(カシナガ)は、直径10センチ以下の木では繁殖しにくく、太く育った大木を好む。奈良県内ではかつて、ナラ類は炭や薪、シイタケの原木としてこまめに伐採、利用されたが、木材価格の低下などで放置される森林が増え、大木が残ったままになっているという。
 ナラ枯れの被害木は枝が落ち、倒木するなど危険性が高い。被害を食い止めようと全国でさまざまな対策が講じられているが、拡大は早く、有効な手立てがないのが現状だ。
 春日山原始林での対応について、県は、ナラ枯れ予防に防虫ネットを木の周りに張り、ペットボトルでカシナガを捕まえるわなを仕掛けるなどの対策を実施。28年度からは、幹に最新の高濃度殺菌剤を注入する取り組みも始めた。ただ、この費用は木1本当たり約1万7千円と高く、実施できるのは、春日山原始林の中でも後継樹の種子を落とす「母樹」となる大木など、「貴重な木に限られる」(県担当者)という。
 一度被害が拡大すれば、カシナガのエサとなる木がなくなるまで、被害の収束は難しいとされ、奈良県より早くに被害が拡大した京都府では、拡大から収束まで約6年かかったという。奈良県の担当者は「今年も昨年と同規模の被害が出る可能性が高い。収束するまでは人身、物損被害が出ないよう、枯れた木をこまめに伐採するしかない」と話している。
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 ■ナラ枯れ 体長約5ミリの昆虫「カシノナガキクイムシ」(カシナガ)が樹木に穴を開け、ナラ類、シイ・カシ類を枯らす病原菌「ナラ菌」を持ち込むことで発生する。被害を受けた木は紅葉前の7〜8月に葉が赤く変色して枯れる。カシナガの幼虫は木の中で越冬、翌年6月ごろに成虫となって新たな木に移り、被害を広げていく。」


自然破壊。里山の荒廃。神社の森林破壊。

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🏕30)─1─森・川・平野・海の原風景。植林する日本神道。里山とフルボ酸鉄。自然神と里山の恩恵。〜No.56No.57 * 

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 各国の総人口(2011年)
1 ,中国      …13億4,757万人
2 ,インド     …12億4,149万人
3 ,アメリカ    … 3億1,309万人
4 ,インドネシア  … 2億4,233万人
5 ,ブラジル    … 1億9,666万人
6 ,パキスタン   … 1億7,675万人
7 ,ナイジェリア  … 1億6,247万人
8 ,バングラデシュ … 1億5,049万人
9 ,ロシア     … 1億4,284万人
10,日本      … 1億2,780万人
11,メキシコ    … 1億1,479万人
12,フィリピン    …  9,485万人
13,ベトナム     …  8,879万人
14,エチオピア    …  8,473万人
15,エジプト     …  8,254万人
16,ドイツ      …  8,216万人
17,イラン      …  7,480万人
18,トルコ      …  7,364万人
19,タイ       …  6,952万人
20,コンゴ民主共和国 …  6,776万人
21,フランス     …  6,313万人
22,イギリス     …  6,242万人
23,イタリア     …  6,079万人
24,南アフリカ    …  5,046万人
25,韓国       …  4,839万人
28,スペイン     …  4,645万人
37,カナダ      …  3,435万人
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 日本の海と海の幸は、山林のお陰である。
 山林を破壊すると、日本の海は死の海となり海の幸は消滅する。
 日本の豊の源は、山林にある。
 日本の宗教の源も、山林にある。
 日本の真の姿も、山林にあった。 
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 日本列島は、朝鮮半島や中国大陸のように自然を破壊しては生きてはいけない過酷な自然環境であった。
 日本列島の自然が大事に守られていた為に、甚大な自然災害が起きても日本列島を逃げ出して朝鮮半島や中国大陸に逃げ出した環境難民は皆無であった。
 日本列島は、朝鮮半島や中国大陸から逃げて来た難民が最後に辿り着いた新天地である。
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畠山重篤安倍昭恵。アッキーのスマイル対談より
 『鉄が海を救う』
 「畠山 『鉄と生命』の関わりが分からないと『この国のかたち』は説明できますん。
  ……
 畠山 植物を育てるには鉄の知識が必要です。例えば、盆栽の松の緑の元気が無くなると、植木屋さんは昔から盆栽に釘を刺しなさいってアドバイスをしていました。松の緑には鉄が関係しているのです。もっとわかりやすいのは『ソテツ』って」あるでしょう? これは漢字で書くと蘇りの鉄と書いて『蘇鉄』。その葉っぱを切り刻み、泥にすき込んで染めるのが『大島紬』です。大島紬のあの色は鉄の色なんですよ。……
 日本の場合は土の中に鉄が多いですから、極端な鉄不足にならないんですが、世界の農地の25パーセントはアルカリ大地で、鉄とアルカリが結びつくと、水酸化第二鉄になって、植物が吸収できなくなるんです。イスラエルとか、今の紛争地帯は大体そうですね。そういう土地でも鉄を吸収できる植物であれば、育てるのは可能だということですよね。……
 大麦は荒れ地にばらまいても生えてくるんです。大麦は根っこから、麦根酸という成分を出して鉄を吸収できるすごい植物なんですよ。……
 東京湾は、二年で全部真水になるくらい川が流れ込んでいるんです。荒川、利根川多摩川……。上流の雑木林から来ていて、森と川と海が結びついているから豊穣な海なんです。……川からもたらされる栄養分、鉄で育っていたんです。……
 学者も政治家も森・川・海の連環した知識がなかったために、この国は魚介類、海藻が獲れなくなってしまったんです。……
 鉄が無いと、窒素、リンがいくらあっても植物がそれを吸収できません。ですから、海にどこから鉄が来るかというのがわからないと豊饒の海にならないんです。……
 海水の中に含まれている鉄分ってものすごい少なく、計測が難しいんです。アメリカのジョン・マーチンという人が外海の鉄の成分を計ったんですが、海水1リットル中1ナノグラム、たった10億分の1グラムだそうです。ゼロに等しい。……
 実は酸化しない鉄があるんです。……
 遠野で農業をしている友人によると、ほうれん草は夏の暑いときにクタっとなりますが、化学肥料をいれても効果が無い、でも腐葉土を蒔くとピンっとなるらしいんです。植物にとって腐葉土はすごい力になるんですね。腐葉土の最終段階では、『フミン酸』という成分が出来る。……その中にもう一つ重要な酸があって、……『フルボ酸』なんです。……
 このフルボ酸がやたらと鉄好きで、水に溶けた鉄にくっついてしまう。一度くっついたらめったなことでは離さないので、酸素が鉄にくっつけないんです。すると酸素と鉄が結合して、さびて海底に沈むことはできないですよね。だから鉄が豊富にあってプランクトンが増える。三陸沖って日本で獲れている魚介類の半分以上が獲れているんですから。黒潮や沖縄の海とは豊かさの意味合いが違うんです。……
 大川のフルボ鉄酸が気仙沼湾の生物が育つのにどだけ役に立つかというのが数字で出たんですよ。……
 これは日本の『国づくり』をどう考えるかということに関わってくる問題なんです。フルボ酸鉄が注がなくなると、海はどんどん痩せていく。その弊害が解るのは、中国の三峡ダムですよ。……三峡ダムのせいで東シナ海がおかしくなっているんです。……
 ダムを建設してしまったのですから、今は、底に溜まったものを安定的に流すような装置をつけられないかと思うんですがね。……
 今の日本の法律でって、ダムや河川堰を作ったりするときに、海については環境アセスメント(環境影響評価)はやらなくてもいいとなっている。発想からして、森と川と海が分断されているんです。……エジプトのアスワンハイダムが出来た時に、地中海のイワシ漁師が3万人失業したというのは有名な話ですが、今思えばフルボ酸鉄が海に注がなくなったということなんですよ。……
 いま日本の国でやっている三大行事は国体、全国植樹祭、全国豊かな海づくり大会。樹を植えることは森と川と海の関係を考えるとすばらしいことですから、両陛下にご臨席賜ってもいいと思いますが、全国豊かな海づくり大会で両陛下に何をしていただいているのかというと……。
 安倍 稚魚の放流でしょう。 
 畠山 でも、エサを増やすフルボ酸鉄が来ていないとこに稚魚を放流していただくなんて両陛下に失礼ではありませんか。だがら、植樹祭と豊かな海づくり大会は合体しないといけないと思いますね。……
 フルボ酸鉄のメカニズムをぜひ政治家の方々に知っていただきたいのです。新幹線とか高速道路はもうたくさんできましたから、今度は山と川と海の関係を林野行政、農政、土木行政とくっつけて、水産の先生も一緒になって技術的なことを解決していけば、この国は本当に良くなると思います。魚や貝で溢れるんですから。……
 自分たちがずっとやってきた『森は海の恋人』というものの考え方は正しかったんだと思いました」
(ワッツ株式会社『歴史通』1月号)
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 2013年7月5日 朝日新聞「地に足をつけて」
 作家・高村薫
 「躍る言葉に背を向けよ『どう生きるか』という意思と選択が問われる
 ……
