💖12)─2─河南省大飢饉。日本軍は戦争をしながら飢餓民約1,000万人を助けた。日本軍の敵兵虐殺事件。1940年No.57No.58No.59No.60   

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 日本軍は飢餓民約1,000万人を保護して食料・医療品を分け与えた。
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 上杉謙信「戦いは武力で決めたい。塩の輸送を断って、敵を屈服させようとは思わない」
 サムライは、上杉謙信の様に生きたいと念じていた。
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 日本軍は、同胞が敵軍との中間地点にいるとき攻撃をためらい、戦車で同胞を轢き殺してまで進撃する事に躊躇する。
 だが、中国人はためらう事が全くない。  
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 軍国日本は、時効無き戦犯国家として有罪判決を受けている。
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 中国人は、決して感謝をしない。
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 河南省の飢餓民達を助ける為に戦死した日本人兵士は、靖国神社の祭神として祀られた。
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 東條英機A級戦犯靖国神社)は、総理大臣と陸軍大臣を兼務し、1942年9月1日から16日まで一時外務大臣を兼ねた。
 河南省の大飢餓を、東條英機は知っていた。
 大元帥昭和天皇が、知っていたかどうかはわからない。
 日本の皇室は、国際社会と良好な関係を作り、国際世論の共感を得る為に、傲慢と取られない様に人一倍気を遣いながら、国際赤十字を通じて慈善活動という国際貢献を行っていた。
 歴代皇后は、明治時代から国際赤十字と深い関係を保ちながら、他国の王室以上に多額のボランティア資金を寄附していた。 
 日本陸軍は、情報戦・謀略戦に勝つ為に、連合軍の暗号解読に全力をあげていた。
 中国戦線では、国民党と共に中国共産党の極秘暗号電報を傍受し、その大半を解読して、抗日中国軍や紅軍の情報を得ていた。
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 軍事費が急増した。
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 2006年4月9日 産経新聞「一九四二年、大飢饉で河南省の農民を救ったのは、日本軍だった。そんな歴史の真実をとらえ、ロングセラーとなっている中国小説がこのほど日本で翻訳出版された。劉震雲さん著、劉燕子さん翻訳の「温故一九四二」だ。同小説は日中戦争の最中の一九四二−四三年、河南省を襲った干魃による被災民三千万人、餓死者三百万人という大飢饉の状況を農民、蒋介石ら指導者、米国人記者、日本軍の立場から多面的に描き出した。飢饉の原因は天災だけでなく、中国軍の容赦ない軍糧のとりたてのせいでもあった。その中で、日本軍は餓死寸前の農民に軍糧を放出した」(一部抜粋)
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 2013年9月3日 msn 産経ニュース「中国外務省 「抗日戦争は正義が邪悪に勝った」
 中国外務省の秦剛報道官は3日、中国が「抗日戦争」と位置づける日中戦争終結68年に合わせ、「抗日戦争の勝利は、正義が邪悪に勝ち、光明が暗黒に勝った偉大な勝利だ」などとする談話を発表した。
 秦氏は「日本の侵略の歴史を覆すためのいかなる企ても、被害を受けたアジア諸国の人民や国際社会の断固とした抵抗と反対に遭う。日本側に、歴史と未来に対して責任ある態度を取り、真剣に反省を示し、実際の行動でアジアの近隣諸国と国際社会の信用を得るよう促す」と強調した。
 「節目の年」とはいえない今年、談話を発表した背景には、尖閣諸島沖縄県石垣市)をめぐって対立する日本を牽制(けんせい)する狙いがあるとみられる。(北京 川越一)」
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 2014年9月28日 msn産経ニュース「中国外相が国連で安倍政権批判「歴史は作り替えられない」「日本の侵略で死傷者3500万人超」[日中関係
 【ニューヨーク=黒沢潤】中国の王毅外相は27日、国連総会の一般討論演説で、「来年は反ファシズム戦争と中国人民の抗日戦争勝利から70年目にあたる」と述べた上で、「歴史は作り替えられないし、真実も歪曲(わいきょく)できない」と強調、名指しを避けながらも安倍晋三政権を批判した。
 王外相は冒頭、第2次世界大戦に言及し、「日本の軍国主義者による侵略で、中国の軍人や民間人に3500万人以上の死傷者が出た」と指摘。「歴史の事実」はすでに明らかになっているとし、「何が善で何が悪か」の審判も出ていると言明した。
 その上で、国際社会に対し、「正義や良心を一緒に擁護しよう。そうすれば、侵略を否定し歴史を歪(ゆが)めようとする者は隠れることができないし、何かを成し遂げることも不可能となる」と述べた。
 王外相は一方、沖縄県尖閣諸島の領有権問題を念頭に、「主権と領土の保全は順守しなければならない」と訴えた。
 シリアやイラクで台頭するイスラムスンニ派過激組織「イスラム国」については、「すべてのテロ活動に断固反対する。テロリストの脅威と対峙(たいじ)する国際社会を支持する」とした上で、「テロとの戦い二重基準があってはならない」と強調した。中国政府が新疆ウイグル自治区などで発生する少数民族による暴力事件を「テロ」と位置づけ、締め付けを一段と強化することに理解を求めた格好だ。」
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 中国人は、朝鮮人同様に、計算高い冷血な忘恩の民である。
 そして、他人の命に価値を持たず、人の命をゴミの様に扱い奪った。
 中国人。特に、中国共産党・中国軍・中国政府とその関係者を信用しても得る所は少ない。
 中国の指導者にとって、名もなき貧しい人民は虫けら同様に生きる価値は無いと見捨てていた。
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 ジャック・ベルデン「この様にして彼は、11の都市と4,000の村とを水没させ、200万の農民を宿無しにしたが、ともかく日本軍を停止させた」
 1941年の夏から秋にかて。ベルデンは、濁流に呑まれた地域の復興状況を確かめるべく訪れた。
 「来る日も来る日も、荒れ果てた土地、休閑状態の畑、朽ちて倒れかかった人の住まぬ家が並んでいるのを、道を歩きながら見ていると、気が滅入る思いがする。まだ酷い旱魃が起こっていないとこが少なくなかったので、なぜ畑を見捨てらているのかわからなくて困った。
 そのとき百姓達は、国民党の徴税吏と蒋介石軍の徴発吏達が収穫以上の穀物を要求する為に、祖先の田畑を立ち去ったのだ私に話してくれた。労働の果実が悉く取り上げられてしまうだけでなく、要求された税に収穫が追い付かない為に殴られたり牢屋にぶち込まれるのでは、どうして働く事が出来ようか」
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 『中国自然災害史』は、1912〜49年の間で、大洪水は65回、被災人口は延べ3億人、死者430万人と報告している。
 当時の総人口は、分かっている範囲で約4億人とされている。
 1930〜32年の3年間だけで1,000万人以上が餓死し、それ以降も毎年100万人単位の餓死者を出していた。
 被災者の多くは、幾らか安定していた、日本軍支配下満州に移住した。
 戦後。それらの中国人は、日本軍に強制連行され、奴隷的重労働を強制されて死亡したと言われている。
 そして、満州にいた日本人官吏や日本軍人の多くが戦争犯罪者として有罪とされた。
 ソ連は、60万人以上(一説に100万人)の日本人を戦犯としてシベリアに連行し、奴隷的重労働を強制して6万人以上を死亡させた。
 国際赤十字は、その事実を知っていながら見殺しにした。
 日本の左翼・左派などのマルクス主義者は、反天皇の革命闘士に洗脳する為に必要な行為として歓迎した。
 37年までの8年間で、大きな自然災害が7回発生し、全人口の約4分の3が何らかなの被害を受けた。
 戦後。被害は、侵略戦争を行った日本軍の悪逆なる犯行であると認定された。
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 中国は、儒教価値観の中に存在する。
 中国と朝鮮の儒教は、汗水垂らして働く人民を人間のクズと見下していた。
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 1940年代 中国共産党は、150万人の地主を虐殺して、私有財産を党員や人民に分配した。
 地主家の女性は、地主の夫・親・兄弟を人民の敵として糾弾できなければ、老婆だろうが少女であろうが容赦なく党員や人民で強姦した後に、陰惨な猟奇的な手口で惨殺した。
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 1940年9月30日 石井四郎軍医中将は、東条英機陸相宛てに「観点調弁価格に関する申請」という書類を送った。
 日中戦争で。抗日中国軍が、生物兵器を使っているかどうかを確かめる為に、「軍機保護上の処置」として夜間に汽車や自動車の屋根に寒天を取り付けて走らせ、寒天培養で細菌の有無を調べるという趣旨であった。
 だが、真の目的は別で、政府及び軍部内に潜むスパイがどれ程の情報収集能力があるかを確かめる事であった。
 もし、たわいない寒天隠密作戦が外部に漏れるとすれば、さらに最重要機密情報を紂王に報告する事は危険である、と言う事になる。
 事実。日本国内には、ゾルゲ・グループなどアメリカやソ連に機密情報を流しているスパイが幾つも存在していた。
 村田克己「(1940年頃)石井軍医大佐の案内で若松町の軍医学校の研究室を見学。支那事変の始まった昭和12〜3年頃、戦線の各地でコレラ菌が人為的に井戸に投げ込んであり、日本軍が被害を被った事。また炭疽菌という馬の体内に入ると一晩で死んでしまう恐るべき細菌がクリークに投げ込まれていた事。特に北満黒河付近で、ある国が炭疽菌をばら撒いた為に、三千数百頭の馬が一挙に死んでしまった例などを聞かされた。目に見えない恐怖の秘密戦である。石井大佐の話のよれば、長野県産品寒天をチリ国から大量に輸入するので何に使用するのか調査した所、某国へさらに輸出され細菌培養に使用されていることが判明した。諸君の中に北欧の国へ勤務する者があったら、例え一行でも細菌戦に関係するような記事など発見した時は是非送って欲しいと言われた事が印象ことのほか深い。この細菌戦予防のため『防疫給水部』を作られたのが石井軍医大佐であった」(『中野校友会会誌』第29号 1985年)
 軍国日本の生物・細菌兵器や毒ガス兵器の研究開発は、欧米列強の方が遙かに優れ、威力が強かった。
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 1941年 非日本軍占領地の河南省で異常気象が発生し、農産物は凶作となった。
 国民党は、被災民を救済するどころか、食べるのがやっとな農民に過酷な税を課し、暴力的に徴収していた。
 中国は、汗水垂らして働く農民を人間とは認めず、ゴマや菜種の様に搾り取れるだけ絞って捨てた。
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 1942年初頭 A級戦犯重光葵は、駐華大使として南京に赴任し、対中戦争の進展によって日本軍が必要がなくなった時には中国から撤退し、一切の利権を汪兆銘南京政府に返還するという、和平への行程表ともいえる「対支新政策」を推進した。
 東條英機首相も、中国との和平実現の為に重光案を支持した。
 5月 日本陸軍の総兵力は227万人で、南方に39万4,000人、中国に61万2,000人、満州に64万9,000人で、残りが日本内地と朝鮮にいた。
 資源のない軍国日本は、軍需物資を生産する為の資源を本土に運び(資源還送)し、生産した軍需物資を護衛のない輸送船団で前線に送っていた(海外展開)。
 日本軍は、物流としての兵站あるいは後方支援(ロジスティクス)を軽視した為に敗北したと言われている。
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 中国の民族主義とは、日本人では考えられないような人命無視の民族主義である。
 軍国日本は、中国の狂気的民族主義に敗北した。
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 秋 河南省で、干ばつと蝗(イナゴ)害によって農作物に甚大な被害が発生した。
 多くの貧困農村で、深刻な食糧不足となり、大飢饉が発生して餓死者を出した。
 本格な冬が到来すると、栄養失調の上に厳しい寒気で凍死者が続出して、犠牲者の数はさらに増大する恐れが予想された。
 河南省の被害は、国民政府が種もみまで根刮ぎ抗日戦用に強奪した為に甚大な数に上った。
 被災地の地主や資産家は、自分一人の財産や食糧を守る為に数百人から数千人のみんへいを雇っていた。
 民兵は、被災民を虫けらの様にあしらい助けなかった。そして、雇い主が無能で力が無いとわかるや反乱を起こし、馬賊や盗賊となって雇い主一家を虐殺して財産を全て奪った。
 能力のある雇い主は、部下の反乱を防ぐ為にアヘン中毒にし、殺人や強奪や強姦を許した。
 極東アジアの治安と秩序は、法律では無く、犯罪で維持されていた。
 国民党軍は、被災者への救済を放棄し、地元民を衰弱しているにもかかわらず軍用工事に強制連行した。
 中国共産党は、人民を味方に引き入れるべく、被災民の救済に力を入れた。
 人民は、国民党への怨嗟の声をあげ、中国共産党を支持した。こうして、華北に解放区が拡大していった。
 飢餓難民が、食糧の乏しい解放区延安に移動して、貧弱な共産党政府に救済を求める事はありえなかった。
 農村は、匪賊や強盗が横行して無政府状態となっていた。
 農村からの都市への食糧供給が滞った為に、洛陽などで餓死者が出始め、北京や天津など華北全体にも影響が出始めた。
 農産物の価格は高騰し、43年5月には、1年前に比べて5倍以上に跳ね上がった。物資の供給も低迷し、諸物価も高騰した。
 貧困層はさらに困窮の度を深め、飢えた市民によって都市を中心に治安は悪化した。
 親日派南京政府は、味方を増やす為に救済に乗り出した。
 洛陽などの都市に溢れた飢餓難民や病人は、国際赤十字キリスト教会などの慈善団体が炊き出す食べ物に蟻の様に群がった。
 この年は、四川省は豊作となった。
 重慶の国民党政府は、飢餓難民を救済する事はありえなかった。
 事実、政府高官や党幹部らは、暴利を得る為に,豊作で値崩れを起こしている四川省周辺の食糧を買い込んでいた。
 その為、食糧が豊富であるはずのな四川省は品薄となって、多くの貧民が餓死した。
 中国の権力者は、貧民を虫ケラの様にあしらい、貧民が死のうが、どうしようが関心はなかったのである。
 河南省の被害は、人口の3分の1である約1,000万人が深刻な飢餓に追い込まれ、300万人以上が餓死した。
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 クリストファー・ソーン「中国では日本軍の手による一般大衆の直接被害は、1941年以降は37〜39年に比べて少なくなったが、農作物と家畜の生産が1939年以降国民党支配地域で減少した。
そして河南省では1942年の春、夏の収穫の深刻な減少ののち、農村に飢饉が広がった ─ あるアメリカ人の報告によれば、『政府や軍の農民に対する苛酷な圧制のため事態はいっそう悪化した。国民政府下の小都市でも、しばしば身の毛もよだつような情況が見られた。あるイギリスの現地機関員が1943年6月、広東省から次の様な報告をよせいている。餓死者の数は着実に増えている……通報者の目撃したところからすると、ある地域では一日平均すくなくとも100人にのぼるだろうという事である。彼は城外の村への短い道中の間に、放置されたままの死体を8体見たといっていた。×××××……』」
