🕯132)─1─桃太郎伝説。日本の神話・伝説・童話・寓話の背景には悲哀が存在する。~No.283No.284  

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 日本の神話・伝説・童話・寓話・民話は、日本独自の創作ではなく、世界中の宗教的な神話・童話・寓話・伝説の影響を受けている。
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 日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
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 現代日本では、蔓延しているマルクス主義的反宗教無神論によって民族の宗教的神話・伝説・童話・寓話が急速に減少している。
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 2024年3月20日 YAHOO!JAPANニュース 山内琉夢歴史プレゼンター「桃太郎伝説と間引き・水子
 日本の神話・童話・寓話の背景には、恐怖ではなく悲哀が存在する。
 まさかの桃太郎の正体…悲しき運命と日本の風習に驚愕!本当の昔話に迫る
 岡山市にあるマンホールの蓋 桃太郎バージョン
日本に伝わる昔話の代表作「桃太郎」ですが、語り継がれている物語の細部は地方ごとに異なっており、起源や真実については未だ判明していません。
 一方、桃太郎に関係しているのではないかと考えられているる有力な説やモデルも多く存在します。
 そこで今回は、桃太郎伝説のモデルとなった「備津彦命(きびつひこのみこと)」や昔の日本に存在した悲しき風習「間引き」との関係性について紹介。詳しく見ていきましょう。
吉備津彦命(きびつひこのみこと)
 岡山県にある岡山城
 桃の名産地でもある岡山県は、「桃太郎伝説」はじまりの地として有名です。
 この岡山県に伝わる「温羅(うら)伝説」はご存知でしょうか。
 温羅とは、別名「鬼神」の名で恐れられた身長4mもある赤い髪の鬼のこと。
 悪行三昧で村を荒らして回る温羅を退治したのが、朝廷に命じられて馳せ参じた「吉備津彦命」でした。
 一説では、この温羅伝説に登場した「吉備津彦命」が桃太郎のモデルだと考えられているのです。
□桃太郎の仲間
 ニワトリ
 桃太郎の物語の中では、岡山名物「吉備団子」を与えて猿・犬・雉の3匹が仲間になります。この3匹の動物を仲間にした背景には、古代中国の「方角を十二支で表す」という思想が関係しているのだとか。
 12ある方角の内、東北には鬼が住うと信じられていて「鬼門」とよばれていました。また、東北の十二支には牛と虎があたり、鬼が牛の角や虎柄のパンツを履いているのは、この鬼門の考え方が影響しているからだといわれています。
 鬼門と正反対に位置する南西は「裏鬼門」とよばれており、鬼を封印する効力があると信じられていました。その南西を担っている干支は猿と羊です。そのうち、猿から時計回りに「酉(トリ)」と「戌(イヌ)」がいます。
 ここから桃太郎の仲間には、猿・犬・雉が選ばれたと考えられているのです。
□昔の日本に存在した風習
 干支のイメージ画像 ウサギ
 十二支の考え方ならば、桃太郎の仲間になるのは羊と猿の方が良かったかもしれません。しかし、これには昔の日本に存在した風習が関係していたと考えられています。
 その風習こそが「間引き」です。間引きとは、赤ん坊を育てられない貧しい家に産まれた子を川に流して処分すること。つまり、桃太郎は「間引き」されて拾われた子供だったのです。
 さらに桃太郎の仲間になる3匹の動物には「去る(サル)」「居ぬ(イヌ)」「帰じ(キジ)」の隠語が存在しており、これは桃太郎が間引きの子供であることを示す伏線だといわれています。
□悲しい歴史と想い
 岡山県にある岡山城
 今回紹介した桃太郎伝説に関する起源や謎には多くの諸説があり、事実は不明のままです。しかし、昔の日本で「間引き」された子供がいたことは事実であり、決して珍しいことでもありませんでした。
 もしかすると桃太郎の物語には、間引きすることしかできなかった親の子どもを想う気持ちが込められているのかもしれませんね。
 山内琉夢
 歴史プレゼンター
 歴史ライターとしての活動経験を持ち、今までに32都府県の歴史スポットを巡ってきました。実際に現地へ行くのが難しい方に向けて、取材した歴史スポットについて紹介します。また、歴史に興味をもったことがなかった方にも楽しんでいただけるよう、歴史偉人の意外な一面や好きな食事・おやつの紹介など、ワクワクするような内容をお届したいです。 
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🏞63)─1─名門譜代大名本多利長は不行跡や過酷な藩政を布いたとして改易された。~No.264No.265No.266 

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 血筋の世襲と言っても、現代日本と江戸時代では違う。
 封建領主と言っても、西洋の王侯貴族と日本の大名とは違う。
 武士と騎士とは違う。
 日本と中国・朝鮮とは違う。
 現代日本人は、武士・サムライや百姓とは無関係である。
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 2024年4月19日 MicrosoftStartニュース ダイヤモンド・オンライン「「将軍の命日」に吉原遊郭で豪遊、参勤交代も遊女同伴!?闇落ちしたエリート大名の末路
 小林 明
 元禄時代の絵師・菱川師宣が描いた『元禄画巻吉原之図』は、本多利長が通っていた時代の吉原遊女の姿を今に伝えている 国立国会図書館所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 江戸時代には、10代の若さで藩主に就任したにもかかわらず「闇落ち」した大名がいる。その人物とは本多利長(ほんだ・としなが)だ。戦国時代から徳川家康に仕えた名家の子孫だが、圧政や女性問題が取り沙汰され、最終的には領地を取り上げられた。真偽は定かではないが、「参勤交代に吉原の遊女を同伴させた」などの疑惑もある。エリートから転落した利長は、いったいどういう男だったのかを追ってみた。(歴史ライター・編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)
 地味ながら徳川家康
 支えた譜代大名の子孫
 「本多」の姓を持つ武将・大名といえば、忠勝(ただかつ)と正信(まさのぶ)が有名だ。二人は徳川家康に長年仕え、昨年のNHK大河ドラマ『どうする家康』でも主要人物だった。
 だが、同じく「本多」の姓を名乗っている大名の中から、のちに“問題児”が出た。それが本多利長だ。
 本多利長/国立国会図書館所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 利長は遠江国静岡県西部)の横須賀藩を治めていたが、1682(天和2)年に改易処分(=領地を取り上げられること)を受けた。理由は「不行跡」(ふぎょうせき)、すなわち武士としての品性に欠けた行いが目立ったからだった。
 不行跡は13カ条とも23カ条とも諸説あるが、いずれにしても数が多い。文献に共通して見られるのは「圧政」と「女性関係」である。
 利長の系図をたどると、先祖は本多広孝(ひろたか/1528・大永8年〜1597・慶長元年)に行き着く。広孝は正信の分家筋にあたり、家康の父・広忠(ひろただ)に仕え、その後は家康に忠節を尽くした。忠勝・正信と比べ地味な存在だったが、三河一向一揆の鎮圧や三方ヶ原の戦いなどに出陣した記録もある。
 広孝の4代あとに生まれたのが、“問題児”の利長である。「エリート」と言える家柄の大名は、どのようにして転落していったのか? 次ページ以降で詳しく解説する。
 重税による領民の苦しみを
 理解できなかった若き殿様
 江戸時代に入ると、広孝の本多家は岡崎藩主を務めるようになった。
 岡崎は家康の生誕地である。徳川からの信任が篤い者でなければ入部(=治めるために入ること)する権利さえない重要な地だ。そこに1601(慶長6)年に赴くよう命じられたのが、利長の高祖父だった。石高は5万石だった。
 44年後の1645(正保2)年、利長は数え年11歳で家督を継ぎ、岡崎藩主となった。
