🌈91)─1─他人に嫌われたくない日本人の「和の心」には2つの側面がある。~No.156No.157 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2024年3月28日 YAHOO!JAPANニュース ニューズウィーク日本版「他人に嫌われたくない日本人の「和の心」には2つの側面がある...なぜ「戦略的アップデート」が必要なのか
 <内輪づきあいを超え、他者との和を構築できるかが求められるようになってきている。重要な役割を果たす「信頼」をどのように拡げていくのか。WEBアステイオンより>【橋本博文(大阪公立大学大学院文学研究科准教授)】
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■安心と信頼
 私たちは、他人の目を気にしてしまう生き物である。他人からの評価を気にして、まわりの人たちから嫌われないように自身の言動を周囲に合わせようとするのは、ヒトという種に進化的に組み込まれた自然な心性に裏打ちされたものだろう。
 【動画】海外メディアにおすすめ旅行先として紹介される日本
 いまからさかのぼること四半世紀も前に、嫌われたくない日本人の心性を鋭く分析した一冊の本がある。山岸俊男の『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)である。
 山岸は日本人が互いに信頼したり協力したりしあう実状を、信頼ではなく「安心」という語を用いて表現する。
 ここでの安心とは、「内輪づきあい」と呼ばれるような既存の人間関係の内部で相互に監視・規制(ときには制裁・排除)しあうことにより、そうした関係から逸脱することが損になる状況をつくりだしたうえで、まわりは自分を裏切ることはないだろうと期待することを意味する。
 こうした状況が常につきまとう社会に身を置く限りは、たとえ裏切りそうだと思える人物であったとしても「安心」してつきあうことができるというわけである。
 このような内輪づきあいの人間関係から生まれる安心は、内輪の外にいる他者一般に対する「信頼」の欠如と表裏一体である。
 山岸の研究知見において特筆すべきは、日本人に特有とされる心のあり方(他者一般に対する信頼の欠如)と日本社会のあり方の動的な関係を、ゲーム理論で言うところの「均衡状態」として捉えている点である。
 つまり、人間関係の固定性と閉鎖性が、個々の日本人の一般的信頼の欠如を生み出すことで、ますます固定的・閉鎖的な社会関係が重要視されるようになる。その結果として、内輪の外にいる他者一般に対する信頼の欠如が促されるという循環的なメカニズムが働く。
 例えば、ある人が「人を見たら泥棒と思え」という諺のとおりに、とりあえず他人を信頼しないという判断に至るのは、その人が固定的・閉鎖的な人間関係の中に生きるがゆえであると考えられる。
 そして、まさにそうした他者一般への不信によって人間関係を閉ざしてしまうと、初対面の他者と新たな関係を積極的に構築する筋合いもなくなり、既存の人間関係の内部で、まわりから嫌われないようにふるまうことに固執するようになる。
 『安心社会から信頼社会へ』が上梓されたのはもうずいぶん前のことだが、この本の中に満ちている深い考察がもつ説得力はいまだ健在である。
■和の二側面
 山岸は、『安心社会から信頼社会へ』の中で、他者一般に対する信頼によって成り立つ、「より開かれた社会」への移行の重要さを説いていた。
 四半世紀が立った今、押し寄せるグローバル化の潮流の中で、他者一般を信頼することの意味やメリットを考えることの重要さもますます増してきている。
 しかし、日本人の心のあり方はいまだ安心社会に適応したままの状態にあり、多くの日本人は袋小路に迷い込んでいるように筆者には見える。そのため、社会のグローバル化の波にすぐに向き合えないとしても決して不思議ではない。
 安心社会に身を置く限りは、既存の人間関係の枠を拡げられないという問題が際立つ。したがって、安心社会のみならず、他者一般との信頼関係も希求しあう信頼社会に適応するための生き方も志向し、そのための心のあり方を併せ持つメリットにも目を向ける必要がある。
 そこで筆者は、信頼社会への移行に際して、日本人の「和の心」をアップデートすることが必須であると考えている。
 一般に和の心というと、まわりの人たちの気持ちを慮(おもんぱか)る心、いわば「思いやる」心を指すと考えられている。しかし、そうした心とセットにして議論される和のあり方には、弁別すべき二つの側面がある。
 一つは、まわりの人たちとの和を新たに構築するという側面であり、もう一つは、すでに存在している和を維持するという側面である。
 安心社会に適応するための心の性質を身につけてきた日本人は、前者ではなく後者の意味での和の維持に長けているはずである。
 実際に、筆者らが行った国際比較調査の結果によると、世界の人たちと比べて日本人に顕著に示されるのは、まわりの人たちから嫌われるのを避けようとしたり、意見対立を回避しようとしたりするといった和の維持を志向する心のあり方のみである。
 このまわりの人たちから嫌われるのを避けようとする心のあり方は、他者一般に対する信頼の欠如や、内輪づきあいの外にいる他者一般に対する寛容性の低さなどとも関係していることがわかっている。
 しかし、筆者が強調したいのは、まわりの人たちとの和を主体的・積極的につくろうとするといった和の構築にかかわる心の性質に文化差は示されていないという点である。
 和の輪を拡げる
 前述した「和の心」のアップデートとは、和の輪を拡げるための心の性質を身につけることを意味する。
 内輪づきあいの人間関係の維持に専念し、安心している限りは、和の輪の範囲は拡がらないばかりか、そうした人間関係の内部でまわりから嫌われないような心のあり方に縛られる生き方しかできなくなる。
 そうした心のあり方をアップデートし、自ら主体的に和の輪を拡げられるように、内輪の外にいる他者一般に対する信頼や寛容性の水準を高めておく必要がある。
 これは、そうしたほうが結果的に多くの機会を得られるという、いわば損得にかかわる話であると割り切って考えてもよい。
 日本人の間では、「一度人生のレールから外れるとやり直しがきかない」、あるいは、「失敗するリスクの少ない無難な生き方を選ぶ方が賢明」といった考え方が根強くみられる。
 また、失敗をした人物に対する周囲の評価も厳しい。そうした否定的な評価こそが、失敗した当人の這い上がりを難しくさせる。
 そのため、社会全体としては、一度失敗したとしても「再挑戦」できる機会を可能な限り多く創出することが不可欠である。
 そうした機会が多く創出されはじめれば、人々の志向も自ずと変化し、既存の和を維持することにのみ縛られず、他者一般をまずは信頼すること、そして、自らが選ばれるためのスキルの習得を通した新たな和の構築も促されていく。
 既存の人間関係における和の輪を拡げ、他者一般に対する信頼や寛容性の水準を高めた方が戦略的に有利となる、より開かれた社会のあり方への転換はすでにはじまっている。
 その意味において、他者から嫌われないような生き方のみに固執する適応価は失われつつある。内輪づきあいを超えた、他者一般との間での和を構築できるかが、日本社会を生きる多くの人々に求められるようになってきている。
 『安心社会から信頼社会へ』で語られている他者一般に対する「信頼」は、これからますますその重要な役割を果たすはずだと筆者は考えている。
 橋本博文(大阪公立大学大学院文学研究科准教授)
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 3月28日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「「気を遣いすぎる」のは、日本人の長所か欠点か? “なあなあ”の国・日本が「誇れるもの」もある!それはいったい「何」か?
 プロデューサーであるつんく♂さんと起業家である孫泰蔵さん、異なる2人のプロフェッショナルによる対談、第4回(撮影:尾形文繁)
 音楽家、プロデューサーのつんく♂さん、連続起業家としてさまざまな事業を手がける孫泰蔵さんの対談。
 2023年、つんく♂さんが『凡人が天才に勝つ方法 自分の中の「眠れる才能」を見つけ、劇的に伸ばす45の黄金ルール』、孫泰蔵さんが『冒険の書 AI時代のアンラーニング』をそれぞれ刊行。お互いの著書を読み、仕事論からAI時代の話まで、深い話は尽きることなく盛り上がりました。
 【写真で見る】「気を遣いすぎる」のは、日本人の長所か欠点か?“海外の視点”を取り入れて解説する、つんく♂孫泰蔵
 今回は、日本と海外の仕事のとらえ方の違いや、そこから生まれるメリット、デメリットについて話し合います。第4回目(全6回)。
 *この対談の1回目:「仕事で成功するのはプロか天才か?」意外な結論
 *この対談の2回目:AI時代「子どもが不登校でも“問題”ない」本当の訳
 *この対談の3回目:日本の会社員が「世界中から嫌われる」納得の理由
■ネイティブ同士は「なあなあ」「ふわっと」なりやすい
 孫:日本は特に同調圧力を感じ取りやすいと思います。
 相手を慮って、気を遣い合って……というのは決して悪いことではないけれど、気を遣いすぎた結果、「既存の範疇外のことをしたらまずい」という空気があるんですよね。
 つんく♂:たしかに、何をするにも周りを見てから、ですよね。
 孫:日本で仕事をしていると、基本的に日本人とばかり会って、日本語でやりとりしますよね。
 ネイティブ同士の世界にいると、みなまで言わなくても「いつもの感じでさ。うまくやろうよ」「わかりました。うまくやりますわ」みたいに進むでしょう。
 つんく♂:いわゆる「なあなあ」の世界ですね。
 孫:外国人がいたら「うまくやりましょうってどういうことですか?」と聞かれますから、きちんと説明しなきゃいけないですよね。
 ネイティブ同士の世界だと、ふわっと進んでやりやすい面もあるでしょうが、いざうまくいかないときに、なぜうまくいかないのか、どこを変えたらいいのかが見えないんです。
 だから、うまくいかなくても「よくわかんないっすねー」みたいに相変わらずふわっとして、結局、停滞してしまうんですよね。
 言い出しっぺが悪者になる世界
 つんく♂:うまくいっているときは、「古いやり方はやめよう」「もっといい方法がある」なんて言い出した人が悪者になりますよね。もっとよくしようと思って言っているのに、「あいつが言ったからめんどうくさいことになった」みたいな感じで。
 孫:そうですよね。みんな言い出した人のせいにして、「自分は関係ないです」みたいな感じになりがちですよね。そうしたらみんな言わなくなりますよ。言うだけ損だから。
アメリカでは、要求しないと水は飲めない
 つんく♂:たとえばアメリカ人だってみんながみんな積極的ではないですが、日本のような忖度はありませんよね。
 孫:アメリカ人だって気を遣う人もたくさんいるけど、さすがに「それを言うとまずいんじゃないか」という雰囲気までにはならないんですよ。
 つんく♂:僕が今住んでいるハワイは「多言語社会」でいろいろな民族がいるから、日本のように「のどが渇いたかも」と言っても飲み物は出てこないんです。ちゃんと「水が1杯ほしい」と言う必要があるわけですよね。
 それは気を遣ってくれないわけじゃなくて、いろんな言語の人がいるから、要望があればわかりやすく英語に置き換えて伝える必要がある。日本人のようにニュアンスでは通じない。
 孫:たしかにそうですね。
 「業者もゆるい」のがハワイカルチャー
 つんく♂:反面、ハワイで感じたのは「責任者って誰?」みたいな言葉が伝わらないことです。
■ハワイでは「責任者、誰?」が伝わらない
 つんく♂:たとえば家にトラブルがあって業者を呼んだとき「これって、どこに責任があるの?」と聞くと、「えっ?  じゃあ直さないんですか?」と言われる。
 「いや、直すけど、誰が責任をとるの?」「保険会社です」「いやいやお金を払うのは保険会社だけど、このトラブルの責任はどこにあるの?」「いやあ……」というやりとりになるんですよ。
 孫:ハワイのカルチャーもあるかもしれませんね。僕もハワイで水道漏れの業者を呼んだら、直せないっていう。「あなたはプラマー(配管工)なのになぜ直せないのか」と聞けば「いや、部品が今ないから」って。
 つんく♂:そういうの、めっちゃあります(笑)。
 孫:「いつ直るの?」と聞いても「部品が来るまで直らないよね」と言われて、「いや、誰かちゃんと責任持ってよ」と言っても「いや、部品が来るまでは難しいよね」としか言われない(笑)。
 孫:たとえばシリコンバレーだと、問題が起こる前に「ここ、ちょっとまずくない?」と言う人が出てきて、「たしかにここは事前に対策しておかないとまずいね」「じゃあ、俺が言い出したから俺がやるわ」という感じです。
 つんく♂:その的確さがあるのもシリコンバレー特有な気もします。そうすることで評価されて、報酬もきちんと上がっていくわけですよね。
シリコンバレーで「足の引っ張り合い」が少ない理由
 孫:シリコンバレーは事業がうまくいけばストックオプションにもろ反映されますから、ボーナス2割アップとかいうレベルじゃなく、将来、何億、何十億という差になっていく。だから足の引っ張り合いじゃなく、全体の利益を考えるんです。
 「お前より俺のほうがうまくできる」と思えるなら、積極的に仕事をとりに行く人もいる。そのとき「それは俺の仕事だ。お前にとられる筋合いはない」なんて言われないわけですよ。
 「たしかにこの仕事はお前のほうが向いている。じゃあ俺はこっちやるわ」というコラボレーションになる。全体がうまくいけばみんなが潤うことがわかっているからです。
 つんく♂:個人のレベルが高いからこそでしょうね。めちゃくちゃうまい人たちが野球をしている感じで、ランナー2塁でピッチャーゴロだったら、誰が捕ってどこに投げるかをチーム全員が脳で考える前に体が完璧にわかっているような。
 孫:そうです。そもそもプロフェッショナルな人材が集まっているので、人材を育成しようという雰囲気がないんです。
 でも、すごい人たちだらけだから、お互いに学び合うし「それすごいから自分にも教えて」「どうぞどうぞ」、「その件なら知り合いの詳しい人を紹介するよ」「ありがとう」みたいに、自然と高め合っていく感じですよね。
 つんく♂:でも、僕が日本っていいなと思うのは、やはり接客力というか「おもてなし文化」ですよ。ホテルや空港、ちょっとしたカフェだってかゆいところに手が届くサービスをしてくれる。あれは世界に誇れるものだと思うんだけどなあ。
■日本の「おもてなし文化」は世界に誇れるか!? 
 孫:他国は接客について重要視していないとか、ホスピタリティにまったく興味がないのかも。だから「僕に言われても困るよ」みたいな感じになりがちですよね。
 おもてなし文化とシリコンコンバレーの話でわかるのが、全体的に平均が高いけど突出した人がいない日本と、数少ないすごい人たちが突出して二極化しているアメリカということかもしれませんね。
 つんく♂:たしかに、日本人の平均的なレベルは高いですよ。
 孫:シリコンバレーを理想とすれば「日本はつまらない」と感じるでしょうし、一方おもてなし文化に感銘を受けると「日本最高」と感じるでしょうね。
 おもてなしについては、僕もつんく♂さんと同感です。どちらがいいかと言われると、なんとも言えませんが。
 つんく♂:「なあなあ」や過度な忖度はビジネスの世界では悪手でしょうが、一方、日本人の気遣い文化みたいなものも、評価されてほしいですよね。
 *この対談の1回目:「仕事で成功するのはプロか天才か?」意外な結論
 *この対談の2回目:AI時代「子どもが不登校でも“問題”ない」本当の訳
 *この対談の3回目:日本の会社員が「世界中から嫌われる」納得の理由
 対談場所:Rinne.bar/リンネバー
 お酒を飲みながら、カジュアルにものづくりが楽しめる大人のためのエンタメスポット。廃材など、ゴミになってしまうはずだった素材をアップサイクル作品に蘇らせる日本発のバー。
 つんく♂ :総合エンターテインメントプロデューサー/孫 泰蔵 :Mistletoe Founder
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38)─2・B─古事記は縄文時代の火山巨大噴火の記録であった。〜No.84 

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 日本の山岳信仰と中国・朝鮮の山岳信仰とは違う。
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 万世一系世襲血族だけが天皇に即位でき、血統でない赤の他人が天皇に即位できなかった本当の理由とは。
 太陽神の天照大神(女性神)と火山神の素戔嗚尊(男性神)は天皇家(現皇室)と心・血・志で繋がった祖先である。
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 2024年3月27日 日刊ゲンダイDIGITAL BOOKS BOOKSニュース「「古事記」は火山巨大噴火の記録だった?