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 河南省は、この世とは思えないおぞましい地獄と化していた。
 人災が天災を誘発し、人災が最悪な状況を招いた。
 中国の災害は、中国人が招いた人災である。
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 セオドア・ホワイト「死体があった。
 洛陽を出てから1時間も経たぬうちに、雪の中に横たわる死体があった。死後1、2日だろうか。その顔は頭蓋の周りに萎んでいた。たぶん若い女性だったに違いない。雪はその目の上にも降り積もっていた。埋葬されぬまま、ついには鳥や犬が骨までしゃぶるのだろう。……
 ちょうど近頃の世論調査員がやる様に、毎晩私は土地の官吏と話したあと、克明に記録を付けた。そして私が得た結論は、中国政府がその人民を死に至らしめた、或いは愚かにも人民を餓死させたという一点に尽きた。政府は、抗日戦を戦っていた。その為に、情け容赦なく税を取り立てた。
 それも、政府が自国の紙幣を信用せず、戦地の政府軍は穀物などで税を取り立てて軍を維持する様に支持されていたのだ。
 ある将校は私にこういった。『たとえ、民衆が死んでも土地は中国のものだ。だが、兵士が飢え死にしたら、土地は日本軍に奪われてしまう』……
 河南省では、軍隊は土地の収穫高を上回る穀物税を取り立てた。文字通り田畑を空にしたのである。軍隊は、穀物が余っている地域から穀物を運んでこようとはしなかった。つまり、人々の食生活を完全に無視したのだ。……
 この様な悲惨を私は見てきたが、耳にした最悪の話しは人食いの事実があるという事であった。
 人間が人間を殺して食べるなど、見た事もなかったし、まして人肉を味わった事などない。
 だがこれは、論駁の余地のない事実と見えた。
 たいていの場合、人肉を死体から取るというのが、言い訳になっている。
 我々が記事にしようとした件はどれもこれも、それが弁解の手であった。
 ある村では、母親が2歳になる実の子を茹でその肉を食べた事が発覚した。
 二人の息子を絞殺して食べた為に、告発されたという件もある。
 また、……
 ……
 ……
 私の最終的な計算では、500万人が死んだか、死につつあると言う事になった」(『歴史の探求』)
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 劉震雲「(中国人は)誰ひとり蜂起せず、ただ身内のあいだで共食いする民族には、いかなる希望も見いだせない」)(『人間の条件 1942』)
 蒋介石は、アメリカのタイム誌が記事で取り上げるまでは放置し、掲載された後は、国際批判を恐れて見せ掛けの支援を行った。
 海外から送られてきた支援物資の大半は、重慶の政府高官・占領地の軍幹部・地方の官吏によって横領された。
 被災地で献身的に活動をしている国際赤十字社や宣教師達には、支援物資運搬は日本軍の攻撃を受けて強奪されて届けられないと報告した。
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 アメリカ政府から反日工作として派遣された宣教師達は、各地のキリスト教会を開放して被災者を受入れ、地元の役人、軍人、有力者に救済を訴えたが彼らは見向きもせず動かなかった。
 反日派のアメリカ人記者は、生き残った飢餓民が僅かな食べ物を巡って殺し合い、子供がいる親は他の子持ちの親と子供を交換して食べるといった、地獄の様な惨状に国民がいるのに救いの手を差し伸べない中国政府(重慶政権)に義憤を感じてタイム誌に現地リポートを寄稿した。
 蒋介石は、アメリカ世論に動かされ渋々わずかな食べ物を被災地に向けて送った。
 が。救援物資は、役人や軍人、地元の有力者達が途中で横領した為に、飢えて命の危険に晒されている被災民には届かなかった。
 蒋介石や政府高官・軍上層部は、救援物資が被災者に届かない事は知っていた。
 儒教的価値観に生きる中国人は、自分の身内・家族・一族でない他人、能力も財力もない弱者の小人である民衆が数百万人が餓死し数千万人が飢えに苦しもうと痛痒を感じなかった。
 アメリカは、何とかしても被災者を救済しようとしたが、中国政府の主権を無視し、許可なく直接救援物資を送るわけには行かなかった。
 中国政府と中国軍がアメリカの救援物資輸送を許可しなかったのは、救援物資が日本軍や親日派南京政権に奪われる事を危惧したからである。
 戦争勝利を最優先する上で、敵を利するより、自国民を犠牲にする事を選んだ。
 その選択は、「勝てば全ての事は許される」という、戦乱と虐殺の歴史を持つ冷血な中国では当たり前の認識であった。
 それが、中華世界の儒教的常識であった。
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 中国の偽善者は、儒教道徳から、人民を人間以下の虫けらと軽蔑し、踏みつぶして殺しても痛痒も感じない。
 中国人は、自国の文明や文化を狂喜して徹底破壊した。
 日本軍が河南省に入った時。飢えた地元民は、中国軍に食糧を奪われ餓死するしかなかった所を助けられ、生きる望みだであとして侵略者・日本軍を歓迎した。
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 タイは、大洪水に襲われ、農産物生産は4分の1に激減した。
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 11月1日 大東亜省設置。
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 数百万人の飢餓難民が、黄河を下って1億人の飢餓民を抱える北京や天津へ移動すれば、華北が食糧不足で大混乱に陥る事は火を見るよりも明らかであった。
 華北で、数千万人に膨れ上がった飢餓難民が、満州に大移動したら、満州帝国は崩壊する恐れがあった。
 数百万人の飢餓難民が、豊かな揚子江流域に移動すれば、通過する地域は混乱し、住民を巻き込み、難民は雪だるま式に膨れ上がって南京や上海へと流れ込む意外になかった。
 何れの方向に移動しても、混乱は避けられず、全員を救済する事はできなかった。
 難民が、暴徒や匪賊となって食糧を暴力的に漁れば、日本軍占領地と親日派政府の領域の治安が崩壊して収拾できなくなる事は明らかであった。
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 日本軍は、500万人以上を救う為に、ファシスト中国軍を排除して大量の食糧や医薬品を被災地に運び込んだ。
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 日本軍部にとっても、華北の崩壊を放置しては、中国戦線の破綻は火を見るよりも明らかである。その影響は、対米戦争にも深刻な影響を及ぼす恐れさえあった。
 支那派遣軍は、1,000万人以上の飢餓難民が省外に流失する事に危機感を抱いた。
 日本軍は、占領地の飢餓民には軍糧を放出して救済し、食糧を保障して餓死者を食い止めた。
 東條英首相は、華北に於ける深刻な食料問題を解決する為に、極秘で中国共産党との和解に動いた。
 南京政府汪兆銘は、協定違反であるとして激しく抗議し、軍部内の反東條派に秘密裏に支援を求めた。
 だが、現地軍は中国共産党支配地の農民の協力を得て食糧等を購入していた。
 反東條派の若手将校は、東條陸相の行動に反発して密かに暗殺計画を練っていた。
 支那派遣軍は、上海や北京などの都市部から大量の物資や食糧を強制徴用して被災地に送った。
 上海などでは物資が欠乏して物価は高騰し、日本軍への憎悪から、進んで抗日中国軍や連合軍に協力して情報を流し、破壊活動に参加した。
 その大半が、ユダヤ人であった。
 抗日中国軍は、日本軍の物資輸送網を攻撃し、物資を強奪して被災者に配り、被災者を反日軍兵士として加えた。
 陸軍の軍事予算は膨らみ、海軍と壮絶な予算獲得交渉をおこなった。
 戦費不足に苦しむ東條内閣は、さらなる窮地に立たされた。
 中国共産党軍の兵力は、国民党軍の攻撃を受け減少していた。
 解放区人口も、最盛期では約1億人いたが、あまりの貧しさ故に逃亡者が続出して半分以下に激減していた。
 中国共産党は、ソ連と良好な関係にある日本軍との直接対決を避ける為に、日本軍と農民の関係を黙認した。
 そして。農産物を日本軍に引き渡す見返りとして、日本軍支配地で都市部以外の地に解放区を広げる自由を得た。
 これによって、日本軍は都市と輸送網という点と線の支配に甘んじ、それ以外の広大な農村部を中国共産党に渡した。
 ベディントン准将(イギリス秘密情報局)「戦線を越えて中日間で沢山の交易が行われており、殆ど戦闘は無く、それも申し合わせでそうなっており、私もすぐに何かが起きているのか納得した」
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 イギリスの植民地であるインドに於けるベンガル飢饉で、300万人が餓死した。
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 1943年 陸軍は、大陸に駐屯している部隊に対して自活を通達した。
 日本軍は、欠乏する食料を補う為に、駐屯地内で農作物を栽培したり家畜を飼って食料の足しにした。
 日本人兵士の多くは、黙々と農作物を栽培していた農民であった。
 1月 三笠宮崇仁殿下は、陸軍大学の研究部部員を務めた後、コードネーム「参謀若杉大尉」として支那派遣軍総司令部の参謀となるべく南京に赴任した。
 1年間の勤務中に日本軍が行った蛮行の数々を見聞きし、その事実を『わたしの思い出の記』の中に記した。
 「私の信念が根底から揺り動かされたのは、実にこの1年間であった。いわば『聖戦』というものの実体に驚きはてたのである。罪もない中国の人民に対して犯した忌まわしい暴虐の数々は、今更此処にあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにも煽り立て、およそ聖戦とは思いも付かない結果を招いてしまった」
 「この失敗は軍及び日本政府首脳者に真剣な反省を促し、新たに対華新政策なるものが決定され、私が南京に在住していた1年間は、司令官以下この新方針の徹底に最大の努力をした」
 「新政策が発表されるや、軍司令官は直ちに『四悪』を禁止するという厳重な命令を下した。四悪というのは略奪、暴行、放火、強姦の事である。
 ある第一線の大隊長の言う事がふるっていた。今では敵のいた家は焼き払って進んだので、自分の大隊の第一線がどの辺りを前進しているかすぐ分かった。ところがこんど放火を禁ぜられてみると、第一線がどこにいるかさっぱり分からない、と。全く笑えないナンセンスであった」
 「聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけ離れたものであった事、そして内実が正義の戦いでなかったかあらこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるをえなかったのではないか」
 「多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。
 その実験に参加してある高級軍医は、かって満州事変を調査する為に国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果実を出したが成功しなかった、と語っていました」
 「彼らの対民衆、ことに婦人に対する軍紀はおどろくほど厳粛でありました。当時、日本軍人で婦女子に暴行する者がいる事に頭を悩ましていた某参謀は、『八路軍の兵士は、男性としての機能が日本人とすこしちがうのではなかろうか』と、真面目に話していました」
 春頃 三笠宮は、大会堂に軍幹部以下数百人を集めて、「略奪暴行を行いながら何の皇軍か。現地の一般民衆を苦しめながら聖戦とは何事か」と厳しく叱責した。
 4月 重光葵が新たな外相に就任した。
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 1943年5月9日〜11日 日本軍は、江南殲滅作戦に続いて常徳殲滅作戦を実行した。
 敵兵虐殺事件。日本軍は、軍民合わせて3万人弱を虐殺した。
 (週刊金曜日 2015年4月10日号)
 日本軍は、アジア太平洋地域では加害者であった。
 日本人兵士は、流血を好む殺人鬼として、中国人を大量に虐殺していた。
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 7月28日 勅令625号「大東亜戦争陸軍給与令及同細則」が定められた。 
 8月 辻政信は、南京総司令部第三課長として着任し、東条英機首相の了解を得て極秘で蒋介石との和解工作を始める。
 同時に、日本軍の秘密資金源となっているアヘン取引を中止させた。
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 三笠宮崇仁(たかひと)親王は、昭和18年1月から翌19年1月まで中国派遣軍総司令部付き参謀として中国に渡った。偽名として「若杉」と名乗った。
 昭和18年9月22日 三笠宮は、上海登集会所に幹部将校や参謀達を集めて、中国情勢を検分して日本軍の軍紀の乱れと日本軍兵士の残虐行為が目立つと指摘し、昭和天皇と皇国日本の名誉の為に綱紀粛正を厳しく求めた。
 話の内容は『若杉参謀挨拶要旨』としてまとめられ、影響力強いとして門外不出の資料とされた。
 「戦争指導の要請上言論は極度に弾圧せられあり若干にても日本に不利なる発言もなし或は日本を批判する者もたとえ真に日本を思ひ中国を愛し東亜を患ふる熱情より発するものと雖(いえど)もこれを遇(ぐう)するに日本人に存(あ)りては『売国』を以てし中国人に在りては『抗日』『通敵(つうてき)』或は『重慶分子』を以てせらるる今日一般幕僚に於いては大胆なる発言は困難なり」
 「『陛下が特にお命じ遊ばせられた云々』と言う者があるが『ヒットラー』『スターリン』等の独裁元首と異なる陛下はそれぞれの職務を兼ねられた人々を充分ご信用になりお委(まか)せになるなどあり中々御自ら大御心強く仰(おお)せられないのである。これが為に臣下の者は往々(おうおう)にして自分の最善なりと思つた事は即ち大御心なりと独善的錯覚に陥る事があるので充分慎む事が緊要である」
   ・   ・   ・   
 11月6日 大東亜共同宣言東條英機首相は、人種差別撤廃を主張し、欧米列強の植民地からの独立を明快に宣言した。
 出席した諸外国指導者は、アジアをアジア人の手に取り戻すべく共同で行動すべきである事を確認した。
   ・   ・    ・   
 ファシスト中国は、被災した自国民の救済より抗日戦争勝利を優先し、河南省に宣伝工作員を派遣した。
 宣伝工作隊は、被災した河南省に救援物資は届けず、「日本の敗戦は近い」ので降伏せず死ぬまで戦い抜くように説得して回った。
 飢えに苦しみ疫病にかかった中国人は、日本軍の救援を拒否して抗日戦を戦う者と日本軍の救援を受ける者に分かれた。
 戦後、日本軍の支援を受けた者の末路は不明である。
   ・   ・   ・   
 11月22日 カイロ会談。ルーズベルトは、蒋介石が裏で軍国日本と単独講和して戦線を離脱する事を恐れて、チャーチルの難色を押し切って蒋介石・宋美麗夫妻をカイロに招待した。
 反日強硬派のルーズベルトは、戦後の日本を三流農業国家に改善し、ファシスト中国(中国国民党)にアジアを任せる為に新しく作る国際機関(国連)の常任理事国入りを約束した。
 チャーチルは、蒋介石と協議して中国─ビルマ─インド戦域での重爆撃機の基地建設開始に合意し、東南アジア地域連合軍(SEAC)総司令官マウントバッテン卿に実行を命じた。
 ルーズベルトは、太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ大将に対し、B29で日本本土を爆撃する為にマリアナ諸島攻略を命じた。
 12月 アメリカ陸軍航空軍のアーノルド中将は、飛行場設営の場所を選定する為に先遣隊をインドに派遣した。