 太田猛彦著『森林飽和』にとると、日本人は古来、燃料や肥料や資材として森林資源を利用し続け、江戸時代にようやく保全の取り組みは始まったものの、20世紀初めには国土の6割を占める森林の半分以上を荒廃させていたのだという。近代化に伴う薪炭需要の増大や養蚕業の発展などで日本各地の山の荒廃が史上もっとも進んだ明治時代、殖産興業に憑かれた人びとの眼にあったのは、崩落で荒れた山肌にそびえる未来のダムや水力発電所の姿だったのだろうか。
 ……
 都会の人間は里山に憧れる。けれども、戦後造林されたスギ・ヒノキが安価な輸入材に押されて放置され、薪炭需要も減った結果、皮肉にも日本の山々は深い緑を回復したに過ぎない。前掲書の太田は、森には『使う森』と『護る森』がなければならないと説くのだが、どちらも危機的状況になっている今日、私たちは深々とした山の緑に新しい荒廃の姿を読み取らなければならないということだろう。とはいえ、これは単純に林業や山村を再興させれば解決する話なのだろうか。
 ……
 デイビッド・モントゴメリー著の『土の文明史』を読む。人間の農耕文明は土壌に頼るだけでなく、潅漑や鋤の利用や施肥によって収量を絶えず増大させてきたこと。収量が増えると人口も増え、それがまた農地を拡大させてゆくこと。その営みが必然的に土壌を使い果たし、やがては一つの文明の終焉をもたらしてゆくこと。筆者は、富のためであれ、生きるためであれ、人間が知恵を駆使してこの大地で生きること事態が不可避的にもたらす文明の限界を見据えているようだが、そうは言われても─と思う。
 人間を間引くことなどできない。限られた土地で私たちはともかく食べてゆかなければならないのであり、そこではたとえば適切な化学肥料の使用こそ不可避の話になるだろう。その一方、もともと土壌が痩せている熱帯の原野を、食糧確保のために先進国がこぞって大豆畑に変えるような醜い収奪を拒否する理性も求められるだろうし、40万ヘクタールもの国内の耕作放棄地や減反政策を解消するための、今日明日の努力も求められるはずだ。
 躍る言葉に背を向け、文字通り、地に足をつけることである。明日にも大地震や豪雨に飲み込まれるかもしれない大地と、是も非もなく向き合うとき、初めて『どう生きるか』という意思と選択の問いが始まる。いまこそ、そういう日本人でありたいと思う。」
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 自然環境保護の目的で、二酸化炭素排出権が市場で取引された。
 排出権を購入した企業の工場は、排煙を出す事は公害を生み出しているという良心の呵責があったが、排出権を購入するや「地球を汚す権利」を得たとして堂々と煤煙をはき出した。
 自然破壊は、改善されるどころか悪化を辿った。
 全ての問題を金で解決しようとすればするほど、事態は悪化の一途を辿った。
 だが、それでも大金を手にする金儲け主義の人間がいる。
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 川や沼や湖の周りに自生している葦は、環境植物として森林の2〜5倍のCO?削減能力を持っている。
 葦1本で、年間2トンの水を浄化している。
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 日本人が自分だけの利益の為に見境のない金儲けに走っり、
 山が荒れ果て、
 川が汚染され、
 平地が破壊され、
 海が荒廃すれば、
 自然は回復不可能なダメージを受ける。
 その深刻にして甚大なる悪影響は、子供や孫の世代に現れる。
 そして、子供や孫の生存を脅かす。
 自然は同じであっても、日本の自然と大陸の自然は異なる姿を見せ、異なった生態系で自然環境を維持している。
 大陸では、山は遠い国の領土に在り、川は大河として幾つの国を流れ、海は遠くの国に沿岸に存在している。
 自然環境とは、所詮、他人の国、他人事に過ぎない。
 自然破壊も、また、自分には関係が無い。
 山の災害は沿岸国には関係なく、海の災害は山国にとって関係がない。
 大陸で生活して頭で考えて分かったつもりでも、その場の実体験がなければ理解できない。
 日本は、山・川・平野・海が丁度いいあんばいで調和されている時が最も美しい。
 日本脳と大陸脳の違い、日本人の思考と大陸人の思考が違うのも、そのためである。
 日本は、世界基準によるグローバル化の為に、ローカル的な日本を切り捨てようとしている。
 ローカルな日本を田舎臭くダサいと嫌悪する、グローバル思考の西洋礼賛主義の日本人が増えている。
 だが。時代の潮流が、ローカルからグローバルに向かう将来、日本は開かれたグローバルになる為に閉ざされたローカルを時代遅れとして捨てなければならぬのかもしれない。
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 2015年7月号 歴史通「日本汽水紀行 29
 『みどりの文化賞』をいただいて 牡蠣の森を慕う会代表 畠山重篤
 ……
 今年も6月7日、第27回森は海の恋人食湯祭が開催されるが、これまで植樹祭に参加した延べ1万人を超す人々と共に喜びを分かちあいたいと思っている。
 6月7日の案内文を紹介させていただく。
 『全国の皆様のお力添えで森は海の恋人植樹祭は27年目を迎えます。落葉広葉樹は順調に育ち、こんもりした森に育ってきました。
 中でも大震災の年に復興の願いを込めて植えた梓(あずさ)の苗は、懸命に枝を伸ばし、その姿に勇気づけられます。気仙沼湾の海の復活は、目を見張るものがあり、カキ、ホタテ、ホヤ、ワカメ、コンブなどの生産も元に戻ってきました。背景の森林がしっかりしていれば海の復活が早いことを証明してくれています。
 今年も〝ひこばえの森〟へ足をお運び下さい。海の幸、山の幸を沢山用意してお待ちしております』
 森林が果たしている『公益的機能』という行政用語がある。木材を供給する。水を蓄える。崩れを防ぐ。二酸化炭素を固定化する。景観を良好にするなどという説明である。
 森・川・海は一筋
 しかし森に降った雨は川を下って海へ流入する。
 台風などの大雨は樹木などを海に運ぶ。泥水も流れてくる。漁民はむしろ森林に対して被害者意識を持っていたいのである。
 平成元年、気仙沼で、牡蠣の養殖を生業とする漁民たちが湾に注ぐ大川上流の山に広葉樹の森づくりを開始するまで森と海は断絶状態であった。
 行政システムが縦割りでその弊害が指摘されているが学者の研究システムも同様なのである。
 森林から海までは、川を通してつながっているが、自然科学の領域ながら、海は水産学、川は河川生態学、農地は農学、山は林学などに細分化されている。
 森から海までをトータル的に俯瞰(ふかん)する学問がなかったのである。
 そんな中、北海道大学水産学部松永勝彦先生との出会いにより、森と海はある物質によって密接につながっていることを教えていただいたのである。
 松永先生はもともと立命館大学大阪大学で分析化学を専攻された。
 水俣病が発生した当時、天然海水中に含まれる微量の水銀量を世界で初めて正確に測量したことで知られ、論文が『ネーチャー』に二回掲載された。
 北海道大学水産学部教授になり、北海道の沿海域の生物生産と森・川・海との関わりを研究されていて、森林でつくられるある型の鉄分が、植物プランクトン、海藻の生育に大きく関わっていることを発見するのである。
 鉄は植物の生育に不可欠の成分である。ところが鉄は海の中は不足している。酸素と出合うと酸化して粒子となり、海底に落ちてしまうからだ。
 鉄+フルボ酸
 ところが上流に森があり、そこから流れる川の河口の海(汽水域)は、植物プランクトンが多く、海藻も多い。
 森林の腐植土中で生まれるフルボ酸という成分が鉄と付着し川から海へ届く。この型になると酸化せずに、しかも水に浮く。
 縦割りの学問体系では解明できない大発見だったのである。
 日本列島を上空から俯瞰してみると、国の中央を脊梁(せきりょう)山脈が走っている。国土の7割は森林である。その森から、日本海と太平洋に2級河川まで含めると、約3万5,000の川が海に流れ落ちている。
 日本海側、太平洋側、どのに行っても海の幸が豊かなのは、川からフラボ酸鉄が供給されているからなのだ。
 三陸沖が世界三大漁場と言われる由縁もロシアと中国の国境を流れるアムール川流域で生まれるフルボ酸鉄が、オホーツク海から北太平洋に流れていることが判明したことににある。
 アムール川流域の森林面積は、日本国土の5倍である。今までこのような視点でこの国を見た人がいたであろうか。
 スケールが大きすぎるので現実的な話題にする。昨年ノリの生産者の大会に招かれ興味ある話を聞いた。
 日本のノリの生産量は約90億枚。なんとその内30億枚はコンビニに売られているそうだ。コンビニと言えば、オニギリである。オニギリ一個はノリ半分使う。つまり30億枚は60億枚のオニギリになるのだ。これはコメの全消費量の15%になるという。
 コンビニオニギリで気になることは、ノリの不味く固いことだ。沿岸が汚れてしまったので沖合で養殖している。外洋性のノリはスサビノリといって色は黒いが固い。沿岸で採れるノリはアサクサノリといって少し赤味だが柔らかく香りが素晴らしい。オニギリの味は全く別物になる。つまり森川海の関わりを自然に近づければ美味なノリが採れ、オニギリの消費は増大する。米の消費が増えれば3万5,000の流域の経済が動き出す。鮨ネタの魚貝類も増えるから米が足りなくなるあも知れないのである」


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🎑24)─2・A─何が相撲の伝統を守ったか。昭和天皇と天覧相撲。〜No.61 ⑧

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 相撲は、プロレスやボクシングなどの人集めや金儲け目的の娯楽的イベントではない。