 だが、わずか1年後に遠江国横須賀藩への転封(=配置換え)を命じられる。転封の理由を記す文献はないが、おそらく下記のような理由だと筆者は考える。
・本多家の後任として岡崎に入った水野家が「家康のいとこ」(母方)の末裔だったため、岡崎藩主としてはより適任だったから
・前横須賀藩主だった井上正利の妻が利長の父ときょうだいで、正利と利長は叔父と甥の関係にあり、横須賀藩主には適任だったから
 つまり、利長に落ち度があったわけではない。事実、横須賀藩も岡崎藩と同じ5万石であり、石高は維持されていた。
 まだ幼かった利長はその後数年、江戸にいた。横須賀に国入りしたのは1653(承応2)年、19歳のときが初めてだった。ここから異変が生じ始めた。
 名門の本多家は家臣が多かった。そこで利長は新たに武家地を造成し、同時に城の大々的な改造を断行した。書物『横須賀三社縁起私記』には、近世城郭としての横須賀城は利長の時代に整えられたと記されている(※)。
 ※『横須賀城学術調査研究報告書』(平成2年)を参照。
 だが、こうした「領地の整備」には負の側面があった。
 日本古城絵図『遠州横須賀城図』/江戸中期から末期の制作だが、二の丸など利長が整備した近世城郭が描かれている。この城郭を築く費用に領民は苦しんだ 国立国会図書館所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 「自分は何も悪くない!」
 幕府の追及に徹底抗弁
 当然、費用は莫大だった。領民が労働に駆り出され、かつ重税を課せられたのは想像にかたくない。
 また、領内が水害に悩まされていたため、利長は大規模な堤防工事も行ったのだが、これも領民の負担になっていたと思われる。この工事に関しては防災上、評価する意見もあるが(※)、民にとっては労役と徴税を意味し、過酷だったはずだ。
 ※静岡県掛川市が2017(平成29)年に策定し、翌年に国土交通大臣などから認定された「掛川市歴史的風致維持向上計画」の資料には、この工事を高評価する旨が記されている。
 そんな折、幕府の巡検使が横須賀にやって来た。『寛政重修諸家譜』(寛政年間/1789〜1801年に江戸幕府が編纂した大名・旗本の記録)は、「さきに巡見使封地に至るのときも其はからひ御むねに違ひし」と記している。利長の巡検使への対応が適切ではなかったという意味である。
 『寛政重修諸家譜』の利長の条。青枠に「利長」の名がある 国立国会図書館所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 巡検使とは、当時の5代将軍・徳川綱吉が、大名を監視するため諸国に派遣した役人である。そして不適切な対応とは、領民が利長の強引な政策を巡検使に訴え出たのを、「自分は何も悪くない」と抗弁したことを指していると考えられる。
 領民が「苦しい」と訴えているのに、利長は「そんなことはない」と突っぱねたのである。民の苦痛が、名門の若き殿様には見えていなかった。これが後々、改易のかっこうの口実を幕府に与えることになる。
 参勤交代にまで
 吉原の遊女を同伴!?
 加えて、利長自身の素行も問題視された。女性問題である。
 年齢を重ねて壮年期を迎えても不行状は治らず、特に吉原の遊女との醜聞が幕府の耳に入り、「武士にあるまじき」人物と警戒されていたようだ。
 利長の吉原遊びを記す文献は少なくない。
 『元禄画巻吉原之図』で描かれた吉原遊女 国立国会図書館所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 「先祖の功をもって栄華に暮らすが、苛法を出して民を苦しめ、かつその性は淫胤にして、吉原の遊女に精出し、帰国の時は家来の妻と称し、参勤(交代)のときも連れてくる」(古今武家盛衰記)
 「陰で色町へ通い、そのうえ遊女を受け出した(身請けした)」(信陽城主得替記)
 「成長のあと行い正しからず」(西頚城郡[にしきびきぐん]郷土史料)
 遊女を身請けし、参勤交代だろうが帰国のときだろうが、つねに帯同させていたというのである。
 さらにはこんな一文もある。
 「延宝八年(1680)五月八日、家臣二人を連れ吉原に遊び、家綱公の薨去(こうきょ/死去)も知らず日を暮らし、夜になって知ったが登城もならず」(古今武家盛衰記)
 6代将軍・徳川家綱が亡くなった日、その死は在府(江戸にいた)の譜代大名に伝えられ、江戸城への登城令が発せられた。
 しかし、吉原で遊びほうけていた利長には、訃報が届かなかった。ようやく夜になって知ったが、もはや登城するには遅かったという。事実なら、すでに若くもない、40歳を超えた大名にあるまじき失態だった。
 なお、この登城しなかった件をはじめとした吉原の問題は、最も古い史料である『寛政重修諸家譜』には載っていない。ということは、後世に話を盛った可能性もある点に注意する必要があるだろう。
 『元禄画巻吉原之図』で描かれた吉原遊女 国立国会図書館所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 利長が最後に移封された
 「ナゾの藩」とは?
 いずれにせよ、前述の圧政と巡検使の一件だけでも処分に値する。1682(天和2)年2月、ついに改易が言い渡され、横須賀の領地は召し上げとなった。
 ただし、そうはいっても家康に功のあった譜代の子孫である。お家お取り潰しは免れ、出羽国山形県)村山藩に移封(=他の領地へ移されること)となった。石高は5万石から1万石に減らされた。
 一方、移封された村山藩は、詳細が不明な藩だ。利長が改易された1682(天和2)年から1699(元禄12)年までのわずか17年間だけ存在し、消滅している。城もない。陣屋(=城を持たない大名の省庁)が実在したとしても、どこにあったかさえ分からない。利長が、本当にその地にいたかも定かではない。
 1690(元禄3)年頃に大名の評価を記した『土芥寇讎記』(どかいこうしゅうき)には、村山藩主・本多利長の名があり、横須賀藩主時代と違って民にも心を寄せたと記している。だが村山藩は、本多家の面目に鑑みて、幕府が「便宜上」立てた可能性がある。藩としての実態はなかったのではなかろうか。
 それゆえ利長死去(1692/元禄5年)の7年後、あっけなく消滅した――最初からそうした目的の藩だったと考えた方が理屈に合う。
●参考文献
 『本多越前守利長家之覚書(書籍集覧第二百二十九)』国立国会図書館
 『古今武家盛衰記(国史叢書)』/国立国会図書館
 『信陽城主得替記』/国立国会図書館
 『寛政重修諸家譜』/国立国会図書館
 『掛川市歴史的風致維持向上計画』/掛川市
 『横須賀城学術調査研究報告書』/大須賀町教育委員会
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 水上の礎
 磐南平野の金字塔
 icon太田川と原野谷川の合流
 今も残る旧原野谷川の跡
 図3:1686年に描かれた
 古図による浅羽の推定図
 (参考:浅羽郷土資料館・近藤記念館のパネル)
 農民にとって最も恐ろしいのは何と言っても洪水でしょう。しかし洪水を避けて高い土地に水田を造れば、(ポンプでもない限り)水を引いてくることは不可能です。利水(水を引くこと)と治水(洪水から守る)は矛盾するのが常でした。
 この地に大規模な大地の改良が始まるのは、1604年に行われた太田川と原野谷川の合流からです。
 指揮した代官は徳川家康の家臣・伊奈備前守忠次。伊奈忠次は、家康とともに江戸に移ってからは、利根川の付け替え、運河や水路の開削など、当時、利根川の氾濫原に過ぎなかった関東平野を沃野に仕上げた天才技術者であり、今も関東各地には備前堀備前堤(忠次の官名)といった現役の水利施設がたくさん残っています。
 忠次は大きく蛇行していた原野谷川と太田川(前頁図1参照)をほぼ直線化し、この2つの川を合流させたのです。さらに仕切った川をため池として利用し、周辺や下流の村々の用水としています(図3参照)。
 浅羽大囲堤
 続いての改良は大堤防の築造です。
 この地域には「延宝の高潮」(1680年)と呼ばれる大惨事が伝えられています。このときの死者・行方不明は300人とも4000~5000人(『長溝村開発由緒書』)とも言われており、民家6000軒が流されたというも伝承もあります。大水害でした。