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最前線兵士が見た「中国戦線・沖縄戦の実相」―加害兵士にさせられた下級兵士

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中国戦線はどう描かれたか―従軍記を読む

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中国戦線従軍記

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華中作戦―最前線下級指揮官の見た泥沼の中国戦線 (光人社NF文庫)

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従軍看護婦物語    日赤看護婦の見た中国戦線 (光人社NF文庫)

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私の従軍中国戦線―村瀬守保写真集 一兵士が写した戦場の記録

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💖12)─1─河南省黄河堤防爆破と大洪水。溺死100万人以上。日本軍は中国人10万人以上を助け保護した。1938年〜No.53No.54No.55No.56     

なぜ中国人はこんなに残酷になれるのか -中国大虐殺史-

なぜ中国人はこんなに残酷になれるのか -中国大虐殺史-

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 中国では、人の命は鴻毛よりも軽く、価値は低かった。
   ・   ・   ・   
 作家・武田泰淳は、日本人将兵が中国人を虐殺していた事実を『従軍手帳』や小説『審判』を書き残した。
 国際社会では、日本軍の中国大陸に於ける虐殺、略奪、強姦が話題になっていた。
 日本人は加害者であり、中国人は被害者であった。
   ・   ・   ・   
 中国大陸を侵略した約200万人以上の日本軍兵士の中には、強姦や惨殺や略奪を行う犯罪者がいた。
 全ての日本人が善人ではなく、数多くの悪人・悪党もいた。
 日本人の中に一人でも悪人・悪党・犯罪者がいたのが、問題なのか?
 日本軍は全体として、戦争で敵軍と戦いながら、同時に、人助け、人道貢献も行っていた。
   ・   ・   ・   
 1938年 中国軍は、日本軍の進撃を食い止めるために黄河や長江の堤防を爆破し、30万人以上の自国民を溺死させた。大水害の原因は、侵略してきた日本軍にあると告発した。
 後退する中国軍は、井戸に毒やコレラ菌を投げ込み、被災地にペスト菌などをばらまいた。
 生物兵器は、ソ連から提供されたものであった。
 蒋介石「あとの事は、日本軍にやらせればいい」
 中国人は、自分の面子を守る為に、自分の失敗を認めないし、責任を認めない。当然、謝罪しない。
 それどころか、自分の面子を守る為に、自分の失敗による責任を他人に転嫁し、他人を非難中傷し、他人を殺害して口封じをおこなった。
 それが、中国人である。
 中国軍は、日本軍に対してイベリットびらん性毒ガスなどの化学兵器ダムダム弾など、国際法で禁止されている兵器を使用した。
 中国軍の兵器は、ソ連や西欧から供給されていた。
 日本軍は、惻隠の情が強いだけに、目の前にいる非戦闘員の被災者を放置できなかった。
 日本人兵士の大半が農民出身者であっただけに、被災した中国人農民の窮状に同情して支援した。食べ物や医薬品を与え、壊れた堤防を修復し、荒れた田畑を手入れした。
 日本人百姓は、相手から奪う事が苦手で、口数少なく田畑を耕し、作物を作って悦んでいた。
 日本人都市労働者は、組織の中で虐げられていただけに、口うるさく権利を主張し、相手からより多くの物を欲した。
 中国軍は、被災者の中に多くのゲリラを潜ませ、破壊活動を行った。 
 日本軍は、各地に潜む中国人ゲリラを炙り出して処刑した。
 この処刑は戦争犯罪とされ、多くの日本人兵士が戦争犯罪者として処刑された。
   ・   ・   ・   
 1938年 中国共産党は、革命本拠地である延安で中央委員会総会「第6期6中全会」を開催して、「党中央に服従しない者は斬り捨てる」というルールを決定した。
 毛沢東は、独裁的支配体制を確立する為に、ソ連派など反毛沢東派や態度をハッキリしない中間派を党中央から追放した。
 中華人民共和国を樹立した後、罪状を捏造して彼ら全てを家族諸共に大粛清した。
 第6期6中全会のルールは現代まで生きており、時の党最高指導者が独裁的支配権を確立する時に発動される。
 6月6日 日本軍は、河南省中部の開封市を占領し、交通の要衝である西の省都鄭州市を射程に入れた。
 蒋介石は、援軍を送る代わりに、日本軍の進撃を阻止する為に黄河の堤防を破壊し洪水を起こす様に命じた。
 6月7日 中国軍は、自軍が撤退するまで堤防爆破を延期した。
 だが、蒋介石は何度も爆破状況の確認を問い合わせた。
 蒋介石「日本軍は溺れる民を見捨ててはいけない。追撃をやめて彼らを助け、堤防も多分修復するだろう」
 「我々は逃げる時間を稼げ、おまけに日本軍が非道にも堤防を切ったと世界に喧伝できる」
 6月9日 第1回目の黄河堤防破壊。中国軍は、蒋介石の命令に従って、自国軍が撤退していないにもかかわず堤防を破壊した。
 6月11日午前 国民党系報道機関の中央社は、世界に向けて「日本の空爆黄河決壊」と報道した。
 夜 中国軍は、さらに堤防三ヵ所を破壊して大洪水を引き起こした。
 河南省安徽省江蘇省などで4,000以上の村が水没し、自国民に甚大な被害が出た。
 溺死は100万人以上、被災者は600万人以上。
 黄河の流れは、南側へ変わり黄海に注ぐようになった。
 田畑は甚大なる被害を受けて農産物の収穫が激減し、被災地は食糧不足となり、被災民を飢餓が襲った。
 6月12日 日本軍は、部隊に進軍を中止し、堤防の修復と洪水で被災した中国人難民の救助を命じた。
 日本人兵士達は、筏船百数十艘を出して10万人以上の中国人被災者を救助し、乏しい兵糧を分け与え、怪我人を手当てし、病人には薬を与えた。
 日本人は自然災害多発地帯で生きてきただけに、伝統的に、戦争は戦争、天災は天災とハッキリと区別し、戦争では殺し合っても、天災では敵味方関係なく助け合った。
 中国軍機は、日本軍による堤防の修復や洪水拡大の防水作業や中国人避難民救援活動などを妨害する為に、機銃掃射を行った。
 中国軍は、日本軍と共に同胞も容赦なく殺害した。
 助け上げた中国人被災民に食べ物と水を分け与え、病人には薬を投与し、怪我人には治療を施した。
 敵味方に関係なく怪我人や病人を看病する事は、明治以来の歴代天皇・皇后の御稜威であった。
 中国軍に殺害された中国人は、全て日本軍によって虐殺されたと報告された。
   ・   ・   ・   
 日本人の思考では、中国を絶対に理解できない。
 中国が理解できると自信を持って公言する日本人は、ある意味、日本人の頭脳ではない。
   ・   ・   ・   
 中国人水難者を助けて中国兵に殺された日本兵士は、靖国神社の軍神として祀られた。
   ・   ・   ・   
 ファシスト中国は、ソ連から譲る行けたコレラ菌ペスト菌などを九江などで撒いた。
 日本との戦争に勝つ為ならば、如何なる手段も、非人道的細菌及び毒ガス兵器を使用した。
 戦争に勝てば、全ての戦争犯罪が無罪化する事を知っていたからである。
 事実。細菌及び毒毒ガス兵器使用で罪に問われたのは、日本軍であって中国軍ではなかった。
 戦争犯罪として処刑されたのは、日本人将兵であって中国人将兵ではなかった。
 東京裁判は、戦勝国の罪ではなく敗戦国の罪を裁くと宣告していた。
 そので創作されたのが、第二回南京事件である。
 中国によって日本が被った、第1回南京虐殺事件、済南虐殺事件、通化虐殺事件、日本人居留民暴行・殺人・強姦事件、その他は証拠にする事を却下された。
 戦後も、「戦勝国無罪、敗戦国有罪」の原則に対して誰も意義申し立ては許されず、変更不能な絶対法理として守られている。
 その象徴が、国連の常任理事国5大国制度である。
   ・   ・   ・   
 6月13日 中国の各報道機関は「日本軍の暴挙」と喧伝し、各国の報道機関は中国側の報道を信用して日本を激しく非難した。
 氾濫した洪水を別の場所に流す為に、中牟付近に新たな堤防と河道を築いた。
 中国軍は、救援活動をしている日本軍を攻撃し、日本軍兵士や中国人を多数殺害した。
 中国側による、日本軍の攻撃で蒙った被害発表。中国人被災者は1,250万人で、死者・行方不明者は90万人以上。
 蒋緯国は、溺死した中国人民を「すすんで国に命を捧げた愛国者」と賛辞を与えた。
 世界世論は、中国の反日プロパガンダを信じて、侵略戦争を続ける軍国日本を激しく非難した。
   ・   ・   ・   
 軍国日本は、宣伝戦能力がなく、悪意に満ちた反日プロパガンダによって犯罪者に仕立て上げられていた。
 日本の汚名は、現代まで続いている。
 現代日本は、歴史的事実を知りながら、戦前の日本に押し付けられた「侵略戦争を起こした戦争犯罪者」という汚名を晴らそうとはしない。
   ・   ・   ・   
 何時の時代でも。中国人指導者にとって、庶民とは刈っても刈っても生えてくる雑草に過ぎず、虫けら以下の存在と見下し、命を奪っても良心の呵責に苛まれる事がない。
 それが。日本の異端派儒教にはない、中国と朝鮮の正統派儒教の教えである。
 日本と中国・朝鮮の儒教的価値観は、大陸と島国の認識差によって、水と油の様に交わる事はない。
 そして、人に対する認識も違い、扱い方も正反対である。
 日本の指導者・指揮官は、部下や庶民を救う為に罪を背負って、正当な理由があろうとも抗弁せず静かに処刑場に向かった。
 中国と朝鮮の指導者・指揮官は、自分一人が助かる為に、詭弁を弄し醜態を晒しながら逃げ回り、罪を部下に押し付け、大量の人民を犠牲にした。
 日本は、朝鮮とは違って、古代から「中国化」する事を拒絶していた。
 中国人民は、最も過酷な生活環境で生きる事を強要される為に、軟弱な日本人以上に強靱な精神力を持っている。
 中国人は、利己主義ゆえに忠誠心や愛国心が最も希薄で、利益をもたらさない支配者や権力者を裏切り者と憎悪し、油断すれば何時でも寝首を掻く機会を窺っていた。
 日本人は、自分の感情を殺し、自分の利益に目を瞑つても、「公」として集団の空気や世間の雰囲気を大事にした。
 中国人と朝鮮人は、公を無視し、他人を犠牲にしても、「個」の利益と自由を最優先に行動した。
 日本人は没個性で本心が見えずらいが、中国人と朝鮮人は個性が強く本心がわかりやすい。
 中国人と朝鮮人は、如何なる相手でも、如何なる理由があっても、面子を譲らない。
 日本人は、相手や理由によって、被害を蒙ろうとも体面を譲る。
   ・   ・   ・   
 6月15日 上海の日本軍は、古今東西、進撃する軍隊が自分で進路を塞ぐような戦略戦術は聞いた事はないと反論した。
支那側は目下しきりに黄河堤防決壊は日本軍の所為なりと宣伝に努めつつあるが、決壊地点と称される京水鎮には、まだ、日本軍は進出しておらず」
 後年。日本軍が行ったとされる、進撃する先の敵軍陣地や占領予定の都市に対する細菌兵器や毒ガス兵器も同様に愚行である。
 「支那側は、目下しきりに黄河堤防決壊は日本軍の所為なりと宣伝に努めつつあるが、決壊地点と称される京水鎮には、まだ、日本軍は進出しておらず」
 フランス急進社会党の機関紙『共和報』は、国民党を攻撃する為に、黄河堤防破壊と中国人避難民への攻撃は中国軍の自作自演であると報道した。
 国民党政府による1945年12月の被害発表。犠牲者、約32万人。
 中国共産党による1988年の発表。被害者、約89万人。『中国革命史辞典』
   ・   ・   ・   
 郭沫若「あの時、黄河の堤防は開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。我が方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実は我が軍の前線の将軍が命令によって掘り崩したのだった。
 我が伝統兵法に─『水、六軍をひたす』だった。
 しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、むしろ我が方の民間の生命財産が想像もつかぬ犠牲をこうむった」
   ・   ・   ・   
 ルシアン・ビアンコ「一般住民に対して、徴発と掠奪があまりしばしば行われたので、農民は日本軍よりも彼等自身の軍隊をさらに一層憎んだ。穀物を略奪されまいとして抵抗する農民を飢えた中国兵が殺したり、日本軍の進撃を免れる為に逃亡兵が村民を殺し、その衣類を自分が着込んで変装するという事も起こった。日本軍の進撃を鈍らせて鄭州の町を守る為に、政府は1938年に黄河の堰を開いた。
 すると、黄河は1世紀近く前から打ち捨てられたままになっていた古い河道を再び流れた。『思い切った』決定であったが、この為に、河南省東部の数十万の農民が命を失った。
 彼等は水に溺れ、或は飢えて死んだのである」(『中国革命の起源』)
 堤防破壊を実行した魏汝霖は、1982年に、蒋介石の命令で実行し、日本軍の仕業であると世界に宣伝した事を証言した。
   ・   ・   ・   
 中国軍は、6月26日と9月23日に揚子江の堤防を破壊して、日本軍の仕業であると発表した。
 国際世論は、中国の発表を疑う事なく信じて、日本を激しく非難した。
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 6月27日 延安の中国共産党は、6月15日に行われた御前会議の決定を知るや、華北各地の八路軍に日本軍が移動するまで宣撫行動を控える様に命じた。
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 10月26日 漢口占領。
 10月26日 武昌占領。
 10月27日 漢陽占領。
 周恩来朱徳が率いた中国共産党軍は、戦闘被害を免れた日本租界を襲い、軍需工場を破壊し、金になりそうな物は奪った。人を殺したかどうかは不明である。
 漢口の人口は約80万人であったが、戦闘前に60万人以上が安全地帯に避難し、残りの20万人はフランス租界と特別区(旧イギリス租界)に収容されていた。
 日本軍は、一般市民が逃げ込んでいる両地区を攻撃しないように気を付けながら、中国軍のみを攻撃し市内から追い出した。
 武漢三鎮では、南京事件の様な惨劇は起きなかった。
 日本軍は、両地区に逃げ込んでいる避難民を救援する為に大量の食料や医薬品を与えた。
 中国人避難民は、お手製の「日の丸」の小旗を振り、入城してきた日本軍を歓喜を上げ熱烈に歓迎した。
 日本軍は、武器を持って襲いかかってくる敵はころしたが、武器を持たない一般人や武器を置いて降伏する敵兵は保護し、怪我や病気をしている者は収容して治療を施した。
 キリスト教会や国際赤十字社は、日本軍の協力を得て戦争難民の救済活動を行っていた。
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 1939年 朝鮮と西日本の旱魃により、米の収穫が激減した。
 華北は、それ以上の凶作となり、大量の飢餓民を出していた。
 日本軍は、華北の食糧不足を解消する為に、各地の地主・商人・政府役人・軍人など特権階級に食糧の買い占めを禁止した。従わない者に対しては軍事力を行使した為に、反日感情が高まり、日本人に憎しから親日派は激減した。
 彼等は、冷静に、事実を基に話して理解してくれる相手ではなかった。
 話しをすれば全てが解決するというのは、幻想である。
 残念ながら、話し合いだけで平和が得られるものではないし、平和を守れるものではない。
 それは、中国の歴史が証明している。
 話し合いで全てが得られると思う者には、歴史は分からない。
 特に、中国の歴史は理解できない。 
 なぜなら、中国には話し合いなど存在しない。
   ・   ・   ・   
 八路軍は、日本人民解放連盟(日解連)を組織して、捕虜にした日本人兵士に思想教育を行い洗脳し工作員として満州に潜入させた。
 日本人工作員は、通化共産党支部を開設し活動を開始した。
   ・   ・   ・   
 2014年6月号 産経新聞社『正論』「古田博司 近代以降
 専制的な中国の村落はなかった
 ……専制的な王朝権力の存在を可能にするような村落共同体が小宇宙のようにあって、それが天子のもとに細胞のように集まって中華帝国を支えているということを実証しようとしたのだった。戦前のマルクス主義者の東洋史学者たちには明らかにこの傾向があった。ウィットフォーゲルの論は、1930年代から読んではいたが、眉に唾つけて、中国村落共同体研究の方に向かったのである。
 1940年から5年間、満鉄調査部北支経済調査慣行班が組織され、華北農村が調査された。慣行班は現地の農民と質疑応答を繰り返し、また多くの文書資料を集め、それらは戦後、『中国農村慣行調査』全6卷(岩波書店、1952ー58年)にまとめられ刊行された。
 ところが、調査の結果として出されて来たのは、専制的な村落共同体などではなかった。粗放な農業、管理されない農地、ルーズな村界、つまり国家から育成のされず制約もされない、放任されたというか、放り出された農村しかなかったのだ。村は国家に公租公課を提供するに過ぎなかった。そこで、ウィットフォーゲルも戦前の東洋史学者も蹉跌した『東洋的専制主義』を以下僭越にも筆者が試みてみようと思う。
 古田式『東洋的専制主義』定義
 東洋的専制主義というエトスを生じさせるのにあずかって力ある要素は、まず当該社会のルーズさである。分業の概念を持たないため、自律的な組織や共同体が重層的に形成されることがなく、経済は粗放的であり、広範な大衆はアプリオリな血縁関係以外の凝集力を有さず、総体として専制的に隷属せざるを得ない。大衆は総体として専制集団や専制者にルーズに隷属し、地域の経済・政治の責任ある主体であることを自ら好んで回避する。結果として社会的な信頼関係や契約関係が育つことがなく、凝集力を欠いた社会の上に専制集団が派閥をお以て君臨し、その不断の闘争による政権交替のみが腐敗緩和の浄化装置となっている。
 この専制集団と大衆の間に、搾取階級としての官僚組織、その予備軍としての知識層が存在する。彼らは自己保身欲求しか持たないため、両層の仲介役としてどのような政体、どのような異民族支配であろうと適応し、大衆を搾取し専制集団に冨を送り続けるという特徴を持つ。
 以上の条件から措定される東洋的専制主義の統治形態は、交替を繰り返す王朝国家、総体的隷属社会に便乗し、やがては追い落とされる征服王朝専制者に対する大衆の不信を前提とした独裁国家、予め滅亡を予想し得る一時的な強権的政体などが最もふさわしい。地位ごとの独立採算制の政権を束ねる政体(いわゆる西欧フューダリズム、日本封建制など)や、諸共同体の自律性と政権の正当性が絶えず問われる政体(いわゆる民主制)などは、もっとも向かない。
 社会に信頼性や契約性が育たないため、国内の規範・法のみならず、国際的なルールにも進んで従うことができず、自己中心的な価値観で無頼の行動をとりやすい。自己中心的な価値観は他の価値観や社会の多様な言論の存在を許さないが、その不寛容性が却って彼らの社会的凝集力の代替物となっている。
 米・欧・日の西洋的自由主義圏は自らと異なる彼らの『異質さ』から、彼らが別種の圏内にあることを明確に認識している。日本はその圏の極西に位置し、韓国は先述の圏の極東に下垂している」
   ・   ・   ・   
 国民政府は、日本以上の国家総動員法を公布し、ナチス・ドイツ並みのファシズム型総力戦体制を確立した。
 蒋介石は、ナチス・ドイツから軍事支援を受け、後にスターリンと軍事協定を結んだ。
 日本軍は、最初にドイツ陸軍に支援された抗日中国軍と戦って苦戦し、その後に抗日中国軍とソ連軍の連合軍と戦って撃破し、最後に抗日中国軍とアメリカ連合軍と戦って敗北した。
 国際社会へは議会制民主主義の理念の下で個人の権利を保証すると宣伝しながら、その実体は、民主主義否定の三民主義儒教ナショナリズムで、個人の自由を認めず、言論・集会の自由を圧殺し、反国民党言論を容赦なく弾圧した。
 都市の論理で農村部を徹底的に搾取した為に、大規模な飢饉が発生して多くの餓死者を出してが、政府は身分賤しい農民を無慈悲に切り捨てた。
 農民は生きる為に中小地主らと各地で反乱を起こしたが、政府は大部隊を派遣して鎮圧し女子供に関係なく大虐殺を行った。ただし、生きる為に奴隷として隷属を誓い、金銭の為に平気で家族や仲間を売り渡す者は助けた。
 中国社会は、金とコネで全てが決まる、腐敗した人治社会である。
 人民は、腐敗した重慶政府を見限り、政争を繰り返し粛清を行っても清廉な中国共産党を支持し始めてた。
 藍衣社などの謀略機関は、蒋介石や旧華北財閥の政学派や浙江財閥や高級軍人らの手足となり、政敵を暗殺して財産を没収した。中国の平和を求め日中提携を主張する親日派を漢奸として暗殺し、日本との戦争に消極的な者を売国奴として家族や人民の前で苦しませながら惨殺した。中国人は、同胞がいたぶられながら殺されるのを見物して喜んでいた。
 世界には、抗日戦勝利の為に、農民を保護し農業生産の向上に務めていると宣伝した。
 連合国は、中国を同盟国と絶賛し、抗日戦線を支持した。
 佐藤亮一「『徹底的に復讐する』『口惜しかったら何故負けた』というしかない」(獄中記『北京収容所』)
   ・   ・   ・   
 タウンゼント「福州を流れる川の上流でのこと。高齢のイギリス人宣教師が二人、追い剥ぎに捕まり、『裁判され』『帝国主義者』にされ、『残虐なる死刑』に処せられた。生涯を聖職者として現地住民の為に捧げた二人に待っていたのは、体中を切り刻まれ、長時間悶え苦しみ殺されるという無惨な最期であった。当然ながら、中国国民党『政府』は何もしなかった。政策の一環であるから、助けるわけがない」(『暗黒大陸 中国の真実』)
   ・   ・   ・   
 日本は、韓国・北朝鮮同様に、気を許せば、確実に中国化する。
 日本人は、決して、欧米化はしない。
 日本が悲惨な中国化しなかったのは、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)制度が存在していたからである。 
   ・   ・   ・   
 731部隊は、ノモンハン事件に後方支援部隊として参加し、兵士に安全な飲料水の供給とワクチンの投与を行った。
 陸軍は、石井式濾水機とそれを装備した特殊車の戦略的効能を認めた。
 関東軍は、731部隊の奮闘に対して感状を送った。
 「皇軍衛生勤務上嘗て見ざる成果を挙げたるは、真に衛生部隊の誇りとすべく、全軍の亀鑑にして武功抜群なり」
 関東軍は、ノモンハン事件の敗因を情報収集と指令通達の不備・不統一であると反省して、その教訓を生かして情報部を一本化し、情報部本部をハルピンに置いた。
 新たに設置された情報部本部は、部隊を6班構成として、その隷下に多くの特殊機関や特殊部隊を配置した。
 3月28日 731部隊は、知能機関として、「対ソ諜報防諜に関する事項」という報告書を提出し、各国大使館に出入りする新聞記者・商人・宣教師らは軍事機密情報を盗み出そうとしているスパイの疑いがあると警鐘を鳴らした。
 つまり、日本陸軍関東軍満州国の持っている諜報機関やスパイ監視取締機関は、手先としている白系ロシア人満州人や漢族からの垂れ込み情報に頼る余り、二重スパイによって偽情報を掴まされ機密情報が漏洩していると。
   ・   ・   ・   
 晩秋 毛沢東は、日本軍と裏取引する為に、燔漢年(はんかんねん)を上海の日本諜報機関「岩井公館」に送り込んだ。
 潘は、外務省の岩井英一に毛沢東の言葉を伝えた。
 「華北での日本軍と中共軍との間における停戦をお願いしたい」
 日本軍は、毛沢東の懇願を受け入れて、中国共産党のスパイ約1,000人の活動を黙認し、その見返りとして国民党軍とアメリカ軍の情報を手に入れた。
 「中国共産党は各地で日本軍と激しく戦っている」という偽情報を流した。
 アメリカのOSS調査員は、現地に送り込んで実情を調べ、日本軍と戦っている事実がないどころか、汪兆銘南京政府満州国など親日派傀儡政権と和気藹々としている事を知った。
 つまり、中国共産党の「抗日戦は見せ掛けの嘘である」と。
 毛沢東は、アメリカの軍事支援を受ける為にOSS調査員を逮捕し、アメリカに報告させない為に終戦まで監禁した。
 コミンテルンから延安に派遣されていたピョートル・ウラジミロウも、日本軍と中国共産党軍が仲良くし、そして共謀していた事を証言した。『延安日記』
 スターリンは、ナチス・ドイツとの戦争に勝利する為に、背後を守るべく中国共産党と軍国日本を蜜月関係を黙認した。