 日本最古の歴史書として、和銅5年(712年)に編纂された古事記。その内容は、国産みや高天原での岩戸隠れなど、さまざまな神話にあふれているが、これらを日本列島における火山活動と結びつけて考察しているのが蒲池明弘著「火山で読み解く古事記の謎」(文藝春秋 920円+税)である。
 今から7300年前、九州本島南端の沖合で「鬼界カルデラ噴火」と呼ばれる巨大噴火が起きた。本書では、この噴火の記憶が、皇室の祖神であるアマテラスと弟スサノオの物語に投影されているとしている。
 姉の領国である高天原で大暴れをする弟の行いを苦に、岩の洞窟に隠れてしまう姉。その結果、世界に「常夜」が訪れる―――アマテラスの「岩戸隠れ」と呼ばれるエピソードだ。
 この永遠に続く暗闇は、一般的に日食あるいは冬至の表現と考えられてきた。しかし本書では、戦前の物理学者で東京帝国大学地震研究所所員だった寺田寅彦の論考などを基に、火山噴火に伴う噴煙・火山灰により空が覆われた、という説を提示している。古事記では、常夜にうろたえた神々が会議を開き、鏡や勾玉を作り、さまざまな祭祀が執り行われる。数分で終わる日食では、神々があらゆる方策を講じる時間もなく、冬至では神々をうろたえさせるほどの暗闇は訪れないだろう。
 また、スサノオ高天原で大暴れする際には、川と海の水を飲んで号泣し、干ばつを起こし、樹木は萎え、邪悪な神がハエのように大地を蠢き……などの描写がある。水が荒れ狂うさまから津波や台風を連想するところだが、これも巨大噴火の影響とみることができる。何しろ、鬼界カルデラ噴火の際に放出されたマグマの総量は、東京ドーム10万杯といわれている。これだけのマグマが噴出すれば、川や海は埋め立てられ、火山灰や火砕流が大地を焼き焦がすことは明白。スサノオの暴挙と一致するわけだ。
 著者は、本書が学会の主流から外れた“トンデモ”の部類であるとも述べている。しかし、古代の人々にとって巨大噴火は神のなせる業であり、そこに思考が生じて神話が誕生するきっかけとなっても何ら不思議はない。近年、多くの自然災害に見舞われてきた日本人にとってもしっくりくる、新しい古事記の読み解き方だ。
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 日本の自然災害において、科学的想定外は存在しない、全てが歴史的想定内である。
 日本の自然には、安全神話は存在しないし、啓示宗教は無力である。
 日本民族は、地獄の釜(マグマ)の薄板(岩盤)の上で生活して生きてきた。
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 日本民族の宿命とは、海外から新しい知識、技術、文化、その他を絶えず貪欲に受け入れなければ、過酷な自然環境で生き残る事ができない事であった。
 それが、古事記日本書紀における記紀神話であり、皇室神話に脈々と受け継がれている。
 現代日本人は、戦後民主主義教育の歴史教育を真面目に素直に学んだが為に、民族的な伝統・文化・歴史そして宗教による事実・現実を忘れ、日本民族を滅ぼす怖れのある火山神話が理解できなくなっている。
 反宗教無神論の文化マルクス主義者であるエセ保守とリベラル左派は、記紀神話天孫降臨神話・天皇神話を否定する。
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 2015年8月16日 日本神話の基本が火山神話であることについて。
 噴火のニュースが本当に目立つようになってきた。
 珍しい冨士火山の女神の画像を載せておく。一一世紀製作、木造浅間神像。富士山と結びついた仙女像。
 平成25年重要文化財指定。中央の如来と三女神像
 日本神話の基本が火山神話であることについて、拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)の179頁を引用しておく。これに天孫降臨神話をあわせて考えることが必要だが、それについては拙著『物語の中世』の文庫版あとがきをみていただきたい。
 12月23日に十和田噴火1100年のシンポジウムがあり、それにむけて、もう一度やっている。
 日本神話における火山の神は女神イザナミである。これは神話学の古典業績の一つ、松村武雄の『日本神話の研究』が女神イザナミの国生神話の解釈によって明らかにされている。イザナキ・イザナミは「ミトの婚合」ののち日本の島々を生みだすのである。「土地の起源が人の生殖として語られたことは(世界で)他に類例がない」「無理な考え方」であるというのが津田左右吉の神話論の基本的な前提の一つであったが、松村の仕事によってそれはすでに成り立たなくなっている。
 神話学の大林太良によっても、出産によって国や島が生まれるというスタイルの神話は、太平洋地域に広く分布しているという。ほぼ同じ地域に「海中に火の起源を求める神話」が分布するというのも重要であろう。ポリネシアでは最初の火の持ち主は地下の冥府にの女神マフイカであり、英雄マウイは彼女を殺して火を現世にもたらした。このような女性の体内・陰部からの火の起源説話について、神話学では、イモ類・雑穀栽培に随伴する死体化生型(ハイヌヴェレ)の作物起源神話、あるいは焼畑文化との関係で論ぜられてきた。しかし私は、その分布地域がまさに環太平洋の火山地帯にあたることに注目すべきだと思う。これらは海底火山の噴火の経験の神話化と考えるべきであろう。
 そうだとすると火山列島・日本の山の神が女神であることは自然なことである。たとえば、『常陸国風土記』には、「御祖の尊」が富士と筑波の神のもとを訪れた時のエピソードがあるが、この「御祖の尊」の御祖については漠然と「尊貴な祖先の神」と理解されることが多いが、たとえば賀茂御祖社の例が示すように、「御祖」とは母親を意味する。この神は、山々の「御祖」である大地母神なのである。この母親の訪問に対して、富士の神が「今日は『新粟』の新嘗の収穫祭の夜で物忌の最中なので、申し訳ないが駄目です」といったのに対して、筑波の神は「物忌ではあるけれども、親のいうことが何よりです」といって歓迎したという訳である。彼らも女神であろう。
 このエピソードは、富士の位置からして、列島の地母神が母娘の火山の女神からなっていることを示している。もとより、筑波山は、火山ではない。しかし、御祖尊が筑波を褒めて「愛しきかも我が胤 巍きかも神宮」と謡ったことは、当時の「神宮」の用例からすると、筑波山が火山とみなされていたことを示している。筑波山は、地下で固まって噴火しなかったマグマだまりが地上に露出したものであって、今でも火山と思われることも多い。そして標高が高く、火山山頂らしい磐座の発達した方を女体山としていることも示唆的で、筑波の神が女性上位であったことは間違いないのである。
 門口で拒否された「御祖の尊」が富士を呪い、筑波を褒めたのが、二つの山の運命を分けた。そのため富士山はつねに厳しい寒さの中におかれて人々が上ることもできないのに対して、筑波山が豊かな水と草木にめぐまれて東国の人々が集まり遊ぶ山になった。『新粟』の新嘗の夜の物忌において客神を歓待するかどうかが、その原点となったというのであるが、この「粟」の新嘗という場合の「粟」は穀物一般を意味するという見解もあるが、粟の焼畑の収穫と考えて問題はない。富士の女神は火山の女神であるとともに粟焼畑の女神でもあったのである。ここには火山神話が作物起源を語る豊饒の神話に展開する事情がよく現れている。
 この点では、九世紀の伊豆神津島の海底噴火が、神津島火山の女神、阿波神が「三嶋大社の本后にして、五子を相生む」と神話化されていることも重要である。つまり、この神津島の女神の名、「阿波神」の「阿波」は「粟」に通ずる。大林太良は、国生神話でイザナミの生んだ「粟の国」が「大宜都比売」と呼ばれていることに注目し、日本における原初農業神は粟などの焼畑耕作にかかわるオオゲツヒメであるとした。「阿波神」とはオオゲツヒメのことであったに相違ない。
 オオゲツヒメについては、『日本書紀』『古事記』に語られた農業起源神話の一つに、天から放逐されたスサノヲが、地上を経巡っていた時に妹のオオゲツヒメにであったというエピソードがある。オオゲツヒメは、スサノヲに同情して、鼻や口また尻から「味物」を取り出して、スサノヲを歓待しようとした。スサノヲが、それを汚いと怒って彼女を殺害したところ、オオゲツヒメの頭には「蚕」がなり、目には稲種がなり、耳には粟がなり、鼻には小豆がなり、陰部には麦がなり、尻には大豆がなったという訳である。地震神、スサノオという観念が九世紀の地震史料の中に確認された以上、東国の火山噴火の中に、スサノオと対をなす神話的な女神の観念が生きていたというのは自然なことといえよう。
 地震神が男神であるのに対して、火山神の肉体は女体であったということになるが、これが九世紀にも信じられていたことは、『延喜式』に残された次の「鎮火祭祝詞」の一節に明らかである。
 神伊佐奈伎・伊佐奈美乃命の妹妋の二柱、嫁し継ぎ給ひて、国の八十国・島の八十島を生み給ひ、八百万神等を生み給ひて、まな弟子に、火結神を生み給て、美保止焼かれて石隠れ座して
 つまり、イザナミは「八十国、八十島を生み給い」、その後に「火結神」(火熱の神)を生んで「美保止=ミホト」(陰部)を焼いて死去したというのである。松村によれば、このミホトの原義は「ほとぼり」(熱)の「火処」であって、女性の性器や、噴火口や鍛冶の火床などを表現する。ホトには山間の窪地という意味もあるが、クボも「中央の窪んだところ」という意味から女性性器を意味する。巨大な地母神イザナミが豊饒の神であったのは、焼畑という農業生産のあり方に根づいたものであると同時に、彼女がエロスの神であったことにも深く関わることであったといわねばならない。
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 スサノヲ神話は火山現象?…寺田虎彦の地球科学的な解釈
 神話の「世界観」~日本と世界(5)寺田寅彦の日本神話解釈
 鎌田東二鎌田東二京都大学名誉教授
 寺田寅彦
 出典:Wikimedia Commons
 物理学者・寺田寅彦はかつて「地球物理学的にわが国の神話を見ていくと、日本の国土にふさわしい自然現象が随所に見られる」と述べた。それはどういうことなのか。話は彼が指摘する日本神話の具体的解釈へと進んでいく。(全8話中第5話)
 ※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
 時間:15:21
 収録日:2020/12/07
 追加日:2021/10/17
 カテゴリー:
 歴史・民族歴史・民族一般
 文化・芸術異文化理解
 キーワード:
 神話 寺田寅彦 神々 自然 地球物理学
 ≪全文≫
●わが国の神話は日本の風土に則ったもの
 鎌田 少し話が横道に逸れて、生命の不老不死の起源の話になりましたが、話を元に戻します。寺田寅彦の「スカンジナヴィア神話と日本神話の間の対比」ですが、彼は日本のことをどう言っているか。寺田寅彦の「神話と地球物理学」の1節では、こう言っています。
 「それで、わが国の神話伝説中にも、そういう目で見ると、いかにも日本の国土にふさわしいような自然現象が記述的あるいは象徴的に至るところにちりばめられているのを発見する。
 まず第一に、この国が島国であることが神代史の第一ページにおいてすでにきわめて明瞭に表現されている。また、日本海海岸には目立たなくて太平洋岸に顕著な潮汐の現象を表象する記事もある。
 島が生まれるという記事(国産み神話のこと)なども、地球物理学的に解釈すると、海底火山の噴出、あるいは地震による海底の隆起によって海中に島が現れ、あるいは暗礁が露出する現象、あるいはまた河口における三角州の出現などを連想させるものがある」
 日本という島国ができていく地球科学的な生成の過程は、例えばプレートテクトニクスという理論によって、今は科学的にほぼ解明されています。そのような観点で神話の物語を見ていくと、火の神の物語とは火山の噴火であるとか、あるいは神々が日本という国を生んでいく物語は海底火山の隆起であるなどと解釈できる、と言っています。
 そして、スサノヲ神話についてこう述べています。
 「なかんずく速須佐之男命に関する記事の中には、火山現象を如実に連想させるものがはなはだ多い」
 つまり、スサノヲ神話とは火山現象であるというのです。
―― なるほど。
 鎌田 例えば、「その泣きたもうさま」について、『古事記』の中には小さいときからひげが胸先まで伸びるまで泣き叫んでいたという記述があるのですが、このように言うわけです。
 「『その泣きたもうさまは、青山を枯山なす泣き枯らし、河海はことごとに泣き乾(ほ)しき』というのは、何より適切に噴火のために草木が枯死し、河海が降灰のために埋められることを連想させる。噴火を地神の慟哭と見るのは適切な譬喩であると言わなければなるまい」。
 それから、スサノヲノミコトがアマテラスオオミカミに会いに行くときに周りに地響きがするといったことや、自分がウケヒに勝って乱暴狼藉を働いたときに田んぼの溝を埋めたり、大嘗殿に糞をしたりする記述があるのですが、これらを寺田寅彦は、「噴火による降砂降灰(降ってきた火山灰)の災害を暗示する」ようだとしている。
 そして、スサノヲノミコトが天の斑馬を逆剥ぎに剥いで、血だらけになったその馬を、機織り女が機を織っているところに投げ入れ、驚いた機織り女が機織りの樋(針)でほとを突いて死ぬ。このあまりの痛ましさ、傍若無人にアマテラスが怒り悲しんで、天岩戸に押し籠もった――このような話になるわけですが、その投げ入れたさまを「火口から噴出された石塊が屋をうがって人を殺したということを暗示する」としています。
 数年前に木曽御嶽山が突然噴火して、登山している人々が数十人亡くなるという悲劇がありました。これに近いことが実際にあったという解釈ですね。
―― 興味深い解釈ですね。
 鎌田 日本の風土に則った解釈ということになります。
日蝕でなく火山鳴動――真に迫った寺田寅彦の解釈
 鎌田 そしてその後、「高天原がみな暗く、葦原中国がことごとく暗かったというのも、噴煙降灰による暗さである」としています。
 これについては日蝕神話だという解釈もあります。日蝕になり、太陽と地球の間に月が入ることによって、太陽と月の大きさがほぼ同じであるために真っ暗になってしまい、周りの太陽フレアだけがわずかに見える。アマテラスオオミカミが天岩戸に隠れたのは、そのような日蝕現象だというのが1つの神話解釈としてあるのですが、寺田寅彦は「それは少し違うだろう」と言います。
 なぜ違うかというと、日蝕は短時間の暗黒状態でしかないからです。
―― 比較的すぐ明るくなってきますよね。
 鎌田 これを見て、神々が鏡を作ったり、玉を作ったりして、いろいろと相談して方策を講じるということですが、その間にかなりいろんな災いが起こってきたりするということは、それほど短時間ではないだろうというわけです。短時間に神事を行う相談をし、お膳立てして、祭のパフォーマンスを行うことなど絶対にできない。神々の時間がどのようなものか、分かりませんけれど。
 そこで寺田寅彦は、これは日蝕だと解釈するのではなく、火山鳴動の後、噴煙、降灰現象によって空に暗雲が漂って暗くなり、そのような状態が相当長い時間、...
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 山岳信仰とは何?神道や仏教との関わりや、有名な霊峰をご紹介!
 公開日 : 2020/5/13
 更新日 : 2020/9/10
 山岳信仰とは何かご存じでしょうか。知らないという方も、大地にどっしりと根付き、たくさんの恵みを与えてくれる山に大いなる力を感じたことはあるかもしれません。山を神と見なし、崇めてきた日本古来の信仰「山岳信仰」と仏教との関係、有名な霊峰についてご紹介します。
 山岳信仰とは?
 山岳信仰とは、山に神々が宿るとし崇拝する信仰のことです。国土の7割以上を山地が占める日本に住む人々にとって、山は水や木、動物と言った生きるために大切な物を届けてくれる反面、火山噴火や土砂崩れなどといった恐ろしい災害ももたらす、まさに神のような存在だったのです。
 日本の山岳信仰は仏教とも結びつき、独自の進化を遂げていきました。山岳信仰がどのように始まったのか、仏教や人々の生活とどのような関係があるのかお話します。
 山岳信仰の発達
 まずは、山岳信仰がどのように生まれ、どのように仏教と結びついたかをご紹介します。
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 ウィキペディア
 山岳信仰(英語: mountain worship)とは、山を神聖視し崇拝の対象とする信仰。
 解説
 山岳信仰は、自然崇拝の一種で、狩猟民族などの山岳と関係の深い民族が山岳地とそれに付帯する自然環境に対して抱く畏敬の念、雄大さや厳しい自然環境に圧倒され恐れ敬う感情などから発展した宗教形態であると思われる。山岳信仰では、山岳地に霊的な力があると信じられ、自らの生活を律するために山の持つ圧倒感を利用する形態が見出される。
 これらの信仰は主に、内陸地山間部の文化に強く見られ、その発生には人を寄せ付けない程の険しい地形を持つ山が不可欠とされる。
 そのような信仰形態を持つ地域では、山から流れる川や、山裾に広がる森林地帯に衣食住の全てに渡って依存した生活を送っており、常に目に入る山からの恩恵に浴している。その一方で、これらの信仰を持つ人々は、険しい地形や自然環境により僅かな不注意でも命を奪われかねない環境にあることから、危険な状況に陥る行為を「山の機嫌を損ねる」行為として信仰上の禁忌とし、自らの安全を図るための知識として語り継いでいると考えられる。
 日本の山岳信仰
 日本の古神道においても、水源・狩猟の場・鉱山・森林などから得られる恵み、雄大な容姿や火山などに対する畏怖・畏敬の念から、山や森を抱く山は、神奈備(かんなび)という神が鎮座する山とされ、神や御霊が宿る、あるいは降臨する(神降ろし)場所と信じられ、時として磐座(いわくら)・磐境(いわさか)という常世(とこよ・神の国や神域)と現世(うつしよ)の端境として、祭祀が行われてきた。また、死者の魂(祖霊)が山に帰る「山上他界」という考えもある(この他は海上他界、地中他界など)。これらの伝統は神社神道にも残り、石鎚山諏訪大社三輪山のように、山そのものを信仰している事例もみられる。農村部では水源であることと関連して、春になると山の神が里に降りて田の神となり、秋の収穫を終えると山に帰るという信仰もある。
 主な形態
 日本の山岳信仰の主な形態をまとめると、以下のようになる。
 火山への信仰
 富士山や阿蘇山鳥海山など、火山の噴火への畏れや地熱の恵みへの畏敬から、火山に神がいるとみなして信仰するもの。
 水源である山への信仰
 白山など、周辺地域を潤す水源となりうる山を信仰するもの。
 死者の霊が集うとされる山への信仰
 日本には、恐山や月山、立山熊野三山など、死者の霊が死後にそこへ行くとされている山が各地に存在しており、それらの山々が信仰の対象となることがある。
 神霊がいるとされる山への信仰
 豊前国宇佐神宮の奥宮である御許山や、大神神社御神体とされる三輪山や、役小角が開いたとされる大峰山など、山としては規模が小さいが、あるとき、その山に神霊がいるとされて、以後信仰が始まったもの。
 また、豊後国日向国の国境にある祖母山では、7世紀中頃から[5]、山頂の上宮と山麓の下宮八社が、『古事記』、『日本書紀』、山幸彦・海幸彦神話に現われる神武天皇祖母の豊玉姫を祀っているが、やはり大神系であると言われている。
 修験道の誕生
 日本において、山岳信仰が、日本古来の古神道や、伝来してきた仏教(特に天台宗真言宗などの密教)への信仰と結びついて、「修験道」とされる独自の宗教が生み出された点は、特筆に値する。修験道は、修行により吸収した山の霊力を人々に授けるというもので、役小角が創始したとされる。現在も、「本山派」(天台宗)あるいは「当山派」(真言宗)の修行僧(山伏、あるいは修験者などと呼ばれる)が、伝統的な修験道の修行を行っている。
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 桃山堂
 火山と神話の現場からの報告  
 (『火山と日本の神話──亡命ロシア人ワノフスキーの古事記論』第四部より)
 日向神話と火山
 九州南部で史上最大の噴火が起きた
 このセクションでは、日本神話の最も重要な舞台となっている九州南部、出雲地方をフィールドとする火山研究者の協力を得て、『火山と太陽』で展開されてている議論の地質学的な背景を検証する。本書のテーマにおいて重要な意味をもつのは、九州南部はもとより、出雲地方も火山的風土が濃厚なエリアであることだ。
 ワノフスキーは日本列島における火山活動の歴史を地質学的に探究することは、古事記研究において大きな意義をもつと考え、『火山と太陽』でこう述べている。
 祖国の各火山の歴史を知悉している日本の地質学者は、恐らく神話発生時代の究明に新しい光明を注ぎ、なんらかの寄与をなし得るだろうと思う。
 もしも噴火の古代記録が残っているとしたら、そのような記憶のひとつによって、古事記神話の生まれた時代をはっきりと決めることもできるであろう。
 ワノフスキーが生きていたころ、日本列島の火山活動史の研究ははじまったばかりで、データの蓄積は乏しかった。一九七〇年代以降、全国各地に堆積している火山灰の年代が次々に特定された結果、日本列島において、いつ、どの火山で、どの程度の規模の噴火があったかということがおおむね判明している。さらに考古学の研究によって、日本列島にまとまった数の人類が暮らしはじめるのは四万年まえ以降(後期旧石器時代)ということもわかってきた。それにもとづき、鹿児島県域で三万年ほどまえに発生した超巨大噴火が、日本列島の居住者によって体験された最大の噴火であろう、と現時点では考えられている。九万年ほどまえ阿蘇山で起きた噴火が規模のうえではより大きいが、目撃者がいた確証はないからだ。