 当時の横須賀藩主であった本多利長は普請奉行の柳原十内に命じ、領内である浅羽をぐるりと取り巻く延長14キロの大堤防を造らせ、松も植えて道路として整備します(図3)。
 この浅羽大囲堤は昭和の土地改良事業によって次々と姿を消してゆきますが、近年までところどころにその痕跡が残っていました。
 余談ですが、この工事は長溝村(袋井市長溝)で中断されています。藩主の本多利長が「領内の政事よろしからず」という理由で改易されてしまったからです。
 柳原十内は「十内圦」など領内の整備に大きな功績を残していますが、大囲堤築造の中止の命を受け堤の上で切腹したと伝えられています。
 浅羽の掟杭堤
 現在の磐南平野
 この大囲堤は確かに高潮被害の防止には効果的でしたが、その後の浅羽地区の大きな紛争の種となります。
 浅羽の中ほどには「中畦堤」という東西に伸びる小さな堤防があり(図3参照)、この堤を境に上輪の村・下輪の村と分かれていました。この堤によって下輪の村は上流からの洪水を防げましたが、田や飲料水の水源を失うことになります。
 対して、上輪の村々は水の便は得ても、この中畦堤があるため常に悪水(排水不良)に悩まされ続けることになります。
 したがって、この堤の存在をめぐっては、過去に何度か争いがあり、江戸での裁判を仰いでいます。堤の高さは上流の集落と同じ高さになるよう決められ、堤防沿いに高さを記す26本の杭が設置されました。以来、この堤は「掟杭堤」と呼ばれるようになりました。古くなった杭の取替えは、12年ごとに上下集落の代表が集まり儀式のように厳密に行われました。
 昭和28年の水路工事で「掟杭堤」を取り払うことになった際にも、数百年という伝統を破るものとして紛糾し、新たな覚書を交わしています。
 浅羽地方は「浅羽一万石」と言われるほどの米どころでしたが、こういう農民の過酷な労働で支えられていたのです。
 命山
 大野命山
 図3には浅羽大囲堤の外に2つの村が描かれています。大野村と中新田村。地形的に堤防の内側に入れるのは無理だったのでしょう。
 「延宝の高潮」で大水害をこうむった2つの村は、独力でそれぞれの村に大きな人工の山、通称「命山」を造ります。
 大野命山は高さ3.5mの長方形で、頂上には270人が避難可能。また、より海に近い中新田村の命山は高さ5m。頂上には130人が確保できたとのことです。
 その後の高潮では命山に避難し、舟で対岸の横須賀から食料を運んだり、潮が引くのを待ったりしたことが記録に残っています。
 いずれにせよ、平野下流に生きる農民は、何百年にわたって筆舌に尽くしがたい苦難を強いられてきたのです。
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 本多 利長は、江戸時代前期の大名。三河国岡崎藩の第4代藩主、遠江国横須賀藩主、出羽国村山藩の初代藩主。官位は従五位下・越前守。広孝系本多家4代。
 生涯
 岡崎藩の第3代藩主・本多忠利の6男として誕生。正保2年(1645年)、父の死去で跡を継ぐ。このとき、岡崎藩6万石のうち、5万石を継いで、残りの1万石は兄・助久と弟・利朗に分与した。同年6月27日、遠江横須賀へ移封される。しかし天和2年(1682年)2月23日、不行跡や過酷な藩政を布いたとして改易された(本多政利の改易に連座したとも)。後に改めて、出羽村山郡内に1万石を与えられている。
 村山移封後の利長について『土芥寇讎記』では、「昔の統治は悪かったが、今はいい」「領地召し上げ(村山移封)のあと行状が良くなった」と記されている。
 元禄5年(1692年)12月16日、58歳で死去し、跡を甥で養嗣子・助芳(本多助久の次男)が継いだ。
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🎑106)─1・C─日本のテレビ業界の悲惨な惨状。「韓国に20年くらい差をあけられた」。~No.223 

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 2024年4月20日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「鈴木亮平「韓国に20年くらい差をあけられた」の衝撃 関係者が明かした、日本のドラマ現場の惨状とカネの問題
 賀来賢人との対談で
 鈴木亮平
 俳優の鈴木亮平が日本のドラマの現状について「韓国に20年くらい差をあけられた」と発言し波紋を広げている。これは3月31日に放送されたフジテレビ系「だれかtoなかい」での出来事。Netflixで世界的ヒットとなったドラマ「忍びの家 House of Ninjas」を企画し主演した俳優の賀来賢人と対談した鈴木は、司会の中居正広から「(日本のドラマは)監督業、脚本業、プロデュース業と分けて……」と振られると「それで今まではこれた んですけど。我々は日本国内だけに向けて作品を作っていたけど、気がついたら海外、例えばお隣の韓国に20年くらい差をあけられちゃったっていう危機感がある」と打ち明けたのだ。
 【写真】「何で先をどんどん急ぐのだろうか」…日本のドラマ制作に警鐘を鳴らした大物俳優
 「20年」という数字にネットはざわついた。鈴木によると、韓国は20年前から海外に向けた作品を制作しており、日本もドラマの世界的ヒットのために俳優が積極的に企画を考えるべきとの立場を示した。鈴木は東京外国語大学英語専攻卒業で英検1級の持ち主。22年10月に韓国・釜山で開催された第4回アジアコンテンツアワード(ACA)ではTBS系日曜劇場「TOKYO MER~走る緊急救命室~」が出品され、主演を務めた鈴木が主演男優賞を受賞しただけに海外ドラマの動向について、関心があるのは当然と言える。
 鈴木が「20年遅れている」というからには、日本のドラマ界に危機的な問題があるのだろう。実際、日本のドラマについて「学芸会か……」と嘆く声も聞かれる。NetflixやDisney+(ディズニープラス)の韓国ドラマと見比べると日本ドラマの“安っぽさ”ばかりが目立って見えてしまう人もいるのが現実だ。
 かつて日本のドラマ制作に警鐘を鳴らしたのが、映画「キングダム」シリーズで怪演を見せている俳優の大沢たかおだ。大沢は「君といた夏」(94年)、「星の金貨」(95年)、「お仕事です!」(98年)、「美しい人」(99年)、「アナザヘブン~eclipse~」(2000年)、「JIN-仁-」(09年)などの連ドラに立て続けに出演していたが、「JIN-仁-」以降、多くの仕事を映画にシフトしてしまった。
 大沢たかおは海外にシフト
 21年8月に放送されたTBS系「日曜日の初耳学」でインタビュアーの林修と対談した大沢はその理由について「何で先をどんどん急ぐのだろうか」「クオリティーとかお客さん(視聴者)に喜びや感動を伝えることよりもとりあえず完パケ(ドラマの完成品)を作るほうが優先される」「そこに合わなくなった」と批判的に語っていた。
 大沢を知る芸能記者がこう明かす。
 「彼が言いたかったのは映像や演技の出来栄えに満足がいかないのに改善しないまま撮影を終了してしまうドラマの撮影スタイルに不満がたまっていた、ということです。大沢は映像や演技に強いこだわりを持っているだけに我慢ができなかったのでしょう。日本のドラマのほとんどはここ20年進化していません。むしろ、予算削減を迫られる中、近年のドラマの質はますます低下しています」
 他にも原因があるという。主演級俳優を多く担当したベテランマネジャーはこう説明する。
 「最近の俳優はいいドラマを作ることよりも少しでも多くのCMに出演することの方を重視しています。人気俳優の多くがいつもワンパターンの演技で終わってしまうのも、演技の勉強が不足しているから。肝心のテレビ局も俳優を育てるといった意識はほとんどありません。それどころか、アメリカで本格的に演技の勉強をしてきた俳優が監督から嫌われて脇に追いやられる現場も目撃しました。力の強い大手芸能プロダクションに忖度したキャスティングも目に余ります。特に若手や新人俳優の演技が下手でテイクを重ねたいところなのにやり直しする時間がないから仕方なくOKを出してしまう。まずいのは監督も分かっているのですが、時間の余裕がなくスケジュール優先になりがちです」
 これでは海外どころか国内の視聴者を満足させることすら難しい。1話に1億円をかけたと言われる「VIVANT」など例外もあるが、日本のプライム帯ドラマの制作費はおよそ3000万円前後。一方、韓国ドラマは1億円、作品によっては2億円を超えるという。