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中国河北省における三光作戦―虐殺の村・北〓村

中国河北省における三光作戦―虐殺の村・北〓村

「満州」再訪・再考―「平頂山虐殺」と「731部隊」への道 (母と子でみる)

「満州」再訪・再考―「平頂山虐殺」と「731部隊」への道 (母と子でみる)

☘11)─2─日本民族は日本文明を創り、日本人は日本文化を創った。日本人は日本文明をゴミのように捨てる。〜No.19No.20    

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 文明は、文化に比べて短命で衰退し滅びる。
 人は、文化がないと生きられないが、文明がなくても困らない。
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 日本文明は、今は生きているが、何時かは生命力を失い消え去る定めである。
 日本文化は、日本列島に人が住む限り滅びる事なく受け継がれていく。
 日本文明とは、生まれた血筋・血統の事である。
 日本文化とは、育った家系・家柄の事である。
 日本民族日本人は、必然ではなく、勢い、偶然、幸運であった。
 日本人にとって、日本文化には深い愛着があるが、日本文明には魅力を感じないだけに関心もないし興味もない。
 日本人は、日本文明を無価値としてゴミのように切り捨てようとしている。
 日本人が大事にして守り受け継ごうとするのは、生まれの血筋・血統ではなく育ちの家系・家柄である。
 日本人にとって、血より水の方が大切で、血筋・血統は神聖ではないし無意味・無価値である。
 日本における「お里が知れる」のは、家系・家柄であって、血筋・血統ではない。
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 新井紀子「文明を作れた民族と、作れなかった民族がありますよね。どの民族も言葉は話すのに違いは何かというと、抽象的な概念を知識として体系化できたかどうかです。たとえば面積の求め方が確立したのは、古代エジプトの課税と関係がありました。ナイル川が溢れて自分の土地が失われたとき、穀物の収穫に対する税を減らしてほしい。では、残った土地の面積を測って計算しましょうという話になった。狩猟採取民族には、面積を測ろうという気持ちは湧かなかったと思います。
 ……
 穀物を配分する割り算を間違えたら、人が死にますからね。命にかかわるリアリティから文明を発展させてきたのが、私たち人類の歴史です。だから切実な必然性が大切で、自分が損をしないためにはどうしたらいいかというところから、勉強も始るわけです。
 ……
 失敗の仕方や喧嘩の仕方がわかっていることが、人間が生き延びていくために大切な能力だと思います」
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 ウィキペディア
 文明
 文明(仏: civilisation、ラテン語: civilizatio キーウィーリザティオー)とは、人間が作り出した高度な文化あるいは社会を包括的に指す。
 文明の発生
 文明が発生するには、まず前提として農耕による食糧生産の開始と、それによる余剰農作物の生産がなければならない。最初期の農耕はオリエントの肥沃な三日月地帯において11,000年前、パプアニューギニアで9,000年前の証拠が発見されている。これらは、2万年前に最も寒くなった最終氷河期の終わり、1万年前に相当する時期に当たる。この時期はBC5300年頃にはメソポタミアにおいて灌漑施設が建設されるようになり、ウバイド文明と呼ばれるメソポタミア最古の文明が成立した。

 ・地球寒冷化によってそれまでの分散していた生活環境が苛酷になった為、河川周辺への人口集中が促されるなど、文明の発生に大きな役割を果たすという説。
 ・サハラ砂漠は2万年を頂点に12,000年前まで乾燥し、その後、7000年前まで森林が増え、5000年前まで森に覆われていた。その後、乾燥により砂漠化が今も進行している。砂漠化により、砂漠にとどまるものと、ナイル河畔に移動したものにわかれた。移動と共に生活様式を変えたものが、ナイル河畔で文明を創ったと言う説がある。

 文明の特徴
 西欧語の "civilization"(英語)などの語源は、ラテン語で「都市」「国家」を意味する "civitas" に由来する。ローマ時代の文明とは、字義通りに都市化や都市生活のことであった。

 文明の要素
 マルクス主義の考古学者ゴードン・チャイルド(1892年-1957年)の定義では、文明と非文明の区別をする指標として次のものを挙げている。
 ・効果的な食料生産 ・大きな人口 ・職業と階級の分化 ・都市 ・冶金術 ・文字 ・記念碑的公共建造物(ピラミッドなど) ・合理科学の発達 ・支配的な芸術様式

 チャイルドの定義以外に、すべての文明に共通するものとして次がある。
 ・小麦、コメ、トウモロコシといった穀物の栽培は、その貯蔵のしやすさや大量に収穫できることなどから、多くの文明の基盤となるものだった。また、ほとんどの文明においては家畜化された動物が一種類ないし数種類存在し、食糧供給源、動力、移動手段として大きな役割を果たした。
 ・広範囲な貿易。文明以前から、世界各地において広範囲の交易ネットワークは成立しているが、文明の成立とともにこれはより大規模なものとなっていた。シュメールでは、国家管理された貿易商の集団が設置されていた。
単一の定住に比べてより広域な地域にまたがる組織や民族。
 
 文明の機構
 チャイルドは文明を構成する要素に注目したが、機構に注目すれば以下の定義により、政府やネットワークが浮かび上がる。
 大きな人口を維持するには効果的な食料生産と食料分配の制度や分業・階層化を可能にする中心機構を持った政治システムが必要で、「文明とは国家という政治システムを持つ社会」と言う定義。
 いろいろな文化のサブ・システムを包含する、広域的ネットワークとして、広い範囲に普遍的に広がり、大規模で高度な組織、制度、統合がなされていると言う定義。

 文明の変遷と完成、文明の型
 文明のゆるやかな成立
 新石器時代の狩猟採集から、原始的な農業を経て、村、町、都市へとゆっくりと発展して、文明が成立していくため、文明が一気に成立するわけではなく、文明に至る階段を登ることになる。
 