 この分野の第一人者である町田洋・東京都立大学名誉教授によると、三万年まえの超巨大噴火によって地上にはき出された噴出物は、富士山が十万年近くかけて放出した噴出物の総量とほぼ同じだという(『火山灰は語る』)。
 すさまじい量のマグマが放出されたあと、地表の均衡は失われ、大陥没を生じる。それがカルデラだ。鍋を意味するスペイン語に由来する。
 三万年まえに鹿児島で起きた超巨大噴火では、直径二十キロメートルの陥没が生じた。姶あい良ら カルデラと呼ばれる巨大な鍋型地形は、現在の鹿児島湾の一画となっているが、そのカルデラの縁に新たに出現したのが桜島だ。
 姶良は古代からある地名で、現在は鹿児島市に隣接して姶良市がある。古事記によると、この地名を負うアヒラ姫がカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)の妻である。
 「鹿児島市の港からフェリーで、桜島に向かうとき、鹿児島湾を囲む茶色の断崖が目に入りますが、これが三万年まえの巨大噴火で生じたカルデラの壁面にあたります」
 桜島ミュージアムの福島大輔理事長(博士号をもつ火山学者)は、現在の風景から三万年まえの巨大噴火を説き起こす。桜島はいまも噴煙を絶やさず、島のいたるところで溶岩や火山灰をみることができる。三万年まえの巨大噴火のとき、この土地では、どのような事態が生じたのか。福島理事長はこう説明する。
 「巨大な噴煙の柱は空高く立ちのぼり、やがて自らの重みに耐えられず崩れました。崩壊した噴煙柱は火山灰や火山ガスを成分とする火砕流となり、時速百キロを超えるすさまじい勢いで広がります。その日のうちに鹿児島県のほぼ全域と宮崎県、熊本県の多くの部分が火砕流によって埋め尽くされました。火砕流の固まりはシラス台地という土壌となって、痕跡を今にとどめています。外国の研究者のシミュレーションによると、姶良カルデラの噴火に際して、高さ四十四キロメートルの噴煙柱が発生したと報告されています。成層圏でも高いところであり、もはや宇宙に迫ろうかという領域です」
 ワノフスキーは天空を炎が乱舞する夢をみて、それを「宇宙」の夢だと言っていたことを思い出す。火山の巨大噴火はまさしく宇宙的なスケールなのである。縄文時代の七千三百年まえにも超巨大噴火が発生した。噴火したのは鹿児島県の南にある沖合で、噴煙の柱が倒壊して生じた火砕流は海を越えて本土に達し、九州南部を灼熱の世界に変えた。鬼界アカホヤ噴火とよばれ、その痕跡である鬼界カルデラ薩摩硫黄島竹島をの
 ぞくと海中にある。九万年まえの阿蘇、三万年まえ、七千年まえの鹿児島での超巨大噴火は、そのたびごとに九州の半分を火砕流で埋め尽くし、人間をふくめてほとんどの動植物を死滅させた。その火山灰は関東、東北、北海道にまで達し、地層のなかに痕跡をのこしている。富士山、浅間山三原山などの噴火とは比較できないほど巨大なスケールで、桜島のある鹿児島湾は何度かの巨大噴火で形成されたカルデラである。そのメカニズムも異なることから、「破局噴火」あるいはカルデラ噴火、スーパー・ボルケーノといって区別されている。
 欧米ではノアの方舟の伝説をめぐって、もし洪水神話が事実であったとしたら、それは、いつ、どこで起きたのかという問題がかねてより議論されている。ワノフスキーはそれをよく知っていたから、古事記のなかの火山神話の背景に具体的な火山の噴火を探ろうとした。そして、「活火山の真の王国である九州」(『火山と太陽』)、そのなかでも最も巨大な阿蘇山こそ「火山の王」(同)だとして注目している。
 阿蘇山で九万年まえに起きた破局噴火は、日本列島の火山史において最大級の噴火だとされるが、本稿では鹿児島県域の火山を中心的な話題としたい。阿蘇山古事記神話のつながりがあまり見えないというのが理由のひとつ。もうひとつは阿蘇山と違って、鹿児島での破局噴火は、まちがいなく列島住民に目撃されており、そこから神話や伝承が生じたかもしれないからだ。
 「火山の冬」とアマテラス神話
 七千年まえに鹿児島の南方の海域で起きた超巨大噴火は、「完新世(約一万年以降)における地球上で最大の噴火である」(月刊『科学』二〇一四年一月号所収「カルデラとは何か。鬼界大噴火を例に」東京大学地震研究所・前野深)とも考えられている。縄文時代の日本列島において、地球史レベルの大事件が発生しているのだ。
 これもワノフスキーの死後、進展した研究分野だが、こうした超巨大噴火のあとには、「火山の冬(volcanicwinter)」といわれる地球規模の寒冷化が生じていることがわかってきた。大気中を漂う火山性の微粒子は数週間で姿を消すが、噴煙が成層圏に達するような超巨大噴火が起きると、微粒子は二、三年におよんで滞留して太陽光を遮断し、同緯度の広いエリアに平均気温の低下をもたらすと考えられている。九州南部で起きた破局噴火は、福島理事長が解説するように、成層圏レベルの噴火であり、考古学的に実証されてはいないものの、「火山の冬」を招いた可能性がある。
 歴史上はっきりしているのは、インドネシアのタンボラ火山の超巨大噴火により、世界的な低温現象が生じたことで、一八一六年は北半球で夏に雪が降った「夏のない年」(year without summer)として記録されている。
 一七八三年、アイスランドラキ火山で巨大な噴火が起きたあと、世界各地の農業に深刻な被害が生じ、食糧不足がフランス革命(一七八九年)の誘引となったという見解もある。江戸時代の飢饉のなかで、最も深刻な事態を招いた天明の飢饉の時期とも重なっている。(『歴史を変えた火山噴火』石弘之)
 太陽神アマテラスが隠れて永遠のような夜が続いたという岩戸隠れ神話をめぐっては、冬になって衰弱する太陽の輝きの復活を祈る冬至の祭祀に由来するという説(折口信夫ほか)、日蝕により太陽が消えるように見える現象に由来するという説(大林太良ほか)がよく知られているが、寺田寅彦やワノフスキーなどが主張する「火山灰と噴煙によって太陽光線が遮断された現象に由来する」という説は古事記の注釈や解説書にはほとんど書かれていない。従来、奇説のひとつと見なされていたようだ。
 古事記は、高天原葦原中国もずっと夜が続き、「万よろずの妖わざわい、悉ことごとく発おこりき」としるす。ワノフスキーは「火山の冬」という火山研究の現代的な視点を知らなかったはずだが、彼が『火山と太陽』で提示しているイメージはそれに近似しており、太陽が衰弱した世界の、深刻な社会不安が暗示されている。爆発と地震が始まる。煙、灰その他の噴出物の、巨大な柱が天上高く舞い上がる。煙の渦巻きと大量の灰が明るい空を汚し、太陽の光を曇らせる。(中略)昼が夜のようになる。(中略)全国はあやめも分かぬ闇黒へと沈む。闇の中から邪悪な神々がその声をあげ、至る所に様々な不幸が起こった。九州南部では三万年まえの超巨大噴火のときにも旧石器時代の人たちの営みがあったが、一万年ほどまえには、その時期の縄文文化の繁栄地のひとつとなり、安定した狩猟採取社会が築かれていた。上野原遺跡(鹿児島県霧島市)は日本列島でも最古級の定住した縄文人のムラとして有名で、ちょっとした観光地にもなっているが、七千年まえの超巨大噴火によって、九州南部は無人の荒野と化した。直接の原因は、噴煙柱の倒壊により生じた火砕流だが、それに加えて「火山の冬」の暗雲が、数年というスパンで日本列島を覆った可能性がある。もしそうであるならば、破局的な火山噴火は、九州にとどまらず、日本列島に住むすべての人が遭遇した〝歴史的事件"であったことになる。火山噴火によってもたらされた暗黒の世界のなか、人々は太陽の復活を願って祈り、そこから火山の神スサノオと戦うアマテラスの神話が発生した─ワノフスキーはそう主張している。
 日本列島において、このクラスの超巨大噴火は一万年に一回ないし二回というきわめて低い頻度ではあるが、繰り返し起きている。七千年まえの縄文時代の噴火を最後に生じていないが、もし今、こうした超巨大噴火が発生したとすると、国家機能は瞬時にして喪失するという予測が火山学者によって示されている(『地震と噴火は必ず起こる』巽好幸)。
 天孫降臨―火山を鎮める王
 古事記によると、アマテラス率いる高天原の神々は、オオクニヌシに地上の支配権を譲るよう迫り、闘争はあったものの、その委譲が決まる。地上を統治すべく、高天原から降りてきたのが、天皇家の始祖神ニニギだった。古事記には「日向の高千穂のくじふるたけに天降りましき」と記されており、天孫降臨の地を日向国としている。
 現代においては、日向国は宮崎県の古い呼び名のようにつかわれているが、時代をさかのぼるほど、鹿児島県や熊本県の一部をふくむ広い地域を指す地名となるので、古事記の文脈では九州南部と理解されている。ニニギからカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)の父親までの三代は日向国を舞台とするので、日向神話と称されている。
 天孫降臨神話は、アジア大陸あるいは南方からの移住が伝承されたものだという解説をよく目にする。水平的な移動が垂直的な神話に変換されたという説明はもっともらしいが、どうして、九州南部が移住先なのかという疑問が生じる。これは神話であり、史実とは無縁と考える人のほうが多いかもしれない。しかし、フィクションであるならば、なぜ、天皇家―というよりも国家の起源を九州南部に求める必然性があったのだろうか。
 九州南部はクマソと呼ばれる異風な人たちの居住する地域で、古事記が編纂されたとされる八世紀はちょうど、クマソの勢力をヤマト国家に組み入れるための戦争がつづけられていた。天孫降臨はこの戦争を神話的に物語ったものだという有力な説があり、ベストセラーになった『口語訳 古事記』の著者三浦佑之・立正大学教授もこの説を支持している。ワノフスキーは天孫降臨について、「天上の神々は、その馬鹿騒ぎで地上に混沌をまき起こした恐ろしい火山をとりしずめた」(『火山と太陽』)行為であると考え、以下のような一文を書きのこしている。
 大地は創られたが、大地は最も強烈な噴火と地震のなかで現れた、自己の火山的発生の痕跡を持っている。かかる秩序、あるいはより適切にいえば、かかる無秩序のもとでは、地上で生活することは困難であり、まして国家を創ることなどはいよいよ困難である。火山活動を鎮めること、そしてそれを一定の境界内にとじこめること(中略)が必要なのである。ここから強制的な必然性を以て、天上の神々や、その子孫たちの地上の事柄への干渉が起こってくる。けだし、彼らだけが火山的現象を組織化し、鎮める能力を持っているからである。
 ワノフスキーは、国家的な祭祀のはじまりを、荒ぶる大地を鎮める祈りにあると考えている。これを果たすため、天皇家の始祖神ニニギは九州の火山地帯に降り立つ必要があった。それは歴史的事実としてというよりも、神話的レベルにおいてということになる。このように『火山と太陽』では、天皇制の起源を火山信仰とリンクする議論が展開されており、異色の日本国家論としても読むことができる。
 高千穂峰縄文時代に出現した
 天孫降臨神話については、ふたつの伝承地がある。そのひとつは鹿児島と宮崎の県境に位置する高千穂峰だ。標高一五七四メートル、霧島連山の第二峰で、七千年まえから八千年まえ、すなわち縄文時代の噴火によって出現した成層火山である。高千穂峰の出現は、七千三百年まえとされる破局噴火(鬼界アカホヤ噴火)とほぼ同じころに起きている。縄文時代の九州南部では、想像を絶するスケールの火山活動がつづいていたことがわかる。
 霧島とはエリア名であり、三十×二十キロメートルの円形のなかに火山や火口に由来する湖が二十ほど集まっている。その広大な円形の周囲をJR九州の線路が走っている。火山の多い日本列島においても、代表的な火山の集積地であり、温泉と雄大な自然が楽しめる高原観光地だ。三十万年まえから、休止期間をはさみながら、巨大な噴火をたびたび起こしており、現在も新しん燃もえ岳だけなどで噴火が継続している。
 高千穂峰登山の起点であるビジターセンターの近くに霧島神宮(鹿児島県霧島市)の遥拝所があり、火山の鎮撫を祈願してきた歴史をうかがわせる。火山に由来する小石と砂で非常にすべりやすい斜面を二時間ほど登ると山頂に到着する。火口は溶岩で封印され、いわゆる溶岩ドームを形成している。そこには昔の修験者の仕業らしいが、青銅の鉾ほこが差し込まれている(今のものはレプリカ)。
 北西方向に見える高い山が、霧島連山の主峰韓から国くに岳でやはり火山である。古事記の記述のうえでは高千穂に降りたニニギは「ここは韓国に向かい、笠沙の御前をまき通りて……」という言葉を述べている。「韓国」はふつう朝鮮半島と解釈されるが、韓国岳高千穂峰は、霧島火山群のナンバー1、ナンバー2でもあるから、韓国岳のことを指すという説もある。高千穂峰縄文時代のあと大きな噴火をしていないが、山頂に至る道の途中にある巨大なすり鉢のような火口(御鉢火山)は大正時代まで噴煙をあげていた。
 九州南部に降り立ったニニギは、この地の神であるコノハナサクヤ姫を妻とした。一夜にして懐妊したこの女神は、産屋に火を放ち、炎のなかで三人の子を産んだ。桜島ミュージアムの福島理事長は、この女神を火山神話の文脈で考えている。
 「桜島の地名語源については諸説あるのですが、そのひとつにコノハナサクヤ姫を祀る島、すなわちサクヤ島から転じたという説があります。その真偽は不明ですが、桜島の月読神社ではこの女神が祭神となっています。一般にコノハナサクヤ姫は桜の花の女神といわれますが、富士山信仰の拠点である浅せん間げん神社の祭神です。本来は火山の女神だったのではないでしょうか」
 古事記にしるされている系譜によると、コノハナサクヤ姫は、大オオ山ヤマ津ツ 見ミノ神カミ、つまり山の神の王者のような神の娘である。コノハナサクヤ姫が火山の女神であるなら、ニニギとの結婚は、ワノフスキーの表現を借りれば、天の神と火山の神のあいだの和睦的な結婚ということになる。
 天孫降臨神話のもうひとつの伝承地は宮崎県高千穂町だ。こちらは熊本との県境に近く、九万年まえ、阿蘇山破局噴火で形成された火砕流台地の一画を占める。高千穂渓谷には、六角形の岩柱がおりなす雄大な風景があるが、これは火砕流が冷却するときにできた柱状節理だ。典型的な火山由来の岩石形状である。いずれにせよ天孫降臨の舞台が九州南部であることを古事記日本書紀は明記している。そこは日本列島でも最大の火山エリアで、破局噴火とよばれる超巨大噴火が繰り返し起きた。
 出雲神話と火山
 出雲でも起きた超巨大噴火
 ワノフスキーが火山神と名指ししているのは、イザナミスサノオオオクニヌシ、アジスキタカヒコネなど出雲系の神が多く、高天原の神々と出雲の神々が戦った国譲り神話を、天上の神と火山の神の闘争であると指摘している。出雲の宗教的権威を象徴する祝詞出雲国造神賀詞」の文言のなかにも、ワノフスキーは火山との結びつきを見ている。ワノフスキーの古事記論に従うならば、出雲は火山の神々の割拠する「火山の王国」だ。神話世界の出雲は、行政区分としての出雲国よりも広く、隣の鳥取県隠岐の島をふくむエリアを舞台としている。それを念頭におきつつ、『火山と太陽』の地質学的な風景をみてゆきたい。
 通常の噴火とはスケールにおいてもメカニズムにおいても異なる超巨大噴火を「破局噴火」というが、もともとはジャーナリズム的用語であるので、科学的な定義はあいまいだ。火山学者の早川由紀夫群馬大学教授は噴火時の噴出物の総量を基準として、日本列島では過去十二万年間に、破局噴火が十八回、発生したとしている(『月刊地球』二〇〇三年十一月号所収「現代都市を脅かすカルデラ破局噴火のリスク評価」)。その多くは九州、北海道、東北の火山であるが、鳥取県の大山、島根県の三瓶山がふくまれている。島根県鳥取県に火山のイメージは希薄だが、過去においてはすさまじい破局噴火を起こしているのだ。別の言い方をするならば、過去十数万年間の火山噴火の規模をランキングしたとき、そのベスト20に山陰地方の二つの火山が入っている。これは無視しがたい科学的な事実である。当然ながら、それよりも小規模の噴火は何回も繰り返されている。
 大山(標高一七二九メートル)は、平地にすっくとそびえる秀麗な山容によって、伯耆富士、出雲富士とも称される。九州をのぞく西日本では最大の火山である。一万何千年まえの噴火を最後に大きな活動はないので、現在の定義では活火山ではないが、奈良時代に編纂された『出雲国風土記』はこの山を「火神岳」と呼んでいる。
 縄文人が最後の噴火を伝承していた可能性はあり、この山名は火山信仰に由来するという説もある。四万五千年まえの噴火は特に規模が大きく、東北地方にも火山灰をのこしている。早川教授の分類では、これが「破局噴火」である。このときの噴出物(大山倉吉テフラ)は、三万年まえの鹿児島湾からの噴出物(姶良Tnテフラ)
 とともに、列島各地の原子力発電所で火山灰被害を検討する際の指標にもなっている。
 三瓶山(標高一一二六メートル)は大山とは反対に、定義変更により最近になって活火山と認定された。男三瓶山、女三瓶山、子三瓶山、孫三瓶山と呼ばれる山々が輪をなして連なり、地元の人たちが「帽子のつば」のようだというなだらかな斜面がそれぞれの山を取り巻いている。明るく穏やかな景観で、登山、ハイキング客に人気のある山だ。
 輪になった山々の真ん中に火口跡とみられる窪地がある。現在の三瓶山で目立った火山活動はないが、火口跡にある「鳥地獄」とよばれるあたりでは火山ガスの噴出がみられる。山の周囲には三瓶温泉のほか、数か所で温泉が出ている。
 噴火活動をはじめたのは十万年まえくらいからで、七回ほど大きな噴火を重ねている。十万年まえの最初の噴火は特に規模が大きく、巨大な噴煙柱、火砕流が生じた。これが東北地方にも火山灰を降らせた「破局噴火」と分類されている。三瓶山のふもとにある島根県大田市などの市街地では、このときの火砕流が冷え固まってできた凝灰岩をみることができる。
 国引き神話の舞台裏―実は火山が多い島根県三瓶山に火山の印象があまりないのは、歴史年代において大きな噴火をしていないからだ。縄文時代には何度か大きな噴火があり、規模は劣るが、弥生時代にも噴火があった。
 一九八三年、縄文時代の噴火を知る意外な証言者が出現した。農業工事のため土を掘り起こしていたとき、杉の巨木が直立した状態で発見されたのだ。これは、縄文時代中期の四千年まえの噴火によって生じた土砂によって、根をはったまま埋没した杉の原生林である。深さ十三メートルの地下施設で保存され一般公開されているが、その樹皮や根は生命のある木のようになまなましい。縄文杉は、三瓶山がすさまじいエネルギーをもつ火山であることを物語っている。
 奈良時代にまとめられた『出雲国風土記』の冒頭に、有名な「国引き神話」がある。出雲国がまだできたばかりでもっと小さかったころ、スサノオの子孫である出雲の土着神八や 束つか水みず臣おみ津つぬの野命みことは、国をもっと大きくしたいと思い、海の彼方に余った土地があったので綱で結びつけ、「国くに来こ 、国来」というかけ声にあわせて引っ張った。その土地は海を移動し出雲の国にくっついたので、そのぶん広い国になった―というお話だ。
 三瓶山の中腹に島根県立三瓶自然館サヒメルという博物館があり、三瓶山の火山が展示テーマのひとつとなっている。中村唯史学芸員(地学担当)は、「くにびき神話の地質学」という論考を発表し、ふたつの「杭」すなわち三瓶山と大山がいずれも火山であることの重要性を指摘している。中村氏に話を聞くため、三瓶山を訪れた。
 「実は出雲平野の形成も三瓶山の火山活動と関係があります。縄文時代の中ごろの五千五百年まえと四千年まえに生じた三瓶山の大噴火のとき、川を通じて下流へもたらされた土砂によって平野は急激に拡大し、それまで離島だった島根半島を陸続きに変えました。三瓶山の噴火は文字通り、出雲国の陸地を増やしているのです。神話を考えるうえで、ひとつの視点になるのではないかと思います」
 そのうえで中村氏は、出雲地方には大山と三瓶山のほかにも多くの火山があることを強調する。
 「三瓶山のある島根県大田市には世界遺産に指定された石見銀山もあるのですが、銀鉱山の中心であった仙ノ山は百万年以上まえに活動した古い火山です。この山の周囲にはいくつもの古い火山が集まっており、最高峰の山の名をとって大江高山火山群と呼ばれます。銀の鉱脈は火山のマグマ活動から派生したものです。一般の方々にはあまり知られていないことですが、出雲国をふくむ山陰地方は、千万年単位の地質学的なタイムスケールでみると、火山活動の盛んであったところで、火山に由来する多くの鉱山があります。島根県内の至るところに温泉地があることも、それとかかわっています」
 日本列島の火山を数えるとき、気象庁が活火山に指定している百十という数字が示されることが多いが、それ以外に、「活火山ではない火山」がある。過去一万年以内に噴火したことを主な基準とする活火山の基準には当てはまらないものの、火山であることが明らかな山のことだ。以前は休火山、死火山と呼ばれていた。
 国立天文台が編纂するデータブック『理科年表』には、こうした火山もふくめて、二百六十八か所の火山があげられているが、島根県には七か所、鳥取県には四か所の火山がある。九州をのぞく西日本のなかでは、島根県出雲国)が最も火山の多い県だ。三瓶山のほか、横田火山群、青野山火山群、野呂、大根島、大江高山、隠岐島が火山と明記されている。
 地震を鎮める鹿島の神
 古事記神話において、出雲国を舞台とする最も重要な場面が「国譲り」である。高天原のアマテラスたちは、出雲国の王者オオクニヌシから、地上世界(葦原中国)の統治権を奪おうとして、繰り返し使者を派遣するがことごとく失敗する。最後にタケミカヅチらが派遣され、闘争があり、地上世界の統治権高天原天孫族に譲ることが決まる。
 「国譲り」をめぐっては古来、さまざまな議論があるが、出雲国には弥生時代以来、日本海エリアを支配する強大な「出雲王国」があり、ヤマト王権が国内統一の戦いをすすめるときそれに抵抗し、やがて服従した歴史を映し出しているという見方がある。一方で考古学的な知見や文献のうえから「出雲王国」は想定しがたいという否定論も多い。ここでもワノフスキーは火山神話論からこの問題を解き明かそうとしている。