 「脚本家や俳優に支払われるギャラは日本の数倍以上で、全16話の場合、脚本家の取り分は5000万円以上とも言われます。高額ギャラが保証されるので韓国の俳優たちは演技に専念できますし、監督も満足できる映像が撮れるまでこだわり続けます。このため韓国のドラマは細部にまでこだわり、高い完成度を誇ることができるのです」(前出の芸能記者
 制作費は日本の数倍
 韓国ドラマの制作費は日本の数倍に達し、その大部分はNetflixなどのグローバル配信会社との提携によるものだ。Netflixは昨年4月、韓国に向こう4年間で約25億ドル(約3800億円)というケタ違いの投資をすると発表した。この大規模な投資により、韓国のドラマ業界は莫大な予算を現場につぎ込むことが可能となり、その結果、高品質な作品が次々と生み出されている。
 「大沢が久々連続ドラマに出演した09年放送のTBS系『JIN-仁-』は数分の野外シーンの撮影のためだけに地方ロケを繰り返し、大沢も睡眠時間を削って参加したといいます。こうしたこだわりを持つドラマはTBSの日曜劇場くらいになってしまいました。予算削減、俳優の演技力の低下、余裕のないスケジュール、道路使用許可が下りない、など日本のドラマを取り巻く構造的な問題は解決が難しい。ただ、ドラマ経験豊富な鈴木なら『忍びの家』のような世界的ヒットを狙えるアイデアを持っているはず。予算的規模が大きいNetflixなど大手配信サービスといかに手を組んでいくかが今後の課題でしょう」(放送ライター)
 周回遅れの日本のドラマ界に救世主は現れるか。
 デイリー新潮編集部
 新潮社
   ・   ・   ・   
 ・・・ 

 クライアントが、日本のテレビ業界やアニメ業界など広い意味でのエンタメ文化から日本らしさを抹殺し、日本の文化を衰退させている。
 クライアントが目指す文化芸術とは、感動も感激もない灰のような無味乾燥である。
 つまり、日本を文化的一流国から文化のない野蛮国に貶める事であった。
 その始まりが、人権擁護団体なでのリベラル左派による平成時代の差別用語禁止運動であった。彼らは、日本から全ての差別を無くす為ならば日本の文化を破壊し消滅させても構わないと考えている。
 彼らは、超エリート層と言われる超難関高学歴出身の政治的エリートと進歩的インテリ達である。つまり、彼らは民族的な伝統・文化・歴史そして宗教を持っていない。
   ・   ・    ・   
 現代日本で魑魅魍魎的に跋扈しているクライアントとは、マイノリティ・ファシズムエコ・テロリストヒューマニズム原理主義、環境過激派、リベラル・ファシズム(エセ・リベラル)は、文化マルクス主義の反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人達である。
 そして彼らは、多様性を広めようとしているイデオロギー的不寛容な差別主義者である。
   ・   ・   ・   
 現代日本には、本当の意味でのリベラルは存在しない、もし居るとしてもほんのわずかで多くはエセ・リベラルであった。
 エセ・リベラルはリベラル左派で、国家を否定し安倍元総理暗殺テロを肯定する隠れサヨク過激派で、日本国と日本民族の事など考えてもいなければ心配もしていない、彼らの本心は、日本国の分断であり、日本民族の消滅である。
 民族国民(在来種日本人)は、リベラル市民(エセ・リベラル)の底の浅さを感じ、総選挙でエセ・リベラルを支持しなかった。
 岩田温「……『今まで何ら一矢報いることができなかったリベラル市民として言えば、暗殺が成功してよかった』
 ……
 『あの死者(安倍元総理)はもともと「凶相」であった。他方、襲ったの青年にはいささかの同情を禁じえない。風景の奥行は、見かけよりかなり深い。……』
 ……
 リベラルファシズム
 安倍元総理は『多様性には二種類ある』と言っていたとか。第一に主張を認めさせるときに利用する多様性。第二に、異なる意見を排除するときに利用する多様性。安倍元総理はこれを『リベラルファシズム』と呼んでいました。
 ……
 リベラルは本来、寛容さを持ち合わせているはず。ところが、いつの間にか単なるイデオロギー集団と化してしまった。イギリス人ジャーナリストのダグラス・マレーが『大衆の狂気』で、リベラルの異常性を紹介しています。……
 ……
 国家は否定すべき存在だとする考えは、アカデミズムにも蔓延している。私の友人が学会で日本を『わが国』と呼んだら、会場がザワついたそうです。『わが国』はNG,『この国』ならOKだとか。
 ……
 これが〝わが国〟の現状です。アカデミズムにおいては、保守派こそ圧倒的マイノリティ。……」
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🌺3:─1─古代の日本人。この国の最古の歌集に隠された「知られざる秘密」。~No.4No.5 

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 日本民族は、数万年前の旧石器時代縄文時代に日本列島に流れつき、数千年前の弥生時代古墳時代に南方、西方、北方から無条件に無制限に有りと有らゆるモノを受け入れながらを生きてきた。
 日本民族が生み出した奇跡は、身分の低い庶民でも言霊で謡える唄であった。
 つまり、日本民族とは「尚武の戦う民族」ではなく「唄を謡う民族」である。
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 日本の民族的な伝統・宗教・神話・文化・古典・芸能・芸術・その他の大本は、言霊で綴られた最古の歌集にある。
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 現代日本から民族的なものが消えつつある。
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 2024年4月17日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「古代の日本人はなにを考えていたのか…この国の最古の歌集に隠された「知られざる秘密」
 藤田正勝 の意見 • 1 時間 • 読み終わるまで 3 分
 明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。
 ※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。
 人新世の今だからこそ
 「自然」ということばを聞いて、皆さんは何を思い浮かべるだろうか。山や川、草や木の花や実、それに集まってくる昆虫や鳥を思い浮かべる人も多いであろう。私たちはそれらに取り囲まれて生きている。自然は私たちにとって親しい存在である。
 しかし、いま、その自然が脅威にさらされている。過剰な開発によって破壊されたり、有害な物質を含む大量の廃棄物によって環境が汚染されたりしている。あるいは温室効果ガスの排出により地球温暖化が進行して、異常気象が増加したり、生態系に大きな影響が生じたりしている。
 そのような状況のなかであらためて人と自然との関係について考えることが私たちに求められている。長い歴史のなかで日本人がどのように自然と関わり、生活を営んできたのかを見ることによってそのヒントが得られるのではないだろうか。本講ではそのような関心から自然に目を向けてみたい。
 © 現代ビジネス
 日本人の自然との向きあい方に関して重要な示唆を与えてくれるものに寺田寅彦の「日本人の自然観」というエッセーがある。寺田は著名な物理学者であったが、俳句にも親しみ、秀逸な随筆を数多く残したことでも知られる。このなかで寺田は次のように記している。「日本の自然界が空間的にも時間的にも複雑多様であり、それが住民に無限の恩恵を授けると同時にまた不可抗な威力をもって彼らを支配する、その結果として彼らはこの自然に服従することによってその恩恵を充分に享楽することを学んで来た、この特別な対自然の態度が日本人の物質的ならびに精神的生活の各方面に特殊な影響を及ぼした」。
 万葉集の「秘密」
 日本人の「特別な対自然の態度」がその物質的・精神的生活にある特殊な影響を及ぼしたということが言われているが、具体的にどういうことであろうか。