 文明の種類
 これまで独自の文化圏を持つとして文明に分類されたものをあげる。
 ・メソポタミア文明
 ・シリア文明
 ・エジプト文明
 ・インダス文明 (インド・パキスタン文明)
 ・中央アジア文明
 ・スキタイ文明   
 ・ギリシア文明
 ・ミノス文明
 ・ヘレニズム文明
 ・ローマ文明
 ・ヨーロッパ文明 (西欧文明)
 ・東欧文明(東方正教会文明=ギリシア正教文明)    
 ・イスラム文明
 ・アフリカ文明
 ・中国文明
   ・黄河文明、・長江文明、・遼河文明
 ・日本文明
 ・中央アメリカ文明
   ・メソアメリカ文明
   ・アンデス文明
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 長江文明
 長江文明とは中国長江流域で起こった複数の古代文明の総称。黄河文明と共に中国文明の代表とされる。文明の時期として紀元前14000年ごろから紀元前1000年頃までが範囲に入る。後の楚・呉・越などの祖になっていると考えられる。

 長江文明の特徴
 初期段階より稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。

 日本への影響
雨季を人工的に作り出す農法から大陸の暖かい地域で発生し、国内で発掘された稲の遺伝子がこの地域のジャポニカ種と同じであった為に、弥生時代に日本へ水稲耕作をもたらした人々(弥生人)は、長江文明が起源とする説もある。
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 弥生人
 弥生人(Yayoi people)は、狭義には弥生時代に中国大陸から日本列島に渡来してきた人々を指す。広義には、稲作などの弥生文化を受け入れた旧縄文人を含む、弥生時代の日本列島の人々全体を指す。
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 遼河文明(りょうがぶんめい)
 遼河文明とは、中国東北部の遼河流域で起こった中国の古代文明の一つ。紀元前6200年ごろから存在したと考えられている。
 このように黄河文明長江文明とは異なる文明でありながら、後の古代中国文明に大きな影響を与えたと考えられることから、現代でも大きく注目され盛んに研究されている。
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 世界四大文明
 世界四大文明とは、人類の文明史の歴史観のひとつ。歴史上、4つの大文明が最初に起こり、以降の文明はこの流れをくむとする仮説。
 ここでいう「四大文明」とは、メソポタミア文明エジプト文明インダス文明黄河文明をさす。長江文明メソアメリカ文明アンデス文明などは基本的に含まれず、アメリカ大陸の文明を含めて六大文明と解釈することもある。
 欧米では、「肥沃な三日月地帯」や前述の六大文明などといった人類の古代文明の発祥の地を「文明のゆりかご」(Cradle of civilization)などと呼ぶ。

 縄文文明論
最近進んだ縄文時代三内丸山遺跡の調査成果を踏まえて、縄文時代を「縄文文明」と呼称し、世界四大文明などの古代文明に匹敵する高度な古代文明社会として位置づけようとする論がある。
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 日本文明
 日本文明とは、日本列島あるいは日本人又は大和民族に固有の文明社会を想定する用語である。
 比較文明論などの主流な学問分野では、対象は近現代の日本社会や日本文化を主とする。またその論点は日本人論ともしばしば近接し、日本の文明社会の特質を論じる際には日本人論が援用されることが多い。
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 文明の衝突
 『文明の衝突』(ぶんめいのしょうとつ)は、アメリカ合衆国政治学者サミュエル・P・ハンティントンが1996年に著した国際政治学の著作。原題は『The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order』(文明化の衝突と世界秩序の再創造)。
 冷戦が終わった現代世界においては、文明化と文明化との衝突が対立の主要な軸であると述べた。特に文明と文明が接する断層線(フォルト・ライン)での紛争が激化しやすいと指摘した。記事の多くはイスラム圏、ロシアについてであり、他の地域に関してはおまけ程度の扱いである。

 諸文明の世界観
 ハンティントンはまず文化が国際政治においても重大な役割を果たしていることを指摘した。特に冷戦後において文化の多極化が進み、政治的な影響すら及ぼした。なぜなら文化とは人間が社会の中で自らのアイデンティティを定義する決定的な基盤であり、そのため利益だけでなく自らのアイデンティティのために政治を利用することがあるためである。伝統的な国民国家は健在であるが、しかし行動は従来のように権力や利益だけでなく文化によっても方向付けられうるものである。そこで現在の諸国家を七つまたは八つの主要文明によって区分することがハンティントンにより提案された。

 中華文明
 紀元前15世紀頃に発生し、儒教に基づいた文明圏であり儒教文明とも呼ぶ。その中核を中国として、台湾、朝鮮、韓国、ベトナムシンガポールから成る。経済成長と軍備の拡大、および国外在住の華人社会の影響力を含め、その勢力を拡大しつつある。
 ヒンドゥー文明
紀元前20世紀以降にインド亜大陸において発生したヒンドゥー教を基盤とする文明圏である。
 イスラム文明
 7世紀から現れたイスラム教を基礎とする文明圏であり、その戦略的位置や人口増加の傾向、石油資源で影響力を拡大している。(トルコは文化や歴史的に西に近い。)
 日本文明
 2世紀から5世紀において中華文明から独立して成立した文明圏であり、日本一国のみで成立する孤立文明。
 東方正教会文明
 16世紀にビザンティン文明を母体として発生し、正教に立脚した文明圏である。
 西欧文明
 8世紀に発生し、西方教会に依拠した文明圏である。19世紀から20世紀は世界の中心だったが、今後、中華、イスラム圏に対して守勢に立たされるため団結する必要がある。
 ラテンアメリカ文明
 西欧文明と土着の文化が融合した文明、主にカトリックに根ざしている文明圏である。
 アフリカ文明
 アフリカ世界における多様な文化状況に配慮すれば、文明の存在は疑わしいものであるため、主要文明に分類できないかもしれない。
 その他
 エチオピアやハイチとイスラエルはどの主要文明にも属さない孤立国である。モンゴル、チベット、タイ、ミャンマーなどは仏教文化として括られているが積極的な行為主体とは考えていない。
   ・   ・   ・   
 goo辞典
 ぶん‐めい【文明】の意味
 人知が進んで世の中が開け、精神的、物質的に生活が豊かになった状態。特に、宗教・道徳・学問・芸術などの精神的な文化に対して、技術・機械の発達や社会制度の整備などによる経済的・物質的文化をさす。
  ・   
 ぶん‐か〔‐クワ〕【文化】の意味
 1 人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。カルチュア。「日本の文化」「東西の文化の交流」
 2 1のうち、特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産。物質的所産は文明とよび、文化と区別される。
 3 世の中が開けて生活内容が高まること。文明開化。多く他の語の上に付いて、便利・モダン・新式などの意を表す。「文化住宅

 [用法]文化・[用法]文明――「文化」は民族や社会の風習・伝統・思考方法・価値観などの総称で、世代を通じて伝承されていくものを意味する。◇「文明」は人間の知恵が進み、技術が進歩して、生活が便利に快適になる面に重点がある。◇「文化」と「文明」の使い分けは、「文化」が各時代にわたって広範囲で、精神的所産を重視しているのに対し、「文明」は時代・地域とも限定され、経済・技術の進歩に重きを置くというのが一応の目安である。「中国文化」というと古代から現代までだが、「黄河文明」というと古代に黄河流域に発達した文化に限られる。「西洋文化」は古代から現代にいたるヨーロッパ文化をいうが、「西洋文明」は特に西洋近代の機械文明に限っていうことがある。◇「文化」のほうが広く使われ、「文化住宅」「文化生活」「文化包丁」などでは便利・新式の意となる。

   ・   ・   ・   

 中華文明・中国文明といっても、黄河流域民・北方系漢族の黄河文明(麦・狩猟文化)と揚子江流域民・南方系少数民族長江文明(稲・漁労文化)は違う文明である。
 故に、農耕民族といっても北系漢族と南方系少数民族とは違う。
   ・   ・   ・   
 日本文明は、長江文明の後継文明であって、黄河文明の影響は薄い。
 日本民族日本人は、乱婚を繰り返してきた混血の雑種民族である。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、南方系海洋民と南方系海洋民・揚子江流域の混血人を主流とした雑種民族で、後に北方系山野の民と西方系草原の民、黄河流域民が流れ付き乱婚して混血を強めた。
 遺伝子リベルで、日本民族日本人の乱婚による混血・雑種は正しい選択であった。
 混血度が濃いのが日本民族日本人で、混血度が薄いのがアイヌ人や琉球人である。
 日本民族日本人もアイヌ人も琉球人も、共通の祖先は舟で移動していた縄文人である。
 縄文文化弥生文化も、世界の端、地の果てにあった辺境の野蛮な文化であって文明ではなかった。
   ・   ・   ・   
 日本文明は、ヤマト王権が日本を統一してから生まれ、天皇家・皇室と共に発展し今日に至っている。
 現天皇家・皇室が存在する限り、古代文明である日本文明は存在し続ける。
 が、現天皇家・皇室が絶えれば、日本文明も消滅する。
 何故なら、古代から続く男系を基づく特定の血統を継承した特別な一族・家族=天皇家・皇室に基因しているからである。
 日本文明を見える化しているのは、天皇神話・日本神話、民族中心神話・天孫降臨神話を根拠とする特定の血統に基ずく万世一系男系天皇(直系長子相続)と元号である。
 血統とは、天皇の祖先である女性神天照大神の直系子孫の事である。
   ・   ・   ・   

💖10)11)─1─華北大旱魃を救った明治天皇と日本政府。義和団事件。中国は西原借款の善意を踏み倒した。〜No.47No.48No.49No.50No.51No.52      