 自然界の無秩序は、自然の要素の持つ邪悪な意志の結果ではなく、その自己の法則に則って、自然の活動を起こした火山的自然現象の結果なのである。自然現象はあらゆる尺度を超えて振る舞い、間断ない地震は、天孫たちが地上に降り、国家の創建とその統位につくことを許さない。さればこそ何よりもまず、自然現象を制圧し、その活動を許容できる形でおさえることが必要となった。この目的のために、天上の神フツヌシとタケミカヅチの懲罰隊が送られたのである。
 ここでワノフスキーが書いているフツヌシとタケミカヅチを派遣する話は、日本書紀本文の内容で、古事記ではタケミカヅチと天鳥船神が派遣されている。国譲り神話をめぐる両書の記述はすこし違っているが、どちらにも登場するのはタケミカヅチである。
 茨城県鹿嶋市は、北関東有数の工業地帯でサッカーJリーグ鹿島アントラーズのホームとして有名だが、鹿島神宮門前町でもある。タケミカヅチ鹿島神宮に鎮座する神である。火山神話とのかかわりで注目すべきは、タケミカヅチ地震を抑える力をもっていると信じられていることだ。
 鹿島神宮の本殿からずっと離れた奥宮近くに、三十センチほどの石を祀る小さな祠がある。地表に出ている部分は丸いお盆くらいにしか見えないが、地中深くまでつづく巨石であり、それは地震を起こす原因となる巨大なナマズの頭を押さえていると伝えられている。「要かなめ石いし」と呼ばれ、鹿島神宮とは姉妹社のような関係にある近隣の香取神宮(千葉県香取市)にも、同じような形と能力をもつ要石が祀られている。フツヌシは香取神社の祭神である。こうした庶民信仰が、「鯰絵」の背景となっている。
 出雲の神々には火山の属性がある。高天原から派遣されたタケミカヅチには火山や地震を押さえ込む強大なパワーがあり、それによって出雲の神々に勝利した。こうして神話的な次元において、大地の平安は達成された―とワノフスキーは解釈している。
 古事記神話では、コトシロヌシタケミナカタの二神が、オオクニヌシの息子として登場し、国譲りを迫るタケミカヅチの神と対決している。コトシロヌシはあっさりと引き下がるが、タケミナカタは激闘のすえ敗北し、諏訪国(長野県)まで逃走した。『火山と太陽』では、コトシロヌシタケミナカタの火山的性格について細かくは検討されていないが、ワノフスキーの議論に従えば、火山の神の一族である。
 コトシロヌシ主祭神として祀る神社に、静岡県三島市三嶋大社があるが、由緒書きには「富士火山帯の根元の神」と書かれ、火山とのつながりが公認されている。一万年ほどまえの噴火の際、富士山から流出した溶岩は神社のすぐそばまで達しており、その痕跡は公園、庭園として保存されている。タケミナカタは長野県の諏訪大社の祭神で、八ヶ岳のお膝元に鎮座する。八ヶ岳縄文時代のはじめのころまで、大きな噴火を重ねている。
 文献のうえではっきりとした噴火の記録はないが、地質学的な調査により、八ヶ岳連峰のひとつ横岳は八百年ほどまえに噴火したことが判明しており、気象庁が認定している百十の活火山のひとつである。
 なぜ、日向と出雲が神話の舞台とされたのか
 出雲は古代においても、政治的、経済的に顕著な影響力を有していたとはいいがたいのに、宗教あるいは霊的領域においては、伊勢に匹敵し、あるいはそれを凌駕するほどの神秘的な権威をもっている。その権威は何に由来するのだろうか。弥生時代に存在したかもしれない出雲王国の栄光、豊富な砂鉄資源をつかったタタラ製鉄の経済力、出雲に発祥する特異な宗教的伝統など、さまざまな仮説が提示されているものの、諸説紛々というしかない。
 古事記では、出雲における「国譲り」の場面のあと、突如、舞台が変わり、日向国における「天孫降臨」の場面となる。さんざん失敗を重ねた末、ようやく出雲国統治権を得たのに、アマテラス、タカミムスビの指令を受けたニニギたちの一団は出雲には見向きもせず、九州南部に降り立つ。物語の構成としては完全な破綻であり、古事記を読む人を悩ませる。
 なぜ、日向と出雲は、日本神話において、特権的な舞台となっているばかりではなく、混線するような物語展開となっているのか。『火山と太陽』を読んだ人であれば、不条理ともいえる場面転換の背後に、日向と出雲の共通点があることに気が付くはずだ。それは破局噴火を起こした巨大な火山の存在である。
 世界地図のうえで見れば日本列島は代表的な火山の集積地だが、それでもその分布にははっきりとした濃淡がある。火山学者である小山真人・静岡大学教授は「日本にはプレート境界に沿ってできた火山の密集帯が二つある。ひとつは北海道から東北・関東地方をへて伊豆諸島へと連なる。もうひとつは山陰地方から九州をへて南西諸島に連なっている」(『富士山 大自然への道案内』)と説明している。つまり、日本列島におけるふたつ目の火山ラインの起点が出雲をふくむ山陰地方であり、その南端が日向(九州南部)ということになる。その火山ラインは九州南部から口永良部島諏訪之瀬島など多くの火山島のある南西諸島へとつづき、その南には世界有数の火山国であるインドネシアの島々がある。
 東日本の火山ラインは、東北、関東から静岡県に走るが、愛知県や関西方面には向かわず南向きに折れ曲がり、伊豆半島、伊豆諸島のほうにつづいている。
 ふたつの火山密集ラインのうち、西日本の火山ラインによって出雲と日向はつながっている。ワノフスキーは日向の天孫降臨、出雲の国譲りを火山神話だと主張している。
 北海道、東北でも支笏湖十和田湖など巨大な火山湖で破局噴火が起きているが、火山灰は偏西風にのって西へと向かうので、日本列島に大きな痕跡をのこしてはいない。そもそも古代のヤマト王権の支配する領域でさえなかった。古代以来、政治の中心であった近畿地方から見て、おそるべき火山があるのは日向と出雲を結ぶ西日本の火山ラインなのだ。古事記の完成は奈良時代とされるが、都に住んでいた編纂者たちは九州、出雲地方の火山について知識も関心もなかったかもしれない。しかし古事記神話のすべてが奈良時代の編纂者による机上の創作ということでなければ、伝承されてきた神話や昔語りのなかに火山の記憶の痕跡がなかったとはいえない。古事記神話の素材とになった話は、いつ発生したのだろうか。奈良時代からそれほど遠くない古墳時代(三世紀〜七世紀)なのか。それとも弥生時代縄文時代、それより古い旧石器時代までさかのぼるのか。答えを出しがたい難問であるが、古事記研究者の工藤隆・大東文化大名誉教授は『古事記の起源』など一連の論考で、縄文時代に日本神話が発祥した可能性について検討している。本書第二部「『火山と太陽』を読む」で、鎌田東二氏は古事記神話に旧石器時代の記憶がのこっている可能性を想定している。古事記神話の発生を考えるうえで、火山を無視しがたいのは、ここまで見てきたように、旧石器時代縄文時代の九州南部において、地球史に特筆される規模の超巨大噴火が起きているからだ。
 出雲から熊野火山へ
 『火山と太陽』の中心テーマとはいえないが、もうひとつ注目すべきワノフスキーの論点は、日向、出雲に加えて、紀伊半島の熊野を火山神話の第三の舞台として取り上げていることだ。現在、紀伊半島にはひとつも活火山がないので、神武天皇が対決した「熊」の姿をしたモンスターを火山の神とする指摘は、素人研究者の妄言のように見られかねないが、これこそ、『火山と太陽』の探究における最も意義ある発見かもしれない。というのも、地質学的研究によって、日本列島における最大規模の超巨大噴火が熊野において生じたことが、近年、明らかにされつつあるからだ。それにともない、日本を代表する信仰地である熊野の聖性が、火山的風土とからめて論じられることが増えている。
 熊野とは、和歌山県の南東部と三重県の一部をふくむエリアで、熊野三山と呼ばれる熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社が鎮座し、古来、日本有数の聖地とされてきた。古事記などによると、神武天皇は生まれ故郷の日向から、東を目指して船で遠征し、いくつかの地点を経て、熊野に上陸したが、巨大な「熊」によって兵士ともども倒され、意識を失うという危機に陥っている。
 熊野で巨大な火山活動があったのは千五百万年ほどまえで、日本列島の形成がすすむ大変動の時代である。紀伊半島の東部に、巨大火山群が出現、複数のカルデラが形成されたが、そのひとつが「熊野カルデラ」と呼ばれている。カルデラ地形は風化されて、ごく一部しかのこっていないが、千五百万年まえの噴火によってできた火山性の岩石を詳細に研究することによって、超巨大噴火の全貌が見え始めている(『地質学雑誌』二〇〇七年七月号特集「紀伊半島における中新世火成作用とテクトニクス」ほか、多くの報告がある)。このときの火砕流によってできた凝灰岩は、奈良県大阪府でも確認されており、すさまじい破局噴火であったことがわかる。那智の滝の背後をなす岩や熊野速玉大社の摂社神倉神社にあるゴトビキ岩など熊野で信仰の対象となっている岩石の多くは、このときの火山活動によって形成されたもので、熊野酸性火成岩類と呼ばれている。超巨大噴火によって形成された鮮烈な風景が、熊野という聖地の背景をなしている。
 出雲と熊野の謎めいた結びつきについては、かねてより多くの人によって指摘されている。イザナミは火の神カグツチを出産したことによって絶命し、その遺骸は、古事記によると、出雲国比婆山に埋められたというが、日本書紀の一書には、「紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる」とあり、三重県熊野市の花窟神社にある巨岩の下にある「ほと穴」という窪みがイザナミ墓所と信じられている。スサノオ、オオナムチ(オオクニヌシ)も出雲と紀の国を行き来している。
 ワノフスキーの議論をとおして私たちは、出雲と熊野を火山神話という共通の視点によって考えることが可能となった。出雲と熊野をむすぶ道は、火山とかかわっているのか。人類は存在せず、日本列島さえ未完成であった太古の火山活動が、日本神話の成立にかかわるということが本当にありうるのか。それは、『火山と太陽』を踏まえた今後のテーマである。
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 桃山堂
15日 4月 2016
 日本列島を産んだ火山の女神イザナミ
 ブログ「火山と古事記」③
 スサノオとともにワノフスキーの火山神話論の中核にあるのが国産み神話の女神イザナミである。日本列島を産んだ女神に、火山的なエネルギーをみているのだ。イザナミ=火山という仮説的な視点から古事記を読み直すと、いくつかの謎について、その解明の糸口が浮き上がってくる。
 兵庫県南あわじ市の沼島は、国産み神話の舞台として紹介されることが多い。写真左の上立神岩のまわりをイザナギイザナミはまわった、ということらしい。(写真は、「沼島総合観光案内所よしじん」より)
 イザナミの不人気
 女神イザナミは夫のイザナギとともに、日本列島をかたちづくる本州、九州、四国、その他の島々を生み、山の神、海の神などさまざまな神も生んでゆきます。いわゆる大地の女神、mother earth 的な性格があるといわれています。
 日本列島で私たちが暮らすことができるのも、イザナミのおかげです。ありがたや、ありがたや、と日本列島民の感謝をうけながら、イザナミは安穏に暮らしているかというと、どう考えてもそんな感じはありません。
 イザナミ主祭神とする神社は、それほどないし、アマテラス、スサノオに比べて、国民的な人気がないのは明らかです。
 日本列島を生み、神々を生み、そのあげく、火の神カグツチの出産時の火傷で死んでしまった女神に対して、その自己犠牲的な生涯に対して、私たちはあまりにも冷たいのでしょうか。
 不人気の理由ははっきりしています。
 死んだあとのイザナミが暮らしている黄泉(よみ)の国は、古事記において、さながら地獄のようなイメージで描かれています。太陽の女神アマテラスに対して、「死」を具現化する暗黒世界の女神イザナミ、という配役になっています。
 黄泉の国の女王となったイザナミは、夫イザナギと完全に決別し、
 「あなたの国の人間を一日に千人、殺しましょう」
 と宣言しています。
 つまり、日本人に対するメガデス(大量殺害)宣言です。
 自分で生んだ国なのに、自ら大量殺害を計画するとは!
 ここで悪役イメージは決定的となります。
 イザナミイザナギは、日本列島の歴史において、とても有名なカップルです。
 本来であれば、縁結びの神さまとして信仰されるのでしょうが、残念ながら、ふたりは、大げんかの末、絶縁しています。
 日本列島史上、初ともいえる離婚のケースとも見なすことができ、恋愛成就を祈願するうえで、どうも縁起がよくありません。
 日本列島のような巨大なものを見事に生んでいるので、本来であれば、安産の神として信仰されそうなものです。
 しかし、それもありません。
 イザナミは出産時の傷が原因となって死んでいるので、仕方がないとはいえ、この点は、いくらか気の毒な感じはします。
 三重県熊野市の花の窟神社には、イザナミカグツチの墓がある。『日本書紀』の一書で、イザナミの墓が熊野にあるとする記述にもとづく神社。ご神体である巨大な岩石は、熊野酸性火山岩類に分類される流紋岩質の火砕岩。1500万年まえ、熊野カルデラを生じた巨大噴火に由来する。
 切り火、焼き畑、それとも火山
 イザナミは火の神カグツチを出産したことで傷つき、死んでゆきます。火の神カグツチの出産については、古代の発火法(切り火)に関連づけた説がよく知られています。
 切り火説は、切り火杵、切り火臼を男根、女陰に見立てたもので、実際に、女性器から火を得るという神話が諸外国にもあることから、その共通性が指摘されています。
 民族学者で比較神話学の大家だった大林太良氏をはじめ、多くの研究者が述べています。
 また、火の神カグツチの出現を、焼き畑農業にもとめる見解もあります。
 文明史的なカグツチ解釈もあります。
 西郷信綱氏による『古事記注釈』では、カグツチは「文明としての火」であるとされ、「半ば文明であり、半ば野生」である火の神の出現によって、古事記の物語が大きく場面転換すると述べられています。
 カグツチの火については、西條勉氏も
 「この火も火山などの火ではなく、人にコントロールされた、ちょろちょろ燃える火、文明の火である」(『古事記神話の謎を解く』)と述べています。
 ここでも火山説はマイナーな説として、あまり相手にされて来なかったようです。ワノフスキーはカグツチというより、彼を産んだイザナミそのものを火山と解釈して、大胆な議論を展開しています。
 女神イザナミは大地の神である。しかし単に沃土の女神という意味でばかりでなく、日本列島を産み出した火山的自然現象の女神という意味においてもそうなのである。女神イザナミのこの火山的本性が彼女の性格中最も重要な特質であり、それがまさしく日本の創世神話をギリシヤやバビロニヤの神話に当てはめるのを妨げているのである。
 大地の女神は他の多くの民族の神話の中にも存在しているが、同時に火山の女神の特徴をも有している大地の女神は、日本神話の独自的特殊性を構成しているものである。これは日本が火山国であるということに着目すれば容易に理解できることである。
 (ワノフスキー著『火山と太陽』)
 死火山としてのイザナミ
 ワノフスキーの古事記論は、詩人的な直感まかせのところがあり、それが魅力でもあり、欠点でもあるのでしょうが、イザナミについては、「死火山」であると断じています。これはユニークな視点です。
 女神イザナミは島々を生んだ後、火の神を生んだために死に、地獄へと下っている。かくの如く火山は、新しい大地を創成し、熔岩の流れを注ぎ出し、別離の炎を噴き上げ、そしてしずまり始め、そして絶えず死の状態へと移ってゆく。
 自己の腹の中から多くの島々を産み出し、炎を噴出し、その後静穏の状態に移行している火山、換言すれば──死火山であり、女神イザナミの神話が発生した宇宙的根拠は実にここにあるのである。 (『火山と太陽』)
 ひところ、活火山・休火山・死火山という火山の三分類が教科書にも掲載されていましたが、死火山とされていた御嶽山が噴火を再開するなどいくつかの不都合が生じたため、今日、死火山という言葉は文字通り、死語となっています。
 ワノフスキーはイザナミを喩えて「死火山」といっていますが、完全に噴火活動を停止した火山というニュアンスではありません。巨大な噴火のあと、不気味な静寂を保った山として描いています。完全な死ではなく仮死状態、三分類でいえば、休火山の意味に近いのかもしれません。
 死火山はあらゆる瞬間において、爆裂し恐ろしい破壊をなしえるからである。概して活火山の噴火は、死火山の突然の爆裂よりも危険でないということを認めねばならない。
 死せる女神であり、同時に地下の国に幽閉され、そこから人々を脅かしている死の女神は、ちょうど火山の同じような状態に合致している。前述したところに従えば、女神の外部への出現は、彼女がかつて産み出したかもしれぬ、火山活動の巨大な爆裂を意味するものであるかもしれぬ。 (『火山と太陽』)
 ワノフスキーの「イザナミ=死火山」説がどれほどの妥当性、説得力をもっているのか、なんともいえませんが、国産み神話のヒロインであるイザナミの死について、これほど好意的で、クリエイティブな解釈を聞いたことがありません。
 イザナミは「死」の世界をつかさどる女神だとされています。死の世界といっても、天国ではなく、暗い地獄の印象です。
 もっと、詳細な議論を好む論者は、古墳に埋葬された死体の腐敗する状況を目にした人の経験が反映されているといいます。
 どちらにしても、不気味な死神のイメージです。
 一方、ワノフスキーにしたがって、彼女の死は、大噴火を終えたあとの長い沈黙、すなわち、「火山的仮死状態」と考えたならば、日本列島にいくつも存在する死火山・休火山の風景と重なります。
 地獄の女神ではなく、死火山の女神。
 学問的な妥当性はよくわかりませんが、イザナミにとっても、日本列島の住民にとっても、イザナミを火山の神と考えたほうが、お互いの幸福にむすびつくような気がするのです。
 一見、理不尽とも思える自分が産んだ国の民に対する大量殺りく宣言にしても、火山という出自がわかれば、
 「悪気はなくても、時には火を噴き、地を揺さぶり、日本列島の住民に迷惑をかけるのは仕方ない」
 と納得ができます。
 理由もなく、怒りを爆発させ、まわりを困惑させるのは、火山の神の特徴だからです。
 そして、そんな火山の神は、ハワイにもいるのです。
 追走する火山の女神
 ホルアのそりに乗って、追いかける火山の女神ペレから逃走中。(写真は、「ハワイの神話と伝説」サイトより)
 火山の女神といえば、いちばん有名なのはペレです。
 世界でも有数の火山エリアであるハワイ諸島
 ペレは、ハワイ島のキラウエア火山の火口に住んでいるそうです。
 火のように官能的で美しい女神のようですが、少々、切れやすい性格で、ささいなことで怒りをあらわにします。
 このあたり、イザナミに似ています。
 イザナミは約束を破った夫イザナギを追走して殺そうとしますが、ペレにも同じような伝説があります。
  ハワイには、伝統的なスポーツとして、草の斜面を「そり」で滑り降りるホルア(holua)という競技があるそうです。ハワイ島カフクにいたふたりの若い族長はこの競技が好きでしたが、ペレもホルアが大好きでしたので、人間の美女の姿で仲間に加わりました。ふたりの族長は、恋のライバル関係となりますが、毎日のようにペレをまじえて、ホルアを楽しんでいました。
 そのうち、ふたりはホルア好きの美女が、ふつうの人間ではなく、火山の女神ではないかという疑惑をもち、距離を置こうとします。しかし、ペレはそれを許しません。無理矢理呼びつけ、草が枯れるまでホルアを続けさせます。怯えたふたりが逃げようとすると、ペレは美女の仮面を脱ぎ去り、火山の女神としてふたりを追走します。
 百年まえの出版ですが、" HAWAIIAN LEGENDS OF VOLCANOES"(W. D. Westervelt 1916)という本がネット上で公開されているので、省略しつつ、追走場面を引用してみます。
 彼女の髪は逆立ち、体は炎に包まれ、目は稲妻のように燃えさかっている。口からは煙を吹き出していた。
 恐怖にすくみあがったふたりの族長は海に向かって逃げ出した。ペレは両足で大地を踏みしめた。すると、大地震がカフクの土地を襲った。恐ろしい炎の波が地面から吹き出し、カフクの町全体を覆い尽くしてしまった。
 なだれ落ちてくる炎の上にはペレが乗っかっていた。ふたりの男たちは北へ向かって逃げようとしたが、ペレは炎で遮ってしまう。今度は南に向かうが、それも邪魔されてしまう。 しかたなく、カヌーで海に逃げようと海辺に駆け下りた。
 必死で走る二人。どんどん海に近づいていた。だがペレは燃える腕を、かつての恋人だった男に投げかけた。あっという間に、その男の命は奪われ、その死体の上に流れてくる溶岩で小山ができた。 もう一人の男は恐怖で固まってしまったところを、ペレに捕まり、あっというまに溶岩の山によって埋められてしまった。 こうやってペレの二つの丘はわずかな間に出来上がった。
 ハワイ島の海岸近くに、「ペレの丘」という溶岩でできた二つの丘があり、その由来を物語る伝説という趣向になっています。
 この伝説で描かれているペレの追走劇は、明らかに、溶岩流です。
 地質学者は玄武岩質という用語をつかいますが、ハワイの火山から出される溶岩は、粘性が弱くて、流れやすいものなので、現実に人間と追いかけっこになる局面があるようです。
 日本では伊豆大島の火山がハワイの火山と似た性格であるとされています。一九八六年の噴火では、溶岩流が町役場などのある島の中心部のすぐ近くまで迫り、全島民が避難するという事態になりました。
 ハワイも伊豆大島も、噴火によって出現した火山島であり、火山を神として崇敬してきた共通の歴史をもっています。ワノフスキーは伊豆大島に長期滞在したことがあり、そのときの経験が、火山神話論のモチーフとなっています。
 イザナミも溶岩流・火砕流か?