 日本では人々は自然の威力に対処するために、経験から必要な知識を集め、蓄積していった。そのことによって多くの恩恵を享受してきた。しかし自然を科学的な方法で分析し、普遍的な法則を発見することはしなかった。自然は分析の、あるいは研究の対象ではなかったのである。それは言いかえれば、観察され、分析される「自然」(nature)が生まれなかったということである。人間とともにある山川草木は存在したが、自然科学の対象となる「自然」は存在しなかった。人々はむしろそれと一体になって生きてきた。自然は分析ではなく、共感の対象であった。あるいは畏怖の対象であった。
 『万葉集』においても、自然は美しいだけでなく、「神々しい」ということばで表現されるような神秘性をもったものであった。そのなかに吉野を詠んだ次のような歌がある。「神さぶる岩根こごしきみ吉野の 水分山を見れば悲しも」(巻七・一一三〇)。神々しいほどに岩のごつごつしている吉野の水分山を見ると、切なる思いが込みあげてくるというような意味であろう(「み吉野」は吉野地方の美称)。
 また高橋虫麻呂に次のような歌がある。「富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上らず 燃ゆる火を 雪もて消ち 降る雪を 火もて消ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず くすしくも います神かも」(長歌の一部、巻三・三一九)。富士の高い山は、雲も進むことをためらい、鳥も飛び上がることができず、燃える火を雪で消し、降る雪を火で消してしまうような、ことばで言い表すことも、名付けることもできない、霊妙な神であるという意味であるが、ここでは「くすし(奇し)」、つまり人間にははかりしれないという意味のことばで神が形容され、富士の美しさが表現されている。
 古代の人々は自然のなかに美しさとともに、神威とも言うべきものを認め、畏れ、敬ってきた。それに祈りをささげてきたと言ってもよい。このように自然は詩歌のなかで、くり返し共感の対象として、あるいは畏怖の対象として詠われてきたのであるが、哲学のなかではそれはどのように論じられてきたであろうか。
 さらに連載記事〈あまりに難しすぎて多くの人が挫折した…日本人が書いた初めての哲学書善の研究」が生まれた「驚きの事情」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
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 日本人の平均寿命
 縄文・旧石器時代は15歳前後。
 弥生時代は18~28歳。
 古墳時代は25歳前後。
 飛鳥・奈良時代が28~33歳。
 平安時代は30歳~40歳。。
 室町時代は15歳前後。
 鎌倉時代は24歳。
 安土桃山時代は30歳。
 江戸時代は32~44歳。
 明治時代は44歳前後。
 大正時代は43歳。
 昭和10年は男性46.92 女性49.63。
 戦時中は31歳。
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 日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
 日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
 日本の宗教・文化・言語は、こうして創られてきた。
   ・   ・   ・   
 日本民族人間性である価値観・人格・気質を作り出したのは、人間(他国・異民族・異教徒)の脅威ではなかったし、唯一絶対神(全智全能の創り主)の奇蹟と恩寵ではなく、自然の脅威と恩恵(和食)である。
 つまり、日本人と朝鮮人・中国人は違うのである。
   ・   ・   ・    
 ・・・ 

 吉村均「日本人は自然の力を人間の世界の外に排除して、その代償として、決まった日に来てくれたら、歓迎してもてなし、送り返すまつりをおこなう必要があった」『日本人なら知っておきたい日本の伝統文化』
   ・   ・   ・   
 日本民族の祖先は、アフリカで誕生した下等な猿である。
 つまり、日本人を軽蔑して見下す偏見と差別の蔑称である「イエローモンキ」あるいは「ジャップ」は正し呼び名である。
   ・   ・   ・   
 日本列島には、自然を基にした日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話・天皇神話が滲み込み、その上に旧石器時代縄文時代弥生時代古墳時代日本民族が住んできた。
 日本民族は、旧石器人・ヤポネシア人、縄文人・日本土人に、南方揚子江弥生人(渡来人)、北方満州系古墳人(帰化人)が乱婚を繰り返し混血して生まれた雑種(ハーフ)である。
   ・   ・   ・   
 日本民族の生き方は、仲間・友と一緒に小さな櫂(かい)を漕ぐ丸木舟生活である。
 日本の集団主義とは海で生きる船乗りの集まりの事であり、日本の個人主義とは自分の仕事に誇りを持つ事である。
 つまり、日本民族日本人とは集団主義者であると同時に個人主義者でもあった。
   ・   ・   ・   
 ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
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 ロバート・D・カプラン「揺るぎない事実を私たちに示してくれる地理は、世界情勢を知るうえで必要不可欠である。山脈や河川、天然資源といった地理的要素が、そこに住む人々や文化、ひいては国家の動向を左右するのだ。地理は、すべての知識の出発点である。政治経済から軍事まで、あらゆる事象を空間的に捉えることで、その本質に迫ることができる」(『地政学の逆襲』朝日新聞出版)
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 2022年3月号 Voice「言葉のリハビリテーション 森田真生
 何もしない勇気
 最適化された世界の窮屈さ
 ……
 太陽がのぼるのも、雲が動くのも、鳥が鳴くのも自分のためではない。だからこそ、目に見えるもの、耳に届く音に、素直に感覚を集めることができる。
 ……
 『浅はかな干渉』が生み出す害
 ……
 『注意の搾取』が奪い去ったもの
 私たちはときに、浅はかな理解や理論に基づく性急な行動で安心を手に入れようとする前に『何もしない』という知恵を働かせてみることも考えてみるべきなのだ。
 だが、人間の設計したもので溢れかえる現代の世界において、『何もしない』ことはますます難しくなっている。
 ……
 物思いに耽(ふけ)って電車を乗り過ごし、都会の真ん中で月を見上げて立ち止まる。スマホを横に置いて窓の外を眺め、ただ理由もなく鳥の鳴く声に耳を傾ける。……」
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、禍の神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教(啓示宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の甚大な被害をもたらす破壊的壊滅的自然災害は種類が多く、年中・季節に関係なく、昼夜に関係なく、日本列島のどこでも地形や条件に関係なく、同時多発的に複合的に起きる。
 それこそ、気が休まる暇がない程、生きた心地がない程であった。
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 仏とは、悟りを得て完全な真理を体得し正・善や邪・悪を超越し欲得を克服した聖者の事である。
 神には、和魂、御霊、善き神、福の神と荒魂、怨霊、悪い神、禍の神の二面性を持っている。
 神はコインの表裏のように変貌し、貧乏神は富裕神に、死神は生神に、疫病神は治療神・薬草神にそれぞれ変わるがゆえに、人々に害を為す貧乏神、死神、疫病神も神として祀られる。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 日本の宗教とは、人智・人力では如何とも抗し難い不可思議に対して畏れ敬い、平伏して崇める崇拝宗教である。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、科学、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