 それすら分からなくなった日本人が増えてきている。
 その象徴が、伝統的力士の品位・品格はグローバル時代にそぐわないと軽視し、外国人力士の礼儀・作法違反を容認する日本人が少なからず存在する。
 そうした日本人は、相撲をプロレスやボクシングのようにエンターテイメントで観客を楽しませるべきだと主張している。
 つまり、日本民族文化の破壊である。
 そうした日本人は、国際派、リベラル派、革新派、人権派、人種差別反対派、男女平等派、反民族派、反天皇派などに多い。
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 日本人力士よ、恥を知りなさい
 白鵬は偉大なる横綱なのか。今年1月、審判部批判や外国人差別を匂わせる自身の発言が物議を醸した白鵬。問題が尾を引く中で迎えた春場所も日本人力士を寄せ付けぬ圧倒的な強さで34度目の優勝を果たした。外国人力士に押されっ放しの相撲界。日本人力士たちよ、少しは恥を知りなさい。
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 何が相撲の伝統を守ったか
 『月刊正論』 2014年7月号
 舞の海秀平(元小結、スポーツキャスター)
 大相撲の世界には、ここ何年間でいろいろな不祥事がありました。本場所が中止になったこともあり、天皇陛下をお迎えする天覧相撲も平成23年1月を最後に、もう3年以上も行われていません(編集部注:その後、天皇、皇后両陛下は4年ぶりに平成27年初場所をご観戦)。大相撲界の不祥事が原因であり、やむをえないことなのかもしれませんが、これは本当に残念なことです。
 私自身、現役時代に何度も天覧相撲を経験し、現役引退後にもNHKなどで大相撲の解説もしていますが、天覧相撲というのは、力士に不思議な力を生み出すものなのです。また、国技館のお客様が、自然と立ち上がって拍手を送る。こういう光景を見ると、なんと素晴らしい国に生まれたのだろうと思います。私たちは、天皇という大きくて深い、懐の中で、生きているのであろうと感じられるのです。
 それはなぜか。単に、陛下がご覧になっていることを意識している一人一人の感覚によるものともいえるでしょうが、私は、それだけではないと考えています。それは日本の伝統文化の一つである大相撲が、実は天皇、皇室のご存在によって、1500年近く守られてきたという歴史的事実と無関係ではないのではないかと思うわけです。そのことを、いま私たちは改めて思い出し、襟を正す必要があるのではないか。私はそう考えています。相撲界に携わる者として、一日も早く、晴れて陛下にご覧いただける大相撲を取り戻さなければならない、そう考えるわけです。
 単なるスポーツではない
 まず初めに大相撲が、単なるスポーツではなく、日本の伝統文化、伝統芸能であり、そして何より相撲は神事であるということを確認しておく必要があるでしょう。
 神事だということは、日本の伝統的な信仰で、皇室と深くつながる神道に関わるものでもあるということです。大相撲の不祥事報道では、スポーツとしての公平さ公正さの重要性ばかりが強調されますが、これはあまりに一面的な見方なのです。
 大相撲本場所のテレビ放送を見ると、誰でも相撲が伝統芸能であり、神事であるという証拠を目にすることが出来ます。例えば、呼出が扇子を持って「東~」「西~」と、力士を呼び上げます。ただのスポーツならば、観客のためにマイクで場内アナウンスをすれば済むことですが、大相撲は伝統芸能であるが故に、あの独特の所作が生むムードを必要とするわけです。歌舞伎役者がどんなに見得を切っても、音を響かせるツケ打ちさんの高い技術がなければ見栄えしないのと同じです。
 相撲の取組には、神事であるからこそ、さまざまな作法があります。
 土俵の力士は蹲踞をして、大きく手を広げて、ぱちっと手を叩きますが、あれは、私は武器を持っていません、正々堂々と闘います、ということを示すと同時に、柏手の意味があるそうです。丁寧な力士は叩いた手を揉んでいますが、実はこれが正式な所作であり、神社にお参りするとき、手を洗って口をすすぐ行為の代わりなのです。昔はどこにでも水がなかったから、力士は手を下に伸ばして、草をむしり、その草で手を揉んで、手を洗ったことにしたのですが、その名残なのだそうです。
 土俵の中央で向かい合った後、わざわざそこで四股を踏むのもまた神事からきているそうです。大昔の人は、土の中に魔物がいると考えたそうで、力持ちの力士が大地を踏みしめて魔物を退治し、五穀豊穣を祈る意味があるそうなのです。
 塩をまくのもそうです。塩は、いろいろな神事に使われますが、大相撲でも土俵を清め、邪気を払う役割もあるのです。
 宮中儀式にならなければ…
 ここで大相撲が、いかに天皇、皇室と関わりが深いものであったかということに触れておきたいと思います。
 『力士漂泊』を書いた宮本徳蔵は、力士の起源を2、3世紀のモンゴル辺りとみていますが、日本では、西暦642年(皇極天皇元年)に、古代朝鮮半島百済から来た使者を饗応するため、飛鳥の宮廷の庭で相撲を見せたという史実が、文献で確認されているそうです。
 734年、聖武天皇の代には、初めて天覧相撲が行われたといわれています。聖武天皇は諸国の郡司に対して、強い力士を選んで貢進するように勅令も出しており、国家儀礼として宮中で行われる相撲「相撲節会」が正式に形作られていったのです。「すもうせちえ」と読みますが、相撲は「すまい」と読まれていたことから、「すまいのせちえ」とも読みます。
 平安時代に入った頃から、天覧相撲は毎年恒例となり、833年、仁明天皇の頃になると、「相撲節会というのはただ単に娯楽遊戯のためではなく、武力を鍛錬するのが、中心の目的である」と勅令を出し、諸国のすぐれた相撲人を探し求めるようになりました。
 このようにして、相撲は、天皇に認められ、宮中儀式となり、そして国家的な文化として隆盛を極めるようになったといえるでしょう。
 平安時代、相撲は民間各地でも豊作祈願の農耕の儀式として行われていましたが、宮中で相撲節会として扱ってもらっていなければ、やがて廃れてしまい、続いていなかったかもしれません。実際に、その後、相撲は危機に瀕することもあったのです。
 天覧相撲に救われた伝統
 12世紀になると武家社会が到来し、相撲は宮中から、武士の手に渡り、戦のために鍛錬するという武芸の一種のような性格が強くなっていきました。室町時代になると、いろいろな文化、芸能が起こり、芸能文化としての相撲は段々衰退していき、野蛮なものだと思われるようになっていくのです。
 しかし、戦国の英雄、織田信長が相撲好きで、上覧相撲も行われるようになり、また見直されます。豊臣秀吉もそれにならいました。江戸時代になると、寺社仏閣を建てる、橋を建てるという名目で、営利目的の相撲の興行が起きるようになりました。これを勧進相撲といいます。
 平和で、力のある外様大名が中央政治に関与する機会が殆ど無かった江戸時代には、各藩の大名が強い力士を探して、それぞれ抱え、藩の名誉を競うようになったようです。年に何度かある江戸、京都、大坂であった相撲の大会に出場させるわけです。たとえばいまの青森県津軽家や鹿児島県の島津家は、本当に強い力士を探すのに熱心だったそうです。こうした熱心な大名家の領地だった土地には、いまでも輩出する力士の数が多いのです。
 ちなみに、相撲に土俵が生まれたのは江戸時代だという説があります。土俵がない時代の相撲は、力士の周りに人が集まって相撲を観るために、力士双方が四つに組んで、どちらかが倒されるまで続けなければならず、なかなか勝負がつきませんでした。気が短い江戸っ子は、いつ終わるか分からない相撲を観ていられなくなり、土俵をつくるようになったというのです。
 相撲の歴史では大きな進歩というべきでしょうが、一方で、土俵ができたことによって、立ち合いに変化が生まれ、力と力のぶつかり合いが必ずしも行われなくなっていったという一面もあります。現役当時の私のように、猫だましをしたり、八艘跳びをしたりする「卑怯」な力士には、いいことだったかもしれません。もちろん、これはある種の冗談というか、土俵がなかった時からみたらそう見えるということで、いま、それをしている力士が卑怯ということではありませんが…。
 それはともかく、宮中から舞台が移っても、相撲と皇室との関わりは消えませんでした。明治時代、天皇が京都から江戸に移る時、京都の力士達は菊のご紋の陣羽織を着て先頭に立つことを名誉としたそうです。文明開化で西欧のものを取り入れるようになると、相撲はまた室町時代のように野蛮な競技だとみられるようになり、裸になることすら憚られるようになったのですが、そのとき、相撲を救ったのは明治天皇でした。
 明治17年、芝延遼館で天覧相撲が行われ、明治天皇がご覧になったことで、一気に相撲が見直されるようになったのです。もし、ここで天覧相撲が行われていなかったら、時代とともに相撲はなくなっていたかもしれません。
 天覧相撲とともに、相撲という伝統文化が残った大きな理由に丁髷があると私は思います。明治後、世の中の人はみな、丁髷を切ったのですが、相撲界だけは丁髷を残しましたが、これは今考えると、重要だったのではないかと思います。相撲というのは丁髷をつけているから神々しく見える。丸坊主の太った男が土俵に上がって闘っても、それほど神々しく見えないのではないでしょうか。
 言い換えると、皇室によって守られた相撲が存続することで、丁髷という伝統技術も残されたということなのです。一度、丁髷をやめれば、そこで髷を結う床山は必要なくなります。そうすると床山の持っていた伝統技術もなくなるのです。復活させようとしても、もうできません。丁髷を結える人がいなくなってしまうのですから。こう考えると、皇室の存在は相撲の持つさまざまな伝統文化、技術を守っていたともいえるでしょう。