 火の神カグツチの出産のあと、イザナミは死んでしまいます。妻を奪われた悲しみと怒りから、イザナギはわが子カグツチを剣で斬り殺し、イザナミを追って、黄泉の国へ行く──という有名な場面となります。
 もう一度、地上に戻っていっしょに暮らそうという誘いに、心を動かされたイザナミ
 「黄泉の国の神と相談してきます。そのあいだ、わたしを見ないでください」
 しかし、イザナギは約束を守れず、変わりはてた妻の姿を見てしまい、驚愕し、黄泉の国から脱出しようとする。イザナミは、
 「よくも、わたしに恥をかかせましたね」
 と怒り、イザナミの配下である女鬼神「ヨモツシコメ」に追走を命じた。イザナギは逃げながら、身につけているものを女鬼神に投げつける。
 さらに、イザナミは黄泉の国の軍団、雷神を派遣しイザナミを追走する。イザナギは剣を振りながら逃げ、桃の実を投げつけると、黄泉の国のものたちは退散した。
 今度は、イザナミ自身が、イザナギを追いかけてきた。イザナギは巨大な岩をもってきて、黄泉の国との境に置き、ふたりは岩をはさんでにらみ合う。
 イザナミは言う。
 「愛しいわが夫、あなたがこんなことをするならば、わたしはあなたの住む国の人間を一日に千人、殺しましょう」
 イザナギは言い返す。
 「愛しいわが妻よ、お前がそんなことをするならば、私は一日に千五百の産屋を建てよう」
 火山の女神ペレのボーイフレンドは溶岩で殺されてしまいますが、イザナミは逃げ延びて、天皇家につながる歴史の始祖となっているので、物語の結末はまったく違いますが、はげしく追いかける女神、逃走する男というフレームワークは同じです。
 ペレは火山の神であり、イザナミについても、ワノフスキーをはじめとする人たちによって火山の神と目されています。
 イザナミ=火山という仮説に立って、黄泉の国のドラマを見るならば、イザナギを追走するイザナミは、溶岩流あるいは火砕流ということになります。『死都日本』の石黒耀氏をはじめ、近年、イザナミの追撃を火砕流であると考える人が増えつつあるようですが、古事記研究者からの反応はあまり目にしません。
 ふた昔まえの比較神話学であれば、双方の神話の内容を比較検討し、環太平洋の火山地帯における影響関係をうんぬんしたかもしれません。
 しかし、東京オリンピックのエンブレム問題ではありませんが、人間が同じようなアイデアをかんがえるのはよくあることで、火山的な風土の濃厚な日本列島とハワイ諸島に、同じような神話が発生したと考えておけばいいような気がします。
 ふたつの神話で違う点といえば、ペレは火山の女神であることが当然の前提となっているのに対し、イザナミは火山の女神として、認定されていないことです。
 ワノフスキーを応援する立場でいえば、女神が男を追走するふたつの神話の共通性は、 「イザナミ=火山」説を補強するデータにはなりそうです。
 恋人であれ、妻であれ、女性がほんとうに怒ったとき、男はひたすら逃走するしかない、という世界に普遍的な教訓というか諦めのようなものを物語る神話なのかもしれません。
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🎑38)─2・B─なぜ日本人は「道ばたの財布」を交番に届けるのか。落語「芝浜」。〜No.95 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
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 死罪とは、江戸時代に庶民に科されていた6種類ある死刑のうちの一つで、斬首により命を絶ち、死骸を試し斬りにする斬首刑の刑罰のこと。付加刑として財産が没収され、死体の埋葬や弔いも許されなかった。罪状が重い場合は市中引き回しが付加されることもあった。
 概要
 盗賊(強盗)、追い剥ぎ、詐欺などの犯罪に科された刑罰である。強盗ではなく窃盗の場合でも、十両盗めば死罪と公事方御定書には規定されている。また、十両以下の窃盗でも累犯で窃盗の前科が2度ある場合、3度目には金額に関わらず自動的に死罪となった。しかし、窃盗でも昼間のスリと空き巣は、被害者自身が物の管理ができていなかったことを理由に、死罪が適用されなかった。
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 2024年3月20日 MicrosoftStartニュース プレジデントオンライン「なぜ日本人は「道ばたの財布」を交番に届けるのか…「海外より礼節を重んじるから」ではない歴史的な理由
 © PRESIDENT Online
 外国人旅行客は「日本では落とした財布が交番に届くことが多い」と聞くと驚くという。こうした日本人の倫理観はどのように形成されたのか。仏教研究家の瓜生中さんは「日本人は歴史的に他社と共同で生活するムラ社会を築いてきた。その結果、個人の観念が希薄になり、社会秩序を保つ倫理観の高さを備えた」という――。
 ※本稿は、瓜生中『教養としての「日本人論」』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
 なぜ日本人はお辞儀をするのか
 若いサラリーマンが街中で携帯電話をかけながらぺこぺこお辞儀をしている姿をよく見かける。考えてみれば不思議な光景で、恐らく電話をしながらお辞儀をするのは日本人ぐらいのものだろう。ことほど左様に日本人は老いも若きもよくお辞儀をする。そこで、日本人は礼儀正しい民族であるということを自他ともに認めている。
 このように、日本人がよくお辞儀をするのは神に対する態度のあらわれで、古くから培われてきたものである。神社の神前には「二拝二拍手一拝」という看板が掲げられている。言うまでもなく神前では2回平身低頭して、2回拍手を打ち、最後に1拝する。
 これは神に対して最大限の恭敬の意を示す所作であるが、それが人間にも適用されているのである。神に対しては「二拝二拍手一拝」のように最大限の礼を尽くすが、人間の場合には長幼や親疎などによってお辞儀も使い分けられている。
 例えば師や先輩、利害関係において優位に立っている人に対しては深々と頭を下げて鄭重に対応するが、友達や親族に対しては頭の下げ幅は小さくなり、ごく親しい相手には会釈程度で済ますこともある。
 座布団を勧められてもすぐには応じない
 また、近年は椅子に坐る生活が一般化しているが、日本には畳の文化があり、畳の上に坐る生活が長きにわたって続いてきた。他家を訪れたときには座布団を勧められても2、3回は固辞してから坐るのが礼儀とされてきた。これも日本独自の文化ということができるだろう。
 もちろん、海外にも挨拶をする文化はある。しかし、とりわけ、欧米人は長幼の序や身分関係を重んじないことから、年少の者や下位の者が年長者や上位者に殊更に深々と頭を下げる習慣は見られない。ただし、抱擁や握手、接吻といった日本人には見られない習慣がある。
 また、インドには五体投地という頭から足までひれ伏して神に恭敬の意を捧げる風習があり、日本にも仏教を通じて伝わり、寺院の法要などでは今もこれに近いことが行われている。しかし、それはあくまでも宗教的な儀礼であって、対人間に関してはそのようなことが行われているわけではない。
 なぜ日本人は落とし物の財布を交番に届けるのか
 日本人は拾った財布を交番に届ける。このことは落とし物がほとんど出てこない国に住んでいる外国人にとって驚くべきことらしい。そして、結果的に日本人の美徳の一つに挙げられている。
 しかし、落とし物を届けるのは、果たして礼節を守る日本人の倫理観に基づくものなのであろうか。
 日本人が落とし物を交番などに届けるのは、これまで長きにわたって暮らしてきた生活環境によるのではないだろうか。日本人は古くからムラ単位の狭い世界で生活してきた。ムラの住人はすべて血縁か顔馴染みで、どこの誰がどこに住んで何をしているかがすべて分かっていた。
 ムラは農作業を共同で行う強固な集合体で、強い団結力を備え、ムラの掟によって整然とした秩序が保たれてきた。ムラの寄り合いや共同作業に欠席したり、他人のものを盗んだりすると、どこの誰の仕業かがすぐに分かってしまい、罪を犯した者は相応の罰を受けなければならなかった。
 落とし物を届けなかったりすればどこの誰がネコババしたのかはすぐに判明したのである。たとえば、落とし物を我が物にして逃走したりすればたちまち生活の糧を失うことになる。だから、人によっては不承不承、持ち主に返したのである。
 ムラ社会の秩序を保つための倫理観
 一方で室町時代には名主を中心にムラの有力者で田畑や用水、入会地の管理などムラの重要事項を「村掟」として定める「惣村」が出現した。彼らは一致団結して自治的なムラの運営をしたのである。そして、大名など権力者の不正や横暴に対しては一揆を結んで結束を固め、不満が募ると蜂起して自らの要求を通そうとした。
 このような農民の動きを警戒した徳川幕府は、農民の宗教的心情から衣食住に至るまで広い範囲で強固な規制を敷いたのである。そして、惣村に見られる強固な団結力を利用して農村の支配を強化したのである。その典型的な例が「五人組の制」で、村人を五戸一組にまとめて相互に監視させ、貢納などに関して連帯責任を負わせたのである。
 もともと日本の社会は個人という観念が希薄な集団である。そして、その集団はムラのような狭い社会で、内部の人間はみな顔見知りで所在が分かっている。そのことがムラの秩序を保つ上での倫理観を形成したと考えられる。だから、その組織が崩れれば倫理観も崩れて秩序を失うことになる。
 「個人」が特定されなければ闇バイトにも手を染める
戦後は都市に人口が集中して地方は過疎化が進んでいる。近年は「限界集落」という言葉が示すように、全国の集落(ムラ)は崩壊寸前か、すでに多くの集落が消滅している。都市部を中心に核家族化が進み、単身世帯も急増している。2020年の国勢調査で全世帯に占める単身世帯の割合は約38パーセント、1位の東京都は約50.2パーセントが単身世帯で、1980年と比べると約20パーセント増加している。
 都会では隣組的な交流もほとんど見られず、隣人と会話を交わしたこともなく、顔も分からないというケースがほとんどだ。多くの人々は「隣は何をする人ぞ」で日々を暮らしているのである。それに加えてネット社会の進展で不特定多数の人同士の交流は盛んであるが、多くの人がハンドルネームを使い、所在も分からず顔も見えない交流が広く行われている。
 ビジネスでは、今でも名刺を交換する文化は残り、お互いに相手の会社の住所は知っているが、相手の住まいは知らないことがほとんどである。そんな状況の中、ネットを媒介としていわゆる「闇バイト」と称する違法な仕事を紹介され、それに応募して特殊詐欺や強盗という凶悪犯罪に手を染める若者も増えている。
 外部からの圧力がなくなれば倫理観も減退していくのが人間の本性であるが、その点「礼節を守る」日本人も例外ではない。
 世の中が乱れると犯罪に手を染める人が増える
 元弘3年(1333)、鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇がいわゆる「建武の新政」を行い世の中の構造は180度転換した。これに伴って世の中は大いに乱れた。このとき、後醍醐天皇の御所があった二条富小路近くの鴨川の河原に「二条河原落書」として知られるものが掲げられた。この落書は市民の何ものかが書いたものだが、当時の混乱した状況を如実に伝えている。
 冒頭で「此比(ごろ)都ニハヤル物、夜討、強盗、謀綸旨(にせりんじ)」といい、社会の乱れに乗じて夜討や強盗などの凶悪犯罪が多発したと言っている。また、「綸旨」とは天皇の意向を伝える命令文であるが、そのニセモノが横行しているというのである。世の中の乱れに応じて人心も大いに乱れると、人々は平気でウソをついて凶悪犯罪に手を染める者もいる。

                    • 瓜生 中(うりゅう・なか) 文筆家、仏教研究家 1954年東京生まれ。早稲田大学大学院修了。東洋哲学専攻。仏教・インド関係の研究、執筆を行い現在に至る。著書は、『知っておきたい日本の神話』『知っておきたい仏像の見方』『知っておきたい般若心経』『よくわかるお経読本』『よくわかる浄土真宗 重要経典付き』『よくわかる祝詞読本』『教養としての「日本人論」』ほか多数。 ----------

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 落語あらすじcom
 人情噺
 落語 芝浜のあらすじ 江戸時代財布をネコババしたら
 2023年7月22日
 落語 芝浜
 腕前はいいのだけど、酒ばかり飲んで何日も仕事に行っていない魚屋の勝五郎
 女房は暮れも押し迫って正月を迎える金もないからと朝から勝五郎をたたき起こし、家を追い出して仕事に行かせた。
 しかし芝の河岸に着くとまだ誰もいない。すると時を知らせる鐘が聴こえてきた。どうやら女房に一刻(二時間ほど)早く起こされたらしい。
 しかたがないので浜辺で顔を洗ったりしていると、波打ち際に革の財布を見つける。
 中を見てみると小判がザクザク五十両。勝五郎は慌ててそれを懐に入れると急いで家に戻ってきた。
 芝浜小判
 女房:
 「おまえさん早いね。仕事はどうしたの」
 勝五郎:
 「そんなもん、もうやめだこの金があれば働かなくても楽が出来る祝い酒と行こうじゃねえか」
 と長屋の飲み仲間を呼んでドンちゃん騒ぎ、そのまま酔いつぶれて寝てしまった。
 あくる朝、女房に
 女房:
 「おまえさん仕事に行っておくれよ」
 勝五郎:
 「なに言ってんだ?昨日の五十両があるだろう?」
 女房:
 「五十両って何さ?しょうがないねえ、夢でもみたんだね」
 金を拾った夢を見るなんて情けねえ、唖然とする勝五郎、それからは酒をやめ身を粉にして働くようになった。元々腕はいい勝五郎、3年経つ頃には、小さいながらも表通りに店を構えるまでになる。
 そして大晦日のこと
 芝浜除夜の鐘
 女房:
 「ねえ、おまえさん、ちょっと話があるんだけど、私の話が終わるまで怒らないで聞いてくれるかい?」
 勝五郎
 「なんだい改まって。なんだかわからないが約束しようじゃないか」
 そこで女房は3年前の五十両の件を切り出した。
 五十両、本当に拾ってきたと。大家さんに相談したら勝五郎のためにならないから夢だということにしてごまかせという助言に従ったこと。
 五十両は落とし主が見つからなかったので、こちらに戻ってきたがそれを言うと真面目に働きだした勝五郎が元に戻ってしまうのではないかと思い言い出せなかったこと。
 聞き終わって最初は怒った勝五郎だったが、女房の心遣いに感謝の言葉を口にする。喜んだ女房は3年ぶりに「好きなお酒を飲んでほしい」と勝五郎にすすめるが、勝五郎は杯を口まで持っていくと
 勝五郎:
 「やめとこう。また夢になるといけねえ」
 落語 芝浜
 勝五郎の商売について
 芝浜魚
 勝五郎が表通りに店を構えるまでは天秤棒の両端に商品を下げて売り歩く棒手振り(ぼてふり)という形態で魚を売り歩いていたと思われます。
 魚に限らず棒手振りのような行商人の扱う品物は草履、野菜、油など多種多様で地方から出てきて、元手の少ない人間が始めるにはもっとも簡単にはじめられる商売でした。
 3年で表通りに店を構えられたということは勝五郎の魚の目利きや包丁の腕前は確かだったといえそうです。
 落語 芝浜余談
 勝五郎が拾った財布について
 江戸時代、落し物を拾ったら拾った人がまずその周辺に拾ったことを記した立て札を立て、落とし主が現れなければ町奉行に届け、奉行所でそれを公開することになっていました。
 落とし主が現れると拾った人に報労金が支払われるのは現代と変わりませんでしたが現代の約一割と比べると江戸時代の比率は非常に高く50パーセントだったといわれます。
 落とし主が現れなければ半年で拾った人のものになり、それは現代とそれほど変わりませんでした
 ちなみにネコババすると現代では遺失物横領罪で「一年以下の懲役、または十万円以下の罰金、もしくは科料」となりますが、江戸時代では十両盗めば死刑と決まっていたので、窃盗ではないとはいえ定吉の妻の言う「首が飛ぶ」というのも大げさな話ではなかったといえそうです。
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 いづつやの文化記号
 2011.04.12
 江戸おもしろ話! もし道端で小判入りの財布を拾ったら?
 つい先だってとりあげた‘江戸時代の貨幣展’(拙ブログ4/5)で小判の話をしたので、今回は小判を拾った男たちのショートストーリーを佐藤雅美著‘縮尻鏡三郎 捨てる神より拾う鬼’(文春文庫 2010年10月)から。
 8つの話からなるこの本の第3話がタイトルになっている。装画を描いているのは贔屓の村上豊。小判入りの財布を拾う話はこれではなく第7話の‘過ぎたるは猶及ばざるが如し’。縮尻鏡三郎シリーズは以前NHK金曜時代劇でドラマ化(主演は中村雅俊)されたので、ご存知の方もいるかと思われるが、これは第5弾。昨年5月には6弾の‘老いらくの恋’がでた。
 7話は読み終えたあとタイトルがなるほどねと、合点がいくほどよくできた事件物。話は小判入り財布を4人の大工が拾ったところからはじまる。どんな顛末が待っているかは読んでのお楽しみ!で、ここでは江戸における拾い物事情について少々。
 小判が12枚入った財布を道端で拾った大工4人はすぐに商家の小僧とか手代が集まってきたので猫ばばするわけにもいかない。だから、近くの自身番屋(交番兼区役所)に届ける。番屋ではこれを受けとり、‘金子の落し物あり。心当たりの者は届け出られたし’と書かれた立て札を脇に三日間出しておく。これを三日晒しという。
 三日間告知して、落とし主が現れたとする。その場合、拾い主と落とし主とで折半する。今は拾った者は10%の謝礼しか受け取れないが、この頃は落とした者にも不念(不注意)があるということで半分の謝礼をはずまなければならなかった。落とし主が現れなかったら6ヶ月後にそっくり拾った者のものになる。これが‘御定書’で決められたルール。
 おもしろいのは立て札には中に入っていた金子の額とか財布の形や柄についてはいっさい書かないこと。これは‘わたしが落とし主です’という、やたらな者の顔出しを防ぐため。でも、‘わたしのものだと思うのだが’と番屋に顔をだすやつが結構でてくる。いつの世にも図々しく恥知らずな者はいる。
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🌈59)─2・C─日本は怨霊の幸う国。源氏物語のもう一つの読み方とは死霊と生霊。~No.97 

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 2024年3月17日 YAHOO!JAPANニュース「怨霊の幸う国・日本 源氏物語のもう一つの読み方とは?
 [写真]太宰府天満宮(GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)
 主人公・紫式部吉高由里子さんが演じるNHK大河ドラマ「光る君へ」が放送されています。紫式部によって書かれた日本を代表する古典文学「源氏物語」ですが、建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、「ストーリーにモノノケの力が作用していることを意識しながら読むと、エンターテインメントとしても面白く読める」といいます。若山氏が独自の視点で語ります。
 純文学でもありサスペンス小説でもある
 [イラスト]源氏物語はエンターテインメントとしても面白く読めるという(アフロ)
 『源氏物語』は恋愛を主題とする小説であり、本居宣長が評したとおり「もののあはれ」という美意識を基本に展開される。その意味において現代の純文学的価値観にも合致し、世界的にもきわめて高い評価をえて、まちがいなく日本文化の至宝である。僕もそういう頭で読んでいた。
 しかしもう一つの読み方もあるようだ。専門家が指摘するとおり、この物語は「モノノケ(物の怪)」と呼ばれる「怨霊」が重要な役割を果たすのである。科学的世界観を基本とする現代人は、モノノケの力をあまり意識せず、それに憑依された人物の精神的問題として読む傾向があるのだが、逆に、そのストーリーにモノノケの力が作用していることを意識しながら読むと、あたかもサスペンス小説のような臨場感が生まれ、エンターテインメントとしても面白く読めるのである。当時の人々の感覚に立つとすれば、むしろそちらの方が正しい読み方であるのかもしれない。
 サスペンスとしてのストーリーを動かすのは主として六条御息所の怨霊である。彼女は次の天皇となるべき東宮の妻として高い地位にあり、容貌も教養も優れていたが、その東宮が早逝して未亡人となる。プレイボーイである光源氏は彼女と関係をもつが、ひとりの女性にとどまってはいない。六条御息所は、恋する源氏が他の女性と深い関係をもつことに強い嫉妬と怨念を抱く。その生霊(いきりょう)は、車争いなどの事件を経て源氏の正妻である葵上(あおいのうえ)に取り憑いて死に至らしめる。またその死霊(しりょう)は、源氏がもっとも愛し大事にするヒロイン紫上(むらさきのうえ)を苦しめる。
 この物語は、源氏の死後を描く宇治十帖まで、怨霊がストーリー展開の大きな役割を果たすのであり、その生霊あるいは死霊と、その力を調伏しようとする仏教者の読経や加持祈祷との戦いが、現代ドラマのアクションシーンのような役割を果たすのだ。
 血の怨霊・地(武)の怨霊・知の怨霊
 [写真]東京・大手町の将門首塚(GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)
 一般に、菅原道真平将門崇徳院の怨霊が、日本の三大怨霊とされる。これについては前に「鬼滅の刃」ブームを機会に論じたので、重複する部分もあるが、ごく簡単に紹介する。
 菅原道真はきわめて聡明で、文章博士(もんじょうはかせ)となり、いくつかの漢詩集や歴史書を編み、政治にも深く関与した。しかしその知的能力を恐れた藤原氏によって罪を着せられ、遠く大宰府に左遷される。その死後に続いた都の災厄が道真の祟りとされ、神として祭り上げることによる鎮魂(たましずめ)が図られた。「天神」である。以来、道真は学問の神として、太宰府天満宮、京都の北野天満宮、東京の湯島天神(正式には湯島天満宮)などに祀られている。
 平将門は、桓武平氏の血を引き、武力によって関東の争いを征し「新皇」と称して独立国のように治めようとしたが、都の勢力によって撃たれ晒し首とされた。近親者も皆殺しにするなどあまりにも酷いやり方だったので、将門の首が夜空に飛び去ったとする伝説があり、東国を中心に怨霊伝説が広まった。現在も、東京の大手町には将門の首塚が祀られ、再開発計画でも手が出せずにいる。
 崇徳院は、父とされる天皇の子ではなく実はその祖父(崇徳の曽祖父)である院の子という負目があり、天皇となっても院となっても実権を握れず、保元の乱で讃岐へ流される。『保元物語』によれば、崇徳院は舌先を噛み切って「日本国の大魔縁となる」と血書し、髪と爪を伸ばしたままに生きたとされる。その後、怨霊伝説が広まったが、歴史学者山田雄司氏によれば、これは隠岐へ流された後鳥羽院の怨霊と重ねられたと考えるべきだという。
 藤原という血の権力が、知の象徴たる道真を「知の怨霊」とし、武の象徴たる将門を「武の怨霊」とし、血の象徴たる崇徳院を「血の怨霊」としたといえる。少し前に「血の権力・地(武)の権力・知の権力」を論じたが、怨霊にもその三つがあるようだ。
 平安末期から鎌倉初期に怨霊が多いのは、政治の実権が、天皇と貴族の手から武家の手に移ることへの衝撃だろう。僕は承久の変における北条政子の演説を重視している。後鳥羽上皇が鎌倉を攻め、天皇と貴族の世をとりもどそうとしたときに、関東武士団をふるい立たせ、逆に京に攻め上ることによって江戸期に至るまでの武家の世を確定させたのだ。「時代を変えた」という意味で、日本史上最大の演説ではなかったか。政子には、短期にして滅んだ源氏の怨霊、特に天才的軍人であった義経と天才的歌人であった実朝の怨霊が乗り移ったとも考えられる。
 政治的ではなく、文化的な怨霊もある。世阿弥足利義満に寵愛され,怨霊を主役とする能を大成したが、最後には罪を着せられ佐渡へ流された。能というきわめて禁欲的な形式が日本の舞台芸術のもととなったのは世阿弥の怨霊が作用したのだともとれる。千利休は信長と秀吉に重く用いられたが、最後には切腹しなければならなかった。侘び茶というこれも禁欲的な形式が、後世の日本文化として広がったのは、利休の怨霊が作用したともとれる。