餓鬼(ハングリー・ゴースト)―秘密にされた毛沢東中国の飢饉

餓鬼(ハングリー・ゴースト)―秘密にされた毛沢東中国の飢饉


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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 中華世界は、古代から、嘘、不正、裏切りの犯罪地帯であった。
 弱肉強食が絶対正義であった。
   ・   ・   ・   
 中国は、日本の人道貢献や善意・誠意を全て踏みにじった。
   ・   ・   ・   
 日本人は、嘘をつかれても、騙されても、裏切られても、中国人を信じた、中国人を信じたいと願い続けた。
 が、中国人を信じ切る事は叶わなかった。
 しょせん、中国人は信じるに値しなかった。
 中国人は、日本人の人道貢献を侮辱し、日本人の誠意を踏みにじった。
   ・   ・   ・   
 中国とは、忘恩の国であり、人でなしの国であり、信用できない国である。
 中国を信じた軍国主義日本人は、最も愚かな人間である。
   ・   ・   ・   
 中国を信用する者は、馬鹿である。
 日本の善意や配慮は、中国では一切通用しない所か裏切られ踏みにじられるだけであった。
   ・   ・   ・   
 中国は、自分が利益を上げる為に日本から得られるモノがあるうちは和やかに友人として近づき、色んな事を学ぶ為に優等生のふりをして安心させる。
 日本から奪えるモノがなくなり、日本人の利用価値がなくなり、そして全ての面で日本を超えたと確信した時、豹変し凶暴な暴徒として襲いかかってくる。
 日本人は、真の中国人を知ろうとはしなかった。
 自分と同じ、一般常識を持った人間であると信じたかったし、誰が何と言おうとも信じ切っていた。
 日本の愚かさは、生来、中国人を理解できない事にあった。
 それが、日本の悲劇の原因であった。
 日本人は、中国人に騙される。
   ・   ・   ・   
 儒教が支配する中華世事においては、史実に基づいた正しい歴史などは存在せず、自分に都合の良い歴史認識のみが存在する。
 歴史とは、政治・外交・軍事に恣意的に利用する教養としての道具にすぎない。
 つまり、中華世界の史書は出来事を元にした想像の作り話であり、記念碑の碑文もまた本当の事は書かれていない。
 劉知幾「史書に載せて出鱈目な話を作り上げる」
 都合の悪い事を隠す為に、ありもしない美談を歴史として書き残す。
 自国を偉大に見せる為に、他国の美点を歪曲し捏造して悪し様に貶す。
 儒教は親孝行として、子供の正直とは親の悪事を隠す事であり、親を庇う事で人徳が宿ると教えている。
 歴史と歴史認識は、日本では一体であるが、中国や韓国・北朝鮮では別物である。
 中国や韓国・北朝鮮では、歴史より歴任認識の方を優先する。
 日本は現実に起きた史実としての歴史を重視するが、中国及び韓国・北朝鮮は事実ではなく解釈としての歴史認識を重視する。
 日本は自分の不利な出来事を素直に認めるが、中国及び韓国・北朝鮮は自分の不利な事は何があっても決して認めない。
 ゆえに。日本と中国及び韓国・北朝鮮が、歴史と歴史認識を話し合っても相互理解はできず、分かり合う事なく永遠に平行線を辿る。
   ・   ・   ・   
 1876(明治9)〜78年 華北の大旱魃。犠牲者は、900万人〜1,300万人。
 被災者は、自分一人が生き残る為に、食糧を持っている相手を襲って奪った。それが、知人であっても、家族であっても、容赦しなかった。被害は、地方の貧困階級に特に多かった。
 宣教師は、生き地獄と化した被災地の惨状を世界に伝えた。
 隣国の日本は、被災者救済の為に、国内で多額の義捐金と食糧などの支援物資を中国に送った。
 明治政府は、西南戦争などの士族の反乱を鎮圧する為に苦しい財政から軍資金を支出して他国の救済どころではなかったが、国際信義と人の善意から義援金を捻出して送金した。
 世界から近代国家として認知して貰い、不平等条約を改正する為に、自国民に犠牲を強いても、国際法や国際ルールなどを徹底して遵守していた。
 日本人は、「体面」を保つ為に、他人の目や他人の評価を病的に気にする。
 国家の体面・名誉の為ならば、公権力を行使して自国民を犠牲にする。
 国家は、国民を犠牲にする。
 それが、日本の姿である。
 日本政府は、森有礼を天津領事館に派遣して救済業務所を設置し、天津周辺に避難してきた7万人以上の被災者の救護にあたった。
 当時の権力者は、下級武士出身の大久保利通内務卿であった。官僚主体の専制政治を行ったとして、国民の間では人気が無かった。
 一部の右翼的新聞社は、貴重な財源を、他国の救済に使わず税を納めている自国の貧民救済に使うべきであると猛反対した。
 大久保利通内務卿は、明治天皇の大御心・御稜威は中国人被災民の救済にあるとして、強権を発動して反政府系新聞を弾圧した。
 国内では、政府への不満が渦巻、新たな騒動が起きようとしていた。
 1878年 大久保利通は、反政府派によって暗殺された。
 竹橋事件における近衛兵の反乱
   ・   ・   ・   
 日清戦争は、日本と清国の戦争ではなく、日本軍と李鴻章軍との戦争であった。
 それ故に、清国軍も他の漢人高官私兵も戦闘には参加しなかった。
 中国近代化は日清戦争の敗北から始まり、清国は近代化の為に日本に支援を要請した。
   ・   ・   ・   
 中国から感謝されたという話は、聞いた事がない。
 中国とは、しょせんその程度の国である。
   ・   ・   ・   
 1900年 義和団事件。ベルツ日記「ドイツ皇帝は、清国派遣軍の出発に際して一場の演説をされたが、その演説がまた、あらゆるドイツ人を赤面させずにおかないものなのである。皇帝はこういわれたそうだ『捕虜は無用だ、助命は不要だ!』と。……相手の清国の罪のない人たちを──たとえ武器をすてた場合でも、かまわないから──殺してしまえと命令しているのだ!こんな文明にへどが出る!」
 西洋からすれば、中国人などのアジア人は人間以下の家畜とされ殺しても罪には問われる事はなかった。
 英タイムズ紙「籠城の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせた」
 義和団と清国兵は、北京の外国人居住区を襲撃して、外国人を虐殺し暴行し強姦した。
 日本、イギリスなど8ヶ国の公使館は、救援部隊が到着するまで女子供の居留民を守る為に立て籠もった。
 総勢約400人は、清国軍や義和団の猛攻に耐え抜いた。
 その中でも日本人の奮闘振りは、目を見張った。
 8ヶ国連合軍は、北京に突入して籠城戦を耐え抜いた外国人団を救出した。
 ロシア軍やドイツ軍は、勝利者として、獣模様になって占領地で略奪や強姦を働いた。
 日本軍は、軍律を厳しくして略奪や強姦を厳しく戒め、逃げてきた中国人達を保護し、故宮の財宝を略奪から守り清朝に返還した。
 日本軍兵士は、西洋兵士達以上の紳士として、潔癖を旨とするサムライとして行動していた。
 日本軍に助けられた中国人達は、日本軍に感謝した。 
   ・   ・   ・   
 日露戦争後。
 日本に留学してくる中国人は急増し、1905年には8,000人を越え、翌06年は1万人から3万人に達した。
 日本は、清国留学生を受け入れ、国家の近代化の為に必要な行財政・司法・軍事・医学・科学・教育など多方面を教えた。
 日本陸軍は、西洋列強の侵略から中国を自力で守るべく、清国軍を近代化して強化する為に軍事顧問を派遣した。
 北京大学創設するにあたって、有能な教師や技術者を送り出し、一時は1,000人を超した。
 日本人は、中国への親近感や中国人への同情心から官民挙げて支援し、協力し、指導した。
 中国人留学生達は、日本語を習得して、和製漢語で近代を学び、古典的儒教漢文を捨て近代的日本文式漢文を取り入れた。
 中国が編み出した借用語では、近代を学ぶには不十分であった。
 それが、現代中国語の基になった、日本に留学した魯迅らが始めた白話(口語)である。
 西洋列強に解体され植民地化されかけた中国は、日本から和製漢語と白話という日本言語文化のエートスを滅亡ぎりぎりの瀬戸際で学んで生き残り、近代国家として再建できた。
 黄文雄「それはつまり異文化摂取の姿勢における、融通無碍な日本人と自国文化に固執する中国人のさである。『新造語』とは日本人が西洋文化を自分の血と肉にしようとする意欲の表れである。『借用語』とは『中体西用』という、極めて傲慢にして安易な中国人の姿勢の表れかもしれない。
 その差がそのまま、日中両国の近代化の差になって現れたと言っていいだろう」(『近代中国は日本がつくった』)
 宮脇淳子藤原正彦先生にという『祖国とは国語』(新潮文庫)エッセイ集があります。『祖国とは国語』はもともとフランスのシオランという人の言葉で、祖国の最終的なアイデンティティは『血』でも『国土』でもなく、民族の言語なのだそうです。二千年間も流浪の民だったユダヤ人が20世紀になって再び建国できたのは、ユダヤ教徒ととにヘブライ語イディッシュ語を失わなかったからだ、と藤原先生はおっしゃっています。とすれば、漢字以外に共通の言語のなかった中国人が同一民族としての自覚を持てなかったのはうなずけます。その意味で、まがりなりにも中国という近代国家を築けたのは、中国語を変え、近代化に向かわせた日本のおかげだと言っても過言ではありません。
 たしかに、日本は古代中国の漢字文化圏から出発しました。しかし、その後、仮名を発明して日本語を豊かにし、独自の文化をはぐくみ、洗練させてきた。そして、最終的には中国を日本の文化圏に取り入れるに至ったのです。いあだに中国人が日本を自分たちの周辺部族のように見ているとしたら事実誤認もはなはだしく、むしろ現代では、しれは逆なのです」
 現代中国語の文章には約70%の和製漢字が使用され、最先端の学術語や専門用語のほぼ100%が日本の新造語である。
   ・   ・   ・   
 清朝末期。日本は、清朝内の改革派の要請を受けて、中国を近代化する為に優秀な人材を派遣し、殖産興業に全面的に協力した。
   ・   ・   ・   
 1914年 中国は、自国だけの軍事力では山東省と青島のドイツ租界を奪還できない為に、第一世界大戦への参戦を躊躇した。
 日本は、同盟国イギリスの要請に従い、集団的自衛権を発動して参戦し、独力で青島を攻略し、ドイツの植民地である南洋諸島を占領した。
 1915年 対華二十一箇条の要求。
 1917年 中国は、日本の助言に従い、戦勝国の一員になる為に参戦したが、戦闘には参加しなかった。
 1919年 福建省を出港した中国漁船は、嵐で遭難して尖閣諸島に漂着した。
 尖閣諸島にあった鰹節工場の日本人労働者は、中国人漁師31名を救助して石垣島に送った。
 石垣島の島民達は、中国人漁師を手厚く保護し、全員を帰国させた。
 翌年 中国駐長崎領事は、「日本帝国八重山郡尖閣諸島」と明記した感謝状を石垣島村長・豊川善佐と鰹節工場経営者・古賀善次に送った。
 中国は、琉球尖閣諸島を日本領であると公式に認めていた。
 西原借款。日本は、中国に1億4,500万円を借款し追加借款を含めて約3億円を供与した。
 現代の貨幣価値で、約3兆円。
 戦後。中国共産党は、返却すべき義務があった西原借款と中国に残してきた日本資産を、強盗団の様に猫ばばした。
 中国は、借りたモノや金を綺麗サッパリと返したためしがない。
 つまり、感謝の言葉と共に借りた金を全額返還した事は、歴史上、たぶん一度も無い。
 5月4日 五・四抗日運動。 
   ・   ・   ・   
 徳富蘇峰支那人には歴史的に倭奴根性が抜けない。日本に留学した者も沢山ある。併し彼らの中で、日本文化の深層、若しくは日本精神の極致などを諒解した者は殆どあるまい。彼等は只だ欧米の代物を日本の小売店から購(あがな)う為に、日本に留学したる者である」
 「(日本の対中外交の失敗)支那人を度(はか)るに、支那の尺度を以てせず、日本の尺度を以てしたからである。兎角(とかく)支那人を日本人同様と考へる為に、何事も皆な的が外れて来た。すなはち一方には支那人の欠点のみを見て、これを侮り、他方には支那人を研究せずして、日本人同様に考へ」
 中国人は、アメリカ人やイギリス人は自分達とは全く違った人間といて「白奴」と軽蔑したが、日本人は同じ漢字を使い似た文化や風俗や習慣を持つ最低な「夷狄」つぃて侮蔑していた。
 日本人は、永らく中国との国交を持たず人的な交流として行き来していなかった為に、中国人は儒教的生活をする世界一優秀な人々と崇拝していたが、日清戦争後の中国人の実態を目の当たりにして幻滅を感じた。
 中華崇拝が空想的思い込みで高く、中国人への憧れが異常なほど強かった為に、目の前に現れた中国人の道徳もマナーもなき傲慢な態度に「中華かぶれ」が覚め、その反動として中国蔑視が生まれた。
 中国人は、中華思想から自分こそ世界一優秀な民族という視野狭窄夜郎自大的優越感を持っていただけに、家臣の様に媚びへつらって動くであろうと見下した日本人が、厚顔無恥に偉ぶっている事に「面子」を潰されたと激怒した。
 だが。日本との国力差に開きがある為に、柔やかに笑顔を見せて友好を口にし、国力が超えたと判断すると豹変して全ての約束を反故にして、牙を?いて襲い掛かってきた。

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毛沢東の大飢饉  史上最も悲惨で破壊的な人災 1958?1962

毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958?1962

💎610)─1─日本国憲法の象徴天皇制度は、皇室を軟禁、監視し、天皇・皇族の人権や自由を奪っている。~No.1360No.1361No.1362   

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・
 日本国憲法は、象徴天皇制度を奴隷制に、天皇・皇族の人権や自由を奪い、政府に皇室の生殺与奪の権を与えている。

 未来の天皇は、政府の皇族会議が適当に人選し、国会が無責任に承認し、国民が世論として好き嫌いの人気だけで支持して即位する。

 日本国憲法の目的は、男系の血統を根拠で特定の一族に支配されている天皇位を剥奪し他の血筋に解放する事である。

 男系天皇制度は、皇位継承可能男系皇族の減少で自然消滅する。

 女系天皇制度は、皇位継承可能男系皇族が一人も生まれなくても天皇制度は存続できる。

 将来、天皇位は、神話を根拠とする特定の血統に基づく家族制度による祭祀王から、血統を排除した皇統のみの政治制度による名誉職となる。

 日本の祭祀王は、教祖、教義・戒律、聖典・教典、布教を伴う原理主義的宗教制度ではない。
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 天皇が中国大陸あるいは朝鮮半島から軍団を率いて日本列島に侵略し、先住民・縄文人を殺し屈服して、占領した征服者ではない。
 日本の皇室は、外国からの征服王朝ではないが、国内を一つにまとめあげげる為に武力を用いた国内的な征服王朝であった。
 日本の地政学は、敵である中華帝国(中国・朝鮮)の侵略から日本を守る為には日本を統一国家にする必要があった。
 つまり、強力な軍隊を持った軍国主義国家になる事は日本の正しい選択であった。
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 宮澤俊義東京大学教授)「(天皇の象徴性は)なんらの実質的な権力をもたず、ただ内閣の指示にしたがって機械的に『めくら判』をおすだけのロボット的存在」
 「(憲法4条の)天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」(『日本国憲法』)
 高学歴出身知的エリートは、憲法解釈で政教分離・信教の自由を皇室の伝統や祭祀より優先しようとした。