 身を乗り出された昭和天皇
 昭和天皇は大変な相撲好きでいらしたことが知られていますが、昭和天皇のご存在が、大相撲を現在の形にしたと言っても過言ではありません。
 まず、力士にとって最高の名誉である天皇賜杯。大正14年、昭和天皇が摂政宮でいらしたときに、赤坂の東宮御所で台覧相撲が行われましたが、このときの御下賜金で摂政盃(優勝賜杯)が作成され、これが現在の天皇賜杯につながっているのです。
 また、天皇賜杯をいただくのに、大相撲を行う団体はきちんとしておかなければいけないということもあって、財団法人となる動きは加速し、大日本相撲協会が認可されるのです。これが現在の公益財団法人「日本相撲協会」へとつながっていくわけです。
 昭和天皇はありがたいことに戦後も40回にわたり、蔵前、両国国技館にお出ましになり、大相撲をご覧になりました。東京では年3場所ありますが、3場所ともご覧になった年も何度もあるわけです。
 天覧相撲といえば、昭和50年5月場所、麒麟児と富士櫻戦が有名です。麒麟児と富士櫻はお互いにまわしを取らずに突っ張るタイプの力士で、いまの力士に多いタイプとは違って、押せなかったからといって、はたかず、突っ張り合いで勝負するのです。テレビ中継では、100発を超える突っ張り合いを、昭和天皇が身を乗り出されて、香淳皇后とご一緒にご覧になる姿が放映され、非常に印象的でした。
 天覧相撲では、この両力士が激突することが多かったように思います。本当かどうかは定かではないのですが、相撲協会も天覧相撲になると、わざわざ麒麟児、富士櫻戦を用意したのではないかといわれています。
 プロ野球の天覧試合では、巨人・阪神戦で、巨人の長嶋茂雄選手が逆転サヨナラホームランを打った映像が有名ですが、私たち力士は、天覧相撲になると、何か不思議な力をいただくのではないかと思えるのです。
 ひ弱な日本人力士たち
 大相撲は、現在の日本社会に大きな影響を受けています。日本社会の縮図と言っても過言ではありません。たとえば、日本の若者はひ弱になったとか、内向きになったとか、そういうことが言われますが、大相撲も最近、強いのは外国人ばかりで、つまらなくなったという声をよく聞きます。
 いま大相撲を支えているのはモンゴル人なのです。モンゴル人がいるからこそ、私たちは横綱の土俵入りが見られるわけです。彼らの目的は何か。日本の大相撲界に入って、そして早く強くなって、お金を稼いで、祖国の両親、家族の面倒を見るということです。勝てるようになるまで、帰れない。そういう強い気持ちが、日本人の力士と違ってあるわけです。
 朝青龍から聞いた話なのですが、朝青龍の父上は、息子に、どういう気持ちで相撲に臨むべきか、このように教えたそうです。「相手のことを、自分のお母さんのことを殺した犯人だと思って闘え」と。これを聞いた時、日本人力士は勝てないなと思いました。
 それに比べて、このごろの日本人力士には「3~5年やってだめなら、田舎に帰って何か仕事を探せばいいかな」と考えている力士がたくさんいるのです。力士の親も変わってきました。昔は、息子が相撲界に入るとなると、親も「強くなるまで帰ってくるな」と送り出したものですが、いまの親は「苦しかったら、すぐ帰ってきなさい」「何も我慢することはないのよ」と送り出すのです。そうすると、すぐ帰っていきます。ひどいのになると、朝来て夜には帰ってしまうのもいるのです。
 これは、相撲界だけなのでしょうか。企業の社長と話していても、「最近の若いのはすぐやめていくんだよね」というのです。「どうしてですか」ときくと、「いや、『理想の職場じゃなかった』というんだよね」というのです。どんな世界でも、いいところと悪いところがあります。みんな、我慢をしながら、仕事をしていくのになあと思います。
 相撲界に外国人が増えるのは、やはり国際化、グローバル化の影響であり、もはや止めようもないことです。外国の力士を排除すべきという意見もありますが、これも難しいと思います。もし、そういうことでもすれば、外交問題に発展するでしょう。モンゴル政府は本当に怒ると思います。
 ただ、その一方で相撲が日本の伝統文化、伝統芸能であり、神事であるということも忘れてはならないと思います。相撲をオリンピック競技にしてはどうかという声も出てきていますが、五輪競技になれば、スポーツの国際的基準にあわせるために、相撲の伝統的部分がどんどん失われることになるでしょう。私はそれは、決していいことだとは思いません。
 ずぶ濡れになってお見送り
 なぜ、大相撲がここまで続いたのかというと、日本に天皇がいらしたから、日本に皇室があったからだと思うのです。
 明治時代に相撲が廃れかけたときに、明治天皇が天覧相撲を行って下さった。昭和天皇が何度も国技館に足を運んで下さり、大相撲を見守って下さった。そして今上陛下も何度も国技館に足を運んで下さいました。
 クラシック音楽が宮廷音楽として発展したのと似ていますが、相撲という文化を発展させたのは天皇・皇室のご存在なのです。相撲界には谷町という存在がありますが、皇室は、大相撲の精神的な谷町であるというと、言い過ぎでしょうか。
 しかし、相撲に限らず、皇室のご存在を精神的支柱とし、その中で発展してきた伝統文化は多いはずです。同じようにさまざまな伝統文化が、皇室のご存在によって生まれ、維持され、発展してきたはずです。そういう意味では、天皇・皇室は、伝統文化を守る大きなシステムであるともいえるのではないかと、私は考えています。
 私たち相撲関係者は、皇室への敬意を決して失いません。相撲界の先輩から聞いた話ですが、昭和天皇崩御された時、大相撲の親方、力士は、ご遺体が運ばれるのを、土砂降りの冷たい雨の中をずっと立って待っていたといいます。いつ到着されるか分からなかったこともあり、はじめは、みな傘を差してお待ちしていたのですが、当時の相撲協会の二子山理事長が「傘をとれ」というと、力士がみなズブぬれになりながら、頭を垂れて、ご遺体を見送ったそうです。私は、この話を聞いた時、本当に胸が熱くなりました。
 私は、相撲界に携わる一人として、皇室の弥栄を心よりお祈りして参りたいと考えております。
 (構成/月刊正論編集部・菅原慎太郎)
 舞の海秀平氏 本名は長尾秀平。昭和43(1968)年、青森県生まれ。日本大学経済学部卒業。平成2年、大相撲出羽海部屋入門。基準の身長に足りず1度目の新弟子検査に不合格。頭にシリコンを入れ1カ月を過ごし、2度目の検査で合格。3年3月新十両、9月新入幕。最高位小結。11年に引退後は大相撲解説者、スポーツキャスターとして活躍。」
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🏞94)─3─清国の『海国図志』。天保の改革の一つが戦争準備(海防強化)であった。〜No.351No.352No.353  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ペリーの黒船艦隊来航で狼狽した幕府を嘲笑う現代日本人には歴史を語る資格はない。
   ・   ・   ・   
 事実の歴史を教訓・鑑として熱心に学んだのは日本民族日本人である。
 漢族系中国人や朝鮮人は、事実に基づいた嘘偽りのない歴史などには興味がなく、自分が信じたい真実に基づいて捏造・歪曲・改竄した歴史を学んだ。
 漢族系中国人と朝鮮人は「歴史を大事にする」とはウソである。
 日本民族日本人は、漢族系中国人や朝鮮人に比べて詳細な記録を書き残し、現代の日本人とは違って後世の為に古文書を大事にした。
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 2019年9月12日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 〔近世篇〕
 1840──アヘン戦争の余波
 前回見たように、ぜいたく取締を徹底して行ったのが天保の改革でしたが、この改革にはもう一つの側面がありました。海防の問題です。それは明治維新に繋がっていく問題でもあります。
 1825年に異国船打払令が出たことはお話しましたね。
 しかし、アヘン戦争(1840年)で清(中国)が連合王国(イギリス)に負けたとの情報が日本にもたらされると、これはえらいことやで、あの大国の清がボコボコにされたんやからなと、幕府の政策は急回転していきます。
 早くも40年に高島秋帆という長崎の砲術研究家からレポートが出されます。高島家は長崎の裕福な商家で、代々の役目として町年寄をつとめるかたわら、長崎奉行所の鉄砲方の仕事にも就いていました。
 洋式砲術の威力を知り、ネーデルラント(オランダ)商館員に西洋砲術を学んでいた高島秋帆は、アヘン戦争での連合王国と清の軍事力の差は大砲にあると報告したのです。
 翌年、幕府は秋帆に徳丸原({とくまるはら}現在の東京・高島平)で、老中たちの臨席のもと、ネーデルラントから輸入した大砲や鉄砲による砲術演習を実施させました。
 高島秋帆自身は、鳥居耀蔵の讒言(ざんげん)によって陥(おとしい)れられますが、幕府は43年に大筒組を創設します。
 天保の改革の砲声
 幕府も、大砲などを近代化して守りを固めないとあかんで、とわかっていました。これが天保の改革のもう一つの側面です。
 前回、水野忠邦復古主義的、農本主義的な改革の中身を見ました。
 その一方で、水野忠邦は、深刻化する海防問題に対応するため、先進的な西洋の科学技術を学ぶ蘭学者を積極的に登用していました。
 鳥居耀蔵に代表される保守派(反蘭学派)と高島秋帆などの改革派(蘭学派)、両方の支持者を政権基盤に取り込んだことで、水野忠邦の政権は不安定な構造になったことを、藤田覚さんは『幕末から維新へ』で指摘しています。
 42年、幕府は異国船打払令を撤回して薪水(しんすい)給与令を出します。異国船が来たら、必要なものは補給してやれというものです。