 仏教と神道と怨霊と天皇の役割分担
 平安時代神仏習合が進み、仏教と神道の境が曖昧であった。しかしそれなりの役割分担があったようだ。モノノケを制圧(調伏)するのは主として仏教者の役割であったが、神事の最中であれば、仏教者は遠慮し、その災厄が神によるとなれば、仏教者も調伏をあきらめたようだ。どちらかといえば仏教は、怨霊を普遍性の力で抑え込む傾向にあり、神道は、怨霊を祭りあげて善神とする傾向がある。
 仏教の読経や加持祈祷によって怨霊を調伏するさまは、ヨーロッパにおいて魔女や吸血鬼を十字架によって退散させるさまに似ている。仏教という国際思想が日本土着の神道と葛藤し融合する過程は、ヨーロッパにおいてローマ帝国という普遍性の文明から出現したキリスト教という思想が、北上するに従って、ゲルマンやケルトなどの土着の信仰と葛藤し融合していく過程と似ている。
 また当時、怨霊を退散させる役割をもつ陰陽師という職業があった。有名な安倍晴明陰陽寮に属するいわば役人であり、天皇を頂点とする律令体制に組み込まれていた。天文(空間)と暦(時間)に関する学問の専門家で、方角(空間)と日にち(時間)の吉凶を占う役割がある。中国的な天の概念と道教が背景にあり、天皇制の理論的一翼をになう存在であった。
 僕は、日本文化における精神世界には、基本的な四つの要素があると考えている。「仏・神・鬼・天」である。怨霊は鬼でもあり、天は中国的な道教的な概念であるが日本の天皇制にもつうじる。
 詳述すれば長くなり本記事の趣旨を外れるので、ここでは僕の解釈を端的に表現する。「仏」とは人が到達すべきものであり、「神」とは福をもたらすものであり、「鬼」とは禍をもたらすものであり、「天」とは時空の運行を司るものである。日本の精神世界では、この四要素が絡み合っている。いつか詳細に論じてみたい。
 また山田雄司氏は、日本にある「怨親平等」という思想を紹介している。死んで霊となれば敵も味方も平等に弔うということだ。鎌倉の円覚寺は、元寇で命を落とした元側の兵をも鎮魂し菩提を弔うために創建されたという。近代になっても日清戦争日露戦争日中戦争の犠牲者は、東亜のために命を落としたものとして、敵味方なく忠霊鎮魂の碑が建てられたという。そう考えれば、日本の怨霊思想は、ある種の国際主義につながるのだ。
 怨霊の幸わう国
 日本文化の歴史は怨霊に満ちている。抜群の才能をもちながら、日本社会に顕著な、突出者を嫌う論理=和の論理によって、政治的に排斥された者が怨霊となる。しかしまたその「和の論理」によって神として祭り上げられ、その才能が残した思想あるいは流派が隆盛をきわめる傾向がある。
 とはいえ僕は、自然科学を基本とする工学部で教鞭をとってきた身であり、工学博士でもあり、きわめて科学的な世界観をもつ人間である。この世には怨霊が存在し、その力が人とその世に禍をもたらすと主張するオカルト論者ではない。そういった主張で利を上げようとする組織や個人には嫌悪感を覚える。
 しかし「都市化のルサンチマン」というテーマを考えつづけてきて、人間がその心に嫉妬や怨念を抱くのは必然であると考えるようになった。世の道徳家は常に感謝して生きなさいなどというが、それは表面的なことで、人は深いところで嫉妬と怨念を抱くものだ。しかも、パレスティナなどの紛争を考察すれば、人間集団の怨念は、歴史的に蓄積するものと思われる。
 そう考えると、人間の怨念が凝り固まった怨霊というものを仮定し、調伏し、祭り上げ、そのエネルギーを昇華させることによって、現実の災厄とならないようにするのもひとつの方法ではないか。
 神の存在を科学的に証明することは困難であるが、神の不在を証明することも困難である。同様に、怨霊の存在を科学的に証明することは困難であるが、怨霊の不在を証明することも困難である。考えようによっては、一神教絶対神を仮定するより、怨霊を仮定する方が穏健であるかもしれない。
 日本は「和を尊ぶ国」であると同時に、その裏返しとして「怨霊の幸(さき)わう国」ではないか。
 アインシュタインはいった。「知性の過信は危険である」と。
 人は、物語の中に出てくる人物を愛する。人は人を愛するが、それは「人の物語」を愛するのではないか。怨霊とはその「人の物語」が反転した結晶体であろう。
 参照
 藤本勝義 『源氏物語の〈物の怪〉 文学と記録の狭間』 笠間書院1994
 山田雄司 『怨霊とは何か 菅原道真平将門崇徳院』 中公新書2014
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🌈59)─2・B─源氏物語は〝最古の女性文学〟ではなく東アジアの文化の集大成だった。~No.97 

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 2024年3月24日 YAHOO!JAPANニュース withnews「源氏物語は〝最古の女性文学〟…じゃない! 東アジアの文化の集大成だった 紫式部の能力とは
 宇治川のほとりに立つ、「源氏物語」宇治十帖のモニュメント。「源氏物語」を「最古の女性文学」と呼ぶ例もありますが…=朝日新聞、2023年9月、京都府宇治市北川学撮影
 大河ドラマ「光る君へ」をテーマとした記事などで、紫式部の書いた「源氏物語」が「世界最古の女性文学」と紹介されることもあります。しかし、平安文学を愛する編集者のたらればさんは「これは単純に間違い」と指摘します。おすすめの「源氏物語」現代語訳や、その解説本も紹介してもらいました。(withnews編集部・水野梓)
 【画像】「光る君へ」たらればさんの長文ツイート 1年「情緒がもつのか…」
 東アジア文化の叡智の集大成
 水野梓(withnews編集長):源氏物語を「世界最古の女性文学」と紹介する記事などもありました。たらればさんはX(旧Twitter)などでも明確に否定していますね。
 たらればさん:これはよくある誤解だし、そう言いたくなる気持ちも分かるんですよね。源氏物語が日本文学を代表するすごい作品だというのは、まあ広く一般的に普及している認識で、では「どこがすごいのか」というと、なかなか説明が難しい。
 特に「ひと言で短く説明してください」と言われると非常に難しくて、そこでたとえば「最古の物語」だとか「最初の女性文学/女流小説/ベストセラー」といった「分かりやすいフレーズ」をつけたくなる気持ちは分からないでもないとは思います。思いますが、しかしこれは単純に間違いなわけです。
 なぜいちいち「そういうこと」を説明したほうがいいかというと、これは日本文学史をすこしでも体系的に学ぶと分かることですが、源氏物語は「それまで」のいろいろな作品や文化の集大成のひとつだからです。
 水野:さまざまな作品のエッセンスが入っているということでしょうか。
 たらればさん:そうです。河添房江先生の「源氏物語と東アジア世界(NHKブックス)」でも解説されていますが、源氏物語はそれまでの日本文学作品だけでなくて、東アジア文化全般の叡智が集結されているものでもあります。
 だから「紫式部は突然変異で現れ、【神】のようにあらゆるシーンやキャラクターを創作した」で終わってしまうのは、ちょっと違うんじゃないかなということです。
 水野:なるほど。
 たらればさん:紫式部という作家は、ゼロからイチを作り出す能力ももちろんあったとは思いますが、それ以上に、人の話を聞いてそれを昇華したり、先行する作品を読み込んで自作品に盛り込んだりアレンジして再構築する能力も非常に高かったわけです。
 彼女は天才ではあるんですが、それまでにあった豊かな文化の土台を吸収して大成させた人物でもあるわけです。
 水野:源氏物語よりも過去の文学作品で「女性文学」というと、道綱母が書いた「蜻蛉日記」のほかにも、さまざまな女性が詠んだ和歌もありますよね。
 たらればさん:紫式部は和歌も漢詩も物語も好きでしたから、自国の古典作品も、海外の文化も、貪欲に吸収してあの作品ができているわけです。
 「光る君」は固有名詞でなく「光って見えた」
 たらればさん:僕たち日本語文化圏に育った人間は、「光る君」と聞くと、「源氏物語光源氏」という固有名詞でとらえますよね。
 水野:そうですね。古文で習ったなぁ、と。
 たらればさん:でも、多分、なんていうのかな…、源氏物語が書かれた頃の人にとっては、本当に誰かが光って見えていた経験があるんだと思うんですよ。
 これは「レディ・ムラサキのティーパーティ らせん訳『源氏物語』」(毬矢まりえ・森山恵著)の書評でも書いた話なのですが…
 <アーサー・ウェイリーが100年前に英訳した「源氏物語」を、現代日本語に再翻訳した著者のふたりが、時空を超えた物語の秘密と魅力を解きあかす内容>
 たらればさん:きっと当時、自分よりもずっと高貴な人は、実際に光って見えていたと思うんですね。これは今でも信心深い人には「そのように」見えているとも思うのですが。
 水野:光って見えた!
 たらればさん:優れた人や徳の高い人が光って見える…というのは、世界中の伝説で語られていますよね。
 仏像や仏画には「光背」と呼ばれる意匠が施されていて、あれはつまり後ろから光が当たる「後光」です。あんなイメージ。
 だから源氏物語光源氏という人は、幼い頃から周りの人には実際に光り輝いて見えていたんでしょう。たぶん見る側の人が興奮して、瞳孔が開いて世界が明るく感じていたんじゃないかと思いますけど。
 水野:たしかに魅力的な人がキラキラ輝いて見える…というのはマンガなどの作品でも見られる表現方法ですよね。わたしたちにも実際にそう見えているからなんでしょうね。
 たらればさん:この先、大河ドラマの主人公・まひろ(後の紫式部)は、思いを寄せ合う藤原道長を、ずっと見続けることになるわけですよね。光り輝く人に出会って、それを物語の主人公に据えようと…。
 水野:そして道長にとっても、まひろは光っているわけですよね…。
 たらればさん:だから雑踏の中でもお互いをすぐ見つけ出せるんですよね。
 「物語でしか語れないことがある」
 水野:やはり古文で通読するのは難しいので、現代語訳で源氏物語を読んでみたい、という方には、どなたの訳がおすすめですか。
 たらればさん:あらすじの次のステップとして、源氏物語を現代語訳で読んでみたい方には、河出文庫から出ている角田光代先生の訳や、理論社から出ている荻原規子先生の訳がおすすめです。
 水野:1000年前の文化や風習の違いを飛び越えるためにも、やっぱり現代のわたしたちに近い時代の訳を通して読んだ方がスッと入ってきそうですね。
 たらればさん:古典文学全般に言えることですが、やはり当時の常識でしか分からない文脈や前提があるので、わたしたちに近い時代の訳のほうが、「そこ」が埋められていると思います。
 もともと「源氏物語」は限られた貴族に向けた物語なので、より「分かる人だけ分かればいい」という文脈勝負みたいなところがあって、そういった文脈を想像で埋めていくしかありません。
 たらればさん:今回の大河ドラマ「光る君へ」のすばらしい点のひとつは、大事なシーンでセリフがないところだと思いますが、わたしたち視聴者はその隙間を想像で埋めていきますよね。
 まひろはきっとこう思ったはず、道長はこう感じているはず…と想像すると、登場人物が自分だけのまひろになり、自分だけの道長になってゆきます。
 水野:より思い入れが強くなっていきますよね…。だからダメージも受ける…。
 たらればさん:より力強く作品と結びつくことができる、これは作劇のうまさだし、解釈の多様性を武器にしているんだなあ、と思いますね。
 紫式部がバー「ゆかり」を開いたら…
 水野:先ほど、源氏物語は現代の文化とは大きく違うという話がありましたが、山崎ナオコーラさんの「ミライの源氏物語」(淡交社)がすごく面白くって。
 たらればさん:あ~面白かったですね。読みやすく、非常に勉強にもなりました。
 水野:ロリコンや不倫、ジェンダーといった現代の目線だとモヤモヤするところをどう読んだらいいのか、というのをエッセイ形式で書いてくれていて。源氏物語の描写を振り返ることもできるので、おすすめです。
 たらればさん:それがお好きなら、おすすめがありますよ。奥山景布子先生の「ワケあり式部とおつかれ道長」(中央公論新社)です。
 作家であり、源氏物語のばりばりの研究者でもある奥山先生が書かれていて、「ママ」である紫式部のバー「ゆかり」に行って、お酒の合間にいろんな体験談や愚痴を聞いていく…という面白いスタイルの本です(バーテンダーは行成、常連客は道長)。
 水野:わ~絶対読んでみよう。前回のたらればさんのおすすめ本も、すでに2冊読みました。当時の文化や貴族たちの思いがもっと知りたいなぁって感じましたね。
大河ドラマ「光る君へ」深掘りしたい人へ たらればさんのおすすめ本
https://withnews.jp/article/f0240218000qq000000000000000W02c10501qq000026632A
 たらればさん:源氏物語という作品は、おそらく日本文学で最も研究者が多いジャンルであり、紫式部ってやっぱり国文学界のスーパースターなんだなってあらためて思いますね。
 今年の大河ドラマをきっかけに、1冊でもいいので平安時代の関連本を読んでもらって、紫式部清少納言のことを好きになってもらえると嬉しいです。
◆これまでのたらればさんの「光る君へ」スペース採録記事は、こちら(https://withnews.jp/articles/keyword/10926)から。
 次回のたらればさんとのスペース(https://twitter.com/i/spaces/1OdKrjeLXdQKX)は、4月7日21時~に開催します。・・・
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🎑38)─2・A─捏造された嘘の“江戸しぐさ”を道徳教育として教えてはいけないワケ。〜No.95 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 江戸時代は、時代劇で描かれるほど幸せな時代ではなく、ブラックで不幸な時代であった。
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 江戸時代とは自助努力・自己救済・自己責任で誰も助けてはくれない冷淡・冷血・非情な社会で、日本人とは私欲・我欲・強欲・貪欲を剥き出しにしたエゴイストで、美しい日本などは存在しない建前の偶像に過ぎなかった。
 そして、日本には神よる奇蹟や恩恵や救済も癒やしや慰めもない無情な悲惨で過酷な国・地域であり、それは数万年前の旧石器時代縄文時代変わる事のない現実・事実であった。
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 昔の日本では、不寛容な一神教の啓示宗教と反宗教無神論イデオロギーは拒絶され、キリシタン弾圧と共産主義に対する思想弾圧が行われていた。
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 ウィキペディア
 江戸しぐさとは、芝 三光(しば みつあきら)が創作・提唱し、NPO法人江戸しぐさが「江戸商人のリーダーたちが築き上げた、上に立つ者の行動哲学」と称して普及、振興を促進する概念・運動である。「江戸しぐさ」はNPO法人江戸しぐさが「紙類、文房具類、印刷物」「セミナーの企画・運営または開催、書籍の制作、電子出版物の提供、教育・文化・娯楽・スポーツ用ビデオの制作(映画・放送番組・広告用のものを除く)」に関し、商標権を有している。
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 2024年3月23日 YAHOO!JAPANニュース ABEMA TIMES「江戸になかった“江戸しぐさ”が教育現場に残る理由 “偽史”指摘から10年後も「学校だより」で存在感
 江戸しぐさとは?
 江戸時代の人々のふるまいとして、教科書にも掲載された「江戸しぐさ」。10年前にその存在を否定する声が歴史家などから相次いだが、現在も教育現場でたびたび登場することに、疑問の声が上がっている。
 【映像】“江戸しぐさ”の矛盾 あなたは気づける?
 「江戸しぐさ」とは、江戸の町で人々が互いに気持ちよく暮らすための知恵だということで、次のようなものがあるという。
 傘かしげ=傘をさした人同士がすれ違う時に、相手をぬらさないよう互いの傘を傾けること。
 こぶしうかせ=一人でも多くの人が座れるよう、みんなが少しずつ腰を上げて場所をつくること。
 江戸しぐさはかつて複数の教科書で紹介されたほか、現在も文科省が教員向けに「道徳教育アーカイブ」として公開している教材の1つ、「私たちの道徳」に掲載されている。
 これに対し、歴史家の原田実氏は10年前、著書『江戸しぐさの正体』(星海社新書)の中で、江戸しぐさのさまざまな設定が江戸時代にそぐわないことなどから「偽史である」と指摘。教科書からは江戸しぐさの記載が消えた。
 歴史家の原田実氏
 しかし、『ABEMAヒルズ』が調べたところ、今でも実際に小中学校で授業の中で取り上げられたり、図書館で子ども向けの文化・歴史図鑑として紹介されていたほか、道徳の教材として自治体の教育委員会が活用している事例があった。
 原田氏も「いまだに学級便りや校長先生の挨拶などでも、江戸しぐさは使われ続けている。彼ら彼女らがまだ情報をアップデートできていないのだ」と懸念を示す。
 江戸しぐさはどのような経緯をたどって今に伝わってきたのか。普及活動を行っているNPO法人日本のこころ江戸しぐさ」によると、江戸の商人たちが築き上げたルールが起源であったものの、町人は書き物が許されていなかったため口伝えで伝えられ、昭和の後半にその伝承者から聞き書きしたのが今の形になったという。
 三重大学・高尾善希准教授
 つまり、「当時の史料はない」ということになるのだが、この点について江戸時代史が専攻の三重大学・高尾善希准教授は「証拠も史料もない。私は10年間、東京都公文書館で史料編纂をしていたが、江戸しぐさに類するような思想も、それを支える団体も見なかった。加えて、江戸時代を研究する研究者仲間からもそんな話は出てこず、むしろ彼らは『江戸しぐさは後から知った。そういったものが生まれていると世の人から教えてもらった』と話すことからも分かるように『存在しない』のだ」と指摘した。
 NPO法人日本のこころ江戸しぐさ」の代表が書いた『江戸の繁盛しぐさ』では、史料が残されていなかった理由の1つに「江戸っ子狩り」が挙げられている。明治政府が江戸のカラーを消すため、「江戸しぐさ」を目安に江戸っ子狩りを行ったこと、それにより多くの血が流れて全国各地に江戸っ子が逃げた、という旨が記載されている。
 これに対し高尾教授は「江戸っ子狩りは、ない。そもそも一般庶民を虐殺するという発想自体ない。『官軍が弾圧したから残ってない』という言い分は残っていないことを言い訳として使っているだけだ。我々歴史研究者は残ったものを通じて歴史を構築する。最初から歴史の捉え方、発想が違うと言わざるを得ない」と説明した。
 江戸時代に実在したかについて、NPO法人日本のこころ江戸しぐさ」は、「事実として認定されるような一級資料は見つかっていない」として、『ABEMAヒルズ』に次のように回答している。
 「江戸しぐさは、口伝として伝えられたものを聞き書きしたものであると解釈しており、検証等はしていない。学問として系統立てているものでもなく、今の世の中で人々の関わりに役立てられることがあれば良いと考えており、それ以上のことはない。また、何事にも人それぞれ色々な考え方や捉え方があることも十分承知しており、他の意見を頭から否定しない」
 江戸しぐさが現在も教育現場に残っていることについて、歴史家の原田実氏は「少なくとも教育現場からは、撤退させるべきだ。江戸しぐさは現代人のマナーとして実用的な面もあるが、それは現代人が作ったものだから。個人として江戸しぐさを大事にする人がいてもおかしくないが、教育現場で、事実として教えるべきではない」と強調した。
 また、ウェブなどで「江戸しぐさ」の存在を否定する情報に接した際に、混乱を引き起こしかねない点も指摘した。
 「この状況の中で教育者が現場で使い続けると、ウェブで情報を得られる世代の生徒にとっては『教育現場が信用できないという実例』になってしまう。これはかなり由々しき事態だ」
 江戸しぐさについてかつて取材をしていたノンフィクションライターの石戸諭氏は「教育現場で江戸しぐさを用いている人は『歴史的根拠がないものを広めてやろう』などといった悪気があるわけではなく、ちょっといい話、あるいはマナーを大切にしましょういう実例として使うケースがほとんどだと思う。マナーを教えること自体は否定しないが、これらを伝えるのに典型的な偽史である江戸しぐさを使う理由はない」と指摘した。
 『ABEMAヒルズ』は現在も文科省が教員向けに「道徳教育アーカイブ」として公開している教材の1つ、「私たちの道徳」に掲載されている点などについて文科省に確認し、以下のようなコメントを得た。
 「歴史的事実かどうかの調査を行ったわけではない。史実として教えるわけではなく、子どもたちに礼儀やマナーについて考えてもらうきっかけとして掲載した」「採用した時には捏造という意見があることは承知していなかったのではないか」「2018年度の道徳教科化に伴い冊子での配布は終了した」「(「道徳教育アーカイブ」には)資料として掲載。史実かどうか争いのある点については、訂正・追記の予定は現状ない」
 これに対し石戸氏は「訂正・追記を行う必要がある。どういう経緯で江戸しぐさが教育現場に入り込んできたのか、 どういう経緯で文科省が採用し、冊子まででき、教育アーカイブまで残すようにしたのか。詳細に検証した結果を公表してほしい。事実でなくても道徳教育で使うのにふさわしい考えもありえるが、それなら日本にはもっと質が良い物語がいくらでもある。江戸しぐさのようにそれ自体が事実ではない偽史を積極的に使う言い訳にはならない。今からでも文科省の責任で調査に乗り出してほしい」と述べた。
(『ABEMAヒルズ』より)
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 2015年6月26日 YAHOO!JAPANニュース「「江戸しぐさ」はやめましょう。:何が問題か。なぜ広がったか。
江戸しぐさとは
 江戸の町民たちが行っていた、日常生活のマナーだそうです。NPO法人江戸しぐさ」理事長 越川禮子さんが、主張しています。傘かしげ、肩引き、時泥棒、こぶし腰浮かせなど。公共マナーのポスターになったり、公共広告機構ACジャパン)に取り上げられたり、道徳の教科書にまで載っています。
■TBSの「NEWS23」でも話題に
 6月25日のTBSテレビ「NEWS23」でも話題になっていました。歴史の研究家らにインタビューして、江戸しぐさの矛盾点を指摘していました。偽史についての本を書かれている原田実先生も、江戸しぐさの問題を語っています。
 原田先生は、関連本も出されています。『江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統 (星海社新書) 』
 江戸しぐさに関する歴史的資料は何もありません。なぜ何もないかといえば、「江戸っ子大虐殺」があって資料が全て焼き払われ失われたと、NPO法人江戸しぐさ」理事長 越川禮子さんは説明します。資料は失われたけれども、口頭による伝承だと説明します。
 歴史学者によれば、そんな虐殺が行われた証拠は何もありません。番組としては、江戸しぐさに関して「疑問がある」という少し大人しいスタンスでしたが。
■TBSの「NEWS23」では説明されませんでしたが
 明治新政府による江戸っ子大虐殺が起き、江戸しぐさを伝えるものは、ことごとく抹殺されます。その中で、どうしてNPO法人江戸しぐさ」理事長 越川禮子さんには、江戸しぐさが伝わったのか。そこには、劇的な物語があります。
 ごくわずかな生き残りが、様々な困難を乗り越えて、江戸しぐさを伝え、理事長の越川禮子さんに伝わりますが、そこには歴史上の有名人や大きな組織が登場し、秘密結社なども現れます。
 とてつもない裏の歴史、ものすごい隠れた真実であり、これが本当なら、越川理事長は非常に特別な存在ということになります。
 ただし、歴史学的には、何の証拠もありません。
江戸しぐさはなぜ広がったか