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 世界で起きるM6以上の地震の約20%は日本周辺で発生し、甚大なる被害と夥しい犠牲者が出ていた。
 古神道シャーマニズムは、自然災害の中から生まれた。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本民族は、命を持って生きる為に生きてきた。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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 昭和・平成・令和の皇室は、和歌を詠む最高位の文系であると同時に生物を研究する世界的な理系である。
 武士は文武両道であったが、皇室は文系理系双系であった。
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 徳川家康は、実理を優先し、読書を奨励し、経験を重視し、計算の数学と理・工・農・医・薬などの理系の実利で平和な江戸時代を築いた。
 が、馬車や大型帆船は便利で富をもたらすが同時に戦争に繋がる恐れのあるとして禁止し、江戸を守る為に大井川での架橋と渡船を禁止した。
 つまり、平和の為に利便性を捨てて不便を受け入れ、豊よりも慎ましい貧しさを甘受した。
 それが、「金儲けは卑しい事」という修身道徳であったが、結果的に貧しさが悲惨や悲劇を生んだ。
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 日本で成功し金持ちになり出世するには、才能・能力・実力が必要であった。
 日本で生きるのは、運しだいであった。
 日本の運や幸運とは、決定事項として与えられる運命や宿命ではなく、結果を予想して自分の努力・活力で切り開く事であった。
 それは、自力というより、神か仏か分からない他者による後押しという他力に近い。
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 左翼・左派・ネットサハ、右翼・右派・ネットウハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者には、日本民族ではない日本人が数多く含まれている。
 彼らには、数万年前の旧石器時代縄文時代と数千年前の弥生時代古墳時代から受け継いできた日本民族固有の歴史・文化・伝統・宗教はない。
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 日本民族文化における自然観とは、縄文時代以来、自然と人間が対立しない、自然との繋がりを大切に文化である。
 それを体現しているのが、自然物をご神体とする神社である。
 日本民族の美意識は、「わび、さび、簡素」だけではなく、濃くて派手な縄文系、シンプルで慎(つつ)ましい弥生系、統一された形式としての古墳系が複雑に絡んでいる。
 それを、体現しているのが神社のしめ縄である。
 それは、「全てが、控えめにして微妙に混じり合っている」という事である。
 谷崎潤一郎「言い難いところ」(『陰翳礼讃{いんえいらいさん}』)
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 日本民族は、旧石器時代縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。
 それ故に、狂ったように祭りを繰り返して、酒を飲み、謡い、踊り、笑い、嬉しくて泣き、悲しくて泣き、怒って喧嘩をし、今この時の命を実感しながら陽気に生きていた。
 「自分がやらなければ始まらない」それが、粋でいなせな江戸っ子堅気の生き様であった。
 江戸時代は、自助努力のブラック社会であった。
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 田代俊孝(仁愛大学学長)「『人は死ぬ』という厳然たる事実を、誰しも普段の生活では見て見ぬふりをしているものです。しかし、自分がいずれは『死すべき身』だということを意識すれば現在の生への感謝が生まれ、生きる気力が湧いてくる。つまり天命、死というものを知ることによって人生観が変わる。祖父母、父母、そして自分と、連綿と続く流れのなかで思いがけず命をいただいたのだ、と気づくのです」
 植島敬司(宗教人類学者)「人生は自分で決められることばからりではありません。不確定だからこそ素晴らしいのです。わからないなりに自分がどこまでやれるのか、やりたいことを追求できるのかが大事で、それが人生の豊かさにつながるのだと思います」
 平井正修(全生庵住職)「コロナ禍に襲われるずっと以前から人類は病に悩まされてきました。病気やケガで自由な身体が動かなくなり、人に介抱してもらうと、当たり前のことのあるがたさに気づきます。何を当たり前として生きていくのか、それは人生でとても大切なことであり、すべての人に起こる究極の当たり前が、死なのです」
 「現代では死というものが過剰に重たく受け止められていますが、そもそも死はもっと身近にあるものです。考えようによっては、現世に生きているいまのほうが自分の仮初(かりそめ)の姿とさえ言える。
 最終的には、誰もが同じところへと生きます。みんなが辿る同じ道を、自分も通るだけ。そう思えば、死も恐れるものではありません」
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🌺目次)ー21ー人類学の起源。民族学と日本民族。~No.1 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 当ブログは、歴史の定説を恣意的に書き替える為に作成している歴史修正主義民族主義のブログである。
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 日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
 日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
 日本の宗教・文化・言語は、こうして創られてきた。
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 日本民族人間性である価値観・人格・気質を作り出したのは、人間(他国・異民族・異教徒)の脅威ではなかったし、唯一絶対神(全智全能の創り主)の奇蹟と恩寵ではなく、自然の脅威と恩恵(和食)である。
 つまり、日本人と朝鮮人・中国人は違うのである。
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 日本民族アイヌ民族琉球民族縄文人の子孫ではあるが、アイヌ琉球人が違うように、薩摩人と関西人と津軽人は違う。
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2024-04-12
🌺2:─1─人類学は自然人類学、先史考古学、社会人類学で構成されている。~No.2No.3 
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2024-04-19
🌺3:─1─日本の歴史は庶民の歴史で日本国は1つではなかく複数国であった。~No.4No.5 
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2024-03-12
🌈12)─2─日本人なら知っておきたい日本の伝統文化。伝統的風習には意味がある。〜No.24 
   ・   ・   ・    
2018-05-13
🎼02:─1─歴史は如何に「学ぶ」か。歴史は「流れ」より「しくみ」が大事。~No.2・ 
   ・   ・   ・   
2018-05-19
🎼03:─1─未整備。神武天皇『即位建都の詔』と国體。中江兆民と祭祀王・天皇。~No.3・ @ 
   ・   ・   ・   
2018-09-20
🎼04:─1─世界の常識「命を賭けて戦う勇気のない人間は奴隷として生きる」(ヘーゲル)。~No.4・ @ 
   ・   ・   ・   
2019-03-24