 これは新任のネーデルラント商館長が、連合王国は日本に軍艦を送って交易を要求し、戦争も辞さない姿勢だという情報をもらしたことから、大慌てで決定したものです。
 また、千葉県の印旛沼の開削工事を始めます(1843年)。
 大消費都市の江戸は、大坂からのお米や物資を回してもらってご飯をたべていました。
 大坂からの輸送の船は、浦賀水道から江戸湾に入って荷揚げしていました。もし江戸湾を押さえられたら船荷が入ってこなくなり、江戸はあっという間に干上がります。一週間ももたないといわれていました。
 そこで、水野忠邦津軽海峡を通って、東回りで船を回し、銚子港に荷を揚げ、利根川を経由して印旛沼から検見(けみ)川という流通バイパスをつくろうとしたのです。
 また新潟を直轄地にして新潟奉行を置いています。北への備えですね。ネーデルラント商館長に蒸気船や蒸気機関車を輸入できないかという打診もしています。
 だから水野忠邦は出世欲の塊だっただけではなく、自身の政治に確かな目的があって、政策判断をしていたのだと思います。失脚してすべてパーになってしまいましたが。
 『海国図志』のものがたり
 面白いことに『海国図志』という本が、1850年に日本に入っています。この本には、アヘン戦争をめぐるいきさつがありました。
 連合王国東インド会社はインドでアヘンを製造し、ひそかに清で販売していました。清のアヘン吸引者は200万人以上に達します。
 密輸入量が増えると、1827年には清の貿易収支が赤字になり、銀が流出し始めます。その額は清の歳入の4分の1にも上りました。
 39年、林則徐がアヘン対策の臨時特命大臣(欽差{きんさ}大臣)になり、海外交易の唯一の港であった広東({カントン}広州)へ陸路をはるばると下ります。
 中央のエリート官僚である林則徐には、道中で有力者たちの接待攻勢が待ち受けていましたが、心遣いは無用と断り、代わりに毎晩勉強しました。洋書を買い集め外国語が読めに自分の代わりに学者に読ませ、耳学問で勉強していたのです。
 広東到着後、すぐにアヘンを厳しく取締り、連合王国の貿易監督官と対決して200万斤のアヘンを没収、すべて廃棄しました。
 連合王国は仰天しました。
 中国の役人といったら、賄賂を渡せばオッケーだったのに、今度のやつはどうも違うで、というわけです。
 だからアヘン戦争を始めると、林則徐が守っている広州は避け、北京のすぐ近くの天津に軍艦を集めて『北京を攻撃するで』と大砲で清の皇帝を脅し、林則徐を新疆へと左遷させました。そのうえでアヘン没収に対する莫大な賠償、香港の割譲などを清に請求して、南京条約を結びます。
 林則徐は、自分が集めた文献を友人の政治学者、魏源(ぎげん)にキャッシュとともに渡します。これを中国人が読めるよう翻訳して欲しい。俺は今度はロシアの勉強をせなあかんと言い残して、新疆へ去っていきました。魏源も林則徐は去っていったわけですが、貰ったお金で遊んで暮らしてもいいのに、この人も偉くて、林則徐の依頼を果たします。
 こうして44年に完成したのが『海国図志』50巻です。52年には100巻っまで増補しました。本書の序文で魏源は、外国の技術を学び、中国の富強を図るのが目的だとはっきり書いています。それは林則徐の志でもあったのでしょう。
 『海国図志』は、中国や西洋の地理書をベースに、国際法やヨーロッパから見た中国について、また様々な書籍や新聞記事などの翻訳によって編集されていました。
 生命保険と明治維新
 ……
 林則徐が洋書を集めて来いと部下に命じたとき、部下が『政治や軍事の本ですね?』と問うと、林則徐は『違う。全部や』と答えたそうです。
 連合王国と戦おうと思ったら、ヨーロッパ全体を理解しなければ勝てないと考えていた。
 林則徐は自分の集めた文献を漢文で誰でも読めるようにしておけば、いつか役に立つと考えた。素晴らしい志ですよね。
 1950年に日本に入った『海国図志』はキリスト教に触れる部分があるので禁書になりましたが、ペリー来航の53年にまた輸入され、今度は幕府も許可して中身をみんなが研究していきます。
 佐久間象山は魏源のことを『海外の心の友よ』と呼び、横井小楠は、『海国図志』からアメリカの民主政治について学んでいます。吉田松陰も獄中で読み、外交について学んだことを松下村塾の塾生らに伝えています。西郷隆盛もこの本で海外情勢を知りました。
 ここで勉強した西洋の知識が明治維新に繋がっていくので、明治維新は林則徐の志を継いだものといえるのです」
   ・   ・   ・   
 日本が、清国やムガル帝国あるいはインカ帝国アステカ王国の様に外国勢力に味方する裏切り者が出現すれば、日本は滅亡し、日本人は奴隷にされた。
 事実、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は日本人を奴隷として売買して金を稼いでいた。
 徳川幕府がもっとも恐れたのは、キリスト教の宗教侵略であった。
   ・   ・   ・   
 日本が恩義を感じるのは、満州族の清国であり、『海国図志』の林則徐と魏源であり、現代の中国や中国人ではなくまして中国共産党ではない。
 中国共産党は、ファシスト中国(中国共産党)同様に清国を打倒した革命勢力である。
   ・   ・   ・   
 武士は、外国に行った事がなく、外国人に会った事がなく、外国語を聞いた事もなく当然話せなかったが、現代の日本人よりはるかに国際状勢に通じていた。
 庶民でも、軍事知識や最新兵器についても現代の日本人より多少の知識を持っていた。
 当時の日本人、武士から庶民(百姓や町人)、賤民や部落民までが、外国の侵略から日本天皇神州日本を守る為に武器を取って戦う決意、死ぬ覚悟を持っていた。
 つまり、当時の日本人は現代の日本人とは別人のような日本人であった。
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 昔の日本人は、現代の日本人と比べてあまりにも想像力が優れ、先取り精神から時代の先を行きすぎて失敗する事が多かった。
 その好例が、改革派であった田沼意次水野忠邦である。
 いつの時代も、改革派は保守派によって潰された。
 昔の改革派は、現代の愚かしい革新派やリベラル派とは中身が根本的に違う。
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 現代の革新派やリベラル派には、歴史を学び語る資格はない。
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 革新派やリベラル派が、日本改造の為にイデオロギーで創作した戦後の歴史教育・歴史教科書は、失敗作に近いほどの欠陥作である。
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 日本には喫緊の外国からの脅威として存在していたのは、北から侵略してくるロシアであり、攻防の最前線が北方領土四島であった。
 徳川幕府は、北方領土四島防衛の為に東北諸藩に守備兵派遣を命じていた。
 ロシアの侵略から北方領土四島を武力で守る、それが江戸幕府・日本国の基本国防戦略であった。
 明治維新における近代化は、ここから始まっている。
 北方領土四島を放棄するという事は、日本の近代化は失敗であり、無意味であったと認める事である。
 二島返還論や領土半分返還論も、同様に日本の歴史を否定する事である。
   ・   ・   ・   
 江戸幕府は、アヘン戦争を教訓として軍備強化を始めた。
 良識ある大名・武士から庶民にいたるまで、アヘン戦争の顛末を知るや国防の必要性を痛感して行動した。
 アヘン戦争の教訓を、他人に言われなくても自分で考え自ら行動して生き残ったのが日本であり、どうするべきかを考えても行動せず崩壊したのが清国(中国)であり、永遠的思考停止状態で助言されても嘲笑い行動する事を拒否して自滅したのが朝鮮であった。
 近代化に、日本が成功し、中国や朝鮮が失敗したのは当然の事であった。
   ・   ・   ・   
 日本が生き残れた最大の原因は、侵略者が提示し金、利益、利権、美女美男などの賄賂を受け取って日本天皇や日本国を売り渡す裏切る者・売国奴が一人もいなかった事である。
 この点でも、昔の日本・日本人と現代の日本・日本人とは別人のような日本人である。
 現代日本には、自分の幸福、自分の命、金、利益、利権、美女美男で日本天皇と日本国を裏切る日本人が少なからず存在する。
 つまり、自分の金儲けの為なら日本天皇と日本国を外国に売り飛ばそうとする日本人が確実に存在する。
 売る相手は、中国共産党である。
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 何故、日本が生き残り清国(中国)と朝鮮が滅んだのか、その原因は儒教にあった。
 日本の儒教は、日本儒教陽明学及び諸派儒教論語儒教=異端派儒教であった。
 中国や朝鮮の儒教は、中華儒教朱子学=正統派儒教であった。
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 現代の日本と日本人は、バカバカしいほどの無知蒙昧・無能無策で自滅した朝鮮ににてきている。
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🌈17)─1─日本文化の真髄は精神・心・魂を鎮める息の文化である。〜No.33  

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 2018年12月20日号 週刊新潮「『深呼吸』は大間違い!
 『肺炎』から身を守る
 『呼吸筋ストレッチ』
 ヒントは『茶道』『華道』・・・『誤飲性肺炎』を防御
 『桶狭間』で『信長』を勝たせた『能』トレ
 『口呼吸』が『認知症』を招く!