 「江戸しぐさ」。なかなかすばらいネーミングです。そのマナー自体は、悪いことではないでしょう。マナーといったものは、法律や数学ではありませんから、絶対的なものではありません。しかし、マナーを教えたいとは思います。効果的に、感動的に、興味深くマナーを教えるための道具は何かないかと思っていた時、「江戸しぐさ」に出会ったのでしょう。江戸しぐさは、誰かに伝えたくなる、「イイ話」でした。
 原田実先生の本によれば、江戸しぐさが最初に世に出たのは、1981年読売新聞の「編集手帳」だそうです。これをきっかけに、徐々に広がっていったようです。歴史学者が取り上げたわけではありませんが、ちょっと良い話として広まっていきます。新聞に載ったのですから、信頼できる話とみんなが思ったことでしょう。
 歴史的検証がされることもなく、とても奇妙な物語が語られていることが確かめられることもなく、広まっていきました。
 難しい歴史学的検証は素人にはできなくても、奇妙で壮大な物語を聞けば、おかしいとは思えるはずなのですが。ただ、歴史に関する都市伝説を明確に否定するのは、簡単ではありません。
■都市伝説とデマうわさと反論
 世の中には、様々な都市伝説があります。
 フリーメーソン陰謀論の心理:テンプル騎士団、薔薇十字団、イルミナティ、都市伝説を信じる理由と危険性
 都市伝説の見抜き方:東大卒業式の式辞を実践してみた:安易に拡散リツイートしないためのネットリテラシー
 昔懐かしい「口裂け女」とか「人面犬」なら、子どもだましとわかります。まだ元気な芸能人なのに死んだというデマが流れることもありますが、それなら本人が出て来れば、すぐに解決です。
 しかし、反論に手間がかかるものもあります。
 テレビドラマ「水戸黄門」の「うっかり八兵衛」が、ドラマの中で「ファイト!」と言ったという話があります。これが嘘だと個人で確かめるのは、大変です。もしかしたら、言ったかもしれません。
 八兵衛役の高橋元太郎さんは、インタビューに応じて、そんなことはないと答えています。さらに、全話を確認したところ、そんな事実はなかったそうです。
 さらに、歴史的なことになると、確認はいっそう困難です。
 お笑い芸人8.6秒バズーカーのラッスンゴレライは「落寸号令雷」という原爆投下の号令だという作り話も広まりました。「落寸号令雷」が原爆投下の号令などとは、聞いたことがないと、研究者がインタビューに答えていました。ただ、その研究者が真実を知らないのだと反論することもできるでしょう。
 何かがあることを証明することはできても、ないことを証明することは、なかなかできません。フリーメーソンイルミナティが歴史の中で暗躍していたといった陰謀論、都市伝説はなかなかなくなりません。
■専門家はなぜ反論しないか
 これらのことに、歴史学者や学会がきちんと反論してくれれば良いのですが、学者や学会はそんなことはしません。専門家から見れば、あまりにも馬鹿げたことなので、そんなことに反論しても研究論文になりません。学問的業績になりません。しかも、研究者同士なら議論もしやすいのですが、学問的常識がなく、都市伝説を信じ込んでいる人を納得させるのは、とても大変です。
 研究者は、せいぜいインタビューに答えてて、そんなことはありませんねと語る程度です。あるいは、プロの研究者ではない作家(文明史家)の原田実先生のような方が、使命感をもって解説本を書いてくれるわけです。
■都市伝説の快感
 世界は複雑です。それをある種の陰謀論で説明できれば、シンプルです。人は、このようなシンプルな説明を求めてしまいます。また、学者もマスコミも知らないことを自分だけが知っていると思うのは、気分が良いことでしょう。
 あるいは、何かうまくいかないことを、全部世界を裏で支配する秘密結社のせいにしてしまえば、心は楽になるでしょう。
 しかし、そんなことをしていても、本当の問題解決はできません。
■子どもたちに教えるべきこと
 「学校の怪談」は、面白い話です。しかし、良い言葉をかければ綺麗な結晶ができるとか、秘密結社による陰謀論や、江戸しぐさとか、学問的に明らかに嘘の話を子どもに伝えてはいけません。おとぎ話にもメルヘンにもなりません。学問的には、「その証拠はない」としか言えませんが、子どもたちに学問的、科学的なリテラシーを身につけませましょう。
 STAP細胞は、本当はあるのかもしれません。たしかに、可能性は0ではありません。しかし、STAP細胞常温核融合も、世界中の科学者がこれ以上莫大なお金と時間をかけて研究する意味はないと判断しました。
 世界は驚異にあふれたワンダーランドです。子どもたちは、世界を見て、科学や歴史を知って、知識を深め感動し、さらに真実を目指して歩んでいくでしょう。常識を破る、パラダイムの大変換もいつか起こるでしょう。子どもたちには、チャレンジし続けて欲しいと思います。だから、怪しげな都市伝説に振り回されて、間違った世界観の中で、無駄な労力を使わせるわけにはいかないのです。
 まず私たち大人が、誤った都市伝説や陰謀論に振り回されない手本を示しましょう。
 *関連「人はなぜ嘘(流言・デマ・都市伝説)を信じてネットで拡散させるのか:ネットデマの心理学」(Yahoo!ニュース個人碓井真史)
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 「江戸しぐさ」はやめましょう2:質問疑問にお答えして:子どもに伝えてはいけない理由
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 「江戸しぐさ」が道徳教材に残る:文科省の回答への反論:コロンブスの卵は良くても江戸しぐさがダメな理由(「江戸しぐさ」はやめましょう3)
 碓井真史
 社会心理学者/博士(心理学)/新潟青陵大学大学院 教授/SC
1959年東京墨田区下町生まれ。幼稚園中退。日本大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(心理学)。精神科救急受付等を経て、新潟青陵大学大学院臨床心理学研究科教授。新潟市スクールカウンセラー。好物はもんじゃ。専門は社会心理学。テレビ出演:「視点論点」「あさイチ」「めざまし8」「サンデーモーニング」「ミヤネ屋」「NEWS ZERO」「ホンマでっか!?TV」「チコちゃんに叱られる!」など。著書:『あなたが死んだら私は悲しい:心理学者からのいのちのメッセージ』『誰でもいいから殺したかった:追い詰められた青少年の心理』『ふつうの家庭から生まれる犯罪者』等。監修:『よくわかる人間関係の心理学』等。
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 2015年7月9日8:47 YAHOO!JAPANニュース「「江戸しぐさ」はやめましょう2:質問疑問にお答えして:子どもに伝えてはいけない理由
■「江戸しぐさ」はやめましょう。
 先月の記事「「江戸しぐさ」はやめましょう。:何が問題か。なぜ広がったか。」は、多くの方々にお読みいただきました。
 「江戸しぐさ」とは、江戸時代の町民が行っていたマナーの数々と称するものです。そのマナー集を、現代においても活用しようとする人々がいます。この「江戸しぐさ」は、ずいぶんと広がり、教科書にまで載りました。
 ところが、この「江戸しぐさ」。その由来があまりにも荒唐無稽(こうとうむけい)事実無根と批判され始めました。その結果、掲載していた教科書も、今後の掲載はないと報道されています。ただし、歴史に関する「都市伝説」を明確に否定することはなかなか難しく、相変わらず「江戸しぐさ」を広めようとする人々もいます。
 前回の記事では、「江戸しぐさ」の問題点を指摘しましたが、ご質問もいくつかいただきました。今回は、その質問疑問にお答えしたいと思います。
■「江戸しぐさ」とは:その内容が悪いのか
 前回の記事に対して、「江戸しぐさ」のマナー自体を批判しているのかとのご質問をいただきました。そんなことはありません。
 「江戸しぐさ」と称するものには、次のようなものがあります。
 傘かしげとは
 「傘をさした二人が狭い道ですれ違うときには、互いに傘をかしげて、通りやすくしましょう。」
 肩引きとは
 「狭い道ですれ違うときに、互いに肩をさっと後ろに引きましょう。」
 時泥棒とは
 「誰かの家を訪問する時には、アポイントメントをとって、きちんと時間を守って訪問しましょう。」
 こぶし腰浮かせとは
 「乗り物の長椅子に座っている時に新しい乗客が来たら、こぶしで腰を浮かせて、詰めあいましょう。」
 といったマナーです。別に悪くないです。いえ、積極的に行いたいと思います。
 実際にはなかったマナー
 ただし、江戸の生活文化を考えると、上に書いたマナーも含めて実際には行われていなかったマナーがたくさんあります。年賀状がない時代の「江戸しぐさ」なのに、年賀状のマナーもあります。
 ロクとは
 また、「ロク」と呼ばれる「江戸しぐさ」は、江戸っ子の優れた第六感だそうで、江戸っ子(江戸しぐさ伝承者)はこれで関東大震災を予知したといいいます。こんなことが本当にできれば良いのですが。
■江戸にはさまざまなマナーがあったでしょ。その紹介なら、良いのでは。
 実は、私も最初はそう思っていました。江戸時代にあったさまざまな美しいマナーを「江戸しぐさ」と呼び、それを現代にも復活させようとするなら、良いのではないかと。
 あるいは、江戸時代に何があったかはまったく問題ではなく、現代人が守るべきマナーを、江戸時代風の絵で表し、「江戸しぐさ」とか、「江戸っ子は〜」と表現するのも、良いのではないかと思っていました。それを、史実とは違うと批判するのは、野暮ではないと思っていました。
 しかし、それは誤解だとわかりました。「江戸しぐさ」は、たんなる比喩的表現ではなく、歴史的事実だとして広めようとする人々がいます。さらに、そこには都合よく捏造された嘘の歴史がちりばめられているようです。
 このような「江戸しぐさ」を広めることは、大きな問題があると感じています。
■道徳教育がいけないのか
 前回の記事に対して、道徳教育自体を批判しているのかとのご質問もいただきました。そんなことはありません。たしかに、道徳教育と称して、ただ為政者に都合の良い押し付け教育をしたり、個性を無視した理想像でこり固めようとするのには反対です。
 しかし、昔から言われているマナーや道徳は、心理学的に見ても意味のあるものが多いと、私は考えています。道徳教育に反対しているわけではありません。
■資料がなくても、伝承だけでも良いのではなか
 江戸時代の町民たちが「江戸しぐさ」を行っていたという資料は、何もありません。口伝えでも伝わらなかったのは、「江戸っ子大虐殺」が行われ、資料も証人たちも失われ、ただごくわずかな人だけに伝えられたからだと、NPO法人江戸しぐさ」は主張しています。
 さて、たしかに文献がないからダメと決め付けることはできません。しかし、「江戸しぐさ」には、「伝承」すらありません。つまり、研究者らを納得させられるような証拠は何もありません。
■間違っていても良いではないか。妖怪話のように。
 「ゲゲゲの鬼太郎」のような妖怪話、伝説の昔話は、楽しいものです。民俗学的に研究する意味もあります。長年、たたりがあると思われていたために、開発から守られた自然もあります。子どもがカッパが怖いと感じて、危険な川に近づかないのも良いでしょう。「鬼から電話」も使いようによっては、有効です(「鬼から電話」の効果と使い方:叱り方の心理学)。
 子どもたちも、大人になってから、あれはお話だったのだ、伝説だったのだと知っても、傷つくことはないでしょう。
 これらの話は、現代人は事実だとは考えていません。しかし妖怪話をもとに、現代の生物学や物理学が間違っていると子どもたちに教える人がいたら、批判されるでしょう。あるいは、本当はまったく存在しない伝承を作り上げて、自分勝手に新しい妖怪を伝統的な妖怪として作り上げてしまうのも、間違っているでしょう。
 「「人」という字は支え合って生きる人間を表している」といった金八先生の話も、漢字の成り立ちから見れば誤りですが、このような文字遊び、こどば遊びは、よくあることです。世間から批判されることではありません(「人」は支え合っていません。:武田鉄矢さんが金八先生の名言否定?とアイデンティティの心理学)。
 ただし、ここに捏造された歴史を追加し、事実として子どもに教えたら、当然批判されるでしょう。
■子どもたちに何を伝えるか
 「人には親切にしましょう。互いに愛し合いましょう。平和を作りましょう」。私は、この「ピース・インストラクション」を、M42 星雲(オリオン)からやってきた、宇宙の友人から直接聞きました。残念ながら、彼らからもらった証拠の数々は全て失われましたが、どうぞ私を信じてください。
 「江戸しぐさ」として世に広まったものは、実は「越後しぐさ」なのです。当時の越後(新潟)は、日本一の人口を誇り、文化的にも非常に優れていました。「越後しぐさ」は、漫遊中の水戸光圀(「越後のちりめん問屋」の隠居)によって関東にもたらされましたが、平賀源内の策略によって「江戸しぐさ」と改変されてしまったのです。資料は何も残っていませんが、私の先祖だけが、その伝承を受けました。
 さて、もちろんこれは作り話、ホラ話です(新潟が人口日本一だったことは本当)。でも、内容が良いのなら、問題ないでしょうか。碓井の「ピース・インストラクション」や「越後しぐさ」の話を教科書に載せたり、生徒向け講演会で話しても良いでしょうか。
 マナーの話自体は間違っていなくても、あとになって、その人がとんでもない嘘、ホラを広げている人と知ったら、子どもはどう思うでしょう。
 よくできた都市伝説、陰謀論は魅力的です。今、これらの話が流行っているように思えます。それは、昔流行ったネス湖ネッシー学校の怪談とは、違う様相を示しているようにも感じます。
 「お話」を楽しむことは良いことです。しかし、明治政府による江戸っ子大虐殺があったとか、秘密結社が世界を支配しているとか、現実の世界観を歪めてはいけません。事実をきちんと確認しない反知性主義は危険です。子どもには夢を持たせたいと思います。同時に、客観性や科学性を育てたいと思います。まず、私たちがその手本となりましょう。
 関連本、関連サイト
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○「江戸しぐさ」が道徳教材に残る:文科省の回答への反論:コロンブスの卵は良くても江戸しぐさがダメな理由(「江戸しぐさ」はやめましょう3)
○「江戸しぐさ」はやめましょう1:何が問題か。なぜ広がったか。
○原田実 著 『江戸しぐさの正体:教育をむしばむ偽りの伝統』
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 碓井真史
 社会心理学者/博士(心理学)/新潟青陵大学大学院 教授/SC
1959年東京墨田区下町生まれ。幼稚園中退。日本大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(心理学)。精神科救急受付等を経て、新潟青陵大学大学院臨床心理学研究科教授。新潟市スクールカウンセラー。好物はもんじゃ。専門は社会心理学。テレビ出演:「視点論点」「あさイチ」「めざまし8」「サンデーモーニング」「ミヤネ屋」「NEWS ZERO」「ホンマでっか!?TV」「チコちゃんに叱られる!」など。著書:『あなたが死んだら私は悲しい:心理学者からのいのちのメッセージ』『誰でもいいから殺したかった:追い詰められた青少年の心理』『ふつうの家庭から生まれる犯罪者』等。監修:『よくわかる人間関係の心理学』等。
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 2013年8月18日 YAHOO!JAPANニュース「「日本しぐさ」とでも呼べばいい
 「江戸しぐさ」、ということばがある。NPO法人江戸しぐさ、なる団体があって、そこが商標権を有しているらしい(追記参照)ので、うかつに使ったら怒られちゃうかもしれないんだが、まあブログで書くぐらいは大丈夫だろう。「江戸商人のリーダーたちが築き上げた、上に立つ者の行動哲学」である、と当該法人のウェブサイトには書いてある。何だかわかったようなわからないような説明だが、2006年に公共広告機構のCMでも使われた(これ。その前年、地下鉄の電飾などの平面媒体やウェブでも実施されたらしい)。
 この「江戸しぐさ」に関して、批判の声があるらしい。簡単にいえば、証拠がない、江戸時代にそんな概念はなかった、歴史を捏造している、といった批判のようだ。少し前に話題になって、やはり批判された「水からの伝言」と同じ構図だと指摘する人もいる。「いいこと」をいうためとはいえうそをついてはいけない、という趣旨かと思う。
 事情をよく知っているわけではないのであまり深入りするつもりはないが、言いたいことがないわけでもないので、個人的な経験も交えて少しだけ書いてみる。
 江戸しぐさとちがって、江戸しぐさ批判は、団体があるわけでもないので、まとまった主張があるというわけでもないらしい。Wikipediaの当該項目にはいくつかの反論が収録されているほか、NAVERまとめがあった。ちょっと前にと学会が「トンデモ本大賞」で取り上げてたらしいのだが、書籍とかにはまだなってないのだろうか。
 あちこちぱらぱらと見ている限りでは、どうも批判の方に理があるように思われる。「傘かしげ」(雨の日に互いの傘を外側に傾け、ぬれないようにすれ違うこと)や「肩引き」(道を歩いて、人とすれ違うとき左肩を路肩に寄せて歩くこと)など、江戸しぐさ」の例として紹介されているものは、件のNPOがいう「江戸商人のリーダーたちが築き上げた、上に立つ者の行動哲学」としてはどうにも小さい話だし、「江戸しぐさ」の秘密を守る「秘密結社」があったなんて話に至っては荒唐無稽以外の何者でもない。そもそもこんなものは常識の範囲内ではないか。
 少し個人的な経験を書く。
 私が「江戸しぐさ」ということばを知ったのは数年前のはずだが確かな記憶はない。ひょっとしたらACの広告で見たときかもしれない。別に歴史の専門家でも何でもないので、特段の問題意識もなく、へえ、そんなことばがあるのか、初めて知った、ぐらいに思っていたわけだが、そこで提唱されていることの少なくとも一部についていえば、心当たりがあった。
 端的にいえば、私の親、特に母親から受けたしつけの中に含まれていたのだ。たとえば、傘をさしていて狭い道ですれちがうときは傘がぶつからないように傘を動かせとか、傘をさしてなくても人とすれちがうときにぶつかりそうなら体を少しななめにしろとか、電車などで混んでるときは少し詰めて座れとか。しかし、母は東京出身ではあったが大商人の家などではなく貧乏歯医者の娘だったし、それらを「江戸しぐさ」と呼ぶこともなかった。もちろん「秘伝の知恵」でなどあろうはずもない。人の多い街中で暮らすためのただの常識だ。
 それらが江戸時代まで遡るかどうかは別として(遡ったとしても別に驚かない。リーダーの行動哲学だったとは思わないが)、そうした「常識」は、母が独自に作り上げたものではないだろう。母が生きた昭和の頃には、少なくとも一部の人々の間で共有されていたと想像する方が自然だ。東京以外でどうだったか知らないので東京だけかどうかもわからないが、きっと他の地域にも何らかあったのではないか。
 もちろん、そうした「常識」が社会の隅々にまで浸透していたとは思えない。あるいは、私が母からしつけを受けたころには失われつつあったということなのかもしれない。思い出すのは、いわゆるシルバーシート、つまり高齢者等の優先席が導入されたときのことだ。確か70年代だったと思うが、その当初から、反対論があったという記憶がある。曰く、「こんなものが必要とされる世の中は嘆かわしい」「シルバーシートなど設けたら、そこ以外の席は高齢者に譲らなくなってしまう」など。そもそもシルバーシートが設けられたのは、高齢者が席を譲ってもらえない、つまり思いやりがない人がいるという状況がふつうにあったからだろうが、同時に、そうした制度が逆に社会から思いやりを奪うと懸念した人もいたわけだ。
 要するに、いわゆる「江戸しぐさ」が「江戸商人のリーダーたちが築き上げた、上に立つ者の行動哲学」であるとは思えないし、それらが「江戸しぐさ」と呼ばれたということもなさそうだが、呼び方は別として、そうしたマナーが過去にまったく存在しなかったわけでもないということではないか、といいたいわけだ。
 かのNPO法人は、会員からそう安くもない会費をとっているほか、「江戸しぐさ」ということばを商標登録したうえで、書籍やセミナーなどのビジネスを行っている。そうした「事業化」のために、江戸時代に遡るという「伝統」が必要だったのかもしれない。それにしては「江戸しぐさ」という呼称が一般に知られていなかったという事実は、伝統だったという主張とは矛盾するわけだが、「秘伝だった」ということにすればつじつまを合わせられなくもない。いってみれば、記録がほとんど残ってないから実態がよくわからない忍者みたいな存在だ。考えてみればこのNPOは学術研究を行っているわけではなく、非営利法人とはいえ「江戸しぐさ」なるコンテンツを使ったコンテンツビジネスを展開する事業体なのであるから、その意味では「江戸しぐさ」も日光江戸村の忍者ショーと同類といえるのではないか。そう考えると、少しわかりやすくなる気がする。
 とはいえ、はっきりいって、そんなことにはあまり関心がない。「水からの伝言」と同様、学校教科書に載っているのだとすればそれは問題があると思うが(実際一部の教科書に載っているとWikipediaに書かれていて、それには重大な懸念を抱く)、仮にそうだとしても、「水に人間の言語を解する能力がある」といった科学を根本から覆すようなでたらめというわけでもない。こう書くと批判されそうだが、いいたいのは、「江戸しぐさ」にいかに根拠がないかをこまごま指摘して事足れりとするのではなく、「江戸しぐさ」によって実現したかった目的が「江戸しぐさ」を言わずとも実現できることを示すことが重要ではないか、ということだ。
 「江戸しぐさ」の提唱者は、それによって、市街地におけるマナーを向上させたいと考えたのだろう(大商人の経営哲学とかについてはよく知らないがここでは無視する)。これは、悪いことではない。実際、街を歩いていて感じる人々のマナーは、駅での整列乗車などシステム化された領域を除いては、低下しているのではないかと思うことがよくある。江戸発祥である必要も大商人の哲学である必要もないが、たとえば狭い道で傘をさしたまますれちがうときにどうすればいいか、電車で混んでいるときにどうすればいいかなどについての「常識」は、もっと広く共有された方がいい。歴史的事実を捏造するのはよくないが、目的が街中でのマナー啓発なら、その2つを切り離して、マナー啓発をそのまま主張すればいい。
 つまり、かつての「江戸」しぐさを取り戻せ、ではなく、街中でのよりよいマナーを身につけよう、ということだ。当然、「江戸しぐさ」と呼ぶ必要はない。江戸発祥だという証拠はないんだし、歴史と関係なく、地域とも関係なく、これから日本全体で普及すればいいということだしというわけで、ちがった呼び方をすれば丸く収まるんじゃないかな。せっかくだから「日本しぐさ」とでも名付けたらどうか(もちろん別の呼び名でもよい)。折しもクールジャパン政策なるものが推進されているではないか。日本人のスマートなふるまいは、まさしくクールジャパンの中核をなすものだと思う。
 もちろん、「江戸しぐさ」も、教科書に載せるとかでなければ、どんどん活動していただいていいと思う。私たちは(少なくとも私は)、日光江戸村の忍者ショーだって好きなのだし。
 ※追記
 登録商標のデータベースを見ると、「江戸しぐさ」での登録は3件ある。「焼のり,干しのり,味付けのり」については株式会社井上海苔店(出願日2008年3月26日)、「飲食物の提供」で株式会社オールフロンティア(出願日2008年9月17日)、 「紙類,文房具類,印刷物」及び「セミナーの企画・運営又は開催,書籍の制作,電子出版物の提供,教育・文化・娯楽・スポーツ用ビデオの制作(映画・放送番組・広告用のものを除く。) 」で特定非営利活動法人江戸しぐさ(出願日2009年1月21日)。件のNPO法人は最後なんだね。「江戸しぐさ」関連の書籍は1992年には出てるらしいので、前の2社に登録されちゃって、あわてて「本家」も登録したってところなのかな。それとも「関係者」なのだろうか。
 山口浩
 駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授
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 日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた。