🎼08:─1─賤民・部落民・ヤクザは、天皇と日本国を守る為に戦争に積極的に協力した。伝統右翼と現代右翼。〜No.12・ * 
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🌏30)─2・B─戦前日本を包んでいた「封建制」の“知られざる影響”。~No.89 

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 現実を生きる日本人には、哲学や思想は縁が薄く、ましてや宗教やイデオロギーは縁が無かった。
   ・   ・   ・   
 封建主義と言っても、日本と西洋では違うし、日本と中華(中国・朝鮮)とでは全然違う。
   ・   ・   ・   
 2024年4月17日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「自分たちの精神というものがない」…戦前日本を包んでいた「封建制」の“知られざる影響”
 「希望どおりにいかないのが現実。だけど思い出は、悲しかったことでも、楽しかったことでも、“ある”ということがとてもいいことだなと思いますね。」自由闊達かつ独創的な筆遣いで植物や天候の移ろい、人の感情を表現し数々の作品を生み出した美術家・篠田桃紅。そんな彼女を育んだ、特異な生い立ちとは。
 【漫画】死刑囚が執行時に「アイマスク」を着用する衝撃の理由
 大正デモクラシーから震災、空襲を経て現代に渡る自身の生涯をエッセイとともに綴る『これでおしまい』(篠田桃紅著)より一部抜粋してお届けする。
 『これおしまい』連載第4回
 『「日本は遅れている」から「西洋的なものはダメ」へ…美術家・篠田桃紅が目の当たりにした、大正時代の極端すぎる“変化”』より続く
 封建制に生きる女性の“当たり前”
 「私の時代は、女学校を出たら結婚して、奥さんになる。そのことになんの疑いも持たない。それが当たり前で、どう生きるかなんて、そんなに考えない。お嫁さんになる支度をして、ちょうどよさそうな人がいたら結婚する。
 でも私はそうではなかった。自分の考えで生きたかった。あの時代に私みたいなのはいませんよ。自由に生きたいだなんて。人の家にお嫁に行けば生きられるけど、それでは自由がない。結婚した姉は、子どもを産み、決して不幸ではない。姉にならってもよかった。でも私はそうはしなかった」
 習字を教えれば自由に生きられる、と彼女は自分の道を踏み出します。
 「お習字の下野先生から『もうあなたに教えるものは何もありません。いつでもひとかどの書家になれますよ』と言われていた。父の師・杉山三郊先生も『おたくのお嬢さんは非常に字がうまいから、中国、平安などの古いものを手本にして学べば、一流の書が書けるようになりますよ』と父に話していた。
 父が認める2人の先生のお墨付きで、私はお習字の先生をすれば、自分の自由に生きられる。そう思ったのね。それが始まり。それが地について一人生きるようになっちゃった」
 最初は周りの人に声をかけて、お習字の練習会を開きました。次第に生徒の数が増えて、一人で暮らせるだけの収入を得るようになります。長兄・覚太郎が結婚し、家に義姉がくることを知ると、彼女はすぐに家を出ました。
 家出のワケ
 「私が一番邪魔。いつまでも家にいる、そういう居場所があるわけではない。父と母も私をどこかにお嫁にやらなければと思うに決まっている。両親の厄介にならないで生きて行かれれば、そのうちにいい生き方を考えられる。
 まあそんなものよ、私の時代は。部屋が6つもある、庭のついた素敵な家を借りて、お家賃を払えるかなあなんて初めは思ったのね。だけどなんとかできちゃった」
 その後、ある不思議な出会いで、この人ならと思う男性にも出会います。でもその人は学生。両親にも紹介し、結婚は大学を出るまで待ちましょう、ということになります。しかし、銀座でお茶を飲むことが半年続くと、彼女は戦前の結婚のありかたに疑問を持つようになります。
 「そのかたはちょっとした家柄の人で、卒業後も就職先が決まっていた。私は彼の実家や親族のために自分たちが生きるような、古い考えに唯々諾々と従うことに嫌気が差してしまったのね。自分たちの精神というものがない。そんな封建的な家に将来入って行けそうにない、そう言ってやめちゃったんです。そのかたが嫌いになったというわけではなく」
 そうこうしていると、親しい友人の夫が結婚生活2、3ヵ月で出征して、戦死。嫁いだ先で、友人は生涯未亡人として生きることになります。当時は軍人の未亡人が再婚すると、世間から非難を浴びる時代。嫁いだ先の家で、身を粉にして仕えている友人を見て、彼女はなんとかならないものかと心を痛めます。
 次から次へと友人の夫が戦争に駆り出されるのを見るにつけ、ますます結婚はできないという思いを強めていきます。やがて、手に職を持たない世の女性も、縫製工場などに動員されるようになります。
 『美術家・篠田桃紅が浴びた「ムゴい言葉」…それを乗り越えた彼女の「自由論」とは
』に続く
 篠田 桃紅(美術家)
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⛩51)─1─隠れたパワースポット、貧乏神神社。~No.119No.120 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2024年4月16日 YAHOO!JAPANニュース「「貧乏神神社」は長野県に実在する!ここで頭を下げたり、手を合わせて拝んだら大変なことに…
 旅人間はらぺこライター
 はらぺこライターの旅人間です。今回は運気を改善したい方は朗報です!と言うのは”貧乏神”を払うことが出来る神社が長野県茅野市あるからだ。
 え?そんな神社があるの?と思うでしょ!あるんです。その名も「貧乏神神社」という。しかも味噌蔵の中に…。それでは詳しく解説しよう。
 貧乏神神社とは?
 そもそも貧乏神について知っているだろうか?
 簡単に言えば、「貧乏神」とは取りついた人間やその家族を貧乏にする神のこと。例えるなら『桃太郎電鉄』でプレイヤーを不幸のどん底に叩き落す”ボンビー”をイメージすれば分かりやすい。とにかく厄介な存在なのだ。
 貧乏神は倒せない!追い払うしかない!
 しかし、仮にも神なので倒すことは出来ない。追い払うしか方法はない。それが出来るのがココ!「貧乏神神社」と言うワケだ。
 貧乏神は平安時代の辞書『和名類聚抄』では「窮鬼(きゅうき)」と呼ばれていたそうだ昔は神ではなく、鬼だった?それなら時の流れと共に格が上がったのか?一体なぜ?なんて思ったりもするが…。
 その姿は、痩せこけて青ざめ、すだれ眉毛に金壺まなこ、頭に角が1本生え、体が隠れるマントを被り、壊れた渋団扇を持っている薄汚れた老人の姿をしているらしい。これが一般的にイメージされている姿だそう。
 とにかく、気に入られたら大変なのだ!
 「絶対にこっちに来るな」「寄って来るな」「家にも近づくな」と断固とした態度を取らねばならない。だから、間違っても頭を下げたり、手を合わせて拝んではいけない。
 貧乏神神社の参拝方法
 この貧乏神神社では、独特の参拝方法がある。それは…
○叩いて
○蹴とばし
○豆を投げつける
 そして、「貧乏神出てけー」と叫ぶと効果が高い。
 なんとユニークな!興味深い。やってみよう。
 まずは豆代として100円を壺に入れる。ここはお賽銭ではなく”退散料”となる。
 そして、目の前の張り紙には「皆さまの貧乏神を預かります」と書かれている。実は、ここが重要なポイントだ。
 貧乏神は前述した通りの薄汚れた容姿で、家の押し入れに住みつくイメージが強いが、実は私たちの”心の中”にいる場合も多くある。
 それは、ネガティブな気持ち、悩み、クヨクヨした感情なのかもしれない。
 だから、それも追い払う!
 「貧棒」という名の棒を手に持って、貧乏神の前にあるご神木を3回叩く!
 ガン!ガン!ガン!と。
 あまり勢いをつけると棒が跳ね返り危ないので要注意。
 更に、ご神木を3回蹴る!
 そして極めつけは、豆を握りしめ…
 樽の中の貧乏神に向かって豆を1回投げつける。
 尚、この参拝では「貧乏神出てけー」と大きな声を出し、最後に笑い飛ばすとさらに効果的だという。いわゆるストレス解消だ。
 自分自身の弱い心を見つめ直し、叩いてストレス解消させる。ネガティブな心は樽の中の貧乏神に預かってもらい、そして隣にある鈿女(おかめ)神社に参拝し福をもらって、スッキリして帰る。これが参拝方法となる。
 それにしても一体なぜ、味噌樽なのか?