 気持ちを落ち着かせるべく深呼吸をする。それが却(かえ)って身体のバランスを崩すことに繋がりかねないというから驚く他ない。信長を桶狭間で勝たせたのは能による呼吸調整法だった、口呼吸が認知症を招く・・・専門家による目から鱗の『呼吸論』。……
 本間生夫
 人間は全く飲まず食わずでも数日は生き延びることができます。しかし、呼吸が止まると数分で死んでしまう。その意味では、呼吸は食事より大事なのです。
 一分間に15回、一日に2万回、一年に730万回。これは凡(おおよ)その数ですが、我々は『空気の出し入れ』を一生に亘(わた)って続けています。呼吸には『良い呼吸』と『悪い呼吸』があり、老化のカギを握っている。
 皆さんは普段、自然に呼吸しているから、その有難さに気づいていません。知らず知らずのうちに呼吸機能が落ち、衰えていくというのは悲劇的です。しかし、呼吸機能はとれーにんによって、ごく簡単に強化することができます。いくら年を取ってからでも遅すぎるということはない。後で触れますが、体調が良くなり、疲れにくくなり、気持ちが安定していくのです。
 今年の7月、『すべての不調は呼吸が原因』(幻冬舎新書)を上梓しました。この記事はそこからエッセンスを抽出した内容となっております。もっと詳しく知りたい方は、拙著をご参照ください。
 ……
 呼吸筋を鍛えるべし
 ……
 人生の成功につきもの
 ……
 源平合戦の『能』の最後の場面には、戦いが終わって夜が明けてくる、その緊張感が手に取るように伝わってくる箇所があります。
 〈春の夜の 波より明けて敵(かたき)と見えしはむれゐる鷗(かもめ) 鬨(とき)の声と聞こえしは 浦風なりけり高松の 朝嵐(あさあわし)とぞなりにける〉
 非常に心地良いリズムです。英語でやっても意味がないんですね。
 ……
 人生の成功に『良い呼吸』はつきもので、アスリートならずとも大事な瞬間の前には呼吸をしっかり整えているものです。呼吸には『不安定な自分』を『いつも通りの自分』に戻す働きがあり、そういった呼吸の力を日本人は経験的によく知っていたのではないでしょうか。例えば、織田信長は勝負所でいつも、能の『幸若舞(こうわかまい)』を舞っていました。
 〈人間50年、 下天(げてん)のうちを比べれば、 夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり〉
 本能寺の変で舞ったかは定かではありませんが、桶狭間の戦い前夜に舞い謡ったことは『信長(しんちょう)公記』に記されています。
 去年、私はNHK『歴史秘話ヒストリア』の信長特集に出演しました。たった2,000の兵力で今川義元率いる4万の軍勢を破った、そもとき一体・・・ということですね。信長はいわば勝負曲だった幸若舞で呼吸を落ち着かせ、集中力を高めた。能楽のリズムには呼吸を深くゆっくりと安定させる働きがある。そうすると不安も解消される。番組のディレクターに、『信長って一般には非常に強くて理想的な武将という印象があると思うけど、これを紹介したら、常人と変わらなくて不安ばかりの人間ってことになっちゃうよ』って言ったら、曰く『いや、それでいいですよ』と。
 10年のギャップを克服
 生きるというのは、『息の出し入れ』の繰り返しに行き着きます。呼吸を突き詰めようとしたのは何も信長に限りません。書道、茶道、華道、香道、剣道、柔道、空手道など、『道』のつく文化はどれも呼吸や間合いを大切にしています。
 茶道や華道をはじめ、日本の伝統文化を築いてきた先人は、無駄なものを全てカットしていき、『最後に残るもの=呼吸』をうまく活かしてこその人生だとよく分かっていたのではないでしょうか。
 私は20年ほど前から能を科学的に研究し、自ら『オンディーヌ』というタイトルの能を作り、パリで公演もしました。とても好評を博したものです。面(おもて)をかけ、感情を表に出すことのない能では、観ている人にそれを伝える手段は『息づかい』に限られます。感情の昂ぶりを示す場面では呼吸が激しく乱れる。息づかいだけで『生きること』を表現しようとしているこのになる。この点、能は呼吸を突き詰めてきた日本人の到達点、究極の表現形態だと言えるのかもしれません。西欧のスタイルであれば態度で示すところを能は呼吸で表す。そういった『内的表象』は西欧にはない。だからとてもウケるんです」
   ・   ・   ・   
 日本における無言の感情表現、意思の疎通、コミュニケーションは、世界共有の大陸式ボディー・ランケージ(身振り言語)ではなく、息の緩急をつけた出し入れによる呼吸言語であった。
 呼吸言語は、中国の京劇などの古典演劇や少林寺拳法太極拳などの武芸に通じる所がある。
 日本民族日本人は、言葉による感情表現・意思の疎通・コミュニケーションは下手である。
   ・   ・   ・   
 日本文化の「息」とは、科学的論理的な呼吸とは違い、中国や朝鮮にはない呼吸法である。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、心が折れやすくひ弱でストレスに弱かった為に、殊更に精神力を鼓舞する必要があった。
 その心の弱さを隠す為に、根性・忍耐・我慢などという精神主義を声高に叫んでいた。
 心が萎えやすく自信がない為に、縁起を担ぎ、占いや迷信を信じていた。
 日本民族日本人は、臆病で、怖がりで、心配性である。
   ・   ・   ・   
 現代に日本人は、昔の日本人とは別人的な日本人である。
   ・   ・   ・   
 日本列島には、花鳥風月プラス虫と水のせせらぎの音、苔と良い菌が生成する空気などで生み出される1/fゆらぎやマイナス・イオンが充満している。
   ・   ・   ・   
 自然環境風土は、日本列島と朝鮮半島・中国大陸とでは別世界的に違し、そこで生まれ育った人間も違う。
 よって、日本民族日本人・琉球人・アイヌ人は、漢族系中国人や朝鮮人とは根本的に異なる。
   ・   ・   ・   
 息の文化は、1980年代を境に、昔は伝統文化として根付いていたが、現代は消え始めている。
 息の文化を破壊し消滅させてきたのは、「個人、自由、人権」の戦後教育である。
 つまり、日本独自史観を否定したキリスト教価値史観、マルクス主義価値観、中華儒教価値観史観である。
   ・   ・   ・   
 日本が、甚大な自然災害などで法秩序が機能しなくなっても公序良俗で社会治安が守られ、無政府地帯・無法地帯・犯罪者横行地帯にならず暴動・略奪、暴行・強姦が起きないのは、伝統的な「息の文化」が日本列島・日本民族日本人にしっかりと根付いているからである。
 阪神淡路大震災東日本大震災の被災地での日本人の身の処し方は、子供でも理解し行動する極普通な当たり前の事であった。
 息の文化は、憲法や法律ではなく、宗教の律法や掟でもなく、哲学・思想・主義主張とも関係なく、それらとは別次元に存在する。
   ・   ・   ・   
 縄文時代を入れれば数万年という日本民族の歴史で例外とされているのが、関東大震災朝鮮人惨殺、南京攻略後・シンガポール攻略後の敵性人虐殺などの数例である。
 そして、日本人を奴隷として中世キリスト教会や白人キリスト教徒商人に売った戦国時代である。
 現代日本は、その例外に入るのかもしれない。
 つまり、日本は急速に朝鮮化・中国化しつつある。
 その現れが、キレやすい老人や若者、悪質なクレーマー、あおり運転、イジメ、虐待、感情の制御ができない、SNSの悪質な正義、などなど深刻な社会問題化し始めている心の病・精神の崩壊である。
 そこには、伝統的息の文化は存在しない、というより消滅している。
   ・   ・   ・   
 悪しき呼吸で、悪しき言葉を垂れ流す心穢れた卑しい日本人が、実社会やインターネット社会で病原菌・バイ菌のように増殖し、日本を回復不能な状態へ崩壊させる方向へと追い込みつつある。
   ・   ・   ・   
 息の文化は日本だけの独自文化であって、朝鮮や中国の文化とは無関係であり、朝鮮や中国には存在しない。
 日本独自の息の文化を形成し成熟させたのは、インド発祥の仏教である。
 インドを出た仏教は、中央アジアや中国を経、各地の宗教・文化・学問・風俗で変化しながら日本に伝来し、日本でさらに変種仏教に変貌して根付いた。
 変種の日本仏教が、息の文化を完成させた。
 日本の息の文化は特段に優れた文化ではなく、甚大な自然災害が多発する日本列島で必要であったから生み出されたに過ぎず、自然災害が少ない中国・朝鮮やその他の大陸地域で通用するとは限らない。
 むしろ、通用しない事の方が多い。
 つまり、日本の息の文化は世界を救わない。
   ・   ・   ・   

🏞118)─1─西郷隆盛と大久保利通が倒幕派に転向したのは水戸天狗党が原因であった。元治2(1865)年〜No.479No.480 ㊸ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 武士道とは、死ぬ覚悟もって「命を粗末にしない事」と「戦う敵に対して敬意を払う事」であった。
 武士道は、日本にあって中国や朝鮮にはない、そして昔の日本にはあったが現代日本にはない。
   ・   ・   ・   
 弱い者(女性や子供、老人や病人・障害者)を虐め泣かすのは、男の恥、武士・サムライの風上にも置けない心卑しき卑怯者、人間失格
   ・   ・   ・   
 日本のテーブルゲームは、将棋と囲碁であって、勝ち負けのチェスでもなければ、賭け事の麻雀でもトランプでもなかった。
 子供から大人まで好んだのは、敵の駒を奪い自分の手駒として敵を倒す将棋である。
 将棋には、無駄な駒・無益な駒・無意味な駒などは存在せず、全ての駒が有用な駒・有益の駒・役立つ駒であり、裏切りの駒や不忠の駒は一つもない。