 日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
   ・   ・   ・   
 吉村均「日本人は自然の力を人間の世界の外に排除して、その代償として、決まった日
に来てくれたら、歓迎してもてなし、送り返すまつりをおこなう必要があった」『日本人なら知っておきたい日本の伝統文化』
   ・   ・   ・   
 日本民族の祖先は、アフリカで誕生した下等な猿である。
 つまり、日本人を軽蔑して見下す偏見と差別の蔑称である「イエローモンキ」あるいは「ジャップ」は正し呼び名である。
   ・   ・   ・   
 日本列島には、自然を基にした日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話・天皇神話が滲み込み、その上に旧石器時代縄文時代弥生時代古墳時代日本民族が住んできた。
 日本民族は、旧石器人・ヤポネシア人、縄文人・日本土人に、南方揚子江弥生人(渡来人)、北方満州系古墳人(帰化人)が乱婚を繰り返し混血して生まれた雑種(ハーフ)である。
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 日本民族の生き方は、仲間・友と一緒に小さな櫂(かい)を漕ぐ丸木舟生活である。
 日本の集団主義とは海で生きる船乗りの集まりの事であり、日本の個人主義とは自分の仕事に誇りを持つ事である。
 つまり、日本民族日本人とは集団主義者であると同時に個人主義者でもあった。
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 ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
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 ロバート・D・カプラン「揺るぎない事実を私たちに示してくれる地理は、世界情勢を知るうえで必要不可欠である。山脈や河川、天然資源といった地理的要素が、そこに住む人々や文化、ひいては国家の動向を左右するのだ。地理は、すべての知識の出発点である。政治経済から軍事まで、あらゆる事象を空間的に捉えることで、その本質に迫ることができる」(『地政学の逆襲』朝日新聞出版)
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 2022年3月号 Voice「言葉のリハビリテーション 森田真生
 何もしない勇気
 最適化された世界の窮屈さ
 ……
 太陽がのぼるのも、雲が動くのも、鳥が鳴くのも自分のためではない。だからこそ、目に見えるもの、耳に届く音に、素直に感覚を集めることができる。
 ……
 『浅はかな干渉』が生み出す害
 ……
 『注意の搾取』が奪い去ったもの
 私たちはときに、浅はかな理解や理論に基づく性急な行動で安心を手に入れようとする前に『何もしない』という知恵を働かせてみることも考えてみるべきなのだ。
 だが、人間の設計したもので溢れかえる現代の世界において、『何もしない』ことはますます難しくなっている。
 ……
 物思いに耽(ふけ)って電車を乗り過ごし、都会の真ん中で月を見上げて立ち止まる。スマホを横に置いて窓の外を眺め、ただ理由もなく鳥の鳴く声に耳を傾ける。……」
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、禍の神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教(啓示宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の甚大な被害をもたらす破壊的壊滅的自然災害は種類が多く、年中・季節に関係なく、昼夜に関係なく、日本列島のどこでも地形や条件に関係なく、同時多発的に複合的に起きる。
 それこそ、気が休まる暇がない程、生きた心地がない程であった。
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 仏とは、悟りを得て完全な真理を体得し正・善や邪・悪を超越し欲得を克服した聖者の事である。
 神には、和魂、御霊、善き神、福の神と荒魂、怨霊、悪い神、禍の神の二面性を持っている。
 神はコインの表裏のように変貌し、貧乏神は富裕神に、死神は生神に、疫病神は治療神・薬草神にそれぞれ変わるがゆえに、人々に害を為す貧乏神、死神、疫病神も神として祀られる。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 日本の宗教とは、人智・人力では如何とも抗し難い不可思議に対して畏れ敬い、平伏して崇める崇拝宗教である。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、科学、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本民族は、命を持って生きる為に生きてきた。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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 昭和・平成・令和の皇室は、和歌を詠む最高位の文系であると同時に生物を研究する世界的な理系である。
 武士は文武両道であったが、皇室は文系理系双系であった。
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 徳川家康は、実理を優先し、読書を奨励し、経験を重視し、計算の数学と理・工・農・医・薬などの理系の実利で平和な江戸時代を築いた。
 が、馬車や大型帆船は便利で富をもたらすが同時に戦争に繋がる恐れのあるとして禁止し、江戸を守る為に大井川での架橋と渡船を禁止した。
 つまり、平和の為に利便性を捨てて不便を受け入れ、豊よりも慎ましい貧しさを甘受した。
 それが、「金儲けは卑しい事」という修身道徳であったが、結果的に貧しさが悲惨や悲劇を生んだ。
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 日本で成功し金持ちになり出世するには、才能・能力・実力が必要であった。
 日本で生きるのは、運しだいであった。
 日本の運や幸運とは、決定事項として与えられる運命や宿命ではなく、結果を予想して自分の努力・活力で切り開く事であった。
 それは、自力というより、神か仏か分からない他者による後押しという他力に近い。
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 左翼・左派・ネットサハ、右翼・右派・ネットウハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者には、日本民族ではない日本人が数多く含まれている。
 彼らには、数万年前の旧石器時代縄文時代と数千年前の弥生時代古墳時代から受け継いできた日本民族固有の歴史・文化・伝統・宗教はない。
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 日本民族文化における自然観とは、縄文時代以来、自然と人間が対立しない、自然との繋がりを大切に文化である。
 それを体現しているのが、自然物をご神体とする神社である。
 日本民族の美意識は、「わび、さび、簡素」だけではなく、濃くて派手な縄文系、シンプルで慎(つつ)ましい弥生系、統一された形式としての古墳系が複雑に絡んでいる。
 それを、体現しているのが神社のしめ縄である。
 それは、「全てが、控えめにして微妙に混じり合っている」という事である。
 谷崎潤一郎「言い難いところ」(『陰翳礼讃{いんえいらいさん}』)
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 日本民族は、旧石器時代縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。
 それ故に、狂ったように祭りを繰り返して、酒を飲み、謡い、踊り、笑い、嬉しくて泣き、悲しくて泣き、怒って喧嘩をし、今この時の命を実感しながら陽気に生きていた。
 「自分がやらなければ始まらない」それが、粋でいなせな江戸っ子堅気の生き様であった。
 江戸時代は、自助努力のブラック社会であった。
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 田代俊孝(仁愛大学学長)「『人は死ぬ』という厳然たる事実を、誰しも普段の生活では見て見ぬふりをしているものです。しかし、自分がいずれは『死すべき身』だということを意識すれば現在の生への感謝が生まれ、生きる気力が湧いてくる。つまり天命、死というものを知ることによって人生観が変わる。祖父母、父母、そして自分と、連綿と続く流れのなかで思いがけず命をいただいたのだ、と気づくのです」
 植島敬司(宗教人類学者)「人生は自分で決められることばからりではありません。不確定だからこそ素晴らしいのです。わからないなりに自分がどこまでやれるのか、やりたいことを追求できるのかが大事で、それが人生の豊かさにつながるのだと思います」
 平井正修(全生庵住職)「コロナ禍に襲われるずっと以前から人類は病に悩まされてきました。病気やケガで自由な身体が動かなくなり、人に介抱してもらうと、当たり前のことのあるがたさに気づきます。何を当たり前として生きていくのか、それは人生でとても大切なことであり、すべての人に起こる究極の当たり前が、死なのです」
 「現代では死というものが過剰に重たく受け止められていますが、そもそも死はもっと身近にあるものです。考えようによっては、現世に生きているいまのほうが自分の仮初(かりそめ)の姿とさえ言える。
 最終的には、誰もが同じところへと生きます。みんなが辿る同じ道を、自分も通るだけ。そう思えば、死も恐れるものではありません」
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 日本文化とは、唯一人の生き方を理想として孤独・孤立・無縁、わび・さび、捨てて所有しないを求める、「何も無い所」に時間と空間を超越し無限の広がりを潜ませる文化である。
 それが、日本人が好む「色即是空、空即是色」である。
 日本文化は、中国文化や朝鮮文化とは異質な独立した特殊な民族的伝統文化である。
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 日本の宗教とは、虚空・虚無という理想の境地に入る為に自己や自我など自分の存在を肯定も否定もせず、ただただ「はかなく無にして消し去る=漠として死を見詰める」事である。
 それ故に、日本文化や日本の宗教は男が独占していた。
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 日本民族の伝統的精神文化は宮仕えする男性の悲哀として、行基西行、一休、鴨長明兼好法師芭蕉葛飾北斎など世捨て人・遁走者、隠者・隠遁者・遁世者、隠居、孤独人・孤立人・無縁人への、求道者として一人になりたい、極める為に一人で生きたいという憧れである。
 如何なる時も、オンリーワンとしてナンバーワンとして我一人である。
 そして日本で女人禁制や女性立ち入り禁止が多いのは、宗教的社会的人類的民族的な理由によるジェンダー差別・女性差別・性差別ではなく、精神力が弱い日本人男性による煩わしい女性の拘束・束縛からの逃避願望である。
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 女性は、子供を産み、子供を育て、末代まで子孫を増やしていく、つまり「命を喜びを持って育み、有を生みだす」存在である。
 日本における女性差別は、「死を見詰めて無を求める男」と「命を生み有りに生き甲斐を感じる女」、ここから生まれた。
 つまり、男尊女卑と一口で言っても現代と昔とは全然違う。
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 日本民族心神話において、最高神天皇の祖先神である女性神天照大神で、主要な神の多くも女子神である。
 日本民族は、あまた多くの女性神に抱かれながら日本列島で生きてきた。
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♨2)─2─江戸時代の伊勢参拝などの寺社巡りの目的は男女の出会いであった。~No.3No.4 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本民族の男女の出会いには、宗教祭祀が関係していた。
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 日本全国に埋もれている民族神話の始まりは、女神・伊邪那美命男神伊邪那岐命の共同作業による国生み物語である。
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 近世の道祖神は、良縁・出産・夫婦円満の神であった。
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 昔の日本人による旅の目的は、男女の出会いであった。
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 日本民族には、中国や朝鮮のような観念的男尊女卑はなかった。
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 2024年3月18日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「なぜ「伊勢神宮は男女で参拝するな」という誤解が広まったのか…「女神が嫉妬するから」が誤りである理由
 大昔の日本では男女はどのように出会いを求めたのか。仏教研究家の瓜生中さんは「平安時代には泊まり込みで『念仏会』があった。その日は無礼講で、男女が信仰そっちのけで性を謳歌していた」という――。
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 ※本稿は、瓜生中『教養としての「日本人論」』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
奈良時代の男女の出会いの場

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 男神(ひこかみ)に 雲立ち上り 時雨降り 濡れ通るとも 我や帰らめや
 (男神の峰に雲が湧き上がり、時雨が降ってびしょ濡れになっても、〈私は〉絶対に帰らない。今夜はとことん交わるつもりだから)
 (『万葉集』巻九高橋虫麻呂歌集)

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 この歌は筑波山の麓で歌垣を行ったときの歌である。『万葉集』には「歌垣」の歌というのが多く収録されている。歌垣とは若い男女が山に集まって歌を詠い合い、最終的には男女がカップルになって性を謳歌(おうか)するものである。
 もともと天皇などが高い丘の上などに登って一円の地勢や民の生活状況を視察する「国見」に起源があると言われ、農民の間でも高みに登って周囲の田畑の状況を見てその年の豊凶を占う農耕行事に発展したらしい。
 これが若い男女の求婚や見合いの場となり、さらには性の解放の場ともなったようである。「歌垣」の語は男女が垣根のように円陣を組んで「歌を懸け合った」ことに由来するといわれ、常陸(茨城県)の筑波山や摂津(大阪府)の歌垣山、肥前(佐賀県)の杵島山などが歌垣の山として知られている。恐らくこのとき男女が互いに手をつないで、西欧のフォークダンスのように踊ったのだろう。
■人類は古来性的欲求の抑制に努めてきた
 性的欲求は人間の欲望の中でも最も抑えがたいものであるが、その性的衝動を発することによって人間はしばしば過ちを犯すのが常である。イザナミのようにいとも簡単に同意してくれれば良いが、同意なしに性行為に至れば立派な犯罪になって身を持ち崩すことになる。
 だから、古来宗教や哲学は性的欲求の抑制に力を入れてきた。紀元前3世紀にギリシャのゼノンが提唱したストア学派(ストイシズム)は、理性を磨くことによって性的欲求を克服しようとした。これがストイック(禁欲主義)の語源である。
 仏教の戒律では出家者は男女が二人きりで話をすることすら禁じており、在家者も配偶者以外と交わることを固く禁じている。キリスト教イスラム教などの宗教も性的欲求を厳しく戒めている。
■泊まり込みの「念仏会」が男女の出会いの場に
 性的欲求は人間が本性として兼ね備えているもので、容易には断つことのできない難物である。だから、歌垣のような解放の場を設けることも世界各地で行われてきた。
 日本では平安時代の末から鎌倉時代にかけて念仏が大流行し、各地で在家向けの念仏会が開かれるようになった。そして、念仏会には泊まり込みで男女が集まり、無礼講の場になったらしい。兼好法師も『徒然草』の中で念仏会のときに横にいた女性に寄り添われて閉口したことを記している。
 また、ギリシャ神話に登場する酒の神ドィオニュソス(バッカス)は各地の村を巡って若い男女を連れ出し、山の中や草原に集めて裸体に近い状態で飲めや歌えの大宴会を開き、性を謳歌させたという。これをバッカス祭(バッカナール)といい、バッカスはインドまで行ってこの祭りの普及に努めたという。
 この祭りはすでに紀元前には風紀を乱すとして禁止されたようだが、紀元1世紀のポンペイの壁画にはバッカナールの光景を描いたものが見られる。
■「祭礼」は今も昔も男女の出会いの場
 元来、「祭り」とは加護を求めて神を鄭重にまつる厳かな儀礼だった。だから、村人だけで静かに行われる祭りも各家々で行われる年忌法要なども、「祭り」という意味では祇園祭三社祭のような多くの人が参集する祭りと何ら変わらないのである。
 柳田国男奄美大島の古老が「今日は小さな神さまがお降りになります」と言っていたことを報告している。「小さな神さま」とは村人が静かにまつる神という意味なのだろう。そして、柳田は「祭り」と「祭礼」とを区別し、村々や家々で行われる静かなものを「祭り」、神輿や山車が出て多くの見物人で賑わうものを「祭礼」としている。
 また、とくに「祭例」は「ハレの日」で日常的な「ケの日」とは異なる日である。その意味で祭礼はバッカナールと同じように、常識や因習などから解放される日でもある。今も行われている祭礼の中には江戸時代ごろまで男女の出会いの場であり、性的な解放の場であったものも少なくない。そして、今も祭礼は若い男女にとっては出会いの場である。
■念仏会は今でいうカラオケや合コン
 信仰の集まりである念仏会での女性の行動はいかにも不謹慎極まりない。しかし、かつて若者は念仏会などの法要を今でいうカラオケや合コンのような感覚で楽しみにしていたようである。だから、信仰はそっちのけで出会いを求めたのである。
 また、浄土宗には五重相伝という特有の法会がある。7日間、寺に泊まり込んで浄土宗の秘法を授かるもので、今も浄土宗の寺院では行われている。この法会に参加すると「誉号」という格式の高い戒名を授かることができる。
 しかし、若者はこの法会も男女の出会いの場と考えていた。まして泊まり込みで、基本的には男女が雑魚寝するのであるから、勢い交わりを行うものも出てくる。
 僧侶などを除いた多くの日本人は、仏教をはじめとする宗教を教えや学問としてとらえることはなく、法要なども儀礼として臨んだ。だから、念仏会も五重相伝も祭礼と同じで、日常とは異なるハレの日で、それは普段の倫理観にとらわれない無礼講の日だったのである。
■江戸時代の空前の「寺社巡り」ブーム
 江戸時代、幕府は社会の安寧秩序を保つために綱紀粛正に努めた。その結果、出雲阿国がはじめた女歌舞伎が取り締まりの対象となり、山東京伝などの黄表紙作者(戯作者)も手鎖の刑などに処せられた。そして、念仏会や五重相伝も風紀を乱すものとして厳しく取り締まったのである。
 また、江戸時代には「お伊勢参り」が空前のブームとなり、若い女性が着の身着のままで路銀も持たずに伊勢を目指したという。このころには各宿場に彼女たちを受け入れる旅籠があり、そこにはまた彼女たちを目当てとする若い男性が集まった。女性たちは男性の相手をする見返りに、路銀をもらったり御馳走をしてもらったりして伊勢までたどり着くことができたという。
 江戸時代は伊勢参宮をはじめ寺社巡りが空前のブームとなった。この時代、幕府はさまざまな形で統制を強めたが、寺社巡りに関しては寛容な態度を取った。というのは有力な寺社には多くの参詣者が集まり、その参詣者を目当てに旅籠や飲食店、土産物屋などが軒を並べた。
 寺社を中心に参詣者たちが落とす金は莫大(ばくだい)なものとなり、その地方の藩が潤い、ひいては幕府もその恩恵に与ることができたからである。
■「伊勢神宮を男女で参拝してはいけない」はウソ
 また、有力な寺社の近くには旅籠や飲食店の他に必ず遊郭があった。当時、講などで参詣する人の多くは男性であり、彼らはお詣りを終えると精進落としと称して遊郭に繰り込んだのである。もちろん、純粋な信仰をもって寺社巡りをする人もあったが、そういう人は一握りで、ほとんどの男性は「花より団子」というか「信仰より遊郭」だったのである。
 かつて伊勢神宮にも妓楼80軒、遊女が1000人もいる大規模な歓楽街が内宮と外宮を結ぶ街道沿いにあった。しかし、明治維新を迎えて天皇家の皇祖神をまつる伊勢神宮が国家の宗廟(そうびょう)として神社界で超然たる地位を確立すると、お祓い通りや見世物横丁などとともに撤去の対象となった。
 ちなみに、伊勢神宮に夫婦や男女のカップルで参拝することはタブーと言われてきた。内宮、外宮とも女神をまつっているので、男女で仲良く参拝すると両宮の祭神が嫉妬して災厄をもたらすなどと、もっともらしい説明がなされてきた。しかし、実際には男性のお目当ては遊郭での精進落としにあり、妻や恋人同伴では遊郭に通うのに都合が悪いからである。
 また、成田山新勝寺の精進落としの場は船橋にあった。江戸時代には船橋に呉服屋が軒を連ねていたといい、今でも古くからの呉服屋が残っている。これは妻や娘を家に置いて成田山に参詣した男たちが精進落としに遊郭に寄ると後ろめたさを感じ、罪滅ぼしに家で待つ妻や娘に着物を買って帰った。そこに目をつけた呉服屋が商魂逞(たくま)しく店を出したのである。
■日本人もまた性に奔放だった
 江戸時代、武士の間には儒教倫理が普及して男女の間には厳しい規制が敷かれた。しかし、江戸や大坂をはじめとする大都市に住む町人の間には、儒教倫理は浸透していなかった。だから、大都市の大衆は本性のままに生きることができたのだろう。
 また、江戸時代には仏教的な「憂世」を「浮世」と捉え、人生を刹那的な享楽のうちに過ごすという傾向があらわれた。その傾向は井原西鶴の『好色一代男』などをはじめとする文学に如実にあらわれている。ちなみに、西鶴は風俗をテーマに作品を作っていたが、幕藩体制が安定していた江戸時代前半の元禄時代のことであり、当時はまだ取り締まりの対象にならなかった。
 しかし、幕府や諸藩が財政的に逼迫して寛政の改革が行われた江戸時代後期になると、風紀の取り締まりが厳しくなっていく。「江戸っ子は宵越しの金を持たない」というのも、当時の人たちの、将来を考えずに刹那的に楽しく生きようとする態度のあらわれである。その意味で江戸時代は、冒頭に示した歌垣に見られるような日本人の奔放な性格が開花した時代ということができるのではないだろうか。

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 瓜生 中(うりゅう・なか)
 文筆家、仏教研究家
 1954年東京生まれ。早稲田大学大学院修了。東洋哲学専攻。仏教・インド関係の研究、執筆を行い現在に至る。著書は、『知っておきたい日本の神話』『知っておきたい仏像の見方』『知っておきたい般若心経』『よくわかるお経読本』『よくわかる浄土真宗 重要経典付き』『よくわかる祝詞読本』『教養としての「日本人論」』ほか多数。

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