 貧乏神は”味噌”が好物で、団扇を手にしているのはこの味噌の芳香を扇いで楽しむためとも言われているという説もある。
 大阪には面白い話が伝わっている。それは江戸時代に富豪の家では毎月晦日に”貧乏神が好むという焼味噌を二つ”作って座敷から店へと家内中を持ち回り川へ流していたそうだ。
 ここは丸井伊藤商店の味噌蔵である。創業100年を数える。お店の方にお話を聞くと、この味噌蔵に「貧乏神様がご降臨されている」という。
 「貧乏神がいて大丈夫?」と聞けば「樽の中に封じ込めているから大丈夫」と笑顔でニッコリ答えくれた。
 実際にこの貧乏神神社は同社社長の「貧乏はお金ではない、心の問題」という自身の経験から、当社に足を運んでくれた皆さんがプラス思考になるキッカケになれば嬉しい。そんな気持ちから創建されたそうだ。
 訪れる人の「貧乏神を預かってくれる」なかなか出来ることではない。エンターテイメントっぽくも見えるが、これはスゴイことだと思う。
 丸井伊藤商店
 尚、同社では色々なタイプの味噌が販売されている。一番人気は「塩分控えめ味噌」で少し珍しい甘口の信州味噌だ。
 私は関西人で、東海地方を含め甲信越地方の味噌は味が濃いといった印象を持っていたが、この味噌で味噌汁を作って食べると本当に美味しかった。家族からも「食べやすい」と大好評だった。本当におすすめである。
 最後に、私は「貧乏神神社」の存在を知った時「なんだそれ?」と好奇心の塊で足を運んでみたが、実際に来てみると学ぶべきことは多かった。結局は心の持ちようなんだ。前向きに頑張ろうと思えたからだ。
 それに、私についていた貧乏神は叩いて蹴って、散々な目に合わせて、とどめに豆を投げつけ「丸井伊藤商店」の味噌蔵の奥の奥にある樽に置いていった。もはやスッキリ爽快だ。
 最後に、もう一度言うが…
 この神社では頭を下げたり、手を合わせて拝んだらダメ。貧乏神神社は、お願いではなく、叩いて蹴飛ばして追い出すという「鬼は外、福は内」の発想だ。
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 貧乏神神社
 住所:長野県茅野市宮川4529丸井伊藤商店(味噌蔵の中)
 電話番号:0266-72-2272
 営業時間:8:30~17:15
 公式サイト(外部リンク)
 地図(外部リンク)
 旅人間
 はらぺこライター
 アメリカや東南アジア、インドなどへの一人旅、タイの首長族の村に泊まった体験談など2005年から始めたブログをキッカケに旅行サイトから声がかかる。トラベルjpでは新人賞、年間アクセス1位賞、SNSで拡散されたソーシャル賞を受賞。またグルメサイトで連載、吉本興業の公式ライターなどを経て現在に至る。 当Yahoo!ニュース エキスパートでは主観的な目線で旅やグルメをテーマに記事を書いている。
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 日本民族は、ネガティブ、ポジティブ、そしてその中間の三つが好きである。
 日本神道には、「禍転じて福となす」信仰があり、怨霊qお御霊に、貧乏神を富裕神に、死神を生神に、疫病神を治療神・薬草神にそれぞれ正反対の神に転換させ、人々に害を為す禍・災は神として祀られている。
 鬼も、嫌われる顔と好かれる顔という2つの顔を持っている。
 故に、多神教の古日本では、完全な悪・邪がないと同様に完全な善・正もない。
 そうした曖昧な民族性は、白黒はっきりさせる「二項分断を良し」とする現代日本にはない。
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 東スポWEB
 密かに閉鎖していた長野貧乏神神社 人気博した“ユニーク説法”の中身 2018年1月7日
 長野県飯田市内にあった「貧乏神神社」が閉鎖されていたことが分かった。同社は、祭主の櫻井鉄扇さんがプライベートなものとして1998年に建立したもので、拝殿の中央には、貧相な顔をしている「貧乏神」の木像が祭られていた。
 現在、貧乏神神社のあった場所は更地になっている。その入り口には「貧乏神神社は、祭主健康不良の為に閉鎖いたしました。ご理解お願いします」との看板がある。ホームページは今でも残されているが、そこに書かれている電話番号はすでに使われていない。櫻井さんを知る人に聞いてみると「櫻井さんは認知症になって施設に入った」ことだけが分かった。
 貧乏神神社は一般的な神社とはその趣が異なっていた。毎日行われていた参拝では、まず赤いバットのようなものを握って、「心」と書かれている柱を「貧乏神出ていけーーッ!」と叫びながら3回叩く。その後に「出ていけ、出ていけ、出ていけーーッ!」と叫びながら、この柱を3回蹴る。
 最後にはザルに入っている豆を握って、「貧乏神ーー、出ていけーーッ!」と叫びながら拝殿の奥にある「的」に投げつける。何も知らない人が見たら「何をやっているのだろうか?」と思ってしまうものだ。「参拝料」は100円だった。
 参拝者は老若男女幅広く、大型観光バスが乗りつけるほど人気だった。
 そして、櫻井さんの「説法」はとてもユニークなもので人気があった。
 「私たちにとってお金というのは大事なものです。ここに来て貧乏神と縁を切るのです。お願いじゃだめなんです。自分で勝ち取るのが御利益なんです。日本人は、神社に行くとマイナスのお願いばっかりですよね。『~しませんように』って。この『に』が問題なんです。お願いされた神様の方が困ってしまいます。“何かしてもらおう”と思ってはいけません。貧乏神というのは、心の中にいるんです。心の弱いときに出てくるんです。それを叩くのです」
 パワースポットでも有名となった同神社。「『貧乏』というのはお金のことではないんです。『心』の貧しい人が一番の貧乏人なんです」(櫻井さん)。生説法が聞けなくなってしまったのは残念な限りだ。
 東スポWEB
 1960年創刊の夕刊娯楽紙「東京スポーツ」を発行する東京スポーツ新聞社が運営。驚きと喜び、夢と笑いで世の中を彩る総合エンターテインメントメディア
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ウィキペディア
 貧乏神神社は、長野県飯田市にあった神社。
 歴史
 1998年(平成10年)に創建。拝殿の中央に貧相な顔をした「貧乏神」の木像が祀られており、赤いバットのような棒で「心」と書かれた柱を、貧乏神が出ていく言葉を叫びながら3回叩き、その後に再び「出ていけ」と3回叫びながら3回蹴ることでご利益があるとされていた。祭主はこの行為を参拝者自身の弱い心を叩くものであるとし、貧乏とは金銭的な貧しさではなく、心の貧しさであると説いていた。休日は観光バスなどで200人ないし300人もの参拝客が訪れた。
 2018年(平成30年)初頭までに神社が閉鎖されて社地は更地となっていることが『東京スポーツ』によって報じられた。一方で、長野県茅野市には分社が2023年現在でも鎮座している。
 また徳島県名西郡神山町では当社の影響を受け「幸福神社」が2006年(平成18年)に創建された。静岡県周智郡森町三倉地区にも「災禍転福貧乏神神社三倉分社」が創建され、さらに東京都・大阪府沖縄県にも分社が創建されたという。
 祭神
 祭神は貧乏神。愛知県・静岡県岐阜県といった近隣県からの参拝客が多かった。境内に置かれた雑記帳には疼痛の軽減や良縁・子宝に恵まれた等、参拝客からの喜びの声が多く記され、その数はゆうに200冊を超えていた。
 祭主は櫻井鉄扇。自身の過去の失敗から、自身に貧乏神が取り憑いているとして当社を創建した。夫婦で運営しており、その教祖的カリスマ性から祭主夫婦もまた信仰対象となっているとの指摘があった。当社の閉鎖は祭主の健康上の問題による。
 なお、当社は宗教法人ではなく、祭主についても特定の宗教に属していたわけではなかったという。
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