 歩の駒で玉の駒を取って勝負を決める事もある。
 駒は、全てが生きた駒であって死んだ駒はない。
   ・   ・   ・   
 2019年10月号 WiLL「歴史の足音  中村彰彦
 西郷と大久保はなぜ倒幕派となったのか
 幕府は安政5年(1858)6月19日に日米修好通商条約を締結すると、年の変わらぬうちにオランダ・ロシア・イギリス・フランスともおなじ条約(安政五ヵ国条約)を結び、開国に踏みきった。
 同時に国内には尊王攘夷論が大流行し、孝明天皇をはじめ再鎖国を主張する声に満ちた。藩として尊攘派が多かったのは、東の水戸藩徳川家と西の長州藩毛利家であった。
 水戸藩のことはひとまず措(お)いて長州藩の動向を眺めると、吉田松陰安政5年13日、天皇の勅を奉じない幕府は『討滅誅戮(とうめつちゅうりく)』すべきだ、と論文『大義ヲ議ス』の中で主張したことが目につく。
 その遺志を継ごうとした高杉晋作久坂玄瑞は志半ばにして倒れたものの、薩長同盟を締結した桂小五郎(のちの木戸孝允)も松陰の弟子筋だから、今も松陰が教えた松下村塾跡に『明治維新胎動の地』碑があるのもゆえなしとしないのだ。
 対して慶応2年(1866)1月21日、この長州藩と討幕を最終目的とする薩長同盟を結んだ薩摩藩島津家の代表は、家老小松帯刀および大久保一蔵(利通)、西郷吉之助(隆盛)。大久保と西郷は、若き日から薩摩藩内の尊攘派『誠忠組』のメンバーだった。
 しかし薩摩藩国父として同藩を指導していた島津久光公武合体派であり、文久2年(1862)4月23日には伏見の寺田屋に集結して攘夷戦に走ろうとしていた誠忠組と諸藩の尊攘激派に対して8人の鎮撫使を派遣。剣の達人ぞろいの鎮撫使は死者1、重傷3を出しながら誠忠組に死者6、重傷2(のち切腹)の犠牲を強いたほどであった(寺田屋騒動)。
 元治元年(1864)7月19日、御所に押し寄せた長州軍を会津藩を主力とする公武合体派諸藩が迎え討った禁門の変に際しても、西郷吉之助を侍大将として薩摩藩会津藩と協力して長州軍を敗走させることに成功している。
 ではその島津藩は、いつ、なにゆえに公武合体派から離脱し、長州藩と手を握ることを選んだのか。そう考えた時に思い出したのは、水戸藩天狗党の運命にほかならない。
 水戸藩は前藩主徳川斉昭が尊攘思想を鼓舞したことから世の注目を浴びたものの、大老井伊直弼の暗殺までおこなうようでは支持者も消える。同藩尊攘派門閥派で佐幕派でもある諸生党が激化するうち浮き上がった存在となり、元治元年3月27日、藤田東湖の四男小四郎ほか六十余名が筑波山に挙兵。天狗党と称し、10月に家老の武田耕雲斎を領袖に抑えると、11月1日から西上の途に就いた。
 幕府の許可なく勝手に兵を動かす行為は『武家諸法度』違反の大罪だ。だが、天狗党将軍後見職として京にいる一橋慶喜徳川斉昭の七男、のち15代将軍)に尊攘の志を愬(うった)えればわかってもらえると信じ、長州藩と提携(ていけい)して攘夷戦に討って出ることを夢見ていた。
 しかし、幕府が天狗党追討軍の将に指名したのは皮肉にも慶喜当人。信濃路、美濃路を経て越前の敦賀(つるが)まで行軍してきた天狗党の818人は、まさか斉昭の子に弓を引くわけにもゆかず、慶喜が総攻撃期日とした12月17日、加賀藩の兵に投降した。
 幕府が加賀藩から受け取った降人(こうにん)たちの警固を彦根、福井、小浜の3藩に託したところ、3藩は敦賀の商人から鯡(にしん)肥料を入れる土蔵16棟を借り上げ、それぞれ約50人ずつを押しこめた。酷い光景が展開したのはここからだ。
 『窓は板でふさがれたので暗室の空気が淀み、敷物はわずかな筵(むしろ)のみ。便所は蔵の中央に桶を置き、便所通いの下駄もなく、臭気鼻を衝(つ)き、食は握り飯一個を日に2回のみ。これまで一同袴を着用していたのに入れられる時に袴、帯から下帯まで取り上げられ、松の厚板の足枷(あしかせ)をはめられた』(史談会編纂『波山始末』を要約)
明けて元治2年(1865)2月4日から23日の間に、降人たちの処分が決まった。
 武田耕雲斎、藤田小四郎以下の352人は斬罪か死罪。百余人は遠島、軽輩187人は追放。常陸国内で投降した1,000からも43人が斬首か切腹、数百人が獄死し、安政の大獄以来の水戸藩の死者は1,500人を超えたほど。
 この処刑を知った時の、大久保の反応は左のごとし。
 『その取り扱い苛刻を究め、衣服を剥ぎ裸体になし、獣類の扱いにて、実に聞くに堪えざる次第なり』(『大久保利通日記』上巻、同年2月11日の項を要約)
 西郷は、幕府批判を行動によって示した。降人のうち軽輩35人は薩摩藩が預かることとされたのだが、西郷は流罪とされる者たちの赦免を主張。それでも流罪にするなら幕命をお引き受けいたしかねる、と宣言してみせたのだ(「幕命拒絶の薩摩藩上書控」、『西郷隆盛全集』第2巻)。
 こうして幕府を見限った西郷と大久保は、雄藩連合による新国家の建設を模索し、長州藩との提携に踏むきるという思考回路をたどるのだ。
 慶喜は自分を慕って敦賀まで来た天狗党を無情にあしらったことにより、将軍職に就任する前から人望地に墜(お)ち、政治的生命はいくばくもなくなっていた、と考えてよい。」
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 文久1(1861)年 ロシア海軍の太平洋艦隊司令官リハチョーフ大佐は、日本海をロシアの庭とし、艦隊の航行を自由にする為に対馬海峡を支配すべきだと提案した。
 リハチョーフ司令官は、日本領対馬を軍事占領するべく軍艦ポサドニック号を派遣した。
 ロシア政府は、中央アジアでイギリスとの対立を深めている今、日本との関係を悪化させる事は好ましくないとしてリハチョーフの提案を却下した。
 海軍大臣ニコラエヴィチ大公は、今後のアジア戦略の上から、イギリスの出方を確かめる目的で日本領対馬への艦隊派遣を許可した。
 リハチョーフ司令官は、対馬を軍事占領するべくポサドニック号を派遣した。
 世界的軍事大国ロシア帝国は、日本を欧州並みの対等国家と認めてはいなかった。
 ロシア人も、キリスト教価値観による宗教的人種差別主義から、非白人の日本人を非文明圏の薄汚い「黄色いサル」と馬鹿にし差別していた。
 ロシア側の意図は、極東に根拠地を獲得して不凍港を確保し、対馬を植民地として南海航路の安全を図る事であった。真の狙いは、日本が本格的に開発の手を加えていない蝦夷地・北海道を、アイヌ人の土地であるとして領有化する事であった。
 日本の敵は、イギリスやフランスやドイツではなく、隣国の超軍事大国ロシア帝国であった。
 当時の日本人が恐れていた白人種の侵略とは、ロシア帝国の侵略である。
 サムライ日本人が、日本を植民地にし、日本人を奴隷にしようとしていると警戒したのも、ロシア帝国であった。
 2月 対馬事件。ロシア軍艦ポサドニック号は、イギリスが対馬を軍事占領しようとしていると言い掛かりを付けて、対馬浅茅(あそう)湾に侵入して停泊した。
 ロシアは、軍事力を使って日本領対馬を自国領にしようとしていた。
 軍事力を伴わない話し合いだけの平和解決は、無意味であった。
 外交交渉は、軍事力があってこそまとまる。
 軍事力を否定した平和的な話し合いで外交交渉が解決できる考える者は、無知無能な一般常識なバカである。
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 文久2年(1862) 1月 坂下門外の変。2月 和宮降嫁。4月 薩摩藩島津久光兵一千とともに上京。8月 生麦事件
文久3年(1863) 5月 長州藩下関で外国船無差別攻撃。7月 薩英戦争。8月 会薩同盟。 八月十八日の政変 七卿落ち
元治1年(1864) 6月 池田屋事。7月 禁門の変。8月 第一次長州征伐。四カ国連合艦隊下関攻撃。
慶応2年(1866) 1月 薩長同盟。6月 第二次長州征伐。家茂死去。12月 一橋派の徳川慶喜将軍宣下。孝明天皇死去。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 討幕運動 とうばくうんどう
 江戸幕府権力を、武力をもって倒すことを目的とした幕末の政治運動。その先駆は、尊王攘夷(じょうい)激派が企てた挙兵である1863年文久3)の天誅組(てんちゅうぐみ)の変、生野(いくの)の変であるが、有力な政治運動となるのは、尊王攘夷運動の挫折(ざせつ)・転回以後のことである。すなわち、この年の八月十八日の政変と薩英(さつえい)戦争、翌年の四国連合艦隊下関(しものせき)砲撃事件を経験した尊王攘夷派は、政治運動の理念の面でも、形態の面でも大きく転換した。攘夷を実行するためにも軍備を洋式に改める必要があり、そのためには外国文化を摂取せねばならぬと、薩長をはじめ諸藩は欧米諸国に接近することとなり、貿易を行い、武器・艦船を輸入し、留学生を密航させた。また欧米列強の圧力に対抗するため、幕府専制、幕府・諸藩割拠の体制を改め、統一国家を樹立する必要が認識され、そうした改革を実現する手段ないし道具として、天皇の権威を政治的に利用しようとする態度が強まった。こうして尊王と攘夷の本来の理念がもつ政治指導力が失われると、勅諚(ちょくじょう)の権威のもとで活躍できた脱藩の士や浪人などの志士の勢力が衰え、大藩の尊王攘夷派が藩権力を握り、藩の財政と軍事力に依拠し、その圧力をもって幕府専制の打破が策された。しかし討幕運動の進路は紆余曲折(うよきょくせつ)であった。将軍・幕府の存在を否定することは、大名に対する藩士の忠誠観念を崩壊させ、民衆の反抗を引き起こす危険があり、他方で幕府と諸藩との内戦は、欧米列強の植民地化政策を推進させる機会となる心配があった。幕府権力を武力をもって倒す(討幕運動)か、幕府権力の存続を認めながら、その専制体制を武力を使わずに改革する(大政奉還運動)か、この二つの政治路線は対立しながらも絡み合っていた。