 戦後の高学歴出身知的エリートは、反宗教無神論マルクス主義史観(共産主義史観)に染まっていった。
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 2019年5月号 Voice「天皇と日本人の未来
 『象徴』はどこへゆくのか  苅部直
 『象徴』の誕生
 天皇はいつから『象徴』になったのか。まず戦後史をふりかえって、そこから考えてみよう。
 法律論としてはもちろん、1946(昭和21)年11月3日に公布され、翌年の5月3日に施行された日本国憲法が第一条で『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって』と規定したときからである。それ以前、大日本国憲法においては『天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)シ』(第四条)と定められていた。
 帝国憲法の時代には、その法典の解釈として『統治権』は主権と同じなのかどうか、それを『総攬』するとはどういう意味かをめぐって、学者の理論が岐(わか)れていた。しかしこの点をどう解するにせよ、国家制度における天皇の位置づけがこのときに大きく変わったことは明らかである。
 天皇は、政治の実質にかかわる権能をいっさい失ない、内閣の助言と承認によって、内閣総理大臣の任命や法律の公布など、儀礼的・形式的な行為を行うのみの存在になった。また、その地位は『日本書紀』神代巻に記された神話ではなく、『主権の存する日本国民の総意に基く』ものとされた。条文からはさしあたりそのように、『象徴』という規定がもたらされた変化を確認できる。
 しかし他面で、政治の決定に実質上関わることがなく、儀礼や文化の職掌(しょくしょう)とし、王朝の権威を担(にな)う者という特質に関してみれば、前近代から長らく天皇はそういう存在だった。したがって、『象徴』としての天皇のあり方が、むしろ皇室の伝統にそくしているという見解も生まれてくる。その立場をとりならば、実質的な主権者のように見立てたり、軍の頂点に位置づけたりするのは、むしろ明治政府の創った歪(ゆが)んだ天皇像にすぎないという結論になるだろう。
 こうした意見もまた、終戦直後の津田左右吉和辻哲郎の例にみられるように、日本国憲法制定の前から存在している。これに基づくなら、天皇は古代以来、日本国憲法にいう『象徴』に等しい存在であったのであり、後醍醐天皇のようにみずから積極的に政治権力を行使したり、明治・大正・昭和前期の天皇のように、軍服を着てみずから軍隊を率いたりするのは例外にすぎない。現行憲法の規定から70年以上がすぎ、天皇が『象徴』であることが自明なことになった現在では、そうした見解が自然に感じられるかもしれない。
 ……
 日本においては古代王権のもとで『国民の統一』が成立し、その一体性を『表現』するものとして、時代をこえて天皇が民衆から尊崇(そんすう)されてきた。日本のナショナル・アイデンティティの伝統と皇室との関係をめぐる、そうした見解は、和辻が『日本古代文化』(岩波書店、1920年)以来、説き続けてきたものであった。」
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2019年5月3日 朝日新聞「『象徴』依存する日本人
 法哲学井上達夫さんに聞く
 改元後初めての憲法記念日を迎えた。日本国憲法が明記した天皇の地位『象徴』の具体像は、平成を通じて大きく変わった。独自のリベラリズム論を展開してきた法哲学者の井上達夫・東大教授は、天皇に依存し続ける日本の今のあり方にリベラルな理念の欠如が読み取れるという。どういうことなのか。
 『われら』のため利用 リベラリズムと相反
 ──日本国憲法で2度目の代替わりになりました。
 『昭和から平成の時とは大きな違いを感じます。昭和天皇の体調が悪化してから社会に蔓延したのは「自粛」という名の同調圧力ですが、今回は穏やかな歓迎ムード。死去と生前退位の違いはありますが、天皇の存在の変化もあるでしょう』
 『日本国憲法天皇の地位が「主権の存する日本国民の総意に基く」と定めます。明仁天皇はこの憲法下即位した初めての天皇です。自らの地位の正統性の根拠である「国民の総意」による支持を日々調達しないといけない。その自覚ゆえに国事行為を超え、慰霊の旅などを繰り返した』
 『特に強く印象にのこっているのはハンセン病患者への慰問です。家族とも切り離された人たちのもとに足を運ぶ。こうした「忘れ去られた」人たちを社会的に包摂(ほうせつ)しようとした振る舞いの蓄積ゆえに、天皇制への高い支持を可能にし、暗さのない代替わりにつながった』
 ──象徴天皇制が多様な人の生を社会に包摂していく。つまり平成を通じてリベラルな社会になっていった、と。
 『私はリベラリズムを「異質な他者との共生」の思想として捉えています。確かに天皇個人はリベラルな人物だったと思います。都教育委員(当時)で将棋棋士米長邦雄氏が「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事」と園遊会で言うと、強制にならないように、と答えた。憲法上明記された天皇の国事行為以外に踏み込む言動はリスクを伴う。政治的な行為・発言は禁じられ、生前退位の意思を明らかにした「おことば」には批判の声も上がった。それでもリスクをとったのはリベラルな考えゆえでしょう』
 『ただ天皇個人と天皇制は区別して考えないといけない。私は象徴天皇制を、日本に残った最後の「奴隷制」だと考えます』
 ──奴隷制、ですか。
 『民主主義とは「われら人民」による自己統治です。統治者たる「われら人民」を一体化させるシンボル(記号)として、特定の血統をもった天皇・皇族を利用しているのが「象徴天皇制」です。記号的存在にされた天皇・皇族は政治権力どころか人権まで剥奪され、表現の自由職業選択の自由もない。皇位継承が男性に限られ、女性の皇族だけが民間人と結婚したら自動的に皇族離脱するのはひどい女性差別で、法の下の平等を定めた憲法14条違反ですが、問題視する声はかつてより小さくなっている。主権者国民が一体化できるための結節点として天皇・皇族が利用され「人権なき記号」と扱われることに違和感がないのです』
 『象徴天皇制は民主主義とは両立します。しかし、特定の血統をもった一族から人権を剥奪し、彼らを「われら国民」のアイデンティティーを確保する道具として利用し続けるのは、「異質な他者との共生」の思想としてのリベラリズムとは相いれない』
 ──日本国憲法象徴天皇制を明記しています。憲法はリベラルではないのですか。
 『日本国憲法2条は天皇の地位を世襲と明記している点ではリベラルとはいえませんが、それ以外は、国会が議決した皇室典範の定めによる、としている。つまり皇籍離脱女性宮家の可否といった問題は立法に委ねている。立法によって象徴天皇制をリベラルな方向に変えていくことは可能です。しかし、代替わりの今も問題は棚上げされたままです』
 『天皇・皇族に対する人権侵害は被差別少数者の人権侵害と通底しています。さらに、リベラルな理念からは、政治的に争う諸勢力が、自分とは意見の異なる「他者」への公正さを無視していることも問題です。これは憲法をめぐる議論で深刻に表されています』
 ──具体的にどういうことですか。
 『9条の問題です。リベラリズムにとって、人々が正しい政策をめぐって対立しながら議論するのは、社会が健全である証しです。立憲主義の要請とは、この対立を包容して公正に物事を決定する政治的競争のルールとして憲法を尊重することを意味する。しかし9条をめぐっては政治右派勢力も、護憲派左派勢力も、自己の安全保障政策を「われこそ正しい」と政敵に押しつける手段として9条を歪曲し、憲法を「政争の具」におとしめている』
 『護憲派は、一切の戦力保有行使を禁じる9条2項の明文に反する自衛隊日米安保専守防衛ならOKという。安倍晋三首相改憲案は9条2項を温存しながら自衛隊を明記する、と。これは論理的な矛盾で憲法を自殺させます。一方護憲派集団的自衛権の行使の拡大を安倍政権が解釈改憲で「解禁」したことに、立憲主義を掲げて批判しましたが、個別的自衛権なら自衛隊日米安保もよいという。解釈改憲していることに変わりがない。この現状は極めて危険です。最小限の戦力統制規範すら憲法に規定できないまま、憲法の外部で、戦力の現実を肥大化している。護憲派がこれに加担している』
 ──では今考えるべき立憲主義とは。
 『立憲主義というなら、護憲・改憲派も、公正な政治的競争のルールに従うべきです。護憲派は、96条の改正規定にのっとって、専守防衛・個別的自衛権の枠内で自衛戦力を明示的に承認し戦力統制規範を盛り込む「立憲的改憲」を支持すべきです』
 『「異質な他者との共生」というリベラルな理念は、人々が「われら」として集団的に一体化したとき排除しながちな「彼ら」への公正な配慮を求めます。「彼ら」は被差別主義者も「政敵」も含む。天皇制を抑圧する多数派国民と、9条問題で政敵に勝つために憲法を改ざんしあう諸勢力は、いずれも「われら」の「彼ら」に対する不公平な支配欲求に駆られ、リベラルな共生理念を蹂躙しています』
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 近代的人道的リベラルと縄文人の生き方は、共生できず、反発し、対立する。
 近代的人道的リベラルは、縄文人の生き方を日本から抹消する。
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 右翼・右派・ネットウヨクも左翼・左派・ネットサヨクも、縄文人の生き方とは水と油のように相容れない。
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 数万年前から、日本民族日本人は日本列島に流れ着いた異質な他者(敗北者・弱者)と乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族である。
 乱婚を繰り返したのは、近親相姦的同種同族婚で繁殖すると遺伝子の劣化異常を起こして死滅する恐れがあったからである。
 遺伝子の劣化異常を避ける為には、異人種異民族の血を流し込む必要があった。
 ゆえに、昔の日本民族日本人には異種を排除する排他性は薄かった。
 もし、現代日本のような排他性が強かったら日本民族日本人は遺伝子の劣化異常で死滅していた。
 日本文化となっている「マレビトへのおもてなし」とは、外の世界から新たな異種遺伝子を獲得する為の手段であった。
 日本民族日本人は、新たな異種遺伝子を獲得する為に、積極的行動として対外侵略と強制連行をせず、消極的行動としてジッとマレビト(渡来人・帰化人)と流れ着くのを待ち続けた。
 何故なら、日本民族日本人は体力や知力に劣った敗北者・弱者の集団であったからである。
 日本民族日本人は、必然ではなく、勢い・活きよいと偶然と幸運で生きてきた。
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 人の遺伝子は1万9,000個あり、出産して子供が生まれる度に700個の遺伝子が自然と異常を起こす。
 遺伝子異常を繰り返したホモ・サピエンスが、人類として生き残り、子孫を残してきた。
 変化を怖れ、変化を嫌い、変化しない生物は、死滅するしかない。
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 現代の価値観で過去を見、評価する事は無意味であるどころか害毒である。
 現代の価値観は、過去には通用しない。
 もし通用するとういのならば、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による非人道的日本人売買を説明する必要がある。
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 日本民族日本人の祖先は、未開地を切り開いた先駆者・開拓者でもなければ、人跡未踏の地に分け入った冒険者・探検家でもなく、生存競争に敗れた敗北者か故郷を追われた弱者である。
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 強者・勝者は豊かな中央に住み、敗北者・弱者は周辺、地方、奥地、僻地へと住処を変えていく。
 強者・勝者はグローバルで、弱者・敗北者はローカルである。
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 日本民族の祖先は、アイヌ人や琉球人同様に縄文人である。
 縄文人は、温暖地域出身の南方系海洋民(漁労民)と揚子江流域民(稲の長江文明)、乾燥地域の西方系草原民(農耕民)と黄河流域民(麦の黄河文明)、寒冷地域の北方系山岳民(狩猟民)が日本列島に逃げて来て、乱婚して生まれた混血の雑種民族である。
 縄文人は、日本列島を中心に、南は台湾・沖縄、西は朝鮮半島南部、北は北方領土4島・樺太・千島列島・カムチャツカ半島に広く住み、舟で日本海を主要航路として行き来していた。
 縄文人の生き方は、船乗りの生き方である。
 船乗りは、血と死をもたらす争い・競うを恐れ、空気・空気圧・同調圧力を重んじた。
 舟は船板一枚そとは地獄の一蓮托生の運命共同体である以上、皆一緒・全会一致の原則の下、船主・船長・船頭は一人で、全ての船員はそれぞれの特殊能力・特殊技術を持って何らかの働きをし、怠けて働かず遊んで過ごす事は許されなかった。
 舟は、アリ社会である。
 船乗りは、女性が舟に乗る事は難破の原因になると怖れ、舟を女人禁制とし、女性を差別して舟から排除した。
 舟は、必然ではなく、勢い・偶然・幸運で海原を行き来していた。
 天皇制度は、この中から生まれた。
 船乗りは、異質の他者である人種・民族にこだわらないし、多神教として宗教も主義主張も気にはしない。
 船長・船頭は時代や年齢、判断力・行動力低下などで交代するが、船主は神聖不可侵として代わる事はない。
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 天皇制度の皇統は、初代神武天皇の直系子孫である。
 天皇家・皇室の血筋・血統は、日本の最高神である女性神天照大神の直系子孫である。
 皇統や血統・血筋の正統性は、日本民族が2000年以上にわたって信じ、守り、受け継いできた、伝統的な皇室神話・民族中心神話・天孫降臨神話によって証明されている。
 日本の建国精神は、人為的作為的な近代的憲法や法律ではなく、縄文時代からの自然発生的な神話である。
 天皇が定める元号とは、国内外に対する独立宣言、建国精神、国家方針である。
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 熱烈な勤皇派・尊皇派・天皇主義者は、下級武士、貧しい庶民、賤民(非人・穢多・乞食など)、部落民(山の民・川の民・海の民など)であった。
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 現代において、国家の統治理論として民族中心神話を持っているのは世界広しといえども日本だけである。
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 天皇・皇族・皇室は、舟を持つ船主であっても、船長や船頭ではない。
 船主は、船員に指図して舟を操る事については船長・船頭に一任し、操船について一切口出しない。
 豪華客船タイタニック号は、利益優先の横暴な船主が経験豊かな船長の安全航行という忠告を船主権限で拒否し高速航行を命じた為に遭難した。
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 現代日本人は、西洋近代化と強欲市場主義的生き方こそ人間らしい生き方として、日本古来の縄文人的船乗りの生き方を捨てた。
 日本国憲法は、縄文人的船乗りの生き方を否定する。
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 皇室財産は、自国民を搾取して築いた私有財産ではないし、他国から暴力的に強奪した略奪した資産でもない。
 江戸時代。天皇家・皇室は、徳川幕府から資産を制限され大名はおろか豪商・豪農に比べて貧しかった為に、裏で庶民からの金銭や食べ物の支援を得ていた。
 敗戦後日本は、没収した皇室財産を元手にして戦後復興と高度経済成長を成し遂げた。
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 世界の王朝史における常識では、優秀なイギリス人が日本天皇に即位し、イギリス人天皇キリスト教の教義・絶対神の福音で日本を統治する事を認めている。
 つまり、天皇に即位できるのは、日本民族でもなく、特定の家族ではなく、人間であれば人種・民族、宗教・主義主張に関係なく全ての人に資格がある。
 それが、究極の開かれた皇室である。
 天皇人間性を否定されたお飾りであるなら、人でなくても構わない。
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 日本から人種・民族、宗教・主義主張による差別と各種の格差をなくす有効な手段は、天皇の即位を特定の一族から不特定多数の人々に開放する事である。
 ローマ教皇は、「敬虔な信仰」を唯一の資格として人種・民族に関係なく開放されている。
 リベラリズムにおける究極の天皇制度とは、人種・民族、神話も宗教も断ち切って即位できる天皇制である。
 それが、人種・民族、神話・宗教を根拠とした排除を否定する「異質な他者との共生」である。
 そこには、血を根拠とする日本民族も宗教の日本民族神話も否定される。
 女系天皇擁立・女性宮家創設の真の目的は、ここにある。
 つまり、日本民族日本人ではない外国系日本人による天皇即位である。
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 イギリス女王ヴィクトリアは、インド人ではなかったがインド皇帝に即位した。
 世界の王室・帝室は征服王朝史である以上、「その国の国民のみが自国の国王に即位するべき」とは嘘で、「他国の国民でも自国の国王に即位できる」が正しい。
 イギリス王家の財産は、公認海賊が稼いだ略奪・強奪であった。
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 歴史的事実として、天皇の戦争責任や戦争犯罪はない。
 昭和天皇明治天皇も、如何なる戦争には反対で、戦争を回避する為の話し合い・外交を臨んでいた。
 政府と軍部、国会と国民世論は戦争を決定し、戦争をする事を天皇に圧力を掛け裁可を強要した。
 昭和天皇明治天皇も、抵抗できず、本意ではなかったが戦争をする事を認めた。
 天皇は最終決定権者ではあったが、政府や軍部、国会や国民世論が戦争を望んだ為に、「天皇の名」によって戦争を認めた。
 現代日本の「甘え体質」とは、自分たち負うべき戦争責任や戦争犯罪天皇に押しつけ逃げ回っている事である。
 日本人の「天皇依存」とは、自己欺瞞の為に天皇を悪用している事である。
 陰湿な日本人にとって、天皇・皇族・皇室は反論・反撃してこないだけに、使い勝手のいい便利な道具に過ぎない。
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 現代日本では伝統的な皇室神話・民族中心神話・天孫降臨神話は、科学的ではない、合理的論理的ではないと否定され、日本の歴史から抹消されている。
 現代の日本史教育とは、邪悪なナショナリズムの源泉となる危険性のある日本民族の否定、日本民族意識の抹消である。
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 天皇制度は、時代によって変わる部分と変わらない部分の二面性がある。
 変わらない部分とは、伝統的な不磨の慣習法と歴代天皇の遺言・遺訓・家訓に関する部分である。
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 奴隷化された象徴天皇制度を救い出す方策は、特定の神話に基づく男系血統を否定し消滅させ、天皇制度を赤の他人の血筋に解放する女系天皇擁立と女系宮家創設を実行する事である。
 つまり、現皇室の血筋、菊の皇統と血統を絶やす事である。
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 日本人が、天皇・皇室に依存せず、菊の軛(くびき)足枷(あしかせ)から解放され自由になる唯一の方法は、特定の男系血統・血筋、皇統に女系で赤の他人の血筋を押し込んで消し去る事である。
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 世界に存在する全ての王家は、例外なく男系であり女系は存在しない。
 イギリス王家には、他国にイギリス王位継承権を持った親戚が数多く存在している。
 現イギリス王家は、ドイツ系でり、その前はフランス系であった。
 エリザベス2世女王の夫エジンバラ公は、イギリス国王継承権を持ったギリシャ王家の王子であった。
 イギリス人以外で、イギリス国王継承権を持った外国人王族・貴族は数多くいる。
 現イギリス王家の血筋が絶えれば、継承権を持った他国の王族や貴族がイギリス国王に即位する。
 他国人が持つイギリス国王継承権の正統性は、女系ではなく男系である。
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✒112}─2─日本人の新たな風土病「承認欲求の渇望」。〜No.348     

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 日本人は、生来、対人恐怖症、視線恐怖症、赤面症を持っている。

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 現代日本人は、個として、孤立して、孤独になって、一人では生きていけない。

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 他人から認められ褒められたいと、不安で落ち着かず、自信が持てず、行動できない