 1865年(慶応1)幕府が反幕派の拠点である長州藩を討つべく第2回長州征伐を企てると、翌年正月、薩摩藩の代表西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)は、土佐脱藩士坂本龍馬(さかもとりょうま)・中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の仲介によって、長州藩の代表木戸孝允(きどたかよし)らと、両藩が協力して討幕を行う密約を結んだ。6月幕府軍長州藩軍との間の戦闘が始まったが、幕府は諸藩の大軍を動員しながらも、当初の敗戦に気がくじけて、早くも8月には休戦を令し、幕府の権威を自ら失墜させた。これは、財政窮迫に悩む諸藩が戦争に消極的であり、この空気を背景に薩摩藩が出兵を拒絶したこと、またこの内戦を機に、フランスが幕府を援助し、これに対抗してイギリスの薩長両藩を支援する動きが露骨となったことが、武士層の間に内戦回避の空気を強めたことによるが、また民衆の反封建闘争が高まったことも強く作用していた。この年には米価をはじめ物価の暴騰や、戦争に伴う負担の加重に悩む民衆が、江戸・大坂とその周辺地帯を中心に、全国で一揆(いっき)・打毀(うちこわし)に立ち上がり、江戸時代を通じて最大の高揚を示した。
 こうした情況のなかで、討幕の薩長同盟密約を結んだ薩藩の西郷・大久保らは、1867年(慶応3)6月に土佐藩代表後藤象二郎(ごとうしょうじろう)と会し、後藤の主張する大政奉還実現のための薩土盟約を結んだ。しかしその裏面では、長州藩・芸州(広島)藩の討幕派や岩倉具視(いわくらともみ)ら討幕派公卿(くぎょう)との間で、武力倒幕の計画を進めた。後藤は西郷の同意を得て、10月前藩主山内豊信(やまうちとよしげ)の名で大政奉還の建白書を幕府に提出、これを受けて将軍慶喜(よしのぶ)が大政奉還の上表を天皇に提出した。しかしその前日および当日、大久保らがかねて画策していた薩摩藩主父子宛(あて)と長州藩主父子宛の討幕の密勅が岩倉から手交された。それにもかかわらず慶喜の上表は勅許された。大政奉還の実現は、中央政局における土佐藩指導力と徳川氏の勢力の温存を意味した。そこで薩長両藩はこれに対抗するため、12月9日に宮中クーデターを行い、幕府の廃止と王政復古を天皇の名で宣言させ、徳川氏の勢力を排除した天皇政権を樹立した。ついで翌年正月の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いをきっかけに戊辰(ぼしん)戦争を起こし、武力倒幕を実行した。これには薩長側の挑発が働いていた。戊辰戦争は9月の会津落城を経て、1869年(明治2)5月の箱館(はこだて)陥落をもって終わった。これによって薩長両藩の指導力は確立したが、同時に諸藩全体の解体化が促進され、この年6月の版籍奉還、翌々年の廃藩置県によって、統一国家建設の土台が築かれた。[遠山茂樹
 『遠山茂樹著『明治維新と現代』(岩波新書) ▽石井孝著『明治維新の舞台裏』(岩波新書)』
 [参照項目] | 尊王攘夷運動 | 戊辰戦争
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 現代日本人は、「武士の子孫で、武士道精神を持った賢く優れた人間である」とはウソである。
 現代の日本には、武士道・士道など存在しない。
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 武士は、性根が悪い、根性が腐っている、あくどくえげつない庶民を信用せず嫌いそして差別した。
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 日本民族を呪い天皇制度打倒や天皇家・皇室廃絶を目指したマルクス主義者(共産主義者)は武士ではなく、如何に学識・良識・見識があり聡明であっても日本の歴史を語る資格はゼロである。
 日本の歴史において、共産主義マルクス主義)は有害なだけである。
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 当然の事ながら左翼・左派・ネットサハは日本民族日本人の武士・サムライではないが、同様に右翼・右派・ネットウヨクも武士・サムライではない。
 そして、左翼・左派・ネットサハは、百姓や町人などの庶民でもなく、賤民や部落民でもない。
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 日本人の本当の祖先とは、卑しく悍ましく残酷・残虐な、百姓・町人などの庶民や足軽・雑兵などの下級人である。
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 明治時代は本当の武士が存在したが、大正時代以降は武士はいなくなり猿真似の武士が増えた。
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 昭和時代にはニセ武士が跋扈し、平成時代には詐称武士が溢れた。
 特に、高学歴出身知的エリートには真の武士は存在しない。
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 昭和前期、戦時中に武士がいたとしたら、日本軍人の本分として昭和天皇に忠誠を誓って人道貢献をした日本人将兵である。
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 武士道において、武器を捨て降伏した者、武器を持たず戦う意志のない者、女性・子供・老人など弱者、百姓や町人などの庶民に対して、無慈悲な殺傷を行い武功とする者は武士の風上にも置けない卑怯者と弱虫と侮蔑もって貶み、仲間内から除け者にした。
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 武士は、如何なる時も、卑怯を嫌い、清く爽やかに生きそして潔く死んだ。
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 戦場で強奪・強姦など乱暴狼藉を働いたのは、正規の武士ではなく臨時雇いのニセ武士か足軽や雑兵など軽輩者達であった。
 そして最も悍ましいかったのは、庶民であった。
 百姓は、戦場で死んでいる武士から武具甲冑から衣服まで剥ぎ取り丸裸にして穴に放り込み、逃げ回る武士を落ち武者狩りで惨殺して褒美を貰った。
 町人達は、戦場が見える安全な場所から酒宴を開いて観戦し、戦場荒らしの百姓が持ち込んだ略奪品を安く買い取り武士に高値で売って稼いでいた。
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🌈12)─1─文化がヒトを進化させる。〜No.23 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2019年8月24日 朝日新聞「読書
 『文化がヒトを進化させる』 ジョセフ・ヘンリック〈著〉 今西康子訳
 評・長谷川眞理子
 集団の知識共有し、まねる能力
 ヒトという動物は、確かに優れている。この地球上のほとんどに分布し、石油などエネルギー源を自ら持ち、各地の生態系を改変している。では、一人の人間はどのくらい賢いのだろう?
 私はと言えば、電車の運転はできないし、コンピューターを使ってはいるものの、たいしてプログラミングなどできない。最近は、車が壊れたって自分で直すなんて不可能だ。人間全体としては、もっとも優れた生物という評判を謳歌(おうか)しているのだろうが、私が一人で無人島に放り出されたら、ほとんど何もできない。本書には、こんな例が数多く収録されている。
 ヒトは、強力な牙も爪もなく、か弱い存在だが、認知的にも、この瞬間に見たことをどれほど覚えているか、それに基づいてどれほど素早く、ある特定の作業ができるか、というような能力を個別に測ると、実際、大学生よりもチンパンジーの方が優れている。
 この個人としての無力さと、ヒト集団全体としての圧倒的な力との差は何なのだろう?それは、文化の力である。ヒトが世界を制覇できるのは、文化を持っているからだ、という意見は、かなり古くから提唱されてきた。しかし、文化とはいったい何で、どうしてこれほどヒトを強力にできるのだろう?
 文化とは、ある社会集団の構成員が共有している知識の総体である。食物をどのように獲得するか、個人間の争いをどのようにして仲裁するか、死後の世界はどんなものだと思うか、何をしてはいけないか、どんな服装をするべきか、すべては、文化が決めている。それは、長い時間をかけて、その集団全体が蓄積し、改良してきた知恵の集大成である。だから門外漢が急によその土地に行っても生きられないのだ。
 では、なぜヒトだけがこんな文化を持つことができるのだろう?
 文化を持つために必要な能力とは何か?ここで初めて、文化というものを獲得し、それを改訂を加え、さらに次世代に伝達していくために必要な、ヒト固有の生物学的本能の話になる。そう、赤ちゃんの真っ白な心に文化が何かを描き込んでいくと言っても、描き込めるための本能が赤ちゃんには必要なのだ。それは他者の表情や行為を観察し、お手本となる人のやり方をまねようとする本能だ。
 だから、ヒトの優秀さのもとを解明しようとすれば、ヒトがどのように他者の知識を共有し、他者から学ぶのかの詳細を解明せねばならない。ヒトの行動や心理の説明としては、長らく、遺伝か環境かという、いわば不毛な論争が続いていた。本書は、私たちが今、この論争に最終的な決着をつけることができる可能性を示している。

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