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 2019年5月8日 msnニュース「なぜ日本人は承認欲求という“病”にかかりやすいのか。『承認欲求の呪縛』著者インタビュー
 浜田 敬子,宮本由貴子
 平成の30年間、日本は経済分野を中心にさまざまな分野で停滞してきた。その要因の一つとして、同志社大学教授で『承認欲求の呪縛』の著者でもある太田肇さんは、「日本では他人から認められたいという根源的な『承認欲求』に、個人も組織も呪縛されたこと」を挙げる。
 「バイトテロ」も、イチローの選手生活終盤の苦しい成績も、若い世代の画一化も、周囲の目を気にしたり、期待に応えようとしたりするために生じた現象だと言う太田さんに、なぜ日本人は「承認欲求」にとらわれやすいのか、そして、「承認欲求の呪縛」を解くための処方箋を聞いた。
 浜田敬子BIJ統括編集長(以下、浜田):近年、飲食店のアルバイトらが不適切な動画をSNSに投稿する「バイトテロ」が問題になっていますが、太田さんはこの要因としても「承認欲求」を挙げていらっしゃいます。
 太田肇さん(以下、太田):「周囲から認められたい」「自分を価値ある存在と認めたい」という承認欲求があると思います。これは人間の根源的で、非常に強い欲求で、あらゆる行動は承認欲求に基づいていると考えています。例えば、従業員がいい評価を得ようと仕事に励む、スポーツ選手がオリンピックの金メダルを、作家が芥川賞直木賞を目標にして頑張る。これらも「認められたい」という気持ちの表れです。
 浜田:真っ当なことですよね。
 太田:これが承認欲求のプラス面です。
 ただ、例えば会社の上司から「素晴らしい成果だった。次も期待してるよ」と言われると、それが重荷となったり、あるいは組織内でキャラを設定されると、その役割を演じないといけないと思うようになったりする。これが「承認欲求の呪縛」なんです。
 「承認欲求なんて気にしていない」と言う人が実はものすごく気にしていることもある。承認欲求は誰の心の中にでも潜んでいるモンスターのようなものです。ですから、その強さや隠された危険性にもっと注目をしてもらいたいのです。
 「期待に応える」に過剰適応
 浜田:著書では、いろいろな現象が承認欲求の呪縛ということで解き明かされています。承認欲求が、いい働きから呪縛になってしまう“境界”はありますか?
 太田:「認められたい」が「認められねば」に変わったときです。
 これまで日本の学校や会社では「期待に応えられる人」が評価されてきました。それにならされた我々は過剰適応しやすい。「課された仕事や勉強を100%こなす。そうすると、さらに目標が高くなる。それでも頑張って達成してしまう」という悪循環に陥る。
 こういう優等生タイプは常に期待を超えて生きてきたから、期待を裏切ることに慣れていない。だから、「できません」と言う自分を許せず、つい頑張ってしまう。でもこれを続けているといつか潰れてしまうでしょう。
 浜田:多くの人が無意識のうちに、承認欲求の呪縛にとらわれているんですね。
 「望ましい日本人」が陥る風土病
 太田:先日、現役引退を表明した野球選手のイチローはかなり承認欲求が強かったと思います。彼はアメリカのメジャーリーグマリナーズ」では素晴らしい成績を残しました。おそらく、この頃は「最高のプレー」をすることだけに集中していた。
 でも、「ヤンキース」に移ってからは本人が「チームのために」プレーするようになったと言うように、「期待に応えなければ」と考えたのでしょう。これに比例するように成績がぐっと下がってしまった。承認欲求の呪縛に陥ったのだと考えています。
 浜田:承認欲求の呪縛は日本特有のものなのですか。
 太田:日本の風土病だと思います。日本では生真面目で几帳面であることが「望ましい日本人」とされてきたということや、恥、面子を重んじる社会ということが前提です。
 例えば企業は、島国であることや終身雇用制になっていて労働力の移動が少なかったために、組織でのポジション争いのときに、誰かが選ばれると誰かが弾かれるということが明らかだった。つまり、優れた人を認めるより、和を乱さない人や決められたことを守れる人を評価する減点主義の傾向になる。
 さらに、効率化を重視する工業社会のおかげで経済成長できたという成功体験が上塗りされて、企業や学校、地域といったあらゆる組織でミスをせずに作業を進められる「いい子」「真面目な人」が求められてきました。 
 根本にある同調圧力や共同体型組織
 浜田:日本企業で評価されるのは、そういう「組織から見た望ましい人」ということですね。
 太田:そうです。彼らは短期的に見れば真面目で、会社としては「望ましい社員」です。でも長期的に見れば、呪縛にとらわれてどんどん内向きになり、イノベーションを生み出せない。組織としても社会としても次第に地盤沈下し、日本全体が縮んでいきます。
 浜田:それでもなぜ、企業は解決しようとしないんでしょう。
 太田:それは既得権が絡んでいるからです。日本の場合、若い人よりも年配の人、女性よりも男性、外国人よりも日本人の方が利益を得ていて、彼らが変えたくないと思っている。そして、その彼らに権限が集中しているのでなかなか変わりません。
 浜田:根深い問題ですね。経営層はイノベーションが生まれない背景として、従業員が承認欲求の呪縛にとらわれていることを自覚しているのでしょうか?
 太田:わかっていないと思います。若い社員が受け身だとか、離職が多いといった現象に対しての危機感はあります。でも、その水面下に承認欲求の呪縛があって、その根本には自分たちの企業がもたらす同調圧力や共同体型の組織があるというところまではわからないでしょう。
 大学入試を頂点とした受験制度の改革を
 浜田:日本の伝統的なエリート企業や官僚などの世界で近年、不祥事が相次いでいます。これは、そこで働く人々が外からどう見られているかという評価を気にしている、つまり、組織自体が承認欲求の呪縛に陥っているように見えます。もっと言えば、日本全体も呪縛に陥っているのではないかと思います。この息苦しさはどうすれば解決できるでしょうか。 太田:それは異論が唱えやすい、一色に覆われるのではないカラフルな世界にするしかありません。大学受験を頂点とする現在の受験制度では「いい子=先生に従う子」でいることが得だということが子どもたちに刷り込まれていて個性を発揮できません。まずは、受験制度を根本から変えることです。
 浜田:平成はもっと多様な価値観が広がるだろうと思っていましたが、実際には共同体意識や同調性がむしろ強まっている。30年前の入社式の写真と最近のものを比べると、今の学生の方が選択肢は多いはずなのに、みんな同じ色のスーツに身を包んでいる。これも「優等生」を再生産するという教育の結果なんでしょうか。
 太田:日本では「個性を伸ばしたい」と言いながら、組織があえて呪縛しようとしている節があります。大学も今は出席をしっかりと取り、単位の認定を厳しくして管理を強化しています。学生たちも社会で「扱いやすい人」が評価されるということを経験的に知っています。
 多元的な居場所をつくる
 浜田:学生や社会人が呪縛にとらわれない方法はありますか。
 太田:自分が属する場所を一つにせず、多元的に帰属することです。学生だったら学校以外にバイト先や家、地元など、社会人なら会社のほかに兼業先や大学院、趣味のサークルといった別の世界を持つことが大事です。
 「今いるここがすべて」となると、そこで承認を失ったら、その人のすべてを失うことになる。そうすると、「人と違ったことをして周りから浮く」なんてことは怖くてできない。つまり、呪縛がますます強まってしまうんです。
 浜田:偏差値教育という世界でずっと承認され続けた人、例えば東大の学生はいかがでしょうか。
 太田:彼らは東大に入ったことがゴールではないことに気づき始めています。以前は優秀な学生は官僚をめざしましたが、今はベンチャー外資系の企業に行きたがる。
 つまり、かつては「東大に入った=自分には能力がある」と思えて、承認欲求が満たされていた。ところが今は、東大卒だからといって必ずしも社会で活躍できないし、学歴のない人に負けることもある。だから、実力で勝負するしかない世界で勝たないと自己効力感を満たせなくなったんです。
 浜田:日本全体が停滞して、「もうこの先はない」というところまできている。東大生も危機感を持ち、企業も追い詰められている。この停滞を解消するきっかけはどんなことでしょうか。
 太田:例えば企業で兼業や副業が認められていけば、まず従業員の意識が変わります。構造的に見ればIT関係は小さな企業が大企業と戦えるようになってきた。そうなると大企業も変わらざるを得ない。社会的に見れば、外国人をはじめとするいい意味での「異分子」が入ることでダイバーシティーが進み、組織の風土が変わっていく。
 こういった「外圧」がきっかけになって、日本全体は大きく変わっていくはずです。その変化はすでに始まっていると思います。
 (聞き手・浜田敬子、文・宮本由貴子)
 太田肇:同志社大学政策学部教授、同志社大学大学院総合政策科学研究科教授、経済学博士。主な研究分野は、個人を生かす組織・社会づくり。1954年兵庫県生まれ。神戸大学大学院経営学研究科修了。『承認欲求』『「ネコ型」人間の時代』など著書多数。
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➰142)─1・A─芸能の民は、穢れた部落民・非人で、悪所に住む異界の住人であり、反権力であった。〜No.293/    

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 歌舞伎などの日本の伝統芸能は、天皇家・皇室のように、特殊な血筋の特別な一族で直系男子のみに御家の芸事を一子相伝として伝えた。

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 伝統的な日本芸能は、女性を華やかな舞台から排除して成立している。

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 日本の伝統芸能は、天皇家・皇室と深い繋がりを持っている。

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 非人の堀越重蔵は、下総国幡谷村(現在の千葉県成田市幡谷)で生まれ、江戸に出て、侠客(きょうかく)・唐犬十右衛門のもとで頭角を現し、江戸の侠客・遅蒔(おそまき)重兵衛の娘と結婚した。

 結婚してから7年経っても子が生まれなかった為に、出生地の幡谷村に近くにあった成田山新勝寺に参籠祈願し、そして授かった男の子に海老蔵と名付けた。

 海老蔵は、成長して歌舞伎役者になって初代市川団十郎となる。

 堀越重蔵の祖先は、甲州武田家の家臣であった。
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 「死」の穢れを秘めた歌舞伎役者と河原乞食。
 幕府は歌舞伎を「悪所」として弾圧した。
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 芸能の民は、公権力が及ばない周縁で、公権力に抵抗し、庶民に毒を撒き散らしながら生きる「異界の人」である。

 異界の住人に、人並みの常識や道徳を求めても無駄であった。

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 田崎健太郎「本来、芸人とは日常生活の埒外(らちがい)に生息する人間たちだ」

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 小林よしのり「権力に対する批判精神を持っているのは立派なことだ。

 元々、芸能は河原乞食から始まったものでしょう。

 時の権力に虐げられ、搾取されたものたちが強者たちを茶化し、からかうことにこそ、芸能の神髄がある。それを忘れず、権力に抗うのは意味のあることです。

 権力と戦うものにとって、風刺は大事な武器なんです。〝王様は裸だ!〟とバカにすることが出来ないと、表現者は丸腰になってしまいます」

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 日本の伝統芸能は、差別された非人・賎民・河原乞食ら下層民が始めた芸事であった。
 江戸・大坂・京は、地方の下層民が大量に移住していた。
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 屍体と血は「穢れ」として忌み嫌われた。
 屍体と血を扱う仕事をする者は、卑しい人間として軽蔑され差別された。
 演技とはいえ「死」を身体で表現する歌舞伎役者は、穢れた人間として差別された。
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 血と死に塗(まみ)れる日本人と言えば、武士・サムライと歌舞伎役者・能楽者と非人・エタなどの賤民は同類であった。
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 芸人といわれた上は歌舞伎役者から下は落語家やサーカス団員に至るまで差別された半人前以下、社会の爪弾きモノ者あるいわかたわ者と蔑まれ、社会的な地位や身分は極端に低かった。
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 歌舞伎は、西洋の演劇や中国の京劇とは違う、日本独自の芝居である。
 まして、朝鮮とは縁もゆかりもない。
 歌舞伎は、日本文明・日本文化・伝統芸能である。
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 日本社会は、アリとキリギリス(セミ)の寓話世界で言えばあり社会である。
 歌舞伎役者は、明らかにキリギリス(セミ)の生き方である。
 日本において、アリはキリギリス(セミ)を見捨てる事なく助ける。
 日本だけが庶民文化を伝統文化へと高め発展できたのは、歌舞音曲に生きるキリギリス(セミ)が真面目に働くアリに助けられたからである。
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 日本は、血と死を忌み嫌い、血と死を扱う者はもちろん演じる者も穢れた者として嫌われ差別され迫害対象となった。
 非人や穢多は、それ故に嫌われ、差別され、迫害された。
 自然災害による飢饉や疫病が発生すると、地方・田舎の被災者達は食べ物を求めて非人や穢多が住む貧民窟に流れ込んでいた。
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 初代 市川 團十郎(いちかわ だんじゅうろう、万治3年(1660年) - 元禄17年2月19日(1704年3月24日))は、元禄歌舞伎を代表する江戸の役者。立役を得意とし、荒事芸を歌舞伎に導入した。團十郎が考案した見得は「元禄見得」と呼ばれる。  

 歴史
 初代市川團十郎の父は甲州出身で、異名を「面疵(つらきず)の重蔵」、「菰(こも)の十蔵」と呼ばれた侠客だったという。さらにさかのぼると武士で後北条氏の家来であったという説もあるが、これは甲州の出ということ以外は疑わしい。「菰の十蔵」というのは十蔵が非人出身なのでお菰(コジキ)の意味でそう呼ばれたものとされる。十蔵は甲州から出てしばらく下総国に住んだのち、江戸和泉町に住み着いたといわれている。
 昭和初期に山梨県笛吹市一宮町の旧家で発見された堀越氏系図によると、遠祖は能係を務めた武田家臣で、初代團十郎の曾祖父にあたる堀越十郎が市川三郷町(旧三珠町上野)の地を領し、武田滅亡後に下総国へ落ち延びたという。ただし市川宗家は、初代團十郎成田山新勝寺にほど近い幡谷の出身で、新勝寺とは少なからず縁があったと公式に表している。これが「成田屋」という市川宗家の屋号の由来である。
 近世初期には長吏頭・弾左衛門支配下にあった。しかし歌舞伎関係者は自分たちの人気を背景に弾左衛門支配からの脱却をめざした。宝永5年(1708年)に弾左衛門との間で争われた訴訟をきっかけに、ついに「独立」をはたす。江戸歌舞伎を代表する市川團十郎家は、このことを記念する『勝扇子(かちおうぎ)』という書物を家宝として伝承していた。またこの訴訟は、歌舞伎十八番の1つ『助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』成立の契機となったという有力な説もある。しかし、歌舞伎役者は行政的には依然差別的に扱われた。彼らは天保の改革時には、差別的な理由で浅草猿若町に集住を命ぜられ、市中を歩く際には笠をかぶらなくてはならないなどといった規制も受けた。歌舞伎が法的に被差別の立場から解放されるのは、結局明治維新後のことだった。
 経歴
 幼少の頃の事績はほとんど伝わらない。芝居の道に入って、最初は市川海老蔵を名乗ったが、延宝3年 (1675年) から市川團十郎を名乗る。同8年 (1680年) につとめた『遊女論』の不破伴左衛門が当たり役となった。
 貞享2年 (1685年)、江戸市村座において『金平六条通』の坂田金平を勤め、それまでの初期歌舞伎にあった「荒武者事」と金平浄瑠璃の荒事とを加味して、歌舞伎における荒事芸を完成させた。これによって江戸で絶大な人気を得、以後230余年にわたって江戸歌舞伎の頂点に君臨した市川宗家の基礎を築くことになる。
 元禄6年 (1693年)、上洛して京都の舞台に出演するが評判は悪く、1年あまりで江戸に帰る。ただしこのとき椎本才麿(しいのもと さいまろ)に入門して、才牛の俳名を得た。
 狂言作者としても三升屋兵庫(みますや ひょうご)の名で活躍し、『参会名護屋』などの作品を残している。初期の荒事が歌舞伎のなかに定着してゆく過程において、團十郎が役者と作者を兼ねたことは、市川家の荒事芸が独自の性格を持つことに繋がった。
元禄17年2月19日(1704年3月24日)、市村座で『わたまし十二段』の佐藤忠信役を演じている最中に、役者の生島半六に舞台上で刺殺された。享年45。一説に、半六は自身の息子が虐待を受けたことで團十郎を恨んでいたとも言われるが、明確な証拠はなく、この事件の真相は現在も不明である。
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